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投稿時間:2014/10/26(Sun) 21:14
投稿者名:Ken
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タイトル:
バイブル・ガイド
 タイトルは『Asimov's Guide to the Bible』。一九六九年に発表された大作です。アジモフの小説では最も長い『ファウンデーションと地球』と比べても、ざっと三倍の分量があるでしょう。もう一つの解説書の大作『Asimov's Guide to Science』と比べても同等か、それに近い分量があると思われます。内容は、題名どおりバイブルの解説書ですが、教会の聖書勉強会で語られるような、宗教の話をするわけではありません。キリスト教世界では、長い間、バイブルの記述はすべて史実と信じられてきましたが、一体どの記述が真実でどれがフィクションなのかを考証してゆくのが本書の大きな目的です。

 ただしアジモフは自他の認める無神論者ですから、神が世界を創ったとか、自分に似せて人間を作ったとか、ノアの洪水を起こしたとか、息子を救世主として送り込んだとか、そういうことの真偽を検証しようとはしません。フィクションに決まっているという立場ですから。しかし、例えばエジプトで奴隷にされていたイスラエル人を脱出させるため、神がエジプトに災厄を起こしたという『出エジプト記』の話は、この時代の史実のエジプトを非常に苦しめた民族移動が背景にあるのではないか、というような考察を行います。また、超自然的な話はフィクションという原則的立場をとりつつも、予言の話だけは慎重に検証をしています。例えばダニエルの預言書とその後の歴史を照合すると、未来予知をしたとしか考えられないように見えます。本当に「預言者たち」は未来を予知したのか、バイブルの記述を詳細に検証し、バイブル以外の史料も参照しながら、考察を行います。さらには、フィクションを含めてバイブルに含まれる話が、どのような事情で書かれたのかについても、その時代の背景を考えながら、考察をしてゆきます。

 このような考証は、日本人には、古事記の研究を例に挙げれば分かりやすいかもしれません。オオクニヌシがアマテラスに国を譲ったというのは神話です。しかし、古代日本には大和と拮抗する文化を持った出雲の勢力があり、これが最後は大和の支配に服した史実が国譲り神話に反映されている、というのは歴史研究者の間で有力な説となっているはずです。また神武天皇が日向の国から興って大和を征した話はフィクションかもしれませんが、凡そ、経済や文化の遅れた地域が軍事能力だけを突出させ、先進地域を征服する事例は中世までの歴史には大量にあり、ヨーロッパ史上の王室などは、大抵は中世のノルマン人つまり最も遅れた北欧から出てきた征服者の子孫なのです。また大和が出雲を支配下に入れたとき、相当に宥和的な政策をとったに違いないことは、スサノオがアマテラスの弟とされていることから伺えますが、大和と出雲の間にはやはり抗争があったことも事実で、スサノオが高天原で狼藉を働いた話はその反映と考えられるでしょう。それでもヤマタノオロチ退治の話は残り、この出雲の神は、大和が編纂した史書の中で、邪神ではなく英雄神になっているのです。

 同じように、バイブルで語られる各エピソードのそれぞれが、果たして史実なのかフィクションなのか、フィクションにせよ、なんらかの事実を背景とするのか、そういうことを合理的に検証しようというのが、アジモフの執筆意図といってよいでしょう。

 バイブルは、ユダヤの経典である『旧約聖書』と、ユダヤ教から派生したキリスト教の誕生と成長を記した『新約聖書』から成り、それぞれが複数の「書」から構成されます。実はどの書がバイブルの正典に含まれるかは、宗派によって若干異なるのですが、本書は以下の構成を採用し、各書を順番に紹介と解説をしてゆきます。なお、各書の日本語題名は、ウィキペディアで記事のタイトルになっているものを採用しました。

創世記 / 出エジプト記 / レビ記 / 民数記 / 申命記 / ヨシュア記 / 士師記 / ルツ記 / サムエル記一 / サムエル記二 / 列王記一 / 列王記二 / 歴代誌一 / 歴代誌二 / エズラ記 / ネヘミヤ記 / エステル記 / ヨブ記 / 詩篇 / 箴言 / コヘレトの言葉 / 雅歌 / イザヤ書 / エレミヤ書 / 哀歌 / エゼキエル書 / ダニエル書 / ホセア書 / ヨエル書 / アモス書 / オバデヤ書 / ヨナ書 / ミカ書 / ナホム書 / ハバクク書 / ゼファニヤ書 / ハガイ書 / ゼカリヤ書 / マラキ書 / トビト記 / ユディト記 / マカバイ記一 / マカバイ記二 / マタイによる福音書 / マルコによる福音書 / ルカによる福音書 / ヨハネによる福音書 / 使徒言行録 / ローマの信徒への手紙 / コリントの信徒への手紙一 / コリントの信徒への手紙二 / ガラテヤの信徒への手紙 / エフェソの信徒への手紙 / フィリピの信徒への手紙 / コロサイの信徒への手紙 / テサロニケの信徒への手紙一 / テサロニケの信徒への手紙二 / テモテへの手紙一 / テモテへの手紙二 / テトスへの手紙 / フィレモンへの手紙 / ヘブライ人への手紙 / ヤコブの手紙 / ペトロの手紙一 / ペトロの手紙二 / ヨハネの手紙一 / ヨハネの手紙二 / ヨハネの手紙三 / ユダの手紙 / エズラ記二 / ヨハネの黙示録

 それでは、アジモフのバイブル・ガイドを紹介してゆきますが、紹介を始める前にいくつかの注意点を挙げておきます。

 まず、これから書いてゆく文章の中にはアジモフの考察と、私(Ken)自身の考察・感想が混在します。大抵は内容から区別がつくと思われますが、念のため、私自身の考察・感想は※印ではさんで区別します。たとえば、

ヨナが大魚の腹中に三日三晩いたという話について、大魚とはクジラのことだと解釈する人々がいる。クジラが哺乳類で魚ではないという反論は無意味。それは近代生物学が明らかにした知識で、昔の人はクジラは魚だと信じていたのだから。jellyfish(クラゲ)やstarfish(ヒトデ)も魚ではないが、fishという。

※漢字の「鯨」もサカナ偏がある。「蛇」や「蛙」はムシ偏が付くが、実際は脊椎動物。※

 このように書かれている場合、「ヨナが〜fishという」という部分がアジモフの言葉。「漢字の」以下が私の意見です。

 つぎに、バイブルに登場する人名や地名を、どのように表記するかは迷いました。アジモフの本書は英語で書かれてますから、固有名詞もすべて英語表記です。例えば、イスラエル人を連れてエジプトを脱出したのはモウゼス(Moses)、諸部族を統一して古代王国を建てた武将はデイビッド(David)、「キリスト」の誕生を予言したと言われるのはアイゼイア(Isaiah)、「キリスト」自身はジーザス(Jesus)、その教えを広めた伝道者はポール(Paul)という名で現れます。しかし、日本語の中でこれらの人々には、モーセ、ダビデ、イザヤ、イエス、パウロという呼称が定着しており、これを使うか、それとも英語表記に従うかという迷いでした。

 これについては、一旦は英語表記に従おうと決めたのです。私が知る限り、本書の日本語訳はないので、英語で読むしかなく、固有名詞も本書に登場するままの名前で紹介するのが親切だろうと考えました。それにアジモフ作品には既にその例があり、『鋼鉄都市』の中でベイリ刑事は、自分と妻が旧約聖書の預言者と王妃と同じ名を持っていることを語りますが、それでも日本語訳で、二人の名はエリヤとイゼベルではなく、イライジャとジェゼベルと英語表記にしたがって書かれています。

 その一方で、アジモフがなぜこのような解説書を書いたのかを考えると、なによりもバイブルを読んでほしいからではないでしょうか。バイブルを読まない人が本書だけを読んでも、無意味に違いありません。そして日本人がバイブルを読むなら、通常は日本語訳を読むでしょうから、やはりその中に登場する名称で紹介してゆくのが正しいと思い直しました。よって今回は、ウィキペディアの日本語記事で使用される人名と地名の呼称に統一しました。なおバイブルの文章自体を引用する部分では、日本語訳聖書を参照しつつも、アジモフの本書に現れる文章を、私自身が翻訳しました。バイブルの文章は時代とともに変更が加えられており、例えば日本聖書協会のサイト(http://www.bible.or.jp/)に見られる文章でも、アジモフの本書とは異なる点がいくつも見られるからです。アジモフのバイブル・ガイドで引用されているのは、King James Version(欽定訳聖書)という、十七世紀のイギリスで作られたものです。

 三つ目は「信仰」を持つ人への、私からのお断りです。アジモフはいわば筋金入りの無神論者で、このガイドもバイブルを「聖書」として尊ぶどころか、その矛盾点をあぶり出し、倫理的な問題点を糺し、聖者どころかひどい人物がバイブルを書いたことを思わせるような指摘も、随所に出現します。聖書と信じる人にとっては、読むに耐えない内容かもしれませんので、そういうものを読みたくないと思う方は、アジモフのガイドも、これから書いてゆく紹介文も読まれないほうがよいかもしれません。

 ただ、ひとつだけ付け加えれば、アジモフは、非常に強い倫理観を持ち、善悪を峻別する人で、そのような倫理観を持つということは、結局、何らかの信仰を持つのと同じことであると、私は思うのです。例えば私たちの倫理観は、他人を殺してその人のものを奪うのは悪いことであると考えますが、純粋な生物学の観点から見れば、弱肉強食、適者生存こそが、生物の本来の姿であり、人間を含めて生物はこれを行うからこそ、ダーウィンが考えたような進化をするので、なぜそれが悪いのかと尋ねられて、完全にロジカルな回答を出せる人は、いないのではないでしょうか。そういうとき、信仰を持つ人は、全能の神が「汝、殺すなかれ」とモーセの十戒の中で教えていることを根拠とするのです。あるいはそこまで特定の宗教に拠っていなくても、とにかく悪いことは悪いことなのだと「理屈抜き」で私たちは信じているのです。その意味で倫理観と信仰は同じものであり、アジモフは強い信仰を持つ人であったし、このガイドもまたそのような人が書いたものであるということはいえると思います。実際のところ、アジモフの倫理とは「キリスト」が説いた倫理と同じものであり、例えバイブルの著者や登場人物(時には「神」そのもの)を批判する時も、その倫理を基準としているということです。

 それでは、アジモフのバイブル・ガイドを紹介してゆきましょう。

投稿時間:2014/10/26(Sun) 21:16
投稿者名:Ken
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創世記
創世記1章1節:初めに、神は天地を創造された。

 「初めに」という書き出しは、ヘブライ語では「ベレシト」といい、ヘブライ語の経典では、これがそのままバイブル第一書のタイトルになっている。これだけでなく、各書の書き出しの言葉をそのままタイトルにするのが、旧約聖書に多く見られる特徴である。

 「神は天地を創造された」というが、ここでの「神」には、ヘブライ語では「エロヒム」という語が使われている。しかしエロヒムは「神々」に相当する複数形で、一神教では本来あり得ない言い方なのだ。人間が禁断の果実を食した後には、さらに複数神の存在を示す、神自身の言葉がある。

創世記3章22節:主なる神は言われた。見よ、人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。

 「我々」というからには複数が存在すると考えるしかない。もっともこれは一人の神と複数の天使のことだという解釈や、キリスト教では「父と子と聖霊」の三位一体のことだとする説もあるのだが、そんなもって回った解釈をしなくても、ヘブライ人は元来は多神教を信じており、エロヒムなどの言葉はあまりにも定着していたので、唯一神を奉じるようになってからも、変更も破棄もできなかったと考えるのが、最も自然であろう。

 この「主なる神」という言い方は、2章4節が初登場である。それまでは、ただ「神」だった。

創世記2章4節:これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、

 「主」はヘブライ語では「ヤハウェ」という。のちに「エホバ」という誤った発音も行われるようになる。つまりヤハウェは普通名詞なのだが、長い間に固有名詞と誤解されるようになり、そうなると、神の名を口にするのは不敬であるとして、イスラエル人は代わりに「アドナイ」と言うようになった。これも「主」を意味する普通名詞にほかならない。この点は「アダム」も実は同様で、本来は「人類」を意味する普通名詞なのだが、後に最初の人間の名と信じられるようになった。

 そのアダムと妻のイブが住んだという「エデン」はどこにあるのだろう。というより、エデンのモデルになった現実の土地はあるのだろうか。例えば列王記に、アッシリア軍が発した、次のような警告がある。

列王記二19章12節:諸国の神は彼らを救ったか? ゴザン、ハラン、レツェフおよびテラサルにいたエデンの人々

 この中でテラサルとはアッシリアの一地方で、そこがエデンかもしれない。しかしこの辺り一帯はユーフラテス河畔で、すなわち文明発祥の地である。もしも文明の登場によって本当の人間が誕生したという解釈に立つなら、文明発祥の地こそエデンと考えられるではないか。また人類最初の文明を築いたのはシュメール人だが、エデンはシュメール語で「平原」を意味する。例えば、山岳地帯で狩猟採取生活をしていたシュメール人の祖先が、平原へ降りてきて農耕を始めたことで文明が起こったのなら、エデンはまさしく文明発祥の地ということになる。

 ただし創世記では、人間はエデンから追放され、罪を犯した罰として農耕を始めたことになっている。これは、農耕生活に入った人類が、昔の狩猟採取生活を懐かしみ、それをエデンという楽園の物語に仕立てたことを想像させる。もちろん、食料供給力で農耕に遠く及ばない狩猟採取を懐かしむなどおかしな話だが、人間の通弊として、過去の苦労を忘れ、現在の苦労がなかった時代を理想化するものである。農耕生活は単調だが、狩猟はエキサイティングで面白かったと、農民が空想するのは自然なことなのだ。

※もちろん、スポーツ・ハンティングならともかく、生活のかかった狩猟が面白いわけはない。狩猟民が狩りに失敗し続ければ、餓死するのだから。だからひとたび農耕生活へ入った部族が、狩猟生活へ戻ることなどあり得ない。それでも農民は決して戻れない狩猟生活を懐かしんだし、実はこれと同様のことは、農業が工業に主要産業の地位を譲った近代の産業革命でも起こった。農業社会よりも工業社会の方がはるかに人々を豊かにできるのだが、一方で、工場生産は喜劇王チャップリンが『モダン・タイムズ』で描いたように、人間を機械の一部にしてしまう一面がある。その中で生きる人々が、自然の中で人間らしく生きていた農耕社会にノスタルジアを感じるのは、ありうることなのである。さらには、現在の私たちが生きる二十一世紀は、工業社会から情報社会への変化が進行しつつあるが、本格的な情報社会が実現すれば、必ず工業社会を懐かしむ風潮が現れるに違いない。工場の仕事には『モダン・タイムズ』のような非人間性があるが、反面、忍耐力と勤勉さがあれば、誰もが参加できる仕事でもある。しかし情報社会となると、企画・分析の能力や科学知識こそが求められるし、それは万人が平等にもつ能力ではない。極言すれば、工場で働く数千人よりも、一人のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズがいる方が、役に立つのだ。当然、格差社会になるし、格差がなかった工業社会を懐かしむ気持ちは、必ず現れるだろう。※

 創世記には、もう一つ、農耕社会へのある種の反感を思わせる箇所がある。エデンを追放されたアダムとイブには、カインとアベルという二人の息子が生まれ、長じてカインは耕作、アベルは牧畜を仕事にするが、カインはアベルを殺してしまう。これは農耕社会が牧畜社会を征服する様を、牧畜側から見たのかもしれない。

 さて、時代が進んで人間があまりに悪辣になったので、神は一家族を除いて全人類を消すためにノアの洪水を起こす。実は、洪水神話はシュメールやバビロンにもある。シュメール神話のウトナピシュティムは自分と家族と動物たちを船に乗せて洪水から救ったから、明らかにノアの話の原型である。シュメールの地は二つの大河沿いの平坦地だから、ちょっとした氾濫でも大災害になっただろう。一九二九年に考古学者ウーリーは、ユーフラテス川近辺の発掘調査をしていて、紀元前三千年の地層に三メートルの高さまで水深が上がったことを示す痕跡を発見した。この種の災害は、時代を降るほど誇張をもって語られるから、世界を覆う大洪水に話が拡大してもおかしくない。なお、ユーフラテス河畔に大洪水を起こす原因に、大雨以外ではペルシャ湾への大隕石の落下が考えられる。とくに、ノアの洪水では方舟はアララト山脈へ漂着したというが、これは現在のトルコ共和国で、メソポタミアよりも川のはるか上流である。上流へ向けて流されるとすれば、大雨による氾濫よりも、隕石落下が引き起こす津波が海から襲うケースが想定できるではないか。

 洪水を生き延びたノアには三人の息子がいた。

創世記9章18節:ノアの息子は、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。

 このあたりから、創世記の人物はすべて歴史に登場する民族の始祖になる。創世記が書かれたのは前六世紀頃だが、当時知られていた各民族の起源を、特定の個人を創作することで説明したのだろう。まずセムはヘブライ人を始め、アッシリア人、アラム人、アラブ人などの始祖で、これらの民族はセム系と呼ばれる。ハムはエジプト人、ベルベル人、エチオピア人など北アフリカ系諸民族の始祖とされる。ただしバイブルに登場するカナン人はヘブライ人と同系統の言語を話すセム系にまぎれもなく、カナンがハムの子にされているのは、カナンの地が一時エジプトに支配されたことからくる誤解にすぎない。またヤペテの子孫はペルシャ人、ギリシャ人、スキタイ人のようなインド・ヨーロッパ語族のことだとされる。

 そのノアは自分の息子のハムを呪い、カナンの子孫はセムとヤペテの子孫に奴隷として仕えよと言う。これは、史実のカナン人がイスラエルの敵であったため、彼らを貶めるために創作された話に他ならない。同様の例は創世記に繰り返し現れ、敵対民族はすべて呪われた始祖を持つことにされている。最悪の書かれ方をしたのがモアブ人とアンモン人で、創世記19章37節と38節では、二人の娘が実の父と近親相姦して生まれたのが、彼らの始祖ということになっている。

 創世記の10章10節から12節を見てみよう。ハムの孫にニムロドという人物がおり、多くの町を支配したという。

創世記10章10節:彼の王国の始まりは、シンアルの地にあったバベル、ウルク、アッカド、カルネで
創世記10章11節:彼はその地方からアッシリアに進み、ニネベ、レホボト、カラ、
創世記10章12節:そしてニネベとカラとの間にレセンを建てた。

 シンアルとはシュメールのことである。人類最初の文明を起こしたシュメール人の言語は解読されているが、創世記にいうようなハムの子孫つまりハム語族の言語ではないし、セム語族や印欧語族とも異なる、世界のどこにも近縁関係のない言語である。ウルクはユーフラテス河畔の町で、十九世紀に発掘され、前三六〇〇年頃まで遡る歴史をもつことが分かっている。伝説のギルガメシュはここの王だが、史実の支配者には、前二三〇〇年頃のルガルザゲシがいる。ルガルザゲシはシュメールの多くの町を征服し、メソポタミアで広域を支配した最初の王になった。しかしその覇権は長くは続かず、次にアッカド人が強力になる。アッカド人はセム族だがシュメール文化を取り入れ、サルゴン王は前二二六四年にルガルザゲシを打ち破り、帝国を立てた。しかし前二一五〇年頃、東方の蛮族が侵入してアッカド帝国を倒し、メソポタミアを支配する。それから一世紀ほどして、ユーフラテス中流域に起こったアムル人がバベルを都として勢力を拡大する。その六代目の王が、前一七〇〇年頃君臨したハンムラビで、以後二千年、支配民族は変遷したが、バベル(バビロンともいう)は、世界の大都であり続けた。アムル人の支配も長く続かず、前一六七〇年頃カッシート人が侵入して、約五百年の暗黒時代が始まる。これらは南バビロニアでの推移だが、北バビロニアではアッシリアが力を伸ばし、やがて首都をニネベに据える。アッシリアが飛躍するのは前一二五〇年頃、シャルマネセル一世のときカラ市を建設し、小アジアから製鉄技術を取り入れたときで、以後カッシートを滅ぼし、バビロニアの外にまで広がる大帝国を立てる。こうして見ると、創世記10章のこの部分には、二千五百年にわたる興亡の歴史が凝縮されている。

 ヘブライ人の始祖アブラハムが生まれたのは前二〇〇〇年頃と思われる。彼が始祖とされるのは、ただ血統的な先祖であるだけではなく、彼の時に一族はカナンの地へ移り、ヤハウェを奉じる一神教徒になったからである。彼の誕生の地はシュメール文明の最古の中心ウルの町だが、アブラハムの父の代にその地を去ったという。ティグリス・ユーフラテス川が運ぶ土砂の堆積で、ウルの港としての機能が低下したこと、バビロニアの台頭でシュメール文明自体が衰退しつつあったことが理由なのだろう。

創世記11章31節:彼らはカルデアのウルを出発し、

 「カルデアのウル」というのは、アブラハムより千数百年も後、創世記が書かれた時代に、ウルの地がカルデア人の支配下にあったからそういう言い方をしているので、アブラハムの時代にはカルデアの地などではなかった。目的地のカナンは前四〇〇〇年頃に文明が起こり、前三二〇〇年頃青銅器時代に入った土地である。前述のように、カナンの先住民がハム族というのは誤りで、彼らはセム族、それもヘブライ語を話す人々だったことが分かっている。むしろこの地を征服したイスラエル人が彼らの言語を採用したのではないか。アブラハムはカナンの地に居を定めるが、ある時カナンを襲撃した敵と戦って撃退し、その祝福に訪れた王がいた。

創世記14章18節:サレムの王メルキゼデクも、パンとワインを持って来た。

 この「サレム」こそ、後のエルサレムで、これがバイブル初登場である。

 さてアブラハムは老齢になっても子がないことを嘆いていたが、神はやがて彼に子が生まれること、今のカナンの住民はすべて排除されて、彼の子孫がその地を受け継ぐことを約束する。そして排除されるべき現住民族が列挙される。

創世記15章19節:ケン人、ケナズ人、カドモニ人、
創世記15章20節:ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、
創世記15章21節:アムル人、カナン人、ギルガシ人、エブス人・・・

 第20節でいうヒッタイト人は、バイブルでは弱小部族として現れるので、長くそういう存在と思われてきたが、二十世紀の研究で、ヒッタイトはアッシリアより前に鉄器や戦馬車を用い、最盛期のエジプトと覇権を争った大帝国だったことが明らかになった。それがバイブルでは弱小部族になっているのは歴史の偶然で、ヒッタイトが強大だった時代は、イスラエル人がエジプトにいた時代と重なるからである。つまりアブラハムの時代はヒッタイト興隆前で、モーセやヨシュアがイスラエル人を率いてカナンへ来た時は、ヒッタイトの没落後だったというわけだ。

 アブラハムには息子ができた。最初は妾腹のイシュマエル、次が嫡出のイサクでイスラエルの先祖とされる。後のイスラエル人は近隣の諸民族への優越の証明として、自分たちだけが本妻の子の子孫であることにした。しかもイサクが生まれる前に、神はアブラハムと特別の約束を交わしたことになっている。

創世記17章7節:私(神)は、お前(アブラハム)及びお前の子孫と契約を交わし、お前とお前の子孫の神となる。

 そして、その約束の証として、アブラハムの子孫は特別の儀式を行わねばならない。

創世記17章10節:お前たちの男子はすべて、割礼を受ける。

 割礼はヘブライ語では「ベリト」、約束という意味である。つまり割礼を行わないのは、神との約束を反故にするのと、字義の上でも同じなのだ。このことがアブラハムより二千年の後、パウロの布教における最大の懸案となり、結局はキリスト教がユダヤ教と決別して、異邦人(非ユダヤ人)の宗教になる歴史を作った。もっとも、現実には割礼はエジプト人やカナン先住民の間で普通に行われていたことが分かっており、むしろイスラエル人が彼ら先進民族から学んだ習慣であろう。また、ユダヤ人が割礼を厳格に実行するようになるのは、バビロニアに国を滅ぼされたことで、強烈な民族意識を持つようになった前六世紀以後で、神とアブラハムの約束を記述する創世記は、その時代に書かれたことを忘れるべきでない。

 いよいよアブラハムが、神への絶対の忠誠を示すため、嫡子イサクを犠牲に捧げようとし、最後の瞬間に神が止めるという、有名すぎる話が語られる。実のところ、子供を生け贄として殺す事例は、旧約聖書に繰り返し現れる。その大半は異教の神への生け贄であって、邪教徒ゆえの蛮行とされるのだが、アブラハムとイサクの話は「真の神」を奉じる者でも人身御供を行うことを示している。アブラハムは神の使いに止められたことになっているが、最後まで実行して、娘を生け贄にしたのが数百年後のエフタである(士師記11章39節)。神の使いは、エフタを止めなかったようだ。

 アブラハムとイサクの話から一世代進めて、イサクと二人の息子エサウとヤコブの話をしよう。二人は双子だが、エサウが先に出てきたので兄とされ、イサクの世継ぎとなるはずだった。しかし兄弟の母リベカは弟の方を愛し、夫イサクを欺いて、ヤコブを世継ぎにしてしまう。後にヤコブは「イスラエル」、エサウは「エドム」という別名を持ち、創世記の多くの登場人物がそうであるように、この兄弟も、ヤコブはイスラエル人の、エサウはエドム人の始祖となったという。このような兄弟の話は、実は、各部族の歴史を説明するために、創作されることが多い。後にイスラエル人はカナンの地を征服するが、エドム人はそれ以前に近隣に勢力を確立していたのだ。このことがエサウ(エドム)が初めに世継ぎにされていたのを、ヤコブ(イスラエル)が取って代わったという、始祖の物語になったのだろう。同様のことはヤコブの十二人の息子の間で、さらに複雑に行われることになる。

 そのヤコブであるが、彼の四人の妻が十三人の子を産み、うち十二人が男の子だった。十二人を母親ごとに分け、かつ生まれた順序をまとめると、このようになる。

レアの子:1.ルベン、2.シメオン、3.レビ、4.ユダ、9.イサカル、10.ゼブルン
ラケルの子:11.ヨセフ、12.ベニヤミン
ビルハの子:5.ダン、6.ナフタリ
ジルパの子:7.ガド、8.アシェル

 これ以外に、レアはディナという娘も産んだ。この息子たちがまた始祖で、彼らの子孫がルベン族やユダ族などイスラエルの十二部族になる。ただしレビ族だけは祭司の家系とされ、十二部族に数えない。代わりにヨセフの二人の子マナセとエフライムが、二つの部族の始祖とされる。この十二部族が後にカナンを征服し、それぞれの領地を得て蟠踞するのだが、十二人兄弟の子孫が連合して戦ったというよりも、連合した十二の部族が結束を固めるため、先祖が兄弟だったという話を創作したのに違いない。もう一つ推測できるのは、連合に加わった順序である。レア、ラケル、ビルハ、ジルパはこの順序でヤコブの妻になるのだが、おそらく最初はルベン、シメオン、ユダ、イサカル、ゼブルンの五部族が連合軍を構成し、後からマナセ、エフライム、ベニヤミンの三部族が加わったので、当初の五部族は先輩格として自分たちは始祖の最初の妻の子孫、三部族は二人目の妻の子孫という伝説で区別をしたと思われる。ダン族とナフタリ族はその次の段階で参加し、ガド族とアシェル族はさらにその次というわけだ。

 ところで十二人兄弟のうち、その事績が最も詳しく語られるのは、ユダとヨセフの二人である。後に、ダビデが建てた王国がソロモンの死後南北に分裂するが、南のユダ王国はユダ族が、北のイスラエル王国はマナセ族とエフライム族が支配した。創世記は両国とも滅びた後で書かれたのだが、両国で語り伝えられた話が元になっているからである。その他の兄弟では、シメオンとレビが、妹のディナを手籠めにしたシケムへの復讐でその一族を全滅させたら、父のヤコブに激しく叱責された話(創世記34章25節)、ルベンが父の妻ビルハと密通した話(創世記35章22節)がある。想像するに、イスラエル人がカナンを攻める時、まずディナ族が抜け駆けの攻撃をして敗れ、救援したシメオン族とレビ族も多大な損害を被って、この三部族はその後弱体となったことを始祖の逸話にしたのが第一の話。またルベン族は当初は最も強大で、だからこそ始祖が長男とされたのだが、やがて部族間抗争に敗れて没落したことを、始祖が女性問題で失態を演じたことにしたのが、第二の話になったのだろう。

 創世記の最後はヨセフの物語である。父ヤコブから特別に愛されたため、兄弟の反感を買った彼は、兄たちの罠に落ち、奴隷としてエジプトで売られることになる。

創世記37章36節:ミディアン人は彼をエジプトへ、ファラオの役人であったポティファルへ売った。

 エジプトについては、既にアブラハムが一度訪れ、妻をファラオに取られそうになって去ったという簡単な記事があるが、ヨセフの物語ははるかに詳細だし現実性も高い。例えば「ポティファル」という名は「ポティフェラー」の短縮形で「ラー神の賜物」を意味する。たしかにエジプトの名前であって、エジプトを知らない人物の創作ではない。エジプトの地でヨセフは、奇妙な夢を見て悩むファラオに、その夢は大飢饉を予知するものだと解説し、飢饉への備えを提言して、宰相の地位に登る。やがてヨセフは自分を裏切った兄たちと再会し、最後には和解して、ヤコブの一族をすべてエジプトへ迎えるのである。

 それにしても、奴隷として売られてきたヘブライ人を、そこまで信頼し、重用したファラオは何者だろうか。本来エジプトは砂漠と海で周囲の文明から孤絶した、きわめて閉鎖的な社会で、そこでファラオは神と考えられていた。そのファラオが、アジアから来た外国人を重用するとしたら、特別の状況があったとしか思えない。

 エジプトの歴史を辿ると、前一九九一年から前一七八六年までが中王国の時代で、アブラハムやイサクの時代と重なる。その後エジプトは混迷に陥り、前一七三〇年以降は、西アジアから襲来したセム系のヒクソス(エジプト語で外来の王を意味する)に征服されてしまう。エジプトの第十五、第十六王朝はヒクソス王朝なのである。このヒクソスがヨセフを重用したファラオとすれば、話の現実性は一気に増す。自分と同じセム系民族をエジプトの被征服民の上に置いただけなのだから。もちろんこのことは、ヨセフの物語が史実であることを保証するものではない。エジプト史のどこにもヨセフの名は現れない。

※もっとも、マルコ・ポーロの名も中国史のどこにも現れない。要するに、ヨセフの物語のようなことが起こりうる状況が当時のエジプトにはあった、とアジモフは言いたいのだ。ここまでの創世記が語ってきた、天地創造やノアの洪水はもちろん、十二部族の先祖が同じ親から生まれた兄弟という話と比べても、はるかに現実性の高い、あってもおかしくない物語ということである。もちろんヨセフの物語にも神話的な部分はある。ファラオの夢が大飢饉の到来を告げるというのは、現代の私たちが受け入れられるものではないだろう。とはいえ、この程度のことは歴史時代の話としても珍しくはなく、真相はもっと合理的な方法で(例えば統計的な記録を調べて)飢饉を予測したのを、ファラオの夢に仮託しただけかもしれない。後醍醐天皇が南の木の夢を見て、楠木正成を召し出した話を思い出してみよう。※

 ヤコブ(イスラエル)はエジプトへ来て十七年目に歿するが、死の直前に息子たちを集めて、それぞれの運命を言い渡す。初めは長子のルベンで、

創世記49章4節:水のように落ち着きがなく、これではひとの上に立てない。お前は父の寝台に上った

 たしかにルベン族は、ダビデの時代にはすっかり没落していた。それは始祖が不始末のせいで父から見放されたためという話が作られたわけである。その事情はシメオン族とレビ族もまったく同様である。

創世記49章5節:シメオンとレビの兄弟、暴虐の具が同居し
創世記49章7節:彼らの怒りは呪うべき

 第四子のユダは一転して最大の讃辞を受ける。

創世記49章8節:ユダは兄弟から称えられる。
創世記49章10節:王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。

 古代王国を打ち建てたダビデ王はユダ族だった。そして滅亡までの五百年、王家はダビデの家系だった。たしかに王笏は、ユダの子孫を離れることはなかったのだ。

投稿時間:2014/11/02(Sun) 22:41
投稿者名:Ken
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出エジプト記
『出エジプト記』

 ヤコブの子孫はエジプトで栄えたが、やがて運命が変わる時が来た。

出エジプト記1章8節:ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトを支配し、

 ヨセフたちを親しく受け入れた王から、イスラエルに敵意をもつ王に代わったことが語られる。エジプト史を見ると、前一五七〇年にヒクソスの異民族王朝が倒れ、エジプト人の王朝が興る。これが第十八王朝で、まるで前代の屈辱を晴らすかのごとく、対外強硬路線に邁進する。まず、国内ではイスラエル人のような前代に特権を持っていた外国人を奴隷の立場に落とす。

出エジプト記1章13節:イスラエルの人々を酷使し、
出エジプト記1章14節:彼らを辛い奴隷の境遇に置いた

 バイブルの関心は主にイスラエル人の物語なので、この時代にエジプトの外で起こったことは記録されてないが、同時期にトトメス一世は西アジアへ進撃してカナンの地までを支配化に置き、前十四世紀のアメンホテプ三世のときエジプト帝国は最も強大になる。ところが息子のアメンホテプ四世はエジプト伝統の神々を否定して、アトンという唯一神を信仰し、自身もイクナトンと改名する。しかし伝統派の反撃で彼の改革は失敗し、国内の混乱が外敵の攻勢を招く結果になる。悪いことにこの時代のエジプトの主敵が、ヒッタイト大帝国だった。結局第十八王朝は倒れ、前一三〇四年にラムセス一世が第十九王朝を始める。この王朝も対外積極主義で、前一二九〇年に即位したラムセス二世のとき最盛期を迎え、ヒッタイトと激しい戦火を交えることになる。ラムセス二世の在位は六十七年に及び、首都を美しく飾り、自身の巨大像をいくつも建てる。ラムセス二世の後、エジプトは斜陽してゆく。

 こう見てくると、バイブルに描かれる「弾圧のファラオ」とはラムセス二世と考えると符合するようである。ヒッタイトと戦う彼には、国内のアジア人が獅子身中の虫に見えたであろうし、事実ヒッタイトにすれば、敵国内に同族がいると思い、利用も試みたろう。イスラエル人が弾圧や虐殺の対象になる条件は十分にあったのだ。そしてラムセス二世の後エジプトは衰退するが、その機会を捉えてモーセたちが脱出し、それに続くカナン征服をエジプトの干渉なしに行えたと考えれば、やはり弾圧者のファラオはラムセス二世だろう。実は出エジプト記に次のような記述がある。

出エジプト記1章11節:彼らはファラオのために貯蔵の町、ピトムとラメセスを建設した。

 ラメセスがラムセスのことだとすれば、王が新しい町に自分の名を付けさせるのは、普通に考えられる。

※アジモフは、これ以降、このファラオがラムセス二世と決めて、話を進める※

 バイブルの記述では、そのファラオ(ラムセス二世)は、イスラエル人の赤子のうち男の子はすべて殺すように命じたという。このときレビ族に生まれた男の子の母親は、息子を救うため、葦の舟に乗せてナイル川に流し、その子は偶然エジプトの王女に拾われ、モーセと名づけられる。その名の由来をバイブルは次のように説明する。

出エジプト記2章10節:ファラオの娘は彼をモーセと名付けて言った、水の中からわたしが引き上げたのだから。

 たしかにヘブライ語で「引き上げる」を意味する「マーシャ」という言葉があるが、エジプトの王女が子供にヘブライ語の名をつけるはずがないし、そもそも奴隷の言葉を知っていたはずがない。それよりもモセがエジプトの言葉で「息子」を意味するのが真の理由と考えるべきだろう。例えば「トトメス(トト+メセ)」はトト神の息子、「ラムセス(ラ+ムセ+ス)」はラー神の息子という意味である。

 捨てられた赤子が奇跡的に生き延びて、長じて英雄になる話も、ギリシャのペルセウス、オイディプス、パリス、ローマのロムルス、ペルシャのキュロスなど、古代の諸伝説にはありふれている。中でもアッカドのサルゴン王の話は、バビロニアの石版に書かれているのが発見されており、バイブルを書いた者たちは当然その伝説を聞いていたはずで、モーセもまた同様の英雄伝説で装飾されたのだろう。

 成人したモーセは、あるときエジプト人を殺して、ミディアンの地へ亡命する。その亡命中に、エジプトでは王が代わる。

出エジプト記2章23節:それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。

 ラムセス二世は前一二二三年に死に、メルエンプタハが王位を継いだ。出エジプト記では、この王の時にエジプトが災厄に見舞われ、おかげでイスラエル人は脱出できたというが、エジプトだけでなく東地中海全体が、大災厄に襲われたのがこの時なのである。ただしそれは、出エジプト記に書かれたような天災や疫病ではなく、大規模な民族移動だった。南東ヨーロッパを蛮族が襲ったことがきっかけで、ギリシャやクレタの住民は逃れてエーゲ海に押し出し、小アジアを襲うことになる。おそらくトロイ戦争はその中で起こったのだろう。するとその小アジアでフリギア人という民族が立ち上がり、ラムセス二世との戦いで傷ついていたヒッタイトは、ここで大打撃を受けて、バイブルに描かれるような弱小民族に凋落してしまう。

 そして民族移動の波はエジプトも襲った。エジプト史にいう「海の民」である。エジプトは大混乱に陥り、イスラエル人が脱出できただけではない。同じ時期、カナン地方には海の民の一派のペリシテ人が襲来し、トトメス一世以来三世紀にわたるエジプトのカナン支配も崩れた。カナンへ移動したイスラエル人の最大の敵は、もはやエジプトではなく、ペリシテ人だったのである。

※アジモフはこのように、イスラエル人の赤子を殺したのがラムセス二世で、モーセたちが脱出したときのファラオがメルエンプタハと考察している。だが、チャールトン・ヘストンが主演した映画の『十戒』では、一代ずつ繰り上がっていて、幼児虐殺の責任者がセティ一世、脱出の時のファラオが、ユル・ブリンナーが演じたラムセス二世となっている。映画のおかげで、おそらくはこちらの方が広く信じられているであろう。※

 出エジプト記に話を戻そう。ミディアンの地で暮らすモーセは、山の上で燃える柴を見つけ、その中から、エジプトへ戻ってイスラエル人を連れ出せと命じる声を聞く。あなたはだれかと尋ねるモーセに返答がきた。

出エジプト記3章14節:わたしはわたしだ

※英語では「I AM THAT I AM」となっているこの言葉を、日本聖書協会では「わたしはある。わたしはあるという者だ」と、意味不明の翻訳をしているのは、どういうことだろうか? 「わたしはわたしだ」と訳せば、はるかに自然に通じるではないか。要するに、神は神であって、人間の言葉で説明できるような存在ではないことを、このように表現しているのである。※

 モーセは兄のアロンと一緒にエジプトへ行き、イスラエル人を解放するよう王を説得するが、王は聞き入れず、モーセは神の力を示すために、次々と奇跡を演出する。杖をヘビに変え、ナイルの水を血に変え、さらに十の災いをエジプトにもたらす。その十番目が、すべての家庭で最初に生まれた息子が死ぬというもので、イスラエル人の家庭だけは難を避けるために、羊を屠ってその血を戸口に塗りつけておけば、子供は無事という指示を徹底させる。

出エジプト記12章23節:主がエジプト人を撃つために通るとき、血を御覧になって、その入り口を過ぎ越され、撃つことがないように

 これが「主の過ぎ越し」で、イスラエル人は毎年これを記念するようになった、とバイブルに記す。おそらく真相は、過ぎ越しの祭りの起源は異教の収穫祭だろう。現代アメリカのサンクスギビングと同じである。(※日本の新嘗祭=勤労感謝の日とも同じ※)本来、イスラエル人がヤハウェの一神教に帰依した時点で、異教の祭りも廃するべきなのだが、既に深く定着していた習慣は、このようにバイブルの物語と関連付けて再定義するしかなかった。後のキリスト教徒が、冬至の祭りをイエスの生誕と関連付けたのも、ゲルマンの春の女神イースターの祭りをイエスの復活と関連付けたのも、同じ事情である。

 この十番目の災いが、ついにファラオを屈服させ、イスラエル人はエジプトを去ってよいことになる。まず彼らは紅海を目指して東へ進んだ。まっすぐにカナンを目指すなら地中海岸を辿りながら北へ進路をとるべきだが、そうなると海の民とりわけペリシテ人の占領地を、まともに通過することになる。

出エジプト記13章17節:神は彼らを、近道ではあっても、ペリシテの国へ導かれなかった。人々が戦いを見て後悔し、エジプトに帰るかもしれないからである。
出エジプト記13章18節:神は民を、紅海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。

 神がイスラエル人を逃すために、紅海を二つに割ったかはともかくとして、すくなくとも彼らは、紅海の真っ只中を渡ってアラビア半島へ着いたわけではない。この後、モーセがシナイ山へ登って十戒を授かる話から明らかなように、彼らはシナイ半島を目指したので、それなら紅海の北端のスエズ湾を渡ったはずだし、なによりも「紅海」とは実は「葦の海」の誤訳で、そのとおりだとすれば、葦が茂る浅瀬だったのだろう。

 シナイ半島へ渡ったイスラエル人は最初の敵と遭遇した。アマレク人である。戦いはイスラエルの完勝に終わるが、この戦いで、イスラエルの新しい軍事指導者が登場する。

出エジプト記17章9節:モーセはヨシュアに言った、男たちを選び、アマレクとの戦いに出陣せよ、と

 この場面でのヨシュアの登場が唐突すぎ、彼に関する説明が何もないので、この場面ひいてはアマレク人との戦いは、本当はもっと後で起こったのが、編集ミスで、エジプト脱出直後に混入したのではないかと疑われている。実際、

民数記13章16節:モーセは、ヌンの子オシェアをヨシュアと呼んだ

 のように、ずっと後にヨシュアが何者かが説明される。いずれにせよ、現存するバイブルでは、アマレク人との戦いの後、人々はシナイ山に達し、モーセは山に登って神から十戒を含む多くの指示を受けるにいたる。その中で、十戒を刻んだ石版を収める契約の箱は最も神聖なアイテムで、特別の装飾を付けるようにと指示があった。

出エジプト記25章18節:黄金のケルビムを二つ作り、贖いの座の両端に
出エジプト記25章20節:ケルビムは翼を前へ高く掲げ、贖いの座を覆い、かつ互いに向き合い

 一体ケルビムとは何だろうか? アダムとイブがエデンを追われた後、神は彼らが戻らないように番人を置いている。

創世記3章24節:エデンの園の東にケルビムと炎の剣を置き、あらゆる方角を

 これがケルビムの初出だが、ケルビムの正体はここでも説明がない。おそらく創世記や出エジプト記が書かれた時代の読者は、説明なしでも理解したのだろう。記述から読み取れるのは、ケルビムには翼があるということだ。とすれば翼がある人間の姿、つまり天使なのか。一方で、ケルビムは聖なる物の護衛である以上、恐ろしげな外観をしているはずという考え方もできよう。アッシリア人は、王宮や神殿の入り口に、人の顔、牛の胴、鷲の翼をもつ怪獣の像を作り、エジプト人は、人の顔、獅子の胴、鷲の翼を持つスフィンクスを作った。ケルビムがそういうものだと考えても矛盾はない。ではどちらだ? その答らしきものが、エゼキエルの書にある。

エゼキエル書1章6節:それぞれが四つの顔と四つの翼を持っていた。
エゼキエル書1章7節:足の裏は子牛の足の裏に似ており、
エゼキエル書1章10節:四つとも人の顔を持ち、右に獅子の顔を持ち、四つとも左に牛の顔、四つとも鷲の顔を、

 これがケルビムだとエゼキエルはいう。どうやらケルビムは天使などではなく、翼を持つ怪獣のようである。ここで思い出してほしいのは、モーセがシナイ山に入っている間、イスラエル人が牛の鋳像を作ったことである。偶像崇拝の罪としてモーセを怒らせた行いだが、ケルビム像も同じようなものではないか。

 なお、シナイ山は神の山というが、そのわりには創世記にはまったく登場しない。むしろシュメール神話の月の神シンにまつわると考えた方がよい。

投稿時間:2014/11/09(Sun) 22:52
投稿者名:Ken
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レビ記、民数記
『レビ記』

 神がモーセに詳しく教えた祭祀の方法を収集したのがレビ記、つまりレビ族の記録である。古代イスラエルの祭司職は、モーセの兄アロンの子孫が世襲したが、アロンがレビ族だったので、レビ族は祭司と同義語となり、レビ記は祭司職の手引書となった。内容は儀式と律法の詳細ばかりで、バイブル全篇中、最も退屈な書といってよい。例えば、神への供物にするパンを作るのに、酵母を用いてはいけないという。

レビ記2章11節:主への供物には一切、酵母を用いてはならない。

 小麦粉をそのまま焼くと固いパンになり、長期の保存にはよい。一方、小麦粉を焼く前にしばらく放置しておくと、微生物が入って発酵が始まる。その過程で二酸化炭素ガスを発して無数の泡を生じ、焼き上がったパンは、保存には向かないものの、ふっくらと柔らかくなり、口当たりが良い。やがて、長時間放置しなくても、予め部分発酵させたパン粉を混ぜれば、同じ効果が得られることが分かった。それが酵母でイーストともいう。しかし古代のイスラエル人にとっては、この場合の発酵は腐敗と同じで(※たしかに化学反応的には同じ※)、腐ったパンを神へ捧げることはできないというわけである。過ぎ越しの祭の間は、人間も酵母を用いて焼いたパンを食することは許されない。後に、イエスが弟子たちと最後の晩餐を取ったのも過ぎ越しの祭の時で、彼が「私の体」といったパンも酵母を用いずに焼いたもの、カトリック教会のミサで与えられるパンも同様である。

 レビ記の多くの部分は、浄と不浄をいかに区別するかを説明している。とはいえ、近代的な衛生観念からのものではなく、いわば神秘的な区別である。例えば、

レビ記11章3節:割れた蹄をもち、しかも反芻する獣は、食してもよい
レビ記11章7節:豚は割れた蹄をもつが、反芻を行わないから、不浄である

 このような区別に何の意味があったのか、今では想像のしようがないが、おそらくはユダヤ人が周辺の文化に吸収されないように、区別を設けること自体に意味があったのだろう。とくに、11章7節で禁じられたブタは、不浄の象徴のように見られるようになり、ユダヤ人と異邦人を食生活上、最も明確に分けるものとなった。

 意味不明の禁忌は他にもある。

レビ記19章27節:頭を丸めてはいけない。ひげの端をそってはいけない。

 これは、エジプトの祭司が髪や髭を剃っていたことからきたのかもしれない。

 魔術のたぐいは、厳しく禁じられた。

レビ記19章31節:縁者の霊を呼ぶ者を頼るべからず。魔術師を求めるべからず

 魔術を用いる女性には、バイブルはとりわけ厳しい。

出エジプト記22章18節:魔女を生かしておくべからず

 バイブルのこの一節のために、歴史の中で大量の女性が最も残酷な殺され方をした。注意すべきは、これらの「魔術」が忌まれるのは、それが異教の行事であるからで、要するに競合する宗教との戦いなのだ。異教の神はすべて排除されるが、中でも特筆で名を挙げられているものがある。

レビ記20章2節:イスラエル人であれ、イスラエルへの訪問者であれ、自分の子をモレクにささげる者は、必ず死刑に処せ

 モレク(molech)は元来はメレク(melech)で「王」を意味し、多神教時代からすべての神をそう呼んでいたのだが、時代が降るほど、異教の神に尊称を用いることへの抵抗が増してゆく。こういう場合に古代のユダヤ人がよくやったのは、元の言葉の子音と別の言葉の母音を組み合わせて新たな語を作ることだった。「汚辱」を意味するボシェト(bosheth)の母音をメレクの子音と合成したのがモレクで、異教の神のことにほかならない。つまり、それまでメレク(王)と呼んでいたものをモレク(邪神)に変えたわけである。上の文章では、子供を異教の神に捧げることを特に禁じているが、実はイスラエルの王国史を通して、子供の人身御供は繰り返し行われ、ユダ王国のアハズ王にいたっては、自分の子供を焼き殺して生け贄にしている。

列王記二16章3節:彼は異教徒の極悪な行いをまね、自分の子に火の中を通らせた

 ヤハウェもまた「メレク」であって、アブラハムがイサクにしたように、子供をヤハウェへの生け贄に捧げるのは正しいと考える人々が後を絶たなかった。それに対して、いやそうではない、生け贄を求めるのはメレクではなくモレクなのだと説明するために、上記のレビ記の文章は書かれたのだろう。


『民数記』

民数記1章1節:荒れ野で主はモーセに語られた

 旧約聖書の第四書はこのように始まる。原書では、ヘブライ語で「荒れ野で」に相当する文頭の「ベミドバル」がタイトルになっている。しかしバイブルをギリシャ語に翻訳した者たちはこの書に人口調査記録が載っていることに注目し、数を意味する「Arithmoi」というタイトルを付けた。英語のタイトルも「Numbers」である。もっとも人口調査といっても、目的は徴兵なので、対象は成人男子に限られる。

民数記1章2節:衆を数えよ
民数記1章3節:戦にゆける二十歳以上の者を

 調査は四十年の間隔をおいて二度行われた。結果は以下のとおりである。

部族     第1回   第2回
-----------------------------------------------
ルベン    46,500   43,730
シメオン   59,300   22,200
ガド     45,650   40,500
ユダ     74,600   76,500
イサカル   54,400   64,300
ゼブルン   57,400   60,500
エフライム  40,500   32,500
マナセ    32,200   52,700
ベニヤミン  35,400   45,600
ダン     62,700   64,400
アシェル   41,500   53,400
ナフタリ   53,400   45,400

合計     603,550   601,730

レビ     22,273   23,000

 成人男子だけで六十万なら全人口は二百万くらいだから、ダビデ王国の最盛期の人口よりも大きくなる。まだ約束の地に着く前の、シナイ半島を移動していた時代の話だから、かなりいい加減な数字といわざるをえない。それでも注目すべき点が二つある。一つは最大の人口を数えるのはユダ族とヨセフ族(エフライムとマナセの合計)という、のちに南北の王国の中心になる両部族だということ。二つめはシメオン族の異常な減り方である。なおレビ族は宗教担当で兵士を出さないので、二十歳以上に限定せず、男子の全人口を数えているが、どこよりも少ない。以前に考察したように、やはり征服事業の過程で、この両部族が最も衰えたようだ。

※人口調査が民数記の本題ではない。出エジプト記でシナイ半島へ渡ったイスラエル人が、いよいよカナンの地を目指して開始した征服事業の、その前半部分を描いたのが、本書なのである。ただしアジモフの関心は、戦争の記述よりも、この頃のイスラエル人がどのような考え方をする人々であったか、後の時代と合わせて俯瞰しながら、考察することにある。※

