CD−ROM2システム

ジャンル:ハードウェア
媒体:周辺機器
発売元:NECホームエレクトロニクス
発売:1988年12月4日
価格:57800円
商品番号:CDR-30


外見◆世界初のCD-ROMゲームマシン!

 ゲーム史上におけるPCエンジン最大の功績は、世界で初めて家庭向けにCD-ROMシステムを普及させることに成功したことだ。そりゃまぁ普及といってもゲーム市場全体から見れば微々たる数字ではあったのだが、「世界初」というのはやっぱり凄い。PCエンジンが切り開いたCD-ROMゲームの世界は、その後のゲーム機・ゲームソフトの流れに決定的な影響を残している。

 音楽用CD(コンパクト・ディスク)が発売されたのが1982年。CDは数年のうちに普及を拡大してそれまでのレコード(LP)を駆逐していった。音楽用から始まったCDだが、そもそもデジタル情報を記録するメディアなわけで、早くから音楽用以外の利用が構想されていた。CD-ROMもその中の一つだったわけだが、当初は大量の情報を記録できる性能を生かして百科事典的なデータベースや教育用など「お堅い方面」での利用が想定されていたといわれる。
 
 この当時最先端の技術のカタマリといえるCD-ROMを、家庭用ゲーム機に持ち込んじゃえ!という、トンデモないことを実行しちゃったのがPCエンジンを開発していたハドソンの技術スタッフ。特にその中心にいた中本伸一(大学時代から黎明期ハドソンに出入りしてパソコンゲームプログラムに熱中、そのまま大手ソフトメーカーの幹部社員となっていった過程はNHK「新・電子立国」中で詳しく紹介された)がCD-ROM導入の牽引役となったと言われる。多くのPCエンジンソフトのプログラマーでありPCエンジンそのものの歴史と深く関わる岩崎啓眞氏がPCエンジン史を総括した文章(「電撃PCエンジン」1996年4・5月号付録「PCエンジンソフトコレクション」掲載)でつづるところによれば、PCエンジンへのCD-ROMの導入は「よくも悪くも実に冒険的で新しいことの好きなおもしろい人」である中本氏が「強引に(どちらかといえば無理矢理に近かった)推し進めた」ものだという。そういう発言をしている岩崎氏はCD−ROMの前段階にあたるマルチメディア規格「CD−I」の開発にたずさわっていた関係で、当時CD−ROMのノウハウをもっとも知る人間としてハドソンに引っ張り込まれ、PCエンジンCD−ROMシステムの設計段階から関与し、CD−ROM2のBIOSにも岩崎氏が書いたプログラムが含まれているという。

 ところで中本氏の発言(結構あちこちにPCエンジンの技術話を書いたり話したりしている)を読むと、彼がCD-ROMにゲーム利用面での魅力を感じたのは「声が出せる」ことが大きかったようだ。また「アニメ」(厳密にはその後「ビジュアルシーン」と呼ばれるもの)が表示可能ということも魅力と見ていたことは、「天外魔境」の企画を持ち込んだ広井王子氏にCD-ROMとは何かを説明した際の発言でも読み取れる(「風雲カブキ伝」体験版ムック中の広井氏の文章に出てくる)。とにかくそんなわけでCD-ROMを使ったゲームを作ってみたい!の一念で「NECさんにマシンを作ってもらった」(本人談)のだそうである。
 実際にハードを作ることになったNEC側も当時の主力機PC−8801の後継機に「よりアミューズメント寄りのCD-ROMを搭載したマルチメディアマシン」の投入を計画していた(当時NEC−HEでハード設計に関わっていた高垣信宏氏が「ドリマガ」誌2003年19号のインタビューでそう証言している)。それってパソコンで言うと「FM TOWNS」に近い発想で、NECではPC−9821の登場(1992年)まで待たなきゃいけない気もするのだが、その計画がハドソンからの呼びかけで「PCエンジン」として先に結実する形になったようだ。
 
 CD-ROMシステムの発売自体はPCエンジン本体発売のほぼ一年後だが、PCエンジンがその設計段階からCD-ROMによるソフト供給を視野に入れていたことは、HuCARDソフトのケースがCDのそれとほぼ同じ作りになっている点から明白。もっともCD-ROMがメインになるとはあまり思っていなかったようで、「コア構想」におけるオプションの1つぐらいに考えていたかと思われる。
 それにしても「無理矢理」という表現が出てくるようにCD-ROMの家庭用ゲーム機への導入はかなり無茶な話だったはず。まずCD-ROMドライブの値段が当時はバカみたいに高かった。そもそもこの時点ではCD-ROMドライブなぞ高級パソコンの周辺機器としてようやく開発されていた段階だ(日本初のCD-ROMドライブ搭載パソコンは1989年2月の「FM TOWNS」)。初代CD-ROM2システムの6万円弱もする価格に現在の我々も驚かされるが、当時パソコン用のCD-ROMドライブが20万円(!)したそうだから、この時点ではこれでもほとんど投売りに近い頑張り価格だったとも言える。

