お龍の歴史散歩

       

      楢崎 龍{りょう}(明治37年撮影 64歳)

 坂本龍馬の妻であった楢崎龍の墓所は、横須賀市大津町信楽寺(しんぎょうじ)にある。

龍馬との結婚生活僅か3年あまり、そして龍馬の死後、長崎から龍馬の遺言により土佐へ、更に、京都・東京へと移住し、最後に墳墓の地とし、安住の地を求めて三浦郡浦賀町大津村(横須賀)で66歳の波乱に富んだ生涯を閉じた。

 お龍の父親は、楢崎将作(祖父は、長州藩の侍である、些細なことで国を追われ、京で剣道の指南役)で侍医となり、母は貞(近江の重野庄兵衛の娘)で、5人の子を儲けた。お龍は(1841生)その長女である。因みに、坂本龍馬は、お龍より6歳年上である。

 お龍22歳の時、父将作が病死し、この頃母貞が、芸者屋の女将に騙され妹光枝・起美が女郎屋などに売られる。しかし、お龍は、短刀を携え単身で2人を奪い返すという武勇伝(祖父の血か)の持ち主である。

 元治元年(1864)京都で、お龍24歳、龍馬30歳と出会う。この年金蔵寺住職が仲人となり、お龍と龍馬は内祝いを執り行い千代に契る。そして、お龍は伏見の船宿寺田屋の女将お登勢のもとに預けられ、幕府の嫌疑を逃れるため、お春と名乗る。一般には、寺田屋の事件で結ばれたとしているが、お龍の話しによると、この経緯が正しい。同年、池田屋騒動・禁門の変(蛤御門の変)が起こる。

 慶応2年(1866)船宿寺田屋で、龍馬と三吉慎蔵と密談中、幕史の襲撃を受け入浴中のお龍が急報、龍馬は負傷し西郷吉之助(隆盛)等の助けで薩摩屋敷に隠れ、小松帯刀・吉之助の進めで、新婚旅行を兼ね鹿児島に行く。観光で霧島温泉から霧島山へ登り、この時の様子を龍馬が姉乙女(おとめ)宛の手紙で、天の逆鉾(あまのさかほこ)を、お龍が抜いたことを絵入りで書いている。お龍は、無邪気な行動派の性格であったことを物語っている。この乙女宛の絵入りの書簡(慶応2年12月4日)は、現在、国宝となっている。 

 この年龍馬夫妻は、桜島丸に乗り、お龍は長崎で下船し、龍馬の計らいで質商の家に入り、質商の姪のお菊より「月琴の稽古」を受ける。龍馬は長州で下船し長州藩主毛利敬親に会う。その後、慶応3年9月 下関伊藤家に居たお龍のもとに龍馬が突然現れ、再び京に向かう、これが、お龍との永遠の別れとなる。

 

 慶応3年11月15日 夜9時ころ、龍馬33歳、中岡慎太郎30歳が、京都河原町醤油商近江屋の2階で、幕府の京都見廻組7名により暗殺される。同12月2日龍馬の変事をお龍に告げる。慶応4年3月 お龍は、京都東山霊山(りょうぜん)の龍馬の墓をお参りする。その後、土佐高知城下の龍馬の兄権平の家に入る。しかし、折り合いが逢わず坂本の家を出る。この時期、お龍は龍馬からの手紙を、ほとんど焼却したと証言している。


夏頃坂本家を出て、翌年伏見寺田屋や霊山近くに家を借り住む。明治6年(1873)東京に出て西郷隆盛(征韓論で敗退していた)に会う。京橋築地に移住し手内職の生活を始める。翌年、神奈川台町の料亭で仲居として働く。その後、三浦郡に漂って来たのは、妹道江(光枝)が居たからだと回想している。道江は、水兵の中沢助蔵と再婚していた。

 

明治8年7月2日 西村松兵衛30歳は、三浦郡豊島村深田(現横須賀)に、お龍35歳を「西村ツル(徒留)」として入籍している。松兵衛は初婚で、現在の滋賀県近江八幡市より分家として創立したもので、職業は大道商人であったが、後に葬具屋に転職したようである。明治21年ころ、母貞と妹道江(夫中沢助蔵の死後)が、この場所に同居している。 

 明治30年の晩春、安岡秀峰が、お龍の深田観念寺の長屋(三浦郡;今の横須賀共済病院あたり)の住居を訪ねた時の様子を「実話雑誌」に、次のように書いている。

 その時お龍さんは、57歳で頭髪に白髪が交じっていたが濃艶なお婆さんで、丸顔で愛嬌があって魅力に富んだ涼しい瞳の持ち主であった。貧乏だから着て居る物は、洗い晒した双子の袷で、黄色の褪せたチャンチャンコを着て、右の足が不自由だったらしく動きが鈍かった。反対に口は達者でお龍さんと長火鉢を隔て、差向かいでチビチビ酒を飲みながら昔話を聞いた。昔話はたゆみなく続き、龍馬に対する思慕の念が満ちあふれ、お龍の記憶力は抜群であった。お龍さんは、大酒豪だったから私の持参した一升は、夫(松兵衛)の帰るまでに一雫も残らなかった。因みに、お龍は生涯、子には恵まれなかった。

