[トップページ][平成19年一覧][地球史探訪][210.761 戦後:占領下の戦い][238 ロシア]

■■ Japan On the Globe(525)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

                地球史探訪: シベリア抑留
    
                        「ここにおれがいることを、日に一度、
                        かならず思い出してくれ」
■転送歓迎■ H19.12.02 ■ 35,724 Copies ■ 2,700,231 Views■


■1.真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列■

     50トンの有蓋貨車の中は二つの檻に分かれていて、それぞ
    れ日本人40人、白系ロシア人30人が詰め込まれていた。車
    内には火の気もなく、まるで冷凍庫だった。5日間待たされ、
    囚人貨車が20両ほど連結されると、列車は走り始めた。昭和
    20(1945)年12月15日のことである。

     満洲側の最後の駅・満洲里を過ぎてしばらく行くと「オトポ
    ールだ!」と騒ぐ声が聞こえた。シベリア最初の駅である。誰
    ひとり、自分たちの行く先を知らなかった。石原吉郎は車両の
    腰板の隙間から外をかいま見た。

         なにもかも一様に黒ずんで見える貨車の内部とは対照的
        に、貨車の外側はいきなりまっ白であった。満洲里通過以
        来すでにおなじみの凍原が、一望のもと荒涼とひろがって
        いるだけの、文字通り空白であったが、やがてその空白な
        視野をおびやかすようにして、傾いた杭の黒い一列が不意
        にうかびあがって来た。それは、異様としかいいようのな
        い光景であった。

         音という音が死に絶えたような風景のなかで、立つとい
        うよりはむしろうずくまっているような黒い杭の、息をの
        むような単調なたたずまいは、一種沈痛な主張のようなも
        のを私に連想させた。[1,p72]

     真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列、それは石原た
    ちシベリア抑留者の今後を暗示しているかのようであった。

■2.日本人狩り■

     昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って、
    満洲に侵攻した。北満の荒野に点在する総数27万人の日本人
    開拓団は悲惨な状況に追い込まれた。8月12日、東安省哈達
    河(ハタホ)開拓団が避難の途中、ソ連軍に取り囲まれ、婦女
    子421名が集団自決するというような悲劇が各地で起きた。
    ソ連人による殺戮、強奪、強姦が至るところでくり返された。

    「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」
    というスターリンの極秘指令が9月2日に発せられた。労働に
    適した日本人捕虜50万人を捕らえ、関東軍から押収した戦利
    品の中から衣服、食料などを与えて、シベリアの地で強制労働
    をさせる、という内容だった。各地でソ連軍による「日本人狩
    り」が始まった。

     ハルピンの関東軍特務機関で、傍受したソ連の無電を翻訳す
    る仕事をしていた石原吉郎(30)も、捕まった一人だった。

■3.アルマ・アタ■
    
     ハルピンで囚人列車に詰め込まれてから40日、石原の一行
    がたどり着いたのは、中央アジアの高原地帯の街、カザフ共和
    国(現在のカザフスタン共和国)の首都アルマ・アタであった。
    海抜4千メートルを超える天山山脈の向こうは新彊ウイグル自
    治区である。

     強制収容所は2千平米ほどの敷地で、高さ3メートルの板塀
    と有刺鉄線で囲まれ、四隅に見張り塔が建っていた。ここに日
    本人480名、ロシア人220名ほか、朝鮮人、満州人、蒙古
    人、ドイツ人などが若干いた。

     全員が三段式の蚕棚のようなベッドが200も並ぶ居住用バ
    ラックに押し込められた。四隅にはペチカがあったが、零下
    30度の真冬の極寒を防ぐにはあまりにも無力で、収容者たち
    は、外套も着込み、靴も履いたまま横にならなければ、寒さを
    防げなかった。

     第2次大戦の痛手がひどかったソ連ではもともと食料が不足
    していたが、収容所ではさらに所長が食料を横流ししたため、
    黒パンが一日350グラム、朝夕2回の薄いカーシャ(粥)か
    野菜スープというのが、ほとんど毎日のメニューだった。

