日韓両国民への8つの提言2

相手国の戦歿者に敬意を払おう

〜韓国の国立墓地での「日の丸」論争を通して〜


名越二荒之助
日韓2000年の真実


知られざる国立墓地

 日本で発行されている韓国のガイド・ブックを随分あさりましたが、ソウルにある国立墓地のことを書いたものがありません。日本と関係がないと思ったのか、観光の対象ではない、と判断したのか。韓国の国立墓地は日本の靖国神社に当るもので、朝鮮動乱〈韓国動乱、六・二五動乱、朝鮮戦争とも呼ぶ)で戦死した英霊を中心に、国事に斃れた人々の集団墓地なのです。

 ソウルの南郊・銅雀区内にあって、側を広い「顕忠路」が走っています。三方を山に囲まれた広大な敷地です。この墓地は、日本の靖国神社と違って国家が管理しています。しかも陸海空三軍が、三時間おきに交代で衛兵に立っています。真夜中でも衛兵はちゃんと立っているのです。自衛隊が集団で参拝することを遠慮している現在の靖国神社とは大変な違いと言わねばなりません。

−韓国の聖地・国立墓地−

 ソウル南郊にある国立墓地には、朝鮮戦争での戦歿者を中心に、国のために亡くなった人々を祀っている。国のために亡くなった人々に敬意を払うことは万国共通の精神なのである。

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 正面から見た国立墓地の全景。山の中腹まで墓標が並んでいる。
nikkan_643.gif (34404 バイト)  墓地の正門には、陸海空三軍の兵士が衛士として立っている。
nikkan_647.gif (37733 バイト) 国立墓地の正面中央には高さ30メートルの顕忠塔が建ち、その下には全戦残者の名前を刻んだ銅板がおさめられている。

 衛兵司令所を通って一歩中に入ると、すみずみまで奇麗に掃き清められ、中央正面に高さ三十メートルもある「顕忠塔」が、緑にはえて白く浮き出たように見えます。その背後には戦死者の白い墓標が何万柱と建ち、はるか山の中腹にまで続いています。

 昭和四十二年十月二十四日から十一日間、「社団法人国民文化研究会」(小田村寅二郎理事長)が主催して、「第二回訪韓学生研修団」を派遣しました。その時は私が団長となって、学生七人と共に国立墓地に参拝しました。私たちは朝鮮動乱で尊い身命を捧げた韓国軍人に、日本人として最高の礼を尽したいと思いました。そのために国旗・日の丸を用意しました。墓域に入ると、日の丸を旗竿につけ、当時九州大学四年の片岡健君を先頭に整然と進みました。衛内から中央に建つ「顕忠塔」まで、三百メートルはありましょうか。

 顕忠塔に近づくと、日の丸を揚げた意外な参拝者に、側の若い衛兵二人はニコニコしながら近づいてきました。韓国の青年は日本語がわかりません。私たちは英語が不得手です。言葉は通じないのです。しかし、すべては分かるのです。彼らは銃を持ちかえて我々に握手を求めてきました。

 私たち一同は敬礼して用意した花束を供えました。黙祷を捧げていると、若い衛兵二人も、私たちの横に並んで黙祷をしているのです。私たちの真剣な態度に打たれたのかも知れません。

朝鮮動乱の英傑たち

 私は黙祷を続けながら思いました。昭和二十五年二九五〇)六月二十五日、日曜日の未明、北朝鮮軍がスターリン戦車二百数十台を連ねて一挙に侵入してきました。韓国は不意をつかれて、木葉をまくように退却するよりほかありませんでした。しかしその中には多くの勇者もいたのです。

 中でも金賢沫大佐は、日本の国学院大学興亜科を卒業して予備士官学校に入学、陸軍少尉に任官。終戦後韓国の国軍に入り、北鮮の侵攻時には政訓局〈教育担当)で、名報道課長として鳴らしました。北朝鮮の侵攻に対して、韓国軍は圧倒しつつある旨を報道せよと命ぜられても、事実を伝え続けました。「ソウルを死守せよ」という強硬意見に対しては、蛮勇と真勇の区別を進言し、一時、水原への撤退を決意して移動を始めました。

