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■■ Japan On the Globe(534)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

               国柄探訪: 打倒されたヤマタイ国
    
                      魏の権威を借りて国内を治めようとする
                     ヤマタイ国に挑戦した国があった。
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■1.洛陽に現れたヤマタイ国の正使■

     ヤマタイ国(以下、ヤマタイ国と表記。異民族の音を卑しい
    漢字で当てるのは、中華思想の慣習)の卑弥呼(ヒミコ)から
    の正使・難升米(ナシメ)が魏の都・洛陽にたどり着いたのは、
    西暦239年の夏6月だった。魏の大将軍・司馬仲達を翻弄し
    た蜀の名将・諸葛孔明が亡くなったのは、その5年前。蜀は、
    皇帝・劉備玄徳、名将・関羽、張飛ら「三国志」の英雄たちを
    亡くし、今後は四川省の山また山の領地を細々と守っていく他
    はない、と見られていた。

     あとは、孫権率いる江南の呉をいかに叩きつぶすか、が司馬
    仲達に残された課題だった。司馬仲達はまず、孫権と結んで不
    穏な動きをみせている遼東の公孫淵を、自ら4万の軍勢を率い
    て滅ぼした。こうして平定された朝鮮半島と遼東を通って、ヤ
    マタイ国からの正使一行が魏にやって来たのである。

     司馬仲達は、これを大いに喜んだ。ヤマタイ国については、
    朝鮮半島の出先機関である帯方郡役所から、かなり詳しい情報
    が送られていた。それによると、女王の都のあるヤマタイ国だ
    けで7万戸、人口約50万人。それに服属する約30の国々を
    合わせると15万戸、120万人に上るという。人口では、公
    孫淵の建てた燕の国の4倍、さらに蜀よりも大きい大国である。

     そんな国が朝鮮半島から南下したあたり、ちょうど、敵国、
    呉の沖合の東シナ海に浮かんでいるという。当時の中国の倭に
    対するイメージは、九州を5倍から10倍くらいに膨らませた
    イモ型の亜大陸が、朝鮮半島の南から台湾のあたりまで南北に
    伸びている、というものであった。そのイメージがそのままヨ
    ーロッパに伝わったらしく、16世紀にオランダで作られた地
    図にも、日本列島はそのように描かれていた。

     そんな東海の大国を味方につければ、呉の孫権に対する戦い
    も一気に有利になる、と司馬仲達は考えた。実は孫権もすでに
    同じ事を考えており、230年には1万人の軍勢を船で東方の
    海に送り出し、倭国から大勢の兵を獲得しようとした。船は台
    湾と見られる土地に着き、そこから住民を連れ帰ってきただけ
    だった。

■2.ヒミコの狙い■

     司馬仲達ら、魏のトップはヤマタイ国からの使いに対して、
    最大限の歓待をした。まず倭の女王ヒミコに対して、「親魏倭
    王」の金印を与えた。ちょうど10年前に、魏は蜀を牽制する
    ために、シルクロードの大国・大月氏国に対して、「親魏大月
    氏王」の金印を贈っている。倭国はそれと並ぶ大国という地位
    を与えられたのである。

     さらに大盤の銅鏡を100枚も急ぎ作らせて、1.2メート
    ルの太刀二口とともに贈った。銅鏡や太刀を外国の王に贈ると
    いう例は、中国ではめったになかった。後の「三種の神器」に
    見られるように、倭国は鏡や太刀を尊ぶ、という事を魏は知っ
    ていたのだろう。

     銅鏡100枚という数の多さにも、魏の戦略が込められてい
    た。倭は約30の国家が連合したものであり、ヒミコはその連
    合国家の象徴的元首である。ヒミコのもとで各国が一致して、
    魏に従ってくれる事が必要であった。そこで大量の銅鏡を倭国
    に贈り、ヒミコがそれを各国に下げ渡すことで、倭国連合を強
    化できる、と考えたのであろう。

     一方、魏が遼東を平定した直後に、ヒミコが使節を送り込ん
    できたのも偶然ではあるまい。蜀に対抗するために、魏は倭国
    連合との接近を図るはずだ、という読みがあったに違いない。
    ヒミコの戦略は、見事に当たったのである。

■3.200年も前からの臣従の礼■
    
     ナシメら使節の一行が、多くの人に見送られて洛陽を発った
    のは、西暦240年春の事だった。それに同行して、朝鮮半島
    帯方郡の武官・梯儁(ていしゅん)が金印を持参して、倭国に
    赴いた。

     一行は朝鮮半島の南端から船で対馬に渡った。小さいながら
    も港が整備されていて、賑わっていた。梯儁は、このように遠
    く離れた国まで、女王国に服していることに驚きを覚えた。

