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http://blog.jog-net.jp/200809/article_1.html

[トップページ][平成20年一覧][人物探訪][210.68 日韓併合][221.06 日本統治時代]

■■ Japan On the Globe(564)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

          人物探訪: 枡富安左衛門
                      〜 韓国民の精神開発を使命とした日本人
                     日本人校長は韓国人学生に「本当に独立を
                    望むなら学ぶのだ」と口癖のように説いた。
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■1.韓国政府から国民勲章を授けられた日本人■

     1995(平成7)年12月16日、韓国の京郷新聞は次のような
    記事を掲載した。[1,p195]

         15日午前、ソウル市鐘路区三清洞にある中央教育研修
        院の講堂では、国民教育に寄与した功労で、3092人に
        達する国民教育功労者の褒章式が開かれた。

         そのなかで、もうすでに故人になった一人の日本人が、
        私立学校の設立に功績があったとして追贈され、国民勲章
        の牡丹章の受章者に選ばれて注目された。(その人物の名
        前は)枡富安左衛門氏(ますとみ・やすざえもん)。

     国民勲章とは、政治や経済、社会、教育などの分野で韓国民
    の福祉向上と国家の発展に大きく寄与した人物に与えられる勲
    章で、日本の文化勲章に相当する。等級は5段階に分かれてお
    り、その中で「牡丹章」は2番目に高いクラスである。

         故人の娘の石井武子さん(75)が、父親の代わりに勲
        章を受け、参加した人々から熱い拍手喝采を浴びた。・・

         枡富氏は1918(大正7)年から全羅北道富安郡に富安教会、
        富安小学校、高敞高等学校を設立して、この地域の人々の
        精神啓発に一生を捧げた。・・・

         高敞高校出身のハングル学者の韓甲洙さん(83)も、
        「日本人にかかわらず、自分の私財を投じて学校と教会を
        建てるなど、韓国を愛し、この地方の開花に種をまいた先
        駆者だ」と話し、「日本人だというだけで罵倒してしまう
        には、あまりにも大切な方だ」と述懐している。

     1995年といえば、韓国にとっては「光復(植民地からの解放)」
    50年にあたっていた。光復節の8月15日には、旧朝鮮総督
    府の建物が日本統治の象徴として解体撤去され、その式典で、
    金永三大統領が「植民地支配と侵略行為を日本は素直に反省す
    べきだ」と演説した。

     こうした反日感情の中で、日本統治時代の朝鮮に生きた一人
    の日本人が、韓国政府から「国民勲章」を受けるとは、どうし
    たわけか。そこには日韓両国にまたがる人々の強い絆があった。

■2.韓国農業で国利民福を志す■
    
     枡富安左衛門は、明治13(1880)年、福岡県門司市の醤油製
    造業を営む家に生まれた。下関商業学校在学中に父を失ったた
    め、17歳にして家業を継ぎ、店を切り盛りしながら、学校で
    商業を学んだ。

     明治37(1904)年2月、日露戦争勃発と共に、枡富は出征し
    て、食料・物資の調達・分配など後方の兵站部門に従事した。

     出征前から「韓国農業に付きて之れが経営をなして国利民福
    (JOG注:国に利益をもたらし民を幸福にする)を謀る考えな
    り」と、韓国での農業経営の志を抱いていたが、出征の途上で、
    全羅北道(朝鮮半島南西部)の沃野を自らの目で確かめて、そ
    の意思が固まった。

     当時の朝鮮半島は、停滞した李朝王朝のもとで農業も荒廃の
    極みにあり、しばしば飢饉に襲われていた[a,b]。そこに日本
    の進んだ農業技術を導入することで、生産性を飛躍的に上げる
    余地があった。

     日露戦争が終わって帰国した枡富は、明治39(1906)年6月、
    再び全羅北道を訪れた。この地は李朝末期の東学党の乱の発祥
    地であり、この頃でも残党が山野に潜伏して、韓国人地主を襲
    撃したりしていた。そんな中を馬にまたがって、土地を物色し
    て廻る枡富の姿は、農民たちから「無謀な行為」として驚きを
    もって迎えられた。
    
