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「仁義なき戦い・代理戦争」

1973年・日本・東映
○監督:深作欣二○脚本:笠原和夫○撮影:吉田貞次○美術:雨森義充○音楽:津島利章○原作:飯干晃一○企画:日下部五朗
菅原文太(広能昌三)、小林旭(武田明)、金子信雄(山守義雄)、木村俊恵(山守利香)、田中邦衛(槙原政吉)、成田三樹夫(松永弘)、山城新伍(江田省一)、加藤武(打本昇)、室田日出男(早川英男)、川谷拓三(西条勝治)、渡瀬恒彦(倉元猛)、梅宮辰夫(岩井信一)、遠藤辰雄(相原重雄)、内田朝雄(大久保憲一)、丹波哲郎(明石辰男)ほか




 「仁義なき戦い」シリーズ第3弾。前作でちょっと時間をさかのぼって寄り道したが、ついに本格的な広島抗争(第二次)が描かれる。山口組も名前こそ変えられているものの幹部も含めて一目でそれと分かるように登場するため、相当に「業界」への根回しが必要だったと思われる。脚本の笠原和夫も「いやだいやだと言いながらとうとうやらされた」というような話をしているし、監督の深作欣二も「関係者の多くが服役している、いわば鬼の居ぬ間にやってしまった」と後年語っているから、相当にヤバいテーマだったのは間違いない。この一本に限らず、シリーズの出演者は自分の演じるモデルの関係者(遺族など)に直接会って「仁義」を通していたという。

 「実録」を掲げる映画だけに、この第三作もかなり史実に依拠した展開になっている。ただし元の抗争が複雑な人間関係、勢力間の駆け引きが展開されるだけにシナリオ化は難航した。結局混沌とした情勢を下手に脚色せずにその混沌のままぶちまけたようなシナリオになっていて(もちろんそれが芸術的なまでに交通整理されているのだが)、正直なところ一回見ただけでは展開を100%は飲みこめないと思う。大げさに例えるなら「三国志演義」の前半戦を100分間にまとめたようなもの(実際それに近い中国映画があったんだよな)。それでも流れを破綻させずに勢いで一気に見せてしまう作りがまさに神業。笠原自身「日本でも一、二を争う群像劇になったと思う」と自負するほどの一本となった。
 この1973年には「仁義なき戦い」の前半3作が公開されているが、「キネマ旬報ベスト10」に一作目(2位)とこの三作目(8位)が、同読者投票では一作目(1位)と二作目(4位)がランクインし、シリーズがどれだけ高評価を受けたかがよく分かる。興味深いのは映画評論家などによる投票では三作目が、一般ファン投票では二作目が上位に来るという点で、この「代理戦争」は評論家受けする、いわば「通好み」な内容であることがよく分かる。

 映画が始まると、いきなり市街での襲撃シーン。舞台は広島だが製作が東映京都なのでロケ地の多くが京都市内で、この場面も京都の商店街で撮影されている。しかもゲリラ撮影で、周辺の通行人はエキストラではなく本物の通行人。いきなり目の前で起こった銃撃場面に対し本当にビックリして取り巻いているのが分かる。逃げる襲撃者を追って菅原文太が「どけぇ!」と通行人を押しのけて行くカットもあるが、突き飛ばされる通行人も本物である。よく見れば菅原文太なので撮影だと分かっただろうけど、いきなりやられちゃビックリするのは当然。シリーズ全体でそういうゲリラ撮影シーンは多いそうで、手持ちカメラによる撮影もあいまってドキュメントタッチのリアリティを出すことに成功している。

 その冒頭いきなりの襲撃で広島有力ヤクザ「村岡組」の幹部が殺され、やがて村岡組組長が引退を決意し、その跡目争いが勃発する。だいたい大きなヤクザ抗争は跡目争いが原因でおこるもの。この映画では「タクシー屋のおっちゃん」こと打本昇(演:加藤武)が跡目を自負して神戸の巨大組織「明石組」(もちろん「山口組」がモデル)と結びつく。この勝手な動きに不快感を見せた村岡はシリーズ一作目以来の呉の親分・山守義雄(演:金子信雄)に跡目を譲ってしまう。
 メインの対立軸はこの山守VS打本なのだけど、田中邦衛山城新伍成田三樹夫室田日出男ら登場するヤクザたちは自己保身優先で状況によりそれぞれの思惑でと立ち位置を変えるからややこしい。最初は打本のほうが押され気味なのだが、明石組広島支部の看板を掲げたことで立場を強化。すると山守側の若頭・服部武(演:小林旭)がやはり神戸の組織・神和会(こちらは「本多会」がモデル)と結びついて明石組に対抗、広島の対立構図は神戸二大組織の「代理戦争」となってしまう。映画はそのオープニングで同時期のベトナム戦争や中東戦争における米ソの「代理戦争」の構図を語り、これを広島ヤクザ抗争にダブらせている。