     一行は、さらに一支国(壱岐)を経由し、倭の本土の末盧国
    (まつら、佐賀県唐津市)に着いた。魏志倭人伝では「四千余
    戸あり、山海に浜(そ)って居す」と記述している。

     次いで伊都(イト)国(糸島半島)。ここには女王国の検
    問所があった。そこから奴(ヌ)国、博多)に向かう。この
    あたりは古代日本の先進地域で、15万人もの人口を抱え、華
    やかな港湾都市として栄えていた。

     ヌ国王は、西暦57年に後漢を開いた光武帝に使節を贈り、
    「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印を贈られて
    いる。

     伊都国の王とみられる師升(すいしょう)は、西暦107年
    に後漢の安帝の即位に合わせ、が生口(せいこう、朝廷の召使
    い要員)160人を贈っている。

     北九州の各国は、このように200年も前から、中国に臣従
    の礼をとっていた。倭国連合はこの地域を勢力下に含めていた
    のだが、ヒミコはこれらの先例に倣って、魏に使節を送ったの
    である。

■4.その南に狗奴(クナ)国あり■

    「分立する国々の中で、女王国に敵対しているのはどこか」と
    梯儁は聞いた。倭国連合を呉に対する牽制として活用するには、
    国内の敵対勢力についても知っておく必要があった。

    「われわれの最大の敵は、男王を主君にいただく隣の強国であ
    る」とナシメは答えた。
    
         その南に狗奴(クナ)国あり。男子を王となす。
        女王に属せず。・・・

        倭の女王ヒミコ、クナ国の男王・卑弥弓呼(ヒミクコ)と
        もとより和せず。

    と魏志倭人伝は伝える。狗奴国とは熊野国と推測される。「く
    まの」の音が中国側に「狗奴」と表記されたのであろう。そし
    てこの熊野国こそ、九州日向の地を発って、はるばる大和を目
    指して東征してきた天孫族が建てた国である、というのが、[1]
    の著者・八木荘司氏の説である。

     卑弥弓呼(ヒミクコ)とは、熊野国の王が出身地の日向(ひ
    むか)の地名をとって、日向彦(ひむかひこ)と名乗っていた
    からではないか、と言われる。

     この説が正しければ、天孫族は西日本全体を支配下におくヒ
    ミコの倭国連合に属さず、そのすぐ南にあって、ヤマタイ国と
    冷戦状態にあったことになる。

     もしクヌ国が攻めてきて、ヤマタイ国が危機に瀕したら、わ
    が国が救援の手をさしのべるであろう、と梯儁は言った。ヒミ
    コは魏に臣従することによって、その権威と軍事力を後ろ盾と
    したのである。

■5.天孫族とヤマタイ国の冷戦■

     そもそもヒミコが倭国連合の象徴的元首の地位についたのも、
    天孫族の東征が発端となっていたようだ。

     魏志倭人伝に次のような記述がある。

         その国、もとまた男子を以(もっ)て王となす。住(と
        ど)まること7、80年、倭国乱れ、相(あい)攻伐する
        こと歴年、乃(すなわち)ち一女子を共立して王となす。
        名はヒミコという。

    「男王」がいた確実な時期として、西暦107年の伊都国王の
    師升とするなら、その7、80年後の西暦180年前後に「倭
    国の大乱」があり、その後に推戴されたのがヒミコであった。

     この「倭国の大乱」こそ、後に「神武東征」と呼ばれる戦乱
    であったと八木氏は推測している。「神武東征」を架空の神話
    と考える向きが多いが、それにまつわる伝承や考古学的物証が
    各地に遺されており、その神話のもととなった何らかの歴史的
    事件があったと考えられるのは、[a,b]に述べた通りである。

     これが正しければ、天孫族は西暦180年頃、天下統一を目
    指して、奈良盆地の南半分に進出して熊野国を打ち立てたが、
    それに対抗して共立されたヒミコ率いる倭国連合に阻まれ、西
    暦240年の頃には冷戦状態にあった、ということになる。
    
■6.ヤマタイ国が魏に救援を求める■

     梯儁はヤマタイ国に着き、皇帝からの金印や銅鏡を下げ渡した。
    その答礼として、西暦243年には再び、ヤマタイ国の使者一行
    が洛陽を訪れている。

     しかし、ナシメの懸念はその後、すぐに現実のものとなった。
    西暦245年にクヌ国がヤマタイ国に攻撃を仕掛けたのである。
    ナシメは直ちに魏の救援を求める使者を、帯方郡に送った。
    
