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■■ Japan On the Globe(529)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

            人物探訪 : 坂本龍馬、海洋立国の夢
    
               迫り来る欧米列強に対して、海外貿易と海軍建設
              で自由な繁栄する国を作ろう、と龍馬は夢見た。
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■1.ジョン万次郎の語ったアメリカ■

     アメリカに漂流して、彼の地で航海術などを学び、日本に戻っ
    てきたジョン万次郎[a]に、坂本龍馬が初めて会ったのは嘉永
    5(1852)年の末頃であったと言われている。友人に勧められて、
    万次郎の話を聞きに行ったのである。龍馬18歳の時であった。

     万次郎が滞在したヌーベッポー(ニューベッドフォード)と
    いう町には何百隻もの巨大な捕鯨船が浮かんでいて、その港の
    砲台には大砲が20門ほど置かれている。大きなものは口径8
    寸(24センチ)もある。お城の石垣程度のものなら、弾丸一
    発で打ち砕いてしまう。蔵にはその砲弾を何千発とも知れない
    ほど収めているという。

     軍艦はそんな大砲で撃たれてもなかなか砕けない。1隻に
    500人ほど乗る船は珍しくなく、戦のときには1500人も
    乗り込むそうである。

     龍馬はさらに航海の術について尋ねた。万次郎は、アメリカ
    で一等航海士という偉い船頭の資格をとっており、地図とオク
    タント(六分儀)と磁石さえあれば、陸の影も見えない大洋に
    船を乗り出しても迷わないという。

     龍馬は夢の中の出来事を聞いているような気がした。胸が躍っ
    てならなかった。

■2.黒船来る■

     翌嘉永6(1853)年、龍馬は剣術修行のために江戸に出た。江
    戸に着いてまもない6月4日の朝、アメリカの黒船が浦賀沖に
    現れたという知らせが届いた。万次郎の語ったアメリカの軍艦
    を直接目にすることになったのである。

     旗艦サスケハナ号は長さ約78メートル、幅14メートル、
    数十門の大砲を備えていて、日本人には巨大な浮城のように見
    える。そんな黒船が4隻も現れた。[b]

     龍馬は土佐藩の品川屋敷のある大森海岸の防備に駆り出され、
    土手を築き、垣を結んだ。やがて幕府がペリーから受け取った
    アメリカ国書の内容は、龍馬たちの耳にも伝わってきた。

     蒸気船ならカリフォルニアから、パシフィック・オセアン
    (パシフィック・オーシャン、太平洋)を渡って18日間で日
    本に達することができる。カリフォルニアは毎年金6千万ドル
    を産し、日本の様々な産物と交易を行えば互いの利益になる。
    また日本沿岸で捕鯨を行うアメリカ船舶が、日本で石炭、水、
    食料を補給できるようにしたい。そのために通商交易条約を結
    びたいというのだ。

     日本がそれに応じなければ戦争を仕掛ける、という姿勢で、
    黒船は品川沖で空砲を鳴らし、沿岸に詰めかけた数万の諸藩兵
    を驚かせた。

     アメリカは近頃メキシコと戦争をして、カリフォルニアを含
    む領地のおおかたをとってしまったが、その理由はメキシコが
    アメリカの蒸気船に領地の海辺に近寄るのを咎めたためである
    という。

■3.「外国と通商することがなぜいけないのか」■
    
     龍馬が江戸で師事していたオランダ砲術の権威・佐久間象山
    は、こう主張していた。

         今戦えば我らに勝ち目はない。ひとたび敗れたときは皇
        国は滅亡、我らは異族の奴隷となるのだ。

     江戸の沖に常に5、6隻の黒船がいて、大坂からの千石船を
    捕らえ、米などの消費物資の海上輸送を遮断すれば、江戸は
    10日ももたない。廻船の輸送量を牛馬によって陸路で運ぶこ
    とは不可能である、と言う。

     確かにそのとおりであると龍馬は思った。今はアメリカの要
    求を入れて通商を行い、それを通じて国力を養って、国防力を
    充実させるのが、日本の生きのびる道である。

     一方、ジョン万次郎は幕府の老中たちに意見を聞かれて、ア
    メリカが日本を攻め取ることはないと答えていた。カリフォル
    ニアのように莫大な金が算出する国であれば戦を仕掛けること
    もあるが、日本はそれほどの物産はなく、また遠い。軍艦を何
    十隻も派遣して攻めるよりも、仲良くして石炭などを分けて貰
    うのが得である、とアメリカは考えるはずだという。

     龍馬はこれもまたその通りだと思った。龍馬が幼い頃によく
    遊びに行っていた遠縁の廻船問屋は江戸に米や鰹節などを運ぶ
    千石の大廻し船を何隻も運用して、大きな利益を上げていた。

     外国と通商することがなぜいけないのか、と龍馬は考えた。
    
■4.「自由な大海に漕ぎ出したい」■

     およそ1年ほども江戸に滞在して、龍馬が高知に帰ったのは、
    安政元(1854)年6月下旬のことであった。翌年正月に龍馬は河
    田小龍を訪れた。河田はジョン万次郎を自宅に寝泊まりさせて、
    聞き書きを行っていた人物である。