 なるべく簡単に内容を書いてもこれだけややこしい。しかも状況が二転三転、おまけに実は直接的抗争の場面は少なめで、ヤクザ間の「盃」による外交工作(打本も「国際外交の時代」と言ってる)、互いの腹を探り合う謀略合戦が縦横に展開されるので、よく一本の映画に仕立てたものだと思ってしまう。先述のように一度見ただけでその展開が100%理解できるとは思えないが、演じている面々の名演ぶり、密度の濃い演出による名場面(とくに敵味方の会談中に停電ハプニングがおこるシーンは出色)とで、細かいことはともかく勢いに乗せられてしまうのだ。このシリーズに中毒的リピーター鑑賞者が多い一因が何度も見ないと分からないから、というのもあるような。

 ただそういう複雑な場面だけじゃ観客がついてこないだろうと、観客が感情移入しやすい「分かりやすいキャラ」もいる。渡瀬恒彦演じる広能組のチンピラヤクザ「倉元猛」がそれだ。笠原和夫も広島抗争を発端までと実際の展開とで二部にわけようと決めた時、この倉元のキャラをふくらませて形にしたと言っている。渡瀬恒彦は一作目で凶暴キャラ・有田役(二作目で大友勝利のエピソードにされた無人島での殺害は実際はこいつがやったと聞けば凶暴さがわかる)で床屋での銃撃シーンや検問突破のカーアクションで印象的だったが、今回は打って変わって不良ではあるがウブでピュアな若者役。「仁義なき戦い」シリーズでは同じ俳優さんが別人役で出てくる例が多々あるが、これなんかは顔は同じでもまるっきり違うキャラと分かるから不思議。
 またその母親うめ(演:荒木雅子)も強烈な印象を残してくれるが、これは一作目で梅宮辰夫が演じた「若杉寛」のモデルとなった人物の母親の印象を移し替えたものだという。

 そーそー、その一作目で死んだ梅宮辰夫は今度は明石組幹部「岩井信一」として再登場。モデルはもしかしたら山口組組長になっていた山本健一である(余談ながら、彼が早期に獄死したことが後年の「山一戦争」の一因でもある)。オリジナルに似せるため梅宮が眉毛を剃っちゃったというのも有名な話。渡瀬恒彦もそうだが同じ俳優が別人役で堂々と出てきちゃうのは「仁義」ワールドの名物で、その理由について梅宮本人は「役者が足んないから」とアッサリ発言している(笑)。山口組関係者では戦後ヤクザ最大の大物・田岡一雄にあたる役どころを丹波哲郎が演じているが、セリフはいっさいなく座ったり立ったりしてる様子が映るだけ(笑)。明石組(=山口組)が全国制覇を目指して各地で起こす事件が次々と挿入される部分は、のちに映画化されているエピソードもあるので(菅原文太主演のがある)実録ヤクザ映画ファンには要チェックである。
 一作目、二作目でも死んだ川谷拓三は本作でついに重要キャラの一人を演じる大抜擢。役名がつき、ポスターにも出演者として名前が載ったのはこれが初だった。当初キャスティングされていた荒木一郎が広島行きを怖がって直前に降りてしまったための抜擢だったが、キャラがバッチリあっているように見えるからこれまた不思議。指詰めの代わりに手ごとぶった切ってしまうという凄いエピソードが出てくるが、これも実際にやっちゃったヤクザがいたんだそうで。