 またこの当時、家庭用ゲーム機はまさにファミコンの全盛期。ファミコンのソフトはROMカセットで、その容量はせいぜい256キロビットというまさに微々たるものだった。1986年に発売されたファミコンの「ディスクシステム」はこの容量の壁を破って(しかも書き換え・記録可能で)ROMカセットを駆逐するかに思えたが、「バンク切り換え」技術の導入により1メガビットを超える「大容量」のROMカセットが登場し、逆に「ディスクシステム」を駆逐することになる。だがそれでも数メガビットの容量でゲームは十分、という時代だったのだ。
 PCエンジンのCD-ROMの容量は540メガバイト。1メガバイト=1024キロバイトで1キロバイト=8キロビットだから、540メガバイト=4423680キロビット。当時雑誌のファミコン記事を担当していた記者が「じゃあCD-ROM一枚にこれまでのファミコンのゲームが全部入っちゃうんじゃないの?」と驚いたという話がPCエンジン専門誌に載っていたりしたが、計算上は間違ってない(事実、全HuCARDソフトのROMは一枚のCD内に楽勝で収まる)。そんな大容量を何に使うんだ、と呆然としてしまう人が多い容量だったのだ。

 この大容量はソフト開発の場面でも大変だった。そもそも当時はCD-ROMの540MBの大容量を収められるハードディスクが存在しなかった(そういや1995年ごろに僕が初めて購入した「大容量HDD」も500MBていどだったっけ)。CD-ROM開発現場では複数のハードディスクを積んでCD1枚のエミュレートを行っていたといい、その機材だけで1000万円(!)もした。さらにCD−Rなんて便利なものはまだない時代、サンプルを作るためにはCD-ROMのデータをテープに記録し、それを工場でちゃんとプレスしてもらわなければならず、その一回だけで100万円(!)もしたというのだ(以上の数字は「ドリマガ」誌2003年19号のPCエンジン特集でハドソンの三上哲氏がインタビューで語っているもの)
 こうして並べていくと、CD-ROMの家庭用ゲーム機への導入がいかに無茶な話であったか、実感をもつことができるだろう。こんなことがまかり通った(笑)のも、当時のファミコンブームによるゲーム業界のイケイケドンドンぶりが背景にあるのだろうが…

 さてともかく商品化は実行に移されたわけだが、CD−ROMなんて世間一般では全くなじみのないシロモノ、しかも何やら硬そうなコンピュータ用語では家庭向けに売れないと判断したのだろう、NEC−HEは楽しげなイメージを付加しようと不思議な商品名を考え出す。「CD−ROM2(正しくは二乗)」と書いて「CDロムロム」と読ませることにしたのだ。以後「ロムロム」はバージョンアップを繰り返しつつもPCエンジン史の最後まで継続されることになる。


◆三体合体!

 PCエンジンCD-ROM2システムはまだギリギリで昭和の御世だった1988年年末に発売となったが、当初はCD−ROMドライブ部分である「CD-ROM2プレイヤー」(CDR-30)と、PCエンジン本体と接続する部分である「インターフェイスユニット」(IFU-30)の二つが別々の箱に入れられて販売されていた。なんでこんな風になっていたんだろうと長年不思議に思っていたら、最近知ったところによると実はこれ物品税対策であったらしい。1988年年末はまだ消費税導入前で(翌年4月から導入)、CDプレイヤーは音響機器扱いで物品税が課せられていたため、課税品と非課税品を別商品として販売することで節税をしていたのだという。まもなくすべての商品に3%(当時)の消費税がかかるようになったため、以後は二つを一つの箱におさめたパッケージ販売になった。だから逆に別々の箱に入ったCD−ROMシステムはかなり貴重なんである(僕は中古屋で目撃したことはある)

