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■■ Japan On the Globe(573)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

      地球史探訪: 近衛文麿の戦い(下)
                  〜 命も名誉も捨てて近衛が護ったもの
    
                   「見えない力」が、近衛を戦争犯罪者として
                   追い詰めていった。
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■1.「共産革命にまで引きずらんとする意図」■

     昭和20(1945)年2月、近衛は3年ぶりに直接、天皇に言上
    できる機会を得て、上奏文を読み上げた。

    「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存知候」との断言で始め、
    「最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべ
    き共産革命に候」と述べた。

     ソ連は東欧諸国において着々と共産主義政権を樹立して、勢
    力を広げつつあった。東アジアにおいても、モスクワから野坂
    参三(後に日本共産党名誉議長となったが、ソ連スパイだった
    事が発覚し、除名処分)が中国共産党に合流して、日本での共
    産革命の準備を始めていた。

         少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものな
        りと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここに
        ありと存じ候。・・・

         これら軍部内一味の者の革新論の狙いは、必ずしも共産
        革命に非(あら)ずとするも、これを取巻く一部官僚及び
        民間有志(之を右翼というも可なり、左翼というも可なり、
        所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けたる共産主義者な
        り)は、意図的に共産革命にまで引きずらんとする意図を
        包蔵しており、無智単純なる軍人、これに踊らされたりと
        見て大過なしと存候。・・・[1,p353]

     本土決戦を叫ぶ軍人たちは、日本を徹底的な壊滅状態に追い
    込んで革命をもたらそうとする共産主義者の戦略に踊らされて
    いる、と近衛は見た。

         戦局への前途につき、何らか一縷(いちる)でも打開の
        望ありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論
        ずれば、勝利の見込みなき戦争をこれ以上継続するは、全
        く共産党の手に乗るものと存じ候。・・・

     一刻も早く終戦を実現することが、日本を共産革命から救う
    道だ、と近衛は上奏したのである。

■2.「身命を賭して参ります」■

     天皇からのお召しで、近衛が再び参内したのは7月12日の
    ことだった。髪は乱れ、顔色も青ざめた天皇の姿が、近衛の胸
    を強く打った。「ソ連に使して貰うかもしれないから、そのつ
    もりに頼む」と天皇は言われた。

     共産主義のソ連は信用できない相手であり、和平を講ずるな
    ら米英との直接交渉しかないと主張してきた近衛にとって、ソ
    連への特使を頼まれることは考えてもいなかった。

     しかし、やつれた天皇の姿を前にしては、近衛はこう言わざ
    るを得なかった。「容易なことではないと存じますが陛下のご
    命令とあれらば、身命を賭して参ります」

     ここは討ち死にする覚悟でスターリンと会わねばなるまいと
    近衛は肝に銘じた。周囲の者には「自分一身はどうなっても構
    わぬから、ただ皇室だけは安泰にしたい」と漏らした。

     日本側の特使派遣の打診に対し、モスクワからは回答を引き
    延ばした挙げ句、終戦の斡旋依頼は具体性を欠くから回答でき
    ない、と言ってきた。

     スターリンは2月に行われた米大統領ルーズベルト、および
    英首相チャーチルとのヤルタ会談にて、ドイツ降伏後3ヶ月以
    内での対日参戦を約束しており、すでにその準備を進めていた。

     近衛のルーズベルトへの和平交渉呼びかけも、このスターリ
    ンへの和平仲介依頼も、対日戦争を決意していた相手に対して
    行われたわけである。近衛の虚しき奮闘は、昭和日本の姿その
    ままであった。

■3.マッカーサーへの建言■

     終戦は、鈴木貫太郎首相が昭和天皇の御聖断を引き出して、
    かろうじて実現できた。替わって登場した東久邇宮内閣では、
    宮の希望もあって、近衛が副首相格として入閣した。

     占領軍を率いてやってきたマッカーサーに、近衛は昭和20
    (1945)年9月13日、そして10月4日と矢継ぎ早に会談を持っ
    た。近衛としては、今後の日本の将来を左右するマッカーサー
    に正しい認識を持って貰いたい、という一心だったのだろう。
    二度目の会談で、近衛はこう説いた。[1,p380]

