土佐の国を統一したのは、長宗我部(ちょうそかべ)氏であったが、関ヶ原の合戦で豊臣方につき敗退し滅亡した。その後、家康は駿河の掛川藩主であった山内一豊に新領主を命じた。そして、山内一豊が現在の高知城を築城し、城下町を建設した。
坂本龍馬は、天保6年(1835)11月15日
高知城下本丁筋1丁目(現在の高知市上町一丁目)にて、下級武士(商人郷士)であった坂本八平の次男として誕生する。
龍馬誕生地付近案内図
弘化3年(1846)12才の時母幸死去する。この年、城下小高の楠山庄助塾に入門するが、学友との喧嘩がもとで父八平が退塾させる。
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吉田茂の揮毫による「坂本龍馬先生生誕地」記念碑
土佐電鉄上町一丁目停留所 徒歩1分
嘉永元年(1848)城下築屋敷の日根野弁治に師事して小栗流剣術を修行する。嘉永6年(1853)19才の3月
日根野から「小栗流和兵法事目録」を伝授する。同17日土佐を出て、剣術修行ため江戸に行き北辰一刀流千葉定吉塾に入門する。
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日根野道場跡
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河田小龍塾跡
河田小龍は、嘉永5年藩命により米国から帰還したジョン万次郎から細かな事まで事情を聴取し、藩主山内豊信(とよしげ)に報告した人である。龍馬は安政元年江戸から帰り河田小龍を初めて訪ね、世界情勢とその当時の海防の方法などを詳しく聞き「あなたは人を創りなさい。わたしは船を手に入れましょう」といって別れたという。
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近藤長次郎邸跡
近藤長次郎生家は、饅頭屋だったので「まんじゅう屋の長次郎」と言われていた。近藤長次郎は、河田小龍の弟子で秀才であった。長崎での亀山社中で龍馬とともに協力したが、龍馬が上京の間に、英国留学密航計画の資金がばれ、同僚から自刃を攻められ慶応2年正月自決に追い込まれた。享年29歳。
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才谷屋跡地
坂本家三代目太郎左衛門の次男八兵衛は、高知の本丁筋三丁目で「才谷屋」という質屋から酒・雑品まで扱った。
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