浜の文豪 ぼくの歴史散歩

 

吉川英治記念会館 青梅市柚木町

「ぼく」とは横浜生まれの横浜育ち19歳までの、「吉川英治(本名英次)(18921962)」のことである。ぼくの父親は、次男で幼名丈之助(後の直廣)である。(祖父は小田原藩の「徒士(かちざむらい)」最下武士であった)。母親は、先妻が亡くなり再婚した「山上いく子(母の郷里は千葉県佐倉で掘田藩士の四女)」で、武家でも小田原藩の父の里方とはだいぶ身分がちがう、「ぼく」はその長男である。

 

祖父はサムライで恐ろしく厳しい人で、父 丈之助が10歳のとき、些細なことで呼びつけられ、三方の上に短刀を置き「おまえ、嘘を言ったな、サムライの子なら嘘を言ったら腹を切れ」と命令し、いくらベソを掻いて謝っても断じて「切れ」と許さない。そのうち親類中が集まって許してやれと懇願しても「うん」とは言わない。夜明けごろになって、ようやく最後に「許すわけにはいかないが、親類にあずけておく」と言った。その直後、父は道了さん(大雄山最乗寺)の山奥に、14歳まで寺子姓にやられてしまった。修行もできたが酷使されたそうだ。(永平寺の開祖道元の弟子の弟子が道了である)

 

父は、祖父のサムライという薫陶を、そのまま無自覚にうけ、一徹で、頑固で明治時代の覇気と、立志の夢に燃えていた。父の職業は、官員で県庁の酒税官、各地の醸造家の酒蔵を視てあるいた。その後長野県庁へ転任を命ぜられ留守の間に、先妻が情痴沙汰で殺され、父は面目無さに辞表を出し辞めた。その後、小田原で牧畜を始め、士族がと嫌われ、牧場を横浜市郊外に移したが成功しなかった。

「ぼく」はこういう祖父と父とからつながっている、「忽然と社会の木の股から生まれて来た者みたいに、自分を取り澄まして安易にうぬ惚れてもいられない」と、時には自省してみる必要がある。と、後に述べている。「ぼく」は、この強い信念を持ち続けたのであろう。

 

ぼくの生まれた当時の両親は、神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市中区根岸台の根岸競馬記念公苑あたり)で、地主亀田某氏の借家に住んでいた。その後、石川町モンキ坂・遊行坂(ゆぎょうさか)(その一回は現在の石川小学校の校庭になっている)あたり、合わせて5回引っ越している。

ぼくは7歳になり千歳町の横浜市私立内山尋常高等小学校へ通学した。遊行坂を降りて車橋を渡る。その場所は、現在の千歳町の病院あたり、当時の隣の「水天宮さま」は現存しません。(この小学校は関東大震災で焼失し、山手に越し連光寺の近くにある横浜女学院である)。このころ父は、魚市場の書記から横浜桟橋合資会社に勤めていた。その後、横浜市南太田清水町1-2に転居、小学校まで1~2分の市立南太田尋常高等小学校へ転校(現在の南区の南太田小学校で道路を挟んでY校)したのである。そこの大岡川の橋は「清水橋」であるからこの付近であろう。

この住まいで「みどり屋雑貨店」を始めた、しかし人通りの少ないところで商売にはならなかった。

10歳ころからぼくは、雑誌「少年」に短文が当選し、「中学文壇」などに詩や短歌などを送っていた。

 

父は40歳のころ、横浜桟橋合資会社も隆運にむかい得意時代の有頂天にあった。10日間も居所不明にしていた父が、関内芸妓や茶屋の女将をつれて来て、母に酒の支度を命じた。客が帰ったあと、母が一言恨みをいった。父は刀を取り出し「斬ってしまう」と威嚇され、母は裸足で飛び出し、幼い妹を抱いて夜半まで塀の外にかがみ込んでいた。母は「・・・どうしてあんな恐ろしい人へ嫁いできたのだろう」と、くどくどと恨んで泣いていた。

 

父は、このころ勤めていた合資会社の社主と訴訟問題をおこし裁判に負けた。同時に父は、ぼくに「学校は中退しろ、他家へ奉公にでろ」と突然言い渡された。そして11歳のぼくは住吉町の川村印章店へ丁稚として奉公にでた。しかし、些細なことから暇をだされてしまった。その間に母より「清水町を引き払い西戸部蓮池」に移った。と手紙が来ていた。

 

その場所は、「伊勢山から紅葉坂の反対側の方を西へだらだら降りて行って、中途から狭い横道をまた右へ降りきった一画の窪地であった」(現在の西区 西戸部1丁目あたりか)。ぼくは「父がどんなに怒るか心配だった」が、この場所を探して家に帰った。が、父の姿は見えなかった。母は、父は働きにでていると言ったが、「私書偽造横領罪」で根岸監獄に収容されていた。このころ母は、14歳のぼくを頭に、次男・長女・他3人(女)のヒヨコを抱えていた。ぼくは日給14銭の印刷所に勤め、妹2人も伊勢佐木町などの店に奉公に出た。因みに、母は水子もいるが10人の子宝に恵まれた。