■3.尊敬と思慕の念を集めた農業経営■

     枡富は、この地で4万坪の土地を購入して、農業経営を始め
    た。当時の朝鮮半島での農業は原始的な零細農で、面積当たり
    の収穫も少なかった。また毎年のように洪水や日照りに襲われ
    ていた。

     枡富は半島でも有数規模の水利組合の結成に参画し、近くの
    湖から農業用水を確保して、干ばつや洪水の被害防止に大きな
    成果を上げた。また湖からの水流を利用して発電し、この地方
    に電灯をともすことに成功したという。燃料源として乱伐が進
    んでいた付近の山々の植林事業にも、近隣の日本人農業主や韓
    国人農民と協力して取り組んだ。

     さらに悲惨な生活を送っていた小作人たちの救済のために、
    畑作の改良、緑肥の調整、二毛作、間作などに取り組ませた。
    こうした農業経営を進めた枡富は、小作人を含め近隣住民から
    尊敬と思慕の念を集めた。
    
■4.「韓国の仕事は信仰を元としてやりたい」■

     枡富の農業経営に思想的な基盤を与えたのが、妻・照子の影
    響で入信したキリスト教だった。韓国での農業経営を始めた翌
    年の明治40(1907)年、枡富は照子と結婚した。照子は福岡英
    和女学校(現在の福岡女学院)在学中に、アメリカ人女性宣教
    師と出会い、卒業の年に洗礼を受けていた。

     当初、照子は韓国に渡って新婚生活を営んだが、慣れぬ土地
    で体調を崩し、病気がちになったため、国内に戻って療養生活
    を送るようになった。以後、枡富は韓国を、照子は日本国内を
    本拠地とし、数ヶ月単位でお互いに行き来するようになった。

     照子は枡富にキリスト教入信を勧めたが、枡富は「仏教にも、
    儒教にも良い所はある。すべての宗教の長所をとって、国のた
    めになしたい」と言って、なかなか聞き入れなかった。

     しかし、照子とともに教会通いをしているうちに、ついに折
    れて、「僕も信者になる。韓国の仕事は信仰を元としてやりた
    い」と言った。結婚3年後のことであった。

    「信仰に基づいた農業経営」を目指した枡富は、デンマークを
    自らの事業のモデルとした。この点を次のように語っている。

         850年代(*)に一人の牧師が現れて、信仰に基づいた農業
        と教育の振興を唱え、それが広く国民に受け入れられた。
        その結果、やせてどうにもならなかった土地が開墾され、
        世界にも模範的な農業国になった。[1,p145]

        (*JOG注:[1]では「1850年代」となっているが、960年頃
        デンマーク初のキリスト教王が登場しているので、「850
        年代」の誤りと思われる)

     枡富は、まずは自身の信仰を確かなものとするために、大正
    元(1912)年、神戸の神学校に入学した。韓国での事業は、一時
    的に友人に託した。さらに将来の韓国での教会事業は、韓国人
    自身の手によらなければならないとして、3人の優秀な韓国人
    学生を呼び寄せ、自分とともに神学校に入学させた。この後、
    枡富は多くの韓国人学生に奨学金を出して、日本やソウルの大
    学、神学校で学ばせるようになった。

■5.私立小学校の設立■

     神戸の神学校で学んでいる間に、枡富は韓国の農場の近隣で、
    子ども向けの学校として「私立興徳学堂」を設立した。当時の
    韓国全土には、370万人の就学年齢の児童がいたが、寺子屋
    のような私塾を含めても、18万5千人、全児童の5%しか、
    教育を受けていなかった。

     当初は、村人たちも子供を通わせるのをいやがり、入学希望
    者は非常に少なかった。経済的な理由からであろう。そこで枡
    富は、児童全員に教科書やノート、鉛筆などを無料で提供し、
    授業料までもただにした。村民たちは、こうした枡富の教育へ
    の熱心さや、正規の小学校と変わらない充実した教育内容ぶり
    を知って、すすんで子供たちを学堂に通わせるようになった。

