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■■ Japan On the Globe(541)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

    人物探訪: 白洲次郎(上)〜 占領軍総司令部との戦い
                
                        「勝ち目がないとわかっていても、男に
                        は戦わなければならない時がある」
■転送歓迎■ H20.03.30 ■ 37,372 Copies ■ 2,807,229 Views■

    
■1."Difficult Japanese"(扱いにくい日本人)■

     昭和20(1945)年12月。日本は敗戦後、最初のクリスマス
    を迎えた。マッカーサー元帥一家に天皇陛下からクリスマス・
    プレゼントを渡すというう話が持ち上がった。元帥には毛筆セッ
    ト、夫人に雛人形、息子アーサーには人形とキャンディが準備
    された。

     吉田茂外相の名代としてGHQ(占領軍総司令部)との交渉
    窓口を任されていた白洲次郎がプレゼントを持参した。GHQ
    は皇居お堀端の第一生命ビルを接収し、マッカーサーの部屋は
    その6階の奥にあった。ドアの前には銃を持った二人の憲兵が
    立っている。

     次郎が部屋に入ると、マッカーサーの机の上には贈り物がう
    ずたかく積まれていた。「そのあたりにでも置いておいてくれ」
    と、マッカーサーは絨毯の上を指さした。

     そのとたん、次郎は血相を変え、「いやしくもかつて日本の
    統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事です
    かっ!」と叱りとばし、贈り物を持って帰ろうとした。さすが
    のマッカーサーもあわてて謝り、新たにテーブルを用意させた。

    「戦争には負けたけれども奴隷になったわけではない」、それ
    が彼の口癖だった。日本人離れした体躯と英国仕込みの英語で、
    次郎は総司令部の高官と堂々と渡り合った。そのため、"Difficult
    Japanese"(扱いにくい日本人)と呼ばれていた。

■2."Be gentleman"(紳士たれ)■

     白洲次郎は、明治35(1902)年、現在の兵庫県芦屋のあたり
    に生まれた。白洲家は三田藩(兵庫県三田市)で代々儒官を務
    めていた名家で、父・文平は綿花貿易で成功した資産家だった。

     次郎は、名門・神戸第一中学校に通ったが、暗記中心の詰め
    込み教育になじめなかった。「先生の教えることをそのまま答
    案にすることがそんなに偉いのか」と疑問を感じていた。その
    ため成績は中程度で、このままでは兄のように旧制第三高校
    (現在の京都大学教養学部)には入れそうになかった。「それ
    ならいっそのこと留学せい」と父・文平が断を下した。

     19歳にして英国に渡り、現地の高校を経て、ケンブリッジ
    大学に入学。東洋人は次郎一人だったが、猛勉強して、2年目
    にはトップクラスに入った。

     物理学の試験を受けた時のこと、授業で教わったことを徹底
    的に復習して、自信を持って臨んだが、結果は意外に低い点数
    だった。「君の答案には、君自身の考えが一つもない」と書か
    れていた。「これこそオレが中学時代に疑問に思っていたこと
    の答えじゃないか」と、痛快な喜びがこみ上げてきた。次の試
    験では、自分の意見を存分に書いて、高得点を貰った。

     ケンブリッジ大学では、学業だけでなく、ことある毎に"Be
    gentleman"(紳士たれ)と教えられた。紳士は自由であるとと
    もに、自らを規律と原則で律する。その精神的バックボーンは
    騎士道である。武家の家に生まれた次郎には、それと共鳴し合
    う武士道精神が脈打っていた。

■3.「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」■
    
     昭和3(1928)年、金融恐慌のあおりを受けて、父の事業が行
    き詰まった。次郎は8年間の留学生活を終えて、日本の土を踏
    んだ。26歳になっていた。

     次郎は『ジャパン・アドバタイザー』という英字紙の記者と
    なって家計を助けた。数年務めた後、日本水産の取締役外地部
    長に就任し、日本産鯨油の欧米輸出に携わった。

     やがて幼友達が、後に首相となる近衛文麿の私設秘書をして
    いた縁で、近衛と近づきになった。近衛は息子の文隆の面倒を
    見てやってはくれまいか、と次郎に頼んだ。文隆は米国プリン
    ストン大学に留学したが、ゴルフやカーレースに熱中して、学
    業不振のため卒業できずに帰国していた。

     次郎は自分に似たところがある文隆を可愛がったが、叱ると
    きは大声で叱った。後に文隆は出征し、満洲でソ連軍に抑留さ
    れた。元首相の息子だということで、ソ連の手先となるなら帰
    国させてやろうという誘いを断って、11年の抑留生活を経て、
    不審な死を遂げた。[a]

     この事を後で知った次郎は、怒りに身を震わせながら痛哭し、
    「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と天を仰いでその非道を
    呪った。
    
■4.「ここからが正念場だからな」■

     また次郎は、妻となった正子の縁で、吉田茂とも知り合った。
    次郎はまだ27歳、51歳の吉田とは親子ほどにも年齢は離れ
    ていたが、軍部を牛耳る東条英機と顔を合わせても挨拶しない
    ほどの硬骨漢ぶりに親しみを感じていた。

