品川 浜川砲台跡 と坂本龍馬
京浜急行 立会川駅近くに土佐藩下屋敷が、現在の浜川中学校近くにあった関係で、浜川砲台を土佐藩が築造した。19歳であった「坂本龍馬」もここを守備していた。
この時龍馬は、父八平宛てに送った手紙に、「尊父様御机下 異国船処々に来り候へば軍も近き内と 奉存候 其節は 異国の首を打ち取り帰国可仕候 かしく」とある。
現在立会川沿いに浜川砲台跡の石垣に使用した石が残されている。
土佐藩・鮫洲抱屋敷跡の標識 浜川砲台跡と当時使用した石
浜川のたもとから立会川が海にそそぐところまでが、土佐藩抱屋敷(かかえやしき)であった。幕府への「指出」によると867坪が抱屋敷の広さである。(抱とは拝領と異なり買い入れ借用していたものである)ここは土佐から送られて来る物資の荷揚げ地であり、立会川から荷を陸上に上げていた。
ペリー来航の嘉永6年(1853)土佐藩は砲台築造の「願」を幕府に提出し許可を得て、翌年、砲台を造った。浜川砲台といわれた。浜川のやわらかい土地を、石、土砂で埋め立て、2300坪に拡大させている。砲台は八門を設置していた。警備陣は品川下屋敷を宿所として、この砲台に配置されている。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ、連絡路は現在の立会川商店街であり、その距離約二百メートルである。若き日の坂本龍馬も警備陣に加わっており、この道を毎日歩いていた。「若き龍馬の足音」と記している。
所在地―品川区東大井2丁目
浜川砲台跡への行き方・・京浜急行・・立会川駅下車・・徒歩10分
因みに土佐藩下屋敷跡は、現在の浜川中学校附近一帯
山内容堂の墓
ちなみに「幕末の四賢候」と言われた、15代土佐藩藩主「山内豊信(とよしげ)後の容堂」は、安政の大獄で井伊直弼に蟄居を命じられ、この地で3年半を過ごした。46歳で急逝したが本人の遺言で、(立会小学校脇)ここに墓がある。
山内容堂の墓への行き方・・
京浜急行・・鮫洲駅下車・・徒歩10分・・立会川小学校校庭脇
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三浦海防陣屋の歴史探訪 「砲台」
三浦市南下浦町上宮田一帯は、徳川時代の海防陣地跡地である。
弘化4年(1847)徳川幕府が当時異国船渡来におびえて、急ぎ江戸湾防備に着手したとき、三浦半島の警備を命ぜられた彦根藩主井伊掃部頭直弼が、赴任に当たり上宮田に三浦郡、鎌倉郡の軍政の本拠を置いたところから海防陣屋と呼ばれた。浦賀千代ケ崎、鶴崎、千駄ケ崎、箒山、大浦山、剣崎、安房ケ崎、荒崎、八王子山(腰越)の9カ所に砲台を構築し、また三崎の城山と原に分営を設けて警備にあたりました。
嘉永6年(1853)に長州藩が交代し、さらに安政5年(1858)には熊本藩にかわり、佐倉藩を経て、その後浦賀奉公に移管されました。この20年間にわたって、領地の行政官庁もここにありました。
最初に警備に当たった彦根藩のころは、苦しい行政でしたが、長州藩にいたって善政が行われたため、熊本藩との交代の時は三浦、鎌倉両郡の名主、村役人から留任の願書が出されたほどでした。長州藩の善政のひとつとして、集団種痘を実施したことが市内初声町三戸の前田家文書に書きとめられている
敷地内の海防陣屋跡の石碑(裏には下記の文が刻まれている)
異国船の渡来に備え、彦根・長州・熊本の各藩が、弘化4年(1847)
から役20年間三浦及び鎌倉郡本営の地を、ここに定め分営及び「砲台」を
周囲に配し江戸湾(現東京湾)の警備にあたった。
明治維新の改革に献身した人々が、この海防陣屋にきていました。木戸考充は桂小五朗といった時代、当初21歳伊藤博文は俊輔といったころの16歳、共にこの海防陣屋に衛士として勤めていた。ことに伊藤博文の将来あるのはこの陣屋からとまでいわれています。明治維新元勲の2人の足跡がこの地に残されていることは注目に値します。
また、司馬遼太郎の「竜馬が行く」には、龍馬がこの地で桂小五朗との出会いが描かれています。嘉永が安政にかわった年、龍馬20歳、海防陣屋を訪れた帰途、山中で桂小五朗と会うシーンは大変興味深いものがあります。
文久3年(1863)熊本藩から佐倉藩にかわり、慶応3年(1867)幕府の直轄となり浦賀奉公に所管され、翌明治元年(1868)明治政府に引き継がれ、海防陣屋は、その姿を消すことになりました。
龍馬が行く 立志編 (原文のまま)
長州本営から横須賀へ抜けるこの間道を旅姿のまましかも単身で歩いている武士があるとすれば、まず諜者と考えている。長州藩士{桂小五朗}が、「卒爾(そつじ)ながら、うかがいたい。この相州の地は、長州藩士の敬衛の地でござる。みだりに他藩士の立ち入り、視察することを大公儀の命によって禁ぜられている。お見受けするところ、貴殿は長州藩士ではない」と坂本龍馬にいった。
龍馬が桂小五朗に会ったのは、この時が最初である。相州の地とは、上記の「海防陣屋」のことである。(注;桂小五朗は、長州藩で毛利家と同祖の医家和田屋の出で天保4年生まれ、龍馬よりは、二つ年上である)
龍馬は驚いた。この青年(小五郎)は、斉藤弥九郎道場の塾頭ときいているだけであったが、三浦半島を中心にした相州(現神奈川県)の地図を実測したと言っている。
龍馬は、絵図をあらためて見てからすぐ声をあげた。「さすが長州藩だ。どの陣地にも二門ずつの大筒がある。土佐などは藩として二百目筒が二門あるきりだ」、桂「なに、その大砲は大半撃てない。遠くから見れば大砲だが、実物は寺の青銅の燈篭を横倒してあるのさ」
龍馬はあきれてしまった。「この絵図の大砲は、燈篭なのか」「そうだ。アメリカ船から望遠鏡でみてもかれらは大砲と思って近かずかぬ。これは楠木流の軍学だ」・・・・
小五郎と龍馬がこの相州の山中であった時は、彼が二十二、龍馬が二十歳であった。
桂小五郎十七歳、「松下村塾」でこの青年に火をつけたのは、吉田松陰である。「学問も大事だが、知ってかつ実行するのが男子の道である」と、このことばが、桂小五郎の一生を決定してしまった。
相州の山中の百姓家で龍馬と小五郎が手を握りあった。「坂本さん。長州は眠っています」
「やろう」と。誓いあったのは、べつに何をやろうという目的があったわけではない。その時勢が熟していなかった。
小五郎は、竜馬のことを学問はさほどなくとも、天性の怜悧さと重厚さを兼ねているめずらしい人物と見た。
三浦海防陣屋跡(南下浦市民センター)への行き方・・
京急 三浦海岸駅下車 徒歩7分
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