 モーセは十二部族から一人ずつ兵士を出させて敵情偵察を行わせた。エフライム族から選ばれたのはヨシュアで、ユダ族からはカレブという人物だった。この二人は征服戦争の中で、特に重要な役割を果たすことになる。

民数記13章6節:ユダ族では、エフネの子カレブ

 これだけではカレブについてよく分からないが、ヨシュア記に次の記述がある。

ヨシュア記14章6節:ケナズ人エフネの子カレブ

 ケナズは創世記でエサウの孫とされているから、カレブはエドム系ということになる。つまりユダ族にはイスラエル以外の血統が入っていたわけで、そういえば創世記にもそれを思わせる記述がある。

創世記38章2節:ユダはそこでカナン人の娘を見て、自分のものにした

 これはしかし、後世のユダ族からモーセの時代を想像したのに違いない。ユダ族はカナン征服後に最も南寄りの地に蟠踞したから、隣接するカナン人やエドム人と混血したであろうし、それが特に北の諸部族から敵意と軽蔑をもって見られたことは想像がつく。王家を出したダビデの時代ですら、その敵意が消えることはなく、結局は王国の分裂をもたらした。

 さらに、預言者モーセといえども、すべての民から支持され続けたわけではない。カデシュまで来たイスラエル人は、前方の敵が強力なのでその地に留まったが、この時モーセの指導に不満を持つ者が反逆した。

民数記16章1節:イツハルの子コラと、ルベンの子孫ダタンとアビラムは、人を集め、
民数記16章3節:徒党を組んで、モーセとアロンに反逆した

 実際にはコラの反抗とルベン族の反抗は、原因も異なる別の出来事だった。コラはモーセとアロンの兄弟の従兄弟で、同じレビ族である。それなのに祭司の仕事がアロンの一族にばかり任されることへの不満が原因だった。コラの造反は鎮圧されたが、コラの子孫は神殿で音楽を奏でる仕事を世襲するようになる。

 ルベン族の反抗は勢力衰退への危機感が背景にある。かつてルベン族は最も力が強く、だからこそルベンはヤコブの長子とされたのに、この頃には宗教はレビ族(モーセとアロン)軍事はエフライム族(ヨシュア)の指導が確立され、栄光の過去をもつルベン族には我慢がならなかった。しかしルベン族の造反も鎮圧され、彼らはいよいよ衰退してゆく。

 この頃のイスラエル人は、どのような宗教観を持っていたのだろうか。それを窺わせるいくつかの記事がある。まず、上記の反逆の話の結末だが、大地が開いて反逆者たちを呑み込んだという。

民数記16章32節:大地が開いて彼らを呑み込んだ
民数記16章33節:彼らは生きたまま、穴へ落ちた

 「穴」に相当するヘブライ語は「ショル」で、死者の国を意味する。ただし、ショルはすべての死者が行くところで、悪人だけが落ちる地獄ではない。反逆者が受けた罰はショルへ行くこと自体ではなく、そこへ行くのが(死ぬのが)早くなることだった。このような冥界の発想は、ギリシャ神話のハデスも(※日本神話のヨミも※)同様である。善人と悪人は天国と地獄に分かれるという、ユダヤ・キリスト・イスラム教の根幹を成す考えは、この時代にはなかった。

 次は、あるときヘビの大群が人々を襲い、モーセはヘビの像で被害者を治癒したという。

民数記21章9節:モーセは青銅の蛇を作り、竿の先に着けた。蛇にかまれた人でも、青銅の蛇を見ると、死ななかった

 しかしこれでは偶像崇拝である。こういうところにも、この時代のイスラエル人が、後世のユダヤ教徒と相当に異なる事実が現れている。後のユダヤ人は、いかにモーセが作ったとはいえ、偶像を認めることはできなかった。ヘビの像も数百年後には破壊されたことが列王記二18章4節に書かれている。

 三つ目は、シホンとモアブの戦いを描く場面で、モアブ人への呪いの言葉が記録されている。

民数記21章29節:モアブに災いあれ! お前は滅びる、ケモシュの民よ

 ケモシュはモアブ人の神である。イスラエル人がヤハウェの民であるように、モアブ人はケモシュの民なのだ。それがバイブルに書かれるということは、全人類が唯一神ヤハウェの民という思想はまだ現れていないことになる。ヤハウェ以外の神は、たんに他部族の神であって、ただちに悪魔とは見なされない。もちろん戦争となれば話は別だが、それは現代人が他国の国旗にもつ感情と酷似している。戦時には敵軍の旗は恐怖と憎悪の対象だが、平和な時代なら外国の国旗には礼をもって接するだろう。

 四つ目が、呪術師バラムの話である。モアブの王は、イスラエルの侵略を防ぐには、呪術師の力に頼るのがよいと考え、高名なバラムに依頼した。

民数記22章6節:私のために、この民を呪ってもらいたい。君が祝福する者は祝福され、君が呪う者は呪われるのだから

 注目すべきは、民数記がバラムの呪術をいかさまの類として退けていないことである。一神教の考えに立てば、そんな力をもつのは真の神だけのはずなのに。たしかにヤハウェはバラムの行為に干渉してイスラエルを守るが、それはバラムに呪いの代わりに祝福の言葉を言わせるという形をとる。呪いであれ祝いであれ、呪術師の口から出る言葉には力があることを認めればこそであろう。

※これらの例から分かるように、民数記は創世記や出エジプト記より後の時代を扱うが、書かれたのは明らかにずっと早い。アジモフは、創世記や出エジプト記はバビロン捕囚より後で書かれたものだと、繰り返し言っている。古い時代ほど、実は後から書かれたものだというのは、神話にはよくあるパターンらしい。※

 呪術でイスラエルに勝つことが叶わなかったモアブ王は、今度は友好政策に転じて、国民にイスラエル人と仲良くせよと求めたようである。そして、イスラエル人は、モアブの女性に魅了され、彼女らの祭祀にまで参加した。モアブはイスラエルよりも経済と文化の先進地域だから、モアブ女性の方が美しかったのだろう。

民数記25章1節:イスラエルはモアブの娘たちと背徳の行為を始めた。
民数記25章2節:彼女らは自分たちの神々への儀式に民を呼び
民数記25章3節:イスラエルは、バアル・ポルに加わり

 バアル・ポルとはケモシュ神のことだろう。この種の出来事が、異民族との婚姻を許さないという、のちの姿勢に繋がるのである。

 このあと民数記は、いきなりミディアン人との戦いの話になり、モアブとの戦いがどう決着したのか、記述することなく終わる。モアブ人の勢力はその後も長く続いたので、結局イスラエルは勝てなかったのだろう。

投稿時間:2014/11/16(Sun) 21:55
投稿者名:Ken
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申命記、ヨシュア記
『申命記』

申命記1章1節:これはモーセが語った言葉で、

 ヘブライ語では「言葉」に相当する「エレ・ハデバリム」が文頭に来るので、これがこの書のタイトルになっている。モーセが死を前にして、出エジプトと律法について再度語った言葉の記録であるという。

申命記17章18節:彼が王位についたならば、この律法の写しを作り、

 モーセはこのように「律法の写し」と言ったのだが、ギリシャ語への翻訳者は誤解して「第二の法」を意味する「Deuteronomion」をタイトルにした。英語でも「Deuteronomy」である。(※それなら「申命=命を申す」の方がヘブライ語の原題に近いわけか※)その申命記は前六二一年、ユダ王国のヨシヤ王の治世に、神殿で「発見」された一書である。

列王記二22章8節:祭司長ヒルキヤは書記シャファンに言った、私は主の神殿で律法の書を見つけた

 実はヨシヤの前には、ヤハウェを奉じない王が続いて、ヤハウェ信仰は苦境にあったので、年若く影響を受けやすいヨシヤが即位したのを好機に、「モーセの書が見つかった」と口を合わせて、用意していた書を持って行ったのに違いない。企ては成功し、古代王国史上初めてヤハウェ信仰が国教の地位を獲得した。ほどなくバビロン捕囚が起こるのだが、ヤハウェ信仰がそれを乗り切る強さを身につけたのはこの時である。そしてそこからユダヤ教、キリスト教、イスラム教が発生したことを思えば、申命記こそ人類史上の最重要文献かもしれない。

 この中でモーセは、神がイスラエル人に与えたカナンの地がどこまでを指すのか、その境界を明らかにすることから始めている。

申命記1章7節:レバノン、ユーフラテス川まで
申命記1章8節:見よ、私はお前たちにこの土地を与える。

 レバノンは元々カナンの北方で地中海岸に平行に走る二つの山脈を意味し、その間がシリア渓谷である。その後の歴史では、イスラム教の真っ只中に位置しながら、キリスト教徒が多数を占める珍しい土地だった。上質の杉を産することで知られ、ソロモンが神殿を作る材料として利用したこともあり、レバノン杉はバイブルの中でも尊貴さの代名詞になったり(士師記9章15節)、逆に自惚れの罪を象徴したり(イザヤ書2章13節)した。

 またモーセはカナンの歴史に言及し、先住民が外来の侵略者に代わられたことを述べるが、その中に

申命記2章23節:また、アビム人の居住はガザにまで及んでいたが、カフトル島から来たカフトル人は彼らを滅ぼし、代わってそこに住んだ。

 という一節がある。このカフトル人こそ、イスラエル史の次の段階でペリシテ人と呼ばれる人々で、これは例えば預言者アモスの記述からも分かる。

アモス書9章7節:わたしはペリシテ人をカフトルから連れてこなかったか

 それでは、ペリシテ人がそこから来たというカフトルとはどこだろう? ペリシテ人がカナンとその周辺に建国した他の諸民族と異なるのは、彼らが海岸沿いに国を作ったことで、あたかも海から侵入したように見える。事実、彼らはエジプトを襲撃した「海の民」の一派と思われ、それならギリシャが故郷になる。イスラエル人はペリシテ人を「割礼をしない者」と呼んだが、割礼はイスラエル人だけでなく、エジプト人にも、大半のセム系民族にも共通して見られた風習である。するとペリシテ人は、エジプト系でもセム系でもないわけで、出自がギリシャの可能性は非常に高くなる。

 ギリシャ人は前二〇〇〇年頃ギリシャの地へ入り、先進のミノア文明を取り入れて、独自のミケーネ文明を築いた。ところが前一四〇〇年頃、新たな蛮族の侵入を受け、押し出されるように海へ乗り出す。これが海の民にほかならない。その一部は小アジアを侵略し、これがトロイ戦争の伝説を生んだのだろう。では、バイブルのいうカフトル島とは、海の民の一大基地だったクレタ島なのか。多くの研究者がそう考えている。もっともカナン侵入後はセム系族と急速に混じりあったようで、彼らの言語も習慣も神の名もセム系の要素を多くもつ。あるいは、カフトルは、クレタよりもさらに近いキプロス島かもしれない。

 さらに、モーセはここまでの征服事業を回顧し、シナイ山上で受け取った律法を述べ、そして偽の預言者や異教の神の危険を語る。

申命記13章13節:ベリアルの子等が、他の神々に仕えようと言い

 ベリアルは元来「役立たず」「無用」という意味だったが、やがて「有害」という意味に拡大され、とうとう悪魔の固有名詞にされるにいたる。例えば、使徒パウロの時代には、まったく悪魔の名になっていたことが、彼の書簡で分かる。

コリントの信徒への手紙二6章15節:キリストとベリアルにどんな調和があろうか?

 締め括りに、モーセは、かつてヤコブが死の床でそうしたように、各部族に言葉を残す。その中でヨセフとレビへの言葉がとくに長く、祝福に満ちているのは、これらの言葉が(もちろん実際のモーセよりはるかな後世の作である)北の王国で作られたことを示す。一方で、ユダのための言葉は短く簡潔で、なによりも王権への言及が全くない。分裂した北王国では、南のダビデ王家を認めていなかったということだろう。それならヤコブが十二人の息子に残した言葉は、分裂前の統一王国で作られたということか。またモーセの方にはシメオンが出てこない。分裂王国の時代には完全に消滅し、部族の人々はユダ族に吸収されていたに違いない。ルベンはかろうじて言葉を残されるが、内容たるや、

申命記33章6節:ルベンを生かし、滅ぼさぬように。その数も減らぬように

 と、これだけである。ところが、この一節には後世の改変が入っており、オリジナルは、こうだったという。

〜ルベンを生かし、滅ぼさぬように。ただし、その数は減るように〜

 さすがに、英雄モーセにそんなことを言わせるわけにはいかないので、改変が加えられたのだろう。現実には、ルベン族もまた消滅し、モアブに吸収されていた。

 モーセはカナンの地を望見する山上に葬られ、彼自身はその約束の地に入ることなく、劇的すぎる生涯を終わった。それをもって申命記も終わり、イスラエル人の征服事業は、後半戦に入る。


『ヨシュア記』

 神はアブラハムにカナンの地を約束した。その征服事業が、稀代の名将ヨシュアの指揮で完遂されるのがヨシュア記である。とはいえ、この書も書かれたのはバビロン捕囚の時代つまり七百年も後で、大量に粉飾されているのは明らかだ。戦いの実態は、書かれているほど華々しいものではなかったろう。

 ヨシュアの最初の攻撃目標は、エリコの町だった。

ヨシュア記2章1節:ヨシュアは二人のスパイをシティムからひそかに送って言った、行って国を見てこい、エリコまでも

 エリコには非常に古くから人が住み着き、町の存在を示す痕跡は前五〇〇〇年頃まで遡る。もっともメソポタミア文明自体はさらに古く、一九六六年トロント大学の調査隊が、ユーフラテス上流で前八五〇〇年の遺跡を見つけているから、これと比べたらピラミッドもアブラハムも、はるかな後世の存在でしかない。エリコは破壊と再建を繰り返し、ヨシュア時代の町はおそらく三代目だった。頑丈な城壁に守られていたが、ヨシュアのスパイはエリコへ潜入し、ラハブという娼婦から城内の士気が異常に低いことを聞く。ラハブは身の安全と引き換えに国を裏切った「第五列」だった。

 ヨシュア軍はヨルダン川を越えてエリコに向かうが、攻撃前に、川底から取った石で儀式を行った。

ヨシュア記4章20節:ヨルダン川から取った十二個の石を、ヨシュアはギルガルに置いた

 ギルガルは「石の輪」を意味し、地名として幾つもバイブルに登場する。ストーンヘンジが有名だが、石で作った輪の遺跡は世界各地で発見されており、石器時代人が天文観測と宗教儀式を合わせ行うのに用いたと思われる。ここに登場するギルガルの地も、カナン古来の宗教と結びついた、いわば聖地だった。ヨシュア記を書いた後世のヤハウェ教徒は、その異教の名残りを消し去るよりも、ヨシュアの征服事業と結びつけることを選択したのに違いない。これは、歴史の中で生き残り繁栄する宗教には頻繁に見られることで、イスラム教はカーバの所在地つまり異教の聖地だったメッカを自己の教義へ取り込んだし、キリスト教は冬至を祭る異教の習慣をクリスマスにした。

 部族数が十二だから十二個の石を用いたと考える必要はない。一年が十二ヶ月ある(季節が一巡する間に月が十二回満ち欠ける)ことから、十二が聖なる数とされたのだから。のちのイエスの弟子たち、いわゆる十二使徒も同じ。十二という数が大切なので、だからこそユダがイエスを裏切った後、別の人間を選んで、数を十二に戻している。

※よく似た例が中国古代史の春秋の五覇。初めに五という数があり、誰が五人の覇者なのかはその後の議論になる※

 エリコへの攻撃は、よく知られた物語である。神の契約の箱を担いだ祭司たちが、ラッパを鳴らしつつ町を周回する行為を七日間続けると、七日目に堅固な城壁が突然崩れ落ちたという。そのとおりなら神の奇跡そのものだが、奇跡を認めない人は、地震が起こって城壁が壊れたのだろうという。しかし、それもあまりにタイミングが良すぎるではないか。そんなことよりも、エリコ市民の戦意が初めから低かったことはラハブが語っているし、祭司たちの行列とラッパの音に気をとられて、ヨシュア軍の城壁破壊工事に気付かなかったか、報告しなかったと考える方が、よほどありうる話である。

 こうしてエリコは陥落した。町は破壊と殺戮と略奪を被ったのみか、ヨシュアに呪いの言葉をかけられる。

ヨシュア記6章26節:ヨシュアは言った、この町エリコを再建する者は呪われるべし

 戦争で陥落した町が破壊され、二度と再興しないように誓われるのは、歴史上いくつも例がある。よく知られているのはローマに破壊されたカルタゴだが、のちにローマ自身がカルタゴ市を再建したし、エリコもアハブ王の時代にイスラエルが再建した。当然のことで、ある場所で町が栄えるのは、たとえば交易路がクロスするような地理的理由があるからだ。そこに町があることで利益が得られるのだから、いつまでも空地にしておけるはずがない。イスラエルのエリコ市は、七世紀にアラブ軍に破壊されるまで続き、その後も十字軍に再建され、これは現代まで続いている。

 次の攻撃目標はアイの町である。この戦いでイスラエル軍は偽って敗走し、敵軍が城を空けて追ってきた時、別働隊を送ってアイの町を占領した。

※まるで諸葛孔明みたいな作戦だが、こういう講談的なことが、現実に起こるのだろうか?※

 次の目標になるはずのギブオンは異なる作戦に出た。彼らはヨシュアの陣営を訪れ、自分たちは遠国の使節で、ぜひ平和条約を結びたいと申し出たのだ。それを信じたヨシュアは平和条約を結び、やがて嘘が分かった時も、既に誓ったことを反故にはできなかったという。到底信じ難い話だが、要するにイスラエルのカナン征服は、ヨシュア記が描いたような完勝ばかりではなく、多くの町が生き残った事実があったので、恥知らずな敵と名誉を重んじる英雄ヨシュアのせいでそうなったということにしたのだろう。

 次の戦いでは、決着がつく前に日が沈みそうになったので、ヨシュアが太陽に命じて動きを止めさせ(※平清盛みたい※)イスラエル軍が完勝したという。この話は、はるかな後世に、コペルニクスの地動説が誤りである証拠とされた。太陽が止まるというのは、本来は動いていることが前提ではないか、というわけである。もちろん、相対運動の原理を知っていれば、こんな反論は反論にもならないのだが、物理法則を語るのが本書の目的ではない。

 ヨシュアの快進撃は続く。

ヨシュア記11章8節:主のおかげでイスラエルは彼らを撃ち、大シドンまで追撃し、

 シドンの地は現在のレバノン共和国で、さすがにそんなところまで征服したとは信じ難いし、後の王国の最盛期でもこの地を支配してはいない。それはともかく、シドンの特産は紫の染料で、これが非常に有名だった。なにしろ「カナン」は紫を意味する古いセム語という説があるほどだ。その真偽は不明だが、ただギリシャ人がカナンのことを呼んだ「フェニキア」とは、間違いなく紫の意味である。

 そのフェニキア人(=カナン人)は、この時代に人類史上の大貢献をした。アルファベットの発明である。文字の発明は、シュメールでも、中国でも、中央アメリカでも行われたが、それらの文字はすべて一つ一つが意味をもつため、文字の量は膨大になる。ところがフェニキア人は、意味ではなく音を文字で表すことを思いつき、彼らの言語で使用される子音の一つずつに文字を当てていった。これはイスラエルを含むヘブライの各種族に広まり、さらにギリシャへ伝わった時、母音を表す文字が加えられた。世界中のアルファベットは、すべてフェニキア文字から派生したといってよい。

※そうだろうか? 日本の仮名や韓国のハングルも音を表す文字なのだが。アルファベットの厳密な定義はなんなのだろう?※

 さて、ヨシュア記がイスラエルの征服事業をどれだけ飾り立てても、多くの土地が征服されずに残った事実は動かない。中でも最も重要なのは、

ヨシュア記13章2節:残っている土地は次のとおりである。ペリシテ人の全地域と、

 ペリシテ人は申命記にもカフトル人の名で登場している。前一一九〇年にエジプトで即位したラムセス三世は、ようやく海の民を撃退するが、エジプトを追われた彼らがカナンの地へ入ったのがペリシテ人で、彼らの沿岸部征服と、イスラエルの内陸部征服は同時期であり、両者はその後の数世紀、最大の宿敵同士となる。なお、パレスチナの語源はペリシテである。ヨシュア記13章3節では、ペリシテの主要都市に、ガザ、アシュドド、アシュケロン、ガト、エクロンを挙げている。ギリシャ諸都市のような、独立性の強い都市国家だったと思われる。ガザは現代史でイスラエルとエジプトの係争地であり続けたことは、よく知られている。

 ヨシュアは征服事業の締め括りに、各部族に土地を割り当てた。
 ルベン、ガドそしてマナセの一部はヨルダン川の東に。本来のカナンである、川の西側は最も南がユダ族でエルサレムも含まれる。そのさらに南の辺境は消滅寸前のシメオンに。シケムを中心としたカナン中部はマナセの残り。マナセとユダの間の地は、海側がダン、内陸側にエフライムとベニヤミン。マナセの土地より北は、海側がアシェル、内陸側は南から順にイサカル、ゼブルン、ナフタリと並ぶ。

 ただし、この時点でこれらの土地をすべて征服できたわけではなく、エルサレムがイスラエルのものになるのはダビデの時だし、ペリシテ人の土地もユダとダンに割り当てられたが、やはりダビデ以前には支配できなかった。アシェル族に割り当てられた土地などは、ついにイスラエルのものにはならなかったのである。

 これまでカナンと呼んできた地を、以後はイスラエルと呼ぶことにする。

投稿時間:2014/11/30(Sun) 23:18
投稿者名:Ken
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士師記、ルツ記
『士師記』

 約束の地を征服した後のイスラエル史を語る士師記は、雑多なエピソードの寄せ集めで、ヨシュア記のようなはっきりとした筋書きもなければ、イスラエル人を英雄的にばかり書いてもいない。それが却って真実に近いことの根拠とされる。ヨシュア記のイスラエル軍は、常に全部族一致団結だが、士師記では部族間の結束ははるかに弱く、内戦すらも起こる。外敵にも苦戦することが多く、その一因に敵の優れた武器が挙げられている。

士師記1章19節:ユダは山地の住民を駆逐したが、盆地の住民は鉄の馬車を持っていたので、追い出すことはできなかった。

 金属の使用は前三五〇〇年頃に始まり、初めは銅だった。これに錫を加えるとずっと硬くなることが発見され、前二五〇〇年頃、肥沃な三日月地帯と呼ばれる地域は青銅器時代に入っていた。しかし銅も錫も容易に得られる資源ではなく、フェニキアの船は錫を得るため、イギリスまで行ったという。それに比べて、鉄ははるかに豊富に産するし、青銅よりも硬くなる。ただ、精錬に高温を要しプロセスも難しいので、普及が遅れた。鉄の精錬に成功したのは、前一四〇〇年頃のヒッタイトで、これより鉄器時代が始まる。しかし、後進部族イスラエル人は青銅器しか持たず、鉄を装備した敵には屈することが多く、よほど有能な指導者に率いられた時だけ、勝つこともあった。そのような指導者が士師である。

※英語ではjudgeといい、要するに非世襲の王と思えばよい。日本語聖書がなぜ「判定者」「裁定者」「審判者」といわず「士師」などという訳語を用いるのか、理解に苦しむ。イスラエル人やユダヤ教徒に、もし「士師」という字義がふさわしい存在がいるとすれば、ラビこそがそれではないのか※

 士師は全部で十二人が記録されているが、これも意図的に十二に合わせた可能性が非常に強い。一般には、十二人のそれぞれが全イスラエルを統治した、つまり一人が終わると次の一人が立った、と信じられることが多いのだが、それぞれの士師の活動年数は記されていて、全部をつなげると四百十年になる。士師の時代は前一〇二八年のサウル王の即位で終わるから、これではヨシュアのカナン征服は前一四四〇年頃、出エジプトはその四十年前で前一四八〇年頃になる。だが、これは到底あり得ない。いくら考えても、出エジプトは、メルエンプタハがファラオで、エジプトが海の民に苦しんだ前一二〇〇年頃、ヨシュアの死は前一一五〇年頃でなければならない。それなら士師の時代は百五十年を超えることはないだろう。つまりそれぞれの士師は一つまたはいくつかの部族だけを治め、互いの活動期間は重なっていたのだ。つまり分裂の時代だが、幸運にもエジプトはすでに西アジアに干渉する力はなく、新興のアッシリアはまだ真の大をなすにいたらない。士師たちはそういう時代背景の中で活動機会を得たとも言える。

 士師記を編纂した後世人は、モーセやヨシュアの戦いをあれだけ助けた神が、なぜ士師の時代にイスラエルが何度も敗れるのを許したのかを説明せねばならず、それは人々の背教の報いという、その後すっかり定型化した理論を持ち出した。

士師記2章11節:イスラエルの子等は悪を行い、バアルに仕えた
士師記2章13節:そしてアシュトレトにも

 バアルとアシュトレトはそれぞれセム語で主人と女主人を意味し、この場合は異教の神と女神を指す。アシュトレトは正しくはアシュタルテなのだが、メレクをモレクと言い換えたのと同様、ボシェト(汚辱)の母音を組み込んだ言葉にほかならない。アシュタルテはギリシャ語ではアスターテ、バビロン語ではイシュタルとなる。イスラエル人が異教の神を奉じると罰として戦いに敗れ、悔い改めると士師が現れて人々を救うというのが、士師記の基本プロットといってよい。すでに最初の士師オトニエルの記述で、そのことが簡潔に述べられている。

士師記3章7節:イスラエルの子等は悪を行い、バアルとアシェラに仕えた
士師記3章8節:主は彼らをメソポタミアの王クシャン・リシャタイムの手に売り渡された
士師記3章9節:イスラエルの子等が主を呼んだので、主はカレブの弟ケナズの子オトニエルを救助者として立てられた

 第4章にはこんな記述がある。

士師記4章2節:主はハツォルの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。その軍を指揮するのが、ハロシェトに住むシセラで

 ところが、ハツォルはヨシュアの手で完全に滅ぼされたはずなのだ。

ヨシュア記11章10節:ヨシュアはハツォルを陥落させ、王を剣で殺した
ヨシュア記11章11節:そして全住民を殺し、滅ぼし尽くしてハツォルを焼いた

 これは、ヨシュア記の記述が大掛かりに粉飾されていることの証拠でなくてなんであろう。とはいえ、ヨシュアのエフライム族が軍事面のリーダーで、カナン征服後も最強の部族だったことまでは否定できないし、むしろヨシュアの英雄譚は、エフライムの力を個人伝説にしたものかもしれない。

 イスラエルの文化では非常に珍しいことだが、そのエフライムの指導者が女性だった時期がある。

士師記4章4節:女預言者デボラが、その頃イスラエルを裁いた
士師記4章5節:彼女は、エフライム山地のラマとベテルの間に居住した

 そのデボラは将軍バラクと遠征軍を進め、シセラのハツォル軍を粉砕。今度こそハツォルを滅ぼす。あるいはヨシュア記の記述は、この時の出来事を、英雄ヨシュアの功績に変えたのかもしれない。勝利の後、デボラとバラクは有名な『デボラの歌』を歌い、その中で参戦した部族の名が讃えられる。エフライム、ベニヤミン、マナセ、ゼブルン、イサカル、ナフタリの六部族で、地理的には北部連合である。参戦を拒んだルベン、ガド、ダン、アシェルは侮蔑を投げられるが、注目すべきはユダ族とその属国というべきシメオン族の名が出ないことだ。もしかしたら、士師の時代のユダ族はイスラエルの一部と見なされていなかったのではないか。ユダ族とイスラエルが統一政体にあったのは、のちのサウル、ダビデ、ソロモンの三王のときだけで、イスラエルのサウル王にユダ族は反乱を起こし、ユダ族のダビデ王にイスラエルは反感を持ち続けた。ソロモンの後、両者は分裂し、二度と一緒になることはなかった。

 敵はカナンの残存勢力だけではない。外ヨルダンから襲う遊牧民とも戦わねばならなかった。ミディアンとアマレクを中心とする東方の部族が襲来したとき、迎え撃ったのがマナセ族のギデオンである。彼が率いたのは、マナセ、アシェル、ゼブルン、ナフタリ族だが、当然中核となるべきエフライムが抜けている。おそらくギデオンは、初めからエフライムを加えれば正面攻撃に固執し、無用の犠牲を出すと考えたのだろう。ギデオンは小部隊で敵に夜襲をかけ、音と光で驚かせて敵を潰走に追い込む。敵が逃げる先には、エフライムを含む大部隊が待ち伏せていて敵を殲滅するが、明らかにギデオンは、エフライムに連絡する時間を調節して、この第二段階だけ参戦させたに違いない。これがエフライム族を怒らせた。

士師記8章1節:エフライムの人々は、なぜミディアンとの戦いに行くとき、我々を呼ばなかったかと、ギデオンを激しく責めた

 ギデオンは、自分の夜襲などは小さなことで、エフライムが参加した戦いこそ重要だったのだと言って相手をなだめ、イスラエルの内乱を回避した。

 ギデオンの名声は高まり、彼は諸部族から、より高い地位に登ることを求められた。

士師記8章22節:イスラエルの人はギデオンに言った、君も、君の子も、そのまた子も、どうか我々を治めてほしい

 これは世襲の統治者、つまり王になってほしいという頼みである。しかしギデオンは回答した。

士師記8章23節:私は諸君を治めない、主が諸君を治められる

 実際には、ギデオンは終生マナセの統治者だったし、彼の息子もそうだったので、少なくともマナセ族の王になった可能性はある。世襲の利点は後継者争いが起こらないこととされるが、実際は王子たちの激しい争いが起こることは、のちにダビデの後継者を争う内戦が示すとおりだし、ギデオンの家も息子たちの争いで、その政権は短命に終わった。

 次は、ガド族の士師エフタの話である。アンモン人との戦いを前に神に祈った彼は、戦勝の暁には、凱旋する彼の前に最初に家から現れたものを犠牲として捧げると誓い、いざ凱旋帰宅すると、最初に飛び出したのは彼の幼い娘だった。エフタは悲嘆の中でも、娘を生け贄にするしかなかった・・・・。

 士師記を編纂した後世の編者が、こんな話を抹消しなかったのは驚きだが、異教の習慣をヤハウェ信仰と習合させるため、あえてそうしたという説がある。

士師記11章39節:イスラエルにしきたりができた
士師記11章40節:イスラエルの娘たちは、毎年、年に四日間、ギレアドのエフタの娘を悼むのである

 原始農耕社会では、植物が枯れる冬は神が死に、新たに芽吹く春は神が蘇ると考えることがある。そこで冬には神の死を悼み、春にはその復活を祝うのだが、こんな異教の習慣でも、生活に深く定着したものは廃することができず、それは異教の神ではなく英雄の娘を悼んでいるのだという説明をするため、あえて生け贄の話を残したのではないか。

 エフタは勝ったが、ギデオンのようにエフライム族に花を持たせなかったので、両者の間に戦いが起こった。エフタは、まず退却を重ねて敵を深く引き入れ、別働隊を送ってヨルダン川の渡し場に伏兵を置いた上で、長距離を遠征してきたエフライム軍を激しく叩いた。潰走したエフライム兵はヨルダン川でエフタの伏兵に捕捉されたのだが、エフタの兵は敵兵を区別するために、Shibboleth(流れ)と言わせたという。

士師記12章6節:Shibbolethと言わせ、正しく発音できずSibbolethと言うと、捕らえて殺した

 エフライム方言にはsh音がないのだ。(※siとはいえるのに、shiといえないとすれば、現代日本人とは逆のケースになる※)

 士師の最後はダン族のサムソンだが、他の士師とは全く異なり、将軍でも政治指導者でもない、いわばロビン・フッドかスーパーマンみたいな存在で、ペリシテ人を相手に超人的腕力で渡り合う人物である。そのエピソードを考察すると、太陽神話ではないかと思われる部分がある。まず、サムソンは誕生から神話的で、彼の母親に天使が告げたという。

士師記13章5節:見よ、あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、神に仕えるナジル人なので、頭にかみそりを当ててはならない

 ナジル人については、民数記で説明されている。

民数記6章2節:男でも女でも、ナジル人の誓願を立て、主に仕えるとき
民数記6章3節:ぶどう酒も強い酒も飲まず
民数記6章5節:かみそりを当てず、髪は伸びるままにし
民数記6章6節:死体に近づいてはならない

 このような戒律を守って宗教的な修養を行う。後世の修道士を想像すればよいだろう。そしてサムソンはバイブルに登場する最初のナジル人なのだが、彼には修道士的な特徴は皆無である。それどころか死体には接触するし、大酒を飲む。ただし髪を伸ばしていた。太陽神話というのはその点で、長い髪は太陽光線を表す場合が多いからである。おそらく士師記の編者は、サムソンの髪を説明するのに、異教の太陽神話を持ち出すわけにもゆかず、彼の実態とは正反対のナジル人に仕立てたのだろう。

 サムソンは、素手でライオンを殺し、賭けに負けた腹いせに三十人のペリシテ人を殺し、尾に松明を結んだ狐をペリシテ人の畑に放つ。士師がこんなことをしても、イスラエルには何の役にも立たないのだが、古代の太陽神話にはよく見られる特徴である。そしてある日、彼は一人のペリシテ人女性と出会う。

士師記16章4節:彼はソレクの谷にいるデリラという女を愛するようになった

 実はデリラはペリシテの女スパイで、サムソンの超人的な力の秘密を探っていたのだ。デリラにせがまれたサムソンは、秘密を打ち明けてしまう。

士師記16章17節:私は頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、私の力は抜けて、私は弱くなり、他の人間のようになってしまう
士師記16章19節:彼女は膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで、彼の髪の毛七房をそらせた。彼の力は抜けた

 ナジル人に関するどの文章にも、髪を切ったら怪力を失うなどという記述はない。ところで、今の我々が彼をサムソンと呼ぶのは、バイブルがギリシャ語に訳されたときに、彼の名がギリシャ化されたからで、ヘブライ語では彼はシムションというが、これは太陽を意味するシメシュに通ずる。一方、デリラのリラは夜を意味する。この話は、明らかに太陽神話において夜が太陽に勝ち、太陽の光(髪)が失われることを言っている。

 ペリシテ人は捕らえたサムソンの目をつぶし、彼らのダゴン神を祀る場へ引き出した。ところが、この時サムソンの髪はまた伸びており、怪力の戻った彼は、建物の屋根を支える柱を倒し、崩れた屋根の下敷きで、彼自身も多くのペリシテ人とともに死ぬという結末になる。

 士師たちの物語はこれで終わるが、最後に士師記は、この時代のイスラエル諸部族がそれぞれの利益を優先して、他部族を略奪したり敵に売り渡した事例を述べ、

士師記21章25節:そのころ、イスラエルには王がなく、誰もが自分の目に正しいと映ることをおこなっていた

 と説明するのは、あたかも次にくる王制時代を予言するかのようだ。士師記の最後も、イスラエルがどれほど無法状態になっていたかを示す話である。エフライム族の旅人が、ベニヤミン族の町ギブアで宿泊した時、地元民に襲われ、一緒に旅をしていた女を殺されてしまう。その後、諸部族会議で、全イスラエルが一致してベニヤミンを討伐する決定をしたというのは、時代を考えればとても信じられない。あるいは、士師記の最後に来るこの話は、実は士師の時代の初め、ヨシュアの下に諸部族が団結していた記憶の新鮮な時代に起こったのかもしれない。この時、諸部族連合軍はベニヤミン族を大量に殺し、ベニヤミンは大打撃を受けるのだが、やはりそうなると、これが士師の時代の最後に起こったというのはおかしい。次に来る王国時代の最初の王は、ベニヤミン族のサウルなのだから。



『ルツ記』

 ルツという一人の女性の生涯を記すルツ記は、古き良き時代の心温まる一挿話として書かれている。時代設定は士師記と同じだが、ユダヤの経典では歴史よりは文学として扱われ、同じカテゴリーの他の書と一緒に収録されている。一方キリスト教ではこの話は非常に重要な歴史的意義を与えられ、士師記のすぐ後に挿入されたのである。

ルツ記1章1節:士師たちが治めていたころ、ユダのベツレヘムに住む男が、妻と二人の息子を連れて、モアブの国へ移住した
ルツ記1章2節:彼の名はエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、

 移住先のモアブでエリメレクは死ぬが、息子たちは妻を迎えた。

ルツ記1章4節:息子たちはモアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。彼らは十年ほどそこに暮らした
ルツ記1章5節:そしてマフロンとキルヨンの二人は死んだ

 マフロンは「病気」、キルヨンは「無駄」を意味する言葉で、子供にそんな名を付ける親はいない。早死にした人間にふさわしい名として思いついたわけで、この話全体がフィクションならではである。

 夫と二人の息子に先立たれたナオミは、一人で故郷へ帰ろうとするが、義理の娘のうちルツは、一緒に行くことを申し出た。

ルツ記1章16節:ルツは言った、あなたから去れなどと言わないでください、あなたの行かれる所に私も行きます、あなたの泊まる所に私も泊まります、あなたの民はわたしの民です、あなたの神はわたしの神です

 こうして、ベツレヘムへ移ったモアブ女性のルツは、その地でボアズという人物と出会い、ナオミの応援もあって、やがて二人は結婚した。二人の間には息子が生まれ、ルツはまったくイスラエルの女になり、イスラエル人は彼女を讃えた。

ルツ記4章14節:女たちはナオミに言った
ルツ記4章15節:あなたを愛する嫁は、あなたにとって七人の息子にもまさる

 そして、物語の最も肝心な部分が述べられる。

ルツ記4章17節:女たちは、ルツの子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である

 ルツは英雄王ダビデの曾祖母なのだ。

 ルツ記が書かれたのは、バビロン捕囚の後、ユダヤ人が極端に排他的になり、民族の純潔を守るため異民族との婚姻まで厳禁した時代で、すでに結婚していた夫婦でも容赦なく引き裂かれた。ルツ記の著者は、それに真っ向から反対した。全人類は兄弟ではないか、と。

 実はダビデには本当にモアブの血が入っていた可能性がある。身の危険が迫った時、彼は両親をモアブの地へ連れて行った。

サムエル記一22章3節:ダビデはモアブの王に言った、神がわたしをどのようになさるか分かるまで、父母をあなたのもとに居させてください

 ダビデがそれほどの信頼をモアブに持っていたのは、血縁関係が背後にあったためかもしれない。そしてルツ記の著者は、それを最大に潤色して物語に仕上げた。バイブル全篇を通してルツほど理想化された女性はいないし、その彼女がモアブ人だったことの意味は測り知れない。かつて、全モアブ女性がイスラエルの男を悪の道に誘うだけの存在として描かれたのに。(民数記25章1節、2節)

 モアブ女性ルツがいなければ、ダビデもいなかった。キリスト教徒にとって、この意味はさらに大きい。イエスはダビデの家系に生まれたのだから。

投稿時間:2014/12/14(Sun) 12:16
投稿者名:Ken
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サムエル記一
『サムエル記一』

 このあたりから、バイブルの史料としての信頼性が高まってくる。ここからの四書は、王国の誕生、発展、分裂、滅亡を述べたもので、元は『サムエル記』と『列王記』の二書だったが、どちらも分量が多く、本が巻物だった時代には不便なので、それぞれ第一書と第二書に分けられた。同じ四書をカトリックでは、列王記の第一、第二、第三、第四書としている。

 サムエル記第一書は、エルカナという人物がシロの町へ行くことから始まる。彼の妻ハンナには子供がなかったので、シロの神殿で子を授かるように祈り、授かった子はナジルとして神に仕えさせることを誓った。こうして生まれた子供がサムエルである。この当時はシロが信仰の中心地で、エルサレムが取って代わるのはもっと後のことである。

 この頃になると、イスラエルへの脅威として残るのはペリシテだけになっていた。この最強の敵は、沿岸地方のみかユダ族も支配していたことは、士師記の記述からも分かる。

士師記15章11節:ユダの人々がサムソンに言った、ペリシテ人が我々を支配していることを知らないのか

 とくにエフライム族がエフタに討たれて弱体化すると、攻勢に出たペリシテ人との激しい戦いが起こるようになる。イスラエルは緒戦で敗れ、挽回のために神との契約の箱を陣中に持ち込むが、さらに破滅的な大敗を被り、契約の箱までペリシテに奪われてしまう。この戦いは前一〇八〇年頃と思われ、その後の半世紀は、ペリシテがイスラエル全土に力を及ぼした。

 もっともバイブルの著者の関心は、奪われた契約の箱にあるようだ。記述によると、ペリシテ人はこの箱に宿るイスラエルの神を大いに恐れ、小さな災いでもすべて神の怒りと考えて、次々と置き場所を変えた挙句に、本拠から遠く離れたキルヤト・エアリムという地に長く留め置いたという。そこはユダ族の地に最も近かった。

 さて、ハンナがシロの神殿で祈って生まれたサムエルは成長し、兵を集めてペリシテと戦うまでになった。

サムエル記一7章5節:サムエルは命じた、全イスラエルをミツパに集めよ

 このサムエルの軍勢はペリシテ人に大勝したと書かれているが、それはかなり疑わしい。それほどペリシテ人が損害を被ったのなら、この後にサウルが何年もペリシテ相手の苦闘をせねばならなかったはずがない。後世の編者がサウルやダビデの功績を、預言者サムエルの功績にすり替えたと思われる。むしろサムエルの支配の実態を表すのは、

サムエル記一7章16節:彼は毎年、ベテル、ギルガル、ミツパを巡り、それらの地でイスラエルのために裁きを行い、

 という一節だろう。これらはエフライムとベニヤミンの地で、ペリシテに抵抗するゲリラ基地だったと思われる。やがてサムエルが老いると、ペリシテ人に勝つには王が必要だという声がイスラエル人の間で高まった。サムエルは、王などを持てば圧制の下で生きることになると警告するが、これもサムエルというより、後世の編者の見解だろう。この後サムエルは王に適した人物を捜し求めるからである。そして彼はベニヤミン族の一人の若者を見いだした。

サムエル記一9章1節:ベニヤミン族にキシュという名の男がいた
サムエル記一9章2節:彼にはサウルという名の息子があった

 サウルは長身で見栄えがよく、人々の支持を集めそうだし、まだ年若いから自分の言うことを聞くと、サムエルは考えたのだろう。

サムエル記一10章1節:サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った、主が君に油を注がれた、と

 王の即位に油を注ぐのは、石鹸の発明前、香油で汚れを落としたことに由来するのだろう。神の前に出る者は身を清めねばならないのだから。ただしこの即位式は内密に行われ、このあと人々の前でサウルが神託の籤で選ばれたことにし、即位を宣言した。前一〇二八年のことだ。

 当初、人々は無名のサウルに不安を抱くが、彼の力量を試す機会はすぐに訪れた。

サムエル記一11章1節:アンモン人のナハシュが攻め上って来て、ヤベシュ・ギレアドの町を包囲した

 ヤベシュ・ギレアドは、ペリシテ人に支配されたイスラエルの援軍は得られないと思い、開城を申し出るが、ナハシュが出した条件は全住民の右目をえぐることだった。パニックに襲われたヤベシュの住民は、サウルに救援を求める手紙を送った。するとサウルは兵を集めて救援に向かい、アンモン軍を撃ち破り、ヤベシュ・ギレアドを救った。

 この報せは全イスラエルを沸きたたせた。ついにペリシテと戦える将軍が現れたという歓喜の中で、サウルは二度目の即位を行う。一度目と異なるのは、即位式にサムエルが関与しないことである。

 ヤベシュ・ギレアドは、その後サウルの最も忠実な味方となる。サウルの力がどれだけ落ち込んだ時も、この町だけは裏切ることがなかった。

 いよいよサウルはペリシテとの戦いを始めるのだが、第13章の冒頭におかしな記述がある。

サムエル記一13章1節:サウルがイスラエルの王となり、二年たったとき、
サムエル記一13章2節:三千のイスラエル兵を選んだ。そのうちの二千人はサウル自身が、千人をヨナタンが指揮して

 ヨナタンはサウルの息子である。サムエルがサウルを即位させた時、明らかにサウルは非常に若い男だった。それが二年後に、軍の指揮を任せられる年齢の息子がいるのはあり得ない。この部分は誤訳があったと考えるしかなく、サウルがペリシテとの戦いを始めるまでには、息子が成人するほどの年月が介在したのだろう。最大の難問は、ペリシテが鉄の武器を持っていることだった。

サムエル記一13章19節:さて、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブライ人に剣や槍を作らせてはいけないとペリシテ人が考えたからである

 この状況下で鹵獲・購入・技術習得の手段で武器を揃えるのに、それだけの年月を要したと考えるべきだろう。

 戦いはヨナタンが攻勢に出たときに始まった。サウルはまだ時期ではないと判断して、軍を動かさなかったが、ヨナタンは小部隊でミクマスのペリシテ陣を奇襲し、これをイスラエルの主力と信じたペリシテ軍を逃走させた。ヨナタンは勝ったが、命令違反を怒ったサウルは息子の処刑を命じた。しかし将兵がヨナタンを支持して処刑の実行を許さず、父子の間にしこりを残すことになった。それでもヨナタンの勝利はペリシテ人を本拠地の沿岸部へ押し返し、サウルの活動を大いに助けた。サウルは対ペリシテ戦の側面を固めるため、南のアマレク人を討ち、王のアガグを捕虜にした。

 ところが今度はサムエルとサウルの間に対立を生じた。サムエルは預言者の一団を率いる指導者だったが、この時代の預言者は、歌い、踊り、陶酔状態で発する言葉を神の言葉であるというような存在だった。サウルもこのような預言者への人々の信仰に支えられていたが、ヤベシュ・ギレアドで勝利してからは、むしろ彼らの、ひいてはサムエルの、影響を脱しようとした。例えば、預言者たちは、異教徒アマレク人を殺し尽くせと要求したが、無用の流血を嫌うサウルは要求を断り、アガグ王も生かしておいた。激怒したサムエルは、自らアガグを処刑し、サウルに向かって、王の資格なしと宣告する。

サムエル記一15章23節:君は主の言葉を拒んだ。よって主は君の王権を拒むだろう

 サムエルはサウルに対抗する勢力として、ユダ族を利用しようとする。

サムエル記一16章4節:そしてサムエルはベツレヘムへ行った

 ここまでのユダ族は非常に影が薄く、本当にイスラエルの一部族なのかも疑われるほどである。デボラの歌にはユダ族が登場しないし、ギデオンやエフタの戦いにも登場しない。サムソンを助けるどころか、彼をペリシテ人に売り渡している。一方、ユダ族にしてみれば、砂漠に近い南部にはヤハウェ信仰が純粋な形で保持されているのに、イスラエル北中部はカナン先住民の密集地で、異教徒の影響が強すぎると見えたであろう。

 サムエルはベツレヘムのエッサイを訪れ、末子のダビデに注目した。

サムエル記一16章12節:彼は血色が良く、見た目が良かった
サムエル記一16章13節:サムエルは油の器を取り、兄弟たちの中で彼に油を注いだ

 またもサムエルは見栄えの良い青年を王にしたのだ。

 同じ頃、サムエルの支持を失ったサウルは荒れていた。精神安定には音楽がよいと竪琴の名手をそばに置くことを薦める者がおり、彼の元へ来たのがダビデだった。ダビデの演奏は見事で、サウルの信頼を得た彼は、やがて戦争についてもサウルから学ぶようになる。もちろんダビデがサムエルの手で王位に就いたことは秘密である。ダビデをサウルに推薦した人物も、サムエルに通じていたのだろう。

 ダビデがサウルの家臣になった経緯には全く別の話があり、バイブルはどちらも載せている。こちらはペリシテ相手の戦場が舞台で、なかなか戦いの勝負がつかなかったのだが、ペリシテの陣から一人の戦士が進み出た。

サムエル記一17章4節:ガトのゴリアテといい、背丈は六キュービトと一スパン

 このゴリアテが、自分とイスラエルの勇士で一騎打ちを行い、戦の勝敗を決しようと申し込んだ。エッサイの三人の息子がサウルに従軍しており、ダビデは兄たちへの届け物を持ってきていたが、誰もゴリアテの挑戦に応じないので、彼自身が対決して投石器でゴリアテを斃した。ペリシテ軍は敗戦を認めて撤退した。有名すぎる話だが、真実のはずがない。なぜ一騎打ちの敗北が全軍の敗北になるのか。(※三国志にも、関羽や張飛が一騎打ちで敵将を斬ったので、劉備軍が勝つシーンがいくつもあるが、ゴリアテは一兵士にすぎない※)実は、後年ダビデが軍勢を率いてペリシテと戦ったときの記述に、こういう一節がある。

サムエル記二21章19節:ベツレヘムのエルハナンが、ガト人ゴリアテを打ち殺した

 ゴリアテが死んだのは実はこの時で、エルハナンというベツレヘムの男の手柄を、同じベツレヘムのダビデの手柄に変え、さらに粉飾して、それで敵軍が逃げたことにしたのに違いない。

 どういう経緯でサウルに仕えたにせよ、ダビデは有能な部将として頭角を現し、さらにヨナタンと深い友情を結ぶ。しかしサウルは次第にダビデを競争者として、疑いの目で見るようになる。ヨナタンからも忠告されたダビデは結局逃亡した。その後はサウルの追っ手から逃げるものの、逃げ続けることはできないと判断した彼は、ペリシテ人のところへ行くのである。

サムエル記一27章2節:ダビデは六百人と共に、ガトの王アキシュのもとに移って行った

 アキシュはサウルと戦うための有能な将軍を得たことを喜ぶのだが、やはりこれをみると、ユダ族はイスラエルからは独立した勢力で、イスラエルと同盟してペリシテを討つことも、ペリシテと同盟してイスラエルを討つこともある、ということだろう。ダビデのこのくだりは、バイブルの記述に苦心の跡が見え、アキシュにはイスラエルと戦っていると思わせておいて、実はアマレク人と戦っていたなどと書いているが、そんなごまかしが通るはずがない。イスラエルと戦うために雇われたダビデは、イスラエルと戦っていたに違いないのだ。

 ペリシテにとって、ユダ族も祭司勢力もサウルを捨てた今こそ、攻勢に出る好機だった。

サムエル記一28章4節:ペリシテ人も集結し、シュネムに来て布陣した。サウルはイスラエルの全軍を集めてギルボアに陣を敷いた

 ペリシテ人は、さすがにサウル王家とじかに戦う戦場では、ダビデの寝返りを心配したらしく、彼を参陣させずに帰してしまった。こうして前一〇一三年のギルボアの戦いが起こり、ペリシテの大勝に終わる。ヨナタンは戦死し、サウルは自害した。サウルが積み上げた業績はすべて空しくなり、イスラエルは再びペリシテの支配を受けることになる。サウルの遺体はベト・シャンの城壁に晒されたが、彼の恩を忘れないヤベシュ・ギレアドの民は、戦ってサウルの遺体を回収し、鄭重に葬った。

 サウルの死で、サムエル記第一書は終わる。

投稿時間:2014/12/28(Sun) 21:00
投稿者名:Ken
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サムエル記二
『サムエル記二』

 サウルの滅亡で、ペリシテは、イスラエルの反抗は根絶したと考えた。まだダビデがいるとはいえ、長くサウルと戦ってきた彼にイスラエルの支持が集まるはずはないし、そもそも彼はペリシテの臣下なのだ。しかしダビデには野心があり、まずユダの支配から着手した。

サムエル記二2章4節:ユダの人々が来て、ダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした

 イスラエルにはダビデの即位を阻む力はなく、ペリシテは自分たちの傀儡政権と見ていたから、問題にしなかった。しかしダビデは要衝のヘブロンを本拠に定め、サウルの部下やイスラエルの独立を望む人々を集めてゆく。一方、サウルの部将アブネルは、サウルの遺児イシュ・ボシェトを擁して、ヤベシュ・ギレアド救援以来サウル家を絶対に支持する外ヨルダンへ逃れ、遺児を王位に就けた。ユダの王ダビデは統一王国を作るため、アブネルとの交渉を試みるが、ダビデ軍の司令官ヨアブはイスラエル討伐を強硬に主張し、開戦にもってゆく。しかし、統一王国成立後の宥和を考えるダビデは、イシュ・ボシェトと不和になったアブネルと密かに連絡をとり、言葉を伝えた。

サムエル記二3章13節:サウルの娘ミカルを連れて来なければ、君とは会えない

 ミカルはダビデがサウルの家臣だったとき結婚した女性だが、その後は別人に嫁いでいた。ダビデの意図は明らかで、サウルの娘婿になればイスラエルの王位継承資格を得られるし、ミカルが世継ぎを産めば、イスラエル、ユダ両国を平和裏にまとめられる。ミカルはアブネルの手でダビデに届けられるが、ヨアブは構わずアブネルを殺してしまう。ダビデは公の場で謝罪して政治的危機を切り抜ける。同じ頃、イシュ・ボシェトを見限った彼の部将たちが、主君を暗殺して首をダビデに持参するが、ダビデは彼らを処刑して、暗殺者の仲間と見なされる危機もかわす。しかし、サウル家が倒れた今、イスラエルはダビデの王権を受け入れる以外に、安全を保てないのは明らかだった。

サムエル記二5章3節:イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとへ来た。ダビデ王は彼らと盟を結び、彼らはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした

 こうして前一〇〇六年に統一王国が成立した。だが北のイスラエルと南のユダが真に融和することは決してなかったのだ。

 それでもダビデは両国融合の手はうった。まずユダの町ヘブロンから南北の中間位置にあるエルサレムに遷都した。当時のエルサレムはカナンの残存勢力であるエブス人の町だったが、南北両軍の最初の合同作戦がエルサレムの攻略だった。エルサレム市内には高さ七百五十メートルのシオンの丘があり、守りを固めるには絶好の場所で、ダビデはここに王宮を、のちにソロモンは神殿を建てた。軍事・政治・宗教すべての中心となったシオンは、やがてはエルサレムそのもの、さらにはイスラエルそのものを意味するまでになる。近代のシオニズム運動の名称も、これに由来するのである。ダビデは、エルサレムへ攻め寄せたペリシテ軍を苦もなく打ち負かし、ペリシテ人の勢力を沿岸部に封じ込めてしまい、さらにはペリシテ人に奪われていた神の契約の箱を、新都エルサレムへ設置した。信仰対象はイスラエルのもの、設置されるのはユダの場所となれば、双方が満足するだろう。

 内を固めたダビデは外への拡張を始めた。かつて父母を保護してくれたモアブを手始めに諸国を征服し、前九八〇年までに紅海からユーフラテス川まで広がる最大の版図を得た。後世からはイスラエルの栄光の時代と仰がれるのだが、それでも面積は七万九千平方キロ(※北海道より小さい※)、かつてのエジプトやヒッタイト、後のアッシリア、バビロニア、ペルシャと比べると、問題にならないミニ覇権だった。むしろアジアに大帝国が存在しない空白期だったのが、ダビデの幸運だったというべきだろう。

 内政面の宿題はやはり、イスラエルの反乱に担がれそうなサウル家をいかに除くかだったが、あるとき国土が長い旱魃に襲われたことが、その機会となった。

サムエル記二21章1節:ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた、ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある

 ギブオンといえばヨシュアを欺いて盟約を結んだ人々だが、サウルがその盟約に背いてギブオン人を殺した記述はバイブルのどこにもない。それでもダビデは神託に従うと称して、サウルの二人の息子と五人の孫を処刑した。やがて雨が降り(いつかは降るに決まってる)、処刑は正しかったと人々を納得させた上で、ダビデは犠牲者を手厚く葬り、サウルとヨナタンも合葬して、イスラエル人の離反を防いだ。

 ダビデを語る上でどうしても外せない有名な話がある。ある日彼は一人の女性を見初めたが、彼女は人妻だった。

サムエル記二11章3節:エリアムの娘でヒッタイト人ウリヤの妻、バト・シェバではないか?

