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■■ Japan On the Globe(542)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

      人物探訪:白洲次郎(下)〜 日本復興への責任と義務
    
        「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々
        の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」
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■1.「吾々が招いたこの失敗」への「責任と義務」■

     戦後の日本に関して、白洲次郎はこう書いている。

         吾々(われわれ)の時代に馬鹿な戦争をして、元も子も
        なくした責任をもっと痛切に感じようではないか。日本の
        経済は根本からの立て直しを要求しているのだと思う。恐
        らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終わるだ
        ろう。それ程事態は深刻で、前途は荊(いばら)の道であ
        る。然(しか)し吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも
        取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義
        務を私は感じる。[1,p270]

     自分たちは被害者だ、軍国主義者に騙された、という風潮が
    支配的な時代において、「吾々が招いたこの失敗」の「責任と
    義務」を主体的に負おうというのが、次郎の生き様であった。

     昭和21(1946)年4月、戦後初の総選挙で自由党が第一党と
    なったが、社会主義政権誕生を目論むGHQ民政局のケーディ
    スらは、党首・鳩山一郎を公職追放処分にしてまで、組閣を阻
    止した。

     そこで鳩山や前首相・幣原に推されて、吉田茂に組閣の大命
    が下った。その吉田にも公職追放の手が伸びていた。その情報
    を掴んだ次郎は、ケーディスの対抗勢力であるウィロビー少将
    と必死に掛け合って、なんとかそれを阻止した。

     首相に就任した吉田は、マッカーサーに会って「日本を赤化
    させるおつもりですか」と迫った。おりしもソ連との冷戦の緊
    張が高まり始めていた時期でもあり、マッカーサーは、GHQ
    内でとくに「赤い」と目されていた局員を大方帰国させる措置
    をとった。

     米国内では日本を防共の盾とする議論も出てきて、占領方針
    も民主化から経済復興へと力点が移りつつあった。ようやく次
    郎の「責任と義務」を果たす機会が訪れてつつあった。

■2.経済安定本部次長■

     昭和21(1946)年12月、次郎は経済安定本部(後の経済企
    画庁)次長を兼任することになった。半年ほど後に、蔵相・石
    橋湛山が経済安定本部長官兼任となった。石橋も気骨ある人物
    で、GHQ経済科学局の幹部を相手に丁々発止とやりあった。
    しかし、この石橋も任期途中で公職追放となってしまう。

     石橋は軍部を批判して、満洲を放棄し、朝鮮・台湾を独立さ
    せよ、と主張した人物である。そんな人物までGHQは公職追
    放したのだった。

     経済・財政面で石橋を頼りにしていた吉田は、経済学者たち
    をブレーンとすることで、事態を打開しようとした。その根回
    しに次郎が走り回った。目をつけた一人が東京大学経済学部教
    授の有沢広巳(ありさわ・ひろみ)である。しかし、教授が政
    府のブレーンになるというのは一般的でない時代のことである。
    有沢は、次郎が何度頼み込んでも一向に首を縦に振らない。

     そこで次郎が考え出したのが、吉田を囲む週一回の昼食会に
    何人かの著名な経済学者とともに参加して貰う、という方法で
    ある。これにはさすがの有沢も断れず、吉田を囲んでの議論に
    加わった。

     この席で有沢が披露したのが、傾斜生産理論である。限られ
    た資金・資源をまず石炭の増産に集中し、この石炭を鉄鋼生産
    に集中投下するという方法で、これにより生産が急回復し始め、
    復興の起爆剤になった。

■3.民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者■
    
     昭和22(1947)年年頭、深刻な食料事情の中で頻発している
    労働争議やストライキを沈静化させるべく吉田はラジオで国民
    に呼びかけた。しかしその中で「私はかかる不逞の輩(やから)
    が国民中に多数ありとは信じませんぬ」と口を滑らした。これ
    が労働組合などを刺激して、世情騒然となった。