 二十八日、軍隊の最後尾がソウルを離れた時、彼は急に「自分はソウルに戻つて、市民に最後の放送をする義務がある。軍は一時後退するが、必ず首都をとり戻す。それまで市民は冷静沈着でいて欲しい。このことを伝えて、放送施設を爆破しておかねばならない。この責務は死んでも果す」と言って、車で引き返しました。

 当時放送施設は旧総督府内にありました。騒然たる市内を縫って漸く放送局内にたどりつきました。予定原稿を作る間もなく、切々とした放送を終ると施設破壊の準備に入りました。その時、早くも北朝鮮のゲリラは潜入していました。銃撃戦の後、彼は戦死したのです。(参考資料 京田民雄「韓国の声」『不二』昭和四十九年十月号より)

 最後まで職場を守り、放送を続けた金大佐のこの話から連想することがあります。それは終戦時、樺太にあってソ連軍が迫ってくるに拘らず、職場を放棄することなく、「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と最後の送信をした九人の電話交換手のことです。この九人の乙女を悼む慰霊碑は、現在樺太を見はるかす稚内(わっかない)に建てられ、そこには昭和天皇と皇后陛下の御製。歌碑も並んでいます。金賢沫将軍の墓は、国立墓地の最上段にある将軍塚の一角に建っています。

 安秉峻という日本の陸軍兵学校(二十六期)を出た人がいます。陸士出身者の会である「偕行社」で調べて貰ったところによれば、名前を安鐘寅から安秉峻(へいはん)と変えてています。朝鮮動乱勃発の時は、韓国陸軍大佐でした。

 戦車軍団を押したてた北朝鮮の侵攻の前に、韓国軍は浮足立ってしまいました。彼は叱咤し続けました。

 「前線で韓国の将兵は戦っている。一戦も交えずに撤退すれば、韓国軍の汚名を残すだけである」
 「日本軍は死守の命令が出れば、命令を守って玉砕したではないか」
 「ソウルを死守して玉砕すれば、将来韓国は必ず廷る」

 しかし、彼の叫びに耳を傾ける者はなく、韓国軍は先を競つて後退しました。韓国軍の主力は既に大邱の近くにまで退いています。

 七月七日に国連の安保理で韓国支援のため十六ヶ国が参戦すると決めましたが、問題は韓国軍自身がいかに戦うかです。安秉峻は、楠木正成が千早城の孤塁を死守したことが建武中興に繋がった故事を思ったのか、あるいは豊臣秀吉軍の朝鮮侵攻に対して各地の農民や僧兵がたちあがったことを想起したのか、部下と共に昌徳宮の裏にある洗剣堂に踏み止まりました。しかし部下を次々と失います。もはやこれまでと、七月二十九日、ソウル死守の悲願を、日本武士のように「切腹」をもって訴えたのです。時に六十一歳。死後准将となりました。(彼は長く李王垠殿下の御附武官を勤めていた。死後、彼の切腹地に顕彰碑を建てる話があったが、場所が大統領府の近くなので問題となり、その後の状況不明。子息安光鉄氏も日本の陸士五十八期で昭和五十年に逝去した。)

 そのほか朝鮮動乱には感動の秘話がいくつも生れました。木にブラ下っていて、上から敵の戦車に飛び乗つて、手榴弾もろとも爆死した「特攻隊」や、敵のトーチカの中に爆薬を抱いて飛び込んだ肉弾十勇士の話など聞きました。

 これらの人々の壮烈な戦死によって韓国は守られ、国連軍も韓国防衛に起ちあがり、日本も安泰であり得たのでした。「朝鮮動乱には国連軍十六か国の青年たちが参加し、血を流して自由陣営を守つているのに、日本の青年たちは何をしていたか。映画を見て、パチンコをして、ストリップに興じていたではないか。そして特需で肥え太ったのではないか」と言つたのは、当時の李承晩大統領であり、また韓国人大多数の気持を代弁した言葉でもありました。