 ヒッタイト大帝国は滅んで久しいが、いくつかの小国として残っていた。ダビデはこれらを吸収したので、ヒッタイト人の部下がいても不思議はない。ダビデはそのウリヤを戦場へ送り、ヨアブ将軍に命じて、ウリヤが死ぬように仕向けさせた。計画は成功し、ダビデはバト・シェバを自分の後宮へ入れたのだ。しかしバイブルがダビデをどれだけ讃えても、これだけは許さなかった。ダビデを叱責する預言者ナタンと叱責を受け入れたダビデの物語を載せている。

 せっかくサウル家を滅ぼして王権安定を図ったのに、危機は王家の内部から生じた。一夫多妻が常態の古代君主制では、後継者の座を争う複数の息子を生じるのは避けがたい。父王の生前に後継者の座を確実にしようと、先制攻撃に出る息子もいる。ダビデ王家にもそれが現れた。成人していた息子は、長男のアムノンと三男のアブサロムだが、二人は母親が異なり、王家の後宮の環境では、これでは兄弟意識は育たない。アムノンがアブサロムの同母の妹タマルを手籠めにしたのが発端で、アブサロムはアムノンを殺害し、国外へ逃れた。

サムエル記二13章37節:アブサロムは、ゲシュル王の子タルマイの所へ逃げた

 タルマイはアブサロムの母方の祖父である。ダビデの将軍ヨアブは、敵対勢力がアブサロムを担いで侵入軍を進め、国内からも同調者が出ることを恐れて、アブサロムの帰還を働きかけ、一旦は成功した。しかしアブサロムは確実な王位継承に向けて、積極的に支持を集めた。

サムエル記二15章6節:アブサロムは、イスラエルの人々の心を盗み取った

 やがてアブサロムはダビデの旧都ヘブロンで旗を上げた。ヘブロンを選んだのは、イスラエルとの宥和ばかりを優先するダビデへの、ユダ国粋派の反発に乗るためだろう。実際にアブサロムの元へ奔ったダビデの近臣もいた。エルサレムは危険と判断したダビデは王都を脱出し、オリーブ山へ逃れるが、今度は彼を糾弾するサウルの旧臣が現れた。

サムエル記二16章7節:シムイはこう言った
サムエル記二16章8節:王位を奪うため流させたサウル家のすべての血はお前に帰る。王国が息子のアブサロムのものになったのは主の意思だ。お前が血まみれの男であるがゆえに、お前が受けた災いを見よ

 もちろんシムイは、ダビデがサウル家を滅ぼした罪を唱えている。しかしダビデはシムイを罰しなかった。それをやれば、ベニヤミン族がアブサロムにつくのは、分かりきっていたからだ。

 アブサロムに与していたユダのアヒトフェルは、ダビデの名声が大きな支持を集める前に攻勢をかけることを主張するが、ここでアブサロムは致命的な誤りを犯すことになる。

サムエル記二17章5節:アブサロムは言った、アルキ人フシャイも呼べ、彼の意見も聞いてみよう

 だが、フシャイはダビデが送り込んだ工作員だった。フシャイは、今攻めればダビデの歴戦の将兵に負けるかもしれず、もっと味方を大きくしてからの攻撃がよいと言ったのだ。アブサロムはその言に従い、結果的にダビデに時間を与えた。外ヨルダンへ逃れたダビデは、そこで兵力を集め逆襲してきたが、こうなるとアブサロムの急造軍は敵ではない。アブサロムは敗れて捕らえられ、ヨアブに処刑された。エルサレムへ凱旋したダビデには、シムイを含めて多くが帰順し、何よりもイスラエルとの宥和を優先するダビデは彼らを許した。それどころか、ヨアブを更迭し、アブサロムの将軍だったアマサを後任に据えることで、ユダの人心も落ち着かせた。

 これほどダビデが心を配ったのに、ユダ王朝へのイスラエルの敵愾心は治まらない。次の反逆者はすぐに現れた。

サムエル記二20章1節:シェバは角笛を吹き鳴らして言った、我々にはダビデと分け合うものはない、エッサイの子と共に受け継ぐものはない、みな自分の天幕に帰れ、おおイスラエル

 この機会を捉えたのはヨアブである。アマサを殺して将軍の地位を回復した彼は、進軍してシェバを敗走させた。シェバは逃亡先の住民に殺された。

 サムエル記第二書は、最後にダビデが行った人口調査について述べている。

サムエル記二24章1節:主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は彼らを罰するためダビデを動かし、イスラエルとユダの人口を数えよ、と言われた

 なぜ人口を数えるのが神の怒りの結果なのかは説明がない。民数記でカナン到着前の二度の調査が記述されているし、実行したのはモーセで、どこにも悪いこととは書かれていない。ただ、古代国家が人口調査をする目的は徴兵と課税なので、民衆には不人気だったろうし、その後に天災でも起これば、神が怒っており、人口調査もその結果だと主張する者が現れる。この時には直後に疫病が流行し、たしかに神の怒りだといわれた。ただし疫病がついにエルサレムを襲おうとした時、天使が遣わされて止めたという。

サムエル記二24章16節:主の御使いはエブス人アラウナの麦打ち場の傍らにいた

 天使が降り立ったアラウナの麦打ち場には、やがてソロモンの神殿が作られることになる。神殿に権威を着けるため、ダビデの人口調査の話は、粉飾されてるのかもしれない。

投稿時間:2015/01/04(Sun) 23:04
投稿者名:Ken
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列王記一
『列王記一』

 列王記第一書は前九七三年に始まる。在位四十年のダビデは老齢で、早く世継ぎを決めねばならない。残った息子の最年長はアドニヤで、軍の長老ヨアブと祭司長のアビアタルに支持されていた。しかし二人とも高齢で、彼らに代わろうとするベナヤ、ツァドクらは、バト・シェバが産んだソロモンを推し、預言者団を率いるナタンも同志だった。結局ダビデはソロモンを世継ぎに指名し、ほどなくダビデが歿すると、即位したソロモンは直ちにアドニヤとヨアブの命を奪い、サウル家の残党と言うべきシムイも殺害し、アビアタルを追放してツァドクを祭司長に任じた。これより王国史を通して、ツァドクの家系が祭司長の地位を世襲することになる。

列王記一2章46節:そしてソロモンの手中に王国は確立された

 今やイスラエル王国は最盛期を迎え、ソロモンの後宮は、最も高貴な家から妃を迎えるまでになった。

列王記一3章1節:ソロモンはエジプトの王ファラオと親しくなり、ファラオの娘をダビデの町に迎え入れ、

 かつてエジプトを逃れた奴隷の子孫が、エジプト王家と婚姻を結ぶまでになったのだが、当時の第二十一王朝はかろうじてナイル・デルタを維持する弱体政権で、ソロモンとの同盟に期待したのも無理はない。その効果があったのか、花嫁の父プスセンネス二世はその後三十年、ソロモン自身の治世が終わる頃まで、王朝の命脈を保つことができた。

 バイブルは、ソロモン時代の王国を理想郷として語る。

列王記一4章25節:ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした

 その黄金時代のさらに頂点をなす事業が、神殿の建築であろう。その建材と職人を売り込んで利益を上げたのが、フェニキアの町ティルスの王ヒラムだった。

列王記一5章7節:ヒラムはソロモンの言葉を聞いて大いに喜び、

 しかし、分不相応の事業が国民を酷使するのは、エジプトのラムセス二世や、フランスのルイ十四世の例が示すとおりである。

列王記一5章13節:ソロモン王はイスラエル全国に労役を課し、三万人を徴用した
列王記一5章14節:そして彼らをレバノンに送った

 ただし労役に駆り立てられたのは征服された先住民で、イスラエル人は保護されていたという。

列王記一9章22節:しかしソロモンは、イスラエル人は奴隷としなかった

 だが、これは後にダビデ王家から離反したイスラエルからの非難に反論するため書かれたのだろう。ソロモンが大変な無理をしたことは、ヒラムへの負債を払えず、代わりに領土を割譲したことからも分かる。

列王記一9章11節:ソロモンはヒラムに二十の町を贈った

 だが、割譲されたのはイスラエルのナフタリ族の領地で、イスラエルを激怒させたのは間違いない。それでも神殿は前九六二年に完成し、神の契約の箱が設置された。

 ソロモンの事業には、船隊を作って交易を行ったこともある。ある時それが外国君主の訪問につながった。

列王記一10章1節:シバの女王はソロモンの名声を聞き、難問で彼を試そうとしてやって来た

 シバとは、アラビア南西部、現在のイエメンにある町のことで、アラブ語ではサバという。もっとも女王がいた記録などはないし、バイブルでも女王の名は書かれていないが、コーランでは彼女の名はバルキスになっている。近代のエチオピア人は、バルキスは彼らの国の女王だったと信じるようになった。エチオピアとイエメンは三十キロの海で隔てているだけなので、ありえないことではない。さらにエチオピアでは、バルキスはソロモンとの間に息子をもうけ、その子孫が現在(※アジモフの執筆当時※)まで続く皇室ということになっており、皇帝の称号の一つも「ユダの獅子」である。

 ソロモンの統治政策の特徴は信仰の自由を認めたことで、王がユダとイスラエルだけでなく、全人民の王であることを示そうとした。彼の後宮には諸国からの女性たちがいたが、それぞれの神を祀るのも自由だった。きわめて優れた政策だが、預言者団の非難を受け、しかも時代を降るほど非難が強くなった。

列王記一11章5節:ソロモンは、アンモン人の邪神ミルコムに従った
列王記一11章7節:ソロモンは、モアブ人の邪神ケモシュのために、祭壇を築いた

 ソロモンのような政策が絶対必要だったことは、彼の世が前述のような牧歌的な理想郷ではなく、例えばエドム人ハダドやエルヤダの子レゾンなどの反逆の記録が残っていることで分かる。

 それでも最大の脅威は国内にあった。イスラエルとユダの対立、王権と祭司の対立は慢性的で、しかも複雑に絡み合う。ソロモンの時代にはイスラエルの祭司たちが最も反抗的で、なにより祭祀の場をエルサレムに集めたのが彼らには不満だった。アヒヤはそういう国粋派預言者で、同じエフライム族のヤロブアムを反乱に駆り立てた。

列王記一11章31節:彼はヤロブアムに言った、主はこう言われる、わたしはソロモンの手から王国を取り上げる

 だが反乱は失敗し、ヤロブアムはエジプトへ逃れた。当時のエジプトはリビア人の第二十二王朝で、ヤロブアムの利用を考えたシシャク王は彼を匿った。

 ソロモンは前九三三年に歿した。彼もまた多くの息子がいたのに相違ないが、相続争いは発生せず、バイブルには一人の息子しか登場しない。

列王記一11章43節:息子レハブアムが代わって王となった

 ただしこれはユダの王になったので、彼が祖父や父と同じ地位に就くには、エフライムの聖地シケムでイスラエル王としても即位せねばならない。ところが即位式にやってきたイスラエル人は、要求を出した。

列王記一12章4節:あなたの父は私たちに過酷なくびきを負わせた、どうかそのくびきを軽くしてほしい、そうすれば、私たちはあなたにお仕えする

 ところが年若いレハブアムはいきり立ち、くびきはもっと重くしてやると言い放ったので、イスラエルは反乱に立ち上がった。その領袖はエジプトから戻ったヤロブアムである。結局、統一王国は二代、前一〇〇六年から前九三三年まで続いただけで南北に分裂し、レハブアムは南のユダ王国の、ヤロブアムは北のイスラエル王国の王となる。イスラエルの都は当初はシケム、やがてティルツァに移った。祭祀の場もダンとベテルに新設されたのだが、これは復古を望む預言者団にはむしろ不評で、このあたりから彼らと王の間で路線対立が生じるようになる。ヤロブアムが、多くの人に分かり易い祭祀にしようと牛の像を持ち込んだことも、かつて彼を支持したアヒヤを怒らせ、呪いの言葉を発せしめた。

列王記一14章9節:君は異教の神々や、鋳物の像を造った
列王記一14章10節:それゆえ、見るがよい、私はヤロブアムの家に災いをもたらす

 実際にヤロブアムの王家は短命に終わるが、イスラエルは王朝交代を繰り返しながら二世紀、ユダは北王国より常に劣弱ながらも、一貫してダビデ王家で三世紀半続いた。部族に関しては、南はユダ族とベニヤミン族から構成されたが、サウルを出したベニヤミンが南へ入ったのは歴史の皮肉というほかない。南が二部族なので、北は十二部族のうちの十部族とされるのだが、ルベン族とシメオン族はとっくに消滅していたので、本当は八部族だったし、どちらにしても、ダビデとソロモンの時代に、部族制はほとんど崩壊していた。レハブアムは前九一七年、ヤロブアムは前九一二年に歿した。

 ユダでは、レハブアムからアビヤム、アビヤムからアサと父子相続が続くが、イスラエルのヤロブアムを継いだナダブは、早くも翌年、将軍バシャに殺されて王家が交代した。アサとバシャはともに治世が長かったが、両国は戦を交えてばかりで、劣勢のアサは外部に味方を求めた。

列王記一15章18節:アサは銀と金をダマスカスに住むシリアの王ベン・ハダドに送って言った
列王記一15章19節:私と君の間には同盟が結ばれている

 昔ダビデはシリアを叩いて貢ぎ物を取ったのに、その四代後の子孫は貢ぎ物を贈って援助を求めたことになる。ユダと同盟したシリアは、イスラエルの北境を侵しダンの町を破壊した。前八八八年バシャが死ぬと、また歴史が繰り返され、後を継いだエラを衛兵隊長ジムリが殺したが、ちょうと外征中だったオムリ将軍がイスラエルの王位に就いたことを宣言し、軍を返してジムリを破り、イスラエルの第三王朝の開祖となった。オムリは、二つの王家が相次いで滅んだティルツァの都は不吉だとして、新しい都の地を求めた。

列王記一16章24節:彼はシェメルのサマリアの丘を買い取り、その丘にサマリアの町を築いた

 サマリアというのはギリシャ語で、ヘブライ語ではショムロンという。シェメル族に由来する名であるのはいうまでもない。ヨルダン川と地中海の中間に位置し、山上だから防衛にも適している。その後、王たちはイズレエルでの居住を好んだりもしたが、イスラエルの首都は一貫してサマリアにあった。そしてオムリ朝はイスラエルに初めてできた安定政権で、アッシリアの文献では、イスラエルのことを「オムリ国」と呼んでいるほどである。

 オムリはシリアと対抗するためフェニキアとの同盟を進めた。既にヒラムの王家は滅んで、アシュトレトの祭司エトバアルが王となっており、前八七五年に即位したオムリの子アハブは、ここから王妃を迎えた。

列王記一16章31節:彼はシドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎えた

 ソロモンの時も異国人の妃が自分の信仰を続けられたが、イゼベルは一歩進めて、彼女のバアル神信仰をイスラエル全土に広めようとした。彼女なりにイスラエルとフェニキアの絆を強めようとしたのかもしれない。アハブも妻を応援したのは、対外強硬路線ばかりを要求する預言者団を抑えるためだろう。

 だがこの時、預言者団にも非凡な指導者が現れた。名をエリヤといい、サムエル以来の強烈な預言者であり、どれだけ弾圧されても、異教への闘志を一層激しくする人物だった。その後の長く激しい戦いが、最後はヤハウェ教徒の勝利に終わったので、イゼベルは悪女の代名詞、エリヤは英雄として、記憶されることになるのだが。

 アハブは預言者団に弾圧を加え、エリヤはフェニキアに身を隠さねばならなかった。(まさか、敵地に隠れるとは思わなかったろう。)しかし三年後に復活の機会が来る。エリヤは、バアルの祭司と自分でそれぞれの神に祈り、どちらの神が力を示すかを競うことを申し出る。それはカルメル山で実現し、エリヤの完勝に終わった。エリヤの祈りで祭壇に火が降ったのに、バアルの祭司たちがいくら祈っても何も起こらなかった。アハブは恐れ、エリヤがバアルの祭司を殺すことを許した。

 しかしイゼベルは夫とは違った。彼女はバアルの祭司たちが奇跡を演出するタネを知っていたろうし、今回はエリヤの方がより巧妙なトリックで出し抜いたに過ぎないことが分かっていた。結局、妻の意見に服したアハブは彼女に宗教政策を任せたので、エリヤは今度はシナイ山へ逃れた。もはやオムリ王家を転覆するしかないと考えたエリヤは、長期戦を覚悟して後継者まで選んだ。

列王記一19章19節:そこで彼は出発し、畑を耕しているエリシャを見つけた。エリヤは彼のそばを通り過ぎ、自分のマントを彼にかけた

 一方、アハブはシリアとの戦いに追われていた。

列王記一20章1節:シリアの王ベン・ハダドは全軍を集め、進軍してサマリアを包囲した

 アハブは窮地に立たされたが、決戦の覚悟を固め、簡潔な挑戦状を送りつけた。

列王記一20章11節:イスラエルの王は答えた、こう伝えよ、勝ち誇るのは武具を解くときで、武具を身につけるときではない、と

 現代の諺でいえば「卵が孵化する前に鶏を数えるな」ということだ。(※取らぬ狸の皮算用※)結果は、死力を尽くして戦ったイスラエル軍が大勝し、シリア軍は大損害を受けて敗走した。翌年も戦いがあり、両国の首都の中間にあるアフェクの地が戦場となるが、前年以上のイスラエルの大勝に終わった。ベン・ハダドは屈服し、多くの領土と商業利権まで譲らねばならなかった。今やイスラエルの力は王国分裂以後の極点に達した。アハブは、シリアを滅ぼせと主張する預言者団の言を退け、同盟国として残そうとするが、これは実に賢明な政策だった。この時すでに巨大な敵アッシリアが北方で興っていたからである。前八五四年、シャルマネセル三世のアッシリア軍と、アハブ、ベン・ハダドの連合軍がカルカルの地で干戈を交えた。アッシリアの文献は勝利を記録するが、領土を得たわけでもないので、引き分けたのだろう。なぜかバイブルにはこの戦いの記述がない。預言者団が完全に間違っていたという話を載せたくなかったのかもしれない。

 その代わり、アハブとイゼベルがナボトという男を罠にはめて殺し、彼の果樹園を奪った話はしっかり載せている。かつてダビデがウリヤを殺させてその妻を奪った話と酷似しているが、ナタンがダビデを非難したように、アハブを責めたのはエリヤだったという。バイブルの中で、預言者団は常に人民のために暴虐な王と戦う者として描かれる。

 しかしアハブのイスラエルは強力で、ユダで王位に就いたヨシャファトまで服属させていた。アハブはバシャの時代にシリアに奪われた領土を回復しようとヨシャファトを仲間に引き入れ、ラモト・ギレアドの地で今度はイスラエル・ユダ連合とシリアの間で戦いが起こった。ヨシャファトが推すヤハウェの預言者は敗戦を予言するが、アハブはフェニキアの神の預言者に従い、勝利を信じて出撃する。しかし彼は流れ矢に当たって戦死し、イスラエル軍は撤退した。この前八五三年のアハブ王の死をもって、列王記第一書は終わる。

※アジモフファンとくに小説『鋼鉄都市』を読んだ人なら、列王記第一書に登場するいくつかの名前に覚えがあるだろう。まず預言者エリヤは英語ではイライジャといい、同じく王妃イゼベルはジェゼベルという。『鋼鉄都市』の主人公イライジャ・ベイリ刑事と妻のジェゼベルが列王記の物語を論じ、イライジャ・ベイリの方が王妃を弁護しているのは、アジモフ自身の考えを代弁したのは間違いない。アジモフのバイブル・ガイドを読む限り、まるでアハブの方がダビデやソロモンよりも立派な君主であるかにみえる。もっともこれはアジモフのバランス感覚がなせることで、通常のバイブル読者が、英雄王ダビデ、賢者王ソロモンに対して、アハブを最悪の王と信じていることが前提にある。なお、バイブルに登場する名前は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が主流の国々で非常に多くの人が持っているが、当然ながら、悪人として登場する人物の名をつけることはない。だから例えば現代でも多くの女性の名に使われるイサベルやイサベラがイゼベル王妃から来ているというのは誤解で、これらの名の由来は、洗礼者ヨハネの母エリザベスにある。イゼベル王妃の名を持つ女性は『鋼鉄都市』というフィクションに登場するジェゼベルだけだし、夫のアハブ王の名も『白鯨』というフィクションのエイハブ船長だけがもっている。なお、イライジャ・ベイリの口癖「ジェホシャファト」も、列王記に登場するユダの王ヨシャファトの英語形にほかならない。※

投稿時間:2015/01/25(Sun) 20:09
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列王記二
『列王記二』

 強力な王が亡くなると内外が動揺し、反乱の好機とみなす勢力が現れるのは避けられない。

列王記二1章1節:アハブの死後、モアブはイスラエルに反旗を翻した

 分裂後の南北両国には、領土を拡張する力はなかったが、その中ではオムリ王朝は強い政権で、モアブのような南方地方も服属させていた。それが終わったのである。アハブの子アハズヤが王位を継いだが、事故から病を発した彼は、討伐のための出征ができず、

列王記二1章2節:使者を送り出して、エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るか尋ねよ、と命じた

 バアル・ゼブブは「蝿の王」を意味する。新約聖書では「ベルゼブブ」の名で登場し、こちらの方がよく知られている。だがこんな奇妙な名の由来はなんだろう。一つの説は「バアル・ゼブブ」は正しくは「バアル・ゼブル」つまり「家(神殿)の王」だったが、バイブルの著者が異教の神を貶めるためハエに変えたことである。もう一つは、ハエの発生と疫病の因果関係は古代でも知られており、疫病を防ぐにはハエの神を祀って鎮めるのがよいと考えられたことである。事実アハズヤは健康回復を願って使者を送ったのだから、この可能性はある。ただし、エリヤが飛んできて王を激しくなじった。後にバアル・ゼブブは邪神の代表格のような存在になり、例えばイエスの治癒能力の話が伝えられた時、敵対するファリサイ派は、

マタイによる福音書12章24節:魔王ベルゼブブの力を借りねば、悪魔を祓えないはず

 と非難した。ミルトンは『失楽園』で、ベルゼブブをサタンに次ぐ悪魔界第二の存在としている。いずれにせよバアル・ゼブブへの祈りも空しく、アハズヤは在位二年で死に、弟のヨラムがオムリ朝の四代目として前八五二年に即位した。エリヤもその後すぐに歿し、エリシャがその遺志を継承した。だが、強力な王と女王を相手にヤハウェ信仰を守り、圧政と戦い続けたエリヤは、ただ死んだのではなく、彼は昇天したという伝説が生まれた。

列王記二2章11節:火の馬車と火の馬が現れ、エリヤは風に乗って天に上った

 そしていつの日か、神がこの世を正す時、エリヤは復活するという考えが生じた。預言者マラキもそれを言っているし(マラキ書4章5節)、福音書の時代になると、エリヤは既に復活しているとイエスが述べている。

マタイによる福音書17章12節:言っておくが、エリヤは既に来たのだ
マタイによる福音書17章13節:そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言ったのだと悟った

 モアブとの戦いでは、イスラエルとユダの連合軍がモアブを破ったのだが、たちまちその結果を覆す事態が起こった。

列王記二3章27節:モアブ王は長子を焼いて犠牲に捧げた。イスラエルへの激しい怒りが起こり、連合軍は王を捨てて国へ戻った

 この一節を理解するには、モアブがイスラエルやユダと同じ文化的・宗教的背景を持っていたことを知る必要がある。一八六九年、ドイツ人宣教師のクラインはモアブの遺跡で文章が彫られた石版を発見したが、内容は神の名が異なる以外はバイブルとそっくりだった。民がモアブの神ケモシュを怒らせるとモアブは異国に打ち負かされ、ケモシュが力を与えればモアブは勝てるという。では例えばケモシュの民モアブとヤハウェの民イスラエルが戦うとどうなるのか。その場合は、その戦場ではどちらの神が強いか、どちらの神がより真剣になるかで決まるのである。

 イスラエル・ユダ連合軍(ヤハウェ)とモアブ軍(ケモシュ)のこの戦いは、まさしくそれで決まったといえる。戦場はモアブの地であった。そしてモアブ王はわが子を捧げてケモシュへの帰依を示した。「イスラエルへの激しい怒り」という怒りの主体はケモシュなのである。それを知った「ヤハウェの民」は、到底勝てないと思い我先に退却したのだ。ヤハウェが全人類にとっての唯一神ではなく、ケモシュより上位の神ですらないことは、当時のイスラエル人には常識だった。もちろんそんなことは、後世の編者によってバイブルから削除されている。それでも列王記二3章27節のような文章が残ってしまうことがあるのだ。

 当時の人々がヤハウェ神をどのように見ていたかを示すもう一つの話がある。シリアにナアマンという武将がいた。

列王記二5章1節:シリア王の軍司令官ナアマンは、勇士であったが、らい病を患っていた

 このナアマンは、病を治すにはイスラエルの預言者エリシャに頼めばよいと聞き、エリシャのところへ行くと、ヨルダン川で身を清めるべしという指導を受けた。シリア人ナアマンは、なぜシリアの川ではいけないのかと当初は怒るが、とにかく言うとおりにしたら病が治った。これでナアマンはヤハウェを信仰するようになり、

列王記二5章17節:ナアマンは言った、らば二頭に負わせるほどの土を分けてほしい、今後は他の神には、焼いて捧げるものも、それ以外の犠牲も献上しないのだから

 なぜイスラエルの土が必要かといえば、ヤハウェがイスラエルの地でこそ力をもつ神だからである。そしてエリシャはこの考えを否定していない。しかもこの続きがある。ナアマンが言うには、

列王記二5章18節:主の許しが必要なことがある。私の王がリモン神殿で礼拝を行う時、私の手に寄りかかるのだが、私自身もリモン神殿で頭を下げる
列王記二5章19節:エリシャは言った、安心して行くがよい

 どうやらヤハウェの預言者エリシャも、シリアの地でシリアの神を祀るのは当然と考えたようである。

 ユダは依然イスラエルの属国だった。ヨシャファトは前八五一年に歿し、息子のヨラムがダビデ朝七代目の王になった。イスラエルとユダに同名の王が立ったわけだ。しかもユダのヨラムはアハブとイゼベルの娘のアタルヤを妃にしており、この夫婦がまた妻の両親とそっくりで、夫は妻の言いなりだった。前八四四年にユダのヨラムが歿し、息子のアハズヤがダビデ朝八代目の王として即位した。こうなるとややこし過ぎるのだが、新しいユダの王は、イスラエルのヨラムの兄の先代王と同じ名前だったのだ。若い王も母アタルヤの言いなりであった。しかし、ユダのアハズヤ王がイスラエルのヨラム王と祖母のイゼベルを訪れた時、災いが降りかかった。エリシャがイスラエルのイエフ将軍に連絡をつけ、預言者団が支持するから王となれと言ったのだ。イエフは王家が滞在するイズレエルを攻め、ユダのアハズヤ王、イスラエルのヨラム王、そしてイゼベル王妃を殺した。イゼベルの最期は次のように語られる。

列王記二9章30節:イエフがイズレエルに来たとき、イゼベルはそれを聞いて、顔を塗り、髪を結い、窓から見下ろしていた

 イゼベルは恐怖も絶望も見せず、女王の威厳を保つために、化粧を施したに違いない。しかし「顔を塗ったイゼベル」は、死の間際でも化粧をするふしだらな女として後の世に伝わった。イゼベルがそんな女性だったことを示す記述は、バイブルのどこにもないのに。オムリ朝は四十四年で終わり、前八四三年イエフがイスラエルの第四王朝を建てた。しかし彼もまた原理主義的な預言者団と折り合わず、混乱に付け込んだシリアに攻められて外ヨルダンを失い、イゼベルを殺したことでフェニキアの支持も失い、ユダではイゼベルの娘アタルヤが復讐の機会を狙っていた。窮地のイエフはアッシリアへの臣従を約束して、シリアを討つための援軍を求めた。イスラエルとシリアの連合軍がアッシリアを阻止してから十五年、今度はシリアと戦うためアッシリアについたわけだが、この事実はアッシリアの文献から分かるので、バイブルには記述がない。

 一方ユダではアタルヤが王家の男子を次々に殺していた。

列王記二11章2節:しかしヨラム王の娘でアハズヤの妹のヨシェバが、アハズヤの子ヨアシュを抱き、殺されようとしている王子たちの中からひそかに連れ出し、人々はヨアシュをアタルヤからかくまい、彼は殺されずに済んだ
列王記二11章3節:彼は六年間神殿に隠され、アタルヤが国を支配した

 しかしユダのアハズヤはアタルヤの息子だから、ヨアシュは祖母に殺されるのを逃れたことになる。むしろ彼はイゼベルの娘アタルヤの宗教観から隔離されたのではないか。前八三七年、ヨシェバの夫で祭司長のヨヤダが子供の存在を公表し、軍の支持を得てアタルヤを殺し、ヨアシュはダビデ朝九代目の王となった。しかし彼はアハブとイゼベルの曾孫で、以後の諸王はダビデだけでなくイゼベルの血も受けてゆくのである。そのヨアシュもまた天寿を全うできなかった。シリア軍がユダにまで攻め込んでエルサレムを包囲し、ヨアシュは貢ぎ物を贈って平和を購ったのだが、それが却って軍と祭司たちを怒らせ、子供の時に逃れた暗殺の、今度こそ犠牲になったからである。

 イスラエルでは前八一六年にイエフが歿してヨアハズが即位し、前八〇〇年にヨアハズが歿してヨアシュが即位した。(また南北両国の王が同名になったわけだ。)そしてこの頃エリシャが歿している。彼の後継者にふさわしい人物は現れず、イスラエル王国が四分の三世紀後に滅ぶまで、預言者団は沈滞していた。ユダでは、十代目アマツヤ王がイスラエルへの従属を断ち切ろうとして戦を仕掛けるが敗れ、エルサレムは陥落して神殿も略奪された。アマツヤも父と同じ運命を辿って前七八〇年に暗殺され、アザルヤが十一代目の王になった。イスラエルのヨアシュは前七八五年に歿してヤロブアム二世が即位し、前七四四年まで統治する。これがイスラエル史を通しての最盛期だった。

列王記二14章25節:彼はハマトの入口から平らの海(死海)までの、イスラエルの領土を回復した

 この記述のとおりならシリア全土を占領したわけだが、シリアを属国にしたということだろう。すでにユダも服属させていたから、ダビデとソロモンの国が復活したかのようである。だが時代はすでにアッシリアの覇権確立前夜で、ヤロブアムの栄光も彼一代だった。息子のゼカリヤが王位を継ぐとわずか六ヶ月で暗殺され、メナヘムという軍人が王位を簒奪するが、彼はアッシリアに金を払って安全を買わねばならなかった。ここでアッシリアの歴史を概括しよう。

 アブラハムの時代、アッシリアは前期帝国といい、商業で栄えた国だったが、その後の数世紀はエジプト、ヒッタイト、ミタンニの諸帝国に雌伏を強いられた。だが海の民の活動でこれらの大国が弱体化したのが好機になり、イスラエル人がカナンを目指していた前一二〇〇年頃、アッシリア王のトゥクルティ・ニヌルタ一世はバビロニアを征服し、中期帝国を作った。前一一一六年から前一〇七八年まで在位したティグラト・ピレセル一世の時が最盛期で、イスラエルの士師の時代に相当する。この時は地中海まで力を伸ばしたが、小アジアから南下したアラム人に押されて中期帝国が終わった。ダビデの覇業は、この狭間の時代を捉えたものともいえよう。アラム人はシリアを占領し、ダマスカスに王国を作った。(バイブルに登場するシリアは、アラム人の国である。)そして前八八三年オムリがイスラエル王だった頃、アッシュールナツィルパルという強力な王が、アッシリア後期帝国を立てた。大量の鉄製武器を装備したアッシリア軍の強さと、攻略した町の住民を残酷に殺す恐怖政策のおかげで、アッシリアは大拡張し、シャルマネセル三世のときには矛先を南へ向け、イスラエルを属国の地位に置いた。前八二四年にシャルマネセルが死ぬと、また弱体な王が続き、ウラルトゥ王国との戦いに疲弊した。ヤロブアム二世のイスラエルが一時力を振るったのがこの時期である。しかし前七四五年、プルという将軍が簒奪して新しい王家を始め、アッシリアの栄光の記憶を呼び起こすべく、ティグラト・ピレセル三世を名乗った。

 イスラエルではアッシリアへの従属に不満を持ったペカ将軍が王を殺して簒奪し、第六王朝を始めた。彼はダマスカスの王レツィンと盟を結び、ユダの王ヨタムも引き入れようとするが、ヨタムが拒否したので、イスラエルとシリアの連合軍がユダを攻め、エルサレムを包囲した。その中でヨタムは死んで息子のアハズが王となった。アハズはティグラト・ピレセル三世へ臣従を誓い、救援を求め、それに応えたアッシリア軍はナフタリの地を占領し、前七三二年にはダマスカスのシリア王朝を滅ぼす。イスラエルも、サマリア近辺を残すのみとなった。

 ペカも殺されホシェアがイスラエル王になるが、アッシリアの記録では、ティグラト・ピレセル三世が彼を任命したことになっている。このホシェアもティグラト・ピレセルの死後反旗を翻し、アッシリアの王位を継いだシャルマネセル五世の討伐に一旦は屈するが、今度はエジプトを味方に引き入れようとした。

列王記二17章4節:彼はエジプト王のソに使者を遣わし、アッシリア王への貢納をせず

 この頃のエジプトはヌビア人の征服王朝で、バイブルに現れるソは、アッシリアの記録に現れるシャビ、つまり第二十五王朝のファラオ、シャバカと思われる。エジプトがアッシリアの勢力拡大を妨げようとしたのは理解できるが、問題はエジプト自身の力が弱すぎることだった。エジプトはアッシリアの多くの属国を焚き付けて反乱を起こさせるが、これらの国がアッシリア軍と直面したとき何の援助も与えず、結局エジプト自身を含めてすべての国に災厄をもたらしてしまった。

 アッシリア軍はサマリアを囲んだが、攻囲戦の途中でシャルマネセル王が突然暗殺され、暗殺者が新しい王家を始めた。彼もまた過去の栄光の王にあやかるべくサルゴン二世を名乗る。そしてこの王がイスラエルの息の根を止めた。

列王記二17章6節:ホシェア王の九か月目、アッシリア王はサマリアを落とし、イスラエル人をアッシリアへ連行し、ハラと、ゴザン川に沿ったハボルと、メデスの諸都市に置いた

 こうしてイスラエル王国は、ヤロブアムの決起から二百年あまりで消滅した。最後の王の名がホシェア(ヨシュア)だったのは、皮肉な偶然というべきか。サルゴンは、住民を殺し尽くす恐怖政策の代わりに、二万七千のイスラエル人を連れ去った。支配階級の人々であったろう。連行された人々の消息は全く不明になり、「失われた十部族」については後世あらゆる想像がなされた。彼らがいずこかの地で強力な王国を築き、いつかユダヤ人を(もしくはキリスト教徒を)救うために現れるという伝説が生まれ、その地はエチオピアだとか、モンゴルだとか、はてはアメリカだとか言われた。(※日本説まである。京都を開拓した渡来人の秦氏がイスラエルの末裔で、太秦広隆寺が神殿だったと※)傑作なのは、サクソン人は「サク・ソン」つまりイサクの息子で、彼らがイスラエルの子孫であり、イギリスを征服したのだから、英国人が十部族の子孫という、なんと十九世紀に流布した説である。もちろん真相はずっと平凡で、列王記二17章6節がハラとハボルとメデスの地と書いているとおりだろう。いずれもユーフラテス川の支流カブル川の近くで、イスラエルから北東へ七百キロほどの場所である。その地で彼らは現地人と混血し、現地の神と習慣を受け入れ、やがて民族的自覚を喪失したのに違いない。後の歴史で北アフリカを征服したヴァンダル人も、ハンガリーを征服したアラン人も、ウクライナを征服したハザール人も、すべて同じ運命を辿った。ただ、二世紀後にユダが滅び人々が連行されたが、彼らは消滅しなかった。それは特別の事情があったからである。

 さらにサルゴンはイスラエルへ移民を送り込んだ。

列王記二17章24節:アッシリア王はバビロンから民をもたらし、イスラエルの子等に代わってサマリアの諸都市に住まわせた

 この移民の子孫が、バイブルの中でサマリア人と称される人々である。当初は自分たちの伝統を守っていたが、やがては「その地で力をもつ神」ヤハウェを祀るようになるのは、当時の文化背景からは避けられない。ただし、ユダの民の目には、サマリア人のヤハウェへの祭祀は、異国の風習と混じりあった、許し難いものだった。

列王記二17章33節:彼らは主を恐れながら、自分たちの神に仕えた。やり方も自己流だった

 異教徒よりも異端者こそ許せないという考えも、人類史に何度も現れる。

投稿時間:2015/01/25(Sun) 20:11
投稿者名:Ken
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列王記二(続き)
 今やユダだけが残り、アハズを継いだヒゼキヤは、アッシリアを怒らせないよう細心の注意を払いながら平和を守った。預言者イザヤが活動したのもこの時期で、イスラエルは異教の神を信じたから滅びたという主張が広く受け入れられた。ところが前七〇五年にサルゴンが死ぬと、ヒゼキヤは貢納をやめてしまった。アッシリアに逆らっても大丈夫と思ったのなら、それは大間違いで、サルゴンの後を継いだ王がユダに攻め込んだ。

列王記二18章13節:アッシリア王センナケリブは、ユダのすべての都市を陥落させた

 ヒゼキヤは貢納を復活させると申し出たが、センナケリブはエルサレムを包囲した。

 ところがエルサレムは陥落しなかったのである。理由ははっきりしない。バイブルはアッシリア軍に疫病が出て一晩で十八万五千人が死んだというし、ギリシャのヘロドトスはエジプトを攻めるアッシリア軍がねずみの大群に弓矢と鎧を食われたといい、エルサレム攻囲には言及しない。アッシリア自身の記録では、ユダから貢ぎ物を得て軍を返したとある。ただこの時代のアッシリア帝国は諸民族の慢性的な反乱に悩んでおり、とくにバビロニアのカルデア諸部族に手を焼いていたことが真の理由だろう。

 センナケリブもまた暗殺され、しかも二人の暗殺者は実の息子だった。三人目の息子が父の仇を討ち即位した。エサルハドンである。彼は、帝国内に反乱が絶えないのは、エジプトが資金を提供して指嗾しているからだと考え、問題の根源を絶つべく、前六七一年にエジプトを征伐した。

 ヒゼキヤは前六九三年に歿し、十二歳のマナセがダビデ朝第十五代の王となり、五十五年間在位した。依然アッシリアは強大で、預言者団は神を信じて戦えば必ず勝てると主張したが、マナセの政権はこれを弾圧した。

列王記二21章16節:しかもマナセは無辜の血を多く流させた

 イザヤ自身もこの時殉教したという。しかしマナセの治世は平和で豊かな世をもたらし、神を喜ばせたのは彼の側としか思えない。後世力を握ったヤハウェ教徒によって、ひたすら悪人として書かれてしまったが。マナセの死後アモンが王となり、父の方針を継続した。

 状況が激変するのは前六三八年、八歳のヨシヤがダビデ朝十七代の王となった頃である。まず、アッシリアの力が突然衰えた。これは諸国を勇気付け、ユダの預言者団は国粋主義を鼓舞し、ヨシヤは成長するにつれ国粋主義とヤハウェ信仰に傾倒してゆく。前六二五年、ヨシヤ二十一歳のとき、アッシリア最後の優れた王が歿し、帝国はたちまち瓦解した。前六二〇年には、マナセ、アモン王の下で荒れるにまかせていた神殿が修復され、それがある発見につながった。

列王記二22章8節:祭司長ヒルキヤは書記シャファンに、神殿で律法の書を見つけたことを告げた

 この「律法の書」は申命記のことだと、多くの研究者が考えている。マナセ王の弾圧時代に秘かに書かれ、神殿に隠されたのだろう。それがヤハウェ信仰に共感する王の下へもたらされたのだ。ヨシヤは強い影響を受け、異教を根こそぎ排除し始めた。

列王記二23章10節:ヒノムの子等の谷にあるトフェトを穢し、誰も息子や娘をモレクの下へ火の中を行かせないようにした

 人身御供を止めただけではない。彼は長く廃れていた過ぎ越しの祭りを復活させた。

列王記二23章22節:イスラエルを裁いた士師の時から、イスラエルの王の世も、ユダの王の世も、過ぎ越しの祭が行われることはなかったのだ

 ヤハウェ信仰はこのとき一線を越えた。これ以後、例え王たちが信仰を後退させても、民がそうすることはなかった。敗戦すらも人々の信仰を強めるようになった。イスラエルとユダの、競合する宗教の一つに過ぎなかったヤハウェ教が、民族のユダヤ教となったのである。

 しかし事態はユダ王国を超えたところで進行し、ヨシヤの運命もそれで決まることになる。アッシリアのエサルハドンの後を継いだのがアッシュールバニパルで、優れた王だったが、バイブルには登場しない。彼が征服よりも防戦一方に追い込まれたからだろう。黒海の北から南下するキンメリア人がアッシリアを苦しめぬき、エサルハドンに敗れてからもエジプトの反抗は収まらない。バビロニアのカルデア人討伐は成功せず、その東に興ったメディア人とも戦わねばならなかった。前六二五年にアッシュールバニパルが死ぬと、カルデアとメディアの連合軍がアッシリアになだれ込み、前六一二年、首都ニネベを落として、帝国の息の根を止めた。

 エジプトでは、前六一〇年に第二十六王朝のネコ二世が即位し、アッシリアの残存勢力を討つために軍を進めた。エジプトの干渉を受けたくないヨシヤは、サマリアのメギドの地でエジプト軍を迎え撃ち、大敗して、彼自身も戦死する。息子のヨアハズがダビデ朝十八代の王になるが、ネコは許さず、ヨアハズをエジプトへ連行し、弟のエホヤキムを十九代目の王に据えた。預言者団にけしかけられて父が滅ぶのを目撃したエホヤキムは、この国粋主義者たちを許せなかったらしい。

列王記二23章37節:彼(エホヤキム)は、主の目に邪悪なことを行った

 アッシリアを滅ぼしたカルデアは、エジプトの蠢動を許すつもりはなかった。討伐に赴いた王子がネブカドネザルで、前六〇五年に即位してネブカドネザル二世となった。彼の国は、新バビロニア帝国とも、カルデア帝国とも呼ばれる。彼はネコ二世のエジプト軍を大破し、アッシリアの残存勢力も一掃した後、ユダのような小国にも圧迫を加えた。

列王記二24章1節:バビロンの王ネブカドネザルが来て、エホヤキムは三年の間臣下として仕え、その後反旗をかかげた

 反旗を掲げたのは前五九七年だが、成功するはずがない。エホヤキムは死んで、息子のエホヤキンが第二十代の王となったが、ネブカドネザルがエルサレムを攻め、王を含む一万人を連れ去ったので、その治世は三か月にすぎなかった。ネブカドネザルは、エホヤキンの叔父ゼデキヤを傀儡王として据え、これがダビデ朝第二十一代の、そして最後の、王となった。この王もまたエジプトの誘いに乗り反旗を揚げるが、エジプトが支援の約束を反故にするのもこれまでどおりだった。前五八六年、バビロニア軍が殺到してエルサレムの町も神殿も破壊し、大量の人々をバビロンへ連れ去り、ここにユダ王国はダビデの即位から四百二十七年で滅亡した。

 だがここで、その後の人類史に重要な影響を与えた事態が進行した。バビロンへ連れ去られたユダの民は、かつてアッシリアへ連れ去られたイスラエルの民のように、消え去ることがなかったのだ。それを象徴するような、王国の滅亡後に起こった小さな出来事が記録されている。

列王記二25章27節:ユダの王エホヤキンが囚われて三十七年経ったとき、エビル・メロダクは、彼を牢から出した

 エビル・メロダクはネブカドネザルの後継者である。明らかに彼はユダヤ人との宥和を試みている。そしてエホヤキンの解放を記して、列王記は筆を結んでいる。「まだ物語は終わらない」その気配を残しつつ。

投稿時間:2015/02/08(Sun) 21:50
投稿者名:Ken
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歴代誌一、歴代誌二
『歴代誌一』

 列王記に続く歴代誌は、バイブルの始まりからエルサレム陥落までを、再度述べたものである。書かれたのはバビロン捕囚を経た前四〇〇年頃で、ユダ王国の滅亡から二世紀を経た時代の精神を反映している。一番の特徴は、ユダ王国とダビデ王家の永続が、当然ながら、信じられていないことである。例えば、サムエル記に書かれた、預言者ナタンがダビデに伝えた神託ならこのようになるのだが、

サムエル記二7章16節:君の家と君の国は、永遠に続く

 しかし今や王国は消えて久しく、復活の見込みも全くない。そこで、これまでの歴史と神の言葉に再解釈を加えるべく書かれたのが歴代誌なのだ。何よりも屈辱の中で生きてきた人々に、自分たちの源流を自覚させる必要があった。それゆえ記述は先祖の系譜をたどることから始まる。

歴代誌一1章1節:アダム、シェト、エノシュ、

 第1章はヤコブ(イスラエル)の直前までで、第2章から十二部族の系譜が述べられる。ただし、圧倒的な重きを置かれるのがユダ族であるのはいうまでもない。

歴代誌一5章2節:なぜならユダは兄弟中で抜きん出て、子孫に最高統治者がでたのだから

 そしてユダ王国の四部族(ユダ、シメオン、ベニヤミン、レビ)を扱うのが二百五十八節もあり、ユダ族だけで百節に及ぶのに、イスラエル王国の部族は全部合わせても五十節でしかない。