 一作目以来のレギュラー・金子信雄演じる山守親分は、ますます絶好調(笑)で、得意の泣き落しをしたり、セクハラジョークを言ったり、加藤武の打本を人前でさんざんコケにしたりと名場面の連発。一作目でウケてしまったためますますそういう描写がほとんどギャグのようにエスカレートしてしまい、笠原和夫は「あんな親分がいるわけない」と批判的だったという。ただしヤクザ関係者の中には「あのまんまだ」と言ってる人もいるそうだし、映画中に描かれた名場面はちゃんと史実の元ネタありだというから恐ろしい。対する打本も性格はモデルに非常によく似せており、加藤武が「自分に一番近い」と自負する腰抜けのセコキャラ(笑)を本当に楽しそうに名演しているのも見どころ。
 二作目はお留守にしていた田中邦衛演じる槙原とのコントのような極悪コンビぶりも楽しい。二作目に続く登場なんだけどキャラが一転してお調子者になった山城新伍の江田(本人の素に近いんだろうな)、やはり前作からの連投だがクールなままアッサリ退場してゆく成田三樹夫の松永、状況によりあっちこっちウロウロして結局抗争の引き金をひいてしまう室田日出男の早川、そして本作から参戦して「もう一人の主役」となる小林旭演じる服部の二枚目の策士ぶり、と個々のキャラクターのアンサンブルぶりが一番見事に結実してるのもこの「代理戦争」の売りで、だから話が飲みこめなくても面白く見てしまえるのだな(笑)。

 主役はもちろん菅原文太演じる「広能」だが、実のところこの第三作でも主人公らしい活動はほとんど見られない。一作目ラストでケンカ別れした山守とも成り行きでアッサリ復縁してしまい、山守を広島のトップに据えることに一役買ってしまう。ところがその後は山守を引退に追い込むべく画策、それで打本と結びつくのかと思ったらこっちともケンカしてしまうからややこしい。映画では彼の視点で描かれるため彼なりによかれと思って動いていることが、あれこれうまくいかなくなってくるように見えるのだが、一歩距離を置いて眺めると単に右往左往してるだけ、とも見える。彼の眼から批判的に描かれる他のヤクザたちと実は同じ穴のムジナではないか、という気もしてきちゃうのだ。
 そもそも主人公のモデルである美能幸三は、新聞社がこの抗争をまとめた「ある勇気の記録」の中で自分が日和見であちこちふらつくヤクザであるように書かれたことに激怒して自身の名誉回復のために原作となる手記を書いたという経緯がある。だが当人の思いはどうあれ、はたから見ているとやっぱりフラフラしていたようにしか見えず、図らずもそれが映画でも出て来てしまっているような。最近知ったが、美能は映画シリーズにはやっぱり不満で、実は自らシナリオを書いてもいたのだそうな。

 そんな主人公なんだけど、この時期ノリにノっていた菅原文太、啖呵を切る時の迫力の存在感と、眉をひそめ苦悩をかみ殺してじっと耐え忍ぶような表情とが強烈で、派手な動きをほとんど見せなくてもやっぱり主人公の風格。公開当時この映画を見て劇場を出た人たちが文太になりきって肩で風を切って歩いていた、なんてよく語り草になってるが、実際の映画の中でのおよそ爽快感と程遠い役回りとはずいぶんギャップがあるわけで、それはやはり文太個人のカッコよさにみんなシビれてしまったということなのだろう。

 ラストシーンの強烈さはシリーズ中でも最高だろう。勝手に鉄砲玉になって死んだ組員の葬儀の場を襲撃され、路上に遺骨が散乱する。その光景を目にして絶望の慟哭をする母親。まだ火傷するほど熱い遺骨を広能は手の中に握り締め、そのまま無念の思いと共に握りつぶす。凄まじい哀しみと苦悩の表情の広能の顔がアップになり、その視線が原爆ドームとカットバックされる。このカットバックについてはNHKの番組「仁義なき戦いを作った男たち」でカメラマンの吉田貞治が「広島を象徴するもの」を撮ってくれと言われて撮影し、「結局は暴力というものは行き着くところここまでいってしまうのだ」という意図を込めたと証言している。
 そして「戦いが始まるとき、まず失われるのは若者の命である。そしてその死が、報われたためしがない――」と冷徹なナレーション。このラストシーン、この映画がヤクザの抗争を扱いながら、やはり作り手が先の戦争とイメージをダブらせていることが明確に示されている。「報われたためしがない」とは実に強烈なメッセージではないか。凡百の戦争映画、反戦映画よりも戦いをしてしまう人間の愚かしさと、その空しさを直截的に突きつけた名ラストシーンである。(2012/6/13)
 


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