CD−ROMプレイヤー 「CD−ROM2プレイヤー」はほぼ正方形でPCエンジン本体とだいたい同じ大きさ。再生・トラック移動・一時停止・リピートなどCD操作ボタンとヘッドホン端子・ライン出力端子もあり、電源につなげばこれ単体で音楽CDの演奏が可能だった。CDドライブの蓋の手前が広く半透明になっており、CDの回転の様子がよく見えるのだが、これはその後のPCエンジンCD−ROMマシンには受け継がれなかった点。また左下に「TRACKMODE」と表記された表示窓があり、CDを認識すると「CD」、PCエンジンソフトを認識すると「PC」と赤い電光掲示が出るようになっている。音楽CDを再生しているときはここにトラック番号も表示される。
 一応小型でCDウォークマンよろしく携帯演奏機器としての利用も出来る構造なのだが、高さ約4cmとやや厚めで重量も400gあり、携帯用に使うにはおよそお手軽とはいえない。まぁ買った人の大半はPCエンジンと接続したままにしていただろうけど。
 確認はとっていないのだが、このCD-ROMプレイヤー、パソコンのPC-8801MCのCD-ROMドライブとして使えたという話もある。また別売り時代の後期には「CDR-30A」という型番のものがあり、これはアクセスエラー対策のための機能を追加していたという。

 「インターフェイスユニット」はこのCD−ROMプレイヤーとPCエンジン本体をつなぐ役割を持っているのだが、機能はそれだけにとどまらない。
 まずCD−ROMソフト用に、CDから読み込んだデータを一時保存するバッファRAM、ADPCM音声用のRAMなどが搭載されている。さらに出力でもコンポジット映像およびステレオ音声の「黄・白・赤」でおなじみのAV出力端子をPCエンジンにおいて初めて装備している。
 そしてもっとも重要なのは、ゲームデータをセーブできる「バックアップRAM」を初めて搭載したこと。家庭用ゲームのセーブはファミコンでも初めはパスワード利用でやがてソフトのカセット内にバックアップRAMを搭載するようになっていったが、薄型のHuCARDではそうはいかず、最初から外部にバックアップRAMを接続する構想だったようだ。特に大作ゲームが遊べるCD−ROMにおいてはセーブ機能が必須と考えたか、このインターフェイスユニットで初めてバックアップシステムが搭載されることになったのだ。ソフト自体にではなく本体の側、あるいは周辺機器にデータ保存を行うという現在のゲーム機では当たり前の仕組みは、これまたこれが世界初なのである。
 なおこのバックアップRAM、電源をつないでいるときに充電してデータを保存するしくみとなっており、電源を外してもすぐデータが消えるわけではないが、つながないままで放置しておくと数週間程度で消えてしまうことになっている。ただこれも意外に長持ちすることがあり、数ヶ月から一年放置してあったマシンのバックアップRAMの中身がちゃんと残っていたという報告も多いのだ。

合体状態 インターフェイスユニットの接続は左側にCD−ROMプレイヤーを、右側にPCエンジン本体を合体させ、手前のスライドで固定する仕組みになっている。合体状態を解除する際は手前の固定スライドをはずし、後部にあるイジェクトレバーを上げるとガチャリとCD−ROMプレイヤーおよびPCエンジン本体が前に押し出されて接続が外される。
 面倒な話ではあるが、そもそもCD−ROM2システム自体がPCエンジン本体にいろいろ機器をつないで多目的利用しようという「コア構想」のオプションの一つに過ぎない設計だったわけで、CD−ROMドライブ一体化マシンの「DUO」が出るまではこうした「合体」を行わないとCD−ROM2ソフトが遊べない状態が続いたのだ。
 右の写真は初代PCエンジンをCD−ROM2システムに接続した状態を示したものだが、その後のPCエンジン本体、「コアグラフィックス」「コアグラフィックスII」さらには「LT」も同様の接続が可能だ。「スーパーグラフィックス」はかなり特殊なデザインなのでCD−ROM2システムへの直接の接続は不可能なのだが、専用の「ROM2アダプタ」を使用すれば接続可能だった。低年齢向けをねらった「シャトル」や携帯用である「GT」は、はなからCD−ROM2との接続を切り捨てている。

 インターフェイスユニットには「手提げ」が引き出せるようになっていて、この合体状態のまま収納可能なケースを装着すれば片手にぶら下げて持ち歩ける。運ぶときに便利といえば便利なんだが、「だからどうした」と言いたくなる機能でもある(笑)。なぜか知らんがPCエンジンには携帯機能を意識したものが多いんだよな。