     後に吉田は駐英大使として赴任するが、外務省で飛ぶ鳥を落
    とす勢いの松岡洋右の日独同盟路線に反対し、孤立していた。
    そんな吉田を次郎は英国出張の際にふらりと訪れては、ビリヤ
    ードをしたり、ビールを飲みながら談笑した。それが孤独な吉
    田への思いやりだった。

     やがて、二人が心配していた通りに米国との戦争が始まった。
    次郎は今の町田市のあたりに引っ込んで百姓を始めた。東京が
    空爆され、食糧不足に陥ると読んだからだ。日本軍が勝ち進ん
    でいる時に、ここまで考えるのが次郎の天才的な所であった。

     次郎の読み通り、日本は焦土と化して敗戦を迎えた。幣原内
    閣で外相に就任した吉田は、昭和20(1945)年12月、次郎を
    GHQとの折衝役として、終戦連絡事務局参与に任命した。
    「戦争に負けて外交に勝った歴史もある。ここからが正念場だ
    からな」と、吉田は期待をこめて次郎に語った。

     昭和天皇からのクリスマス・プレゼントを持参して、マッカ
    ーサーを叱りとばした冒頭の逸話はこの直後のことであった。
    
■5.GHQの中の赤色勢力■

     次郎の主な交渉相手、というより宿敵が、民政局長のコート
    ニー・ホイットニー准将と、行政公職課長チャールズ・ケーディ
    ス中佐だった。

     民政局には共産主義者が多く混じっていたと言われる。3年
    後、アメリカに戻ったケーディスが、国務省のジョージ・ケナ
    ンを訪ねた時、「あなた方は、日本を共産主義国家にしてソ連
    に進呈しようとしていたのだという噂もありますね」と、面罵
    されている。[1,p263]

     そんなケーディスたちを警戒する勢力はGHQ内にもあった。
    参謀第二部のチャールズ・ウィロビー少将である。ウィロビー
    は反共主義者で、ケーディスらが日本を共産主義国家に改造し
    ようとしているのではないか、と危惧していた。

     昭和21(1946)年1月4日、民政局は自らが「軍国主義者」
    と認定した人々の公職追放令を発令した。ウィロビーは「この
    ように徹底的な追放を行えば日本は大混乱に陥ってしまうだけ
    だ。赤色革命を起こす可能性だってある。追放は最高指導者だ
    けに限るべきだ。下の者は上の者に従っただけではないか」と
    追放令に反対した。

     しかし、マッカーサーのお墨付きを得たケーディスは、幣原
    内閣の現役閣僚中5人を含め、その後1年半ほどの間に、20
    万余もの有力者を追放した。

     自由党の党首・鳩山一郎も同年4月、戦後初の総選挙で第一
    党となった直後に、首相の座を目前にして公職追放となってい
    る。GHQは口先では「民主主義」を唱えながらも、その実、
    日本国民の総意を無視して、気にくわない政治家を自在に追放
    できる独裁者だったのである。

■6.GHQの示した憲法草案■

     この年の2月13日、ホイットニーとケーディスが外務大臣
    官邸を訪れた。次郎が出迎えに出た。松本国務大臣が作成した
    日本国憲法案を説明し、日米共同で検討するための集まりだと、
    日本側は思っていた。

     松本国務大臣が説明を始めようとすると、ホイットニーはそ
    れを遮って、こう言った。

         先日あなた方から提出された憲法改正案は、自由と民主
        主義の観点からみて、とても容認できるものではありませ
        ん。・・・ここに持参した憲法草案こそ、日本の人々が求
        めているものであるとして、最高司令官(マッカーサー)
        があなた方に手渡すようお命じになったものです。

    「なんと、GHQ側は自ら憲法改正案を用意してきたのか!」
    虚を衝かれた日本側は声も出ない。「やられた! あいつら、
    いつの間にこんなものを用意していたんだ」と次郎は思った。

     これこそ民政局の素人集団が7日間で作成した憲法草案であっ
    た。その中には、「土地その他の天然資源は国有とする」とい
    う規定まであった。「自由と民主主義」どころか、共産主義そ
    のものである。[b]
    
■7.「男には戦わなければならない時がある」■

     外相官邸から戻った松本国務大臣は、事の成り行きを幣原首
    相に報告した。GHQの憲法草案が単なる「提案」なのか、
    「指令」なのかについて探りを入れよう、ということになり、
    次郎は、すぐにその日の午後、GHQにホイットニーを訪ねた。
    しかし次郎が何を言っても、ホイットニーは取り合わなかった。

     次郎は松本の所に戻って、「大臣、向こうはやはり『指令』
    だと考えています。交渉は受けつけそうにありません」と率直
    に言った。「あっさり、あきらめすぎだ」と言わんばかりの松
    本の態度に、むっとしながらも、次郎は「分かりました。もう
    一度やってみましょう」ときっぱり言った。

    「勝ち目がないとわかっていても、男には戦わなければならな
    い時がある」と次郎は腹をくくった。後に次郎は、この時の気
    持ちをこう語っている。

         自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりに
        なったのではない、ということを国民に見せるために、あ
        えて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗した
        ということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必
        ず批判を受けることになる。[1,p150]

