勝海舟の歴史散歩
サンフランシスコにて 38歳
勝海舟(1823〜1899)は、幕末期の開明的な幕臣。文政6年1月30日、石高41石の貧乏旗本勝家に生まれる。通称麟太郎(りんたろう)、名は義邦(よしくに)、のち安芳(やすよし)と改名。海舟と号し、安房守(あわのかみ)と名乗った。
天保6年(1835)剣豪島田虎之助の道場に住み込み13歳から20歳まで剣術修業をうける。23歳で結婚し赤坂に転居、弘化4年(1847)25歳のとき日欄辞書「ズーフ・ハルマ」を借り58巻を1年かかって2部複写し1部を売って貧困生活を送る。
嘉永3年(1850)自宅で私塾を開き蘭学と西洋兵学を講義する。同じ年佐久間象山に弟子入りする。麟太郎の「海舟」という号は、「象山塾」に掲げてあった『海舟書屋』という象山筆の隷書の掛軸から戴いたもの。
墨田公園 勝海舟生誕の地の碑 勝海舟の生涯概略 (以下この文面)
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勝海舟生誕の地 (墨田区両国4丁目25番)
勝海舟は、文政6年(1823)1月30日、本所亀沢町の父 子吉の実家である男谷家(おだに)生まれ、7歳まで育ちました。幼名麟太郎といいます。幕臣とはいっても下級武士だったため、苦しい生活を強いられました。それでも少年時代は剣を島田虎之助に学び、向島の弘福寺に参禅するという日々を送る一方、蘭学者永井青崖について蘭学や兵学について学びました。その後弘化3年(1846)に赤坂に転居するまで本所入江町(緑4丁目24番)で暮らしていました。嘉永6年(1853)幕府に提出した開国後の方針を述べた意見書が採用され世にでました。
万延元年(1860)には、日米修好通商条約批准のため軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復しました。慶応4年(1868)3月、徳川幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物の西郷隆盛と会見し、その結果江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦禍から救ったことは有名です。
海舟は成立間もない明治政府の土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿、枢密顧問などを歴任し伯爵となりました。明治32年1月19日77歳で病没しましたが、養子相続手続きの関係で秘され、21日に死去が報じられたため、官報や大田区洗足池畔の墓石にも21日と刻まれています。
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嘉永6年(1853)31歳のとき、浦賀にペリー艦隊(黒船)が現れたことにより「海防に関する意見書」を上申する。このとき佐久間象山・吉田松陰らが黒船を見るために浦賀に急行している。同じ年坂本龍馬が「象山塾」に砲術学を学ぶため入門している。
安政2年(1855)下田取締掛手付となり大坂方面海岸巡視。安政5年咸臨丸で釜山・薩摩に航海、島津斉彬に会う。安政6年軍艦操練所教授方頭取となる。
万延元年(1860)咸臨丸にてサンフランシスコへの往路航海。「日米修好通商条約」批准書交換のため米軍艦ポーハタン号に従い、軍艦奉公木村摂津守の指揮のもと勝海舟は教授方頭取として「咸臨丸」を浦賀から出航させ39日でサンフランシスコに入港した。帰りは5月5日この浦賀に着き翌日品川に入港した。
浦賀愛宕山の「咸臨丸 出港の碑」 同 招魂碑
咸臨丸出港の碑に下記の通り記されている。
嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船4隻を率いて浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸の近くに現れたから大変です。「泰平の眼をさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行った狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることにした。
幕府は、万が一の事故に備えて軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下90名の日本人乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。
1月13日、日本人の力で初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨をあげました。途中横浜で難破した米測量船クーパー号の船員11名を乗せ、16日夕刻浦賀に入港しました。それから、2日間食料や燃料、その他の航海準備作業が行われました。
意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。
米国での大任を果たした咸臨丸が故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(1860)5月5日でした。この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるためサンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。
なお、ここ愛宕山公園は、明治26年開港の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主、中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。
元治元年(1864)英仏米蘭連合艦隊の馬関(現在の下関)攻撃調停のため坂本龍馬と共に長崎に行き長州・肥後藩士らと会見、英仏米蘭領事と調停。軍艦奉行となる、この頃安房守と称す。この年大坂で西郷隆盛と初対面(禁門変の対策で)雄藩連合を説き、帰府を命じられ軍艦奉行を罷免される。
余談だが西郷隆盛のことで、坂本龍馬が勝海舟に対し、先生は西郷の人物をたびたび賞せられるから、拙者も会って来るから添書を書いてくれとのことで書いてやった。その後坂本が薩摩から帰って来て、なるほど西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうと言ったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だよ。
慶応2年(1866)44歳軍艦奉行復職。慶喜から長州との調停を一任され長州藩と安芸の宮島で調停したが?