そのうち父が帰ってきた。そして父は、最初は酒を飲まなかったが、また呑み始めた。家賃も払えず、この借家も追い出され、西戸部の更に狭い家に移転した。

 

ぼくは、小間物行商の看板をみて勤めたが稼ぎにならず、また父の讒訴(ざんそ){他人を落としいれようとして事実を曲げて言いつけること}を言われ、更に「もう、およしなさいよ」と言われ廃めた。

 わけて又、父は胃潰瘍で血を吐きながら、煙草好きなので、「煙草がないっ、煙草ぐらい、何とかならないのか」と不機嫌を超えて狂人の相となり・・、そんな時の母のおろおろした姿は見ていられなかった。母は唯一枚の着ている袷まで質草に入れ、以前の「みどり屋」の暖簾を腰に巻いて外に出られずにいた事もあった。また、父はやたらに子のぼくに「この穀(ごく)つぶしめ」と怒鳴り爆発させていた。

 ぼくは当ても無く家を飛び出しては、夜おそく帰った。伊勢佐木町をうろつき廻った。不良仲間の倉庫などから搔っ攫(さら)った物を公園の木陰で食ったりした。妹の奉公している汁粉屋で店の外へ呼び出し、「お母さんが困っているから」と偽り9歳に過ぎない幼い妹(三女)の僅かな小銭を巻き上げて、買い喰いと立ち見の芝居に費やしてしまった。不良仲間に連れられて、土建屋の日雇いで働き(ヨイトマケ)日給30銭くれた。こともあった。

或る夕方、家に帰ると母が、ぼんやりため息をついていた。母が何を意味しているかすぐ分かった。漬物樽に一個の茄子さえ無かった。まもなくぼくは、馬鈴薯畑で罪を意識しながら犯行に及んだ。無我夢中で掘り出し風呂敷にいっぱいになった。その晩塩ユデにしフゥフゥいって食べあった。父は、ぼくの泥棒を知ろうはずがない。母も背に腹は変えられない思いで、子の盗みを許していたのだろう。

その他、野毛坂の古本屋で、無性にその本が欲しくなったので、ふらふらと、一冊の本を持って盲目的に駆けた。古本屋の主人の恐ろしい顔が迫った気がして、左側は伊勢山の高い石垣だったので、ぼくは恐怖と後悔から手の書物を石垣の下の小溝に抛り捨てた。その後、幾月もの間、野毛坂が道れなかった。

 

この頃、知人の紹介で西戸部の「横浜税務監督局」の「給仕」で月給7円也の日もあった。その後、日の出町の続木商店(内外雑貨海軍御用達)に住み込みで勤めた。1ヶ月後くらいの、或る夕方9歳になる弟の影が、前の舗道を行ったり来たりしている。ぼくが「何かあったの」と聞くと、弟はベソを掻き掻き「きのうから家じゅう御飯も何も食べてない・・」この時五銭白銅1枚しかなかった。僅かな金で心配になり「母が急病で・・」と偽り、店の牛缶を2個前借し、西戸部の家に帰った。途中金も無いのに、そばやで出前を幾杯か注文した。父は病床で、母や幼い兄弟は、きのうから一食もせず、雨戸も開けず、一日の餓えの中に、墓場のように寝ていた。母はその後、何日間も何杯かのそば代が払えず催促され、あんなに困ったことは無かったと言っていた。

 

その後ぼくは、同店の横須賀支店へ廻された。或る日、大きな木箱いっぱいの書物がぼく宛に届いた。野毛通りの金港堂古書店が差出人であった。何百冊あったろうか、全部が俳句の古雑誌であった。母からの手紙にこうあった。「以前、お父さんが世話した奥田さんが、お父さんの逆境を知り、古い金を返済してくれた、家のことは心配しないで下さい。父が御自分で金港堂から送らせたものです」と。

ぼくは、無性に嬉しかった。それから1年半過ぎころ、母の便りで「父は真面目な勤めでなく、生糸相場に手を染めて、元も子も失くし、再び以前のどん底へ落ちてしまった」と、あった。

 

その後、奥田さんから、関内の尾上町2丁目の「日進堂(全国諸新聞広告取扱)」の事業を父へ任せて貰って、店を譲り受け、其処に引っ越したと、ぼくの商店側にも連絡があり横浜の家に帰った。妹達も奉公さきから呼び返され、ぼくは一店員として帳場に座らされた。店の一部には化粧品の販売もしていた。

暇な時のぼくは、書物を読んだり、その頃から日本画などを描いた。近くの横浜の成功者の平沼専蔵が時々きて「あんた何に成るつもりかね」と問われ、大真面目で「絵描きになりたい」と答えた。この頃16歳で「学生文壇」にぼくの小説が当選した。しかし、1年余りで、また父も生糸相場で損に損を追い、店も維持出来ず全てを負債の抵当に渡して、再び元の貧民窟へ舞い戻る時には、水道料の滞納やらで、暗澹たる母の姿が窺われた。また西戸部に移り、父も何度目か潰瘍吐血や喘息で「家相が悪いとかで・・」住居を2度ほど転々とした。