         軍閥と極端な国家主義者が、世界の平和を破り、日本を
        今日の破局に陥れたことには一点の疑いもないが、皇室を
        中心とする封建的勢力と財閥とが演じた役割とその功罪に
        ついては、米国に相当観察の誤りがあるのではないかと思
        う。

         彼らは、軍国主義者と結託して今日の事態をもたらした
        と見られているようだが、事実はその正反対で、彼らは常
        に軍閥を抑制するブレーキの役割をつとめたのである。軍
        閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者
        は、実にマルキシストである。日本の今日の破局に陥れた
        ものは、軍閥と左翼の結合した勢力であった。しかるに日
        本では、財閥と封建的勢力除いて安定勢力はない。・・・

         今日直ちに一挙にこの安定勢力を除去すれば、即ち日本
        がすぐ赤化に走るということを強く指摘したいのである。

■4.マッカーサーの激励■

     マッカーサーは近衛の話を聞き終わると、「有益でかつ参考
    になった」と言い、こう激励した。

         公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。も
        し公がその周囲に自由主義分子を糾合して、憲法改正に関
        する提案を天下に公表せらるるならば、議会もこれについ
        てくることと思う。[1,p380]

     支那事変と対米英開戦を阻止できなかったことに深く責任を
    感じていた近衛は、憲法改正こそ自分の責任を果たす道と奮い
    立ったであろう。早速、総司令部のアチソン顧問に相談しなが
    ら、京大の憲法学者佐々木惣一博士らブレーンを集めて、草案
    作りに着手した。

     マッカーサーとの会見の翌日、東久邇宮内閣は総辞職し、第
    4次近衛内閣を望む声も強かったが、幣原喜重郎が後継首相と
    なった。外相として内閣の要をなしていた吉田茂は残念がった
    が、「この次のために近衛公はとっておいた方がいい。いずれ
    にしても近衛公は日本にとってかけがえのない人だから」と近
    衛を推した人々を励ました。

■5.運命の暗転■

     しかし、それから1ヶ月も経たない11月1日、占領軍総司
    令部は近衛に対して、手のひらを返したような仕打ちに出た。
    「憲法改正は東久邇内閣の副首相としての近衛に委嘱したこと
    で、内閣が交替した以上、その委嘱は当然、解消された」とい
    うのである。

     マッカーサーからの委嘱は10月4日であり、内閣交替はそ
    の翌日であった。それ以降も総司令部のアチソン顧問が相談に
    乗って、新憲法草案を検討してきたのであるから、この声明は
    いかにも不自然なものであった。

     11月9日には米政府から派遣された戦略爆撃調査団によっ
    て近衛は駆逐艦「アンコン」に連行され、長時間の取り調べを
    受けた。尋問から帰ってきた近衛はこう漏らした。[1,p414]

         取り調べはひどいものでしたよ。全く検事が犯罪人の調
        書をとるようなものだった。私も戦犯で引っ張られますね。

     この予想どおり、12月6日には総司令部から戦犯としての
    出頭命令が出た。その出頭期限日の前日、12月15日晩に近
    衛は服毒自殺を遂げたのである。

     マッカーサーから「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激
    励された10月4日から1ヶ月も経たないうちに、近衛の運命
    は暗転した。そこにも「見えない力」が働いていたのである。

■6.「日本史研究者」ハーバート・ノーマン■

     10月4日、ちょうど近衛がマッカーサーに励まされていた
    頃、東京の府中刑務所では総司令部の対敵諜報部課長ハーバー
    ト・ノーマンによって解放された徳田球一や志賀義雄ら共産党
    幹部16名がバンザイを叫んでいた。

     ノーマンはカナダ人宣教師の子として軽井沢で生まれた。後
    にハーバード大学で日本史を研究している間に、日本からの留
    学生・都留重人と出会い、マルクス主義の同志として親交を結
    んだ。ノーマンは実兄に向けた手紙で次のように都留のことを
    紹介している。

         ところで、ここにいる、僕と同じような考え方をしてい
        る日本人の友人について、あなたに話したでしょうか。彼
        は僕が今まで会った中で最も進んだ、有能なマルクス主義
        者の一人で、、、[1,p387]