     急を知った梯儁は、ヤマタイ国からの使者を連れて洛陽に赴き、
    司馬仲達に奏上した。軍略家だった仲達の決断は早かった。ナ
    シメに対して、皇帝の黄幢(軍旗)を授ける、という公式の詔
    書を発した。ヤマタイ国の軍は魏皇帝の軍である、という大義
    名分を明らかにして、敵を威圧しようとしたのである。蜀や呉
    と対峙していた魏には、とうてい軍隊を倭国に送る余裕はなかっ
    た。

     梯儁とヤマタイ国の使者が再び帯方郡に戻った頃、第二の使者
    が駆けつけてきた。クヌ国の攻勢が熾烈を極め、ヤマタイ国の
    軍は後退を続けているという。「一刻も早く救援を。無理であ
    れば、大国(魏)の仲介をお願いいたしたい」とナシメは要請
    してきた。

     古事記、日本書紀には、このあたりの記録が欠落してるが、
    皇室系譜などは残されている。それを頼りに、八木氏は北伐に
    乗り出したのは、第5代孝昭天皇ではないか、と推察している。
    孝昭天皇は南大和の地元の豪族の娘二人を妃としていたが、即
    位後29年も経ってから、尾張の豪族の妹を正妃に迎えている。
    ここから大和王権は倭国連合に属していない東国と結び、背後
    の安全を確保してから、北に攻め込んだ可能性が考えられるの
    である。
    
■7.ヒミコ倒れる■

     魏志倭人伝は、

         張政ら、詔書と黄幢をもたらし、ナシメにさずけ、檄を
        つくって告諭す。

    と伝える。帯方郡の武官・張政が西暦247年に皇帝の詔書と
    黄幢を持ってヤマタイ国に赴き、軍事顧問としてクヌ国の攻勢
    をはね返すべく檄をとばした、というのである。

     その危急の最中にヒミコが没した。ナシメらヤマタイ国の幹
    部は、後継として男王を立てて、倭国連合の新しい元首につけ
    ようとしたが、これが各国の猛反発を呼び、倭国はにわかに争
    乱状態に陥ってしまった。女王という象徴的元首を共立すると
    いう緩やかな連合形態が、男王により実質的な支配に移ること
    を警戒したのである。

     この争乱が始まってから、クヌ国は攻撃をぴたりと止めてい
    た。争乱に乗じて、ヤマタイ国を乗っ取るような事をすれば、
    倭国連合各国が再び結束して、クヌ国に攻め込んで来るかもし
    れない。それよりも今しばらくは各国が相争う事態を静観しな
    がら、国力の充実に努めた方が良い。クヌ国の指導者は天下統
    一の望みを秘めながらも、そうした冷徹な計算のできる人物だっ
    たようだ。

■8.新しい女王のもとでの治安回復■

     結局、ヤマタイ国が男王を引っ込め、代わりにヒミコの一族の
    少女・壱与(イヨ)を新たな女王として立てると、倭国連合各
    国は納得して、争乱は収まった。

     西暦249年、ヤマタイ国は20人もの使節団に護衛をつけて
    洛陽に送り込み、莫大な真珠、勾玉(まがたま)、織物などの
    貢ぎ物を献上して、新しい女王が無事に政権を引き継いだこと
    を示した。

     西暦266年、司馬仲達の孫の司馬炎が魏の皇帝から帝位を
    奪い、晋の王朝を開くと、ヤマタイ国はすぐに晋の成立を祝う
    使者を送った。

        晋の起居(皇帝の公的日誌)の注にいう、武帝の泰初2年
        10月に倭の女王、訳を重ねて貢献すると。

     日本書紀が「起居」から引用した記録である。「倭の女王」
    が文献に姿を見せるのは、これが最後であった。
    
■9.歴代天皇が継承した国家統一の志■

     一方、古事記、日本書紀では、ヤマタイ国の消滅に符合する
    事実が記録されている。第8代孝元天皇は河内(大阪府)の豪
    族の娘を妃に迎えており、天孫族の勢力が女王国の元領地であっ
    た河内に広がった事を窺わせる。

     第9代開花天皇に至って、宮殿は初めて南大和を離れ、奈良
    盆地の北端に移った。そして丹波(兵庫県)の豪族から妃を迎
    えた。

     第10代崇神天皇の時代になると、妃の出身地は、近江(滋
    賀県)、山背(京都府)、紀国(和歌山県)に広がっている。
    こうしてヤマタイ国が領有していた近畿一円の地は、大和の王権
    に吸収された。中国に臣従し、その権威を借りて国内を治めよ
    うとしたヤマタイ国は、自主独立の精神を持つ大和王権に屈した
    のである。