 ダビデへ至る系譜はこう書いている。

歴代誌一2章11節:サルマの子がボアズ
歴代誌一2章12節:ボアズの子がオベド

 オベドの母ルツの名が出ていない。女系の系譜を記している箇所もあるので、母親だから書かなかったわけではないだろう。歴代誌の著者にとって、ルツ記のフィクション性が明白だったか、もしくはダビデにモアブの血が入っていることなど認められなかったか、どちらかと思われる。

 ダビデの息子は正妻たちが産んだ十九名だけが挙げられ、ソロモンは十番目になっている。ソロモン以降はユダの王位に就いた者だけを挙げるが、ヨシヤにきて初めて複数の息子の名があり、

歴代誌一3章15節:ヨシヤの子はヨハナン、エホヤキム、ゼデキヤ、シャルム
歴代誌一3章16節:エホヤキムの子はエコニヤ

 しかしここでは、ヨシヤ戦死の後に即位し、エジプトへ連れ去られたヨアハズが抜けている。一方でヨシヤやヨアハズと同時代に生きた預言者エレミヤが、このように述べている。

エレミヤ書22章11節:ヨシヤの子シャルムが、ヨシヤに代わって君臨し
エレミヤ書22章12節:彼は幽閉先で死ぬことになる

 どうやらシャルムとヨアハズは同一人で、シャルムが本名、ヨアハズは王としての名と思われる。同様の例は他国にもあり、シリアのマリは即位してベン・ハダドになり、アッシリアのプルも即位してティグラト・ピレセルと名乗っている。現代でもローマ教皇がこれを行うのはよく知られている。実はエホヤキムも即位しての名で本名はエリアキム、最後の王ゼデキヤも、マタニヤが即位しての名であることは、列王記にすでに記述がある。

※日本の天皇の君主としての名は、歿後に付けられる諡号で、本来異なるものである。もっとも明治以後は元号をそのまま諡号にするから、結果的にバイブルに登場するこれらの王と同じ事情になっているが。※

 歴代誌はユダ滅亡後も、王家の子孫の名を前四〇〇年頃まで書いており、このことが歴代誌がその頃書かれたと推測される理由となっている。ただし歴代誌の関心は徹底して宗教が中心であり、そのためレビ族の系譜は、ユダ族に次いで詳しく語られる。

歴代誌一6章15節:ヨザダクはネブカドネザルに連行された

 ヨザダクはソロモン時代の祭司長ツァドクの十二代の子孫、ツァドク自身はアロンの子エレアサルの九代の子孫である。

 ダビデの事績も宗教面だけが語られ、彼の少年期も、サウルやヨナタンとの劇的な物語も、彼の罪も、晩年の苦悩も、すべて省略されている。ダビデの征服事業すらも、戦利品が神殿を飾るのに役立ったことだけが述べられるのである。反対に、神の契約の箱を神殿へ運び込む場面は、詳細に語られている。

 ただ一つダビデの罪に挙げられるのは、彼が行った人口調査だが、これもバビロン捕囚以前の記述とは明確に異なる。まず捕囚以前では、

サムエル記二24章1節:主の怒りがイスラエルに対して燃え上がった、主は彼らを罰するためダビデを動かし、イスラエルとユダの人口を数えよ、と言われた

 このようにダビデを動かしたのは神である。しかし人口調査が罪であるなら、どんな理由にせよ神がそれを命じたとあっては、筋が通らない。一方、歴代誌の記述は、

歴代誌一21章1節:サタンがイスラエルに敵対し、ダビデを唆してイスラエルを数えさせた

 ヘブライ語のサタンは単に対立者を意味し、例えばシリア王のようなイスラエルの敵に用いられてきたが、神と対立する悪魔としてはこれが初登場である。この悪魔サタンが人間を唆し、罪を犯して神に背かせるという。罪の源泉としてのサタンの概念はペルシャ起源だろう。歴代誌が書かれた前四〇〇年頃は、ペルシャが最強の帝国として諸国民を支配下に置いていた。しかもその頃、ペルシャの神学は大預言者ゾロアスターの手で体系化され、その教義は強い影響力を持った。ゾロアスター教では、善の神アフラ・マズダと悪の神アーリマンが対等な立場で戦いを続け、森羅万象はその中で進行する。

 ユダヤ教も明らかにこれの影響を受けたが、ただサタンが神の対等者という点だけは受容できなかった。サタンは元天使で神によって天上界から追放され、人間に罪を犯させることを、最大の目的とするようになったという。エデンでイブをそそのかした蛇がサタンの化身であったという説も初めて登場する。またヨブ記の話が典型だが、サタンは神の前で人間を罵倒する。罵倒者を意味するギリシャ語のディアボロスが英語のデビルの語源である。

 なお、ゾロアスター教では邪神アーリマンのために戦うものをデーバというが、この言葉はデビルとは無関係で、インドで正しい神を意味するものである。隣接する民族の神を悪魔と呼ぶのは驚くには及ばない。ユダヤ人もカナン先住民の神をすべて邪神としたのだから。

※このペルシャの神とインドの神の関係は、いわばお互い様で、ペルシャの善の神アフラ・マズダのアフラが、インドではアスラになり、これはインド神話では邪神である。悪魔アスラは仏教神話にも入り込み、日本人にも馴染みの阿修羅になっている。※



『歴代誌二』

※アジモフのバイブル・ガイドは、新しい地名が登場すると、その地の歴史を語ることが多い。これまでは、あまりそれを紹介することなくきたが、歴代誌第二書の冒頭で述べられている、ある港町の話を紹介することにしよう。同様の説明はバイブル・ガイドを通して非常に多くみられる。※

 歴代誌の著者にとって、ソロモンの最大の功業が神殿の建築であるのは言うまでもないし、建設物資の多くをティルス王のヒラムから調達したことは、よく知られている。ソロモンの注文にヒラムは答えて言った。

歴代誌二2章16節:我らは木を伐り、海に浮べてジョパへ運ぶので、君はエルサレムへ運びたまえ

 ジョパは現在のジャファで、エルサレムから五十キロ北西に位置する地中海の港町である。エルサレムにとっては海への出入口といえる。エジプトのトトメス三世に占領されたのが歴史への初登場で、エジプトの衰退後はフェニキア人の支配下に入った。ヨシュアが領土を分配した時はダン族のものとされたが、実際にはダビデ以前にはイスラエルに支配されたことはない。その戦略的な位置のせいで、十字軍時代にはキリスト教徒とイスラム教徒の争奪対象となり、何度も支配者が変わるが、やがてトルコ帝国が支配を固めた。一九〇九年にこの地のユダヤ人がジャファの郊外にテル・アビブ市を建設し、第一次大戦後にパレスティナがイギリスの統治下に入ると、移民と資金が流入し、西欧風の町として急速に発展した。一九四八年イスラエルが独立した時はテル・アビブが暫定首都となり、一九五〇年に首都はエルサレムへ移るが、同じ年にテル・アビブとジャファが合併して、今ではイスラエル最大の都市となっている。

 ジョパはカナンの町としては珍しくギリシャ神話に登場する。ペルセウスがメドゥーサを退治しての帰途、ジョパの郊外で、岩に鎖で繋がれた若い女性を見つけた。これがアンドロメダで、エチオピア王の父ケフェウスと母の王妃カシオペアによって、海の怪獣への生け贄とされたのだ。ペルセウスが彼女を救ったのはいうまでもない。

 だがなぜジョパの君主がエチオピア人なのか? これは、神話作者の地理的無知というより、次のような事情があるからだろう。ギリシャ神話は太古のミケーネ文明からの伝承を多く受け継いだが、その頃にはエジプトの第十八、十九王朝が西アジアのカナン地方を支配していた。それゆえジョパにエジプト人支配者がいてもおかしくはない。ところが前八世紀にギリシャ人が地中海へ進出すると、エジプトをエチオピア人の王朝が支配していることを発見した。それなら、ジョパのエジプト人支配者がエチオピア人に置き換わるのは自然ではないか。

 神殿の建設地が選定された経緯を、歴代誌は次のように語る。

歴代誌二3章1節:そしてソロモンは主の家をエルサレムのモリヤ山に建て始めた。そこはエブス人オルナンの麦打ち場にダビデが用意した場所であった

 オルナンはサムエル記第二書ではアラウナの名で登場し、彼の麦打ち場でダビデが天使を見たという。そしてモリヤ山は創世記でアブラハムがイサクを生け贄に捧げようとした場所である。歴代誌の著者は、この二つの重大な出来事は同じ場所で起こったのであり、それが神殿の地であるというのだ。

 王国の分裂後は、歴代誌はユダの歴史のみを語り、北のイスラエルは完全に無視している。なにしろエリヤやエリシャへの言及すらない。そのユダの歴史でも、至高の存在は神殿であって、王家には良い王も悪い王もいた。そして王の評価を決めるのはヤハウェを奉じたか、それとも背いたかの一点のみで、良い王は必ず栄え、悪い王は例外なく災厄に見舞われる。このテーマが歴代誌を貫いているのである。例えばソロモンを継いだレハブアムは、列王記では、愚かさのせいで国を分裂させ、エジプトのシシャクの侵略をまねいた暗君だが、歴代誌の彼はヤハウェを奉じる名君で、分裂直後にイスラエルのレビ族が大挙して彼の元へ馳せ参じたという。

歴代誌二11章13節:全イスラエルの祭司とレビ族は、その地を離れて彼の所へ移った

 だがそんな記載は列王記にはない。おそらく最も近いのが、イスラエルのヤロブアムに関する次の一節だろう。

列王記一12章31節:彼はレビ族ではない最下等の人々を祭司にした

 それはレビ族の祭司がすべてユダへ移ったからで、正しい信仰はユダにのみ残ったと、歴代誌は言いたいのだろう。そのレハブアムも、当初はレビ族と正しい道を歩き大いに栄えたが、やがて律法に背き、罰としてシシャクの侵攻にさらされたという。しかもシシャクの軍勢を大誇張し、神に背くことがどれだけ恐ろしいかを強調している。

歴代誌二12章3節:千二百台の戦馬車、六万の騎兵、そしてルビム人、スキイム人、エチオピア人からなる無数の民

 あるいはまた列王記では、ユダのアビヤムとイスラエルのヤロブアムが戦い、強いはずのイスラエルが勝てなかったとのみ記し、詳細は語らないのに、歴代誌の著者にとっては、これこそ恰好の題材で、アビヤムが敵軍に向けてエルサレム神殿の神聖さについて演説したことで、ユダ軍の大勝利に終わったという。打ちのめされたヤロブアムはほどなく歿し、反対にアビヤムは大いに栄えたことになっている。アビヤムの子アサも正しい王で、列王記には記述のない一大国難を前にしても恐れる必要はなかった。

歴代誌二14章9節:エチオピアのゼラが百万の軍勢と三百の戦馬車でマレシャに襲来した

 アサは神に祈り、神はエチオピア軍を撃ち、アサの軍が大勝利したという筋書である。ただし、歴代誌に誇張があるといっても、その記述が全くの嘘であるとも言い切れないだろう。ゼラの侵攻は列王記には見られないが、そもそも列王記は常にイスラエルの話に重きを置いているのだ。歴代誌の記事は、国境の小競り合いを大会戦に話を膨らませたのかもしれない。

 そのアサも過ちを犯し罰を受ける時が来た。イスラエルのバシャに圧迫されてシリアと同盟したのだが、神の代わりにそんな外交に頼るのはそれだけで罪であり、アサは足の病に斃れたという。死の床にあってもアサには信仰心がなかった。

歴代誌二16章12節:彼は病にあっても、主ではなく医者を求めた
歴代誌二16章13節:それでアサは先祖のところへ行った

 これと同じ調子で各王の話が語られてゆくのだが、マナセまできて著者は困難に直面した。なにしろ異教を奉じヤハウェ教を弾圧した最悪の王であるのに、その治世は五十五年に及び、しかも列王記を読む限り彼の世は平穏だった。そこで歴代誌は次のように語る。

歴代誌二33章11節:主はアッシリア王の部将たちを遣わし、マナセを縛してバビロンへ連行させた

 歴代誌の著者が誇張はしても全くの嘘はつかないとすれば、この記述の元になった事実があったのかもしれない。マナセ時代のユダはアッシリアの属国で、マナセは忠誠を誓うために何度もアッシリアへ参勤している。とくに前六七二年の滞在時は、エサルハドンが息子のアッシュールバニパルへの継承をつつがなく行うために気を配っていた。彼が属国の王たちに忠誠を誓わせるため召集をかけたことはありうるし、帝都へ赴く王たちをアッシリアの部隊が護衛したかもしれない。王たちにすれば、属国が背かない保証として、アッシリアに留め置かれる心配をした可能性もある。歴代誌の著者はこういう事情を、王の連行と幽閉に誇張したのではなかろうか。

 とはいえ、マナセは無事帰還したし、彼の治世はその後も長く続いた。それを説明するには、マナセが罪を悔いて正しい王になったという、列王記にも、同時代人だったエレミヤの書にも書かれていない話をするしかなかった。

歴代誌二33章12節:マナセは苦悩の中で主を求め、たいへんに慎ましくなり、
歴代誌二33章13節:主に祈った。主は彼の望みを容れ、エルサレムへ戻した

 この「マナセの祈り」は、どれほどの罪人でも悔い改めれば許されるという教えを説く上で、重要な題材とされることになる。

歴代誌二33章18節:マナセの神への祈りは、イスラエルの王たちの書に記載がある

 イスラエルの王たちの書が列王記のことなら、そんな記載はない。ただ前一〇〇年頃、罪を悔いる祈りが無名の詩人に書かれ、その美しさから、アッシリアの地下牢にいたマナセの作ということにされた。当時エジプトのアレクサンドリアでは、プトレマイオス二世の援助で、バイブルのギリシャ語への翻訳が始まり、二世紀にわたって翻訳が進められたのだが、その中に『マナセの祈り』も入れられた。あるいは、初めからギリシャ語で書かれていたのかもしれない。一方ユダヤでは、紀元九〇年頃に学者たちが集まって、バイブルの諸異本を統一する作業を行った。二十年前にローマがエルサレムとその神殿を破壊し、各地に離散したユダヤ人をまとめるのはバイブルしかなかったからである。そこにはマナセの祈りは入らなかった。どう考えても、マナセよりはるか後の作であることは明白だったからだ。

 マナセとは逆のケースで、歴代誌の著者を困らせたのがヨシヤである。ヤハウェ信仰をユダ王国に根付かせた大功労者なのに、敗戦で戦死したことを説明せねばならない。長生きして亡国を見なかったのが彼の幸福という説明では、あまりにも弱いだろう。そこで歴代誌では、メギドの戦いの直前に、エジプト王がヨシヤに忠告したことにした。

歴代誌二35章21節:私は君と戦いたくはない、だが神が私に命じられるのだ、神に干渉してはならない、いま神は私の側におられるのだ

 しかしヨシヤは忠告を無視し、神の言葉に従わなかったので、死んだことにされた。

 ヨシヤ後のすべての王が神の意思に背き、預言者の言に耳を貸さず、国を滅ぼしたと書かれているのは、いうまでもない。

投稿時間:2015/02/22(Sun) 22:51
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エズラ記、ネヘミヤ記
『エズラ記』

 歴代誌の著者は、ユダ王国滅亡後の物語も語っているが、内容は一変する。亡国前は王と預言者の物語だったが、亡国後半世紀を経て始まるのは、バビロン捕囚から戻った貧しい人々が神殿を再興する物語である。このような時代的、内容的な断絶があるので、後者はエズラ記という別の書になったが、実質は歴代誌と一つの書といってよい。そのエズラ記自体も、やがてエズラ記とネヘミヤ記に分けられて今に残る。ユダヤの伝統では、書記エズラ自身がエズラ記の、つまり歴代誌の、著者とされるが、肯定否定どちらの証拠もない。

エズラ記1章1節:ペルシャ王キュロスの元年

 この書き出しは、実はそこへいたるまでの西アジア史の激動を省略している。

 アッシリアを打倒したのはカルデアとメディアの連合軍だった。メディアはアッシリアの北に広がる地域で、ニネベ陥落後はカルデアがバビロンを中心とした文明地域を支配したのに対し、メディア人は北方のはるかに広大な、しかし遊牧民が多い貧しい地域を支配した。世界最強の帝国はカルデアで、最大の都市はバビロンだったのである。ところが、メディアの支配下にあったペルシャ人が、優れた指導者キュロスを得て急速に力をつけた。キュロスはメディア王アステュアゲスの孫と伝わるが何の根拠もない。しかし前五五〇年にアステュアゲスから王位を奪い、ペルシャ帝国がメディア帝国に取って代った。前五三八年にはバビロンを攻略してカルデア帝国を倒し、旧アッシリア、小アジア、さらに東方へ広がる空前の大帝国となった。しかもキュロスは彼以前の帝国建設者と異なり、被征服民族を非常に穏やかに扱ったので、ペルシャ帝国は長く安定した統治期間をもつことができた。そしてバビロン捕囚のユダヤ人もその恩恵を受けた。前五三八年にキュロスは、

エズラ記1章3節:神の民の中に、エルサレムへ行き主の家を建てる者はいるか

 と尋ねたのだ。ユダヤ人を帰郷させ、神殿を再建させる意志の表明である。これに応じた者たちがいた。

エズラ記1章5節:するとユダ、ベニヤミン、そしてレビの長老が、主の家を建てるべく

 この三部族はすべてユダ王国である。二百年前に連れ去られたイスラエル王国の部族はもはや民族的自覚を失っていたのかもしれない。ユダ王国の部族でさえ全員がエルサレムへ戻ったわけではなく、バビロンから援助をした者も多かった。今の米国社会のユダヤ人が、イスラエルへ移住せず経済援助だけ行うのと同じ事情に違いない。彼らはバビロンで迫害を受けていたわけではないのだ。またキュロスは、ネブカドネザルが持ち去った旧神殿の財宝も提供した。

エズラ記1章8節:キュロスはそれをミトレダトに持ち出させ、ユダの王族シェシュバツァルの前で数えさせた

 シェシュバツァルはヘブライ語ではなくバビロニア語の名前である。アメリカのユダヤ人がアメリカ風の名を持っていることを思えば不思議はない。ユダの王族というが、それなら歴代誌に記載のある王家の子孫の一人なのだろうか。

歴代誌一3章17節:彼(エコニヤ)の子シェアルティエル、
歴代誌一3章18節:マルキラム、ペダヤ、シェンアツァル

 シェンアツァルもバビロニア語だが、エズラ記のシェシュバツァルのことではないか。(※もしそうなら、エコニヤつまりエホヤキン王の息子をエルサレムへ戻る人々の指導者にしたのだから、キュロスの度量の大きさが分かる。※)そのシェシュバツァルはエルサレムで神殿の再建に着手した。

エズラ記5章16節:シェシュバツァルは主の家の礎を設けた

 もっともシェシュバツァルは名目上の指導者で、真のリーダーは別にいたらしい。

エズラ記2章1節:さて囚われの境遇から抜け出した人々は
エズラ記2章2節:ゼルバベルと共に戻ってきた

 実はこのゼルバベルもシェシュバツァルのことだと考える人がいる。だがゼルバベルは別の箇所で別人として登場する。

エズラ記5章2節:シェアルティエルの子ゼルバベルが立ち上がった

 シェアルティエルはシェシュバツァルの兄だから、ゼルバベルはシェシュバツァルの甥になる。時代を考えればエホヤキンの息子はもはや老齢だったろうし、実際の仕事はその次の世代が担当したと考える方がよいようである。

 ところが再建を始めた人々は、予想外の抵抗に直面した。

 言うまでもなく、アッシリアもバビロニアも、イスラエルやユダの民を根こそぎ連行して、後に空地を残したのではない。大半の民衆は後に残り、アッシリアが送り込んだ移民と混ざり合って、いわゆるサマリア人となっていた。一方バビロンへ移ったのは支配階級、知識階級の人々で、亡国の悲運に耐えるために、ユダヤ教の教義を先鋭化させ、かつバビロン神話の影響も少なからず受けた結果、故地に残った人々とは非常に異なる宗教をもつにいたった。故地の人々から見れば、やってきたのは自分たちのやり方を絶対に曲げないよそ者であり、帰還した人々からみれば、地元民はユダヤ教の亜流しか知らないよそ者だった。この事情は二十世紀に欧米諸国からイスラエルへ移住したユダヤ人と、そこに住んでいたアラブ人の関係とまったく同じで、二十世紀と同様の衝突が、ペルシャ帝国時代のユダヤ人とサマリア人の間にも起こったのである。

エズラ記4章1節:ユダとベニヤミンの敵(サマリア人のこと)が
エズラ記4章2節:ゼルバベルの元へ来て、共に建設を行いたいと言った
エズラ記4章3節:だがゼルバベルは彼らに言った、諸君には関係ないことだ

 きっとサマリア人は純粋に神殿建設に参加したかったのだろう。だがゼルバベルは四世紀前に王国を分裂させたレハブアムと同様の傲慢さで応じ、同様の敵対関係を生み出す結果となった。

 サマリア人はペルシャ王に訴えた。

エズラ記4章4節:そこで地元の民はユダの民を弱め、建設を妨げた
エズラ記4章5節:そして廷臣を買収して妨害工作をペルシャ王キュロスの治世に、さらにはペルシャ王ダレイオスの治世までも行った

 キュロスの歿後に王位を継承したのがカンビュセス、その次がダレイオスである。ダレイオスは内政と外征に実績を残し、ペルシャ帝国は最盛期を迎える。サマリア人の工作もむなしく、ダレイオスはキュロスが神殿の再建を許す命令を発していたことを確認し、事業への援助を与えた。

エズラ記6章15節:ダレイオス王の六年に神殿は完成した

 ダレイオス六年は前五一六年だから、破壊された神殿が七十年で復活したわけだ。

 だがこれですべての問題が片付いたのではなかった。その次の王の時も、サマリア人は告発書を送ったという。

エズラ記4章6節:アハシュエロス王の時、彼らはユダとエルサレムの住民を書面で告発した

 前四八六年にダレイオスが歿すると、クセルクセスが即位した。バイブルのアハシュエロスはクセルクセスのことと考えられている。この王の時に起こったペルシャ戦役は、古代ギリシャ史の大事件でありながら、ユダヤ人に無関係の出来事のため、バイブルには一切記述がない。なお、アハシュエロスとクセルクセスでは似ても似つかぬ名に思えるが、クセルクセスはギリシャ語で、ペルシャ語では彼の名はハシャヤルシャというから、頭にアが付くだけで、ずっと近くなるだろう。

 次のアルタクセルクセス王の時も、サマリア人の妨害は続いた。神殿は再建されたが、次の問題としてエルサレムの城壁建設が持ち上がっていたのだ。サマリア人は、ユダヤ人がアッシリアやバビロニアに反乱を繰り返したことを指摘し、城壁など作らせればまた叛くと言い立てた。

 その告発書について、

エズラ記4章7節:その書簡はシリア語で書かれた

 という記述がある。このシリア語は、シリアにいたアラム人のアラム語で、ヘブライ語とは近縁関係にある。アラム語は西アジアの共通語のようになって広汎に通用し、イスラエルとユダの旧領すらも例外ではなかった。新約聖書の時代になると、イエスなどもヘブライ語よりもアラム語を使用していたのである。

 このあたりで、エズラ自身が登場する。

エズラ記7章6節:モーセの律法の書記エズラは、バビロンから到着した
エズラ記7章7節:それはアルタクセルクセス王の七年であった

 アルタクセルクセス一世は前四六五年に即位したから、治世の七年目は前四五九年で、この時にエズラはエルサレムへ着いたわけだ。エズラは書記というが、書記はそれまでの宗教指導者だった預言者とは、明確に異なる存在である。神の啓示を受ける預言者がしばしば異常な発言を行うのに対し、書記は確立された律法を人々に教え守らせるものだ。そしてこの頃になると、ユダヤ社会は宗教がすべての中心になり、王家の子孫が権威を失うのと反対に、書記は非常に大きな権威をもつようになる。

 そのエズラだが、彼が歴代誌の著者なら、歴代誌が書かれた前四〇〇年頃生存していたことになる。しかし前四五九年にエルサレムへ来たエズラは既に名のある指導者で、若い男とは思えない。それが前四〇〇年にまだいたのだろうか?

 もう一つの可能性は、エズラ記にいうアルタクセルクセスが一世ではなく、前四〇四年に即位した二世であることだ。それならエズラのエルサレム到着は前三九八年になる。実際はどちらなのか、バイブルの記述から明確に結論することはできない。

 そのエズラはエルサレムで、ユダヤ人と非ユダヤ人の間で、多くの婚姻が行われているのを見て衝撃を受け、そのような婚姻を厳禁し、異民族の妻も子も追放させた。あるいはユダヤ教を純粋な形で保つのに必要な措置だったかもしれない。しかし、そのような非寛容に反対する人々は、この当時でもいた。彼らの思いが、モアブ人女性の物語ルツ記として、この時代に作られたのだ。


『ネヘミヤ記』

 これもまた神殿再建にまつわる物語である。冒頭で主人公が紹介される。

ネヘミヤ記1章1節:ネヘミヤの言葉、

 ネヘミヤの回想を歴代誌の著者が編纂したのがネヘミヤ記で、物語の開始時期は二度記述されている。

ネヘミヤ記1章1節:二十年目の年、私はシュシャンの宮殿にいた
ネヘミヤ記2章1節:アルタクセルクセス王の二十年

 アルタクセルクセス一世ならその二十年は前四四六年、二世なら前三八五年になる。だが、もし歴代誌と同じ著者なら後の方は遅すぎるだろう。よって前四四六年つまり第二神殿が完成してから七十年ほど経た時代と考えられる。ネヘミヤはペルシャ王の給仕で、王と言葉を交わせる立場にいた。ネヘミヤは語る。

ネヘミヤ記2章6節:王が私に言われた。その時、王妃も同席されていて、


 バイブルに記載はないが、東洋の宮廷で王妃同席の場に仕えるとすれば、ネヘミヤはおそらく宦官だったろう。

 宮殿があるシュシャンはギリシャ語のスーサの名でよく知られる。エラム王国の都だったスーサは、ペルシャ自体よりもはるかに古い歴史を持つ。エラムはアッシリアと長く戦い続け、何度敗れても再起し、前六四〇年アッシュールバニパルの親征でついに滅亡した。このときスーサも灰燼に帰したが、やがてダレイオス一世がペルシャ帝国の冬の都として再建した。

 物語は、ユダヤ人の代表団がスーサに到着するところから始まる。代表団の目的の記載はないが、サマリア人がアルタクセルクセスに送った告発と当然関係があるはずだ。代表団は王に近侍するユダヤ人ネヘミヤを訪れ、エルサレムの城壁がサマリア人に破壊され、帝国の地方官吏もそれに加担したことを告げた。ネヘミヤは王を説き、首尾よく城壁再建と、ネヘミヤ自身がエルサレムへ赴いて作業を監督する許可を得た。ところが彼はエルサレムで強硬な反対に直面した。

ネヘミヤ記2章19節:ところがホロニのサンバラト、アンモンのトビヤ、アラビアのゲシェムはこれを聞き、王に謀叛を起こすかと言った

 サンバラトはバビロニア名でおそらく彼はサマリア人だろう。トビヤはヘブライ名でアンモンは外ヨルダンを意味し、彼はその地の総督だった。やはりサマリア人か親サマリアのユダヤ人だろう。アラビアのゲシェムは、この頃から歴史に登場する南方のナバテア人に間違いない。サマリア人だけでなく周囲の諸民族は、城壁が作られることを非常に懸念し、力づくでも阻止しようとした。サンバラト、トビヤ、ゲシェムはそれぞれ北のサマリア、東の外ヨルダン、南のアラビアを代表するが、敵は西にもいた。

ネヘミヤ記4章7節:アラビア人、アンモン人、そしてアシュドド人が激怒し、

 アシュドドはペリシテの町で、ここではペリシテ人の子孫一般を指すと思えばよい。

 ネヘミヤは屈しなかった。ユダヤ人の半数は城壁建設に、半数は警備に従事させた。建設作業も武器を帯びたまま進められ、おそらく近代イスラエルの農民が、銃を負いながら開拓村で耕作する光景と通ずるであろう。だがこうなると、勅許を得ているネヘミヤに対抗する手段がサマリア人にはなく、城壁は完成した。後世の史家ヨセフスによると、前四三七年のことという。

 ネヘミヤ記の8章から10章は、突然エズラの話になる。

ネヘミヤ記8章1節:そしてすべての民が集まり、書記エズラにモーセの律法を語ることを求めた
ネヘミヤ記8章5節:エズラは皆の前で書を開き、そして全員が立ち上がった
ネヘミヤ記8章18節:初日から最終日まで、エズラは毎日、神の法を読み聞かせた

 このときエズラは律法を読み聞かせただけではない。それまでにない改革を実行した。これまでは預言者の言葉や、神殿で「発見」された書が律法の基礎だったが、ここで初めて「トーラー」が完成し、すべてのユダヤ人が学び、一字一句まで遵守する聖典となったのだ。もはやユダヤ人がユダヤ教の道を外れることはありえなかった。やがてこの民族は、ネブカドネザルの時よりもはるかに大規模で、かつ長期にわたり、そして過酷な亡国と離散を経験することになるが、その中で信仰を守りぬくのである。

投稿時間:2015/03/08(Sun) 23:44
投稿者名:Ken
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エステル記、ヨブ記
『エステル記』

 ここまで歴史を述べる書が続いてきたが、エステル記はまったくのフィクションである。しかもルツ記とは正反対の野蛮な物語で、バイブル全篇でこの一書だけは、神という言葉が登場しない。書かれたのは前一三〇年頃と思われ、長い雌伏の後、ユダヤ人が久しぶりに独立国を持った時期に当たる。この話が描く戦闘的な民族主義が人気を呼び、バイブルの中に強引に座を占めたのであろう。時代設定については、

エステル記1章1節:アハシュエロスのとき、

 つまり前四八六年から前四六五年までのクセルクセス一世の治世とされる。ペルシャ帝国はまだ強盛だが、下り坂の兆しも見え始めていた。

エステル記1章1節:インドからエチオピアまで、百二十七州に君臨したアハシュエロスのことだが

 これは帝国最盛期の国土を正しく伝えている。またインドの名がバイブルに初登場している。ダレイオスからアレクサンダーまで、前五〇〇年から前三〇〇年までは、インダス渓谷からヨルダン渓谷までが統一政体に含まれた珍しい時代だったのである。

 エステル記は、アハシュエロス王三年にシュシャンの宮殿で半年も続く大宴会が催されたことを語る。(史実のクセルクセスは、この年つまり前四八四年、エジプトとバビロンの反乱を鎮圧し、ギリシャ遠征へ向けて大軍を編成しつつあった。)大宴会の最後に、帝国の官吏だけを集めた宴会がもたれた。

エステル記1章9節:またワシュティ王妃は、王家の女たちのために宴会を開いた

 この時期のクセルクセスの王妃の名はアメストリスだった。ワシュティはエラム族の女神の名である。ワシュティが自分の宴会を開いている時に、王から突然の召し出しがあった。ワシュティが行けない旨を返答すると、気の短い王は、彼女から王妃の地位を剥奪し、代わりの女を見つけるために、国の美女を集めることを命じた。

エステル記2章5節:このとき、シュシャンにモルデカイという名のユダヤ人がいた
エステル記2章6節:彼はエコニヤと共に、ネブカドネザルがエルサレムから連れてきた
エステル記2章7節:彼は叔父の娘ハダシャーまたの名エステルを連れていった

 このとおりなら、前五九七年に連行されたモルデカイが、前四八四年に生きていたわけで、彼も従妹のエステルも百歳を超えていたことになる。物語の舞台よりも三世紀半未来の作者が、年代も確認せずにいい加減な創作をしたことが分かる。モルデカイはヘブライ語ではない、というよりバビロニアの神マルドゥク(ヘブライ語ではメロダク)を連想させる。ではエステルはといえば、これはもっとはっきりしていて、バビロニアの女神イシュタル(アラム語ではエステル)に他ならない。本名のハダシャーは「花嫁」を意味するバビロニア語で、これまたイシュタルに付けられた称号である。そしてバビロニア神話では、マルドゥクとイシュタルはいとこであり、そのままモルデカイとエステルの関係になる。エステル記の著者が、神話を換骨奪胎したことは疑いようもない。

エステル記2章16節:アハシュエロス王七年、エステルは王の元へ連れて行かれ
エステル記2章17節:ワシュティに代わって王妃とされた

 クセルクセス王七年は前四八〇年、サラミス海戦の年である。一方、アハシュエロス七年の宮廷では、エステルがモルデカイの助言に従ってユダヤ人の正体を隠し、これがアハシュエロス転覆の陰謀をモルデカイが知ったとき役立つ。モルデカイはエステルに秘かに知らせ、エステルが王に警告して、陰謀者は処刑され、モルデカイの功績が認められる。

 ここで物語の敵役が登場する。

エステル記3章1節:この後アハシュエロス王は、アガグ人ハンメデタの子ハマンの位を進め、王族の上に置いた

 つまりハマンは宰相になったわけだ。ハマンの名はどの史書にも登場しないが、エラム神話の主神の名がハンマンという。こうなると歴史のある部分が見えてくる。スーサに都を置くエラムが滅んだ結果、スーサの主がエラムからバビロニアに代わったと考えれば、バビロニアの神マルドゥクがエラムの神ハンマンに代わり、バビロニアの女神イシュタルがエラムの女神ワシュティに代わってもよいではないか。すでにエステルはワシュティに代わって王妃となった。この後、モルデカイがハマンに代わって宰相となるのである。

 ハマンはアガグ人というが、そんな種族はバイブルのどこにも出てこない。ただアガグはサウルに敗れ、サムエルに殺されたアマレク人の王だった。ハマンがアマレク人なら、宿敵イスラエル人への復讐のため現れたのは筋が通る。

 ハマンのユダヤ人への憎悪は、群臣の中でモルデカイだけがハマンに臣下の礼をとらなかったことで、さらに増幅された。ハマンはユダヤ人たちを殺すべき吉日を占った。

エステル記3章7節:アハシュエロス王十二年、プル、つまり籤を行った

 後にユダヤ人の間で、エステル記の出来事を記念する祭を生じ、プリムと名づけられたが、プリムはプルの複数形である。この祭りは現代まで受け継がれている。もしかするとプリムの起源は、マルドゥクとイシュタルに関連したバビロニアの祭をユダヤ人が取り入れたのではなかろうか。それが後世になって異教の神話ではなくユダヤ人の物語を記念したのだと説明するために、エステル記が創作されたのかもしれない。

 ユダヤ人退治の日を決めると、ハマンはユダヤ人が王命に背く謀叛人であると王を説得し、ユダヤ人を殺す許可を得た。モルデカイはエステルに連絡し、エステルは王命を取り消させる計画に着手する。彼女はハマンを招いての宴会を提案し、王の許可を得る。一方、ハマンは彼の妻から新たな提案を得る。

エステル記5章14節:妻のゼレシュは言った。絞首台を作り、モルデカイを吊るしなさい。

 エラム神話のハンマンの妻はキリシャという。ゼレシュはその変形ではなかろうか。

 物語の結末は、宴会の席でエステルがユダヤ人の正体を明かし、ハマンの命を要求し、アハシュエロスは許可して、ハマンはモルデカイのために用意した絞首台に吊るされるのである。ただし、ひとたび出されたユダヤ人討伐の王命は、取り消すことはできなかった。そこでユダヤ人は防衛戦を戦うことを許され、見事に勝利するのである。もちろん、そんな内戦の記録など史書のどこにもありはしない。

 なお、エステル記には後になって加筆された部分があり、その中ではハマンはマケドニア人になっている。クセルクセス時代のマケドニアはペルシャに服従する弱小民族だったが、エステル記が書かれた時代には、マケドニア人のセレウコス朝がユダヤ人の最大の敵だった。太古のアマレク人よりよほど敵役にふさわしいと思われたのだろう。


『ヨブ記』

 ヨブ記は思想表現ドラマといってよい。フィクションとしての歴史を述べる意図すらも皆無で、いつの時代を舞台にしたのかさえ分からない。

ヨブ記1章1節:ウツの地にヨブという名の男がいた

 ヨブの系譜も人物も述べられないのは、その必要もないほど、物語が書かれた時代には、よく知られていたからだろうか。なるほど、大変な不幸の中で信仰を貫く理想の人として描かれており、人気を博した物語であったろう。実はこの話の元になった古い伝承があり、ヨブ記の著者が自己流に脚色したものと思われる。預言者エゼキエルはバビロン捕囚の中に生きた人物だが、古くからの伝承の方に言及したような記述があり、次のような神の言葉を記している。

エゼキエル書14章13節:国が罪を犯して私に背いたとき、人と獣を追放させた
エゼキエル書14章14節:その中のノア、ダニエル、ヨブの三名だけは、自分の魂を救えるが

 では、そのヨブはどこに住んでいたのだろう。

ヨブ記1章3節:彼は東の最も偉大な男だった

 どうやらヨブはカナンの東方の豊かな族長らしい。だが彼の居住地は冒頭でウツと書かれている。そしてウツは一つの部族の始祖として創世記に現れる。

創世記10章23節:そしてアラムの息子、ウツ、

 アラム人はシリア人のことだから、ウツもカナンの北方と思われる。一方でエレミヤ書25章には、ウツはエジプトとペリシテの間にあるように読める箇所があるし、もっとはっきり書いているのは哀歌の書であろう。エルサレム滅亡を喜ぶエドム人を呪う一節である。

哀歌4章21節:せいぜい喜ぶがよい、エドムの娘よ、ウツに住まう者よ

 エドム人はカナンの南方にいた部族である。結局ヨブがいたのは、東方、北方、南方のどれともとれるのである。

 ヨブが紹介された後、場面はいきなり天上界に切り替わる。

ヨブ記1章6節:ある日、神が群臣の前に出御された。その場にサタンがいた

 どうやらサタンの仕事は、人間の信仰心が本物かを試すことだったらしい。ペルシャ神話の悪魔は神と対等だが、バイブルではあくまでも神に従属し、何を行うのも神の許しを必要とする。この場で神はヨブの信仰心を褒めるが、サタンは、豊かさと幸福の中にいる者が神に感謝するのは当たり前だと指摘し、ヨブを試すため不幸に落とすことの許可を得る。こうしてヨブは全財産を失い、息子にも娘にも先立たれ、彼自身も重い病に襲われる。

 これに対するヨブの反応が、元の話とバイブルに収録された話で異なる。元の話ではヨブは磐石の信仰心をもち、神を恨む言葉を一切発せず、おかげで元の幸福を取り戻したことになっている。バイブルのヨブ記も結末は同じだが、そこへ至るまでにヨブは神の悪意を激しく呪う。これがあればこそ、ヨブ記は読む者にとって価値を持つといえよう。

 ヨブ記の倫理的、神学的内容を語るのが本書(バイブル・ガイド)の目的ではない。それよりも少し天文の話をしよう。ヨブは、神は気まぐれな暴君だが人間の力ではとても敵わないといい、神が天空の星座を作ったことを語る。

ヨブ記9章9節:神はアークトゥルス、オリオン、すばる、南の家々を作った

 ここで「オリオン」と訳されているヘブライ語は「ケシル」で愚か者を意味する。ギリシャ神話のオリオンは狩人だが、オリオン座はバビロニアでは縛られた男と見られていた。捕囚中にバビロニアの天文学に触れたユダヤ人は、縛られたのはニムロド王で、神に挑んでバベルの塔などを建て、捕縛された愚か者と考えたのだ。また「すばる」と訳されているのは「キマー」という語で、密集した星を意味する。すばる星団が想像されるのは自然である。

 「アークトゥルス」と訳されているのは「アシュ」だが、明らかに誤訳である。そもそもアークトゥルスは単一の星で、星座ではない。後のほうで、神がヨブに、人間の卑小さを思い知らせる発言の中にも登場しており、

ヨブ記38章32節:お前はアークトゥルスとその息子たちを導けるか?

 ここでも、アークトゥルスの息子たちでは、なんのことか分からない。だが夜空を見ればそれに適合する星座はすぐに見つかる。それは北斗七星で、柄杓の柄の部分が親に続く子供たちと見られる。アシュはアークトゥルスではなく、北斗にちがいない。

 神を呪うヨブに、神の偉大さと人の卑小さを思い知らせる神の言葉は、これだけではない。

ヨブ記40章15節:ベヒモスを見るがよい。私はお前を造った時この巨獣も造った。これは牛のように草を食べる

 草を食べる大型の獣というと誰もがゾウを思い浮かべるだろう。だが、

ヨブ記40章21節:それは葦と水に身をひそめ
ヨブ記40章22節:水辺の木々に包まれ

 というから水に棲む動物で、むしろカバと思われる。古代のエジプトでは普通に見られた動物で、ヨブ記の著者がエジプトの住人と考えると、ヨブの居住地の記述に見られる、カナンの地理についての混乱も納得がゆく。だが、ベヒモスは後に神話的な巨獣として、想像されるようになった。

 神はベヒモスに続いて、別の怪獣を語る。

ヨブ記41章1節:レヴィアタンを鉤にかけて引き出せるか?

 レヴィアタンは明らかに水棲動物として描かれている。カバに対する、ナイルの巨大ワニと考えられることもあるが、ワニよりはるかに巨大なクジラという説もある。しかしやはりベヒモスと同じで神話の巨獣と考える方が、記述と合致するようである。バビロニア神話の主神マルドゥクは巨大怪獣ティアマトを殺して、世界を創る材料とした。ティアマトも水の獣で、これを斃して世界を創るのは、古代人が大河を制御して洪水を防ぎ、灌漑を施し、文明を起こした記憶の反映ではないだろうか。バビロニア神話の影響を強く受けた創世記の天地創造の記述を見てみよう。

創世記1章2節:地には形がなく虚ろであり、深淵の上に暗黒があり、

 ここで「深淵」と訳されるのはヘブライ語の「テホム」で、ティアマトとよく似ている。(※黒後家会の『何国代表?』でも、この説が語られている※)レヴィアタンもまた、後世豊かな想像を膨らまされ、預言者イザヤは世界の終わりにもまた殺される怪獣であるという。

イザヤ書27章1節:そのとき主は、恐ろしい大蛇レヴィアタンを罰し、海の竜を殺し、

 ともあれ、ヨブは、神の知恵は人間の想像の及ぶものではないのだから、その意思を疑うことの愚かさを思い知り、おかげで不幸から解放されて終わる。

投稿時間:2015/03/29(Sun) 20:02
投稿者名:Ken
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詩篇、箴言、コヘレトの言葉、雅歌
『詩篇』

 百五十篇の詩が集録された詩篇は、ヘブライ語では「テヒリム」といい「讃美集」を意味する。そのうち百一篇に作者の名が記されており、七十三がダビデで、詩作の背景が添書されたものもある。しかし、内容的に明らかにバビロン捕囚より後の作も見られ、後世の作者が過去の英雄の名を借りたと解するのが妥当だろう。また詩篇の詩は音楽とともに吟じるので、竪琴奏者としてサウルに仕えたダビデの作とされるのは不思議ではない。サムエル記にも詩吟するダビデが描かれるし、彼を明確に詩人と呼ぶ一節もある。

サムエル記二23章1節:これがダビデの最後の言葉だった。イスラエルの愛すべき詩人ダビデ

 詩篇の第2篇は王国時代の作のようで、新たに即位した王の言葉になっている。

詩篇2篇7節:主は私に言われた、汝はわが子なり、今日、汝は生まれた、と

 中東の古代王国では、王は守護神の息子で、即位は神の子として生まれることと考えられ、ユダヤ人も例外ではなかった。だが、後のキリスト教徒にとっては、神の子とは救世主を意味したので、この詩の意味も相当に異なる理解をされることになる。

 第3篇は「息子アブサロムから逃れたときのダビデの詩」という表題がついている。「ダビデの詩」がダビデが詠んだ詩を意味するのか、それともダビデについて詠んだ詩を意味するのか、判然としないが、昔から一般にダビデが詠んだと解釈されている。この詩の三つの節の末尾に意味不明の言葉がある。

詩篇3篇2節:多くの者が私に言う、神はかの者を助けぬと、セラ

 セラという言葉は詩篇全体で七十一回登場し、ほとんどは節の末尾で、詩を吟じるときの何かの合図のようだが、正体はまったく分からない。

 伴奏音楽についての指示を付記した詩もある。

詩篇4篇:音楽長へ、弦楽器で
詩篇5篇:音楽長へ、管楽器で
詩篇6篇:音楽長へ、弦楽器と第八で

 弦楽器、管楽器はともかく「第八」とは何のことだろうか? 八本の弦がある楽器という意味だろうか。それとも八はオクターブを意味し、一オクターブ離れた二種類の声で歌うようにという指示だろうか?

※1オクターブ離れたとは基本周波数が2倍ということで、これをド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの8段階に区切るのは、純粋に文化的な習慣だと思うが。イスラエルはそんな昔から、現代と同じ区切り方だったのだろうか?※

 第18篇の表題はこのようなものである。

詩篇18篇:ダビデの詩。主がどの敵の手からも、そしてサウルの手からも、彼を救われた日に、

 この詩については、サムエル記第二書で、アブサロムの反乱が収まった後に引用されている。たしかにダビデは敵の手から救われたが、なぜ一世代も前のサウルがいきなり出てくるのか? 一つの説は、サウルはショルつまり冥界の誤記であろうという。ダビデはサウルではなく死の手をまぬがれたのだ。これは詩の内容とも合うようだ。

詩篇18篇4節:死の悲しみが私を包み
詩篇18篇5節:ショル(冥府)の悲しみが私を包み

 バビロン捕囚直後の段階では、まだショルは暗い陰気な地下世界と考えられており、後に一般化する地獄の概念とは異なる。ただ、ヨブ記の中でヨブは彼の苦しみをショルのようだと言っており、すでに責め苦の場としての地獄の概念がそこに芽生えている。

ヨブ記26章6節:むき出しのショルがそこにある、破壊の姿は覆うべくもない

 詩篇でも、例えば第88篇では、

詩篇88篇11節:墓の中であなたの優しさが陳べられようか? 破壊の中であなたの信仰が?

