京都市内龍馬関係史跡  案 内

  慶応3年(1867)6月9日長崎を土佐藩船夕顔で出発。兵庫に向かう船中で龍馬が、後藤象二郎に大政奉還論と、その後の政策の起草案を示した。これは、横井小南の「国是七条」が反映された思想である。6月12日兵庫に着き14日に京都に入りした龍馬らは河原町の酢屋を定宿とした。公武合体論と武力倒幕論があった土佐藩に諮問し藩論として決定した。10月3日に大政奉還の建白書が幕府に提出された。

 

              現在もそのままの外観の龍馬の寓居所  酢 屋(すや)  

  酢屋で、幕府が政権を朝廷に返上する案を、龍馬の指示により長岡謙吉が文書にしたのが「船中八策」である。 王政復古の国家体制を平和的に解決しようと望んだものであった。

  酢屋は、酢屋嘉兵衛が材木業を営んでいた屋号で、嘉兵衛は龍馬の活動に理解を示し援助した。現在の室内は店に改造されているが、龍馬は2階の表西側の部屋に住んでいた。窓の格子より龍馬は、向かいの舟入りにむけてピストルの試し撃ちをしたという。そして、この家に海援隊京都本部を置き隊士の陸奥宗光、長岡謙吉等多くの志士が投宿していた。

  慶応3年6月25日龍馬は中岡に連れられて、岩倉村(左京区岩倉上蔵町)に岩倉具視を訪ねた。薩摩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らと土佐から後藤象次郎・福岡孝弟らと「薩土盟約」を龍馬・中岡の立ち会いで締結した直後である。しかし、薩摩藩は、土佐の乾退助(板垣)・谷干城(たに たてき)と武力による軍事同盟を、その先に結んでいたのである。その翌日6月26日には、安芸広島藩を入れた「薩土芸三藩約定書」を結んだ。

  同7月6日英艦イカルス号水夫殺害事件が起き、龍馬は越前藩邸にて松平春嶽より事件を聞かされ、山内容堂あての書状を託されて、大坂から土佐そして長崎に向かった。

 

   佐久間象山・大村益二郎遭難地の碑      武市瑞山・吉村虎太郎寓居跡の碑

  高瀬川の三条小橋に佐久間象山と大村益二郎の遭難の碑がある。龍馬は僅か4カ月程度であったが、江戸で砲術を象山に学んだ。象山は、元治元年京都に来て公武合体・開国論の元凶として攘夷派から狙われ、この場所付近で馬上で殺害された。龍馬が、お龍を寺田屋に預けた年である。また、酢屋に来る約3年前である。

  この近くに、武市瑞山(半平太)寓居跡と隣に吉村虎太郎寓居跡がある。武市瑞山は龍馬と親戚関係であった。江戸の桃井春蔵の鏡新明智流の塾頭となるほどの剣客であった。土佐勤王党首領となり吉田東洋を暗殺などしたが、山内容堂が藩主となると一変し、獄舎に入れられ拷問を受けて切腹した。東洋の暗殺直後に龍馬が脱藩したため疑われたといわれる。その他、勤王党の岡田以蔵は獄門刑に処せられた。

  吉村虎太郎は、土佐藩士で勤王党に加盟した。久坂玄瑞と伏見挙兵計画に賛同し土佐藩を脱藩した。龍馬が脱藩したのも吉村の影響によるものとされる。文久2年寺田屋騒動で土佐に送還されたが、再び脱藩し京都に出て、大和で挙兵に加わり9月に壮烈な戦死を遂げた。