小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)(1827~1868)は、徳川家の旗本小栗家(神田駿河台)で生まれ、11代忠高の長男で幼名を剛太郎といった。小栗家は代々「又一」と名乗っているが、これは小栗家4代「忠政(三河出身)」が徳川家康に仕え、槍の名人として活躍し、たびたびの戦いで「またも一番槍か」と功名をあげたので「これより又一と名乗れ」と命じられたという。
ここで「介(すけ)」についてふれておきたい。この介のついた名前を数多く聞いていると思うが、平安時代は公家の世である。当時の各国は、例えば相模の国・上総の国の「国司」は中央の公家社会からやってくる。現地には次官(すけ)がいた。いわば「介」は現代の副知事かも知れない。と司馬遼太郎は語っている。やがて頼朝によって武家の世となる。その後の幕末までは、その流れの位の習慣であったのだと思う。
小栗忠順は、1860年(万延元年)34歳の時、井伊(直弼)大老の抜粋により日米修好通商条約批准書(安政六年{1859}神奈川条約)交換の遣米使節(目付・監察)として、米艦ポウハタン号で渡米、さらに二隻の船を乗り継いで地球一周して帰国した。その後、外国奉行など要職を歴任し8年間幕政をささえ、日本の近代化を押し進めた。
井伊大老は、この使節団で正使の豊前守(ぶぜんのかみ)・副使の淡路守(あわじのかみ)より、その能力を恃んだのは、目付の小栗であったようだ。渡米してアメリカの記者が、小栗の肩書きの「目付」とはスパイのことか、と反問したそうである。そして使節の中で最も注目を浴びた小栗を「小柄であるが、生き生きとして威厳と知性と信念が不思議にも混ざり合っているサャープな男」といい「日本使節のブラック刑事」というニックネームがついた。
フィラデルフィア金貨製造所を見学したとき、金と銀の比値がだいぶ違うことに気がつき、金銀の含有率を正確に決めないと、このままでは日本経済は苦しくなる。と早速通貨の分析実験を要求した。がアメリカ側は分析には時間がかかると小栗を説得したが、小栗は「ノー、時間がかかっても良い・・」といって動かなかった。アメリカの新聞にこのことを「・・・それは呆れるほどの忍耐心であった」と報道し、自分の考えを「イエス」「ノ−」と堂々と主張する小栗を高く評価したのである。国対国の立場で面と向かって、アメリカに対し最初に「ノー」と言った日本人であろう。
この使節団の渡米前後して、日本国の軍艦咸臨丸が並行して渡米した。これに乗ったのは、身分は大御番(おおごばん)で、職は軍艦操練所教授方頭取である「勝海舟」である。
余談だが、ここで帰国した勝海舟が、江戸城内で老中たちに報告したとき、老中の一人が、アメリカとはどんな国か、と聞いた。「アメリカというのは、えらい人ほど賢いという国でございます」と言い老中の顰蹙(ひんしゅく)をかったそうである。
小栗は、その後陸軍奉行・軍艦奉行から勘定奉行に進んだ。特に財政家として卓越していた。このことがらが明治維新の際、上州の権田村(現在の倉渕村)に帰農(隠退)していた小栗を新政府軍が追跡した。というのは、江戸城を開城したとき「財政資金」がほとんど無かったことから「小栗が資金を権田村に運んで隠した(埋蔵金)」と思われたこと。そして小栗の能力(実力)を警戒したからであった。
ここで、小栗と勝との共通点は、同時期にアメリカを知ったことである。そして大切なことは、幕藩体制のなか2人共幕末の政治家として日本の将来像という構想をもち、かつ封建的な身分制度を越えて、勇気を持って実践したことである。
小栗の具体的実践とは、横須賀造船所の建設・フランス語学校の設立・フランス式軍隊の導入と訓練・滝野川反射炉による大砲製造・その他郵便制度・鉄道の建設・新聞発行・ガス灯の設置など提唱している。更に日本最初の株式会社である「兵庫商社」の設立をした。幕末の多端の中に活躍し、司馬遼太郎は小栗を「明治の父」として高く評価している。