 私たちはそのようなことを連想しながら、黙祷を捧げたのでした。

衛兵司令との「日の丸」論争

 参拝が終わると、私たちは旗をまいて衛門に急ぎました。すると衛門の司令が出てきて、我々を呼びとめるのです。そして言います。

 「墓地の中で日の丸を掲げたのはグレイト・ミステイク(大変な間違い)である。韓国動乱に日本は参加しなかつた。参加しない国の旗を掲げて、英霊の心が休まろうか。あなたたちがもし韓国動乱に参加した十六ヶ国の国民であつて、その国の旗を掲げるのなら別だが・・・。」

 私はこの言葉を聞きながら、顔面から血が引いてゆくのを覚えました。いやしくも日韓の友好を願って韓国にまで出向いているのです。それなのにこのような誤解をまねいておめおめと帰れましょうか。私は真剣に答えました。

「韓国動乱に参加しようにも、その頃、日本には軍隊がなかつた。たとえ持つていても、日本軍が支援のために韓国に上陸したら、猛反発が起ったであろう。その頃、時の李承晩大統領は、日本軍が来たら矛先を日本に向けると言つていたではないか。」

 私はそう前置きして、更に言葉を励ましました。

「私たちは韓国の愛国者に対して敬意を表したかったのだ。たとえ反日的英傑であっても、韓国独立のために身命を捧げた人には礼を尽したい。伊藤博文を暗殺した安重根の銅像にも、敬虔な黙祷を捧げてきた。いわんや自由陣営の防波堤になつて命を捧げた人々には、特別の敬意を表さずにはおれない。

 私たちが国旗を掲げて参拝したのは、日本人として最高の礼を尽したかったからである。韓国動乱に参加しようが、すまいが、祖国に忠誠を尽した人々に敬意を表するのは、人間として当然の責務ではないか。たとえ過去敵国であつても、戦いが終ればお互いに健闘を讃えあうのが武士道精神ではないか。貴国はいま新羅時代の花郎精神(日本の「武士道精神」に当る)の復活を願っておられると聞くが、花郎精神というのはそんな偏狭なものではあるまい。」

 しかし言葉の障壁や、三十五年にわたる日本統治への反発も手伝ってか、彼はすぐには納得しなかったようでした。やはり「日の丸」にこだわつてきます。衛兵司令はまだ若く、三十歳台の後半という感じで、戦後の反日教育で育っています。

 幸いにガイドの張志弘氏は、日本の旧制中学校を出ており、歴史に詳しく、日本語も達者です。我々は座り込んで衛兵司令と話し合いました。

 私はまず、「昨日の敵は今日の友」の関係を作りあけた水師営の会見の例から入りました。旅順を陥落させた乃木将軍は、敵将ステッセルを招いて、武士の礼を持っって遇した話を紹介したのです。また第2次大戦では、ーストラリアのシドニー軍港を奇襲して戦死した日本軍人に対して、シドニー地区海軍司令官グールド少将は、海軍葬の礼をもって弔った話もしました。

 戦争に勝つとか敗けるとかは第二義的なことである。勝っても威張らず、敗けても卑屈にならないことが、より重大なことである。そして敵であろうが、味方であろうが、祖国のために献身した人を尊敬するのは、人間のつとめである。日韓両国は大国民としてのプライドを持つて、おおらかに交流してゆこう、私がこんな話をした時、彼は初めて肯いてくれました。

 どこまで理解してくれたか判りませんが、最後は笑顔と握手で別れることができたのです。

まず国立墓地に参拝すべき

 国立墓地には戦死者ばかりでなく、初代大統領李承晩の墓もあるし、非業の死を遂げた朴正煕大統領夫妻の墓もあります。ベトナム戦争の戦死者の墓や、昭和五十八年、ミャンマーの首都ラングーンのオンサン廟で北朝鮮の爆弾テロによって虐殺された政府高官たち二十一名の墓もあります。そこはさながら、韓国の戦後史を語るパノラマです。

 私は大学に奉職するようになってから、ゼミ学生を連れて、毎年のように訪韓しました。その時は金浦空港に降りると、真先に国立墓地参拝を励行してきました。

 それが日韓友好の何よりの近道だということを知っているからです。


nikkan_642.htm 最終更新日: 2009/08/15 .
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