     神戸神学校で学んでいた3人の奨学生が大正5(1916)年に卒
    業して教員に加わった。彼らは学校に寝泊まりして、教育内容
    の充実に智恵を絞った。

     こうした努力が実って、大正8(1919)年、興徳学堂は学校法
    人としての認可を受け、私立吾山普通学校と改名した。当時、
    普通学校は1郡に1校を原則として設立が進められていたが、
    いち早く普通校を持てた高敞郡は、他地域の住民たちから非常
    に羨ましがられたという。
    
■6.学校存続に立ち上がった郡民たち■

     大正7(1918)年、枡富は所有する土地約2100坪を使って、
    「私立吾山高等学校」を設立し、中等教育に乗り出した。早く
    も2年後に、正式な学校法人としての認可を受け、「吾山高等
    普通学校」に昇格した。当時の高等普通学校は、朝鮮全土でも
    12校しかなかったところに、近隣6道での初めての高等普通
    学校が人口まばらな寒村に出現したことは、大きな話題となっ
    た。

     ここまでは順調に成長してきたが、第一次大戦後の経済不況
    の波が、枡富の事業経営を直撃した。今まで農業で得た利益を
    学校経営につぎ込んできたのだが、それも難しくなった。

     枡富は、大正11(1922)年3月31日限りで、吾山高等普通
    学校を廃校させざるをえない、と発表した。生徒全員は他の学
    校に転校させ、その学費と交通費を負担することとした。

     しかし、この地方ではかけがえのない高等普通学校を潰して
    はならない、と高敞郡守・金相鉛の呼びかけのもと、地元郡民
    たちが立ち上がった。もともと独立意識の強い地方で、「自主
    独立は教育を通じての知性の開明が伴わなければならない」を
    合い言葉に、学校存続を決議した。

     郡民は募金活動を展開し、約30万円を集めた。意気に感じ
    た枡富も生徒たちへの弁済にあてるつもりだった1万5千円を
    寄付した。枡富はしばらく校長、理事長の立場に留まることと
    なった。

     同時に人里離れた吾山から郡庁のある高敞に移転され、こ
    こに「高敞高等普通学校」として再スタートした。大正15
    (1926)年、校舎を近代的な赤レンガ造りの2階建てに改築した
    際の落成式には斎藤実・朝鮮総督が参列した。斎藤は「文化政
    治」を標榜していた。枡富と親交があり、人作りを最優先した
    枡富の事業に共感を抱いていたのだろう。

     吾山普通学校も、枡富は敷地、校舎、施設のいっさいを当局
    に寄付し、富安公立普通学校と改称された。
    
■7.「本当に独立を望むなら学ぶのだ」■

     枡富は「本当に独立を望むなら学ぶのだ」と口癖のように生
    徒たちに説いた。韓国の人々の独立への思いに共感し、そのた
    めには現地の青年たちが将来様々な方面で活躍し、自分の力で
    発展できるよう、生徒たちの教育に心を砕いた。

     その精神は、高敞高等普通学校にも受け継がれた。抗日運動、
    独立運動に参加して公立学校を退学させられた生徒たちを進ん
    で受け入れ、勉学の場を提供した。やがて高敞は「民族運動揺
    籃の地」として、朝鮮全土に知られるようになる。

     冒頭の新聞記事に登場したハングル学者の韓甲洙氏もその一
    人だ。昭和5(1930)年に光州学生独立運動に参加して、それま
    で学んでいた学校から退学処分となり、監獄出所後はどこの学
    校も編入学を認めようとしなかった。風の噂をたよりに高敞高
    等普通学校の門を叩くと、応対に出た職員は「韓国のために戦
    う学生は、勉強させなければならない」とただちに入学を認め
    てくれた。

     韓甲洙氏は、教鞭をとっていたハングル語学者・鄭寅承に出
    会い、ハングル研究の道を志す。後に韓国で初めてのハングル
    辞典の編纂委員の一人となり、戦後は李承晩大統領の秘書室長
    も務めるなど、韓国の政界、教育界の中枢で活躍した。
    
