日韓両国民への8つの提言8

慰霊を通じ恩讐を超えていこう (下)

 〜敵の戦歿者を慰霊した昭和の日本人〜


名越二荒之助
日韓2000年の真実


  中国大陸に樹を植えた緑の連隊長

 吉松喜三大佐は、支那事変当時、戦車連隊長として中国大陸で活躍した人でした。英霊は緑の樹に宿ると信じて、作戦が終わると「弔日支両軍戦歿勇士之霊 興亜祈念樹」という慰霊標をたて、その周囲に樹を植えました。

 そんなことを繰り返しているうちにやがて吉松大佐は、中国人からも「緑の連隊長」と呼ばれるようになりました。昭和十五年から復員する二十一年まで、吉松連隊長が大陸各地で植えた樹は実に四百万本に達し、敵の蒋介石総統も感謝したほどです。 吉松さんは戦後も靖国神社の銀杏を苗木にして頒布することを始めました。「靖国」とは青を立てて国を安んずることだというのが、吉松さんの信念でした。

 戦後、育てた苗木は百六十万本に達し、国内はもとより世界各国に植えられました。ドイツ海軍が靖国神社に参拝した時、吉松さんが育てた靖国の銀杏の苗木三本を貰い受け、キール軍港。慰霊塔(高さ八十五メートル)の横に植えました。靖國の銀杏は大きく育ち、現在、銀杏の側にはその「いわれ」を日独両語で刻んだ銅版をはめこんだ碑が建っています。

 ドイツはこのお返しとして樫の樹三本を日本に贈ってきました。靖国神社境内に建つ靖国会館入口左にそびえているのがそれです。

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緑の連隊長と呼ばれた吉松喜三大佐 中国大陸で慰霊植樹を行う吉松連隊 ドイツから贈られた樫の木の前に立つウェルナール大佐(写真中央)。右は、湯浅・靖國神社権宮司(当時)

 後日談となりますが、戦後五十一年目の終戦記念日を前にした平成八年八月十三日、ドイツ大使館付駐日武官のロベルト・ウエルナー陸軍大佐が、イラン大使館のM・シャケリ一等書記官とともに靖国神社に正式参拝しました。参拝した後、ウエルナー大佐は「他の国の戦歿者モニュメントは退役軍人たちが音楽などを演奏し、賑やかだ。しかし、靖國神社は静かで、慎ましやかで、他のところとは比べようがないほど感動的だ」という感想を漏らしました。その後ウエルナー大佐は、ドイツから贈られたこの樫の樹の前に立ち、深い感慨にひたっていました。

 オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍

 昭和十六年(一九四一)十二月八日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。それは破竹の進撃であつて、翌年の一月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。 シンガボールの中学二年用教科書(Social and Economic History of Modern Singapore)は、その時の模様を次のように書いています。

 〈オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。
 そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。
 日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために、二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。〉

 私はこの事実があったかどうかマレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏に質ねました。杉田氏は、「当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている」とのことでした。続いて当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(ASEANセンター代表)に聞きました。氏はこう返答してきました。

 「そんなことはいくらでもあった。第一山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、 英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦 線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は 戦意が乏しく、逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は十二月十日に英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではない か。
 日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。」

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 シンガポールの教科書にまつわる話はまだあります。私が昭和六十三年五月にオーストラリアを訪ねた時、シンガポールの教科書を持参しました。現地の戦友会が歓待してくれたので、この秘話を紹介しました。しかし、彼らはオーストラリア軍の勇戦も日本の美談も知りませんでした。それだけにこの話を聞いて快哉し、「日豪友好の絆がもう一つ増えた」とたいそう喜んでくれました。

 キスカの十字架−五十年目の日米合同慰霊祭

 大東亜戦争の戦域は、遠くアリューシャン列島にまで及びました。日本は昭和十七年六月には、アッツ・キスカ両島を占領しましたが、翌年の五月十二日には米軍がアッツ島に上陸作戦を強行してきました。激戦は十七日間続き、同月の二十七日、遂にアッツ島守備隊は玉砕(二千余人)しました。米軍は更にはキスカ島上陸を狙って空襲を続けました。

 七月二十五日のことです。米軍のP四〇戦闘機一機が、高射砲陣地を上空から攻撃し、突入自爆しました。それに感動した日本軍は、そこに十字架を建て、板製ながら、英文で次のような墓碑銘を書いたのです。

〈Sleeping here a brave hero who lost youth and happiness for his Motherland!
 July 25, 1943                 Nippon・Garrision〉