 実は、ヘブライ文学では、同じものを異なる言葉で繰り返す技法を多用する。ここでも、ヨブ記は冥府(ショル)と破壊、詩篇は墓と破壊というが、冥府と墓は同じく死者の場所で、それが破壊と同じであるというのだ。「破壊」と訳されているのはヘブライ語の「アバドン」だが、どうやら死後の世界が、ただ暗い陰気なだけの場所から、永遠の責め苦を受ける場所へ変わってゆく過程が見えるようだ。やがてアバドンは地獄を支配する悪霊的な存在と考えられるようになり、ヨハネの黙示録には、

ヨハネの黙示録9章11節:底なし穴の霊、ヘブライ語のアバドン、ギリシャ語のアポリオン

 という記述がある。アポリオンはギリシャ語で「完全破壊」を意味し、ジョン・バニヤンが十七世紀に発表した『天路歴程』に登場する。

 第18篇は、ヤハウェに関する古い考えが現れているようだ。

詩篇18篇10節:主はケルビムの背で飛ばれた。しかり、風の翼で飛翔された。

 純粋に霊的な存在といわれる神を、これはまた物理的に描いたものだが、太古、ヤハウェが嵐の神と考えられていた時代の名残りらしい。

 第25篇はヘブライ語以外の言語に訳しても意味をなさない。一行目は文字アレフ、二行目は文字ベト、三行目は文字ギメルと、ヘブライ語のアルファベット順に行頭の文字が選ばれている。このような技法を「折句」という。第34篇も同じ技法を用いているし、第119篇は手が込んでいて、全体が二十二部に分かれ、各部とも八行から成る。そして各部の八行の先頭の文字がすべて同じであり、それがアルファベット順に変わってゆく。このような技法を用いると、詩を覚えやすい利点はあったろう。しかし、本来なら最も適当な言葉が使えず、結局は文脈の方を犠牲にするのも避けられない。バイブルの詩篇にもそれが見られる。

※「いろは歌」も、すべての仮名文字を一度ずつ用いることにこだわらなければ、より優れた歌になったのだろうか?※

 第42篇の表題は、

詩篇42篇:音楽長へ、マスキル、コラの息子たちのため

 コラは民数記16章でモーセに反抗して罰された人物だが、子孫は神殿の儀典係となっていたことが、歴代誌に記されている。

歴代誌一9章19節:コラ族は祭祀で勤め、神の幕屋の入口を守った

 第45篇の表題は「愛の歌」で、王家の婚姻を祝う。花嫁は異国の王女らしい。

詩篇45篇12節:ティルスの娘が贈り物と一緒に

 だが、王家に嫁いだティルスの王女となると、アハブ王の妃イゼベルか、ヨラム王の妃でイゼベルの娘アタルヤしかないのだが。

 第56篇と第57篇はこのように書き出す。

詩篇56篇:音楽長へ、彼方のテレビンシアの鳩にのせて
詩篇57篇:音楽長へ、破壊するなかれ

 詩を吟じるときの奏楽をこのように指定する。第56篇は「彼方のテレビンシアの鳩」という曲があり、詩吟の伴奏とするのだろう。では第57篇は「破壊するなかれ」という曲があったのか? そうかも知れないが、この部分を書き写した人物が、注意書きとして書いたものが、誤って本文の一部と思われてしまったのかもしれない。

 第74篇は、滅んだ国と勝ち誇る敵を描写する。するとダビデどころか王国時代の誰も作者ではありえず、最も早い場合でもネブカドネザルの神殿破壊より後の作のはずである。

詩篇74篇7節:彼らは聖域に火を放ち、君の家名を地に投げうった
詩篇74篇8節:彼らは心で言った、敵を破壊しようと。そして神のシナゴーグを焼き尽くした

 シナゴーグは神殿が破壊された後に信者が集まる場となった。書記が経典を取り出し、人々は声を合わせて読んだり、歌ったりするのである。そのシナゴーグが焼き尽くされたとなると、セレウコス朝の迫害時代のことで、これはもう相当に後の世の作品であろう。

 第105篇では、神に仕える者に危害を加えることを神が禁じ、後世に大きな影響を与えた。

詩篇105篇14節:誰も彼らを虐げてはならないと、王たち自身のために戒められた。
詩篇105篇15節:私が油を注いだ者に触れるな、私の預言者たちを傷つけるな

 これが中世には、聖職者は俗世の権力から守られるべきという主張の根拠となった。聖職者が読み書きできる者とほぼ同義語だったこともあり、バイブルの一節でも読めれば処刑を逃れる習慣が十八世紀まで続いたのである。さすがにその後は習慣が廃止されたのは、読み書きのできる者が増えすぎたのだろう。



『箴言』

 ヘブライ語のタイトル「ミシュリ」は知恵ある言葉を意味する。(※漢字の箴は戒めの意味※)知恵といえば誰もがソロモンを連想するが、10章から22章までと25章から29章までの二箇所は、ソロモン作と書かれた箴言が続く。

箴言10章1節:ソロモンの箴言
箴言25章1節:これらもソロモンの箴言である

 たしかにソロモンの時代やそれ以前にすら遡るほど古い箴言もあるが、大半はソロモンよりはるか後の作品であることを窺わせるし、ソロモン作とされるものですら、現在の形になったのは、前三〇〇年頃かもしれない。

箴言25章1節:ソロモンの箴言もあり、ユダのヒゼキヤ王の時代に写した

 ヒゼキヤはソロモンより二世紀後の人物で、揺るぎないヤハウェ信仰を持っていたから、過去から伝わるヤハウェ信仰文学の編集を命じたのだろう。

 現代に通用するものもある。

箴言13章24節:子を憎む親は子をぶたない、子を愛する親は早いうちに叱る
箴言15章1節:柔らかな返答は怒りを収める
箴言16章18節:自惚れは身を滅ぼす。



『コヘレトの言葉』

 コヘレトは説教師と訳されているが真の意味は分からない。そのコヘレトは、冒頭で自己紹介をしている。

コヘレトの言葉1章1節:ダビデの子、エルサレムの王、コヘレトの言葉

 つまりソロモンだが、これも知恵を述べる言葉をことごとくソロモンに帰する伝統に過ぎないので、本書もまた書かれたのはバビロン捕囚以後、前三〇〇年から前二〇〇年のあたりと思われる。

コヘレトの言葉1章2節:コヘレトは言う、空虚は空しい

 我々に分かり易い言い方をすれば「この世ははかない」ということだろう。俗世の事物がいかに無価値であるかというのが、主題である。それは貧者、弱者だけでなく富強な者にとってもそうなのだと、最も栄えた王ソロモンに言わせる。

コヘレトの言葉1章12節:コヘレトの私はエルサレムの王だが
コヘレトの言葉1章13節:天の下で行われるすべてについての知恵を求めた

 コヘレト(説教師)は、人間にできるのはつかの間の喜びの追及で、それ以上のことは気にかけるべきでないと言う。

コヘレトの言葉8章15節:人が日の下で望みうるのは、食べて、飲んで、楽しんで、

 このあまりの虚無主義に驚いて、付記を足した者がいるが、明らかに別人である。

コヘレトの言葉12章13節:神を怖れよ、神の戒めを守れ

 ソロモンがそれほどの賢者とされるのは、夢で神から何を望むかと尋ねられて、知恵と答えたと書かれているからだろう。

列王記一3章9節:あなたの下僕たる私に、善と悪を見分け、民を裁く知恵を授けてください



『雅歌』

 これもソロモン作ということになっており、英語のタイトルは「The Song of Solomon」である。ラテン語では「カンティクム・カンティコルム」、ヘブライ語では「シル・ハ・シリム」で、ともに最も優れた歌を意味する。結婚式で歌われたと想像される恋の歌を集めたもので、多くの妻がいたとされるソロモンにふさわしいと思われたのだろう。

列王記一11章3節:七百人の妻と三百人の妾がいた

 しかしながら、箴言と同じく、書かれたのは明らかにバビロン捕囚より後で、ソロモンのはずがない。
 その内容があけすけに男女の関係を歌うものだから、実はもっと深い意味があると解釈されることが多かった。ユダヤ人はヤハウェとイスラエルの関係を表すというし、カトリックはキリストと教会を、プロテスタントは神と人の間の愛を歌っているというのである。だがこれは無意味な過剰解釈で、人間の愛の歌として素直に読めば大変に美しいし、花婿、花嫁、女性たち、その他の人たちが発言して、いわば詩劇を成している。例えば花嫁の言葉に、

雅歌1章5節:あたしは黒いけどきれいよ、ソロモンのカーテンみたいに
雅歌1章6節:あたしが黒いのは日にやけるからよ、

 歌をソロモンに関連付ければ、この色黒の花嫁はソロモンのエジプト人の妃か、またはシバの女王と想像することもできるが、そうではなく彼女が農民の娘であることは、この後に続く言葉で分かる。

雅歌1章6節:母さんの子たちが、あたしにくだもの園の番をさせたから

 次に彼女は愛人のことを語る。

雅歌1章14節:あたしのいとしい人は、エン・ゲディのくだもの園に咲くヘンナの房みたい

 エン・ゲディは死海西岸のオアシスで、ダビデがサウルから逃走する間、身を隠した地でもある。

サムエル記一23章29節:ダビデはエン・ゲディの砦に住んだ

 再び花嫁は自分を語る。

雅歌2章1節:あたしはシャロンのばら、谷の百合

 シャロンはジャファとカルメル山の間に横たわる沿岸平野で、一帯がフェニキア人やペリシテ人の勢力圏だったので、バイブルへの登場は珍しい。

 花婿が花嫁に語る部分もある。

雅歌6章4節:おまえはきれいだな、ティルツァみたいだな、エルサレムみたいにきれいだな

 エルサレムはユダ王国の都だが、ティルツァは前九〇〇年から前八八〇年くらいにかけて、イスラエル王国の都だった。だが統一王国時代のティルツァはエルサレムと並び立つ都ではなかったから、この歌がソロモン時代の作品でないことは明らかである。もっともティルツァが首都だった時代の作とも限らない。エルサレムと並び立つ北の都は長くサマリアだったが、バビロン捕囚後のユダヤ人にとって、憎むべき異端者サマリア人の町をエルサレムと対等に扱うなど、絶対にできなかったはずで、サマリアの代わりにもっと古い都の名を使用したことが考えられるからである。

 クライマックスは愛の本質を歌い上げる。

雅歌8章7節:いくら水をかけても愛の火は消せない、洪水が起こっても愛は沈まない、男が全財産を愛のために投げ出そうとしても、軽蔑されるだけ

 意味は、

〜愛を壊すことは誰にもできない、愛を金で買うことも誰にもできない〜

投稿時間:2015/04/19(Sun) 21:20
投稿者名:Ken
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イザヤ書、エレミヤ書、哀歌
『イザヤ書』

 雅歌に続くのは、前七五〇年頃から前四五〇年頃まで、三世紀にわたって活躍した十六人の預言者の記録である。完全な時代順ではなく分量の多いものが先に置かれ、特に最初のイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三書で全体の三分の二を占める。三人の中ではイザヤが最も古く、アッシリアが興隆してゆく時代に当たる。もっともイザヤ自身が筆を取ったというより、弟子たちがイザヤの口述を書き留め、あとで編集したと思われる。その中で改変や加筆もあったろうし、それどころか後世人の著作までイザヤの作とされ、イザヤ書に入れられたらしい。現在と同じ内容になったのは、前三五〇年頃、つまりイザヤの死後三世紀以上も経た時代ではないか。

 まず冒頭で、預言者イザヤの活動時期が述べられる。

イザヤ書1章1節:イザヤがユダの歴代王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世に見たこと

 ウジヤ(アザルヤ)の即位は前七八〇年、ヒゼキヤの死は前六九二年なので、イザヤは前八世紀の人物である。預言者として活動を始めたのは、

イザヤ書6章1節:ウジヤ王が歿した年、

 ウジヤの歿年は前七四〇年で、この年イザヤの活動が始まった。その四十年後にセンナケリブがエルサレムを包囲したときイザヤは存命だったので、活動を始めた時は若かったろう。仮に二十歳だったとすると生まれたのは前七六〇年で、イスラエルもユダも健在だった。だが前七四五年イスラエルのヤロブアム二世が歿し、アッシリアではティグラト・ピレセル三世が即位すると、アッシリアの攻勢が始まり、イスラエルは四半世紀ももたなかった。迫り来る危機はイザヤに見えていたろうし、そこでヤハウェの裁きが下ると彼は予言した。

 イザヤの父はアマツヤ王と兄弟だったという説もあるが、もしそうなら預言者には貧者の出身が多い中でイザヤは王族だったことになる。しかし彼は民衆を搾取する支配階級に挑み続けた。

イザヤ書5章8節:家という家を、畑という畑を併合し、あとに何も残さず、大地に一人だけ生き残ろうとする輩は呪われるべし

 一方でイザヤの文章には明らかに上流階級の特徴があるという。どうやらイザヤは、レオ・トルストイ伯爵のような人物だったようだ。

 預言者イザヤは初めて神を見た体験を語っている。

イザヤ書6章1節:ウジヤ王が歿した年、私は主が高い玉座に座し、衣の裾が神殿に広がるのを見た
イザヤ書6章2節:その上にセラフィムが並んでいた。みな六つの翼を持ち、二つで顔を、二つで足を覆い、二つで飛んでいた
イザヤ書6章3節:そして互いに叫びあった、聖なる、聖なる、聖なる万人の主、栄光は大地を満たす

 セラフィムという言葉がバイブルに登場するのはここだけで、翼を持つ人の姿が描写されている。中世の神学ではきわめて位階の高い天使で、セラフィムの上は神しかないとされた。セラフィムはセラフの複数形で、セラフは「燃える」を意味するサラフの類義語なので、燃えるような情熱で神に仕える者と解されている。だがサラフはヘブライ語のバイブルでは「火の蛇」を意味する。例えば、

民数記21章6節:主は民の中に火の蛇を遣わし

 この火の蛇がサラフだが、古代人に巨大な火の蛇を連想させるといえば、稲妻ではなかろうか。大昔、ヤハウェが嵐の神と考えられた時代の名残りかもしれない。

 ある時イザヤは、即位したばかりのアハズ王と面会した。ユダはその時イスラエルとシリアの連合軍に攻められていたが、イザヤはユダが耐えていれば敵は滅ぶと王に言った。事実そのとおりになったが、これは預言者でなくても分かることで、イスラエルとシリアは対アッシリアの同盟を結び、ユダも引き入れようとして軍を出したのだから、アッシリアのティグラト・ピレセル王が知れば、同盟軍など簡単に潰してしまうだろう。ところがアハズは、局外に立つだけでは不十分と考え、アッシリアへの臣従を選択した。イザヤはこれに激しく反対した。異教徒に臣従すれば、必ずその宗教に影響されるからである。(半世紀後のマナセ王のとき、まさしくそうなったのだが。)この時の応酬はこうである。

イザヤ書7章11節:主の合図を求めよ
イザヤ書7章12節:アハズは答えた、求めない、主を試すこともしない

 たしかに王が言うとおり、人が神を試す、つまり神に何かを要求することは、バイブルの中で繰り返し禁じられている。しかしイザヤは屈せず、神の合図を王に語った。

イザヤ書7章14節:見よ、処女が身籠り男の子を産むだろう、その子はインマヌエルと呼ばれる
イザヤ書7章16節:その子が悪を拒み善を選ぶことを知るよりも早く、敵国はその王を捨て去る

 言い換えれば、赤ん坊が善悪の判断を出来るようになるより早く、つまり二〜三年のうちに、敵国の王は敗退すると言ったのだ。(事実、三年後にアッシリアはシリアを滅ぼし、イスラエルもその十年後に滅亡するのだが。)だがここで最大の関心が集まるのは、インマヌエルという子供は何者かということだろう。キリスト教徒は、これこそイエスの処女生誕の予言だと主張する。だがここで「処女」と翻訳されているのは、ただ若い女性を意味する「アルマー」というヘブライ語で、処女か否かは関係がない。ヘブライ語には「ベツラー」という処女を意味する言葉があるが、ここでは使用されていない。なによりも、危機の只中にいるアハズ王に、七世紀も後に出現する救世主を語るような無意味なことをイザヤがするはずがない。ここで語られる赤子は彼の時代の子に違いないのだが、誰のことだろうか?

 インマヌエルは「神は我らとともにあり」という意味だが、そういう名の子供が生まれた記録はどの史書にもないし、バイブルのどこを探しても出てこない。一番ありうるのは、それはイザヤ自身の子ではなかろうか。この時点でイザヤは二十五歳だから、彼の妻は「若い女性」だったはずだし、この直後に彼の次男が誕生している。

イザヤ書8章3節:主は私に言われた、その子をマハル・シャラル・ハシュ・バズと名付けよ
イザヤ書8章4節:その子が父、母と叫ぶことを覚えるより早く、ダマスカスの富もサマリアの戦利品もアッシリアの王に奪われるのだから

 マハル・シャラル・ハシュ・バズは「手っ取り早い戦利品」を意味する。アッシリアの戦利品となる運命のシリアとイスラエルのことだ。こうなるとインマヌエルとマハル・シャラル・ハシュ・バズはコインの表裏で、ユダの興隆とシリア・イスラエル連合の没落を表現しており、二人ともイザヤの子と考えるのが最も筋が通る。しかしアハズは耳を貸さず、イザヤの姿は数十年後にアッシリアがエルサレムを囲むまで、舞台から消える。

 イザヤ書には、やはり、いずれ登場する救国の英雄を語っている、と解されている部分がある。

イザヤ書9章6節:我らに子が生まれる、子が授かる、その子が我らを治める、その子の名は偉大な知恵者、強い神、とわの父、平和の公子

 これが時代を降るほど、理想の王は未来に現れるという考えになってゆく。アッシリアの覇権、バビロン捕囚、セレウコス朝の大迫害という現実が進行する中で、救世主への待望はユダヤ教の重要な部分をなしてゆき、やがては、救世主そのものの宗教、キリスト教を派生させるにいたるのである。

 イザヤ書の13章と14章ではバビロンの崩壊が情熱的に語られるが、イザヤが生きた時代の主敵はアッシリアで、バビロニア人はまだアッシリアに属する弱小民族だから、明らかに後世の加筆である。その中で、バビロンの転落がこのように描かれる。

イザヤ書14章12節:お前は天から落ちる、おおルシファー、朝の子!
イザヤ書14章13節:なぜなら、お前は天に昇ると、
イザヤ書14章14節:至高の存在になると、心で信じたから
イザヤ書14章15節:だがお前は地獄へ落ちる

 ルシファーと訳されているのはヘブライ語のヘレルで光輝く者を意味し、本来は王を讃える表現だったろう。これはバビロン王の凋落を予言した文章なのだが、時代が移って、神に叛いて天上界から落とされたルシファーという名の天使の話と解されるようになり、やがてルシファーこそ魔王サタンであるという話に発展する。

 イザヤ書の24章から27章にかけては、世界の終わりを語る「イザヤの黙示」になっている。これも内容的に、イザヤよりはるか後代の加筆に違いない。

 本来ならネヘミヤ記が神殿と城壁の再建を語ったところで大団円のはずだったが、やがてセレウコス朝帝国そしてローマ帝国と、ネブカドネザルのバビロニア帝国以上の迫害者が現れると、非常に大きな矛盾としか思えなかった。バビロン捕囚へ至るまでの王国は何度も異教を奉じ、神罰で国が滅んだと説明することができた。だが捕囚後のユダヤ人は揺るぎない一神教徒になったのに、なぜまだ罰を受けるのか? 結局それはノアの時のように神が悪人を根こそぎ滅ぼすため、今は悪人の正体を明らかにしているのだという説明がなされ、イザヤのような過去の預言者が既にそれを語っていたことにして、イザヤ書の中に組み入れたのだ。ただし現実の圧制者を正面から非難すれば、謀叛人として捕らえられる。そこで圧制者の名を言わないか、もしくは別の名を挙げることが行われた。たとえば、

イザヤ書24章10節:混乱の府は破壊される
イザヤ書25章10節:モアブは踏みにじられる。

 混乱の府もモアブも、時代によってバビロンであり、セレウコス朝の都アンティオキアであり、ローマであった。かれらが神の罰を受ける描写は激しく、人は死に絶え、異形のものだけが残る。

イザヤ書34章14節:梟がそこに休息し、

 梟と訳されているヘブライ語は「リリス」で、夜の怪物の名である。後にリリスはイブが作られる前のアダムの妻で、性格が悪かったので離縁されたという伝承が生じた。彼女は夜の悪魔となり、アダムとイブを堕落させるため蛇と手を組み、特に子供にとって最も危険な存在になった。

 イザヤ書にイザヤ自身が登場するのは、前七〇一年にセンナケリブがエルサレムを囲んだ時が最後である。また1章1節で列挙される最後の王がヒゼキヤなので、イザヤはヒゼキヤが歿した前六九二年より前に死んだと考えるのが自然だろう。彼は六十を越えていた。一方で、イザヤは次のマナセ王の時代にも生きたという意見もあり、これもあり得ないとはいえない。だがマナセは国の安全のためひたすらアッシリアに恭順した王で、彼の目には、神を信じて異教徒と戦えと叫ぶヤハウェ教徒ほど危険な存在はなかった。当然、弾圧が起こる。

列王記二21章16節:マナセは大量の無辜の血を流させ、エルサレムを満たした

 イザヤも犠牲になったという「イザヤの殉教」の話が広まった。

 イザヤ本人が登場しなくなった後もイザヤ書は続くが、その筆致は一変する。それまでユダ王国の不信心を容赦なく叱りつけていたのが、亡国の民に慰めと希望を与える言葉に変わるのである。

イザヤ書40章1節:いたわるべし、我が民をいたわるべしと神は言われる
イザヤ書40章2節:安んじてエルサレムと語れ

 しかも登場する王がアハズ、ヒゼキヤ、センナケリブから一世紀半も経た、捕囚時代のキュロスになる。

イザヤ書45章1節:主はキュロスの右手をとり、諸国を従えよと語られる。

 イザヤは預言者だから未来を見通したという主張はもちろん存在する。だが、普通に考えれば、これは捕囚時代に生きた別人が書いた文章で、後からイザヤの言葉にされたのに違いない。作者はいわば第二イザヤとでも呼ぶべきだろう。なお、ヤハウェが単にイスラエルの神ではなく、宇宙の唯一神という思想は、第二イザヤにおいて非常に顕著になる。

イザヤ書45章14節:主は言われる、エジプトも、エチオピアも、サベも、皆やってきて慎んで請いながら言う、神はあなた方の中におられ、他のどこにもおられない、と

 ヤハウェの民も、ユダヤ人だけではなくなり、神はイザヤに命じている。

イザヤ書49章6節:汝を異邦人の光となす、我がために地の果てまで救え

 イザヤ書の最後の十一章はまた筆致が変わるので、著者はこれまた別人の第三イザヤだろう。第二イザヤはバビロン捕囚からの解放を希望をもって予言するが、第三イザヤはすでに故郷へ戻ったユダヤ人を語っている。それなのにサマリア人の力は強く、ユダヤ人にも影響を受ける者が多くいる。第三イザヤはそれを嘆きながらも、希望も語っている。

イザヤ書60章10節:よそ者の子等が壁を建てるだろう

 エルサレムの城壁が再建される前にこれを言ったのなら、ネヘミヤが到着するより前、前四五〇年頃のことであろう。第二イザヤより一世紀、第一イザヤよりは三世紀後ということになる。



『エレミヤ書』

 イザヤの次に来る大預言者がエレミヤ。「ヤハウェを讃える」という意味である。

エレミヤ書1章1節:ベニヤミンのアナトテ市のヒルキヤの子エレミヤ
エレミヤ書1章2節:ヨシヤ王の十三年に主の言葉が降り
エレミヤ書1章3節:エルサレムが連れ去られるまで

 ヨシヤ王元年は前六三八年だから、その十三年つまり前六二六年にエレミヤは預言者として活動を始め、約四十年後のエルサレム陥落まで続けたことになる。国運が暗転してゆく只中を生きたわけだ。父の名ヒルキヤは、神殿で申命記を「発見」した祭司長と同じだが、アナトテ市の出身なら別人である。先祖のアビアタルはダビデの世継ぎにアドニヤを支持したため、一族が祭司長となる道をソロモンによって永久にふさがれてしまった。エレミヤはいわば冷遇された家系の出身である。生年は記されてないが、預言者として四十年活動したなら、始めた時は若かったはずだし、仮に前六二六年に二十歳なら生まれたのは前六四六年である。エレミヤもまたイザヤ同様、危機の時代を生きた。イザヤの時代はアッシリアの脅威だが、エレミヤの時代はアッシリアの突然の崩壊が引き起こした混乱だった。またアナトテの祭司はイスラエル王国の子孫であり、彼のユダ王国への激しい糾弾に何らかの影響をもったかもしれない。ユダ王国の誰もが、イスラエル王国は異教信仰のせいで滅んだと言う中で、エレミヤのスタンスは明らかに異なるのである。

エレミヤ書3章11節:主は言われた、偽善のユダよりは、ためらうイスラエルに正義がある

 またエルサレムの祭司たちが、神殿があるかぎり国は安泰と言うのに対し、エレミヤは、行いの正しくない者が神殿に頼ってもだめだという神の言葉を伝えた。

エレミヤ書7章9節:お前たちは盗み、殺し、姦し、嘘をつき、
エレミヤ書7章10節:そして私の神殿へ来て、救われるなどと言う

 これではエレミヤがユダ王国で好かれるはずがない。彼はかろうじて殺されることをまぬがれたが、さらに人々を怒らせる発言をした。

エレミヤ書25章8節:主は言われた、お前たちが私の言葉を聴かないから
エレミヤ書25章9節:見よ、私はネブカドネザルを遣わし、この国も、民も、すべて滅ぼす
エレミヤ書29章10節:バビロンの地で七十年が過ぎたら、お前たちをこの地へ戻す

 実際に国が滅んだ後、エレミヤが言った「七十年」は、何世紀にもわたって多様な解釈をされることになる。

 エレミヤは、ユダ王国以外にも、ネブカドネザルに滅ぼされる諸国を列挙してゆくのだが、その最後におかしな名が現れる。

エレミヤ書25章26節:そしてシェシャクの王が最後に

 シェシャクという国などどこにもない。これは暗号である。ヘブライ語でシェシャクは「シン、シン、カフ」という三つの文字で綴る。シンはヘブライ語アルファベットの最後から二つ目、カフは最後から十二番目である。一方、先頭から二文字目はベト、十二文字目はラメドで、シンの代わりにベト、カフの代わりにラメドを置くと「ベト、ベト、ラメド」となり、これはバベルの綴りになる。バベルはすなわちバビロンだから、エレミヤはバビロニアが多くの国を滅ぼした後、バビロニア自身も滅びると言っているのだ。

 この確信をもっていたからか、エレミヤはユダが今はバビロニアに従うべきと主張するが、エジプトの手で王位に就けられたエホヤキムは耳を貸さず、親エジプトの方針を変えなかった。前五九七年にバビロニアがエルサレムを攻め、エホヤキムが死に、後を継いだエホヤキンもバビロニアに連行され、ネブカドネザルがゼデキヤを傀儡王の座に就けたのは、列王記に記すとおりである。

 しかしユダ宮廷の反バビロン感情は非常に強く、それが親エジプト感情となって現れた。バビロニアが王位に就けたゼデキヤも、結局はエジプトと結んでバビロニアに反旗を翻した。この時エレミヤは自ら首枷を着けて出歩き、人に問われれば、バビロニアの枷に繋がれればこそ、ユダは生き残るのだと答えていた。ところが神殿の祭司ハナニヤは、神の加護がある限りユダは安泰だといい、バビロニアの枷を取り去ると称して、エレミヤの首枷を壊してしまった。ハナニヤは喝采を浴び、エレミヤは売国奴と見なされ、生命の危険に晒された。

 エルサレムの愛国的昂奮はバビロンへ連れ去られたユダヤ人にも伝染し、エルサレムの蜂起に呼応の姿勢を見せていたが、エレミヤはバビロンへ連行された人々(知識階級だったと思われる)こそ、ユダヤの将来のために残さねばならないと思い、バビロンへの使節にメッセージを託した。

エレミヤ書29章5節:家を建て、植物を植え、
エレミヤ書29章6節:妻を娶り、子女を生み、その地で増えよ、減るでない、
エレミヤ書29章7節:その町で安寧を求めよ

 幸いバビロンではエレミヤに賛同する意見が勝った。ユダヤ人はユダヤ教を奉じたままで、平和に暮らし、豊かになった。

 だがエルサレムの王はついに反乱を起こし、たちまちバビロニア軍に囲まれた。エレミヤは国が投降しないのなら、個々の市民がするしかないと訴えた。

エレミヤ書21章9節:この町に留まる者は剣に、飢饉に、疫病に斃れるだろう、だが町を出てカルデア人に降る者は生きるだろう

 エレミヤは裏切者として投獄されるが、やがてエルサレムは落ち、またも大量の人々がバビロンへ連行された。ところが、そのバビロンの地においてユダヤ教は発展するのだ。一方、親バビロニア派と見なされていたエレミヤは牢を出されるが、今度は親エジプト派がエジプトへ亡命する際に、一緒に連れ去られてしまう。そのエジプトでもエレミヤの舌鋒は健在だった。

エレミヤ書44章30節:主は言われる、見よ、エジプト王ファラオ・ホフラを、彼の生命を狙う敵に引き渡すであろう

 この言葉を最後に、エレミヤはバイブルから姿を消す。



『哀歌』

 哀歌はエルサレムの破壊と荒廃を嘆く五つの詩からなる。

哀歌1章1節:なにゆえ、人であふれていた町が、見捨てられたのか

 ヘブライ語の題名は「なにゆえ」に相当する「エカー」である。

 著者名の記載はないが、昔からエレミヤと考えられてきた。『エレミヤの哀歌』と呼ばれることもある。イザヤ書とエレミヤ書の次に置かれ、この後エゼキエル書、ダニエル書と続くことから分かるように、預言者の話の中に挿入された形になっているのも、エレミヤの著作と考えられたからである。だがその根拠は、この時代の最も知られた人物ということと、歴代誌の中でヨシヤ王の死を悼むエレミヤが描かれているというにすぎない。

歴代誌二35章25節:エレミヤはヨシヤのことを哀しんだ

 だからといって、哀歌の詩がこの時の作品のはずがない。哀歌は破壊されたエルサレムを嘆いているが、ヨシヤの戦死は破壊の二十二年前だし、哀歌のどこにもヨシヤの名は現れない。しかも、最初の四つの詩は、各行の頭文字を拾うと、隠された意味が現れる折句の技法を用いている。エレミヤのような人物がエルサレムの破壊を嘆くとき、そんな言葉遊びに知恵を絞っているはずがない。

投稿時間:2015/05/03(Sun) 23:16
投稿者名:Ken
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エゼキエル書、ダニエル書
『エゼキエル書』

 預言者エゼキエルはエレミヤの同時代人だが、エレミヤよりも若かった。

エゼキエル書1章1節:連れ去られた民の一人だった私は、三十歳のとき神を見た
エゼキエル書1章2節:それはエホヤキン王が連れ去られて五年目だった

 ネブカドネザルはエルサレムの民を二度連れ去っており、エホヤキンが連れ去られたのは一度目、前五九七年で、その五年目の前五九三年からエゼキエル書は語り始める。そのとき三十歳なら、彼はエレミヤよりは二十ほど年少になる。状況を考えれば、エレミヤの弟子だったかもしれない。彼もまたユダにはびこる異教を糾弾するが、他ならぬエルサレムの神殿で異教の祭祀が行われたと言う。

エゼキエル書8章14節:神は私を主の家の北の門へ連れてきた。そこで見たのは、タンムーズのために泣く女たちで、

 太古の農耕社会では、植物が枯れることと新たに芽吹くことは、それぞれ神が死にまた再生することで説明されており、植物が枯れる季節には人々は神の死を悼んで泣き、新芽の季節には神の復活を祝う習慣ができた。タンムーズはシュメール神話のドゥム・ジのことだが、この神は女神イシュタルの恋人で、死んで冥界へ行ったのを、イシュタルが苦心のすえ連れ戻すことになっている。そして、一年の中でタンムーズの死を泣く季節と復活を喜ぶ季節がある。バビロニア人は夏至の月をタンムーズと名づけたが、これはユダヤの暦にも入っており、エゼキエルの糾弾にも関わらず、本来はこの異教の神を讃える日が、現在でも暦の中で設けられている。

 エゼキエル書の前半はひたすらユダのあり様を非難し、破滅を予言している。ユダだけではなく、周囲の国もことごとくカルデア人の手に落ち、それを期待するかのように言うエゼキエルは、まるでバビロニアの愛国者のようだ。

エゼキエル書26章1節:十一年目に、私は神の言葉を聴いた
エゼキエル書26章7節:見よ、ティルスの上にネブカドネザルを遣わすであろう、と

 ティルスは地中海沿岸の都市で、しかも重要施設を沖合いの島に移していたから、アッシリア軍もバビロニア軍も、この町を完全包囲下に置くことはできなかった。例えばサマリアを包囲したシャルマネセル五世はティルスも攻めたのだが、ティルスの艦隊に勝つことができず、結局五年後にティルスがアッシリアに貢納することで和解した。やがてユダ王国がエジプトに誘われて、命取りとなるバビロニアへの謀叛を起こした時、ティルスも叛いた。ネブカドネザルが討伐軍を送ったのがエゼキエルの言う「十一年目」つまり前五八七年だが、エゼキエルはティルスが完全破壊されると予言し、征服者バビロニア軍の栄光を讃えている。実際のところ、彼が災厄を予言するのは、ユダ王国も含めてバビロニアの敵ばかりで、バビロニアに関するものは皆無である。このことはバビロニアのユダヤ人が人道的に扱われ、信仰の自由を得ていたことを思えば、驚くにはあたらない。もちろんバビロニアは異教の国だが、それでも愛国心の対象になりうることは、現代のアメリカのユダヤ系市民を考えれば、容易に理解できよう。だから、後にユダヤ人がエルサレムへ戻って神殿と城壁を再建した時も、多くがバビロンに残留したのだ。しかしながら、ネブカドネザルの長期包囲もティルスを滅ぼすにはいたらず、エゼキエルは無念の結果を受け入れるしかなかった。

エゼキエル書29章18節:ネブカドネザルはティルス相手に偉業を達すべく軍を起こしたが、成功しなかった

 この時、エゼキエルは五十二歳になっていた。

 ところでティルスを語るエゼキエルの記述にこんな一節がある。

エゼキエル書27章7節:エリシャの島の青と紫に覆われ、

 エリシャの正体は、キプロス説とカルタゴ説がある。伝承では、前八一四年ティルス人が現在のテュニスの地に建設したのがカルタゴで、エゼキエルの時代には北アフリカとシシリー島を支配していた。その最初の統治者はティルスのディド王女というが、ディドは即位後の名前で、彼女の本名はエリサといった。もし彼女が故郷ではこの名前で知られていたなら、カルタゴの別称がエリサ=エリシャとなっていても不思議はない。すべては想像だが、もしこの想像が当たっているなら、この一節はバイブルにカルタゴが登場する唯一の箇所である。

 さらにエゼキエルの記述の一節に、

エゼキエル書27章9節:ゲバルの古人たちが、

 ゲバルはレバノンの町で、ギリシャ語ではビブロスという。エジプトでピラミッドが建設されていた頃には、フェニキアの最重要都市だった。アルファベットはフェニキア人の発明だが、最古のものはここから発掘されていて、それは出エジプトよりも古い。後にビブロスはエジプト産のパピルス紙交易の中心地となり、ビブロスからもたらされるパピルス紙は「ビブリア」と呼ばれるようになる。古代の書物はすべてパピルス=ビブリアに書かれたから、ビブリアは書物の別称となり、最も重要な書物もビブリアすなわちバイブルと呼ばれるにいたるのである。

 小国が次々とバビロニアに反抗する大きな原因は、エジプトにあった。古代文明の中心では唯一バビロニアに服さないこの国へのバビロニアの苛立ちが、そのままエゼキエルの言葉に反映されている。

エゼキエル書29章1節:十年目に神の言葉を聞いた
エゼキエル書29章2節:ファラオに向かって、彼と全エジプトの暗黒の運命を予言せよ、と

 この予言がなされたのは前五八八年で、エルサレムはまだ崩壊にいたらず、エジプトの支援が唯一の希望だったが、エゼキエルは激烈にエジプトを呪っている。

エゼキエル書29章10節:神は、シエネからエチオピア国境まで、エジプトの地を破壊し尽くす。

 いくら考えても、エゼキエルはユダの愛国者ではない。



『ダニエル書』

 一口にバイブルといっても、ユダヤ教とキリスト教では、書の並び順に相違があるのだが、ダニエル書もその例である。キリスト教の経典ではダニエルは預言者の一人であり、活動期間がネブカドネザルとその後継者たちの時代なので、エゼキエル書の次に置かれている。一方ユダヤの経典ではダニエル書はルツ記などと一緒にまとめられ、他の預言者たちの書とは分けられている。考えられるのは、ダニエル書が書かれた時には、預言者の伝記はシリーズとして完結していたので、新たに挿入することができなかったということだ。すると、他の預言者ではヨナ書が前三〇〇年頃書かれたことが分かっているので、ダニエル書はそれよりも後、預言者ダニエルが活動したとされる時代(前六世紀)よりもはるか後に書かれたことになる。それどころか、ダニエル書はユダヤの正典の中では最も遅く、前一六五年頃の著作ではないかと思われる。その根拠として、ダニエル書の一部が、前二世紀以後に共通語となったアラム語で書かれていること、ギリシャ人が支配した時代の用語が多く見られることが挙げられる。次にイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの各書は、それぞれの時代の出来事を正確に述べるのに対し、ダニエル書の中のバビロン捕囚時代の記述は誤りが多すぎる。一方ギリシャ時代の記述は正確で、それこそダニエルが未来を予知した証拠とされるのだが、未来を正しく知りながら、自分の同時代を知らないのは矛盾ではないか。どう見てもこの書の著者はギリシャ時代の人物で、彼にとってバビロン捕囚は四世紀も昔の出来事だったに違いない。

 ただしダニエルの名自体は後世の創作ではなく、エゼキエル書にも現れている。神が罪を犯した国を滅ぼすという中で、救われる魂の一人に挙げられている。

エゼキエル書14章14節:ノアとダニエルとヨブは、魂の正しさ故に救われるが、

 どうやらダニエルは、ノアやヨブと同じく古伝承の中の偉人だったようだ。もしダニエルがエゼキエルの同時代人なら、イザヤやエレミヤどころかエリヤまでも差し置いて、ノアやヨブの名と並べるはずがない。前二世紀に生きたダニエル書の著者は、古伝の人物名を借り、舞台をバビロン捕囚の時代に設定して、独自のフィクションを書き上げたのである。

 その目的も容易に想像できる。前二世紀といえば、セレウコス朝がユダヤ人に大弾圧を加えた時期で、著者はそのことを非難したかった。だがまともに糾弾すれば謀叛人とされる。そこで、アンティオキアとセレウコス朝の王をバビロンとネブカドネザルに変えたのだ。それでも前二世紀の読者には、物語の悪役が誰のことなのかは自明だった。

 預言者ダニエルが彼の「同時代」にいかに無知であるか、いくつか例を挙げよう。それは冒頭から現れる。

ダニエル書1章1節:エホヤキム王三年、バビロンの王ネブカドネザルが来たり、エルサレムを包囲した
ダニエル書1章2節:主はエホヤキムを敵の手に渡し、神殿の器具の一部がシンアルへ持ち去られた

 エホヤキム王三年は前六〇六年で、ネブカドネザルはまだ王ではない。ネブカドネザルが初めてエルサレムを占領したのは前五九七年で、ユダの王はエホヤキンに代わっていた。またシンアルは大昔のアブラハム時代の名で、捕囚時代のユダヤ人はバビロニアをカルデアと呼んでいた。

 ダニエル書によれば、バビロンへ連れ去られたユダヤ人の中には、宮廷で登用された者たちがいた。

ダニエル書1章6節:その中に、ダニエル、ハナニヤ、ミシャエルそしてアザリヤがいた

 ネブカドネザルは、ちょうどヨセフのファラオのように、自分が見た夢を解釈する人物を求め、それに応じた廷臣たちがいた。

ダニエル書2章2節:王は夢を解かせるべく、魔術師、占星師、祈祷師、カルデア人を召し、
ダニエル書2章4節:するとカルデア人がシリア語で答えた、王よ、臣等に夢を語られよ、

 魔術師、占星師、祈祷師と並んでカルデア人(バビロニア人)が入っているのは奇妙だが、この場合は民族名ではなく、いわば賢者という意味でそう呼ばれている。先進文明を身につけた人々は、後進地域の民にとってそれだけで偉大な知恵をもつ存在に見えたであろうし、バビロニアはまさしく代表的な先進文明の地であった。だがここでは「カルデア人」と言っている。捕囚時代のカルデア人は何よりも戦士であって、その名が賢者の意味で使われるのは、ずっと後のことなのである。

※この事情は、日本史の中の武士と通じる。江戸時代には武士が知識階級、読書階級の代表だったが、平安、鎌倉期の武士は勇敢な戦士でも、学問をする集団ではなかった。例えば、源平合戦時代に「○○は武士だから、孟子ぐらい読んでるだろう」という発言があれば、明らかに時代背景と矛盾するし、おそらく江戸時代の創作にちがいないという推測が可能である。※

 さらに、カルデア人がシリア語(アラム語)で答えたというが、なぜ自らの言語でも王の言語でもない異国語を用いるのか。実は、ダニエル書のこの一節から第7章までが、ずっとアラム語で書かれているのである。その理由はもちろん、ダニエル書が書かれた時代(前二世紀)の共通語であったからだが、前六世紀にそれが現れる矛盾を誤魔化すため、シリア語(アラム語)で答えたという一節を挿入したのに違いない。

 ところがネブカドネザルは、ヨセフのファラオとは異なり、自分の夢を思い出すことができなかった。そこでダニエルが進み出て、王の夢を再現することから始めた。有名なダニエルの予言にほかならない。

ダニエル書2章31節:陛下は巨大な像をご覧になった
ダニエル書2章32節:像の頭部は金、胸と腕は銀、腹と太腿は真鍮
ダニエル書2章33節:脚は鉄、足の先は鉄と陶器
ダニエル書2章34節:一つの石が鉄と陶器の足に当たり、これを砕いた
ダニエル書2章35節:そして、鉄と真鍮と銀と金は分解した。その石は巨大な山になり、世界を満たした

 ダニエルは続いて夢解きにかかる。まず黄金の頭部はネブカドネザルとカルデア帝国だという。

ダニエル書2章39節:その後に陛下の国より劣る王国が建ち、第三の真鍮の王国が続き、世界をすべて支配する
ダニエル書2章40節:四つ目の王国は鉄のように強い
ダニエル書2章41節:足の先の陶器の部分と鉄の部分を見るうちに、王国は分裂する
ダニエル書2章42節:その王国は強いが、壊れている部分もある
ダニエル書2章44節:そしてこれらの諸王の治世に、神は不滅の王国を建てられる

 この予言がネブカドネザルの時代になされたのなら、神の啓示そのものだろう。実際には四世紀後の世界で、歴史を振り返ったにすぎない。

 カルデア帝国より劣る第二の国はメディア帝国だろう。実際にはカルデア帝国と同時期に存在したのだが、ダニエル書の著者は、カルデアの後にメディアが続いたという誤解をいたるところでしている。メディアの国力がカルデアより弱かったのは事実である。全世界を支配する第三の王国はペルシャ帝国と思われ、たしかにユダヤ人が知っていたすべての地域を支配した。そして四つ目の鉄のように強いのはアレクサンダー大王が建てたマケドニア帝国である。像の二本の鉄の脚は、この帝国がエジプトのプトレマイオス朝とアジアのセレウコス朝に分裂したことを示す。ユダヤは当初はプトレマイオス朝の、次いでセレウコス朝の支配下にあり、とくにセレウコス朝から激しい迫害を受けた。やがて前一六八年にユダヤ人の反乱が起こる。それが巨像を砕く石にほかならない。

 第3章も、ネブカドネザルにまつわる物語となっている。彼は自分の巨大像を作り、神として拝むことを強制するが、信仰篤い三人のユダヤ人が従わず、かまどで焼き殺されることになった。ところがネブカドネザルが燃えさかるかまどを覗くと、そこには四人目の人物がおり、しかも誰一人火に焼かれてはいなかったという。四人目は神が遣わした天使であるが、このネブカドネザルも、自分を神として崇めよと、死をもってユダヤ人に強制したセレウコス朝の王のことで、前二世紀の読者なら誰でも分かることだった。

※このあたりの事情は、江戸時代に忠臣蔵が書かれた時、幕府の弾圧を逃れるため、室町初期に舞台を設定し、敵役を吉良上野介から高師直に変えたのとそっくりである。※

 第5章はネブカドネザル後の、バビロン陥落直前の話になっている。

ダニエル書5章1節:ベルシャザル王は大宴会を開き、
ダニエル書5章2節:父ネブカドネザルがエルサレムの神殿から持ち出した、金と銀の器具を出すことを命じた

 ここにも、現実のバビロン捕囚を生きた人物なら犯すはずのない誤りがある。ネブカドネザルは前五六二年に歿し、息子のアメル・マルドゥク(バイブルのエビル・メロダク)が後を継いだが、彼は前五六〇年にネブカドネザルの娘婿ネルガル・シャレゼルに暗殺され、ここで王家は簒奪されたのだ。簒奪者ネルガル・シャレゼルは前五五六年に歿して、息子のラバシ・マルドゥクが王となるが、ここでまた王位の簒奪が起こり、ナボニドゥスという人物が王になる。これがカルデア帝国最後の王である。

 するとベルシャザルとは何者か?

 実はナボニドゥスは学者のような人物で、政治にも軍事にも関心がなく、王の仕事は長男のベル・シャル・ウツルに任せきりだった。これがダニエル書のベルシャザルで、王位に就いたわけでもなければ、ネブカドネザルとも赤の他人なのである。

 すでに時代はカルデア帝国滅亡前夜だった。

 バビロニアのカルデア帝国に関するダニエル書の知識はかくも貧弱だが、その後の時代についてはもっとひどい。

ダニエル書5章30節:その夜、ベルシャザルは殺された
ダニエル書5章31節:メディアのダレイオスが王国を奪った、彼は六十二歳だった

 前五三八年にバビロンを攻め落としたペルシャのキュロス王は、たしかにその時六十二歳くらいだった。だがカルデアを滅ぼしたのはペルシャでメディアではない。メディアはカルデアと同時期に存在した国で、どちらもペルシャに滅ぼされたのだ。ただダニエル書の著者は、夢解きの話が示すように、カルデアの次にメディアが来たと信じていたので、カルデアを滅ぼしたのはメディアと考えたのだ。そして、前五二一年に即位したダレイオスは、メディアではなくペルシャの王である。あるいは、こういう記述もある。

ダニエル書9章1節:メディアのアハシュエロスの子ダレイオスの治世元年に、

 アハシュエロスはクセルクセス、ダレイオスの子で父ではない。

ダニエル書6章28節:ダニエルはダレイオスからペルシャのキュロスの世まで栄え、

 つまりメディアのダレイオス王の後から、ペルシャのキュロス王が現れるという。よくもこれだけいい加減なことを書けるものだ。

 第7章からのダニエル書は黙示録的になる。まず四つの王国を表す四頭の獣が語られる。

ダニエル書7章4節:一頭目は獅子に似て、鷲の翼をもつ
ダニエル書7章5節:二頭目は熊に似る
ダニエル書7章6節:次は豹に似て、四つの頭をもつ
ダニエル書7章7節:そして四頭目の獣は恐ろしく比類なく強く、鉄の歯と十本の角をもつ
ダニエル書7章8節:十本の角をよく見ると、もう一つ短い角が現れ、その前の三つの角は引き抜かれた

 翼を持つ獅子はカルデア帝国、熊はメディア帝国、豹はペルシャ帝国、四頭目の最強の獣が、アレクサンダーのマケドニア帝国なのは分かる。ユダヤ人にとっては、マケドニア帝国から分かれたセレウコス朝とりわけ前一七五年に即位した第八代のアンティオコス四世が、最大の迫害者だった。十本の角のうち七本は彼より前の王たちで、アンティオコスが短い角。彼は内戦で三人の競争相手を倒して八代目になったのだ。

 第8章も獣に擬した諸国の歴史である。二本の角(メディアとペルシャ)を持つ羊が一本の大角(アレクサンダー帝国)を持つ山羊に殺される。その山羊には新たに数本の角が生じ、そこからまた小さな角が現れる。これもセレウコス朝とアンティオコス四世だが、それをダニエルに教える者が現れる。

ダニエル書8章16節:私はそこで声を聞いた。ガブリエル、説明をしてやれ、と

 天使の概念はペルシャの影響下でユダヤ人の間に培われ、ガブリエルは大天使の一人とされた。ダニエル書でこのような伝達者の役割を当てられたため、後にイエスの受胎をマリアに告げるのも、マホメットにコーランを教えるのも、ガブリエルの役割とされた。ユダヤ人の間でも、ヨセフを兄たちの場所へ導いたり、モーセを埋葬したり、センナケリブの軍勢を破ったのがガブリエルとされている。天使の固有名は外典や新約聖書で言及されるが、ユダヤの正典ではダニエル書だけで、このこともダニエル書が非常に遅い時代に書かれたことの証拠にあげられる。

 ここでダニエルは、破壊された神殿は七十年で復活し、理想の世が来るというエレミヤの予言について尋ねる。ネヘミヤが神殿と城壁を再建したとき、これで予言は実現すると多くの人が信じたのに、いくら待ってもユダヤ人は異教徒の支配から抜け出せず、ついにセレウコス朝のような迫害者の下で苦しまねばならなくなった。この謎をガブリエルはダニエルに説明する。

ダニエル書9章24節:君の民と君の聖都は、七十週で罪が消える

 七十年ではなく七十週という。七十週とは週(七)の七十倍で四百九十を意味する。ここでは神殿破壊の原因となった罪が消えるまで四百九十年かかるといっているのだ。前五八六年の破壊から四百九十年なら前九六年で、少なくともダニエル書の著者にとっては、まだ先だった。そして、さらに詳しい説明が行われる。

ダニエル書9章25節:救世主の公子が現れるまで七週、町が再建されるまで六十と二週、
ダニエル書9章26節:その六十と二週のあと救世主は断ち切られ、

 七週は四十九だから、神殿の破壊から四十九年で救世主が現れると言っている。前五八六年から数えると前五三七年で、なるほどキュロスがユダヤ人の帰郷を許した前五三八年とほぼ一致する。その後、六十二週つまり四百三十四年を経て前一〇四年、救世主は断ち切られるという。実はダニエル書が書かれた頃、セレウコス朝に立ち向かったユダヤの祭司長がいた。前一九八年にその地位に就いたオニアス三世である。オニアスはセレウコス朝に敢然と立ち向かい、前一七一年に処刑されるのだが、それがユダヤ人の反乱を引き起こし、歴史の転換点となった。

ダニエル書9章26節:来たる公子は町と聖域を破壊し、
ダニエル書9章27節:それは一週続く。彼は週の半ばで祭祀を止めさせ、非道を拡大し、荒廃させ、

 著者自身の時代に近づくにつれ、弾圧の危険を避けるため曖昧な表現になってくる。オニアスの処刑から一週つまり七年は前一七一年から前一六五年に該当し、その週の半ばといえば前一六八年になる。この年アンティオコス四世はエルサレムを襲い、ユダヤ教を禁じ、神殿を穢した上でゼウスを祀る場所に変え、祭壇で豚を犠牲に捧げることまでした。これがダニエル書のいう非道で、神殿は荒廃した。

 第11章では、二つのマケドニア帝国の争いが語られる。

ダニエル書11章5節:南の王は強くなり、
ダニエル書11章6節:王の娘は調停のために北の王を訪れ、

 南の王がエジプトのプトレマイオス家、北の王がシリアのセレウコス家で、両者の戦いは当初エジプトが優勢だった。

ダニエル書11章7節:軍勢を連れて来たり、北の王の砦に入って勝利する

 これは第三シリア戦役でセレウコス朝を大破したプトレマイオス三世のことと思われる。この時がプトレマイオス朝の最盛期だが、その後はセレウコス朝が盛り返す。

ダニエル書11章15節:北の王が来たり、多くの城市を取り、南の腕は支え得ず、

 この北の王はアンティオコス三世で、ユダヤを含めたアジアの領域は、プトレマイオス家からセレウコス家の支配下に移った。セレウコス朝は最盛期を迎え、アンティオコス四世の代になる。

 だがこの頃になると、世界情勢が大きく変化していた。西方のローマの興隆である。ローマはアンティオコスにエジプトからの撤退を命じ、ローマに敵し得ないことを知っていたアンティオコスは従うしかなかった。

ダニエル書11章30節:キティムの船隊が来たり、彼は嘆きのうちに引き返した。彼の怒りは聖教へ向けられた

 キティムはキプロスだが、ダニエル書は船団が西から来たことをぼかして言っている。もちろんこれはローマの船団で、旧約聖書にローマが登場する唯一の箇所である。屈辱を受けたアンティオコス四世は怒りの矛先をユダヤ人に向けた。神殿が穢されたのはこの時である。

ダニエル書12章1節:かつてない災いの時が来た
ダニエル書12章7節:一と二と半分の間、
ダニエル書12章11節:非道の行いが始まってから千二百九十日、

 一と二と半分は三年半、千二百九十日も同じである。神殿が穢されてから、ユダヤ人が立ち上がり、神殿を取り戻して清めるまで、それだけの期間を要したのだ。その物語は、マカバイ記で語られる。

投稿時間:2015/06/01(Mon) 01:54
投稿者名:Ken
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ホセア書〜ヨナ書
『ホセア書』

 ここからは、十二人の「小預言者」の話が続く。「小」といっても、要するにイザヤ、エレミヤ、エゼキエルと比べて、バイブルに含まれる話が短いということなのだが。

 ホセアはイスラエル王国の預言者である。彼の言がほとんどすべてイスラエルへ向けられたものであること、イスラエルの王を「我らが王」と呼んでいることからそれが分かる。冒頭で活動期間を紹介しており、

ホセア書1章1節:ホセアが主の言を受けたのは、ユダのウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ諸王の、そしてイスラエルのヤロブアム王の時代だった

 時代を特定するのにユダの王から挙げているのは、後世の編纂者がユダの末裔だったからだろう。ウジヤの即位は前七八〇年、ヒゼキヤの死は前六九二年、ヤロブアム二世の治世は前七八五年から前七四五年である。イスラエルの滅亡へ至る最後の時代をホセアは生きたわけで、イザヤと同時代人だが、ホセアの方が年長と思われる。

 最初の三章はホセア自身の伝記で、イザヤと同じく彼も息子に世の出来事を象徴する名を付けている。

ホセア書1章4節:主が言われた、その子をイズレエルと名付けよ、ほどなくイエフが流したイズレエルの血の仇を討つのだから

 一世紀前、イエフが滅ぼしたオムリ王家はヤハウェ信仰を弾圧した異教徒で、ヤハウェ教徒はイエフの行為を是認してきたはずだが、即位のとき神の子になっている王を殺すのは、やはり恐ろしいことと考えられていたようだ。そのような考えは人類史の中で非常に長く続き、例えばシェイクスピアは、リチャード二世を悪王としながら、彼を殺したことで国に災いが降りかかるという劇を書いている。イスラエルもまた、アッシリアの圧迫という形で、かつての王家を滅ぼした報いを受けつつあると、ホセアは信じたのだ。