◆システムカードによるバージョンアップ

システムカード1.0 さて接続しただけではCD−ROM2ソフトは遊べない。ここがPCエンジンCD−ROMシステムのさらなるややこしいところで、「CD−ROM2システムカード」なるものが必要なのだ。当然ながら別売ではなくCD−ROM2システムに同梱されていた。
 システムカードはPCエンジン本体にHuCARDと同様に差し込んで使用する。カード内のROMにはCD−ROM2システムを制御するプログラムが搭載されている。
 このカードを差し込んでPCエンジンの電源を入れると「CD−ROM2SYSTEM」という初期画面が表示され、パッドのRUNを押せばPCエンジンCD−ROMソフトが入っていればそれを起動し、音楽CDが入っていれば音楽CD演奏プログラム(このデザインがなかなか秀逸かつ高機能。下図参照)を起動させる。SELECTを押すとバックアップRAM操作モードに入り、ここでバックアップRAMの初期化やデータの削除が行えるようになっていた。こうした機能はその後のバージョンアップでもほとんど変化せずに受け継がれることになる。

Ver.1.0の音楽CD演奏画面 初代CD−ROM2システムのバッファRAMの容量はわずか0.5メガビット(64キロバイト)。大容量のCD−ROM!とうたいながら一度の読み込みでその場で使える容量がHuCARD1枚にすら及ばない現実は「プールの水をコップで汲み出すような」と表現された(笑)。ソフト開発側としては設計段階で「もっとRAMを増やせ!せめて128Kバイト」と要望したらしいのだが、当時のRAM価格の高さもあって断念を余儀なくされた。もっともその後のシステムカードのバージョンアップでバッファRAMはどんどん増強されたわけで、件の岩崎氏は「結果よければすべてよし。下手に128Kバイト積んでたらスーパーCD−ROM2も出なかったような気がする」と語っている。

 今から思えばかなり面倒なシステムカード制だが、これがハードの延命につながった部分もある。その後PCエンジンでは次々と新CD−ROMマシンが出てパワーアップしていくのだが、この初代CD−ROM2システム所有者もシステムカードだけ最新のものに取り替えれば最新のゲームを遊ぶことが出来たからだ。
 最初のシステムカードは「Ver.1.0」。このバージョンのみ裏技でバックアップRAMの操作が可能になるのだがバグることもあるので要注意。その後「Ve.r2.0」が同梱されるようになるが、このバージョンからカラオケCDの一部にあった「CD−G」機能が追加され、プログラムも若干改造されている(そのためCD版「獣王記」は「Ver.1.0」でしか動かない)。さらにオートディスクチェンジ機能が追加された「Ver.2.1」があり、このバージョンは同梱だけでなく別売りもされている。
 初代CD-ROM2システムの発売からほぼ3年がたった1991年秋、バッファRAMを従来の4倍の2メガビット(256キロバイト)に増強する「SUPER CD-ROM2システム」が登場、CD-ROMソフトのパワーを一気に解放することになる。初代システムの所有者も「スーパーシステムカード(Ver.3.0)」を使用することでSCDソフトを遊べるようになった。
 さらに3年近くたった1994年にバッファRAMを一挙に18メガビットにドドーンと増強してしまう「アーケードカード」が登場、流行の格闘ゲーム移植作に威力を発揮することになる。初代システム所有者にも「アーケードカードPRO」を導入することでアーケードカード専用ゲームを遊べるようになるのだが、いかんせん17800円と高価。しかし1988年に出たマシンで「餓狼伝説Special」(’94)なんかが力任せに動く光景は感動的ですらある。

 こうしたシステムカードによるバージョンアップは、PCエンジンユーザーにひそかな楽しみも与えた。それは「バージョン違い警告画面」というやつだ。SCD以降のソフトを古いシステムカードで起動すると、「バージョンが違います」と警告する画面が映されるのだが、これがソフト開発者のイタズラ心から凝って作られるものが多く、登場人物やゲームのパロディや、全然無関係のものが映されたり、凄いものになるとミニゲームが遊べたりと実にバリエーション豊富。これらはDUO以降のユーザーでは楽しめず、そのためにわざわざ旧システムを捜し求めるPCエンジンファンも少なくなかった?とも言われる(笑)。
 CD-ROMソフトにおける同様のお遊びとして、CDのトラック1に必ず収録される「音楽用CDプレイヤーで2曲目以降を再生しないで」という警告音声も、後期にいくほど凝ったものが多くなり、ユーザーを楽しませた。こういうイタズラもPCエンジンが世界初なのだ!(笑)。


◆CD-ROM2ソフトの歴史

 1988年12月4日発売開始のCD-ROM2システム。同時発売のソフトは「No.Ri.Ko」「ファイティングストリート」の2本だった。前者は実写画像と音楽を使ったグラビア的アイドルソフトであり、後者はアーケードゲーム「ストリートファイター」の1作目を移植したものだ。なんとも妙な組み合わせだが、当時ソフト開発者側もCD-ROMをどう使ったものかと試行錯誤していたことの表れだろう。