     初代神武天皇は、日向の地を発つときに、こう言われたと伝
    えられている。

         東方はまだ国神(くにつかみ)と称する酋長が勢力を争っ
        てさわがしいと聞きます。四方を青い山に囲まれた大和が
        大八島(=日本)の中心です。天照大神の思し召しである、
        この国のすべての人々を安らいで、ゆたかにくらせるよう
        にするには、みやこを大和におくのがよいと思います。
        [a, 2,p10]

     驚くべきは、この初代天皇の志が第10代崇神天皇に至るま
    で脈々と受け継がれ、着々と実行されていったことである。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
    神話にこめられた建国の理想を読む。
b. JOG(381) 大和の国と邪馬台国
    我が国はいつ、どのように建国されたのか? 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 八木荘司『古代からの伝言 日本建国編』★★★、角川書店
2. 出雲井晶『教科書が教えない神武天皇』★★★、産経新聞ニュース
   サービス、H11

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■「打倒されたヤマタイ国」に寄せられたおたより

                                                 康之さんより

     伊勢様の日本の歴史について正確かつ詳細な解説は日本人と
    して生まれたことに誇りをもたせるものであります。しかしな
    がら2月10日の記述についていささか、違和感を覚えるので
    あります。

     なぜらば、邪馬台国、卑弥呼という呼称が無造作に使われて
    いるからです。邪馬台国、卑弥呼という呼称は鮮卑、匈奴、烏
    桓と同じよに、中国大陸にあった国からの人種差別というか、
    蔑称ではないでしょうか。現代で言えば邪馬台国とは「ジャッ
    プ」あるいは「小日本」に近い響きを感じます。

     大陸から見て、邪馬台国、卑弥呼という政権や首長があった
    かもしれないし、いたのかもしれません。しかしながら、我が
    国自ら邪馬台国と称した文書はないはずです。自国や自らの名
    前に邪、卑という漢字を使うことはありえないことではないで
    しょうか。

     誤解を招きかねないですから、「大陸が呼称している邪馬台
    国」と記すべしではないでしょうか。西尾幹二さんの"国民の
    歴史"には、秀吉時代の我が国に対する中国側の歴史書には杜
    撰な記述があり、いわんや秀吉時代よりも千年以上の記述の信
    頼性はもっと落ちると考えるのは、自然であり、そうすると邪
    馬台国、卑弥呼という呼称はますますもって信頼性が低いので
    はありませんか。

                                       編集長・伊勢雅臣より
     ご指摘のように、邪馬台国、卑弥呼というような蔑称をその
    まま使った点は、問題でした。少なくともヤマタイ国、ヒミコ
    など、現在推定されている読み方をカタカナで表記すべきであっ
    たと思われます。(本ホームページでは修正しました)

     魏志倭人伝の記述の正確さに関しては、日本の習俗などに関
    しては、蔑視が込められていて、極めて不正確ですが、外交記
    録に関しては詳細で信頼性が高い、と八木氏は指摘されていま
    す。

                                             Noboruさんより
     この邪馬台国に関しましては、周知のように、諸説相入り乱
    れ、定説に至らない状況にあります。当方は当該領域に素人で
    すが、当該の専門学会でも、多数派の畿内説と少数派の北九州
    説とが、対峙しているのではないかと、推察されます。そのな
    かにあって、当該の御論考は、主に八木荘司氏の説に立って、
    記されているように思います。

     諸説入り乱れるうちの一説を強いて積極的に取り上げて配信
    するとなると、「じゃあ普段送ってきているものも、あんまし
    当てにならない一私見にすぎないのね」 ということになって
    しまうように思います。当方の所感では〜通例のものは、もう
    少し確度の高い見地、有力な私見であったように思います。そ
    の辺の区別はありやなしや、せっかくふだん魅力的な御論考群
    を配信いただいているだけに、微妙なところではありますが、
    望むらくはお伺いしたいところです。 

                                               伊勢雅臣より
    「邪馬台国」がどこにあったか、という問題は多くの人が論じ
    ていますが、前号のテーマはそのような歴史ミステリーではあ
    りません。八木氏の説を採用したのは、魏志倭人伝の外交史の
    部分を詳細に取り上げて、古代からの日中関係という視点から
    論じているからです。氏の説に基づいて、我々の先祖がどのよ
    うな国家を目指していたのか、に迫ってみました。

     もちろん史実として定説が確立した時代ではありませんが、
    少なくともヒミコが対中臣従路線を歩んだことは銅鏡の存在な
    どから史実でしょうし、それに戦いを挑んだ自主独立路線があっ
    たことも、後の聖徳太子の対中対等外交を見る限り、十分にあ
    りえたと考えます。 

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