この時の記録によれば「尊皇攘夷・公武合体を掲げる長州藩と徳川幕府の対立が頂点に達し、長州征伐において厳島対岸も戦場となった。1866年(慶応2年)8月、第二次長州征伐の調停会談が厳島・大願時において行われた。幕府代表は勝海舟、長州藩代表は広沢真臣と井上聞多(後の元勲井上馨)である。この停戦交渉で勝海舟は長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命(天皇の)の引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され主君に裏切られた。憤慨した勝は、謹んで秘密を守るとし御役御免を願い出て江戸に帰ってしまった。
勝海舟の{氷川清話}によれば、この交渉の期間、勝海舟は毎日髪を結い直させた。《おれの首はいつ切られるか分からない、死に恥をかかないためだ》」と、そして、この使命を首尾よく果たして一安心し、記念のために差しておった短刀を厳島神社に奉納した。因みに伊藤博文もこの神社を厚く信奉し、大願寺の掲額は伊藤の直筆によるもの、境内には伊藤お手植えの松が9本残されている。
その辞表提出後。慶応3年海軍伝習掛となる。この年の10月、慶喜が大政奉還する。
西郷隆盛と勝海舟の会談の碑 会談の想像図
明治元年 46歳海軍総裁を拝命しロッシュと会見する。今後の徳川家について決定し、軍事取扱を拝命される。新撰組を甲府へ出陣させる。アーネスト・サトウと会談する。
明治元年(1868)3月15日の江戸総攻撃の直前、3月13・14日江戸薩摩藩邸にて西郷隆盛と会談し江戸城無血開城を果たす。結果城下での市街戦という事態は回避された。江戸150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から守られた。
勝は、幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスの思惑を利用した。英国公使パークスを使って新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて、江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦を計画していた。が、西郷の決断により、この結果無血開城を果たす。
その後サトウ・パークス・ケッペル提督と会談。4月池上本門寺で先鋒総督府と会談。軍艦取扱となる。半蔵門で官兵により狙撃され落馬負傷。5月氷川の自宅に官兵乱入し、10月駿府に移住する。 ◆田町の「会談の碑」への行き方 JR田町駅より徒歩5分
晩年の勝海舟 洗足池の勝海舟の墓(左側は妻の墓)
明治5年海軍大輔拝命し明治政府に初任官する。氷川町に転移し、翌年参議兼海軍卿拝命する。その後依頼免官し、徳川慶喜・西郷隆盛らの名誉回復に努める。
明治20年65歳のとき伯爵を受ける。明治22年(1889)叙勲一等、瑞宝章を受ける。翌年貴族院議員伯爵議員互選に当選したが辞退した。明治25年長男子鹿死亡のため慶喜の息子「精{くわし}」を養子にする。
明治31年(1898)76歳のとき氷川町の自宅で慶喜の来訪を受ける。
この年旭日大授賞を受ける。明治32年77歳脳溢血で死亡する。
勝海舟は、洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
勝海舟の墓への行き方 東急池上線 洗足池駅下車 徒歩10分 (洗足池公園内)
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勝海舟の人生観とは?(氷川清話より)
世の中に不足というものや、不平というものが終始絶えぬのは、一概にわるくもないョ。
「定見深睡」という諺がある。これは西洋の翻訳語だが、人間は、とにかく今日の是は、明日の非、明日の非は明日後の是という風に、一時も休まず進歩すべきものだ。
いやしくもこれで沢山という考えでも起こったらそれはいわゆる深睡で、進歩ということは、忽ち止まると戒めたのだ。
実にこの通りで、世の中は、平穏無事ばかりではいけない。少しは不平とか、不足とか騒ぐもののある方がよいョ。これも世間進歩の一助だ。一個人についても、その通りだョ。おれなども、終始いたずらに暮らすということは決してない。しかし世間の人のように、内閣でも乗り取らうという風な野心はない。だがせっかく人間に生まれたからは、その義務として、進むべきところまで進もうと思って、終始研究しているのサ。
人はどんなものでも決して捨つべきものではない。いかに役に立たぬといっても、必ず何か一得はあるものだ。おれはこれまで何十年間の経験によって、この事のいよいよ間違いないのを悟った。
以上
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