     河田は「このような非常のときに一つの商業を興してはどう
    じゃ」と龍馬に薦めた。そして万次郎から聞いた話をもとに、
    こう語った。

         アメリカじゃあ商業の元手をこしらえるのに、株仲間の
        ような者を大勢集め自在に大金を融通しゆうがじゃ。お前
        (ま)んらぁがそこのところを工夫して、株仲間を何とか
        してこしらえて一隻の蒸気船を買うてみい。

         同志を募り、日本中を往来する旅人やら諸藩の蔵米、産
        物を運んだら、蒸気船運航に使う石炭、油の費用や同志の
        給金を払うことができるろうが。

         そうやって操船の稽古をすりゃ、しだいに航海の術も身
        につくというもんぜよ。盗人を捕まえて縄をなうというよ
        うな有り様で始めても、一日でも早う蒸気船の運用を始め
        ざったら、いつまでたっても外国に追いつけんがじゃ。

     小龍の言葉に龍馬は刺激されたが、高度な蒸気船を動かせる
    秀才は数が少ない、と言うと、小龍はこう応じた。

         日頃俸禄を仰山もらいゆう上士にゃ志というものがありゃ
        せん。志を持ちゆう者は、ひと働きするにも元手のない下
        士、百姓、町民ら下等人民の秀才ぜよ。そがな下等人民の
        秀才は俺の弟子にも多少はいゆう。働かせりゃ工夫するぜ
        よ。

     大洋を自由に航海する蒸気船は、また身分制度からも自由な
    世界であった。龍馬は自由な大海に漕ぎ出したいと思った。
    
■5.「蒸気船の扱いを覚えたいがです」■

     文久2(1862)年3月、龍馬は脱藩した。城下で剣術道場を開
    く資格は得ていたが、もはや高知に留まる気はなかった。

     江戸に出て、ジョン万次郎の紹介状を持って勝麟太郎を訪れ、
    弟子入りを頼んだ。勝は長崎海軍伝習所で教監を務め、また幕
    府の使節を乗せた咸臨丸を操って、太平洋横断を果たした人物
    である。

    「俺の弟子になって何をしたいのかね」と聞かれて、龍馬は
    「蒸気船の扱いを覚えたいがです」と答えた。さらに「尊王と
    攘夷についてどう考えているのかね」と聞かれて、

    「攘夷はとても無理ですろう」

    「そうか。それなら無理を言わず異人の言うがままに商いをす
    るのかね」

    「そこが知りたいがです。攘夷をやらにゃあ異人がのさばりま
    すろう。けんど今の日本じゃとても勝てん。そうなると、異人
    と同じ土俵で相撲がとれるほどの力を持つまで待たにゃあいか
    んですろう」

     麟太郎は笑いながら「土佐にいながら天下の形勢をよく知っ
    ているじゃないか」と言って、弟子入りを許した。
    
■6.海軍建設■

     勝は龍馬を護衛役として側に置きながら、いろいろ話して聞
    かせた。

         攘夷の戦いを日本の側から起こせば、イギリス、フラン
        スは対馬、壱岐、佐渡を占領する。アメリカは伊豆七島、
        ロシアは蝦夷を占領するだろう。淡路島も乗っ取られかね
        ない。そうなれば航海の道はすべて閉ざされ、全国は籠城
        の有り様になる。危機に迫られると一揆が方々で起こる。
        その苦しみに耐えかね、外国につく者が現れると日本は外
        国の属国になるだろう。

     そのような事態を未然に防ぐために、勝は西洋諸国と対抗で
    きるほどの陸海軍を作るという意見書を幕府に提出していた。
    日本全国を6つの海域に分けて、それぞれに艦隊を置くという
    案である。

     その経費を捻出させるためには、各大名に海外貿易を許し、
    それを財源に10万石あたり蒸気軍艦1隻などと費用を出させ
    る。この案に従えば、軍艦3百隻の海軍を建設することも可能
    であった。

     しかし、軍艦は金で揃えることができても、それを動かす人
    材が問題である。勝と龍馬は神戸に海軍塾を作る準備を進めた。
    先頃まで将軍側近であった大久保忠寛(ただひろ)越中守も、
    それを励ましてくれた。

         貴公らが麟太郎と相計って神戸に海軍塾を開く支度をし
        ておるそうだが、それが肝心だ。海軍を大いに発展させる
        ため幕府は、アメリカ、オランダに軍艦を注文している。
        だが、その操船を自在にいたす航海乗り組みの学生を取り
        立てねばならんのだ。幕府の先の読めない腑抜け役人ども
        ができることではない。貴公らが操船を自在にできるよう
        一日も早く学び取らねばならぬのだ。

     文久3(1863)年4月、将軍家茂は神戸に海軍操錬所を建設し、
    その入用金として年3千両を下すことを決めた。また勝の門人
    たちを引き連れて、私塾として海軍塾を開くことを許した。龍
    馬はその設立と運営に奔走した。
    