     GHQ民政局は吉田降ろしの好機と見て、マッカーサーを動
    かし、総選挙を命じた。やむなく吉田は議会を解散して総選挙
    に踏み切ったが、「不逞の輩」発言で支持率が急降下しており、
    片山哲率いる社会党に第一党の地位を奪われてしまった。

     片山は単独では政権を担う自信がないので、自由党からも閣
    僚を送って貰いたいと申し出たが、吉田はきっぱりと断った。
    「主義主張を異にする両党が連立するのは、政党政治の本領に
    反する」と言って、野に下ったのである。

     片山内閣で農相となった平野力三は吉田に近い人物だったの
    で、ケーディスは強引に公職追放にしたが、平野派40名の支
    持を失った片山内閣は総辞職に追い込まれてしまった。ケーディ
    スは肝いりの社会党内閣を、自らの強引な追放措置で潰してし
    まったのだった。

     ケーディスは、その後も政権を野党第一党の自由党に渡さず、
    民主党総裁の芦田均を首相に据えた。ケーディスはいよいよ、
    民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者となっていった。
    
■4.ケーディスとの最終決着■

     怒り心頭に発した吉田と次郎は、参謀第2部のウィロビーと
    共闘して、ケーディスの追い落としを図った。

     おりしも、昭和電工が大規模な贈賄を行って、復興金融金庫
    からの融資を引き出している、という疑惑が浮上していた。社
    長の日野原は、前社長が吉田やウィロビーに近い人物だったた
    めに公職追放とし、ケーディスが新たに送り込んだ人物だった。

     次郎やウィロビーはケーディスの身辺調査を行い、彼にも多
    額の現金が渡ったという情報を新聞に流して、しきりに報道さ
    せた。ケーディスの影響力は急速に低下していった。

     芦田内閣そのものも、この昭和電工の贈賄事件により、わず
    か7カ月で総辞職に追い込まれた。次郎はウィロビーと共闘し
    て、マッカーサーから、「GHQの総意としては吉田首相で問
    題なし」という確約を得た。吉田は衆議院で多数を得て、昭和
    23(1948)年10月に第2次内閣を発足させた。

     ケーディスはなおも吉田内閣を潰そうと画策したが、吉田は
    国会を解散して、民意を問うた。翌年1月の総選挙では吉田率
    いる民自党(自由党と民主党の一部が合同)が圧勝し、第一党
    だった社会党は143議席から48議席へと激減、党委員長の
    片山まで落選の憂き目を見た。

     ケーディスは失意のうちにアメリカに帰国した。こうして日
    本に社会主義政権を作ろうとする陰謀は未然に防ぐことができ
    たのだが、その陰には次郎の奮闘があったのである。
    
■5.経済復興のための大抜擢人事■

     傾斜生産方式が奏功し、我が国の鉱業生産は戦前の5割程度
    まで回復していたが、GHQ財政顧問として来日したジョゼフ
    ・モレル・ドッジはインフレを沈静化するために、復興重視の
    政策を超均衡財政に転換しようとした。

     次郎は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策が発表された時、
    これまでの努力がすべて水の泡になるのではないかと危惧した。
    ドッジに対抗するためには、経済理論に明るく、押しも強い人
    物を大蔵大臣につけなければならない。そうした人物を求めて、
    次郎は東奔西走した。

     そして見つけたのが、前大蔵省事務次官の池田勇人(はやと)
    だった。吉田は昭和24(1959)年1月の総選挙で、池田を立候
    補させ、当選すると一年生議員にもかかわらず大蔵大臣に大抜
    擢した。当選回数を重ねた議員から囂々(ごうごう)たる不満
    が噴出した。しかし池田は期待通りの活躍を見せた。ドッジと
    も何度も渡り合って、深い信頼関係を築いた。

     池田は昭和34(1959)年に首相となるが、天才的なエコノミ
    スト下村治をブレーンとして、10年間でGNP(国民総生産)
    を2倍にするという「所得倍増計画」をスタートさせ、高度成
    長を実現していく。[a] 
    