     次郎は「手紙を書こう」と思った。言質をとるには文章に限
    る。松本案もマッカーサー案も民主憲法という目的は同じであ
    り、ただ日本の伝統と国情に即した道をとるほうが混乱を招か
    ない、という論旨を次郎は手紙に書いてホイットニーに示した。

     ホイットニーからは翌日、返事が来た。「マッカーサー案の
    目的に賛成するというなら、積極的に推進すればよいではない
    か」という、とりつく島もない文面だった。

     松本は再度、次郎と同趣旨の再説明書を書いて、次郎に持た
    せた。ホイットニーはその再説明書を机にたたき付け、「48
    時間以内にマッカーサー案を受け入れるのかどうか、回答せよ」
    と言って、次郎から背を向けた。何たる屈辱。次郎はこみ上げ
    る怒りに肩を震わせながら部屋を出た。
    
■8.『抵抗したんだ』という事実は残った■

     民政局の強硬な態度に、結局、マッカーサー案をベースにし
    て、新たな日本案を作成することになった。
    
     3月4日、松本大臣、次郎、法制局の専門家などがGHQの
    第一生命ビルを訪れ、松本がマッカーサー草案をベースにした
    日本案を示した。ただちに英訳とチェックが開始された。

     ケーディスは、日本案の一条ごとに文句をつけた。たとえば、
    マッカーサー草案では、天皇の国事行為は"advice and consent"
    としているのを、松本案では「補弼(ほひつ)」としていた。
    「なぜ consent(同意)を省いたのか」とケーディスが質問す
    ると、松本は「もともと天皇は内閣の輔弼がなければ、どんな
    行為もできないことになっている」と、怒りに震える声で答え
    た。

     こんな議論が延々と続くうちに、松本は別の会議があるから
    と、引き揚げてしまった。敵前逃亡である。ケーディスは次郎
    に「今夜中に憲法草案を完成させる」と伝えた。民政局員約
    20名が加わって、日本案を英語にして修正確認し、それを再
    度、日本語にする、という作業が夜通し進められた。

     作業があらかた終わったのが、午前10時。午後2時半頃、
    次郎がそれを官邸に持ち帰って、「やっこさんたちは、今日中
    にこの憲法草案を受諾するかどうか返事を貰いたい、と言って
    きています」と事態が切迫していることを伝えた。

     午後4時半、閣議が開かれた。吉田は「ことここに及んでは
    受け入れるしかない。次郎には悪いが、『抵抗したんだ』とい
    う事実は残った。今回の憲法は独立を回復した後に、我々の手
    で改正すればいい」と考えたが、それは閣僚ほとんどの思いで
    あったろう。

     3月6日、「日本政府による憲法改正案」が公表され、間髪
    を入れずに、マッカーサーは同案への支持を表明した。
    
■9.「ヒソカニ涙ス」■

     この一連の作業の後、次郎は一週間ぶりに自宅に戻って、泥
    のようになって眠った。寝言ながらに「シャット・アップ!
    (黙れ)」「ゲット・アウト!(出て行け)」などと叫んだ。

    「憲法草案」公表の翌日、次郎は次のような手記を書いている。

        斯(かく)ノ如クシテ、コノ敗戦最露出ノ憲法案生(うま)
        ル。「今に見ていろ」ト云フ気持抑(おさ)ヘ切レス。ヒ
        ソカニ涙ス

     後に次郎は、こう書いている。

         この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示
        すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたとこ
        ろで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるよう
        な時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大
        な罪悪であると考える。[1,p101]

     次郎の危惧は現実のものとなった。
                                   (続く、文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(297) 近衛文隆 〜 ラーゲリに消えたサムライ
    ソ連での獄中生活11年余。スパイになる事を拒否し続けて、
   ついに屈しなかった青年貴族。 
b. JOG(141) 仮設憲法、急造成功
    今週末までに、新憲法の概案を作れ、、、マッカーサーは、
   なぜそんなに急がせたのか? 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 北康利『白洲次郎 占領を背負った男』★★★、講談社、H17

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「白洲次郎(上)〜 占領軍総司令部との戦い」に寄せられた
  おたより

                                       「おっしー」さんより
     どういう経路で、このメルマガを登録したのか、忘れてしまっ
    たのですが・・・(笑)最近、日本再生に繋がるようなものを
    読み漁っています。

     私も、3年程前に、GHQの占領政策のことを知り、目覚め
    ました。自然な気持ちで、日本を愛する人が増えて欲しいと願っ
    ております。

     白洲次郎の話は良かったです。まずは、多くの人に、アメリ
    カとの4年間の戦争で敗戦したことはもちろんのこと、7年間
    も占領されていた事実というのを知ってもらいたいです。

     あまり、イデオロギー的な感じでなく白洲次郎のように、ド
    ラマになりそうな人物にスポットを当てれば、多くの人に、心
    の抵抗なく知ってもらえるのではないかと期待しています。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     イデオロギーでなく、人の生き方を通じた歴史こそ、本当の
    歴史ですね。
 

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