     栄養失調と強制労働による消耗、発疹チフスの流行などで、
    次の夏までに2割近くの抑留者が亡くなった。
    
■4.民主運動と内部抗争■

     収容所の中では、ソ連共産党の指導のもと、「民主運動」が
    組織された。石原の収容所でも二人の日本人が推進役となった。
    彼らはほとんど作業をせずに、作業現場への往復に、赤旗を立
    てて、「インターナショナル」や「スターリン賛歌」の音頭取
    りをしたりした。その一人・山田清政三郎は、『ソビエト抑留
    紀行』という小説風の記録を残しているが、そこにはこんな一
    節がある。

         朝は目が痛いほどの、一面の太陽の炎。天山山脈のうね
        りをも包んで、あくまで深く澄み切った、中央アジア高原
        の円天井・・・強烈な紫外線に、裸体で挑んで、或いは鶴
        橋を振り上げ、或いは円匙を突きさし、或いは採石を堆
        (うずたか)く積んだターチカ(手押し一輪車)を走らせ
        る、たくましいラボータ(労働者)たちの姿・・・[2,p88]

     労働を免除された「赤いエリート」とは違って、「たくまし
    いラボータたち」には、死亡率2割の環境の中で、天山山脈の
    美しい景色など眺める余裕はなかった。石原の抑留エッセイに
    は、こうした自然賛歌はほとんど登場しない。

     ある抑留者は、「民主運動」について、こう記している。

         民主運動はさらにエスカレートして行き、日本人独特の
        狭量、変更性を帯びていく。・・・内部抗争、つるし上げ、
        自己批判の強要、密告、加罰制裁。・・・私たち文民の多
        くは、身を縮めて嵐を避け、偽装に腐心した。[2,p89]

     過酷な生活環境の中で、さらにこうした内部抗争をけしかけ
    られて、収容者たちは精神的にも極限まで追い詰められていっ
    た。
    
■5.「反ソ行為、諜報」の罪で「強制労働25年」■

     昭和23(1948)年5月、石原を含む約400名の抑留者は、
    また鉄格子の監獄列車で5日間揺られて、炭坑の町カラガンダ
    に移送された。北カザフスタンの荒涼とした大地に石炭採掘の
    ボタ山が無数に並んでいる。ここの採掘量はソ連第3位で、多
    数の労働力を必要としたため、18もの強制収容所が設けられ、
    日本人抑留者1万人ほど以外に、ドイツ、ルーマニア、ハンガ
    リー、ポーランドからの捕虜も使役されていた。

     石原の仕事は、地下の坑内に降りて、採掘された石炭を鉄製
    の炭車に積み込み、垂直抗から旧式のウインチで引き揚げる作
    業だった。石原は、石炭満載の炭車に跳ねとばされ、肋骨を2
    本折るという事故も経験した。治療も受けられず、働きながら
    自然治癒を待つしかなかった。

     昭和24(1949)年が明けると、抑留者たちの取り調べが始まっ
    た。取り調べは、深夜から未明にかけて、毎晩、行われた。抑
    留者が熟睡中のところをたたき起こして精神的に痛めつけ、す
    でに用意されていた調書に署名を強要する、というソ連の伝統
    的なやり方である。石原は一週間ほど抵抗したが、あきらめて
    署名した。

     その後、粗末な木造家屋に設けられた「法廷」に呼び出され、
    ロシア国刑法第58条6項「反ソ行為、諜報」で起訴された。
    外国人捕虜にソ連の国内法を適用するという理不尽さであった。

     2ヶ月ほど独房に閉じこめられた後、10数人の日本人抑留
    者とともに判決を言い渡された。朝鮮人通訳が判決を翻訳した。
    「罪状明白」「強制労働25年」といった言葉に石原は、我が
    耳を疑った。シベリアでの強制労働25年は、生きて故国に帰
    ることはほぼ絶望であることを意味していた。抑留者たちの間
    から悲鳴とも怒号ともつかない声が湧き上がった。
    