■6.「新しい貿易庁を作る!」■

     昭和23(1948)年12月1日、次郎は吉田首相から商工省の
    外局である貿易庁の長官に任命された。次郎は以前から、輸出
    産業を育成し外貨獲得を図るために、商工省を改組してもっと
    強力な組織を作る必要がある、と主張していた。そこで吉田か
    ら「じゃあ、お前やってみろ」と言われたのである。

     商工省は多くの優秀な役人を抱える巨大組織である。それを
    変革するのは、よほどの信念と実行力を持った人物が必要であ
    る。それには次郎しかいない、と吉田は見込んだのである。

     次郎はまず味方にすべき人物を捜した。そこで目をつけたの
    が商工省物資調整課長の永山時雄であった。まだ若かったが省
    内随一の切れ者として名が通っていた。

     次郎は永山を呼んだ。ちょうど、永山の方も商工省の事務次
    官から次郎の動向を探るように依頼を受けていたので、敵情視
    察のつもりだった。その永山に対して、次郎にしては珍しく熱
    弁を振るった。

         今の日本にとってもっとも重要なことは、輸出産業を振
        興させて外貨を獲得し、その外貨でさらに資源を購入して
        経済成長にはずみをつけることだ。ところがこれまでの商
        工省の施策は国内産業の育成が中心だった。これからは、
        貿易行政があって産業行政があるというふうに180度考
        え方を変えていかなければならない。だから、、、

     と息をついで、一気に言い切った。

         占領下で動きのとれない外務省も、軍需省の尻尾をひき
        ずる商工省も、ともに潰して新しい貿易庁を作る!

     永山は全身に鳥肌がたった。純粋に国を思う情熱、先例や常
    識をかなぐり捨てた構想の合理性、先進性。この日を境に永山
    は次郎の信奉者となった。
    
■7.通商産業省の誕生■

     次郎は、永山に「通商産業省(仮称)設置法案」をまとめさ
    せ、翌24(1959)年2月8日に閣議決定に持ち込んだ。就任後、
    わずか2カ月ほどのスピードで、役人たちには反撃の隙も与え
    なかった。

     商工省からは、せめて名称を「産業貿易省」にしてくれ、と
    言ってきた。国内産業重視の看板を下ろしたくない、という最
    後の抵抗である。しかし、次郎は「貿易より産業が先にきてい
    るような名前はダメだ!」の一言。さらに通産省内のすべての
    局に「通商」という名前をつけさせて貿易重視の意識改革を徹
    底した。

     同年5月25日、通商産業省が誕生した。貿易庁から引き継
    ぎにきた事務官に対し、次郎は「引き継ぎするものなど何もな
    い。お前らは通産省を貿易庁の後身だと思っているのか。過去
    は振り替えらんでいい。これからまったく新しい行政を始める
    んだ」と言って、一切の引き継ぎを拒んだ。

     そして通産省の次官や局長には、次郎が目をつけた優秀な官
    僚を配置して、立ち上げを確固たるものにした。その上で、自
    分はさっと身を引いてしまったのが、次郎らしい無私な所であっ
    た。

     この後、通産省は日本経済の「参謀本部」として高度成長に
    向けて牽引していく。
    
■8.「何だこれは! 書き直しだ」■

     昭和26(1951)年9月、吉田茂は講和条約に調印すべく、サ
    ンフランシスコに向かった[b]。次郎も顧問として随行した。
    調印式の後には吉田による受託演説が予定されていたが、吉田
    はその二日前に、次郎に演説草稿のチェックを頼んだ。

     外務省の役人が持ってきた草稿を一目見るなり、次郎は渋面
    を作った。英文だったからである。「日本人は日本語で堂々と
    やればいいじゃないか!」

     内容も問題だった。占領に対する感謝の言葉が並んでいて、
    まるでGHQに媚びているような文面である。

        「何だこれは! 書き直しだ」

        「ちょ、ちょっと待ってください。事前にGHQ外交部の
        シーボルト氏やダレス顧問にチェックしてもらったもので
        すから、勝手な書き直しなんかできませんよ」

