井伊直弼の歴史散歩
      

井伊直弼(いいなおすけ{1815-1860})は、近江彦根藩第11代藩主・井伊直中の14男として彦根城で生まれる。幼名は鉄之介・鉄三郎。庶子(妾の子)であったため32歳まで捨扶持(すてぶち{江戸時代由緒ある家の救助米})の部屋住みとして過ごした。

 この間、長野主膳と国学を学び、自ら埋木舎(うもれぎのや)と名付け、世捨て人として暮らした。また、この頃熱心に茶道を学び、茶人として大成する。その他、和歌・鼓・禅・槍術・居合術など。「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名された。

 

 弘化3年(1864)、第14代藩主で兄の「直亮」の世子「井伊直元」が死去したため、兄の養子として彦根藩の後継者として任官する。嘉永3年(1850)、直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)に遷任(異なる任地に赴くこと)する。

 

 嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のペリー艦隊来航に伴う江戸湾防備に活躍し、老中首座の「阿部正弘」がアメリカの要求に対する対策を「井伊直弼」に諮問してきたとき「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国論を主張したとしているが、しかし直弼の開国論を後の調査や研究で「政治的方便」としている。

 この時の「安部老中首座」(安政4年体調を崩し堀田正睦に老中首座を譲る)は、開国に関しては既定路線であり、朝廷への根回しや海外調査、開明派の人材登用による開国体制の構築が綿密に進められていたからである。

 

 直弼のこの時点での開国とは、西洋列強との戦争回避のための計略であり、将来必要であれば鎖国に戻すことを前提としていた。積極的に無条件に交易を勧めるものでなく、西洋諸外国と対等に交渉できるだけの富国強兵の時間をかせぐためであった。

直弼の真意は、安政5年11月29日(1858)に「間部詮勝(あきかつ)」を通じて関白九条尚忠に自分の本意は「従来の国法(鎖国)に復することである」と述べている。この裏付けとして徳川将軍家に代々仕える強硬な保守・攘夷派(幕末の外国人排斥運動派)「野村林成」を終始保護したのに対して、「通商条約締結」間際になって安部や堀田が登用した多くの開明派官僚を一橋派・南紀派を問わずに追放していることである。

           

安部正弘老中首座     タウンゼント ハリス初代駐日公使

 安政5年(1858)、松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により、直弼は江戸幕府の大老に就任した。就任直後の6月、直弼は孝明天皇の勅許(天皇の許しを得る)なしでアメリカと「日米修好通商条約」を調印し、無断調印の責任を、自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せ、両派を閣外に追い、かわりに太田資始、間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊王攘夷派が活動する騒動の中で、強権を持って治安を回復しようとした。

 

 直弼は、病弱な将軍家定の後継問題で紀州藩主の徳川慶福を擁立して第14代将軍徳川家茂(いえもち)となし、一橋慶喜を推薦する水戸徳川の徳川斉彬や松平慶永(よしなが)らを蟄居させ、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な人たちを左遷した。また閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にした。故に尊王志士達から憎まれた。

 

 直弼の対応に憤慨した孝明天皇は、蜜勅を水戸に発し、武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける。朝廷の政治関与に対して幕府は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に蜜勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、蜜勅に関与した人物の摘発を命じる。

こうして開始された「安政の大獄」により多くの志士(活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らを粛清したが、尊攘派の怨みをうけ、安政7年(1860)3月3日に水戸藩浪士ら18名により、江戸城桜田門付近で暗殺(桜田門外の変)された。享年46歳(満44歳)

 この暗殺の時の様子は、ただ1人薩摩藩士より参加した有村次左衛門が直弼の首を打ち取り、自分も深い手負い傷を受けながら「井伊直弼の首を打ち取ったぞ」と叫びながら江戸街を直弼の首を捧げながら雪の降る中を歩いたため、江戸の住民は直弼が殺害されたことを知っていたが、幕府は「傷を負ったが死亡してない」ことにしろと彦根藩に命じた。

そして幕府は、見舞いとして朝鮮人参など彦根藩に届けた。彦根藩は苦慮のすえ首のある場所を突き止め、「直弼の首を受け取る訳にはいかず」直弼と似た首の名前の首を受け取り、藩内で直弼の首の無い胴体に藩医によりその首を縫いつけた。その後こっそり直弼の首を受け取ったのである。

 1858年(安政5年)井伊直弼による尊攘(そんじょう)運動への弾圧事件を「安政の大獄」という。直弼は、徳川斉昭・松平春嶽・島津斉彬らの家門大名らと対立し、徹底的な弾圧政策を起こした。反対派の公卿、大名を隠退させ、幕吏を罷免し、志士を検挙処断した。公家鷹司輔煕・左大臣近藤忠煕・前関白鷹司政道・勘定奉行ら20名以上を左遷や隠居、謹慎させ、志士以下の処罰者は75名に及んだ。水戸藩家老安島帯刀は切腹・越前藩士橋本左内、長州藩士吉田松陰、儒者頼三樹三らには死罪・水戸藩士鵜飼幸吉には獄門などである。

   

              掃部山公園の井伊直弼の銅像

 1882年(明治15年)旧彦根藩の士族が、当時「鉄道山」と呼ばれていた丘を買収し、横浜開港50周年の1909年(明治42年)に「井伊直弼の銅像」が立てられ除幕式が行われる予定であった。ところが旧攘夷派の流れを汲む人々からの圧力で中止となった。旧彦根藩の士族はこれを無視し除幕式を断行した。しかし一夜のうちに井伊直弼の銅像の首は切り落とされてしまった。さらに第二次世界大戦の1943年(昭和18年)には政府の貴金属回収指示により銅像は撤去され、その行方は戦後も分からず、受難の像である。現在の像は1954年(昭和29年)に再建されたもの。台座は1909年の当時そのままだという。1914年(大正3年)庭園部分と銅像を含めて横浜市に寄贈され「掃部山公園」として開園された。

 

推察で恐縮ですが、第二次世界大戦で、旧彦根藩の立てられたこの銅像が武器となりアメリカ軍と戦ったとすれば、ますます不運をなげかざるを得ない受難の像であった。

 終わりに「桜田門外の変」で「井伊直弼」は襲撃を受けて惨殺されたが、この「死」により強行弾圧されていた人々を奮い立たせ「明治維新」へと突き進んでいった。日本の近代化への歴史からすると、井伊直弼はけっして「犬死」はしてないと司馬遼太郎はいう。

以上

〖浜の丘錆び装束の像無念 時空をこえてなお波高し〗掃部山公園にて 宮露清

 

参考資料 井伊直弼 母利美和著 インターネット他

 

掃部山(かもんやま)公園への行き方   徒歩20分

JR桜木町駅・地下鉄桜木町駅より、紅葉坂を登り県立音楽堂を右に曲がる。

 
home page