そのうち近くの留さんとぼくは懇意になり、保土ヶ谷の土木現場へ行き一日35銭貰って帰ったりした。更に、玩具の笛をふところに持って、人知れぬ遠くへ行き笛を流して按摩をしたのもこの時期である。

 

ここで「浜ちゃん」こと四女の浜子は、わずか9歳であったが、どうしても15円程の必要に迫られ前借りのため、数ヶ月前、防州(千葉県)の田舎の飲食店へ、単なる口減らしということもあり、奉公に出されたのだった。遊びたい盛りなのに、母の側を離れたくなかっただろうに、遠くへと言われて「・・・うん」といったのだろう。

奉公先の主人の話では、着いた日からご飯もろくに食わず、泣いてばかりいたらしい、そのうちに床についてしまった。次第に痩せ細るばかりなので・・・親元へ帰してよこしたのである。家で寝かせたとき、もう意識はほとんどなく昏々としていたのである。医者は脳膜炎と診たてた。氷嚢をあて、半月ほどもそのままで、母は枕元で詫びてばかり、母も狂気しはしないかぼくは惧(おそ)れた。というのは、母から以前に母の兄弟2人は精神病にかかったことがあると聞いていたからである。ぼくもドックから帰ると浜子の枕元に座りきった。まるで天女(てんにょ)みたいな愛くるしい顔をしているのだ。時々微かにうわ言を洩らし必ず「おっ母さん」と呼ぶらしかった。そのたびに母は浜子を抱いて慟哭した。すやすやとそのまま亡くなってしまった。

浜子は貧乏のなかで物心のついたせいか賢い子で母思いだった。母は、後で悔やみに悔やんで泣く泣くぼくに打ち明けた。浜子の死ほど一家の者に深い痛恨を刻み込んだものはない。

 

ある日、母のお針仕事の縁で「横浜船渠会社」の重役から、ぼくはこの会社に入れて貰った。父は、たいへん歓んだ。その重役から「17歳とほんとうの事を言ってはいけない、規則は20歳以上だから20歳と言いなさい」と注意されその通りにした。その臨時雇用はハマでは「かんかん虫」と呼ばれた。ぼくの日給は45銭、夜業は1時間2割増しであった。

組長、小頭から「今日は、1号ドックの入渠船の錆び落とし」とか伝令された。或る19歳の夕方、1号ドック(現在、日本丸停泊の場所)に1万トン級の欧州航路信濃丸の外装ペンキ塗りをしていた時、足場上で号令により移動しつつあったが、号令者の確認不足かロープを緩められたため、ぼくは揺れる足場板から約12メートル落下し、気を失ってしまった。気がついたら野毛山の「十全病院」(現在の西区老松中学校の場所)にいた、幸い肩と腰の打撲で終わった。

 当時のまま保存されている1号ドック、右側に日本丸が見える

そのうち母は、吉田町の家に移ってからも、家計の内面は依然火の車だったろうが、毎日ぼくの見舞いに来て「もう、家の事は心配しないで、おまえの方針をとっておくれ」と言い「有難うよ。・・・英ちゃん、長い間、よく働いてくれたわね、もうおまえは、おまえの道を進まなければ」と母に言われ、12月の末退院し、父も「よかった」と何度もいった。機嫌の良いうちにと、ぼくは父に「東京に出て苦学します」に対し、父はかんたんに「苦学か。まあ、苦学もいちどは、やってみるといい」うっちゃるように、ゆるしてくれた。

年暮の30日、みんなで赤飯の朝飯を食べ、それから「ぼく」は母に送られて、桜木町の駅から東京に向う汽車に乗った。

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 

ぼくが26歳の時、父は浜町3丁目の新居で(享年55歳)亡くなった。癌や潰瘍や慢性の喘息であった。父が「なあ、おいく。今朝ばかりは、お前の姿が、観音様のように見えたよ」と、手を合わせかけたので、「いやですよ」と、母は笑いにまぎらした。夫婦になって初めてだったので、うれし涙がこぼれたと、母は言った。

ぼくが30歳のとき、父の死の3年後に、家は向島の植木場で母も(享年56歳)亡くなった。母の余生らしき日を、熱海や千葉海岸へ転地もさせ送らせたことが、僅かな慰めであった。しかし母はやっぱり口ぐせに「・・・お父さんがいたらねエ」と常に淋しさを洩らしていた。

母の病気は腸結核で、実に苦しげであった。ぼくが「・・・お母さん、お母さんは、きっと天国へ迎えられますよ。ほら、きれいな花が見えるでしょう。美しい鳥の声がするでしょう」と、耳元へ囁いた。

母は「・・よけいな事をお言いでない」と、微かに叱った。母は「みんな、仲良くしてね」と、それきりだった。ぼくは、今まで母から叱られたのは、記憶では3度くらいしかなかったが、「ぼく」への最期の母の言葉は叱咤であった。                            

 以上

  参考資料 「忘れ残りの記」吉川英治著 他


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