龍馬殺害の犯人は誰か

1.新選組の仕業だとの説

  殺害現場に一足の下駄が残されていた。それは、瓢亭(ひさごてい)の焼き印があった。近江屋の新助が、この下駄を持って行って訪ねると、先斗町の瓢亭へ新選組が出入りしていて新選組に貸したという説。が他藩2藩の調査では、他の屋の下駄はあったが、瓢亭の下駄は出てこない。現場の様子を語る谷干城(たにたてき)や田中光顕の談話にも下駄は出てこなかったという。

  殺害現場にもう一つの証拠品として、朱塗りの刀の鞘が、新選組の原田左之助のものであるという説。そして、「こなくそ」という方言は四国地方で、原田が伊予松山の出身であることから疑惑がかかった。それと、中岡の証言で犯人は、新選組だと言っていること。しかし、近藤局長も原田も当日のアリバイがあったという。土佐藩は正式に幕府に調査を申し入れ、新選組の近藤勇が永井尚志より事情聴取されているが否定している。鞘については、原田のものであるという確かな記録もない。

  土佐藩士の谷干城は、近江屋事件で現場に駆けつけた。現場に落ちていた刀の鞘を持って、新選組を脱隊し孝明天皇御陵衛士を努めていた篠原泰之進を訪ね、新選組の原田左之助のものであるとの証言を得ていた。したがって、新選組の仕業に間違いないと力説している。しかし、近藤が大目付永井尚志(なおむね)に詰問されて、事実を否認するような男ではない。徳川幕府への忠誠心は強く、律義で誠実な男だった。そして、龍馬は、寺田屋騒動ではピストルで幕府の捕史を射殺しているから、その意味で、龍馬を殺害していても近藤としては、幕府の詰問に隠す必要はない。

2.京都見廻組との説

  明治3年新政府は、投降した幕臣たちの取り調べをした時、その中の元見廻組の今井信郎が「龍馬・中岡の殺害は見廻組である」と自供した。その内容は「見廻組与頭、佐々木只三郎の指揮で、渡辺吉太郎・高橋安次郎・土肥仲蔵・桜井大三郎・桂隼之助・今井信郎」の七人であると答えた。そして「二階に登って行ったのは、佐々木・桂・渡辺・高橋の四人である」と答えた。

 この今井信郎の証言とは違って、実は殺害を担当する四人の内の一人になっていたとの説もある。一番手が「才谷先生、しばらく」と声をかけ、二番手が切り込んだという説がある。

  そして更に、晩年今井が語ったところによると、実はもう一人実行者がいた、その人はまだ、存命でおれが死ぬまでは名前を出してくれるな、と頼まれているので言えないと言っている。その後、今井は実は自分が龍馬を斬ったと名乗り出ている。

  以上の話だと、鳥羽・伏見の戦いで、この見廻組七人の内、佐々木・高橋・桂・土肥・桜井・渡辺は戦死している。残ったのは今井ともう一人ということになる。

  大正4年に「大阪朝日新聞」に「坂本龍馬を殺害したのは自分だ、このことを公表して欲しい、と遺言をした人がいる。元見廻組の渡辺篤である。ところが、その内容が、今井の自供と実行者の人数や龍馬・中岡他の人数が大きく違っているのである。

  渡辺篤は、明治13年6月25日履歴書の原本に龍馬の暗殺について「坂本龍馬なるもの、徳川将軍を覆すものとして、故頭佐々木只三郎はじめ拙者、他5名申し合わせ醤油屋の二階において、才谷梅太郎(俗名)を討ち果たした」と記す。その後、明治44年の履歴書の中に「刀の鞘を忘れたものは世良敏郎という人」と記す。のち、渡辺篤は見廻組堀石見守親義(信州飯田城主)より龍馬討ちの功として15人扶持となっている。

  龍馬暗殺より3年しか経過していない、今井信郎の自供には、世良敏郎という人の名は出ていない。晩年になっても、最後まで、もう一人を隠す理由があった のだろうか。また、今井信郎も渡辺篤も実行者の人数7人は合致しているが ?

 渡辺篤の履歴書(明治44年8月19日)の記録には、世良敏郎の暗殺当夜の事に触れ「世良は鞘を忘れたため、世良の腕を拙者の肩に掛け刀を拙者の袴の中に縦に入れ、河原町四条通りを『ヨイヤナイカ ヨイヤナイカ』と声高く言って帰ったとある」具体的な記録で信憑性がある。