■8.「私の使命は韓国民の精神開発」■

     昭和10(1935)年に高敞高等普通学校を卒業した一人が鄭成
    沢氏である。枡富はすでに日本に戻り、その前年に亡くなって
    いたので、直接の面識はなかった。鄭氏は卒業後、教育者の道
    を歩み、戦後の1966(昭和41)年、富安国民学校の校長に任命
    された。

     鄭氏が教育の一環として、生徒たちに学校の歴史を調べさせ
    たところ、同校が枡富の手によって設立されたことを初めて知っ
    た。自分でも関連資料を探したところ、近隣の老人が『枡富安
    左衛門追想録』と題した分厚い本を差し出した。枡富の夫人・
    照子が編纂したもので、枡富自身の手紙や文章が収録されてい
    た。それを読んだ鄭氏は深く心を動かされた。

     鄭氏は翌年の創立記念日に、全校児童にこう語りかけた。

         皆さんは、日本人が建てた学校に通っている。韓国民を
        熱烈に愛した日本人が、その熱情に動かされて建てられた
        学校に通っているのだ。皆さんは、それを誇りに思って貰
        いたい。

     鄭氏は枡富の命日に追悼式を行い、さらに私費を投じて顕彰
    碑を建てた。「枡富先生教育功労碑」としたかったが、当時の
    反日感情の中では打ち壊される恐れもあったので、「学校設立
    記念碑」とし、裏面に設立の歴史として、枡富の事績を記した。

     しかし、反日教育を受けた若い職員らから「倭人を称えるな
    ど、もってのほかだ」と批判され、その一人が「親日校長」な
    どと非難する投書を教育委員会などに送り続けた。鄭氏は、学
    校や同僚にも迷惑がかかるとして、教職を去った。

■9.「私の使命は韓国民の精神開発」■

     1995(平成7)年、枡富の60回忌の年に、鄭氏は韓甲洙氏
    らとともに再び立ち上がった。学校を設立した外国人が韓国政
    府から相次いで表彰されていたので、同様の政府表彰を申請し
    たのだった。「日本人を表彰するなどもってのほか」と担当の
    役人たちは迷惑そうな表情を隠さなかったが、韓氏の人脈を通
    じて粘り強く説得し、ついに大統領の決裁がおりたのである。
    こうして冒頭の「国民勲章牡丹章」授賞が実現した。

     富安国民学校の校庭には、開校時に植えられたアカシアの苗
    木は今は巨木となって、子供たちに格好の日陰を提供している。
    校庭の片隅には、鄭氏の建てた石碑が今も残っている。その側
    面には、鄭氏の好んだ枡富の言葉がさりげなく刻まれている。

         私の使命は韓国民の精神開発であり、私のすべてのもの
        は、即ちそのためにあるだけだ。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(056) 忘れられた国土開発
    日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追
   いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開
   発が図られた。
b. JOG(204) 朝鮮殖産銀行の「一視同仁」経営
    朝鮮農業の大発展をもたらしたのは、日本人と朝鮮人の平等
   ・融和のチームワークだった。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 黒瀬悦成『知られざる懸け橋―枡富安左衛門と韓国とその時代』★★
   朝日ソノラマ、H8

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「枡富安左衛門 〜 韓国民の精神開発を使命とした日本人」
  に寄せられたおたより

                                               竹林さんより
     枡富がデンマークを事業のモデルとした件についてですが、
    「1850年代―」で合っているのではないでしょうか。1850年代
    ごろにデンマークでは、エンリコ・ダルガスという軍人(牧師
    ではありませんが)が国民運動を展開し、信仰と農業・林業を
    基軸として、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争による祖
    国の荒廃からの復興を指導しました。1911年に内村鑑三が『デ
    ンマルク国の話』でこのことについて語っており、枡富はこれ
    に影響を受けたものと思われます。
 
    青空文庫 デンマルク国の話 内村鑑三

© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.