特に、三浦半島の一漁村にすぎなかった横須賀に、フランスのツーロン軍港を範とする一大艦船製造所を興したことは日本近代工学の源泉となっている。
小栗は、まず製鉄所(造船所)をどこに建設するか、東京湾を調査・測量(海の深さ等)・海の形態を検討し、横須賀に決め、仏人技師ヴェルニーを招聘して横須賀製鉄所の建設を本格的に行った。この製鉄所には、製鉄・造船・大砲・兵器廠等、総工費240億ドルで工期4年の予定であった。これは当時としては画期的な事業であった。工費の不足分はフランスよりの借入金で賄った。「これで、たとえ(幕府が)売り家になっても、蔵つきになります」と、小栗の有名な言葉である。幕府中心主義者でなく一個の日本人であった。明治維新後も大隈重信らが反対派をおさえ観音崎灯台や水道の建設・レンガ製造等の建設を進め、更に借入金も返済した。
日本海海戦の名称東郷平八郎は、明治44年、小栗の遺族を招いて「日本海海戦で勝利を得たのは、横須賀造船所のお蔭で勝てたと小栗さんに謝辞を述べた」そして「仁議
禮智信」の書を賜った。歴史とは皮肉なことに小栗を斬首したのは、新政府軍(薩摩が主体であったと言っても過言でない)で、東郷はそのころ薩摩藩の軍艦の若い士官であった。
将軍慶喜が大坂(大阪)から海路で江戸に戻ったあと、小栗は苛烈なほどの主戦論者だった。その主戦論は、十分な作戦計画をともなっていた。箱根の嶮を陸兵でもって要塞化し、同時に駿河湾に旧幕海軍の全軍をあつめ、陸路長蛇の列をつくって東にむかう新政府軍を艦砲射撃でうちくだくというもので、後日、これを知った新政府軍の作戦家の大村益次郎は、肝を冷やしたという。将軍徳川慶喜は、この小栗案を採用しなかった。小栗は立ち上がる慶喜の袴のすそをにぎってなおも説いたが、慶喜はこれを払ったという。
慶喜は恭順にきめていた。その旨を勝海舟に明かし、勝に全権をゆだね、江戸を無血開城するにいたったことは周知のとおりである。
これにより小栗は、2700石の禄高を自ら返上し、権田村に隠退すると「土着願」を出して帰農した。新時代に生きる若者の教育を構想したが、慶応4年(1868)閏4月6日、小栗の実力を恐れた新政府軍に捕らえられ、正当な取調べもなく水沼川原で斬首された。最期は新政府軍に向かい「お静かに」と言ったと伝えられる。因みに吉田松陰も処刑されるとき詩吟を唱えたあと「いざどうぞ」と言ったと伝えられている。日本国を意識し欧米に劣らぬ近代国家建設のため、批判や抵抗を恐れず勇気をもって信念を貫いた人間の最期まで堂々たる真のサムライであった。時に小栗42歳。
養子「又一」も翌7日に高崎城下で斬首された。小栗夫人と家族らは、家臣、村人らが護衛し、吾妻から山河をこえて会津へ脱出し、会津城下で女児を出産、小栗家を継いでいる。水沼川原に小栗の「顕彰慰霊碑」がある。
こうして日本近代化のレールを敷いた小栗上野介は、自己宣伝も言い訳もせず、黙々と当事者責任を果たし死んでいった。小栗の言葉に「親の病気が重く、もう見込みがないからといって、薬を与えないのは孝行ではない。国が滅び、自分の身が倒れるまで公務に尽くすのが、真の武士である」と。
慶応元年に着工したドック 右から1号・3号・2号ドックの順
現在も米軍基地で使用されている。国産のセメントは無かった
床も壁も石積みで、石は真鶴から運ばれた小松石である。
小栗忠順・ヴェルニー技師の顕彰慰霊碑及びヴェルニー記念館への行き方
ヴェルニー公園・・・JR横須賀駅より 徒歩5分
参考資料;ぐんま見聞録他
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