     戦争の最中、1944(昭和19)年に、ノーマンはカナダにて
    『日本の将来』という報告書を書き上げた。そこにはこんな一
    節がある。

         それにしても、天皇こそ日本帝国主義の全組織にとって
        の要石なのであるから、彼を温存することは日本の反動勢
        力の全機構を維持することに他ならない。・・・要するに
        日本を非武装化しても天皇制が残されている限り、日本は
        全世界にとって解決されない危険な難題として残ることに
        なるだろう。[1,p401]

     こういう「日本史研究者」が、その日本に関する知識と日本
    語能力を買われて、占領軍総司令部に入り込んでいたのである。
    当然、その目的は占領軍の権力を使って、日本での共産革命を
    実現することであった。

■7.ノーマンの近衛誹謗■

     しかし、マッカーサーに共産革命の危機を説いた近衛が、新
    憲法の草案作りに着手した事にノーマンは重大な危機感を抱い
    たはずである。このままでは共産革命が頓挫してしまう。

     そこでノーマンは「戦争責任に関する覚書」を作成して、近
    衛を戦争犯罪者として弾劾する文書を作成した。

         ある人間が流血と戦争と戦争にともなうあらゆる不幸を
        そそのかしておきながら、あまりに「優雅」で自分の仕出
        かした結果を見つめたり認めたりできないということは、
        実に奇妙で不愉快である。・・・

         一つ確かなのは、かれらが何らか重要な地位を占めるこ
        とを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主
        義的運動を阻止し、挫折させてしまうことである。
        [1,p397]

     持って廻った文体に燃え上がるような憎しみを込めて、ノー
    マンは近衛を戦争犯罪者として弾劾した。

■8.東京裁判の予行演習■

     同時期にニューヨーク・タイムズ紙に、次のような投書が載っ
    た。

         近衛を現在、その地位にとどまらせておくのは、日本の
        降伏以来、極東で起きているもっとも危険なことであり、
        われわれが犯した最悪の失敗である。[2,p170]

     寄稿者は太平洋問題調査会の機関誌への寄稿メンバーだった。
    この会にはソ連工作員も暗躍していたことが後年明らかになっ
    ており、ノーマンもカナダ代表として参加していた。あきらか
    にノーマンの近衛追い落とし工作の一環である。

     同様の趣旨の社説が同紙に掲載され、それがまた朝日新聞に
    よって国内にも紹介された。

     ノーマンの近衛追い落とし工作の極めつけが、戦略爆撃調査
    団による取り調べだった。ノーマンの同志・都留重人もこの調
    査団に入っていた。

     そこでは、近衛は首相として「中国併合」を狙った中心人物
    であり、また9月6日の御前会議は、対米交渉を装いながら戦
    争準備を進めたものとされた。近衛の必死の和平交渉の努力は、
    正反対に解釈されていた。まさに東京裁判の予行演習であった。

     こうしたノーマンの暗躍によって、総司令部は近衛を憲法草
    案作成の仕事から外し、さらに戦争犯罪者として出頭命令を出
    したのである。

■9.命も名誉も捨てて■

     近衛は戦略爆撃団の尋問を受けて、米国が史実をねじ曲げて
    でも、すべての戦争責任を日本側に押しつけるつもりだ、とい
    う意思を察した。そして、その首謀者として自分を血祭りに上
    げようとしている陰謀を感じ取った。帰りの車の中で、近衛は
    「やられた、やられた」と独り言を繰り返した。[2,p21]

     しかし、米国が日本を侵略国家に仕立て上げようとしている
    以上、誰かがその首謀者として犠牲にならなければならない。
    首相であった自分がすべての罪をひっかぶれば、そこで天皇へ
    の追求を遮ることができる。近衛は自決の前日に、「もし陛下
    に戦争責任の累が及ぶのだったら、臣下として生きている訳に
    はいかぬ」と二度も繰り返した。[1,p424]

     こうして近衛はすべてを黙したまま、服毒自殺を遂げた。朝
    日新聞社説は「死者に鞭打つ気持ちはないが」と前置きしなが
    ら、「近衛公が政治的誤りを犯し、戦争責任者たりしことは一
    点疑いを容れない」と死者に鞭打った。近衛の狙い通りである。