 そのホセアの眼には、アッシリアへの臣従すらも、イスラエルとユダの崩壊を止められなかった。

ホセア書5章13節:エフライムは病を、ユダは負傷を患い、エフライムはアッシリアのヤレブ王の下へ行くが、癒えることはなかった

 ヤレブという名のアッシリア王はいないが、状況からティグラト・ピレセル三世のことであるのは間違いない。そして南北両王国とも滅んだのだから、たしかに病も傷も癒えなかった。

 それでも預言者ホセアは亡国のさらに先を見ている。

ホセア書3章5節:いつかイスラエルの子等は戻る、そして主なる神とダビデ王を見る

 ダビデが復活して現れるというのは、非常に古くからある考え方の反映であろう。過去の栄光をもたらした偉大な君主は本当に死ぬことはなく、ただ眠りにつき、また必要とされる時には蘇るというものだ。だからアーサー王はアバロンで眠っているし、ドイツ皇帝バルバロッサはキフホイザーの山で眠っているという伝説を生じた。ここでのダビデも同じであろう。もっとも、イスラエル人がダビデ王朝に抱いていた不信と反感を思えば、ホセアがダビデの復活を待望するのはおかしいとも言える。この部分は、後世のユダ系編者の加筆かもしれない。



『ヨエル書』

ヨエル書1章1節:主の言葉がヨエルに降り

 主の言葉がいつ降ったのか、ヨエルの活動時期はいつだったのか、その記述がないが、推測はできる。まずヨエル書にはアッシリアやバビロニアの脅威が言及されてないので、前七五〇年より前か、前五〇〇年より後か、そのどちらかであろう。次に王の名が現れず、異教の祭祀も全くでてこない一方で、ユダヤ人の離散は語られている。

ヨエル書3章2節:諸国へ散らされた我が民

 ギリシャ人への言及もあるが、ユダヤ人がギリシャ人を知るのは、ペルシャ帝国時代になってだいぶ経ってからのはずである。

ヨエル書3章6節:エルサレムの子等をギリシャ人へ売り、

 総合的に考えて、ヨエル書が書かれたのは前四〇〇年頃と思われる。

 ヨエル書はまた、来たるべき大破壊について予言をする。

ヨエル書1章15節:主の日は近く、全能の神による破壊が訪れる

 主の日とは、ユダヤ人を迫害する暴君が罰せられ、ユダヤ人の受難が報われる日で、いわゆる最後の審判を意味するのは言うまでもない。

ヨエル書3章2節:私は諸国民をすべて集めてヨシャファトの谷へ連れ行き、彼らが離散させた我が民のために彼らを裁く

 ヨシャファトの谷がどこにあるのか、発見に成功した者はいない。ヨシャファトは「ヤハウェの裁きが下った」という意味だから、ここではユダのヨシャファト王は無関係で、神の裁きの谷という意味だろう。

※すると、イライジャ・ベイリが「ジェホシャファト(ヨシャファト)」と叫ぶのも、古代の王名ではなく「裁きの神よ!」と叫んでいるということか。現代のアメリカ人が「マイ・ゴッド!」「ジーザス!」と叫ぶようなものだろう。※

 神の託宣は続く。

ヨエル書3章4節:ティルスよ、シドンよ、君らは何をしたか
ヨエル書3章6節:エルサレムの子等をギリシャ人に売り渡した
ヨエル書3章7節:見よ、私は彼らを売られた地から救い出し、君らに償いをさせるだろう
ヨエル書3章8節:君らの子女をユダの子等に売り、彼らは彼方の地へ売られるだろう

 まだこの時代には、裁きは個人ではなく、国単位、民族単位で行われるという考えが支配していたようだ。個人ごとに裁きを受けるという思想は、少しずつ生じていったので、はっきりと書かれるのは、たとえばダニエル書のような後世の文章である。

ダニエル書12章2節:地中に眠る多くの者が目覚め、ある者はとわの命を、別の者は恥辱ととわの軽蔑を受ける



『アモス書』

 三番目に登場する小預言者はアモスだが、時代的には彼が最も古く、新しい種類の預言者の第一号らしい。サムエルやエリシャに代表される古い預言者は神懸り状態になって神託を伝えるが、アモスたちは落ち着いて、平易な言葉で語る。実のところ、アモスは自分が昔ながらの預言者であることを否定している。

アモス書7章14節:アモスは答えて言った、私は預言者でも、預言者の息子でもなく、牧者である。

 アモスの活動時期は冒頭で述べられる。

アモス書1章1節:ユダのウジヤ王、イスラエルのヤロブアム王の治世、地震の二年前に、テコアの牧者だったアモス

 ウジヤやヤロブアムの治世に地震が起こったことは、どの史書にも記載がないので、年代は特定できない。また、こういう記述もある。

アモス書8章9節:その日、主は言われた、真昼に太陽を沈め、好天の日を暗く変えると、

 これが日食のことなら、前七六三年にイスラエルやユダで日食があったことは算出できるので、預言者アモスの活動期間はそのあたりだろう。彼はホセアやイザヤの同時代人だったことになる。

 アモスはユダの人間だが、彼の預言はイスラエルに向けたものが多く、異教信仰だけでなく、社会的不公正を激しく非難している。

アモス書5章21節:私は君らの宴を憎む
アモス書5章22節:君らの供物は受けぬ
アモス書5章23節:歌声を止めよ
アモス書5章24節:裁きは水の流れるごとく、正しきは大いなる流れとなり、

 ここから見えるのは、アモスは神殿で儀式が行われても、最後の審判で救われるのは、行いの正しい者だけと言っていることだ。

アモス書5章18節:主の日を望む者は呪われるべし、いったい何を期待するか? 主の日は闇であって、光ではないのに

 神に救われるか否かは、民族ではなく個人ごとに決まるという思想の先駆けがそこに見られる。ただし、アモスはやりすぎた。

アモス書7章9節:私はヤロブアム家に剣をもって対する

 イスラエルでこれを言えば謀叛人となる。祭司アマツヤはアモスにイスラエルを去ることを勧めた。アモスが何と答えたかは記されていない。彼がイスラエルで殉教したという記事はないので、ユダへ戻ったのではないか。



『オバデヤ書』

 オバデヤ書は旧約聖書の中で最も短く、一章二十一節しかない。著者のオバデヤが誰なのかも分からないが、イスラエルのアハブ王の宮廷にそういう名の人物がいた。

列王記一18章3節:アハブは侍従長のオバデヤを呼んだ、(オバデヤはたいへんに主を畏れていた
列王記一18章4節:イゼベルが預言者たちを殺した時、オバデヤは百人を連れ出し、一つの洞窟に五十人ずつ匿って、食物を運んだ

 アハブとイゼベルの時代にこんなことをしたなら、後世のユダヤ人にとっては大英雄で、一世紀の史家ヨセフスは、この時のオバデヤがオバデヤ書の著者だと言った。しかし、オバデヤ書には明らかにネブカドネザルのエルサレム破壊を語る部分がある。

オバデヤ書1章11節:外来者がユダを連れ去り、異国人が入城し、エルサレムで賭け事をした

 エルサレムの陥落を見た人物が、三世紀前のアハブの宮廷にいたはずは、当然ない。一方で、

オバデヤ書1章20節:囚われたイスラエルの子等はカナン人の地を回復し、囚われたエルサレムの人々は南の諸都市を回復し、

 ユダの民が戻ったように、イスラエルもまた戻ると思われていたとすると、あまり後の時代ではない。ユダの民が戻った頃か、その直後の時代あたりまでだろう。前五〇〇年あたりが最も妥当と思われる。

 バビロンへ連行された人々が、どこにいたのか、具体的な地名を挙げた部分がある。

オバデヤ書1章20節:囚われたエルサレムの人々はセファラドに、

 だがセファラドがどこなのかは分からない。ただ、中世にはユダヤ人はイスラム教が支配するスペインで栄えており、セファラドはスペインという考えが広まり、北欧東欧のユダヤ人がアシュケナジムと呼ばれるのに対し、スペインやポルトガルのユダヤ人は子孫も含めてセファルディムと呼ばれるようになった。例えば十九世紀の英国の首相ベンジャミン・ディズレイリはセファルディムである。



『ヨナ書』

 どうみてもヨナ書はフィクションだし、そもそも預言者の話でもないが、ヨナという名の預言者が列王記に登場するので、本書のヨナがその預言者ということにされ、他の預言者の話と一緒にまとめられている。

列王記二14章25節:彼(ヤロブアム二世)は、ガト・ヘフェルのアミタイの子、神の下僕ヨナに主が語らせたように、イスラエルの境域を回復した

 本物のヨナは前七八〇年頃に活動したわけだが、ヨナ書が書かれたのは、いくつかの理由から前三〇〇年頃と思われる。

 ヨナ書は、ヨナが神の命令を聞いたところから始まる。

ヨナ書1章1節:主の言葉が、アミタイの子ヨナへ降った
ヨナ書1章2節:大都ニネベに行き、彼らの悪行を叱責せよ

 もうここで史実のヨナの話ではないことが分かる。前七八〇年頃のニネベは大都などではない。アッシリアの都はカラで、センナケリブがニネベに遷都するのは一世紀も先のことだ。

 ヨナはこんな命令には従えないと思った。当然のことで、まるでヒトラー時代のユダヤ人に、ベルリンへ赴いてナチスの悪行を叱責せよというようなものだ。そこでヨナは、西地中海のタルシシュへ向かう船に乗って逃げ出した。これは、ヤハウェ神が全知全能ではなく、イスラエルの地を離れれば、神から逃れられるとヨナが信じていたことを示している。ただし、ヨナ書の著者はそうは思っていない。神はヨナが乗った船を嵐に襲わせ、船員たちは災いの原因のヨナを海へ放り込んだ。そのヨナに異常なことが起こった。

ヨナ書1章17節:主は大魚を用意してヨナを呑み込ませた。ヨナは魚の腹中に三日三晩いた

 ヨナ書自体がフィクションだから、大魚の正体を詮索しても仕方がないが、バイブルの記述がすべて真実と信じられていた時代には、この大魚はクジラだという考えが広く支持された。クジラは哺乳類で魚ではないというのは近代生物学の知識で、古い時代には水の生物はすべて魚と思われていた。jellyfish(クラゲ)もstarfish(ヒトデ)も、もちろん魚ではない。(※漢字の「鯨」も魚偏である。※)しかもイエスがヨナを呑み込んだ魚はクジラだと言ったので、すっかりこの考えが定着した。

マタイによる福音書12章40節:ヨナは鯨の腹に三日三晩いた

 クジラだとすれば、人間の大人を傷つけずに飲み込める喉の構造を持つのはマッコウクジラだけである。とはいえ、マッコウクジラは地中海にはいないし、いずれにせよ人間がクジラの胃の中で三日三晩も生きられるはずがない。ヨナ書自体がファンタジーなのである。

 魚の腹中で悔い改めたヨナは陸上へ吐き出してもらい、今度こそニネベに行き、町が破壊されると説いて回った。驚いたことにアッシリア王以下の全員が罪を悔いて懺悔した。もちろんそんなことはどんな史書にも記録がないし、それどころかバイブルの列王記も歴代誌も、これほど偉大なヤハウェの勝利を記していない。

 悔い改めたニネベは破壊をまぬがれるが、今度はそれがヨナを怒らせた。彼はニネベが懺悔することではなく滅びることを期待していたのだ。そのヨナの前に現れたものがあった。

ヨナ書4章6節:主なる神は瓢箪の木を生やし、ヨナの頭上に陰を作らせた

 瓢箪はヘブライ語のキカヨンの訳だが、正しい訳とはいえない。キカヨンは熱帯に育つトウゴマ科の植物で、木に匹敵する大きさに育つ。

 神はヨナに日陰を与えたのに、翌日はそのキカヨンを枯れさせた。ヨナはますます怒ったが、そこで物語のクライマックスと教訓がくる。

ヨナ書4章10節:主は言われた、自分で育てたわけでもない瓢箪の死がそれほど無念なら、
ヨナ書4章11節:左右の手の区別もできない民が十二万以上もおり、多くの牛もいる大都ニネベを救うべきだとは思わないのか

 ここには、神は全人類の神であってイスラエル人だけの神ではないこと、罪人でも罪を悔いれば許されること、まして子供に罪はないこと、それらの思想が明確に表れている。牛にまで言及されているが、バイブル全篇を通じて動物愛護を語る唯一の箇所だろう。ここは、サウルがアマレク人を皆殺しにしなかったことでどれだけ神が怒っているかを、サムエルが語ったことを思い出すべきだろう。つまりヨナ書はルツ記と同じく、エズラに代表される排他的民族主義に反対する意図で書かれたのだ。クジラに飲まれた男の冒険譚だと信じる限り、最も重要なメッセージを逃すことになる。

投稿時間:2015/06/01(Mon) 01:56
投稿者名:Ken
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ミカ書〜マラキ書
『ミカ書』

 ミカはミカイヤの短縮形で、バイブルに登場する最も重要なミカイヤといえば、ラモト・ギレアドの戦いの直前に、ユダのヨシャファトがイスラエルのアハブに薦めた預言者であろう。

列王記一22章8節:イスラエル王はヨシャファトに言った、君はイムラの子ミカイヤに主の意志を尋ねよというが、彼は私に不吉な予言しか言わないから、私は彼を嫌う

 ただし、このミカイヤがミカ書の著者のはずはない。ミカイヤは前八五四年のラモト・ギレアドの戦の時にいたイスラエル人だが、ミカ書の著者はアハブの死後一世紀ほどの時代に活動したユダ人である。

ミカ書1章1節:ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代、モラシュト人ミカは主の言葉を受けた

 ミカはイザヤ、ホセア、アモスの同時代人で、モラシュト人つまりエルサレムの東南四十キロに位置するモレシェト・ガト市の住人だったことになる。サマリアの滅亡を予言しているから、少なくとも初期の予言は前七二二年にサルゴンがこの町を破壊するより前になされたのだろう。一方で、ユダの祭司たちの腐敗も激しく叱責している。

ミカ書3章12節:君らのせいでシオンは畑となって耕され、エルサレムは小山になり、

 のちにエレミヤがエルサレムの滅亡を予言したことで殺されそうになったとき、彼の支持者はミカが同様の予言をしても殺されなかったことを挙げて弁護している。

 エルサレムの滅亡後に現れる救世主についても、予言がある。

ミカ書5章2節:汝ベツレヘム・エフラタよ、ユダの衆の中では小さくとも、系譜は古く永く、汝よりイスラエルの統治者は現れ、

 もっとも、この部分はバビロン捕囚時代の加筆と思われる。今は没落した(ユダの衆の中で小さな)ダビデ王家の子孫が再び王となるということだが、捕囚時代にそれを言えば謀叛人になるから、ダビデの故郷ベツレヘムの名を出して、ユダヤ人だけに分かる表現をしたわけだ。ところが、やがてこれが字義通りに解釈され、未来の救世主はベツレヘムで生まれると信じられるようになる。



『ナホム書』

 わずか三章のナホム書は、アッシリアの都ニネベがやがて滅びる喜びを歌い上げる。

ナホム書1章1節:ニネベについて、エルコシュの人ナホムが見たもの

 ニネベの崩壊が時間の問題として書かれているので、カルデアとメディアの連合軍がこの都を陥落させた前六一二年からそれほど遡った時代ではないだろう。

ナホム書2章4節:戦馬車は街路を疾駆する
ナホム書2章6節:川の水門は開き、王宮は崩れ去る
ナホム書2章7節:そしてフザブは囚われて去る

 フザブの正体は分からない。女性名なので、ニネベの別称か、アッシリア神話の女神か、もしくは王妃の名かもしれない。



『ハバクク書』

 預言者ハバククの正体はまったく不明。ユダの罪を罰するために神が遣わすのが、アッシリアではなくカルデアなので、時代的にはニネベの陥落からユダ王国の滅亡までの間と思われる。ハバククはユダの罪を神に訴え、神は必ず罰が下ると保証を与えている。

ハバクク書1章6節:私はカルデア人を用いる



『ゼファニヤ書』

 預言者の中ではゼファニヤの系譜が最も詳しく語られている。

ゼファニヤ書1章1節:ヨシヤ王の時代のゼファニヤ、その父はクシ、その父はゲデリヤ、その父はアマリヤ、その父はヒゼキヤ

 ヒゼキヤがユダのヒゼキヤ王なら、預言者ゼファニヤは王の玄孫になる。ヨシヤもヒゼキヤの玄孫だから世代的にも一致するし、王と預言者はまたいとこの関係になる。イザヤと同じくゼファニヤも王族だったのだろう。ただしゼファニヤが宮廷にはびこる異教を非難する一節がある。

ゼファニヤ書1章4節:この場所からバアルを一掃する

 少なくともこの部分はヨシヤの改革よりも前だろう。この頃にはアッシリアの凋落が混乱を引き起こしており、ゼファニヤには審判の日が近づいていると見えたに違いない。

ゼファニヤ書1章14節:主の偉大な日は近い
ゼファニヤ書1章15節:それは怒りの日、災いの日、荒廃の日、闇の日、



『ハガイ書』

 ハガイの活動時期ははっきりとしている。

ハガイ書1章1節:ダレイオス二年、主の言葉がハガイを通じて、ユダの総督ゼルバベルと祭司長ヨシュアへいたった

 ダレイオスの即位は前五二一年なので、その二年は前五二〇年になる。ユダヤ人は十七年前にエルサレムへ戻っていたが、地元民の抵抗で神殿はまだ再建されていなかった。よってハガイの使命は政治指導者のゼルバベルと宗教指導者のヨシュアを動かすことだった。ダレイオスの援助もあり、神殿は再建された。

 また神はハガイの口を借りて、救世主の名を言わせている。

ハガイ書2章22節:諸国の王を追放し、
ハガイ書2章23節:汝ゼルバベルを選ぶ

 ゼルバベルはダビデ王家の子孫で、神殿再建時のユダヤ人の指導者だから、当然ともいえるが、もちろんこの予言は実現しなかった。

 このただ一度の予言のあと、ハガイは消える。彼は破壊前の神殿を見たと思われる記述があるので、すでにかなりの高齢だったはずである。

 救世主と名指しされたゼルバベルもそれ以後の登場がなく、ペルシャ帝国から危険視されたのかもしれない。これ以後のユダヤの指導者は祭司長ばかりで、王権の復活は四百年後のマカバイを待たねばならない。



『ゼカリヤ書』

 ハガイと全く同じ年に預言者ゼカリヤの活動は始まった。

ゼカリヤ書1章1節:ダレイオス二年、主の言葉がゼカリヤにくだり、

 二人が時を同じくして予言活動を行った記述もある。

エズラ記5章1節:その時、ハガイとゼカリヤがユダヤ人に向けて予言を行い、

 ただしゼカリヤの方は、少なくとも前五一八年までは活動していた。

ゼカリヤ書7章1節:そしてダレイオス四年、主の言葉がゼカリヤにくだり、

 ゼカリヤはユダの敗北の苦しみと、やがて訪れる復活を語るが、運命の転換をこのような言葉で語っている。

ゼカリヤ書3章1節:天使の前に立つ祭司長ヨシュアと、彼を妨げるべく右に立つサタンの姿を示された
ゼカリヤ書3章2節:主はサタンに言われた、サタンよ、私はお前を責める
ゼカリヤ書3章3節:いまヨシュアは汚れた衣をまとい
ゼカリヤ書3章4節:主は言われた、汚れた衣をとれ、私がお前の衣を替える

 ヨシュアはユダヤ人を、汚れた衣は罪を、神が与える清らかな衣は復活を表すのはいうまでもないが、注目すべきは、ペルシャの影響下に入って二十年足らずで、神と対立する悪魔サタンの観念がユダヤ教に入っていることだろう。

 ゼカリヤも来たるべき救世主を語る。

ゼカリヤ書3章8節:聞くがよい、ヨシュアよ、私がしもべの枝を連れてくる

 ダビデ王家から新たに伸びる「枝」とは誰かといえば、

ゼカリヤ書6章12節:見よ、その者の名は枝、その者は主の神殿を建てる

 神殿を再建したのはダビデ王家のゼルバベルだから、ゼカリヤもハガイと同様、救世主たる王はゼルバベルだと言っている。その名が現れないのは、予言が実現しなかったので、後世の編者が消したのではないか。

 ゼカリヤ書は十四章からなるが、初めの八章とあとの六章は、文体も、見て取れる背景も大きく異なる。

ゼカリヤ書9章1節:主の言葉がハドラクとダマスカスの運命を、

 ハドラクもダマスカスもシリアの町である。この一節に始まるゼカリヤ書第9章は、シリアとペリシテの地が、征服者の軍勢に席巻されてゆく様を描いているが、これはどうしてもアレクサンダー軍としか思えない。ネブカドネザルにも屈しなかったティルスでさえ、この時破壊された。そしてユダヤ人が絶対の存在と考えていたペルシャ帝国がひとたまりもなく崩壊した。ユダヤ人は、これこそ神が遣わした軍隊だと思ったであろう。ただ、それが異教徒の王となると、真の救世主は軍事的成功者とは異なる形で現れねばならない。

ゼカリヤ書9章9節:歓喜せよ、シオンの娘もエルサレムの娘も、王の到来を見よ、彼は正しく、救いをもたらす。慎ましく、驢馬の子にまたがり、
ゼカリヤ書9章10節:異教徒に平和を説き、彼の王国は海から海へ川から地の果てまで、

 ところが、これに続く箇所は、アレクサンダーよりさらにのちの時代を背景とするようだ。

ゼカリヤ書9章13節:私はシオンの子等を立てる、ギリシャの子等と戦うため、
ゼカリヤ書10章11節:アッシリアの誇りは倒れ、エジプトの王笏は離れゆき、

 「異教徒に平和を説いた」精神は失われ、憎悪が復活している。アッシリアはシリアの間違いで、ここではアレクサンダー帝国から分裂した二つの国が滅びると言っているのだ。
 異教徒がエルサレム軍に大敗する予言をもって、ゼカリヤ書は終わる。



『マラキ書』

マラキ書1章1節:イスラエルについて、マラキが伝えた主の言葉

 マラキは「我が伝令」という意味で、これが著者の名ではなかろう。なによりも、伝令の名はちゃんと与えてある。

マラキ書4章5節:見よ、恐るべき主の日の前に、私は預言者エリヤを遣わす

 活動時期の特定は難しいが、前四六〇年頃という説が有力なようだ。ハガイやゼカリヤが予言したゼルバベル王は実現せずに終わり、ネヘミヤの活躍はまだ先で、ユダヤ人が意気消沈した時期に、主の日は必ず来ると言い続けたのだろう。

投稿時間:2015/06/28(Sun) 21:22
投稿者名:Ken
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トビト記、ユディト記
『トビト記』

 いわゆる「外典(Apocrypha)」というものがあって、ユダヤ教の正典にない物語を収録しているが、カトリックではこれもバイブルの正典に含めている。その先頭に来るのがトビト記で、書かれたのは、ユダヤ人がセレウコス朝の過酷な支配下に置かれていた前二〇〇年頃と推測され、舞台はそれより五世紀前のアッシリア時代に設定されている。

トビト記1章2節:アッシリアのシャルマネセル王のとき、トビトは囚われて連れ去られた

 正しくは、サマリアを攻めたのはシャルマネセルでも、人々を連行したのは次のサルゴン王なのだが、いずれにせよ主人公トビトはイスラエル王国が滅んだ前七二二年に生きていたことになる。ところが、その直後に彼はこういう述懐をしている。

トビト記1章4節:私が若かったとき、ナフタリ族がエルサレムの王家から離れた

 これは前九三三年に統一王国が分裂した時、ナフタリ族が北王国に属したことをいっている。同じ人物が両方の時期に生存はできないから、トビト記はフィクションで、しかも歴史に詳しくない著者の作品である。

 そのトビトはニネベの宮廷で重用され高位の官吏になる。あるとき彼は地方へ出張した。

トビト記1章14節:私はメディアへ行き、ラゲスで十タレントの銀をガバエルに託した

 しかしラゲスがアッシリア帝国の支配下に入ったことはない。十タレントといえば今の二万ドルに相当し(※バイブル・ガイドが発表された一九六九年の二万ドルだから、現在なら十万ドル=一千万円以上だろう※)そんな大金を持って国外を旅すれば無事ではすまないだろう。ただし、前二〇〇年ならラゲスを含めたかつてのメディア帝国の地がそっくりセレウコス朝の版図だったから、トビト記の著者がいつの時代に生きていたかを示す証拠の一つである。

 やがてトビトは病で失明する。彼の信仰心は不動だが、彼は死ぬことを願った。一方、彼の姪にあたるサラも大変な不幸に見舞われていた。

トビト記3章8節:彼女は七たび結婚しながら、悪魔アスモデウスが夫をすべて殺した

 しかし悪魔の行為は知られることなく、人々はサラが次々と夫を殺したと信じた。このとき、二人を救うために派遣された天使がいた。

トビト記3章17節:二人を癒すためラファエルが遣わされた

 天使の概念はペルシャの影響で発達するが、固有名を与えられたのはバイブル正典の中ではガブリエルとミカエル、外典ではトビト記のラファエルと第二エズラ記のウリエルである。

 この頃トビトは息子のトビアスをラゲスまでの危険な旅に送り出すことになり、肝に銘じるべきいくつかの注意を与えるが、その一つが、

トビト記4章15節:自分にとって嫌なことを、他の誰にもしてはいけない

 これは、後にイエスが述べる「黄金律」を否定形式で言ったものだ。

マタイによる福音書7章12節:それゆえ、自分がしてほしいことを他者に行わねばならない
ルカによる福音書6章31節:他者からしてもらいたいことを、彼らに行うべし

※一九六三年に亡くなったイギリスの作家CSルイスは、キリスト教を分かり易く解説することで有名だったが、この黄金律とまったく同じ表現(己の欲せざる所を人に施す勿れ)が中国古典の論語にも、インド古典のマハーバーラタにもあることを発見して、これこそ神の法が全人類に及んでいる証拠だと主張し、その神の法をわざわざ中国語で「Tao」(道)と呼んだ。※

 旅に出かけようとするトビアスの前に、ラファエルが人間の姿で現れ、道案内を申し出たので、二人で出発した。

トビト記6章1節:彼らは夜にティグリス川に達し、宿をとった

 だが、もともとニネベはティグリス河畔の、それも東側に位置する町だし、ラゲスはそれよりずっと東方だから、ニネベからラゲスへの旅でこの川に達するはずはない。このフィクションの作者が歴史だけでなく、地理もよく知らなかったことが分かる。ただしこの物語では、川越えは絶対に必要だった。トビアスは魚を捕らえ、ラファエルは心臓と肝臓と瘤をとっておくように言う。心臓と肝臓は悪魔退治のため、瘤は失明を治すためである。

 サラが住むエクバタナまで来たとき、ラファエルはトビアスとサラが結ばれるようにはからう。トビアスが結婚式の場で魚の肝臓を焚くとアスモデウスは退散する。使命を果たしてニネベに戻った後、今度は魚の瘤でトビトの目を治す。このとき初めてラファエルは天使の正体を現し、トビトの一族は末永く幸福に暮らすのである。トビトは死の床で、ニネベはもうすぐ滅びると警告し、トビアスは妻の故郷のエクバタナへ移住して、ニネベの滅亡を見届けることになる。

トビト記14章15節:トビアスは死ぬ前に、ニネベがネブカドネザルとアハシュエロスに占領されたことを聞いた

 史実では、ニネベを征したのはネブカドネザルの父ナボポラサルとメディアのキュアクサレスで、アハシュエロス(クセルクセス)の登場など一世紀以上も未来のことだ。要するにトビト記の作者は、セレウコス朝が滅びると言いたかったので、題材はフィクションでよかったのだ。



『ユディト記』

 これもトビト記と同じく歴史小説のたぐいで、書かれたのは前一五〇年頃と思われる。長かったセレウコス朝の圧制をついに退けたユダヤ人の民族主義が激しく昂揚し、強敵に打ち克つ英雄の物語が持て囃された時代にあたる。トビト記のような超自然現象こそ登場しないが、内容が矛盾だらけという点では、むしろこちらの方が極端である。

ユディト記1章1節:ニネベに君臨したネブカドネザルの十二年目に、

 のっけからこんなことをいっている。ネブカドネザルはバビロンに君臨したカルデアの王で、ニネベに君臨したアッシリア王ではないし、即位したのもニネベが完全に破壊された後だ。とりあえず、ネブカドネザルの十二年だけ採用するなら、前五九四年である。だが、時代設定はこれだけではない。

ユディト記1章1節:メディアのエクバタナに君臨したアルファクサドの治世に、

 メディア史にそんな王はいないが、アルファクサドにモデルがいるなら、前六四七年から前六二五年まで君臨したフラオルテスだろう。

ユディト記1章5節:その頃、ネブカドネザルがラガウの地でアルファクサドと戦った

 アッシリアのアッシュールバニパルが、前六二五年にメディアのフラオルテスと戦った史実はあるので、ユディト記はそれを借用したと思われる。この戦役に「ネブカドネザル」が動員した軍勢の描写がある。

ユディト記1章6節:王の下に馳せ参じたのは、ユーフラテス、ティグリス、ヒダスペス河畔の民、エラムの民、ケロド諸国の民、

 これは当時のアッシリア帝国東部の民族構成の記述としては、おおむね正しい。ケロドはカルデア人で、この頃はまだアッシリアに服属していた。ただしヒダスペス川は明らかな誤りで、これはパキスタンのパンジャブ地方を流れる川である。実はアレクサンダーがこの河畔で大会戦を戦っており、いわばマケドニア帝国の東の境界で、ユディト記の著者がアッシリアやネブカドネザルの名を借りながら、真実はどの国を意識していたかが見て取れる。

 「アルファクサド」を破った「ネブカドネザル」は、一転して西の敵ユダ王国に取り掛かった。

ユディト記2章4節:ネブカドネザルは軍司令のホロフェルネスを呼んで命じた
ユディト記2章6節:我に叛する西の国を討て

 再び史実の話をすると、まずアッシュールバニパルはユダを討伐などしていない。当時のユダはアッシリアに忠誠を誓うマナセ王の治世で、平和の中に栄えていた。また、ホロフェルネスという将軍は、アッシリア、バビロンどちらの歴史にも登場しないが、アッシュールバニパルより三世紀後、前三四六年、ペルシャ帝国のアルタクセルクセス三世がエジプトへ出した遠征軍の将がホロフェルネスである。ユディト記は、ユダの民がこの遠征軍を非常に怖れた、という。

ユディト記4章3節:なぜなら彼らは捕囚から戻ったばかりだったから

 こうなると、前七世紀のアッシリア帝国、前六世紀のネブカドネザル王、前五世紀にバビロン捕囚から戻ったユダヤ人、前四世紀のホロフェルネス将軍と、見事なまでに各世紀から題材を得て、ユディト記は創作されたことになる。

※鎌倉幕府(十三世紀)の足利義満将軍(十四世紀)が、応仁の乱(十五世紀)を戦うため、上杉謙信(十六世紀)に命令を下した、という話が日本人にどう聞こえるか、考えてみよう。※

 このとき、エルサレムの祭司長ヨアキムは、

ユディト記4章6節:ベトリアの住民に書簡を送った
ユディト記4章7節:丘の上の街道を守るように、その道は狭く、二人がようやく通れる幅しかないから、敵を防ぐのに有利だ

 ベトリアという地名は、これ以外にバイブルのどこにも登場しないが、そんなことよりユディト記の著者がヘロドトスから借用しているのは明らかだ。ホロフェルネスの大軍をユダの小部隊が狭い街道で迎え撃つのは、クセルクセスの大軍をギリシャの小部隊がテルモピュレで迎え撃つのと全く同じ筋書きである。だからベトリアがどこかを推測すること自体無意味なのである。

 ホロフェルネスはベトリアの水の供給源を断ち、降伏へ追い込もうとするが、このとき物語の主人公が登場する。

ユディト記8章1節:このときユディトがこれを聞き、

 ユディトはユダの女性形で、彼女は三年前に夫に先立たれたという設定になっている。ベトリアを出た彼女は降伏を偽ってホロフェルネス将軍に近づき、二人きりになったとき相手を酒に酔わせ、その首を落として脱出した。主将を失った「アッシリア」軍は敗走し、ユダヤ人は「ネブカドネザル」の脅威から解放されて、ユディト記は終わる。

投稿時間:2015/07/26(Sun) 22:00
投稿者名:Ken
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マカバイ記一
『マカバイ記一』

 これまで見てきたように、バイブルの多くの部分が、エルサレム神殿の再建よりもずっと後世に書かれたにも関わらず、いずれも過去の時代の著作とされてきた。詩篇はダビデの、箴言はソロモンの、そしてギリシャ時代を描いた黙示文学はダニエルやゼカリヤの作とされたのだ。神殿の再建が偉大な物語の大団円で、もはや続きはないとされたからである。

 だが、言うまでもなくユダヤの歴史が終わったわけではない。特に、紀元前二〇〇年から紀元後一〇〇年は激動の時代だった。ダビデ時代のようにユダヤ国家が成立し、エレミヤ時代のように巨大な災厄が訪れ、そして第二イザヤ時代のように世界を変えるほどの影響を与えた預言者が出た。それでもユダヤの正典はこの時代を一言も語らない。語っているのは外典、新約聖書、そしてヨセフスのような歴史家の書なのである。

 その外典にはマカバイ記がある。とりわけ第一書は史料的価値が非常に高く、前一七五年から前一三五年までの歴史を語る。作者は不明だが、きわめて合理的な考え方をするユダヤ人であることは確かで、マカバイ記には奇跡譚のたぐいは皆無である。

 マカバイ記はマケドニア帝国に挑んだユダヤ人の物語なので、まずマケドニアの覇権が打ち立てられた経緯から語り起こしている。

 ペルシャ帝国支配化のユダヤ人は、総じて穏やかな日々を過ごしていたと思われる。だが、同じ頃ギリシャでは巨大な歴史が進行した。クセルクセスの侵攻を撃退した後、ギリシャは黄金時代を迎え、ネヘミヤがエルサレムの再建に苦闘していた前五世紀には、アテネは人類史に輝く文化の金字塔を打ち立てた。だが諸都市間の抗争のため、次第にこの文明は斜陽へ向かい、前三五〇年までには衰えはてていた。その彼らを征服する王の名を挙げて、マカバイ記は始まるのである。

マカバイ記一1章1節:マケドニアのフィリポス

 ギリシャ諸都市の北方に位置するマケドニアは、言語も文化もギリシャと密接な関係にあったが、フィリポス二世という優れた君主が前三五九年に王位に就くと、政治と軍制を改革して力を蓄えた。前三三八年、フィリポスはアテネとテーベの連合軍を破ってギリシャ世界の覇者となるが、この戦いを決する働きをしたのがフィリポスの十八歳の息子アレクサンドロスである。だが前三三六年、ギリシャ・マケドニア連合軍を率いてペルシャ遠征の途に上ったフィリポスは、突如謀殺され、二十歳のアレクサンドロスが後を継いだ。

マカバイ記一1章1節:マケドニアのフィリポスの子アレクサンドロスは、キティムより来て、ペルシャとメデスの王ダレイオスを討ち、替わって王位に就いた

 ペルシャに侵攻したアレクサンドロスは、前三三三年イッソスの戦いでペルシャ軍を大破した後、シリアとユダヤを南下して無抵抗のエルサレムも占領した。さらにエジプトまで征服してアレクサンドリア市を建設すると、再び兵を東方へ向け、前三三一年にバビロニアの地でペルシャ軍を再度大破した。翌年ダレイオス三世は殺され、ペルシャ帝国は開祖キュロスから二世紀で滅んだ。アレクサンドロスはそれから七年、インドまで至る東方の地を征服するが、前三二三年、わずか三十三歳で歿した。

マカバイ記一1章7節:アレクサンドロスは十二年君臨して死んだ
マカバイ記一1章8節:彼の部下たちがそれぞれの地で支配者となった
マカバイ記一1章9節:彼の死後、彼らは戴冠し、さらに息子たちが継いだ

 こうしてアレクサンドロスの帝国は将軍たちに分割されたが、アレクサンドリアを首都にしたエジプトのプトレマイオス朝と、アンティオキアを首都にした西アジアのセレウコス朝が、ユダヤ人の運命に深く関わることになる。

 この後マカバイ記の著者は、一世紀半の歴史を省略して問題の人物を登場させる。

マカバイ記一1章10節:ここに邪悪の根源である、アンティオコス王の息子が現れた

 セレウコス朝の王にはセレウコスと並んでアンティオコスという名が多かったが、ここでは前二二三年に即位したアンティオコス三世を指す。退潮が続いていたセレウコス帝国を一気に盛り返し、ユダヤがプトレマイオス朝からセレウコス朝の支配下に移ったのも、この王がエジプト軍を破った結果である。

 だが、第二のアレクサンドロスを夢見たこの王は、生まれるのが遅すぎた。すでに新しい超大国が登場していたからである。

マカバイ記一1章10節:ここに邪悪の根源である、アンティオコス王の息子が現れた、その名をアンティオコス・エピファネスといい、ローマで人質になっていたが、

 伝説上のローマ市建設は前七五三年で、イザヤが預言者としての活動を始める直前の時期にあたる。当初は王国だったが、前五〇九年、エルサレムで第二神殿が完成した頃に、王を追放して共和国となった。ローマはその後の数世紀をかけて力を伸ばし、前二七〇年、ユダヤ人がプトレマイオス二世の治下で穏やかに暮らしていた頃、イタリア全土を統一した。そして、プトレマイオス朝とセレウコス朝が戦っていた前二六四年から前二〇二年にかけて、ローマは北アフリカのカルタゴと激戦を交え、最後は完勝した。版図はスペインまでも伸び、西地中海最強となったその勢力が東へ及ぶのは必然の順序だった。こうなると、アンティオコス三世の脅威に晒されていた群小国のみか、エジプトまでがローマの保護を求めて同盟関係を結んだ。だが野心を持つアンティオコスは、ローマの警告を無視してギリシャのペルガモンを攻め、前一九一年ローマ軍と衝突した。アンティオコスは大敗して逃れ、追撃したローマ軍は初めてアジアに進出した。翌年再び敗れたアンティオコスは屈辱的な講和を結び、やがて暗殺された。ローマで人質になっていた息子のアンティオコス・エピファネスが帰国して即位し、アンティオコス四世となった。マカバイ記一1章10節を最後まで見てみよう。

マカバイ記一1章10節:ここに邪悪の根源である、アンティオコス王の息子が現れた、その名をアンティオコス・エピファネスといい、ローマで人質になっていたが、ギリシャ人の国の百三十七年に王となった

 セレウコス朝の開祖セレウコス一世は前三一二年の戦勝を記念して、この年を彼の帝国の元年と定めたので、その百三十七年すなわち前一七五年に、アンティオコス四世が即位したわけだ。マカバイ記の記述から、この時代のユダヤ人がセレウコス朝の紀元を用いていたことが分かる。

 この時代は、アレクサンドロスの征服でギリシャ文化が東方へ伝わり、多くの民族が強い影響を受けた時代でもある。ユダヤ人も例外ではない。かつて士師や王の時代にはカナン文化に染まり、現代はアメリカ文化に染まっているように、この時代のユダヤ人はギリシャ文化に染まったのだ。そして保守的な人々がそれに激しく反発するのもあらゆる時代に共通する。マカバイ記の著者もその一人だった。

マカバイ記一1章11節:この頃、邪悪な者共はイスラエルを去り、周囲の異教徒と契約を結ぼうと多くの人を語らい、
マカバイ記一1章14節:エルサレムに異教徒の習慣にのって競技場を作り、
マカバイ記一1章15節:割礼も止め

 ところが一方には、ギリシャ文明を至高とし広めようとするセレウコス朝がある。ユダヤの保守派との対立は必然だったといえる。

 エジプトのプトレマイオス六世が、セレウコス朝からユダヤを奪還しようとして戦いが始まった。だがエジプト王はアンティオコスの敵ではなかった。セレウコス軍は大勝してエジプトへ追撃するが、エジプトが崩壊するかに見えたときローマが干渉した。ローマの使節が単身セレウコス軍の陣前に現れて退却を命じ、アンティオコスは従うしかなかった。

 悪いことに、これらの戦役がセレウコス朝の財政を逼迫させ、アンティオコスは各地の宗教施設の財宝を没収して財源に充てようと考えた。そしてエジプトからの帰途エルサレムを通過したとき、当然のように神殿を略奪した。

マカバイ記一1章20節:アンティオコスはエジプトを討った後、百四十三年(前一六九年)に来たり
マカバイ記一1章21節:傲然と聖域に入り、金色の祭壇を持ち去り
マカバイ記一1章23節:銀も金も、貴重な祭具も、隠された財宝も奪った

 おそらくアンティオコスは、ローマから受けた屈辱を晴らすはけ口を求めたのだろう。神殿を略奪したのみか、神殿を穢す行為に出た。神殿にゼウス神の像を建て、しかも像に彼自身の顔を彫らせた。ユダヤ人にとっては、この世で考えうる最悪の冒涜行為である。

マカバイ記一1章54節:百四十五年(前一六七年)に、彼らは祭壇に凶悪の印を置き、

 そしてアンティオコスはユダヤの経典を破棄させ、律法も割礼も禁じ、従わない者を処刑した。ユダヤ教は存亡の危機に直面したといってよい。

 だがこのとき、驚嘆すべき一族が登場した。

マカバイ記一2章1節:その頃、エルサレムで生まれた祭司マタティアは、モディンに在住した

 アンティオコスの軍がエルサレムを占領したとき、マタティアは一族とともに、二十五キロほど離れたモディンへ移っていたのだ。そのマタティアには五人の息子がいた。

マカバイ記一2章2節:カディと呼ばれたヨハネ、
マカバイ記一2章3節:タシと呼ばれたシモン、
マカバイ記一2章4節:マカバイと呼ばれたユダ、
マカバイ記一2章5節:アバランと呼ばれたエレアサル、そしてアフスと呼ばれたヨナタン

 同名の人物を区別するため通称を用いるのは本来ギリシャの習慣だが、この時代にはユダヤ人の間でも広まっていた。三男のユダにつけられたマカバイは「鉄槌を下す者」を意味し、彼はそのとおりのことをセレウコス朝に行うことになる。マタティアの一族は本来ハスモナ家と称したのだが、ユダ・マカバイの名が轟きわたったので、一族がマカバイ家と呼ばれ、彼らが建てたユダヤの国もマカバイ王国と称され、時代はマカバイ時代で、その時代を記述したのがマカバイ記なのである。

 彼らの戦いは、帝国の官吏が王命どおりに祭祀を行うことを求めた時に始まった。マタティアたちは強く反発したが、ここで帝国官吏は、多くのユダヤ人がすでにそれを実行していることを指摘した。

マカバイ記一2章18節:ユダヤの民、そしてエルサレムの人々のように、王命に従うべし

 この指摘はおそらく真実を突いているのだろう。成功した革命は理想化して後世に語られるが、命を懸けて革命のために戦うのは常に少数で、命を懸けて革命と戦う者もいるし、大多数は関わりたくないと思うものだ。アメリカ独立戦争でも英国に忠誠を誓う人は多くいたし、今の公民権運動でも、問題の一つは大多数の黒人の無関心だろう。(※バイブル・ガイドが六十年代の作品であることに注意※)

マカバイ記一2章23節:衆目の中、一人のユダヤ人が、王命に従って祭祀を行うために現れ、

 これを見たマタティアは怒りを発してそのユダヤ人と帝国官吏を殺し、山へ逃れ、反乱の同志を集めた。ところがユダヤの律法を厳格に守る人々が参加したことが、一つの問題を引き起こした。彼らは安息日には自衛の戦いをすることすらも拒否したのだ。その主張たるや、

マカバイ記一2章37節:我らは罪を犯すより死を選ぶ、天も地も、我らを殺すものが誤ったものであることを、照覧せよ

 というもので、その言葉通り彼らは信仰に殉じた。しかしこれでは現実世界では戦えない。マタティアたちは死者を悼みながらも、自分たちのやり方は異なることを宣言した。

マカバイ記一2章41節:安息日に我らを攻める者があれば、我らは戦うだろう

 現実の要請に合わせて律法を柔軟に運用することは、後のイエスの教えにまで影響する。

 マタティアはほどなく世を去り、ユダ・マカバイが後継者となる。当初、反乱を軽く見たセレウコス朝は、サマリア知事のアポロニウスに現地の異邦人(非ユダヤ人)を召集した軍勢を付けて差し向けるが、これが脆くも敗れ、アポロニウスも戦死した。次に政府軍が討伐に向かうが、ユダはベト・ホロンの地で奇襲攻撃をかけ、これを殲滅してしまった。

 帝国が西のユダヤ人に手を焼いている時、東にも強敵が現れた。前一七一年、それまで属国だったパルティアでミトラダテス一世が王位に就き、セレウコス朝への服属をやめてしまった。今や東西に敵を持ったアンティオコス四世は、軍を分けて両面作戦に出るという愚かな選択をした。自分は東のパルティアへ向かい、帝国貴族のリシアスを西へ向かわせたのだ。

 大局を見れば、セレウコス朝はローマの脅威を受ける西よりも、東の中央アジアを目指して勢力を拡張すべきであったろう。だが、彼らのギリシャ人意識はあまりに強く、西を捨てることができなかった。開祖セレウコス一世は、せっかくバビロンに代わるセレウキアという都を作りながら、地中海に近いアンティオキアにもう一つの都を作ったのが、この王朝の意識を象徴している。そして今、アンティオコス四世は、リシアスに自分の王子を付け、国軍の半分を託してユダヤ人討伐に向かわせた。

 だがユダの率いる革命軍はリシアスの討伐軍も打ち破った。そして敵が退いた時、ユダヤ人はエルサレムの神殿を清めることができた。セレウコス朝と妥協しなかった祭司たちを任命し、穢された祭壇を破壊して地に埋め、新しい祭壇と祭具を設置した。前一六四年のことで、これを記念するのが現在まで続くハヌカ祭である。

 ユダ・マカバイは、このまま守勢に入るつもりはなかった。

マカバイ記一5章3節:ユダはイドゥミアのエサウ族と戦い、大いに破った

 ユダは自衛から勢力拡張の戦いに移行したのだ。イドゥミアはエドムのギリシャ語形である。イドゥミア人(エドム人)は、バビロン捕囚の時期に旧ユダ王国の南部へ侵入していたので、ユダヤ側は失地回復のつもりだったかもしれない。だがのちにマカバイ家は、征服したイドゥミア人にユダヤ教への改宗を強制した。宗教的迫害の被害者が加害者に転じるのは、アメリカへ渡った清教徒たちが、自分たちがあれほど求めた信教の自由を、新大陸の他宗派の人々に一切許さなかった歴史を思い起こさせる。

 一方、セレウコス朝はパルティアとの戦いにも成功せず、アンティオコス四世は遠征途上で病歿した。

マカバイ記一6章16節:アンティオコス王は、百四十九年(前一六三年)に死んだ
マカバイ記一6章17節:王の死を聞いたリシアスは、王の子を即位させ、エウパトルと名乗らせた

 わずか九歳の新しい王がアンティオコス五世だが、実権がリシアスにあったのはいうまでもない。セレウコス朝の混乱を見たユダは、翌年、エルサレムにあった帝国軍の駐屯基地まで攻撃するが、事態を重視したリシアスは、これまでにない強力な増援軍を送った。この軍隊には象の部隊が含まれていたのだ。ユダの弟エレアサルはその下敷きになって戦死し、ユダヤ軍は追い詰められた。ところがこの時セレウコス朝廷で内紛が起こり、リシアスはユダヤ人に関わっておられなくなった。そこでユダヤ人の信教の自由を認める代わりに、政治的独立は断念するという妥協案が提示された。配下の多くが宗教的自由にしか関心がないことを知っていたユダ・マカバイは、妥協案を受け入れた。

 アンティオキアへ戻ったリシアスは政敵の排除に成功したが、すぐに次の内紛の種が現れた。アンティオコス五世よりも王位継承順位の高いデメトリオスという従兄が、人質として置かれていたローマを脱出して戻ってきたのだ。続いて起こった内戦はデメトリオスの勝利に終り、リシアスと少年王は殺され、デメトリオス一世が即位した。彼はユダ・マカバイとの戦いに、帝国に忠実なユダヤ人を利用することを考えた。

マカバイ記一7章5節:イスラエルの中の邪悪で不信心な者たちが祭司長の地位を望むアルキモスを頭にデメトリオスの所へ来て、
マカバイ記一7章6節:告発を行った

 これらのユダヤ人の支持を得たデメトリオスは、ニカノルを司令官に任じてマカバイ討伐の大軍を送った。

 しかしユダ・マカバイは、その名のとおり鉄槌を下す者であった。両軍はエルサレム北西のベト・ホロンで決戦し、ユダは彼の経歴を通じて最大の勝利を得た。ニカノルは討ち死にし、セレウコス朝はまたも敗戦の中に撤退を余儀なくされた。

投稿時間:2015/07/26(Sun) 22:01
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マカバイ記一 (続き)
 ユダは自分たちの立場をさらに強めるため、西方のローマを利用することを考えた。

マカバイ記一8章1節:ユダはローマ人の名声を聞いていた

 ギリシャ人の間でローマの名が初めて恐怖を呼び起こしたのは、マケドニアの名将ピュロスがローマと戦って惨敗したときである。だが、ローマがカルタゴ相手の、互いの存亡をかけた死闘を始めたので、マケドニア人の諸国は安心して内部抗争を繰り返していた。だが彼らが期待したローマの崩壊は起こらず、カルタゴを滅ぼしたローマは、前二〇〇年には世界の最強国となっていた。わけても、ギリシャと西アジアの双方を苦しめたゴール人を、ローマが簡単に駆逐したことは、東方世界には驚嘆の眼で見られた。マカバイ記の第8章は、ローマがゴール、スペイン、マケドニア本土を次々と征するだけでなく、同盟国となったペルガモンなどを気前よく援助する様を語る。マカバイ記の著者がギリシャを激しく憎みながら、ローマには尊敬に近い気持ちを持っていたことは、はっきりと読み取れる。マカバイ記は、ユダがローマと同盟を結んだというが、真偽は不明で、あるいはユダがセレウコス朝に仕掛けた神経戦かもしれない。いずれにせよ、ローマはマカバイを援助する理由はないと思ったようだ。

マカバイ記一9章1節:ニカノルの大敗を聞いたデメトリオスは、バキデスとアルキモスの指揮で精鋭部隊を送った
マカバイ記一9章3節:百五十二年(前一六〇年)の最初の月で、敵はエルサレムの前で布陣した

 これまで勝ち続けてきたマカバイだが、ここへ来てついに帝国との動員能力の差が顕在化したようだ。大軍を迎え撃つユダの兵は八百人しかなかった。だがユダは退却よりも英雄の最期を選んだ。この戦いでマカバイ軍はほぼ全滅し、ユダ自身も父の旗揚げから七年で戦死した。