■7.「亀山社中」■

     元治元(1864)年6月19日、長州勢と幕府方が京都蛤(はま
    ぐり)御門にて衝突した。この際に操錬所生徒である因幡藩士
    数十名が長州方に味方したとして、勝は江戸表に呼び戻された。

     勝は薩摩の西郷吉之助(隆盛)に、龍馬以下6人の土佐藩脱
    藩者の庇護を頼んだ。西郷は、龍馬の人を引きつける性格と時
    代を切り開いていく才覚を認め、密貿易をさせつつ、いずれ長
    州藩に薩長連合を勧める使者として働いて貰おうと考えた。

     元治2(1865)年、龍馬らは長崎の町はずれの亀山という山麓
    の地に宿舎を与えられ、薩摩藩から毎月給金を貰うようになっ
    た。彼らの結社は「亀山社中」と呼ばれ、ここを根拠地として
    密貿易にあたることになった。

     5月、龍馬は下関に潜入し、西郷の使者として、長州の指導
    者・桂小五郎と会った。長州は幕府軍15万の大軍を迎え撃た
    ねばならないという窮地に陥っていた。しかし、薩摩は蛤御門
    の変で幕府方についていたので、「いまさら薩摩の芋と手を結
    べるか。そんなことを抜かす奴は首を斬れ」という声が上がる
    ほどだった。

■8.薩長同盟を実現した交易■

     龍馬は桂にこう持ちかけた。

         長州の四境に幕軍が間なしに参りますきに、外国から薩
        摩の名義で蒸気船、鉄砲を買い入れ、尊藩に持ち込むとい
        うのはいかがですろう。

     桂は思わず、龍馬の顔を見直した。幕府の大軍を迎え撃たね
    ばならない長州にとって、これはよだれの出るような好餌であ
    る。龍馬は亀山社中の同志を使って、最新式の小銃7500丁
    と蒸気船1隻を調達し、約束通り、長州に収めてみせた。

     一方、薩摩は長州征伐には参加せず、京都に大兵力を集めて、
    幕府を牽制することとした。西郷はそのための兵糧を長州から
    借りてくれるよう、龍馬に依頼した。「さしあたって5百俵も
    あればえいですろう」と龍馬は承知して、すぐに山口に行き、
    桂から快諾を得た。

     こうした実利的な助け合いを通じて、薩摩と長州は旧怨を解
    き、同盟関係を築いていった。その掛け橋となったのが、龍馬
    の働きだった。
    
■9.実現した海洋立国の夢■

     兵糧貸与の話がまとまった後、龍馬は下関で貿易を営む大商
    人・伊藤助太夫の家に泊まり込んで、杯を交わした。助太夫は、
    長州と幕府の戦いが終われば、蝦夷の海産物などを買い入れる
    交易をしたいと言った。北前船は一隻作るのに千両かかるが、
    蝦夷へ3度も行けば元手がとれるという。

     龍馬は感心した。「まっことのう。蒸気船を使うたらなお儲
    かるろうねや」

     龍馬は今は亀山社中の同志と共に、薩長の必要とする武器な
    どの購入を行っているが、戦が収まれば長崎、下関を根拠地に
    蝦夷や上海、さらには広東からルソンに行き来して貿易をした
    いと考えていた。蒸気船を使えば、パシフィック・オセアン
    (太平洋)を渡ってアメリカとの交易もできる。それによって
    国を富まし、日本を異国から守れるだけの海軍も持つことがで
    きよう。龍馬の夢は広がっていった。

     龍馬はその夢を実現するひまもなく、慶応3(1867)年11月、
    京都にて何者かに暗殺されてしまった。しかし、海外貿易の夢
    を抱いていたのは龍馬だけではなかった。「海外貿易の志士」
    森村市左衛門などはその好例である。[c]

     さらに神戸の海軍操錬所を淵源の一つとする日本海軍はやが
    て日清・日露戦争を通じて国家の独立を維持し、英米と並ぶ世
    界3大海軍の一つとして数えられるまでになった。[d]

     龍馬の描いた海洋立国の夢は幕末から明治にかけての日本人
    全体が共有していたもので、多くの人々の努力によって実現さ
    れたと言える。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(252) ジョン万次郎とメリケの恩人
    アメリカの捕鯨船に救われた漂流少年は、近代術を学び、開
   国間際の日本に帰っていった。
b. JOG(149) 黒船と白旗
    ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シ
   ステムへの屈服を要求していた
c. JOG(440) 海外貿易の志士、森村市左衛門
    ノリタケ、TOTO、日本碍子、日本特殊陶業、INAXを
   生んだ凛乎たる精神。
d. JOG(236) 日本海海戦
    世界海戦史上にのこる大勝利は、明治日本の近代化努力の到
   達点だった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 津本陽『商人龍馬』★★、日本経済新聞出版社、H19

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「坂本龍馬、海洋立国の夢」に寄せられたおたより

                                       「こういち」さんより
     昨年11月にマサチューセッツ州フェアへブン(Fairhaven)の
    町を訪ねジョン万次郎を偲びました。
 
     現在の天皇が皇太子時代に訪ねていた事をも知る事が出来ま
    した。

     近代日本の原点であった事に深く感銘を受けたのは言うまで
    もありません。

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