 この英文を書いたのは、大浜信用少尉(後に早稲田大学総長となった大浜氏の甥、健在)でした。翻訳すれば次のようになります。

 〈青春と幸福を母国のために進んで捧げた英雄、ここに眠る。
  一九四三年七月二十五日            日本守備隊〉

 その四日後の七月二十九日、日本守備隊(隊長は樋口季一郎大佐、後中将)五千六百名は、濃霧を利用して全員キスカから撤退しました。見事なる奇蹟の撤収であり、そのスリリングなドラマは戦後、映画『キスカ』に再現されました。 米軍は撤収に気づかず、日本軍のいない島に向つて猛爆を繰り返しました。八月十五日、三万四千の兵力をもって上陸作戦を開始しました。上陸してみれば日本兵は一人もおらず、この十字架と英文の慰霊板が立っているだけでした。
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 米国シャトル市に住む山男のシャーマン・シャトル氏(軍曹)は、キスカから日章旗を持ち帰りました。日章旗には「贈・春日部薫(かすがべかおる)君」とあり、中京山岳会から贈られたことが判りました。春日部氏は名古屋に住んでおり、キスカでは通訳官でした。日の丸がとり持つ縁で、日米のキスカ会の交流が始まりました。

 平成五年(一九九三)八月十五日は、米軍がキスカに上陸して五十年目に当ります。米国側がシャトル氏を中心に十名と、日本側が春日部氏と菅野豊太郎氏〈米兵を丁重に葬った一人、当時分隊長、山形県在住)の二名で計十二名がキスカに集りました。

 日本で言えば「終戦記念日」、米側にとっては「キスカ上陸記念日」に、十二人はかって十字架が建っていた場所で、仏式とキリスト教方式で慰霊祭を行ないました。一行はその後五日間、現地においてテントで共同生活を営みながら、戦跡を訪ね、友好を深めたといいます。

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 平成5年8月15日、日本軍が戦時中に十字架を建てた場所で行った日米合同慰霊祭。仏式で合掌しているのが菅野豊田郎氏(左)と、春日部薫氏。米軍右側がシャーマン・シャトル氏。

 三国旗掲揚慰霊塔

 高野山奥の院の北ボルネオ戦歿者墓所には、「三国旗掲揚慰霊塔」が建てられています。その掲示板には、次のように書かれています。

 〈第二次世界大戦に於て、北ボルネオ(現マレイシア、 東マレイシア)に派遣され、豪軍(オーストラリア)と戦い戦没された両軍の将兵、並に殉死された現地住民の総霊を祀ってあります。乞ふ合掌〉

 この掲揚塔には毎日、日本、マレーシア、オーストラリアの国旗が交互に掲げられ、敵味方を越えて三国の戦死者を慰霊顕彰しているのです。

nikkann_701.gif (38807 バイト) 三国旗掲揚
慰霊塔
(高野山
奥の院)

 ナイチンゲール精神の拡大を

 ここに紹介したのは、昭和の時代に日本人が残した業績の中で、私が確認できた事柄に限りました。そのほかにも捜してゆけば、一冊の本ができるくらいに集まるでしよう。 韓国との間にもこうした感動の秘話がたくさん生れました。

 秀吉の朝鮮出兵の頃は、日本軍は各地で敵兵の屍を埋めて弔いました。このことは朝鮮の当時の指導者である柳成龍が書いています(112頁)。薩摩藩の島津義弘も帰国後、高野山奥の院に「高麗陣敵味方慰霊塔」を建立しました(113頁)。第二次大戦後になると、安重根の絶筆を大きな記念碑として建立しましたし(大林寺、248頁)、大邸市には日韓協力で「第二次大戦韓国人犠牲者慰霊碑」と観音像を建てました(114頁)。平成八年には毛谷村六助と朱論介の慰霊碑と観音菩薩像を、日韓協力して福岡県添田町に建立しました(114頁)。

 戦場にあって負傷した将兵を(敵味方を超えて)看病するのが、ナイチンゲール精神といわれます。それでは戦争中といえども敵の勇戦を讃え、敵の戦死者を弔う精神は何と名づけたらよいでしょうか。

 これは決して日本だけの独占物ではありません。第二次世界大戦中、日本海軍はオーストラリアのシドニー軍港を特殊潜行艇という小さな潜水艦で奇襲攻撃しました。オーストラリア軍はその勇気に敬意を表し、特殊潜航艇を引き揚げ、昭和十七年五月三十一日、戦死した四人の日本軍人(松尾敬宇大尉ら)を海軍葬の礼をもって弔いました。海軍葬の推進役になつたシドニー地区海軍司令官のモアヘッド・グールド少将は、「これらの日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰もが認めるべきであり、一様に讃えるべきである。このような鉄の棺桶に乗つて死地に赴くには、最高度の勇気がいる。これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って、祖国に捧げるオーストラリア人が、果して何人いるであろうか」と弔辞を述べました。

 この海軍葬の模様は当時、ラジオを通じてオーストラリア全土に放送されました。戦争中に、敵国軍人を海軍葬で弔つた、オーストラリアの騎士道精神は最も感動的な物語として長く語り伝えられるべきでしょう。 こうした戦時平時、敵味方を超えた心の交流を通じて日本も韓国も共に恩讐を超えていこうではないか。両国民への提言の最後に、私はこのことを訴えたいのです。

                【名越二荒之助】


nikkan_696.htm 最終更新日: 2009/08/15 .
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