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■■ Japan On the Globe(556)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

                国柄探訪: 日本人の家族観
                    
                    先祖から子孫への連綿たる生命のリレーの
                   中間走者として自分がいる。
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■1.「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」■

     秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前
    で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いき
    れない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざ
    から崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま
    動けなくなった。

     両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的
    責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。

     かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒
    す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の
    加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。

        ・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁
        (自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親
        は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧
        米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。そ
        れに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する
        可能性さえある。[1,p6]

     殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、
    日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見な
    さない。

     加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一
    体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれな
    い感覚や意識」だとする。

     こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とは
    まったく異なるという事が窺われるのである。

■2.家族観の違い■

     日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に
    姿を現す。

     たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まっ
    てきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするの
    は良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、
    どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」と
    は他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われ
    るというのは、どうしてもなじめない。

     欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の
    契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖な
    ものなのだ。

     また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、
    もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人
    した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」など
    と語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつ
    かないな、と感じたことがある。

     当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければなら
    ない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち
    得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。

     実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、
    キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、そ
    れが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同
    じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだ
    ものである。

■3.先祖の霊は「草葉の陰」で子孫を見守っている■
    
     古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀し
    てくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。
    日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのであ
    る。

    「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする
    疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともに
    ある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。

     また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖
    父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の
    悲しみを和らげてくれる物語であった。

     先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神とし
    て祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、
    という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道と
    なり、中国においては儒教に発展した。

     キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国
    か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない
    限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。

     よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは
    未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、
    ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、とい
    うだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるもの
    ではない。
    
■4.インド仏教と先祖祭祀の生死観の違い■

     魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、と
    する古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入って
    きた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。

     インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わ
    るか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。
    だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これ
    が本当の火葬である。

     日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に
    収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なので
    ある。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼
    び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死
    ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地
    下で大切に守るのがお墓である。

     これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の
    「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の
    遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄
    を供養できないと考えるからだ。

     これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よ
    ど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー
    田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋め
    たい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日
    本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されること
    になったという。

     共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと
    「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の
    死生観が根づいている証左である。
    
■5.拒否された仏教の死生観■

     輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は
    焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる
    中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。

     そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼
    び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。

     わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖
    祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的
    抵抗は少なかった。

     それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。
    鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうと
    いう本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却
    できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。

     しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先
    祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓
    を作り、葬儀や先祖供養を行っている。

     今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・
    葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教
    に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人
    の心の奥底に根付いているのである。
    
■6.仏壇に向かう■

     仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国に
    おいては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物
    を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)
    や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。

     日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそ
    こに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各
    家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特
    のものであるそうだ。[1,p191]

     仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊
    が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのもので
    ある。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてき
    て、位牌に依りつく。

     そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して
    「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願
    い申し上げます」などと挨拶をするのである。

     今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先
    祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族の
    ため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これ
    が先祖祭祀に基づく生き方だろう。

     核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏
    壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもととも
    に、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜
    んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だ
    ということを教える何よりの機会である。

■7.「出家」と「在家」の衝突■

     もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点
    は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、
    財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求め
    ることである。

     しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀
    る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の
    霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場から
    は、とんでもない「不孝」と考えられたのである。

     そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生
    活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の
    長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の
    女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた
    「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。

     前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、そ
    の在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日で
    も日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。

     オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積
    めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じ
    て家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。
    これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
    
■8.家族制度は利己心の抑制力■

    「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、
    まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行っ
    て、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。

     しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられ
    て、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族
    の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活
    を送る事も、そもそも不可能なのである。

     さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その
    恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を
    学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義
    務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考
    えない利己主義者になってしまう。

     西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の
    自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会にお
    いては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転
    化する抑止力となってきた。

     わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、
    家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視
    する思潮がある。

     しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力
    となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制
    を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑
    踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。

■9.「なぜ生命は大切なのか」■

     こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切に
    しよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。

     それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生
    命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たち
    から何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教
    えることができるのである。

     先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬
    式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人
    たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫
    へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族
    観が生きている。

     その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片
    付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的
    混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。

     これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(528) 正月行事と先祖の祈り
    正月は子孫に無病息災と豊穣をもたらす歳神様をお迎えする
   時。
b. JOG(374)  いのちの結び〜 現代科学と日本文明
    現代科学の自然観は、日本古来からの世界観に近づいている。 
c. JOG(171) 「まがたま」の象徴するもの
    ヒスイやメノウなどに穴をあけて糸でつなげた「まがたま」
   に秘められた宗教的・政治的理想とは

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 加地伸行『家族の思想』★★、PHP新書、H10

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「日本人の家族観」に寄せられたおたより

                             フレディ・マーキョリーさんより
     日本の宗教観を分かりやすく解説されており、大変勉強にな
    りました。特に、在家仏教興隆の背景の説明が面白かったです。
    個人的には、聖徳太子が日本人が学ぶべきお経として、惟摩経
    と勝鬘経を選ばれた理由の話が、印象的でした。

     それにしても、聖徳太子というお方は、後世の私達になんと
    色々な贈り物をされたのかと、有り難く思います。今年のお盆
    での話のよいネタになりそうです。ありがとうございました
    m(_ _)m

                                     「らきたろう」さんより
     いつも有益な情報をありがとうございます。日本人の家族観、
    それの元になる死生観は種々の所で西洋の人達との違いを見せ
    ていると思います。

     最近の話題では、死刑廃止論議についても、日本人は悪人で
    も「死ねば仏様になる」という考え方があるので「罪を償って
    死ぬ」というのは「被害者」、犯人はともかく「犯人の家族」
    にとっても「悪い死に方ではない」のだと思います。

     日本人の多くは死刑継続について異論がないという調査結果
    は、日本人が生命を軽んじているのではなく、死生観の違いに
    よるものではないかと考えます。人質事件において犯人に屈し
    てでも人質を助けようという日本特有の姿勢からも、日本人は
    生命軽視ではないと思います。

     親や年よりを大切にする気持ちが自分を大切にすることにも
    つながるというのが日本の家族観というものなのですね。

                                               修司さんより
     No.556日本人の家族観において婚姻契約書のことに触れてい
    らっしゃいます。浅学菲才の身ですが、江戸時代には隠居契約
    が広く行われていたと仄聞しております。家督相続させる代わ
    りに、食い扶持を毎月これこれ寄こせ、定期的に隠居所に来て
    肩腰を揉め、などが取り決められていたようです。実行されな
    いときは五人組なり代官所なりに訴えて実行させることができ
    る実効力のある文書だったそうです。

     共働きでなければ満足に子育てもできない現代においては女
    性は家(=夫)に従属するのではなく自活できる経済力を持っ
    てきています。そのような背景のもと婚姻契約書は一定の存在
    感を増していると感じておりました。婚姻生活における相互の
    協力を具体的に記し、反すれば離婚の根拠ともなり、財産分与
    の根拠ともなります。小生はむしろ婚姻契約書は普及すべきで
    はないかと愚考いたしておりました。
    
■ 編集長・伊勢雅臣より

     たしかに日本は法律や契約を重んずる国柄もありますから、
    そう思えば、「婚姻契約書」というのも、まんざら国柄に背く
    ものではないのかも知れません。 

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