 今やマタティアの五人の息子のうち二人が亡くなり、長子ヨハネ、次子シモン、末弟ヨナタンの三人が残ったことになる。指導者にふさわしいと衆目が一致していたのは、ヨナタンであった。

マカバイ記一9章28節:ユダの仲間はこぞってヨナタンに言った
マカバイ記一9章30節:我らの公子、そして隊長として君を選ぶことにした
マカバイ記一9章31節:ヨナタンは受諾し、兄ユダに替わって立った

 だがマカバイ家の苦難は続く。ナバテアのアラブ人の援助を得るために赴いた長子ヨハネは、そこで殺害され、ついにヨナタンとシモンだけが残った。それでも一党はヨルダン川を越えて外ヨルダン地方へ出、そこを基地にユダヤ地方への襲撃を根気よく繰り返したので、ついにセレウコス朝の方が疲労し、帝国の宗主権を認める条件で、ヨナタンがユダヤを統治することを許した。その背景にあったのはセレウコス朝の内紛で、突如アレクサンドロス・バラスという人物が王位継承権を主張して現われ、エジプトやペルガモンのみかローマまでが支持を与えたので、デメトリオスはヨナタンの勢力を利用しようとしたのだ。おかげでヨナタンはエルサレムを手に入れるが、アレクサンドロス・バラスの方では、ヨナタンに祭司長の地位を約束して味方につけようとした。ヨナタンは受諾し、史上初めてユダヤ人以外が任命した祭司長が誕生した。

マカバイ記一10章21節:百六十年の七番目の月に、幕屋の祭りでヨナタンは聖衣をまとい、

 ヨナタンが幕屋の祭りの時期を選んだのは、祭司の家系でない彼が、異教徒の任命で地位に就くことへの反発を抑えるため、古い予言を利用したのだろう。

ゼカリヤ書14章18節:主は、幕屋の祭りを無視した異教徒を討たれるだろう

 デメトリオスも買収の値を吊り上げ、サマリアとガリラヤを含むユダヤの完全独立を条件に出すが、ヨナタンはもうデメトリオスを見限っていた。前一五〇年、デメトリオスとアレクサンドロス・バラスが決戦してアレクサンドロスが大勝した。デメトリオスは戦死し、アレクサンドロスはアンティオキアで即位した。新王はエジプトの王女を妃に迎え、その祝典にはヨナタンも招かれた。ユダヤはヨナタンの下で独立国となったのだ。

 だがセレウコス朝の内戦は終わらない。デメトリオスには同じ名の息子がおり、これがクレタの傭兵を伴って帰国したのである。彼はアンティオキアの王だけでなく、父を裏切ったヨナタンにも激しい攻撃を加えたが、ヨナタンはまるで兄のユダが復活したかのような力を発揮し、デメトリオス軍を打ち破る。

 このセレウコス朝の内戦につけ込んだのが、エジプトのプトレマイオス六世である。娘を嫁がせていたこの王は、アレクサンドロス・バラスの岳父のくせに野心に駆られ、軍を進めて、アレクサンドロスが不在のアンティオキアを占領した。アレクサンドロスは直ちに戻り、前一四五年、両軍が戦い、敗れたアレクサンドロスは敗走先で殺され、プトレマイオス六世も負傷してほどなく死んだ。これで漁夫の利を得たのがデメトリオスの息子で、結局、彼がデメトリオス二世として王になった。

マカバイ記一11章19節:こうしてデメトリオスは百六十七年に王となった

 もっともこの頃になると、内戦続きのセレウコス朝の領土をパルティアが容赦なく蚕食し、かつての巨大帝国もシリア一州を残すのみとなっていた。デメトリオス二世は何よりも軍資金に欠乏しており、軍隊の予算を削ろうとしたが、たちまち軍の支持を失い、軍人たちは王への反抗に出た。ヨナタンはこの機を捉えた。この時期でもまだエルサレムにはセレウコス軍の基地があり、ユダヤの攻撃に抵抗していたのだが、ヨナタンは窮地のデメトリオスに、エルサレムから完全撤退するなら味方になると申し出た。これに飛び付いたデメトリオスは、ユダヤ軍三千の力でアンティオキアの謀叛人たちを鎮圧したが、その後でエルサレム撤退の約束を反故にした。ヨナタンは雪辱の機会を待つことになる。

 その機会はすぐに訪れた。アレクサンドロス・バラスの部下だったトリュフォンは、旧主の遺子アンティオコスを担いで反旗を揚げ、少年をアンティオコス六世として即位させた。すべての実権がトリュフォンの手にあったのはいうまでもない。ヨナタンは直ちにこちらの味方についた。

 そのトリュフォンも野心家で、実は少年王を殺して王位を簒奪することを考えていた。だがヨナタンが反対するかもしれないと怖れた彼は、先手を打つことにした。トリュフォンはヨナタンを招待したのだが、ヨナタンほどの人物が引っかかってしまった。

マカバイ記一12章48節:ヨナタンがプトレマイスに入ると、その地の者たちは城門を閉じて、彼を捕えた

 これでユダヤは混乱に陥ると考えたトリュフォンは侵入軍を進め、その途上でヨナタンも少年王も殺害した。

マカバイ記一13章23節:バスカマの近くまで来た時、彼はヨナタンを殺して埋めた
マカバイ記一13章31節:そしてトリュフォンは、若いアンティオコス王を欺いて殺した
マカバイ記一13章32節:そして自分がアジアの王となった

 これが前一四二年で、ヨナタンはユダヤ軍を十八年間指導したことになる。兄弟でただ一人残ったシモンがユダヤの総帥になった。シモンはヨナタンの遺体を引き取って、かつての旗揚げの地モディンに埋葬した。そしてシモンはデメトリオス二世に盟約を申し出て、今度こそユダヤの独立を承認させた。

マカバイ記一13章41節:かくして百七十年(前一四二年)異教徒のくびきはイスラエルから除かれた
マカバイ記一13章42節:そしてイスラエルの民は文書に、祭司長にしてユダヤ人の指導者シモンの元年と記し始めた

 旗揚げから四半世紀で独立は達成され、新しい年代の数え方が始まったのである。それまではセレウコス朝紀元で数えていたが、その百七十年はマカバイ元年となった。シモンは政治と宗教の指導者を兼ねたが、王を名乗らなかった。自分がダビデの家系でないことを承知していたからだろう。やがてエルサレムに残っていたセレウコス朝の駐屯基地もついに降り、ここにネブカドネザルがエルサレムを破壊してから四百四十五年、ついにユダヤの地が異国の支配から自由になる日がきた。

 一方、デメトリオス二世はトリュフォンの抑えをユダヤに任せ、東方で力をつけようとした。

マカバイ記一14章2節:だが、ペルシャとメディアの王アルサケスは、デメトリオスが侵入したことを聞き、公子たちを派遣した
マカバイ記一14章3節:公子たちはデメトリオスを捉えて、アルサケスの下へ連れてきた

 ここでペルシャとメディアと呼ばれているのがパルティアである。またアルサケス王はアンティオコス四世の時代にセレウコス朝から独立したミトラダテス一世で、三十年以上に及ぶ治世の終盤にあった。アルサケスはパルティアのほとんどすべての王が君主の名として用いたので、この国はアルサケス朝とも呼ばれる。

 捕虜となったデメトリオスにはアンティオコスという弟がいた。彼はユダヤの独立を再度承認して後方の安全を確保し、味方を集めてトリュフォンを攻めた。トリュフォンは敗れて逃れ、アンティオコスは同じ名を持つ七人目の王となった。帝国の復活を目指したアンティオコス七世はシモンとの協力関係を解消し、またしてもユダヤはセレウコス朝の脅威を受けることになる。すでに年老いていたシモンは、ユダ、ヨハネ、マタティアの三人の息子に戦いを任せようとしたが、彼には義理の息子、娘婿のプトレマイオスもいた。権力を求めたプトレマイオスは、シモン、ユダ、マタティアの三人を宴会に招いてすべて殺してしまった。前一三四年のことである。

 こうして五人兄弟がすべて世を去り、最初の旗揚げから三十三年でマカバイ記第一書は終わるが、マカバイ記に記載のないその後の歴史を語っておこう。

 父と二人の兄弟を殺されたヨハネ(ヨハネ・ヒルカノスと呼ばれる)はユダヤの指導者となり、大いに成功した。彼は領土を拡大し、繁栄と栄光の半世紀を実現した。イドゥミア人を力ずくでユダヤ教に改宗させたのも彼である。ヨハネは前一〇四年に世を去り、後を継いだ息子がついに王を称した。最初の神殿が破壊されてから五世紀に近い年月を経てユダヤに王が復活したのである。ただしダビデの家系でなかったのはいうまでもない。

投稿時間:2015/08/16(Sun) 22:47
投稿者名:Ken
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マカバイ記二
『マカバイ記二』

 マカバイ記第二書は第一書の続編ではない。歴史の記述に限っていえば、扱っているのはユダ・マカバイの死までになる。ただし第一書とは異なり、政治、軍事よりも、神殿と祭司の記述が中心である。実はイアソンという人物の著書があり、それを短くまとめたものだと、マカバイ記第二書の著者自身が述べている。

マカバイ記二2章23節:これらはキュレネの人イアソンが五巻の書として著したもので、我らはこれを一巻にまとめる

 キュレネはナイル川の八百キロ西にある北アフリカの町で、当時はプトレマイオス朝の版図だが、アレクサンドリアと同様、多くのユダヤ人が居住していた。イアソンはギリシャ語の名前だが、この頃にはユダヤ人でも本名とよく似たギリシャ名を名乗ることが多かった。イアソンの本名はヨシュアかもしれない。

 実にマカバイ記のあたりからギリシャ・ローマ風の名を持つ登場人物がバイブルに多くなる。マカバイ記のあとは新約聖書の物語に入るが、登場人物の中には、使徒ペトロや使徒パウロのようにまったくギリシャ語やラテン語の名を持つ者があるし、ヘブライ語の名前でもギリシャ・ローマ風に変形した形で現れる。後者の代表はイエスその人と母親のマリアで、本来はヨシュア、ミリアムというヘブライ語の名を持っていたのだが、ギリシャ化してイエス、ラテン化してマリアという名で福音書に登場する。史実の彼らも、おそらくはヘブライ風とギリシャ・ローマ風の両方の呼ばれ方をしたのではないか。もちろん、この人たちがユダヤ人であった事実は動かない。

※現代でも、世界中からアメリカへやってくる多くの人が英語の名前を用いる。例えば日本人でも、トミオはトム、ミチオはミッチ、ハナエはハンナ、アミはエイミーといった具合に変え、名刺にまでそちらが表記されている。もちろん、ケンやナオミなどはそのまま英語の名前になるし、ノブオやサチコのように、どの英語名とも結びつかない場合でも、ローマ字表記の最初の二文字だけ利用して、ノーマンやサリーと名乗る人がいる。このことは、アメリカ社会で成功する上で、日本で想像されるよりも、はるかに重要なのだ。そういえば、阿倍仲麻呂は、唐の朝廷では晁衡と名乗っていたという。古今東西事情は同じということだろう。※

 マカバイ記第二書は、エジプトのユダヤ人に、ハヌカの祭を必ず行うように求める二通の書簡についての記述が冒頭にくる。マカバイ記第一書が語るように、これはセレウコス朝に穢された神殿を清めたことを記念する新しい祭だから、エジプトの住人にはその意義が理解されにくかったのだろう。

マカバイ記二1章7節:デメトリオスの治世、百六十九年(前一四三年)の大いなる困難の中で、我らユダヤの民は諸君らに書簡を送った
マカバイ記二1章10節:百八十八年(前一二四年)、エルサレムの民はプトレマイオス王の師アリストブロスに挨拶を送った

 一通目はヨナタンがトリュフォンに殺された頃、二通目はヨハネ・ヒルカノスがエルサレムを治めていた頃になる。二通目はエジプト王の師アリストブロス宛という。師かどうかはともかく、エジプト王に雇われたユダヤ人の学者だったのだろう。書簡は、バビロン捕囚の時も途絶えなかったユダヤの儀式を守ることを訴えている。その中で、破壊された神殿から祭壇の火を祭司たちが水の枯れた水槽に移したところ、その火は消えることがなく、一世紀半後にネヘミヤが火を祭壇に復活させたという話を紹介している。

マカバイ記二1章20節:ネヘミヤは、火を隠した祭司たちの子孫を遣わした。彼らは火の代わりに粘り気のある水を発見した。
マカバイ記二1章36節:ネヘミヤはそれをナフタルと名付け、

 このナフタルは現代語ではナフサになっている。もちろん石油のことで、埋蔵量の豊富な西アジアでは自然に湧き出ることがあり、点火すれば「永遠の炎」を生ずる。

 また、このような一節がある。

マカバイ記二2章21節:ユダヤ教の信仰のために雄々しくふるまった人々

 「ユダヤ教」という言葉は、実はこれが初登場である。

 物語自体は、アンティオコス四世がユダヤ人を迫害する前の、平和だったエルサレムから始まる。

マカバイ記二3章1節:よき祭司長オニアスのおかげで、聖都は平和で、法はよく行われ、

 祭司長オニアスは、オニアス三世で、前一九六年にその地位に就いた、ソロモンが最初の神殿を建てたときのツァドクから連綿と世襲してきた祭司の最後の一人である。その家系は捕囚の間も続き、第二神殿もこの一族が司った。もっとも聖都エルサレムが平和だったというのは、その後に起こるアンティオコス四世の迫害を際立たせるための誇張だろう。その頃の王は、ユダヤ教を援助したなどという記述まである。

マカバイ記二3章3節:アジアの王セレウコスは、自らの収入で、祭祀の費用を負担した

 このセレウコス王は前一八七年に即位したセレウコス四世だが、当時のセレウコス朝はローマに敗れた後、賠償金の支払いで破産寸前の状態にあり、先代のアンティオコス三世は、あらゆる神殿に重税を課したことへの反発で殺されたくらいである。その息子がユダヤの神殿にだけ、搾取の代わりに援助を行うなど考えられない。

 ともあれ、神殿の運命が暗転するのは、内紛が原因だった。

マカバイ記二3章4節:神殿の行政長シモンは、祭司長と意見が対立し、

 実は、バビロン捕囚から戻った後、祭司長は祭祀を行うだけでなく、神殿の事務行政も指導していた。ところが、ユダヤがプトレマイオス朝の支配下にあった頃、祭司長オニアス二世が神殿に課された税の支払いを拒んで政府と対立し、甥のヨセフが急遽エジプトへ赴いて、プトレマイオス三世をどうにかなだめた。この時から、神殿の指導は二本立てとなり、祭祀はオニアスが、行政はヨセフが担当することになった。オニアス三世は二世の孫、シモンはヨセフの子である。二人の間に対立が生じたとき、シモンはセレウコス朝の地方総督に、神殿に隠し財宝があると告げたので、金に困っていた朝廷はヘリオドルスという人物を調査のために派遣した。ヘリオドルスの調査は奇跡的な現象のせいで失敗したと書かれているが、実情はオニアスが金品を贈って買収し、野心家のヘリオドルスも、いつか神殿の財力を自分のために利用することを考え、両者で談合したのだろう。前一七五年、ヘリオドルスは簒奪を狙って王を暗殺するが、ローマから戻ったアンティオコスのために失敗し、アンティオコスは即位してアンティオコス四世となった。彼と祭司長オニアスの間には、初めから対立の原因があったといえる。

 アンティオコスがオニアスの排除を望んだとすれば、うってつけの協力者が相手の一族に登場した。オニアスにはヨシュアという弟があり、これがイアソンというギリシャ名を名乗るほどギリシャ文化を好んだ人物だった。このイアソンが王に取り引きを申し出た。

マカバイ記二4章7節:アンティオコスが王位に就いたとき、オニアスの弟イアソンは、祭司長の座を狙って、秘密に動いた
マカバイ記二4章8節:王に、三百六十タレントの銀、他に八十タレントの報酬
マカバイ記二4章9節:この他にも百五十を約束して、地位を要求した

 祭司長の地位は名誉だけでなく、神殿の収入を自由に出来るから、これだけの報酬を任命権をもつ王に与えても、十分に元が取れるのだ。一方、何よりも金に困っていたアンティオコスは、イアソンとの取り引きに応じて、彼を祭司長に任命した。

 ところが因果応報といおうか、イアソンは彼がやったのと同じ方法でやられてしまった。

マカバイ記二4章23節:イアソンは、王へ金を届けるため、シモンの弟メネラオスを派遣した

 このシモンの弟も本名はオニアスだったが、ギリシャ名のメネラオスを名乗っていたのはイアソンと同じだった。彼はイアソンが約束した報酬に三百タレントを上乗せして、祭司長の地位を求めた。アンティオコスに拒む理由はない。メネラオスが祭司長になり、イアソンは逃亡するしかなかった。

 一方、多くの信心深いユダヤ人にとっては、アンティオキアで拘留されているオニアス三世こそが正統の祭司長だった。メネラオスはセレウコス朝の司令官と相談して(間違いなく買収したであろう)、オニアス暗殺に成功した。この後アンティオコス四世はエジプトへ進撃し、ローマの命令で退却したのは、マカバイ記第一書に記すとおりである。そしてエルサレムを襲い、神殿を略奪し、多くのユダヤ人を殺した。メネラオスは王に全面協力した。

 マカバイ記第二書は、神殿がゼウスの神殿に変えられたとき、多くのユダヤ人が抵抗して殺された話を伝えるが、これは第一書には記載がない。一般に第一書の方が信頼性が高いと考えられるので、あるいは殉教の話は創作かもしれない。とはいえ、ナチスの歴史が示すように、虐殺の話は真実であることもしばしばある。真偽いずれにせよ、マカバイ記第二書が語るのは、ユダヤ・キリスト教史における最初の殉教物語といってよい。内容は詳細で凄惨である。

 物語はこの後、ユダ・マカバイの指導でユダヤ人が叛旗を掲げるのだが、第一書と比べて史実性は明らかに低い。悪人どもが罰を受ける話が詳しく語られるが、ほとんど信用できない。例えばアンティオコス四世は病に苦しんで死ぬが、罪を悔いてユダヤ教に改宗しようとしたなどと言っている。

投稿時間:2015/10/11(Sun) 20:45
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マタイによる福音書
『マタイによる福音書』

 神はアブラハムの子孫が約束の地で栄えるといい、モーセにはシナイ山で十戒を授けた。しかしそのイスラエル人は神との約束に背き続け、亡国という罰を受けた。絶望的なまでに転落した民族を救うのは救世主の出現しかないという発想が現れ、エレミヤなどもそれを語っている。

エレミヤ書31章31節:見よ、その日は来る、と主は言われる。イスラエル及びユダと新しい約束をする、と

 イエスこそがその救世主(キリスト)であり、彼を介して神と人は新たな約束を交したと考えるのがキリスト教で、イエス以降の話を新約と呼ぶ。もちろんユダヤ人にとっては、旧約が聖書のすべてである。旧約聖書はヘブライ語、一部はアラム語で書かれ、プトレマイオス朝でギリシャ語に訳されたが、新約聖書はすべて初めからギリシャ語で書かれている。先頭にくるのがイエスの事績を語る福音書で、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つが伝わる。マタイの書いた福音書が一番古いと信じられたので先頭に置かれているが、今では、最も古いのはマルコと考えられている。すくなくとも現在の我々が見る福音書は、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの順で完成したと思われるが、ここではバイブルの順序に従い、マタイから紹介してゆくことにする。著者マタイが何者かは分からない。書かれたのが紀元七〇年のエルサレム反乱直後なら、安全のために偽名を用いた可能性もある。

 救世主はマカバイ家の英雄たちという考えが出てもよかったが、彼らはダビデの家系ではない。なによりも、マカバイ王国も倒れ、ユダヤはローマの支配下にあった。よって真の救世主はこれから出現するはずなのである。そして、救世主とは王であり、ダビデの家系より生じるとするユダヤの強い伝統が存在した。イエスが救世主なら、彼はダビデの子孫でなければならず、マタイは冒頭で、事実もそのとおりだと述べている。

マタイによる福音書1章1節:アブラハムの子孫のダビデの子孫、イエス・キリスト

 そして、初めて神と約束を交わしたアブラハムからイエスまでの系譜を、マタイは記する。

マタイによる福音書1章17節:アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロン捕囚まで十四代、バビロン捕囚からキリストまで十四代

 つまりユダヤ人が神に選ばれてから王国を作るまで、その王国が滅ぶまで、そして救世主が現れるまで、それぞれが十四世代だという。なぜマタイがそんな数字に拘ったのかは不明だが、結果として彼は数を揃えるために事実を曲げている。

 マタイが記す最初の十四代は、1.アブラハム、2.イサク、3.ヤコブ、4.ユダ、5.ペレズ、6.ヘズロン、7.ラム、8.アミナダブ、9.ナアション、10.サルモン、11.ボアズ、12.オベド、13.エッサイ、14.ダビデ。ペレズまでは創世記、残りはルツ記に記載がある。ペレズの母がタマル、ボアズの母がラハブ、オベドの母がルツと、三人の女性の名も記されている。タマルとルツは旧約聖書に書かれているが、ボアズを産んだラハブの名は出典がない。ただラハブはヨシュアの偵察隊を匿ったエリコ人の名で、ヒロインの名に採用されたのかもしれない。

 次の十四代は、1.ソロモン、2.レハブアム、3.アビヤム、4.アサ、5.ヨシャファト、6.ヨラム、7.アザリヤ、8.ヨタム、9.アハズ、10.ヒゼキヤ、11.マナセ、12.アモン、13.ヨシヤ、14.エホヤキンだが、ヨラムとアザリヤの間にはアタルヤ王妃の摂政時代を経て、アハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの三代があったし、ヨシヤはエホヤキンの祖父で、二人の間にはエホヤキムがいたはずである。

 そして最後の一組だが、1.シェアルティエル、2.ゼルバベル、3.オバディヤ、4.エリアキム、5.アゾル、6.サドク、7.アキム、8.エリウド、9.エレアサル、10.マタン、11.ヤコブ、12.ヨセフ、13.イエスで、この中では最初の二人だけが歴代誌に載っており、残りの系譜は現存するどの記録にも見つからない。だが、これではイエスは十三代目になる。マタイが数え間違えたはずはないので、どこかで書写のミスがあったのだろう。

 ヨセフとイエスの関係は、記述に気を使っているのが分かる。

マタイによる福音書1章16節:ヤコブはヨセフの父、ヨセフはマリアの夫、マリアはキリストと呼ばれるイエスの母、

 それまでは一貫して、AはBの父という書き方だったのが、ここだけはヨセフがイエスの父とは書かない。それはこの直後の記述と矛盾を生じないためである。

マタイによる福音書1章18節:マリアはヨセフと結婚したが、二人が結ばれるより前に、彼女は聖霊の子を身籠った

 また、マリアの妊娠にショックを受けたヨセフに、天使が現れて説明したともいう。

マタイによる福音書1章20節:主の天使が彼の夢に現れて告げた、ダビデの子孫のヨセフよ、安んじてマリアを妻とせよ、彼女を身籠らせたのは聖霊なのだから

 だがこうなると生じる疑問がある。一方ではイエスがダビデの子孫であると強調しながら、他方でヨセフとの父子関係を否定するのは矛盾ではないのか。実際のところそのとおりなのだが、おそらく福音書が書かれた時代は、ユダヤの伝統と、当時のユダヤ人に浸透したギリシャとローマの伝統の双方の影響が強く、それがイエスの正体に関する二つの説となり、マタイはどちらか一方だけを選べなかったのだろう。ユダヤの伝統では救世主はダビデの家系に生まれなければならない。一方で、ギリシャ・ローマ神話には、神が人間の子の父親になる話が多くあり、とりわけ英雄の出自がそうして説明される。例えば、ローマを建国したロムルスとレムスは、ヴェスタの処女シルビアが産んだマールス神の子とされている。実は、四人の福音書著者の中では、マタイが最もユダヤ人意識が強いのだが、意外にもそのマタイがイエスの処女生誕を、誰よりも明確に語っているのだ。

 イエスが生まれた時期は、王の名を挙げて語られる。

マタイによる福音書2章1節:イエスはヘロデ王の治世に生まれた

 すでにマカバイ王朝は倒れていた。マカバイ記第一書は、前一三五年にシモンが暗殺されたところで終わるが、後継者のヨハネ・ヒルカノスは、北のサマリアとガリラヤ、南のイドゥミアへの支配を強化し、とりわけガリラヤとイドゥミアは正統のユダヤ教を受け入れた。(力ずくで強制されたろう。)ただし、ユダヤ人の側が彼らを対等な同胞として受け入れたかは、別の問題である。

 ヨハネ・ヒルカノスは前一〇四年に歿し、後を継いだアリストブロスがついに王を称した。次のアレクサンドロス・ヤンナイオス王の時がマカバイ王国の絶頂期で、あたかも六世紀半前のヤロブアム二世の時代に戻ったかのようだった。だが、かつての絶頂期は実はアッシリアに屈する直前の時代だったが、今回の絶頂期もローマに屈する直前の時代だったのである。やがて王と祭司長の座をめぐってマカバイ家の内紛が生じた。この頃、ポンペイウス将軍のローマ軍がアンティオキアを占領してセレウコス朝を終わらせ、前六三年にはエルサレムも陥落させた。ポンペイウスは、マカバイ家のヨハネ・ヒルカノス二世が祭司長となることを許したが、王位はイドゥミア人のアンティパトロスに与えた。その後ローマで内戦が起こると、好機と見た東のパルティアが攻勢に出た。この時、マカバイ家はパルティアを解放者として迎え、一方、アンティパトロスの後継者ヘロデはローマへの忠誠を崩さなかった。結局、戦いはローマが勝ち、ローマの援助でユダヤの王位に就いたヘロデは、自分の妻になっていたマリアムネも含めて、マカバイ家の人間を殺し尽くした。

 そのヘロデ王の治世にイエスは生まれたというが、この王の歿年は紀元前四年である。だから福音書の記述が正しいなら、イエスが生まれた年が紀元元年というのはおかしいのだ。これは、中世の歴史研究者たちが犯した誤りが、現在でも影響しているのである。

 イエスの誕生には奇跡が伴ったという。

マタイによる福音書2章1節:イエスはヘロデ王の治世にユダヤのベツレヘムに生まれた。このとき東方から賢者達がエルサレムへ来た

 福音書が述べる賢者の話は、彼らがやがて幼いイエスを訪れ、贈り物を残して去ったというだけだが、後世この話は大いに脚色され、彼らは三人いて、すべて王であり、メルキオル、ガスペル、バルタサルという名まで与えられた。

 エルサレムへ着いた賢者たちは尋ねた。

マタイによる福音書2章2節:ユダヤの王はいずこにおられるのか?

 つまり彼らは救世主を探していたことになる。マカバイ王国の盛時でも、救世主への待望はなくならなかった。マカバイ朝は全人類を支配したわけではないし、何よりもダビデの家系ではなかった。そのマカバイ朝も滅び、今やヘロデとその背後にいるローマの圧制は、ユダヤにのしかかる。救世主への待望はいよいよ強く、それはユダヤ本土だけでなく、各地に居住するユダヤ人の間に共有されていた。東方から来た賢者とは、そのような人々だったにちがいない。そして、ほかでもないこの時に彼らを駆り立てたのは、天文現象だという。

マタイによる福音書2章2節:ユダヤの王はいずこにおられるのか? 我らは東の空にその人の星を見つけて、その人を拝するために来たのだ

 それまでなかった星が出現したのなら、まず考えられるのは超新星である。だが、もしこの時超新星が現れたのなら、世界の各地で報告があったはずだが、その記録はない。次に、天文計算によると、前七年に木星と土星が非常に接近しており、古代人には重要な意味があると思えたかもしれない。同じく、前一一年にハレー彗星が太陽系の内軌道に入ったことも分かっている。イエスの死後、弟子たちが、彼が生れた頃に観測された天文事象の記録を集め、イエスの誕生と関連付けたのではなかろうか。

マタイによる福音書2章3節:それを聞いたヘロデ王とエルサレムの人士は怖れた

 どんな王でも、他に王が現れたと聞けば怖れるに違いない。だがヘロデの恐怖が保身のみから来たともいいきれない。もしダビデの再来のような救世主が現れたとユダヤの民族主義者が信じれば、ローマ相手の自殺行為のような反乱に立ち上がり、国を滅ぼしてしまうかもしれない。なにしろこの時から七十年ほど後に、そのとおりのことが起こり、第二神殿も破壊され、民族は過酷すぎる離散に追い込まれるのである。古い予言(ミカ書)が、ダビデの故郷ベツレヘムにそんな救世主が現れると語っていると聞いたヘロデは、賢者たちにベツレヘムへ赴いてその子のことを調べるように言った。

マタイによる福音書2章9節:彼らが東方で見たその星が彼らを導き、幼子の真上に止まった

 この星は「ベツレヘムの星」と呼ばれることになる。

※星の正体が超新星、惑星の接近、ハレー彗星のなにであれ、地球が自転する限り、その星は刻々と移動するから、地上の特定の場所に誰を導くことも不可能である。※

 賢者たちはイエスを訪れたが、ヘロデ王の害意を見抜いていたので、王へ報告せずに帰国した。誰が救世主か分からないヘロデは、ベツレヘムの幼児をすべて殺せと命じた。

マタイによる福音書2章16節:ヘロデは二歳以下のベツレヘムの子供をすべて殺させた

 さすがにこんなことがあったはずがない。何よりもマタイ以外のどの福音書にも、バイブル以外の記録にも書かれていない。はるかに些細なヘロデの悪行が詳細に記録されているのにである。これは出エジプト記にあるモーセ生誕時の話を、イエスを題材に再現させたのだろう。夢のお告げで危険を知らされたヨセフが一家を連れてエジプトに逃れたという話も、マタイの福音書だけが語る。

マタイによる福音書2章15節:そしてヘロデの死までその地に留った。

 マタイという著者は、あらゆる機会を捉えて旧約聖書を引用し、同じことが再現されたと記述することを好んだ。ヘロデが子供たちを殺すのも、一家がエジプトへ逃れるのも、出エジプト記と同じことが起こったことにするための創作と考えられる。ヘロデの死後ヨセフの前に天使が現れて帰郷せよと告げるが、これも、ミディアへ逃れたモーセがファラオの死後エジプトへ戻れと神に命じられるのと同じである。

 だがここでマタイにとっての問題が生じた。イエスが伝道者として活動したどの記録でも、彼はガリラヤ人として伝わっているのだ。ベツレヘムで生まれた彼が、成人後にはガリラヤ人になっていたことを説明せねばならない。そこでヨセフの一家はエジプトからベツレヘムには戻らなかったことにした。

マタイによる福音書2章22節:アルケラオスがユダヤの王となったと聞いたヨセフは戻ることを恐れたが、夢で神の話をきき、ガリラヤへ移った
マタイによる福音書2章23節:そしてナザレの町に居をさだめた。その方はナザレの人と呼ばれるという予言が実現したのである

 だが救世主がナザレの人という予言などどこにもない。あらゆる機会に旧約聖書を引くマタイだが、ここでは明らかに誤りを犯している。

 イエスの誕生を語った後、マタイはイエスの成人時代へ移るが、まず、この時期に現れたもう一人の重要な預言者について語っている。

マタイによる福音書3章1節:その頃、洗礼者ヨハネがユダヤの荒れ地で説教していた
マタイによる福音書3章2節:罪を悔いよ、天の王国はそこまできている、と

 新約聖書にはヨハネという名の重要人物が数名登場するが、洗礼者ヨハネが最初である。ヨハネは彼のもとへくる人々を、洗礼と称してヨルダン川の水をかける行為を行った。これはユダヤ人の間で広く行われた儀式ではないが、それまでの割礼に代わる入信の儀式として、キリスト教の中で確立してゆく起原となった。そしてヨハネの洗礼を受けに訪れた人々の中に、ナザレの住人イエスもいたのである。さらには、好奇心に駆られたか、当時の宗教的権威だった人々まできた。

マタイによる福音書3章7節:多くのファリサイ派とサドカイ派の者たちも洗礼を受けにきた

 この両派はセレウコス朝からマカバイ朝にいたる情勢の産物といえる。サドカイ派はギリシャ文化を熱心に受容し、ユダヤの伝統をむしろ敬遠する人々で、上流階級に多く、大変な矛盾なのだが高位の祭司たちもその階級に属した。サドカイという名称もソロモンの神殿で仕えた初代の祭司長ツァドクに由来する。彼らは明文化された律法こそ受け入れたが、天使、聖霊、悪魔、天国と地獄といった、バビロン捕囚以後にユダヤ教に入った一切の伝統を否定した。セレウコス朝に最も協力したのも彼らである。

 一方でギリシャ文化を激しく拒絶し、ユダヤの伝統を何よりも大切にする人々がいる。マカバイ家の反乱を熱心に支持した人々で、その中の最大勢力がファリサイ派である。ファリサイ派はモーセの律法を柔軟に解釈する傾向を持ち、その教義は新約聖書のそれに近い。ただ彼らは複雑な伝統を細部まで重んじるあまり、それについて来られない一般民衆と乖離してしまう一面があった。

 一般民衆はといえば、分かり易く、心の内を救ってくれる教えを望んでいた。それに応えたのが洗礼者ヨハネやイエスで、イエスの教えなどは、ファリサイ派の教義から煩瑣な儀式を除いて、倫理面を取り出したとすらいえる。マカバイ家の時代になるとファリサイ派が力を持ったのは当然だが、やがてマカバイ家自体が貴族化すなわちギリシャ化すると、サドカイ派が盛り返し、神殿も管理するようになった。

 洗礼者ヨハネはやってきた両派のどちらも倫理に欠け、自分たちがユダヤ人というだけで救われるなどと思うなと言い渡した。

マタイによる福音書3章9節:自分たちがアブラハムの子孫などと思わぬことだ。神の力をもってすれば、石でもアブラハムの子になれるのだから

 福音書が語るイエスの物語のうち、どれが事実でどれが虚構なのか、もう少し考察してみよう。マタイが語るイエス生誕の話は、イエスがベツレヘムの地でダビデの家系に生まれたことにするのと、モーセの話に対比させるという二つの目的が明らかなので、フィクションと思われる。すると史実のイエスは、成人したガリラヤ人の彼が洗礼者ヨハネのことを聞き、彼もまた洗礼を受けるためにユダヤ本土へやってきたところから始まるのか。最初に書かれたマルコの福音書はまさにそこから始まる。マルコにとっては、聖霊がイエスに宿った、つまりイエスが救世主(キリスト)となったのは、ヨハネの洗礼を受けた時で、それまではただの人だった。一方マタイにとっては、イエスが母の胎内に宿ったときから彼は神の子だったので、そのことを初対面のヨハネが認識し、洗礼を受けに来たイエスに向かって、重要な発言をしている。

マタイによる福音書3章14節:ヨハネは拒んで言った、私の方が君から洗礼を受けねばならないのに、私のところへ来られるのか?

 しかしこの部分は後から加筆されたのだろう。イエスが救世主だと、この時点でヨハネが確信したわけではないことは、マタイの福音書を読み進めば明らかになる。

 ともあれ、ここでイエスは伝道者としての使命を自覚したのだが、マタイはこの時イエスの身に起こった奇跡を語る。

マタイによる福音書3章16節:洗礼を受けたイエスが真っ直ぐに水から上がると、見よ、天が頭上で開き、彼は神の霊が鳩のように降りるのを見た
マタイによる福音書3章17節:天の声が聞こえた、これは私を喜ばせる、我が愛する息子である

 伝道者の自覚を得たイエスは、しばし一人になってこれからのことを考えた。マルコは、このときサタンが現れて妨害を図ったと語るが、マタイはいかにも彼らしく、これを旧約聖書の引用合戦として描いた。例えば、飢えを逃れるために石をパンに変えるよう神に求めればよいというサタンに、

マタイによる福音書4章4節:イエスは答えた、人はパンだけで生きるのではなく、神が発する一つ一つの言葉によって生きると、そう書かれている。

 これは申命記の言葉をそのまま引用したものである。

申命記8章3節:人はパンだけで生きるのではなく、主の口より発せられる一つ一つの言葉によって生きる

 また、

マタイによる福音書4章6節:サタンは言った、君が神の子なら身投げをしてみたまえ、神は天使を遣わして、岩に叩きつけられぬよう、君を救い上げると書かれているではないか

 ここは詩篇の91篇11節と12節をサタンが引用したのだが、イエスは申命記を引いて答えた。

マタイによる福音書4章7節:イエスは言った、主なる神を誘ってはならぬと書かれている
申命記6章16節:主なる神を誘ってはならぬ

 ついにサタンは世界をやるとまで言った。

マタイによる福音書4章9節:君が跪いて私を拝するなら、世界をすべて君のものにしてやろう

 イエスは申命記を引いて答えた。

マタイによる福音書4章10節:サタンよ、主なる神を崇め、神にのみ仕えよと書かれておろう
申命記6章13節:神を畏れ、神に仕えよ
申命記6章14節:他の神々を求めるな

 イエスのこれらの言葉は、イスラエルの敵を滅ぼし世界を服従させるのではなく、平和を実現するのが真の救世主だという、史実のイエスの思想の根本を語っている。

 一方、洗礼者ヨハネは逮捕されていた。

マタイによる福音書14章3節:ヘロデは、兄フィリポスの妻ヘロディアスのために、ヨハネを縛し牢へ入れた。
マタイによる福音書14章4節:なぜなら、彼女を娶ることは許されないとヨハネが言ったから

 イエスの誕生時に王だったヘロデ大王以来、ヘロデは王家の家名のようになり、どの王もヘロデを名乗っていた。ヘロデ大王の死後、三人の息子が王国を分割相続したが、ヘロデ・アルケラオスは既に亡くなっていた。ガリラヤとペレアを治めたヘロデ・アンティパスは、大王の六番目の妃でサマリア人のマルサスが産んだ子で、イドゥミア人の父とサマリア人の母を持つだけでもユダヤの民族主義者の目には汚らわしい存在だったが、その統治は概して穏やかだった。もう一人の子がヘロデ・フィリポスでイトゥレア地方を治めていた。ところがヘロデ大王にはフィリポスという息子がもう一人いた。さらに大王とマカバイ家出身のマリアムネ妃の間に生まれたアリストブロスにヘロディアスという娘がおり、王でない方のフィリポスに嫁していた。ところがヘロデ・アンティパス王は、ヘロディアスを離縁させて自分の妻にした。ヘロディアスは一人の叔父に嫁いだ後、離婚して、別の叔父に嫁いだことになる。治まらないのは、このせいでヘロデ・アンティパスに離縁された妃の父、ナバテアの王アレタスで、ヘロデ・アンティパスに宣戦するが、ローマが勝手な戦を許さなかったので、引き下がるしかなかった。

 だが洗礼者ヨハネはこの婚姻を激しく非難した。夫婦が叔父と姪だからではなく、義理の仲とはいえ兄妹だったからだ。一方、ヘロデ・アンティパスはヨハネの背後にアレタスがいると思い、洗礼者を投獄した。ただ、ヨハネに多くの支持者がいることを知っていた王は、処刑までするつもりはなかった。

投稿時間:2015/10/11(Sun) 20:47
投稿者名:Ken
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マタイによる福音書 (続き)
 ヨハネの逮捕を知ったイエスは、彼自身が伝道を行うため、ガリラヤへ戻って行ったが、故郷のナザレにはわずかしかいなかったらしい。

マタイによる福音書4章12節:イエスはガリラヤへ行った
マタイによる福音書4章13節:そしてナザレを離れて、

 その理由を窺わせる記述がある。

マタイによる福音書13章54節:イエスは故郷へ戻り、シナゴーグで教えを説き、人々を驚かせた。いつこの男がこんな智恵を得たのか
マタイによる福音書13章55節:これは大工の息子ではないか? 母親はマリアといわないか?

 同じ場面を、マルコとルカの福音書は、このように語る。

マルコによる福音書6章3節:この男は大工で、マリアの息子ではないか
ルカによる福音書4章22節:これはヨセフの息子ではないか

 つまり、マルコが語る史実のイエスはナザレの町の大工で、ファリサイ派のような知識人からみれば、教えを請う側の人間であるはずなのに、それが教える側として現れたことで、彼らを怒らせたらしい。だがマタイやルカが福音書を書いた時期には、信徒たちの間でイエスは神格化されており、彼が大工という労働者階級の人間だったことを隠そうとした。マタイは大工は彼の父だというし、ルカは大工という言葉自体を削除している。イエス自身も、人々の反発の原因を理解していた。

マタイによる福音書13章57節:イエスは彼らに言った、預言者への尊敬は、故郷の外、生家の外で得られる

 だからこそ、イエスはナザレをすぐに去ったのだろう。同じガリラヤのカペナウムの町へ移ったが、近くにガリラヤ湖があるその地は、イエスにとってナザレよりも明らかに活動しやすく、最初の弟子もそこで得た。

マタイによる福音書4章18節:ガリラヤ湖の畔を歩くイエスは、ペトロと呼ばれたシモン、そしてアンデレの二人の兄弟の漁師が網をうつのを見た
マタイによる福音書4章19節:そして二人に言った、ついてきなさい、君たちを人を獲る漁師となそう
マタイによる福音書4章20節:すると二人は網を捨て、イエスに従った

 シモンはギリシャ語で、ユダヤ名としてはシメオンが正しいが、多くのユダヤ人が名前をギリシャ化したり、初めからギリシャ語の名を付けた時代だった。また当時は現在のような姓がなく、同名の個人を区別するのに通称をよく用いた。シモンはおそらく肉体か精神が強かったので、ギリシャ語で岩を意味するペトロを通称にしたのだ。マタイの記述だと、二人の兄弟は声をかけられただけでイエスに従ったかのようだが、実際にはその説教を聞いて弟子になったのだろう。同じくカペナウムで弟子に加わったもう一組の兄弟がいた。

マタイによる福音書4章21節:さらに二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、父の舟で網を繕っているのを見て、声をかけた
マタイによる福音書4章22節:すると二人は直ちに舟と父を離れ、イエスに従った

 当時のユダヤでは人々を引き付ける説教者がスターだった。ギリシャの哲学者、ローマの剣闘士、現代ニューヨークの演劇のように、その噂は早く広く伝わった。ひとたび聖者の評判を得ると、奇跡の力で病を治す話が伝わるのも古今に同じである。後世の英国王には聖者どころかその反対の人物も多かったが、王が触れると病が治るという信仰は十八世紀まで続いた。病人自身がそれを信じていると、心理効果から本当に病がよくなるか、良くなったような気がすることはある。だからイエスが多くの病を治した話を科学的に考察することに意味があるとは思えない。ともあれイエスの名声は広く伝わった。

マタイによる福音書4章24節:彼の名声はシリアの隅々まで伝わり
マタイによる福音書4章25節:従う者は、ガリラヤ、デカポリス、エルサレムから、非常に多く出た

 デカポリスはギリシャ語で「十の町」を意味し、アレクサンダーの征服やセレウコス朝の統治が遺したギリシャ人の植民都市群を指す。これはギリシャ人さらには異邦人(非ユダヤ人)一般までもがイエスの教えに影響を受けたことを意味する。ユダヤ人がギリシャ文化の影響を強く受けたように、異邦人にもユダヤ教に惹かれる人々がいたのだ。このことが後にキリスト教の歴史で決定的な影響をもつことになる。

 ここでマタイは有名な「山の上の説教」を語る。おそらくはイエスの多くの発言を一つの説教のようにまとめたものと思われるが、やはりイエスのどの教えも旧約聖書と関連させているのは、マタイならではである。例えば、あまりにも有名な一節、

マタイによる福音書5章5節:幸いなるは柔らかな者、地を所有するのだから

 は、詩篇からの引用である。

詩篇37篇11節:しかし柔らかな者が地を所有する

 当初、イエスの言葉はすべて口伝として広まったので、語る人によって表現も解釈も異なるのは避けられず、そこから発生した最大の対立は、結局イエスの教えはユダヤ教を継承したのか、それとも異なるものなのかという点だった。それによってモーセの律法への対応なども変わってくる。そしてマタイは、イエスはユダヤ教の継承者であるという信念を、誰よりも強く持っていた。だからこそ、山の上の説教でイエスにそのことを明言させている。

マタイによる福音書5章17節:私を律法や預言の破壊者と思ってはならない、私は破壊ではなく、これを完成するために来たのだ
マタイによる福音書5章18節:はっきりと言おう、天と地が滅ぶまで、律法の一字一句も消えることはなく、ただ完成に向かうのみ
マタイによる福音書5章19節:何者であれ、この戒めを僅かでも破り、他者にもそうせよと教える者は、天の王国へ呼ばれることはありえない

 総合的に考えれば、史実のイエスもこのように考えていたのだろう。例えば十戒は人を殺すなと教えるが、イエスは憎悪や軽蔑の気持を抱くことがそもそもいけないと教える。あるいは十戒は不倫はいけないと述べるが、イエスは誤った肉欲を抱くこと自体が罪だと教える。十戒は偽証を戒めるが、イエスは何かを誓うこと自体がいけないので、ただ真実を語れという。

 モーセの律法は、不当な扱いを受けた時は、相手に同等の報いを与えることを認める。イエスは、善に善で報いるのは信仰などなくてもできるが、悪に善で報いることこそ倫理の完成だと主張する。

マタイによる福音書5章46節:自分を愛する者を愛するだけなら、何の功績であるか? そんなことは徴税吏でもやるのに

 ここでは徴税吏が最低の人間と同じ意味で使われている。当時の徴税吏は徴税権を金で買った有力者が多く、政府へ納める以上に民衆から取り立てて私腹を肥やしていた。しかもユダヤ人から税を取り立てるのは同じユダヤ人で、同胞を搾取して敵(ローマ)に貢ぐ者として激しく憎悪されたのは想像に難くない。史実のイエスは大工で、最初の四人の弟子は漁師だったことからも、彼の教えは庶民にこそ受け入れられ、貴族(サドカイ派)や知識人(ファリサイ派)には反発されたろう。このような社会革命への志向こそ、キリスト教史の初期にあれほど多くの信者を獲得した要因ではないか。

マタイによる福音書6章24節:二君に仕えることはできない、神とマモンの双方に

 ミルトンはこの一節から『失楽園』の中で、マモンをサタンに追随する悪魔の一人の名前としたが、マモンはアラム語で富を表す。イエスは、地上の富よりも天国で価値を持つ倫理的な豊かさを説いたのだ。だが、ヨブ記などが示すように、伝統的なユダヤの思想では、正しい者が報われ、罪を犯した者が罰を受けるのは、あくまでも地上世界においてなのだ。これが、賞罰を受けるのは死後の世界となれば、現世で豊かな者は、ただそれだけの理由で来世に罰を受けるという発想に繋がるのは、自然の勢いであるし、イエス自身もその考えを支持する発言をしている。

マタイによる福音書19章24節:金持ちが神の王国へ入るよりも、駱駝が針の穴をくぐる方がまだしも易しい

 のちに、キリスト教信者に金持ちや有力者が含まれるようになると、この一節は多様な解釈をされた。例えば「針の穴」とはエルサレムの城門のことで、荷を満載した駱駝は通れないから、一部を慈善に(もしくは教会に)捧げるべきだというのもそうである。だが初期の信者たちが貧しい階級の者ばかりだったことを思えば、金持ちへの強い反発と考える方がずっと自然である。

 もう一つイエスが激しく非難しているかに見える存在がある。

マタイによる福音書7章6節:聖なるものを犬に与えるな、豚に真珠をやるな、彼らはそれを踏みにじり、こちらを襲うだけなのだから

 犬だの豚だのと、最大の罵倒を投げられているのは何者だろうか? 一切の信仰を持とうとしない罪人のことで、そういう連中に道を説いても無駄だといっているのか? では、説教をする相手とは、すでに信仰を持つ者に限られるのか? そうではないことは、イエス自身の別の発言で分かる。

マタイによる福音書9章12節:医者を必要とするのは健やかな者ではなく、病める者である

 ここはやはりマタイ自身のユダヤ主義を思い起こすべきだろう。彼にとって、キリストの教えを説く相手はユダヤ人だった。異邦人を相手にそれをするのは無駄であるのみか、却って相手の反感を呼び「こちらを襲う」結果になる。何よりもモーセの律法を知らずにキリストを受容する者は、尊い教えを「踏みにじる」だけなのである。このことは、後に、娘の病を治してほしいとイエスに頼んだカナン人女性の話で、より明確に語られている。

マタイによる福音書15章24節:イエスは答えた、私はイスラエルの迷い羊のためだけに遣わされた
マタイによる福音書15章26節:子供のパンを取り上げて、犬にやることはできない

 これこそが、ユダヤ至上主義者マタイが理解したイエスだった。ここでの子供と犬は、ユダヤ人と異邦人のことなのである。また、イエスが弟子たちを伝道のために派遣した場面でも、マタイの考えが現れている。

マタイによる福音書10章5節:イエスは命じた、異邦人の方へは行くな、サマリア人の町へ入るな
マタイによる福音書10章6節:イスラエルの家の迷える羊のところへ行け

 だが、ここでマタイのような人物にはジレンマがあった。福音書が書かれた時代には、大半のユダヤ人が救世主イエスを断固拒絶する一方で、驚くほど多くの異邦人が入信しつつあったのだ。異邦人に布教をせねばキリスト教の未来はないことは、さすがのマタイにも見えていたであろう。だから彼は、不承不承ながら、異邦人もまたキリストに救われる存在と認める記述も行っている。前述のカナン人女性の話には続きがある。イエスに犬扱いをされた彼女は、それを認めた上で、尚も懇願しているのである。

マタイによる福音書15章27節:女は言った、そのとおりです、主よ、ですが犬でも飼主の食卓からこぼれたかけらを食べます

 結局イエスは子供の病を治してやる。要するに、異邦人が自己の劣等を認め、十分な卑下をするなら、入信させてやらないこともない、というのがマタイの態度だった。もっとも、山の上の説教の直後に記載された別の話は、異邦人を積極的に受け入れるのみか、強情なユダヤ人への警告になっており、異邦人の問題は、マタイ自身も相当に迷っていたのかもしれない。

マタイによる福音書8章5節:イエスがカペナウムに入った時、一人の百人隊長が懇願のために訪れた。
マタイによる福音書8章6節:彼が言うには、主よ、我が家の召使いが麻痺を起こしております

 この百人隊長がローマの進駐軍の士官なのか、それともイドゥミア人の王の士官なのかは分からないが、いずれにせよユダヤ人でないことは確かである。彼はイエスが彼の家まで来なくても、その場で治癒の言葉を発してくれれば十分だと言った。イエスは隊長の信仰心を賞賛した。

マタイによる福音書8章10節:これほどの信仰心はイスラエルの民にもみたことがない
マタイによる福音書8章11節:聞くがよい、多くの者が東と西から来て、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと席をともにするだろう
マタイによる福音書8章12節:だが王国の子等は、闇の中へ放り出される

 さて、マタイの福音書の第10章で、イエスは弟子たちの中から、伝道の助手とするため、十二名を選抜している。いわゆる十二使徒の登場である。ペトロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟、徴税吏のマタイはイエスの弟子になった場面の記載がある。一方、フィリポス、バルトロマイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイの五名はこのときが初登場である。十一人目は「ゼロット党のシモン」という。ゼロット党は過激なユダヤ主義者で、ローマへの武力反抗を唱える勢力だった。紀元六六年についに蜂起し、三年間戦い、最後は一人残らず殺されることになる。そして十二使徒の最後に来るのが、イエスを裏切ることになる人物である。

マタイによる福音書10章4節:イエスを裏切ったイスカリオテのユダ

 イスカリオテとは、ユダヤのケリオト市の住人のことで、彼はガリラヤ人ばかりの使徒に一人混じったユダヤ本土人と長く思われてきた。だが最近になって、イスカリオテはシカリオテつまりシカリ派の誤記という説が有力になっている。シカリとは暗殺者の意味で、ゼロット党の中でもさらに過激な行動を採ろうとする人々をいう。

 この時代、サマリア人の子孫はどうしていたろう。かつて第二神殿の建設に参加を申し出て拒絶された彼らは、前三三二年に自分たちの神殿をゲリジム山に建て、独自の伝統を守っていた。アンティオコス四世に迫害されたのも、ユダヤ人と同様である。だがマカバイ王朝が現れるとサマリアを征服し、前一二九年にはその神殿を破壊した。結果としてはローマが彼らをユダヤの支配から解放したが、ユダヤとサマリアの対立は、なまじよく似た宗教をもっているだけに、福音書に書かれた時代を通して、非常にはげしいものになった。

 洗礼者ヨハネの一党との関係だが、獄中のヨハネ自身はともかく、彼の弟子たちはイエスを競争相手とみたようである。

マタイによる福音書9章14節:ヨハネの弟子たちがやって来て言った、我々もファリサイ派の人々も断食の行をするのに、君の弟子はなぜやらないのか

 イエスは、断食は哀悼の儀式だから、弟子たちが自分と一緒にいて、喜びに満ちている時にはふさわしくないと回答した。それを聞いたヨハネは、元から自分は救世主の露払いと信じていたから、このような回答をするイエスこそが救世主ではないかと期待しただろう。ヨハネは弟子を遣わしてイエスは救世主かと尋ねるが、イエスは直接の回答は避けた。

 いずれにせよ、イエスたちにとって最も危険な相手は、律法の厳守にこだわり、それを権威の基盤とするファリサイ派だったろう。彼らはイエスたちが危険な異端者であると非難した。例えば、イエスが病人を治した後に言ったことが問題とされた。

マタイによる福音書9章2節:わが子よ、喜ぶがよい、そなたの罪は許された
マタイによる福音書9章3節:すると、見よ、書記たちの一人が言った、この男は神を冒涜する、と

 ここでの書記はファリサイ派と同じ意味である。たしかに人間の罪を許すことができるのは神だけで、ここでのイエスは救世主としての自分を、より強く出しているようだ。

 イエスが、社会から嫌われていた人々と友人になり、弟子の一人にさえ加えたことも、問題とされた。

マタイによる福音書9章9節:イエスは税を取り立てていたマタイという男を見て言った、一緒にくるがよい。マタイは立ち上がって、イエスに従った
マタイによる福音書9章11節:ファリサイの人々はこれを見てイエスの弟子に言った、なぜ君たちの師は徴税吏のような罪びとと食卓をともにするか
マタイによる福音書9章12節:イエスは彼らに言った
マタイによる福音書9章13節:生け贄よりも慈悲をもて、という言葉の意味を学ぶがよい。

 これはホセア書の引用である。

ホセア書6章6節:私が望むのは生け贄ではなく慈悲である、供物よりも神の智恵である。

 ファリサイ派も、ホセア書を持ち出されては、引きさがるしかない。だが、知識人の彼らに道を説く僭越な男への憎悪は強まるばかりだった。

 安息日を巡っての応酬もあった。天地を創造した神が七日目に休息したという創世記の記述に拠り、一週の内の一日は労働を行わず、神に仕える日とされる。安息日を守るのは十戒の一つでもある。もっともバビロン捕囚以前には、十戒を述べる箇所以外に安息日はほとんど登場せず、その起源は異教の満月祭の可能性が高い。捕囚の間にユダヤ人が他民族と同化しないように厳格化されたのだろう。あるときイエスの弟子たちが安息日にとうもろこしを採取して食べたが、これを見たファリサイ派は、安息日を破って収穫の労働を行ったと咎めた。イエスの回答はマルコの福音書に記載がある。

マルコによる福音書2章27節:イエスは彼らに言った、安息日が人のためにあるので、人が安息日のためにあるのではない

 今やファリサイ派にとって、イエスはどうしても排除せねばならない相手となった。彼らはイエスが悪魔を祓えるのは魔王ベルゼブブの力を借りているからだと主張し、イエスは悪魔同士が戦うわけがないと応酬した。しかしファリサイ派がイエスを攻撃している話は、ナザレに住むイエスの家族にまで届いたようで、心配した母と弟たちが尋ねてきた。彼らが何をしにきたのか、マタイは語らないが、マルコには記載がある。

マルコによる福音書3章21節:親族たちはイエスを捉えた。彼が狂っていると聞いたからだ

 これはマルコにとっては普通の記事だったのだろう。しかしイエスの誕生にまつわる奇跡譚を語ってきたマタイには、受容できない話だったから、記載されていない。それでもイエスの対応から、彼の家族が彼を応援にきたのでないことは読み取れる。

マタイによる福音書12章49節:イエスは弟子たちを指して言った、見よ、彼らが我が母であり弟である

 つまり彼にとっての真の家族とは信仰の仲間であって、彼を理解しない肉親ではないと言っている。イエスが家族を追い返した場面の後、イエスが例え話を多用して彼の思想を述べる場面を、マタイは描いている。だが、弟子たちは、もっと直截的な言い方を求めたようだ。

マタイによる福音書13章3節:イエスは例え話で人々に多くのことを語った
マタイによる福音書13章10節:弟子たちは言った、なぜ例え話で話されるのか?

