佐久間象山の歴史散歩
       

 佐久間象山(18111864)は、信州松代藩士。幕末の学者で開国論者。名は啓(ひらき)、または大星。通称は修理。象山は号で一説に「ぞうざん」という。佐藤一斎に学び朱子学(宇宙に実理は二つなしなど)を修め、漢学・蘭学・砲学に通じ、西洋技術の摂取による産業開発と軍備充実を唱えた。

 象山は、「絶代の豪傑」とか「人傑(英傑)」と呼ばれ先駆的な開国思想家であった。幕府の下田開港論を批判し、横浜開港論を進言するなど、鎖国を守ってきた幕藩体制に対して革命思想家である。才識が特に優れ気概の精神をもつ点で、その評価は共通している。 

具体的には、オランダ語を独学で学び、洋砲設計鋳造、ガラス、野菜・養豚・薬学・鉱山などの研究調査など多岐に渡っている。特に洋砲技術に優れ、東京湾各所の砲台場を調査し理論的に説明し、こんな軽砲が黒船にたいし何の役に立つのかと注文をつけている。

一方、象山は、法螺吹きであるとか、講義は面白くないなどの評がある。しかし、その知識ゆえ、時には大風呂敷をひろげるときもあったが、象山の自信の強さは、自分は他人の知りえないことを知り、他人が成しえないことをする能力を持った非常の才である。自分は、他人の勤皇だとか、幕府とか藩体制の維持だとかでなく、「将来の日本国」を考え、それは自分しか出来ない天からの恵みであると、我が身のことでなく使命であると、運命づけられているという意識からだった。

ここで、ペリー艦隊が浦賀に来航したとき、もちろんサムライ精神としての勢いとして、松蔭や龍馬は日本刀をふるって戦うと言っているが、象山は「まあ、アメリカと一戦まじえるのならば、風船爆弾で米本土を直撃するぐらいしか、方法がないだろう」と半ば冗談でいっている。

それから100年後、日本軍(陸軍大本営)が大東亜戦争で実際に「風船爆弾」を作ってアメリカ本土を攻撃している事実がある。

もし、この事実を象山が聞いたとしたら、自分の時代の100年以上も前でもあるまいし、何を馬鹿げたことをしているかと烈火のごとく怒ったであろう。前記の実利関係はともかく、先見性のある卓越した象山の才識が分かるであろう。

 

1854年、ペリー艦隊が再航したとき、会見場が急に横浜に決まったため、万が一に備え、幕府より横浜警備のため松代藩と小倉藩に兵を出すよう命ぜられた。松代藩の軍議役 象山は、この警備に大砲5門と、その他、洋銃など他藩と合わせて兵400人位で警備についた。

写真 右の「玉楠の木」は現在も開港資料館の中庭にある  写真 この地に埋設されていた当時の大砲1門

  

ぺりー上陸の絵画

また、横浜での「日米和親条約」締結で、象山は松代藩の軍議役で控えていたとき、ペリーが、象山にのみ「会釈」したことが記録にある。これは象山の背丈は173センチもあり顔は色白で、その風貌は日本人離れしており、当時の日本人として威風堂々たるものであったからであろう。

 

 1854年、門人吉田松陰が海外に行きたいと相談した時、象山は「よくぞ決断した」と激励した。これに対し「ジョン万次郎のように遭難に見せかけて密航するように・・・」と具体的に指示し海外蜜航を勧めた。この時象山43歳、松蔭24歳だった。この松蔭の蜜航事件に連座し罪を受けた象山は、伝馬町の牢獄に7ケ月間幽閉され、その後松代藩に蟄居(9年間)を命ぜられる。因みに、松蔭は同じ牢獄に幽閉され、萩に戻され蟄居を命ぜられたが、大老井伊直弼の安政の大獄に連座し、再び伝馬町の牢獄に幽閉され「橋本左内」と共に1859年処刑されている。

 

 ついでに、その他、一般的に知られている象山の門人は、勝海舟・小林虎三朗・河合継之助・坂本龍馬・橋本左内・高杉晋作・加藤弘之(後の帝大総長)・宮部鼎蔵などなど。

 象山は、木挽町(現在の歌舞伎座の前付近)の塾の書斎を「海舟書屋」と名づけ掲げていたが、蟄居を命ぜられたさい勝麟太郎に譲ったのである。これによって勝は「海舟」と号した。その後の勝は、生涯自分の室に、この「海舟書屋」を掲げていた。因みに、武士の結婚は同じ家柄でないと許可されなかった訳で、象山42歳で正妻として25歳年下の勝海舟の妹を娶っている。

 

 象山は、朝廷も幕府も拘わらない日本国を考えていて、志のある者なら誰でも知っている、とし暗殺される直前、愛妻宛の手紙に『わたしの開国論は、日本国の全体と将来の展望とを30年間もかけて創りあげた構想だから9年間のお咎めを受けたくらいでは変わらない。人々がどんな批判をしようとも自分の人事(仕事)を果たしてゆくのであり、それゆえに心中は「やすらか」である』と、現代の分かりやすい言葉でいえば、大意をこのように書いている。

松代に蟄居中の象山に対し、1862年頃、土佐藩・長州藩からの招聘をうけた。土佐藩は、象山を砲術師範として迎えるため、藩主山内容堂の命により中岡慎太郎ら4人の使節を松代に送った。長州藩は、以前から象山の赦免の陳情書を出していたが、久坂玄瑞ら3人を使節として送った。しかし、藩主(真田幸貫)も象山も、これらの招聘の打診を断っている。1863年に象山は蟄居を解かれる。因みに、中岡慎太郎は龍馬と共に1867年京都で刺客により暗殺された。

 

 その後1864年 象山は、幕府の命により上洛(上京)し、将軍(家茂)後見職の一橋慶喜の意を汲んで公武合体路線で開国策を行おうとした。すなわち、倒幕(徳川幕府)の長州藩と土佐藩に対し、象山は「日本開国論の思想」を持ちながら、松代藩のため幕府側に就いたのである。

 そして「禁門の変」を目前にした元治元年(1864)三条木屋町において待ち伏せていた、「人斬り彦斎(げんさい)」の異名をとる肥後熊本の藩士河上彦斎(長州に身を寄せていた)により、象山が馬で通行中襲われ暗殺された。生涯、信念に満ち才識あふれる気概の精神をもつ象山は、ここに波乱の生涯を閉じた。

 

 ここで象山の暗殺の理由を長州藩は、西洋学を唱え開国を主張していたこと、朝廷を開国説へと転換していたこと、長州の「禁門の変」を前に天皇を彦根城に「御遷座」させ、ついには江戸に「遷都」しようとしていたことなどである。

 

この象山の暗殺の1ケ月前、会津藩とともに京都警備についていた、近藤勇の率いる新撰組による「池田屋事件」で、以前の象山の門人であった長州藩の宮部鼎蔵は切腹している。

1864年、象山と同じ志をもつ松蔭の門下優等生「久坂玄瑞」が、長州藩の兵を率いて会津・薩摩などの兵と戦い「禁門の変」に負け、その責任をとって同士と刺し違え自決している。

 

    野毛山公園の佐久間象山 顕彰碑(横浜市長平沼亮三書)

 1954年(昭和29年)開港100年を記念して、横浜開港の先覚者である佐久間象山の碑が建てられた。(1854年ペリー艦隊が再航し日米和親条約が締結された年より)

象山は、ペリーが来航したとき老中安部正弘に開国を論じた。そして開港地として、横浜が最適であると強く主張した。                              

 参考資料 「評伝 佐久間象山」松本健一著 他

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