        「何だと! 講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等
        の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相
        手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界
        にいるんだ!」

■9.ウィスキーのグラスをあおりながら■

     次郎はサンフランシスコのチャイナタウンで和紙の巻紙を買
    い求めさせ、毛筆で書き始めた。

     懸案である奄美大島、琉球列島、小笠原諸島の返還にも言及
    した。外務省の役人は必死に止めようとしたが、次郎は
    「GHQを刺激するから触れるなだと。バカヤロー、冗談を言
    うな」と一喝した。「小笠原や沖縄の人々の気持ちにもなって
    みろ」という思いだった。

     草稿は吉田の演説直前にできあがった。長さは約30メート
    ル、巻くと直径10センチほどになった。ぶっつけ本番となっ
    たが、吉田は悠揚迫らぬ態度で読み上げていった。

     日本の新生を世界に報ずる一大イベントも無事に終わった。
    次郎はマーク・ホプキンス・ホテルの自分の部屋のソファーに
    身を沈めた。早いピッチでウィスキーのグラスをあおりながら、
    次郎は泣いていた。

     敗戦後、わずか6年だったが、いろいろな事があった。屈辱
    的な憲法改正、赤いGHQ将校たちとの死闘、そして通産省創
    設など経済復興への段取り。

    「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子
    供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務」の幾分かは果たせた
    のである。サンフランシスコの夜は静かに更けていった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(103) 下村治
    高度成長のシナリオ・ライター。 
b. JOG(206) サンフランシスコ講和条約
   「和解と信頼の講和」に基づき、日本は戦後処理に誠実に取り
   組み、再び国際社会に迎えられた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 北康利『白洲次郎 占領を背負った男』★★★、講談社、H17

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「白洲次郎(下)〜 日本復興への責任と義務」
  に寄せられたおたより

                                             Yutakaさんより
     白州次郎氏のように自らの責任を明確にすると言う姿勢が現
    在の政治家にも官僚にも決定的に欠落しているように思えてな
    りません。自らの信念に基づいて決然として行動すると云うの
    は日本人の最も不得意とするところで、特に時代の潮流や力の
    あるものに逆らうことは苦手です。その結果、いわゆる時代の
    空気に流され、結果として重大な過ちを犯すことになります。
    太平洋戦争の開戦の決定にあたってもその時の空気によってな
    んとなく開戦に踏み切ったと言う面が少なからずあるように思
    われます。

     最近KYと称してその場の空気が読めないことを否定するよう
    ですが、これはある意味で危険なではないでしょうか?日本人
    の欠陥として軽躁であることが指摘されますが、まさにその場
    の空気に飲み込まれて一方向へなだれを打って走りだすのは厳
    に慎むべきことだと思います。

     民主主義とは本来個性の確立した個人がみずからの信条・信
    念に基づいて政治的な決定をすることを前提として成立してい
    る制度です。したがって、我が国民のようにその場の空気にの
    まれて付和雷同する傾向の強いところでは成熟した民主主義は
    なかなか機能せず得てして衆愚政治に陥る危険をはらんでいま
    す。

     太平洋戦争の開戦も一部の軍人が強硬に主張したと言う事実
    はあっても、正当な選挙で選ばれた議会が正式な手続きを経て
    決定したことです。また悪の権化のように言われるナチスにし
    ても選挙によって政権を握っており、クーデターや革命のよう
    に非合法な武力による政権の奪取ではありません。

     民主主義にはこのような危険性が本質的に含まれていると言
    うことを十分認識し、自らの信念に従って決然と行動すること
    が必要です。そのような国民が増えることが本当の意味での民
    主主義を成立させることになるのではないでしょうか。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     真の自由主義がなければ、民主主義も機能せず、全体主義に
    転落する恐れがある、ということですね。 

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