     近衛はノーマンの工作を逆手にとって、戦争犯罪者として罪
    と汚名を引っ被ったまま、黙ってこの世を去った。そしてその
    志どおり、皇室は安泰を得た。ノーマンの皇室廃止と日本共産
    化の野望は、近衛の自決によって頓挫したのである。

     800年近くも皇室をお守りしてきた近衛家の当主としての
    責任を、近衛文麿は自らの命も名誉も捨てて果たしと言える。

     ちなみにノーマンは、1952年にアメリカ上院司法委員会によっ
    てソ連のスパイであった可能性を指摘され、カナダの外交官と
    いう身分からエジプト大使に転身して追求を逃れたが、1957年
    カイロで謎めいた投身自殺を遂げた。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(297) 近衛文隆 〜 ラーゲリに消えたサムライ
    ソ連での獄中生活11年余。スパイになる事を拒否し続けて、
   ついに屈しなかった青年貴族。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』★★、
   日本経済新聞社、H18
2. 鳥居民『近衛文麿 「黙」して死す』★★、草思社、H19

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■「近衛文麿の戦い(下)」に寄せられたおたより

                                           「こば」さんより
     近衛文麿には弱腰なイメージしか持っていなかったのですが、
    今回のメルマガで敗戦当時の憂国の国士の一人だったのだなと
    改めて気づかされました。

     それにしても当時の共産勢力は恐ろしい勢いがあったのです
    ね。右翼の皮をかぶった共産主義者が居たことも信じられませ
    ん。その彼らは、今は何にその活路を見出しているのでしょう
    か?捕鯨に対する某有名団体の犯罪に近い行動を見るに付け、
    何か関連性を考えてしまいます。

     環境活動には反対ではありませんが、対して保守陣営も世界
    的な糾合があっても良のでは?なんて。

                                   「縁起空 大阪」さんより
     どの様な経緯で斯様な認識が定着したのか最早想い出せなく
    なりましたが,東条英機,近衛文麿等が日本軍国主義の主導者
    との理解をずっと保ってきました.それが全く間違った歴史認
    識だったということをようやく知ったのでした.昭和27年生ま
    れの私が50代の半ばになってようやく…です.この50年間
    はなんだったのだろうと,戦後教育とマスメディアの影響力に
    ゾッとする想いでした.

     私は新潟県出身,つまり山本五十六と同郷です(地域は異な
    りますが).私の子供時代は戦艦大和を初めとして,軍艦,戦
    闘機などの絵を描くことや,漫画を含め子供向け太平洋戦史を
    読むことが流行っておりました.「開戦百日の栄光」という言
    葉が今も脳裏に焼き付いています.私が読んだ本は今思えば良
    質の本であり,戦争は悲劇ではあるが,日本軍は礼節と規律を
    重んじる軍隊であったという印象は残り続けました.しかし,
    政治は軍国主義まっしぐらという認識が何時の間にか頭の中に
    できあがっていたようです.

     父は戦争の話を一度だけ話してくれましたが,たった一度だ
    けであり,その後一切話してはくれませんでした.輸送船でフィ
    リピンに向かい,上陸時は「双胴の悪魔」と恐れられたロッキ
    ードP38の機銃掃射で,周囲の戦友が波打ち際で次々と死ん
    でいったそうです.父はかろうじて助かり,フィリピンで終戦
    を迎え,日本に帰還しました.終戦後は田舎でも食べるものが
    なく,その辺に生えている草を取って口にすることも度々だっ
    たそうです.

     国民は斯様な苦しい時代を,本メルマガで述べられている様
    に汚名を着せられ侮辱されたまま60年を生きてきたのです.
    そうであるにも拘らず,今も自虐史観を国是として加害者・犯
    罪者意識を国民に固着させ続けている政治家諸氏とはいったい
    何なのでしょうか.

     極論を申し上げれば,戦後,国民全てを言わば精神的な自殺
    に追い込んできた幾多の政治家こそが断罪されて然るべきと私
    には感じられてなりません.(政治家のみならず,戦後教育を
    考えると日教組も同罪・共犯だと思います.)