 

寺田屋当時、近藤勇が、お春(お龍)に心を動かされたとみえて、櫛や簪を買ってやったりして歓心を買おうとしたが、後で龍馬の妻だと聞いて、なるほど道理で強情な奴だと思ったと、言ったそうである。また、桐野利秋(後の陸軍少将)は、別名中村半次郎で「人斬り半次郎」の異名があった。その半次郎が一杯機嫌の勢いで皿鉢を投げ出す乱暴に、元来、男勝りのお春が利秋の盃を取り上げ、手酌で5・6杯呑み乾し、無言で利秋の前に突き出し、今夜はお春が、呑みのお相手をしますからと機先を制した。この小娘(お春25歳)の意気込みに、さすがの利秋も唖然とした。同席に大山彦八(大山巌{後の陸軍大臣}の兄)が居て、お春が隠し持っていた短刀を見て、この短刀は船の中で坂本に見せられたことがある「戯談じゃないぜ、こりあ土州の坂本の妻だ」と、利秋が大山に言われて、驚愕し色々と詫びをいれ薩摩に帰って行った。

更に、寺田屋に後の夫となる西村松兵衛も、この当時、京都の呉服屋の若旦那で商人として宿泊し、お春に思いを懸けていた。龍馬の死後、お登勢が同情して2人を結びつけた。

 

晩年のお龍は、「中気に罹り」光枝の子松之助を養嗣子に迎えたが、養嗣子も母貞も亡くなり、松兵衛と妹光枝との不自然な3人の同居生活となった。更に松兵衛と光枝は、お龍一人を深田に残し、豊島村中里へ移住したのである。このようなことが、精神的な負担となり連日の寒さも加わり、生きる意欲を失ったのではないだろうか。



おりょう終焉の地 横須賀市米が浜通り

これらの経緯か、お龍の墓石には、正面「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」裏面「実妹中沢光枝建立」となっている。謚(いみな)は、「昭龍院閑月珠光大姉」享年66歳。

 

 明治37年2月 日露戦役の際「明治天皇紀(美子皇后)」が、御夢に龍馬が現れ、金百円を逓信大臣に賜りて、「贈正四位坂本龍馬」を弔祭せしめたまふ。美子皇后には、お龍の消息を横須賀司令長官井上良馨大将から伝えられたが、お龍は危篤状態にあり明治39年1月14日 皇后大夫香川敬三より見舞いの電報が送られた。この翌15日早朝6時、お龍66歳は息を引き取った。葬儀は21日同町聖徳寺で執行し、毘火(びか)に附し、遺骨を京都霊山龍馬の墓畔に埋葬する。また、お龍の遺骨は信楽寺に埋葬したという記事もあり、多分、京都霊山に埋葬したのは分骨であろう。

信楽寺現在の墓地平成20年5月6日撮影     信楽寺移葬前平成9年12月6日撮影

 平成10年に寺域改修を行ったが、その時、遺骨(お龍)は出てこなかったようである。

 

追記;この信楽寺には、西村松兵衛・母貞・養子松乃助・妹中沢光枝・夫中沢助蔵が葬られている。西村松兵衛は、お龍の墓碑を建立した半年後の大正4年2月17日死去した。

 

ここで坂本龍馬には、婚約者がいた。嘉永6年(1853)北辰一刀流千葉定吉道場に入門、その時の指南役に長男重太郎とその妹佐那(さな)であった。佐那は14歳美人剣士で琴も弾く龍馬の初恋の人である。龍馬は佐那と婚約し、佐那は龍馬から貰った紋付を形見として生涯独身を貫いた。墓は甲府市朝日日蓮宗清運寺、坂本龍馬室と刻まれている。

 

信楽寺への経路案内     京浜急行「京急大津駅」より徒歩10分位

お龍終篤の地への経路案内  京浜急行「横須賀中央駅」より徒歩15分(碑がある) 

(横須賀市米が浜2−5)   参考資料 「坂本龍馬の妻お龍」鈴木かほる他  以上


神奈川宿 勝海舟の紹介で「おりょう」が勤めていた「さくらや」 

    

       神奈川宿の標識        当時から続く料亭 現代の「田中家」

 神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場宿です。現在の台町あたりは、かって神奈川湊を見下ろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となったからです。その4年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場と決められていましたが、後に横浜に変更されました。

 田中家は、神奈川宿が賑わった当時から続く唯一の料亭で、文久三年(1863)創業の店です。田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。(ちなみに、近くの本覚寺は、当時アメリカ公使館として使用していた。ハリスはここの公使であった)

 坂本龍馬の妻「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年。勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました。(他の文献によると「おりょう」は苛められたそうな)

(当時 勝海舟は、神奈川台場の設計をしたため、この「さくらや」に頻繁に訪れていたことと思われる。神奈川台場編参照)

    

    安藤広重の神奈川宿 田中家(当時の{さくらや2階建て}が描かれている)

         

 田中家へのご案内

  横浜駅より北側方向 徒歩15分 旧東海道 神奈川区台町1丁目 

 
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