■6.もっとも恐れたのは「忘れられる」こと■

     25年の判決を受けてから、故国への思慕が様相を変えた。

         私がそのときもっとも恐れたのは、「忘れられる」こと
        であった。故国とその新しい体制とそして国民が、もはや
        私たちを見ることを欲しなくなり、ついに私たちを忘れ去
        ることであった。

        ・・・ここにおれがいる、ここにおれがいることを、日に
        一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、
        おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。
        地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた。
        [2,p99]

     石原たちはみたび、囚人列車に乗せられ、バイカル湖の西、
    バム(バイカル・アムール)鉄道沿線に送られた。ソビエトの
    囚人たちの間で「屠殺場」と呼ばれる最悪の収容地帯の一つで
    ある。この地域に送られた日本人捕虜は約4万人にのぼり、線
    路工事では「枕木1本に死者1人」と言われるほどの多くの犠
    牲者を出している。

     ほとんどが永久凍土(ツンドラ)の密林(タイガ)で、厳冬期
    には零下40度のマロース(極寒)が、ほぼ一週間の周期で襲っ
    てくる。夜明けには地上数十メートルに霧状の氷片がたちこめ、
    あたり一面、白い靄(もや)がかかったようになる。10時か
    11時頃、ようやく薄日が差し、黒い太陽が見えてくる。昼過
    ぎになっても、気温は零下30度程度である。密林は樹氷の花
    をつけ、地面は凍って岩盤のようになっている。

         人間が冬の自然に耐えるという段階はすでに終わってい
        た。そこでは、人間はほとんど死者であり、その墓標のよ
        うに、白く凍った樹木がひっそりと立ち並ぶ。ここでは、
        タイガを支配するのは静寂というようなものでなく、完全
        な黙殺である。[2,p113]

         1930年以来、流刑地以外のロシアを見たことがないとい
        う尊敬すべき老トロッキストが、ある日僕の隣でパンを食
        いながら、不意に居眠りをはじめた。ゆすぶってみたら、
        もう死んでいた。老衰と栄養失調とが、目くばせをし合う
        ようにして、この誠実な男のなかに燃え続けていた火を踏
        み消したのだ。[1,p133]

     真っ白の凍原の中にうずくまっていた黒い杭のように、「完
    全な黙殺」の中で、抑留者たちは一人、また一人と孤独な死を
    迎えていった。
    
■7.老婆の涙いっぱいの目■

      1950(昭和25)年9月、バム沿線の日本人のほとんどが、
     ハバロフスクに移送された。石原は最悪の一年を生き延びた
     が、衰弱のあまり囚人列車の中ではほとんど昏睡状態だった。

      ここでは労働時間が一日10時間から8時間に軽減され、
     食事も一日2回から3回に増やされた。石原は所内の軽作業
     をあてがわれた。

      10月なかば、石原は数人の仲間と共にハバロフスク郊外
     のコルホーズ(集団農場)に送られ、収穫の手伝いをした。
     ここはウクライナから強制移住させられた婦女子だけのコル
     ホーズで、男達はドイツ軍に占領されていたときに、逃げず
     にとどまっていたという理由で、ほかの強制収容所に送られ
     ていた。

      昼休みとなって、女たちは食事の支度を始めた。一人の女
     が「おいで、ヤポンスキー(日本人)。おひるだよ」と石原
     を招いた。警備兵は見て見ぬふりをしてくれた。

      ジャガイモと人参とわずかな肉を煮込んだスープがあてが
     われた。石原には気が遠くなるようなご馳走だった。がつが
     つとスープに食らいつく石原の姿に女たちは黙り込んでしまっ
     た。それぞれが、自分の夫や息子もこんなふうに飢えている
     のか、と思いこんだのであろう。

         私はかたわらの老婆を見た。老婆は私がスープを飲むさ
        まをずっと見守っていたらしく、涙でいっぱいの目で、何
        度もうなずいてみせた。そのときの奇妙な違和感を、いま
        でも私は忘れることはできない。[2,p129]