     村山談話,堂々と撤回したらよいではないですか.「自民党
    も一緒になって決めたのだから…」という「言い訳」など聞き
    たくもありません.「己の保身を考える様な政治家」に,戦争
    当時の国の責任者を批判する資格など断じてありません.塚本
    氏の如く政界を引退されてなお私財を投げ打ってでも真実を知
    らしめようと努力されている方こそ現役を続けて頂きたいもの
    です.

     自身の命を賭して行動し死んでいった方々を「犯罪者」と見
    做してきた歴代首相とその内閣及び国会議員はすべて「恥を知
    れ!」と敢えて言いたいです.政治家は先ず「己が恥晒しであ
    ることを覚悟の上で申し上げます」という言葉を自身の心に刻
    んでから意見を開陳するよう希望するものです.それが,「戦
    犯」として殺されていった方々と今を生きている国民に対する
    せめてもの礼儀と思う次第です.

                                              kimioさんより
     小生は、戦後に学校へ入学したためか、肝心の現代史が丸ま
    る欠落しているものですから、残念ながら、何が正しいとかよ
    くないとか言える立場にございません。

     しかし、戦後の社会に生きてきて、痛切に思うことは、国家
    観が不足していますね。誰もが憲法を論じますが、それは国が
    存立していてこそ、成り立つものですよ。それを国家権力を否
    定しながら、一方でその国が定めた憲法を根拠として言論・思
    想の自由を主張しているという矛盾を感じます。政治が良くな
    いと言おうが、国が外国から攻められたなら、やはり国を守る
    ということが先決問題だと思います。

     しかるに思想の自由を保証している国を批判するにもならず、
    他国の自国批判を真に受けて先方のお先棒を担ぐ輩がおるとい
    うこと自体こまった話ですね。売国奴という言葉がございます
    が、そういう輩がかなり多くいるということ、これはまた、外
    国のスパイ活動をしている人間も多くいるということにつなが
    るのではないかと懸念します。

     彼らは、国を売っても自分の生活が豊かであればよいという
    のでありましょう。

     さて、戦争という場においては人間の理性が曇ります。そう
    いう場において、外国のスパイに踊らされた人びとが国の権力
    中枢にいる人を狙い打って、個人的に嬉しがっている姿は、小
    説の世界だけではないのですね。いつの時代においても、誰か
    が犠牲になって国体を守ってきたように感じます。

     やはり、真剣に生きるということは命がけだと改めて認識し
    ました。

     伊勢様のご努力がより多くの日本人に、将来とも安寧な日本
    国を守る人材育成に寄与することを期待して止みません。小生
    も及ばずながら、何かを心掛け、継続した努力をしなければな
    らないと、思います。

                                             Kokoroさんより
     近衛文隆氏の事は数年前、細川元首相の弟、近衛氏のご子息
    (今年の歌会始めで召人?をされていた方、名前をちょっと忘
    れてしまいました)がレポーターで氏の過ごされた足跡を訪ね
    る番組があり、初めて知りました。その時米国の大学のゴルフ
    部のキャプテンだったとか、あの時代にアメリカで同格に向こ
    うの方々と渡りあっていた事、又上海で戦争終結の為奔走れて
    いた事など、その番組で知りました。

     シベリア抑留については詳しくは触れられていませんでした
    ので、後日その不審な死については別の資料で知る事になりま
    した。いただきましたメール配信で、獄中での日本人として誇
    りを最後まで持ち過ごされていた事や、過酷な環境の中でロシ
    ア語の習得を自らに課し毎日2時間の勉強をされた、とありま
    したが、その強靭な精神力にはただただ驚くばかりです。そこ
    までの劣悪な環境下でありながらそこまで近衛氏を支えたもの、
    その力の源はなんだったのでしょうか?

     皇族でこのような方が戦後の日本に存在されたなら北方領土
    交渉も今とは全く違っていたのではないでしょうか。現在の政
    治家と言われる方々の情けない外交交渉を見ていますと、いま
    さらながら日本にとって大きな大きな損失だった、との思いを
    強くします。 

© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.