 「No.Ri.Ko」から始まるアイドルソフト路線はCD-ROMならではの企画としてしばらく続き、しまいにはゲームソフトからアイドルを生み出す(「みつばち学園」で選ばれた井上麻美や「ウルトラBOX」のUBガールズ)ところまで行ってしまうが、結局のところ大きな成功は収めなかった。またそれと連動する形でCD-ROM2システムに家庭用カラオケとして普及させようという計画も展開されたが(ROM2アンプや各種カラオケソフト)、これも失敗に終わる。

 ほかにはCD-ROMが当初考えられていたお堅い方面の利用――データベースや教育用ソフトの方面でも展開が行われ、「ビックリマン大事界」(’88)「マジカルサウルスツアー」(’90)の2本がある。ムック付録だが「PCエンジンハイパーカタログ」なんかもデーターベース利用の一例と言えるかもしれない。
 CD-ROMの特性を生かした企画として「ウルトラボックス」(’90〜’92)のような「デジタル雑誌」のこころみもあった。これも結果から言うといまいちパッとしなかったのだが、世界初の「早すぎた企画」としてデジタル史上のひっそりと輝いている。
 声が出て絵が出る!ということで「デジタルコミック」と呼ばれるジャンルが生まれたことも重要だ。「アドベンチャーゲーム」とどこが違うのか、という議論もあろうが、「コブラ」(’89、’91)2部作とか「うる星やつら」(’90)といったソフトはアニメとゲームの中間ぐらいという独特の表現方式を生み出し、その後のCD-ROMとアニメ作品との親和性をいっそう高くした。また動かない漫画に声と動きを付加した「DUOコミック」という電子出版の試みも、わずか2本(「うしおととら」「爆れつハンター」)ではあるが実現している。

 しかし――やっぱりCD-ROMの利用できっちり生き残ったのは「ゲーム」だった。ハドソンはCD-ROMを利用した当時としてはとんでもないスケールのRPG「天外魔境」(’89)を一年以上の年月をかけて開発しており、予想を超える売り上げを出してCD-ROM2の普及を拡大した(この時点で8万台くらい)。さらに89年末にパソコンからの移植ながらオリジナルを超えた名作と言われた「イースI・II」(’89)、90年前半にアーケードの名作シューティングを絶妙に移植した「スーパーダライアス」(’90)が相次いで出て、CD-ROM2購入者を一挙に増加させる(この時点で25万台くらい)。PCエンジン本体を合わせると8万円を超える高額な出費をも辞さない人がこれだけ出たんだから、ゲームマニアのおめがねにかなったのは確かだろう。まぁまだ世はバブル絶頂期、ということもあったかな。

 その後も順調に普及を拡大したCD-ROM2システム、1992年3月(つまり「天外II」発売直前時期)のPCエンジンFAN誌のデータでは旧CDシステムの販売台数は100万台に到達していたとある。前年の「DUO」発売後はこれがPCエンジンのメインマシンとなり、これと合わせてPCエンジンCD-ROMマシンの販売台数は最終的には150万台を超えたのは確からしい。今から思えばあんな高価なマシンをよく、と思うが、その辺が限界でもあり他機種を超えるにはいたらなかった。
ケースに収納した状態 SCD投入以後はPCエンジン=CD-ROMという図式が定着し、それによって他機種との差別化をはかろうとする傾向が強くなる。また90年代初頭は世の中ではCD-ROMのマルチメディアがどーのこーのと、実態もよく分からず騒がれる風潮があり、NECはPCエンジンを「世界初、もっとも普及したCD-ROMマシン」として「CD-ROMはNEC」のキャッチフレーズで積極的に売り込んでいた。この時期にはアニメ並みとも思えるビジュアルシーンと豪華声優の肉声による演出を売りにしたゲームが急増し、世間的には「ギャルゲーマシン」のイメージが定着していったという面もある。
 しかし1994年のCD-ROMマシンだらけの32ビットの次世代機戦争では完全に出遅れ、もう少し持つだろうと思っていたPCエンジン市場があっさりと壊滅、後継機PC−FXもCD-ROMマシンの優位性を発揮できず、ハドソン&NEC-HEの家庭用ゲーム機事業はおよそ10年で終息することとなった。

 この文章を書いている時点で、家庭用ゲームの世界ではCD-ROMもぼちぼち過去のものとなり、DVDさらに次世代のディスクへと世代交代の波が進んでいる。しかし大容量の光ディスクによる映像と音声を使ったゲームデザインそのものは今なおPCエンジンCD-ROM2が切り開いたものがベースとなってるわけで、そう大きく進化しているわけではない。CD-ROM2の功績はゲーム史上の大きな一里塚として今後も語り伝えられていくだろう。


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