     老婆の同情に「奇妙な違和感」を感じるほど、石原の心は
    「黒い杭」の孤独に慣れていたのである。
    
■8.「ここではとても死ねない」■

     たまたま収容所にあったソ連の百科事典を見ていたら、日本
    に関する記事に海岸の松林の写真が添えられていた。ごく平凡
    な風景だったが、石原はしばらくの間、目を離せなかった。自
    分はそこに行ってはじめて、安心して死ねる。ここではとても
    死ねない、と思った。

     1952(昭和27)年5月、参議院議員高良(こうら)とみが、
    ハバロフスクの強制収容所を訪れた。その日、急造の売店には
    日頃まったく見られない白パン、菓子、果物、タバコなどが並
    べられた。日曜日だというのに、抑留者の大半は戸外作業に駆
    り出され、「日曜日には、みんな魚釣りや水遊びに行くんです」
    と、まことしやかな説明がなされた。

     それでも抑留者たちは嬉しかった。やっと日本の政治家が来
    てくれた。自分たちは故国から忘れられていなかったのだ。

     1953(昭和28)年3月、収容所の四隅の望楼や高い建物に半
    旗が掲げられた。やがてスターリンが死んだ、という知らせが
    伝わると、抑留者たちは喜びを隠せなかった。
    
■9.故国につながる日本海■

     スターリンの死を契機に、日本政府との間で抑留者の釈放交
    渉が進められた。5月末、石原たちはナホトカの丘の中腹に建
    てられた旧日本軍捕虜収容所に移された。そこから見下ろす港
    湾の外には、故国につながる日本海が広がっている。

     それから何の説明もないまま、石原らは6ヶ月を待った。短
    い夏と秋が過ぎて、ナホトカ湾が氷雪に閉ざされていく。再び、
    あの真っ白の凍原に戻されるのではないか、と焦燥に駆られた。

     11月28日正午過ぎ、収容所の窓からほぼ真下に見下ろす
    位置に、巨大な日本の客船が姿を現した。彼らを日本に運ぶ興
    安丸だった。2台のトラックが忙しく港との間を往復して抑留
    者811名を運んだ。

         タラップをのぼり切ったところで、私たちは看護婦たち
        の花のような一団に迎えられた。ご苦労様でしたという予
        想もしない言葉をかきわけて、私は船内をひたすらかけお
        りた。もっと奥へ、もっと下へ。いく重にもおれまがった
        階段をかけおりながら、私は涙をながしつづけた。いちば
        ん深い船室にたどりついたと思ったとき、私は荷物を投げ
        出して、船室のたたみへ大の字にたおれた。[2,p145]

                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(297) 近衛文隆 〜 ラーゲリに消えたサムライ
    ソ連での獄中生活11年余。スパイになる事を拒否し続けて、
   ついに屈しなかった青年貴族。
b. JOG(357) 同胞4万救出作戦
    内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵
   が立ち上がった。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 落合東朗『石原吉郎のシベリア』★★、論創社、H11
2. 多田茂治『石原吉郎「昭和」の旅』★★、作品社、H12

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「シベリア抑留」に寄せられたおたより

                                               hydeさんより
     毎号メールマガジンを読ませて頂いています。今回のシベリ
    ア抑留も、涙無しでは読む事は出来ませんでした。

     日本から遠い国、極寒の地で抑留され強制労働につかされて
    いた石原さんの忘れないで欲しいという気持ち。石原さんだけ
    で無く、多数の日本人がロシアでどういった行為にあったのか、
    専門的な本以外では知る事の無い今の日本。。。悲しく淋しい
    と想いました。

     戦争讃歌はしませんが、戦争中に戦後に国外に居た日本人の
    実情を、もっとたくさんの日本人に知って欲しいと切に願いま
    す。そういう意味では、これからもこちらのメールマガジンを
    購読し、子供達、知人に話していこうと想います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     抑留者たちは、故国から忘れられることを最も恐れたのです
    が、現代の我々はその抑留者たちのことを忘れつつあります。     

© 平成19年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.