 イエスは、真に神の国へ入ることを望む者なら理解しようと努力するはずだと答えた。だがあまりにストレートな言い方では反対者をますます怒らせるのが真の理由だったのではないか。なにしろこの頃、洗礼者ヨハネが処刑されているのだ。ヨハネを処刑したヘロデ・アンティパス王はイエスもヨハネの同類と見て捕らえようとしたが、イエスはベツサイダという辺境の町へ逃れた。この地でイエスは、五斤のパンと二匹の魚で、五千人以上の人々に食を与えたとマタイは記す。これは四つの福音書のすべてで語られる唯一の奇跡である。だがベツサイダも安全ではなく、イエスを失望させた。支持者の数が少なすぎたのだ。そのためこの町もカペナウムも、イエスに呪われている。

マタイによる福音書11章21節:ベツサイダに災いあれ!
マタイによる福音書11章22節:裁きの日には、お前よりもティルスやシドンの方が許される
マタイによる福音書11章23節:そしてカペナウムよ、今は天で愛でられても、その時は地獄に引き込まれよう

 史実のイエスはこの時気分が落ち込んでいたのではなかろうか。彼は直近の弟子たちに、彼を何者と思うかと尋ねた。弟子たちはこもごもに、死んだ洗礼者ヨハネが復活した姿とか、エリヤ、エレミヤあるいは別の預言者が蘇ったのがイエスだとか答えたが、その中でペトロの答えだけが異なっていた。

マタイによる福音書16章16節:シモン・ペトロが答えた、あなたはキリスト、神の子です、と

 ペトロのこの回答は、福音書におけるターニング・ポイントだったといえる。喜んだイエスは言った。

マタイによる福音書16章17節:幸いなるは巌のシモンよ、それを君に教えたのは生身の者ではなく、天の父なのだ

 自信を取り戻したイエスはシモン・ペトロを自分の後継者に任じた。

マタイによる福音書16章18節:ここに言おう、君はペトロであり、その巌の上に私の教会は建てられ、地獄の門を封じるだろう
マタイによる福音書16章19節:そして、天の王国への鍵を君に託そう

 ペトロは後にローマへ行き、その地の司教になったと伝わる。彼こそが、初代ローマ教皇なのである。一方、イエスがキリストであることが彼自身にも弟子たちにもはっきりしたとき、奇跡が起こったという。すなわち、イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネという最も重要な三人の弟子を連れて山へ登った時、彼の姿は光に包まれ、そこへモーセとエリヤが現れてイエスに話しかけたという。さらにイエスは、救世主である自分がなすべきことと、そのせいで彼に起こることを予言した。

マタイによる福音書16章21節:その時から、イエスは弟子たちに、自分がエルサレムへ行き、苦難を経験し、殺され、しかし三日後に復活するであろうことを告げた

 だが、福音書を読み進めれば、弟子たちがイエスの受難や死などを予想しておらず、それが現実になったとき慌てふためいたことは明らかである。むしろ栄光の未来を信じていたからこそ、特別な地位を要求する弟子まで現れた。

マルコによる福音書10章35節:ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、やって来て言った
マルコによる福音書10章37節:あなたの栄光の中で、我々があなたの左右の位置を占められるようにしてください

 他の弟子たちが反発したのはいうまでもない。もっともマタイは、兄弟に特別の地位を望んだのは彼らの母親だったといっている。

投稿時間:2015/10/11(Sun) 20:49
投稿者名:Ken
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マタイによる福音書 (続き2)
 キリスト(救世主)としての自信を得たイエスは、エルサレムへ赴いた。しかも注意深く、予言のとおりに実行している。

マタイによる福音書21章1節:エルサレムへ近づき、オリーブ山のベトファゲまでいたり

 エルサレム郊外のオリーブ山を道程に含めたのは、偶然ではない。

ゼカリヤ書14章4節:その日、その人の足は、エルサレムの東、オリーブ山上に立つ

 すでにイエスは救世主としての言葉を発していた。

マタイによる福音書16章28節:私はここに言う、ここに立つ者は、人の子が王国に入るまで死ぬことはない

 エルサレム入城の様子も、ゼカリヤ書の予言に倣っている。

ゼカリヤ書9章9節:歓喜せよ、シオンの娘、見よ、王が来る、驢馬に乗り、驢馬の子に乗って

 マタイを除くどの福音書も、イエスが驢馬に乗ってエルサレムに入ったと記する。ここで「驢馬に乗り、驢馬の子に乗って」とあるのは、ヘブライ文学で多用される重複法で、同じことを言葉を変えて二度言ったのだ。だがマタイだけは旧約聖書の予言を厳密な字義のとおりに解釈するあまり、イエスが二頭の動物に乗っていると、なんともまぬけな描写をしてしまった。

マタイによる福音書21章7節:弟子たちは驢馬と子供の驢馬を連れてきて、衣をかけ、イエスをその上に乗せた

 迎える民は熱狂した。

マタイによる福音書21章8節:非常に多くの人が道に衣を広げ、木の枝を切って道に敷いた
マタイによる福音書21章9節:そして前を歩く者、後に続く者が叫んだ、ホザナ、ダビデの子、主の名を持つ者に幸いあれ、最も尊いホザナ、

 ホザナとは「どうか救いたまえ」の意味で、詩篇に全く同じ表現がある。

詩篇118篇25節:どうか救いたまえ、主よ、主よ、どうか栄えを与えたまえ
詩篇118篇26節:主の名を持つ者に幸いあれ

 詩篇の中で神に向けられる言葉が、イエスに向けて発せられたのだ。ファリサイ派が腰を抜かすほど驚愕したのは想像に難くない。その場の応酬はルカが記載している。

ルカによる福音書19章39節:群衆の中にいたファリサイ派のある者が言った、師よ、あなたの弟子たちを叱られよ
ルカによる福音書19章40節:イエスは答えた、彼らがやめたら石が叫ぶだろう

 すでにイエスは救世主として振舞うことを躊躇していない。そして救世主であるがゆえに、大胆な行動に出た。

マタイによる福音書21章12節:イエスは神の神殿へ入り、すべての商品を投げ打ち、為替業者の卓も鳩を売る者たちの座も覆し、
マタイによる福音書21章13節:そして彼らに言った、我が家は祈りの家と書かれてあるのに、お前たちは盗賊の巣に変えた

 ガリラヤ人のイエスは、エルサレムへ巡礼した同郷人から、神殿の商人のあこぎな商売について聞いていたのかもしれない。盗賊の巣というのはエレミヤの言葉である。

エレミヤ書7章11節:この神殿が泥棒の巣になったのが見えるか?

 これで、神殿で権力を得ていたサドカイ派もまたイエスの敵となった。だが民衆の反発を恐れた彼らは、イエスには手出しができなかった。

 ところでイエスは、マタイとルカが記載する生誕の話を除けば、ダビデの家系やベツレヘムとの関係は無く、常にガリラヤのナザレの人として登場する。エルサレム入城の時にも、彼は救世主と呼ばれる一方で、ガリラヤ人とも呼ばれている。

マタイによる福音書21章11節:人々は言った、彼はガリラヤのナザレの預言者イエスだ、と

 だが、ユダヤの伝統では、救世主はベツレヘムのダビデ家に生まれるはずで、ガリラヤのナザレの出身では困るのである。もちろんマタイはイエスがダビデの子孫だと書いているから、この問題に深く立ち入ることはできないが、例えばヨハネの福音書にははっきりと書いてある。

ヨハネによる福音書7章41節:ある者は、彼はキリストだと言った。だがある者は、キリストがガリラヤから来るか、と言った

 もしも、マタイの福音書に書かれたとおり、イエスがベツレヘムで生まれたダビデの子孫なら、その事実だけを告げればよい。だがイエスはそうしていない。この時のイエスの言も有名である。

マタイによる福音書22章45節:ダビデが我らの主と呼ぶなら、ダビデの子孫でありえようか?

 これはダビデの作とされる詩篇の一節を引用している。

詩篇110篇1節:神は我らの主に言われた、我が隣りに座せ、敵に足を乗せるがよい

 つまり、救世主(我らの主)がダビデの子孫という考えを、ダビデ自身の言を引用しながら否定したわけだ。やはりこちらの方が史実のイエスで、彼はガリラヤの大工でありながら、自分を救世主と信じていたのだろう。そしてマタイの福音書の冒頭にくるイエスのダビデからの系譜は、創作されたものに違いない。

 それでも神殿の祭司たちにすれば、宗論でイエスに勝てないことが分かってきたのだろう。このガリラヤの、無学なはずの大工は、おそろしい知性と、旧約聖書の深い知識を持っていることを、何度も実証してみせた。それならイエスの政治思想を利用すればどうだろう。イエスがローマへの反逆思想を持っていることを示せば、ローマ人が彼を片付けてくれるに違いない。なにしろユダヤの救世主なら異教徒の支配者と戦うはずだし、民衆がイエスを支持するのも、その期待があるからなのだ。そこで彼らはイエスに尋ねた。

マタイによる福音書22章17節:君の考えを教えてほしい。カエサルに貢納するのは正しいことか?

 イエスは答えた。

マタイによる福音書22章21節:カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へわたせ

 ローマの貨幣には皇帝の肖像が刻印されているから、偶像を禁じるユダヤの律法に従えば、どのみち手にできない。そういうものは皇帝へやってしまえとイエスは答えたわけで、たしかにこれなら律法も破らず、ローマへの反逆を問われることもない。だが、やはりこの答えでは、過激なゼロット派は到底満足できない。彼らは失望し、その代表がイスカリオテならぬシカリー派のユダだった。

 ローマへの造反にはこれほど慎重なイエスも、ユダヤの宗教指導者には容赦しなかった。彼らのような者たちの手で、多くの信仰篤い人々が殺されてきたことを語った。

マタイによる福音書23章35節:地に流れたすべての正しい者の血は、君らにふりかかる。アベルからバラキアの子ザカリアまで、君らが神殿と祭壇の間で殺した者たち

 民衆から絶大な支持を受ける人物からこれほど激しく非難されるほど危険なことはない。宗教指導者たちは祭司長の下に集まって、対策を協議した。

マタイによる福音書26章3節:主な祭司、書記、長老たちは祭司長カイアファの宮廷に集まった

 祭司長といえば、アンティオコス四世の時まではツァドクの家系、ヘロデ王家が支配するまではマカバイ家だったが、それ以後はヘロデ家とローマが任命していた。当然、カイアファはローマの力を承知しており、反乱を起こしても勝てないことは彼には自明だったし、事実、彼の恐れは四十年後にエルサレムと神殿の破壊として実現してしまうのだ。またマカバイ家が倒れた後、救世主を自称する者が多く現れ、やはり奇跡譚が彼らについても語られていた。偽者の救世主が現れることは、イエス自身が述べている。

マタイによる福音書24章24節:偽りのキリスト、偽りの預言者が現れ、やはり奇跡の力を示し、選ばれた者を欺こうとする

 カイアファの目には、イエスも偽りのキリストだった。それが救世主を待望する人々の熱狂に担がれている。しかもこの時、過ぎ越しの祭は二日後に迫っており、エルサレムには各地から民衆が集まっていた。熱狂に駆られた民衆がローマ兵を殺しでもしたら、すべてはおしまいであろう。カイアファたちの相談は、ヨハネが端的に描写している。

ヨハネによる福音書11章48節:彼をすておけば全ての者が彼を信じ、ローマ人が来て、我々の地も国も持ち去るだろう
ヨハネによる福音書11章49節:するとその年の祭司長だったカイアファが言った
ヨハネによる福音書11章50節:一人が皆のために死に、国が滅びないのなら、よいではないか

 さらには、イエスを捕らえるのも、白昼やれば、それだけで民衆の暴発を呼ぶかもしれない。夜間に秘密裡に実行するのが望ましいと、カイアファたちは考えた。問題はイエスの夜間の所在地が分からないことだったが、そこに都合よく現れた人物がいた。

マタイによる福音書26章14節:そこへ十二人の一人イスカリオテのユダが祭司長の下へ行き、
マタイによる福音書26章15節:申し立てた、彼を捕らえさせれば何をくれるか、と

 だが、なぜユダはこんなことをしたのだろう? マタイの記述だと、ユダは報酬を求めてイエスを裏切ったことになる。もっとはっきりと書いているのはヨハネである。

ヨハネによる福音書12章6節:ユダは泥棒で、預かった袋から盗んでいた

 だが、ユダの目的が金だとしたら、彼が得た報酬は少なすぎる。

マタイによる福音書26章15節:彼らは三十枚の銀を約束した

 マタイが常に旧約聖書を引用することを思い出してみよう。三十枚の銀には出典があるのだ。

ゼカリヤ書11章12節:私は彼らに私の値を要求し、彼らは三十枚の銀と見積もった

 ゼカリヤ書のこの一節は、羊飼いが報酬を求め、銀三十枚という回答が安すぎるとして怒った場面である。マタイは、ユダが裏切りの報酬に得た金額が低すぎると述べたのだ。だが、そうなると、イエスを裏切った理由としては薄弱ではないか。やはり、ここはユダがイスカリオテではなくシカリー派、つまりローマとの武力闘争を目指す党に属していた可能性を無視できない。イエスの神の力でローマを倒そうと考えていたユダは、イエスが、カエサルのものはカエサルにと、皇帝への納税を認めたことを裏切りと感じたであろう。おそらく同様のことが繰り返され、ユダはイエスを立てての反乱が起こりえないことを思い知らされたのではあるまいか。そのことを単純に恨んだか、もしくはイエスを危険にさらすことで、反乱の決意を促そうとしたのか、どちらかが裏切りの真の理由ではないのか。

※ユダの人物像へのこのような解釈は、例えば1977年に米NBC局が放映したJesus of Nazareth(ナザレのイエス)というミニシリーズで採用されている。イエスがロバート・パウエル、マリアがオリビア・ハッシー、ヘロデ・アンティパスがクリストファー・プラマー、マグダラのマリアがアン・バンクロフトと豪華キャストの大作だが、イアン・マクシェーンが演じたユダがまさしくそのような過激派に属する人物で、必ずしも悪人とは描かれていない。※

 過ぎ越しの祭の前夜、イエスは弟子たちと食事をともにした。最後の晩餐である。ユダもその場にいたが、抜け出して祭司たちの下へ走った。

マタイによる福音書26章36節:そしてイエスと弟子たちはゲッセマネという場所へ行った

 夕食後にここへ行くのは習慣だったようで、ユダもよく承知していたであろう。史実のイエスがその夜をどう過ごしたかを想像するなら、翌日に迫った過ぎ越しの祭に、人々が彼を担いで立ち上がることは疑いようもなく、彼は人生の重大場面を前に不安に駆られたとしても不思議ではない。

マタイによる福音書26章39節:彼は地に伏して祈った、我が父よ、願わくばこの杯を私から除きたまえ、それでもあなたの意に従うが

 そこへ武装兵を連れたユダがやってきた。

マタイによる福音書26章50節:イエスはユダに言った、友よ、何のためにやってきたのか? そこに兵たちが来て、イエスを捕らえ、連れ去った

 ここでの「何のためにやってきたのか?」という問いは、一般には修辞表現と理解されている。イエスはもちろんユダの目的を知っていたし、するべきことを早く済ませよと言ったのだと。だが、ここでも史実のイエスを想像するなら、ユダを見て驚き、その目的が分からなくて尋ねたという解釈もできるだろう。この時弟子の一人が抵抗を試みて、イエスに止められたという。

マタイによる福音書26章51節:イエスに付き添っていた一人が手を伸ばし、刀を抜いて、祭司長の家来の一人に切りつけ、その耳を落とした
マタイによる福音書26章52節:その時イエスが言った、刀を納めよ、と

 これも、史実のイエスは抵抗は無駄と知っていたか、むしろ運命の日を前にした恐れから解放されたと思ったかもしれない。もちろん、彼が自分を救世主と信じており、逮捕されても神の力で救われると思ったからこそ、弟子の抵抗を止めたのかもしれない。だが、ここへ来て、弟子たちもイエスが間違いなく救世主だという信仰を維持できなかったらしい。

マタイによる福音書26章56節:弟子は全員、彼を捨てて逃げた

 だが、祭司たちにとってイエスを捕縛しただけでは、問題の解決にならない。罪人を裁いて処刑できるのはローマから派遣された総督だけだが、イエスがユダヤ教の正統教義を逸脱していると訴えても、ローマ人は関心を示さないだろう。イエスを処刑させうる唯一のシナリオは、彼が自らを救世主つまりユダヤの王と称し、ローマに任命されずに王を僭称したことにするしかない。こうして、イエスとカイアファの問答が始まった。

マタイによる福音書26章63節:祭司長はイエスに言った、神に誓って我らに語られよ、君はキリストであるのか
マタイによる福音書26章64節:イエスは言った、そのように言うのは君だ、私は言おう、これより神の右手に座す人の子が、天の雲に包まれて来たる、と

 この言い方では、イエスは否定も肯定もしていない。だが、マルコの記述では、明言している。

マルコによる福音書14章61節:祭司長は尋ねた、君はキリストなのか、と
マルコによる福音書14章62節:イエスは答えた、そうだ、と

 実際には、マタイの記述でも、旧約聖書に詳しい者なら、間違えようのない答えをしているのだ。イエスの回答はダニエル書を引用しているからである。

ダニエル書7章13節:人の子の姿をした者が、天の雲に包まれて来たる
ダニエル書7章14節:そしてその者は領土、栄光、そして王国を得る

 祭司長にとっては、これで十分だった。

マタイによる福音書26章65節:すると祭司長は自分の衣を引き裂いて言った、この者は神を冒涜した、まだ目撃証言が必要であろうか?
マタイによる福音書26章66節:どう思うか? 一同が答えた、彼の罪は死にあたる、と

 この場にイエスの弟子ではペトロだけが潜入していたが、やがて発見された彼は、恐怖に駆られ、イエスの弟子であることを否定した。どうやら、イエスが救世主ということを、彼も最後までは信じられなかったようだ。

マタイによる福音書26章74節:ペトロは呪いの言葉を吐き、言い立てた、こんな男は知らない、と

 祭司たちはイエスをローマ人のところへ引き立てた。

マタイによる福音書27章1節:朝になると、祭司長は、
マタイによる福音書27章2節:イエスを縛し、総督ポンティウス・ピラトの下へ連れて行った

 ヘロデ大王の歿後、ヘロデ・アルケラオスが王位を継いだが、ユダヤ人もサマリア人もこの王を嫌ってローマに訴えたので、ローマは総督を派遣してユダヤを直接統治するようになった。紀元二六年に就任したピラトは五代目である。ユダヤ人がローマの宿敵パルティアと結ぶことを何よりも懸念したピラトは、常に厳しい弾圧をもって臨み、とくに民衆の反ローマ感情が高揚する過越しの祭のときは、エルサレムに駐在する習慣だったようだ。祭司たちは、ピラトの敵意がユダヤ人一般から、一人のイエスに向けられることを期待したろう。だが、ピラトもあまくはない。ユダヤ人の内紛に巻き込まれるのを避けるため、祭司たちの頭越しに、民衆に直接問うことにした。過越しの祭では、犯罪者を一人だけ恩赦する習慣があったからである。

マタイによる福音書27章16節:ローマ人は、バラバという、別の重大犯を捉えていた
マタイによる福音書27章17節:ピラトは言った、どちらを釈放しようか、バラバか、キリストと呼ばれるイエスか?

 ユダヤの過激派は、イエスがローマとの武力闘争の指導者となることを期待して裏切られたが、バラバはその過激派で、ローマ人を暗殺して捕らえられていたのだ。二人のどちらを釈放するかと問われれば、反ローマの民衆はバラバの名を叫ぶであろう。結果はそのとおりになり、バラバは釈放された。ピラトは、イエスの処刑が彼自身の決定でないことを明確にした。

マタイによる福音書27章23節:総督は言った、なぜだ、この者がどんな悪事をはたらいたか?
マタイによる福音書27章24節:ピラトが、言っても無駄だと分かったとき、群衆の前で、水で手を洗いつつ言った、この無実の者の血が流れることに、私には責任がない、と
マタイによる福音書27章25節:するとすべての者が答えた、彼の血の責任は、我らと我らの子孫が負う、と

 この最後の一節のせいで、ユダヤ人は、その後の二千年、恐るべき運命に見舞われることになる。実際にはマタイ以外の福音書にはなく、マタイの創作である可能性が高いのだが。自分の責任ではないといったピラトは、イエスの処刑を命じた。

マタイによる福音書27章26節:バラバを群衆の中に解放し、イエスを鞭打たせた後、十字架にかけるために送り出した

 ユダヤの伝統的な処刑は石をぶつけること、ギリシャのそれは毒を飲ませることだが、ローマの処刑は十字架にかけることだった。ローマではよく用いられた処刑法で、イエスが特別に残酷な殺され方をしたわけではない。十字架の上には、イエスの罪状が書かれていた。

マタイによる福音書27章37節:頭上には告発の言葉が書かれた、この者はユダヤの王イエスなり、と

 イエスの罪は、ローマに無断でユダヤの王となったことだったのである。

マタイによる福音書27章46節:そして九時間ほど経つと、イエスは大声で叫んだ、エリ、エリ、ラマ、サバクタニ、と。これは、神よ、神よ、なぜ私を見捨てたか、という意味だ

 史実のイエスについて考えるなら、自分を救世主と信じてきたガリラヤ人の大工が、最後になって、自分が救世主などでなかったことを思い知らされ、絶望の叫びを上げたと解釈できるだろう。だが、マルコとマタイの双方に記載があるこの言葉は、やはり旧約聖書からの引用であろう。

詩篇22篇1節:神よ、神よ、なぜ私を見捨てたか、なぜ私を救わぬか、私の叫びも届かぬか?

 死んだイエスは墓に葬られた。

 神殿の祭司たちは、死んで三日後に甦るという、イエスが生前に残した予言が、弟子たちの手で実現を装われることを恐れた。もしも弟子たちがイエスの遺体を盗み出して、救世主が復活したと言い出せば、それを信じた民衆が反ローマ暴動に立ち上がるかもしれない。ピラトもそれを恐れ、イエスの墓に見張りを置いたがそれは無駄だった、とマタイの福音書は語る。

マタイによる福音書28章2節:大きな地震があり、天使が降臨して、入り口の石をどけた

 その天使は、イエスの死を悼む人々に告げた。

マタイによる福音書28章5節:恐れるな、君たちが十字架にかかったイエスを探していることは知っている
マタイによる福音書28章6節:彼はここにはいない、甦ったのだから

 イエスが甦った話を伝説として片付けることはできる。だが、当初は弟子たちが語り始めたこの伝説は、やがて何億人もが信じるようになり、その後の人類史を全く異なるものにした。

投稿時間:2015/10/25(Sun) 23:08
投稿者名:Ken
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マルコによる福音書
『マルコによる福音書』

 四つの福音書の中で最も早く書かれたのがマルコの福音書というのは、ほぼ研究者の間で合意がある。イエスが苦難に耐えた話を伝え、迫害に苦しむ初期のキリスト教徒に勇気を与えようとしたことが想像される。キリスト教徒への最初の迫害は、六四年にローマ皇帝ネロが起こしたが、マルコの福音書はそれに続く時代に書かれたらしい。イエスがエルサレムの破壊を予言していると解される部分があるので、ユダヤ人が反乱を起こした六六年もしくはローマが第二神殿を破壊した七〇年よりも後であろうが、マタイとルカがマルコから流用した部分が多いので、あまり後の時代とは思われない。対象読者としてはユダヤ人が想定されているが、マタイの福音書のように、旧約聖書の知識を豊かに持っていないと読めないというものではない。

 二世紀のキリスト教の司教パピアスが、マルコという人物がシモン・ペトロから聞いた話を福音書に書いたと述べている。事実、ペトロの書簡に、彼にはマルコスという名の若年の仲間がいたという記述がある。

ペトロの手紙一5章13節:教会は挨拶を送る、わが子マルコスとともに

 また、マルコというラテン語の名は、ユダヤ名に加えられた通称らしい。

使徒言行録12章12節:ペトロはマルコと呼ばれたヨハネの母マリアを訪れた

 ヨハネ・マルコの名は福音書のどこにも登場しないので、イエスが十字架に掛けられたときでも、まだ若すぎたのだろう。

 マルコの福音書は、イエスが処女から生まれたとも、ダビデの家系であるとも、ベツレヘムで生まれたとも書いていない。彼の書を読む限り、イエスはナザレの地でガリラヤ人の貧家に、普通の生まれ方をしたとしか思えないのである。だがこれでは、イエスは救世主のはずがないという、祭司たちの主張の裏付けにしかならないから、マタイは彼自身の福音書を書いたのだろう。

 マルコの福音書にイエスが登場するのは、彼が洗礼を受けた時である。

マルコによる福音書1章9節:イエスはナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた

 マタイの福音書と異なるのは、洗礼者ヨハネは、自分は真の救世主の前駆者と自覚しながらも、イエスを見た瞬間に、彼がその救世主とは思わないことだ。

 洗礼の後、イエスは悪魔に誘われるが、マルコの記述はマタイのように詳細でもないし、旧約聖書を引用してもいない。この後、イエスは四人の弟子を得て布教を始めるが、マルコはイエスが病を治す話をとくに重視している。

マルコによる福音書1章23節:シナゴーグに穢れた霊に憑かれた男がいた
マルコによる福音書1章24節:穢れた霊は言った、お前を相手に何ができよう、ナザレのイエスよ、私はお前が聖なる神の子だと知っている
マルコによる福音書1章25節:イエスは言った、この男から出よ
マルコによる福音書1章26節:穢れた霊は彼から出た

 穢れた霊が言った「ナザレのイエス」はイエスの呼称として定着し、彼がベツレヘムで生まれたとする他の福音書でも使用されている。

 マルコも、イエスが徴税吏を弟子に加える場面を記する。

マルコによる福音書2章14節:イエスが通りかかった時、アルファイの子レビが税を集めているのを見て言った、ついてきなさいと。彼は立って従った

 同じ場面はマタイも記述しているが、こちらは徴税吏の名がマタイになっているし、アルファイの子とも言わない。

 イエスが唱えた教義、彼が神に代わって罪を許すという宣言、そして安息日についての柔軟すぎる考え方が、宗教指導者たちと衝突する様をマルコも描くが、必要なら律法に反してもよいと主張するのに、イエスはダビデの例を挙げている。サウルから逃れるダビデが飢えに苦しんだ時、ノブの祭司長が、祭司しか食してはいけない種類のパンをかれに食べさせたというのである。

マルコによる福音書2章26節:アビアタルが祭司長だったとき、ダビデは神の家に入り、祭祀のためのパンを食した

 イエスの生涯と死についてのマルコの記述はマタイと変わらないが、違いがあるのは、他の福音書と同様にギリシャ語で書きながら、アラム語の影響が強く見られることである。例えば、イエスが少女を死から甦らせた場面で、アラム語を使っている。

マルコによる福音書5章41節:イエスは少女の手をとって言った、タリタ・クミ、と。これは、娘よ起きるがよい、という意味である

 ゲッセマネでの祈りでも、我が父と呼びかけるのに、初めにアラム語でアバと言っている。

マルコによる福音書14章36節:イエスは言った、アバよ、父よ、あなたにできないことはない、この杯を私から除きたまえ、

投稿時間:2015/11/22(Sun) 23:03
投稿者名:Ken
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ルカによる福音書
『ルカによる福音書』

 ルカの福音書は八〇年頃書かれたと考える研究者が多い。マルコはもちろんマタイと比べても少し遅いのではないか。マルコの記述を元にしながら独自の加筆をしているのはマタイと同じだが、加えた内容はマタイとは大きく異なる。マルコが描くイエスは奇跡の力をもつ預言者で救世主だが、不当に告発され、処刑され、そして蘇った人物である。福音書自体はユダヤ人のキリスト教徒を対象に書かれたのだろう。マタイの書は、とにかく旧約聖書からふんだんに引用し、昔の予言が実現していることにするため、大量の加筆をしている。対象はユダヤの知識人とみて間違いない。これがルカとなると、明らかに対象として異邦人を意識している。マルコやマタイと比べて、ユダヤ人はより悪役として、逆にローマ人はより好意的に描写されている。旧約聖書の予言にも概ね無関心である。実は、ルカ自身も異邦人だったと考えられることがある。ルカはルキウスというローマ名の短縮形だが、この時代はユダヤ人でもギリシャやローマの名を用いたから、これ自体は証拠にはならない。パウロもローマ名であるが、使徒パウロは間違いなくユダヤ人である。ただ、ルカのギリシャ語はマルコやマタイよりはるかに達者で、文学としても優れている。もう一つ、ルカの福音書と使徒言行録は同じ著者に書かれたことが確実視されており、その使徒言行録には著者がパウロの布教仲間だったことを示す記述がいくつもある。パウロは彼の書簡の中で、同志の名を何度も紹介しており、例えばコロサイ宛の手紙には、

コロサイの信徒への手紙4章14節:我が親愛なる医者ルカ、そしてデマスも挨拶を送る

 という記述がある。その名が最初に挙げられていることから、医師ルカがパウロに近い人物だったことが窺われるし、テモテへの手紙ではもっとはっきりと書かれてある。

テモテへの手紙二4章10節:デマスは今の世界を好んで私を見捨てた
テモテへの手紙二4章11節:ルカだけが私と残った

 その使徒言行録はアンティオキアに関する記述が非常に詳細で、著者がこの町を知り尽くしていたことが分かるが、アンティオキアのユダヤ人はきわめて少なく、ルカがこの町の出身ならほぼ間違いなく異邦人であろう。いずれにせよ、ルカが異邦人だったことを窺わせる一番の根拠は、彼の記述そのもの、とりわけ異邦人の描き方であるのはたしかだ。

 マルコはイエスの洗礼から、マタイはイエスの誕生から記述を始めるが、ルカはイエスに先立つ洗礼者ヨハネの誕生から書き起こしている。ヨハネを、より偉大なイエスの露払いの役割に当てはめることで、二人の関係を明らかにしようとしたのではないか。その背景には、イエスの死後もヨハネの一党がイエスの弟子たちから独立した勢力だったことが考えられる。例えば使徒言行録にこのような記述がある。

使徒言行録18章24節:アポロという名のユダヤ人がエフェソへ来た
使徒言行録18章25節:彼はまだヨハネの洗礼しか知らなかった

 このアポロはヨハネの教えを奉じていたのが、イエスの教えに転向するためやってきた人物と思われる。このような人々のために、ルカはヨハネの物語から始めた。

 ヨハネの父はザカリヤという名の祭司だった。妻はエリザベスといい、やはりアロンから続く祭司の家系に生まれた。年老いても子がなかったこの夫婦が神の力で子を授かるのは、イサク、ヨセフ、サムソン、サムエルと旧約聖書にいくつも見られるパターンで、とくに天使ガブリエルがエリザベスの受胎を告げにくるのは、かつてサムソンの誕生を天使が告げにきたのと同じである。そのエリザベスが懐妊して半年経った頃、今度はイエスの母の話になる。

ルカによる福音書1章26節:神は天使ガブリエルを、ナザレというガリラヤの町へ遣わした
ルカによる福音書1章27節:そこにはダビデの家のヨセフという男の妻で、まだ処女だったマリアがいた
ルカによる福音書1章28節:天使は言った
ルカによる福音書1章31節:君は受胎して息子を産む、その子はイエスと名付けられる

 困惑したマリアがガブリエルに尋ねた。

ルカによる福音書1章34節:私は男を知らないのに、なぜそんなことが?
ルカによる福音書1章35節:天使が答えた、聖霊が君に降臨する

 ガブリエルはさらに、マリアの従姉のエリザベスが妊娠六ヶ月であることを教えた。マリアは急いでエリザベスを訪れ、ザカリヤの家に着いたマリアをエリザベスが迎えた。

ルカによる福音書1章42節:エリザベスは大声で言った、女の中で誰よりも祝福されたお方、祝福は胎内の実りのために

 だが、ルカが最も強調したかったのは、エリザベスの次の一言だろう。

ルカによる福音書1章44節:あなたの声が聞こえた途端に、私の中の赤子は喜びに踊った

 マタイの福音書では、ヨルダン川へ洗礼を受けに来たイエスを見たヨハネが、イエスが自分よりも優れた存在だと認識したとされるが、ルカの福音書では、ヨハネは胎児の段階で、もうイエスの優越を認めているのである。

 マリアは滞在中に、神への讃歌を口にするが、それはこのように始まる。

ルカによる福音書1章46節:マリアは言った、私の魂の中の主は大きい

 この言葉はハンナがサムエルを産むときの祈りから明らかに影響されている。だが、ハンナと同じく長く不妊だったのを神の力で妊娠したのは、マリアではなくエリザベスである。実はこの一節の「マリアは言った」という箇所は、古い異本では「彼女は言った」と書かれていたらしい。つまり本来はエリザベスの言葉だったのが、いつかマリアのものに書き換えられたようなのだ。やはりそうなると、キリスト教の初期に、イエスの党がヨハネの党に取って代わり、ヨハネ党を吸収してゆく過程でそうなったのではないか。

 ルカがマリアのことを詳しく語るのは、マタイの記述がヨセフに集中するのと対極的とすらいえるほどである。女神の神話を多く持つ異邦人と、厳格な家父長制を守るユダヤ人の違いだとすれば、これまたルカが異邦人だったことを示すと考えられるのではないか。

 エリザベスの子が生まれたとき、何と名付けるかが問題になった。

ルカによる福音書1章59節:親族が集まって割礼を施し、父と同じザカリヤの名を与えた

 だが、子供に父親と同じ名をつけるのはユダヤの習慣ではないし、バイブルのどこにもそんな例はない。実はこれこそ異邦人の習慣で、このような誤りを犯したルカの正体を図らずも示しているのではないか。ともあれ、その名には母のエリザベスが反対した。

ルカによる福音書1章60節:子供の母親が言った、いけない、この子の名はヨハネとする

 ザカリヤは妻の意見を容れ、子供の名はヨハネになった。

 イエスが生まれたのはどの年なのだろう? マタイはヘロデ大王の治世というから、前三七年から前四年の間になるが、異邦人ルカはローマ皇帝の名を挙げている。

ルカによる福音書2章1節:同じ頃、アウグストゥス皇帝は勅令を発した

 アウグストゥス帝の即位は前二七年だから、ヘロデの治世と重なるのは前二七年から前四年になる。さらにこの時の勅令の内容も書かれている。

ルカによる福音書2章1節:その勅令は、全世界へ課税せよというものだった
ルカによる福音書2章2節:この課税が行われた時、キリニウスがシリア総督だった

 キリニウスは前六年から前四年までと、紀元六年から九年までの二度、シリアの軍司令官を勤めている。マタイの記述と整合させるなら、イエスが生まれたのは、キリニウスの最初のシリア勤務時代ということになる。ところが史家ヨセフスの記述では、キリニウスの二度目の総督時代に、戸口調査が行われたことになっている。古代の戸口調査は課税か徴兵が目的であり、二度目の総督時代は、ヘロデ・アルケラオスが王位を追われ、ユダヤがローマの直轄地となった直後だから、戸口調査は必要だったはずである。だが、紀元六年以後にイエスが生まれたのでは、マタイの記述と合わないだけでなく、福音書全体が語るイエスの物語とも明らかに整合しないのである。

 結局、著者は正確な年代の記録には関心がなかったというしかない。ルカが語る戸口調査は、マタイが語る星と同じく、ただ舞台設定のために必要だったのだ。

 マルコの福音書を読む限り、イエスはナザレの町で生まれたガリラヤ人以外の何者でもない。だが、これでは、救世主はダビデの子孫でベツレヘムに生まれるというミカの予言と矛盾してしまう。そこでマタイは、ヨセフとマリアはベツレヘムの住人だったが、イエスが生まれた後、ナザレに移住したことにした。一方ルカは、ヨセフもマリアも初めからナザレの住人だったが、ベツレヘムへの旅先でイエスが生まれたことにしたのだ。だが普通なら、臨月のマリアがベツレヘムまでの長旅などするはずがない。そこで皇帝の命令で否応なくそうせざるを得なかったことにした。

ルカによる福音書2章3節:そこで全ての者が、故郷の町で課税されるために移動した
ルカによる福音書2章4節:ヨセフはダビデの家系だったので、ガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムへ、
ルカによる福音書2章5節:税を払うために行った。臨月の妻マリアも一緒だった

 常識で考えれば、こんなおかしなことはない。まず、納税するなら先祖の地ではなく、当人が居住して働いている場所のはずである。次に、全国民が一斉に旅行などしたら交通に大混乱を来たし、軍隊移動もままならない。ローマの宿敵パルティアに攻撃の絶好機を与えるだけではないか。もしも何らかの理由で各自の本貫地を知る必要があるなら、それを報告させればよいので、なぜそこへ行かせる必要があろうか。どうしても本貫地で何かの手続きが必要なら、一家の戸主だけがそこへ行けばよい。妻が、それも臨月の妻が同行する理由がどこにあるか。

 ルカの話は到底あり得ないことなのだが、結果的にこれがイエスの誕生にまつわる最も劇的な物語を作った。神の子は旅先の家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされたのだ。クリスマスの物語、聖誕の物語は、無数の伝説、歌、芸術を生み出すことになる。

 その日が十二月二十五日であるというのも、福音書のどこにも記述がない。それどころか、

ルカによる福音書2章8節:その地の羊飼い達が、夜の間、群れを見張っていた

 羊飼いたちが夜間に屋外に出ていたなら、季節は夏ではないのか。要するに、十二月二十五日はローマ暦の冬至で、天文知識のない古代人にとっては、それまで衰えてきた太陽が、この日を境に復活してゆくめでたい日なのである。ローマ帝国の初期、キリスト教と教勢を競ったミトラ教は太陽を信仰し、二七四年には皇帝アウレリアヌスが十二月二十五日を太陽の生まれる日と定めた。キリスト教はミトラ教の習慣を全否定するよりも、自らの教義と対立しない限りは、異教の習慣でも取り入れる道を選んだのであろう。なお、ローマ帝国が太陽暦を用いるのは三〇〇年頃より後のことで、復活祭のようにそれ以前の陰暦時代に確立した習慣は、陽暦では毎年、日が変わる。一方、クリスマスが十二月二十五日に固定されているということは、この習慣が太陽暦時代に定着したと考えてよい。

 マタイもルカもイエスの誕生にまつわる話を語るが、内容は完全に異なる。マタイが語る、ヘロデの幼児虐殺、ヨセフ一家のエジプトへの逃避、ベツレヘムの星、三人の賢者のどれ一つルカには登場しない。代わりにルカには、赤子のイエスを救世主と見抜いたシメオンやアンナが登場するが、彼らはマタイには登場せず、他にも戸口調査、家畜小屋、羊飼いなども同様である。なお、ルカには他の福音書にはない、イエスの少年時代の話があり、イエスが十二歳のとき訪れたエルサレムの神殿で祭司たちと問答し、イエスが知識と理解の深さで、大人の祭司たちを驚嘆させたとある。初期のキリスト教徒が、無知なガリラヤ人を拝する者と嘲笑されていたことを背景に、このような話が作られたのかもしれない。この後ルカは、イエスの成人期まで時代を進める。

ルカによる福音書3章1節:ティベリウス皇帝の十五年、ユダヤの総督はポンティウス・ピラト、ガリラヤの王はヘロデ、イトゥラとトラコニティスの王はフィリポス、アビレネの王はリサニアス、
ルカによる福音書3章2節:祭司長はアナスとカイアファだった、この時、荒野にいたザカリアの子ヨハネに神の言葉が降った

 ティベリウス皇帝の十五年は紀元二八年から二九年にかかる。またイエスの年齢にも言及がある。

ルカによる福音書3章23節:イエス自身も、三十歳くらいであったが、活動を始めた。

 ルカは「三十歳くらい」というが、もしも紀元二九年にちょうど三十歳なら、イエスの生誕は前一年で、誕生日が十二月二十五日とするなら、その一週間後に紀元元年が始まったことになる。我々が用いる暦ともほぼ一致するが、ヘロデ大王が前四年に死んでいるから、これはありえない。キリスト紀元(西暦)を制定した後世の人間は、三十歳くらいの「くらい」を無視したのだろう。

※ここはアジモフらしくない計算ミス。AD29に30歳なら、28年前のAD1には2歳だから、生まれたのは2BCのはず。ハリ・セルダンの生年をファウンデーション紀元の前79年としたのと同じで、要するにADであれFEであれ「紀元ゼロ年」はないことを計算で考慮しなかったのだろう。※

投稿時間:2015/11/22(Sun) 23:04
投稿者名:Ken
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ルカによる福音書 (続き)
 ここで初めてルカはイエスの系譜を語る。ただし、マタイとは逆にイエスから先祖を遡って紹介してゆく。

ルカによる福音書3章23節:イエスはヨセフの息子(と信じられている)、ヨセフはヘリの息子、
ルカによる福音書3章24節:ヘリはマタトの息子

 ヨセフとの親子関係に「と信じられている」という但し書きがついているのが、イエスの処女生誕のルカ流の表現である。マタイと異なるのは、マタイが記する系譜がアブラハムから始まるのに、ルカの記述が全人類の祖アダムまで遡ることだ。明らかに、ユダヤ人の視点ですべてを見ていたマタイと異邦人ルカの違いであろう。アブラハム以降の系譜を見ると、ダビデまではマタイとルカが挙げる名は同じだが、そこからが完全に異なる。マタイは、ダビデの次がソロモン、その次がレハブアムとユダ王国の王を辿ってゆく。ところがルカはダビデの息子ナタンを挙げている。ナタンはソロモンの兄である。

サムエル記二5章14節:エルサレムでダビデがもうけた息子は次のとおりである、シャムヤ、ショバブ、ナタン、ソロモン、

 そしてナタンの後、旧約聖書にない名が続いてゆく。もっともシェアルティエルとゼルバベルの父子の名だけはマタイの系譜と同じだが、マタイがシェアルティエルをエホヤキンの子とするのに、ルカはネリというやはり旧約聖書に記載のない人物の子とする。そしてマタイの記述ではゼルバベルはダビデから十六代後の子孫だが、ルカの記述では二十二代である。マタイとルカの記述が一致するのは、結局マリアの夫ヨセフまできたときで、そのヨセフの父の名すらも異なる。

マタイによる福音書1章16節:ヤコブはヨセフの父
ルカによる福音書3章23節:ヨセフはヘリの息子

 イエスの系譜について、二つの福音書の不一致を説明するいろいろな試みが行われてきたが、結局は異邦人ルカの旧約聖書の知識が貧弱で、知らない部分を想像で埋めたという説が、的を得ているのだろう。

 洗礼を受けた後のイエスの事績は、ルカの記述もマルコやマタイの記述と基本的に変わらない。異なるのは、ユダヤ人のマルコやマタイと異邦人ルカの間に見られる、ユダヤ人と異邦人の描写で、ルカの方が異邦人に好意的なのだ。一例がイエスに病人を治すことを頼んだ百人隊長で、マタイが百人隊長という部分だけを強調するのに、ルカはこの人物が異邦人であることを強調し、イエスに近づくことを遠慮して、ユダヤの長老たちを派遣したという。しかも派遣された長老たちは、百人隊長をイエスの前で讃えている。

ルカによる福音書7章4節:長老たちはイエスの下へ来ると直ちに訴えた、この隊長は偉い人です
ルカによる福音書7章5節:私たちの国を愛し、シナゴーグを建ててくれました

 女性の描き方もルカは異なる。例えばイエスの生誕にまつわる話で、マタイがヨセフを中心に語るのに、ルカの話はマリアが中心である。ルカの描くイエスは娼婦にまで慈悲をみせている。イエスがファリサイ派の人々と食事をしていたとき、その一人が現れた。

ルカによる福音書7章37節:見よ、罪深い、町の女が、ファリサイの家にイエスがいることを知って
ルカによる福音書7章38節:涙を流してイエスの足元に立った

 イエスは彼女が罪を悔いていることを知って、彼女を許した。そしてその直後に、あまりにも有名な福音書の女性が語られる。

ルカによる福音書8章2節:悪霊と病から解放された女たちの中に、マグダラのマリアがいた。七人の悪魔が彼女から出て行った。

 イエスに罪を許された娼婦の話の直後にマグダラのマリアが登場するので、彼女がその娼婦だと信じられることが多い。だが、そんなことは書かれていない。

 マルコとマタイにふんだんに見られる異邦人への敵意も、ルカにはない。イエスに犬と呼ばれて納得するカナン人の女も登場しないし、イエスも弟子たちにサマリア人や異邦人の地へ行くなとは言わない。代わりにイエスが語るのが、これまた有名すぎる「良いサマリア人」の物語なのである。ある男(ユダヤ人であろう)がエルサレムからエリコへの旅の途中に賊に襲われ、重傷を負って道に倒れていた。そこへ通りかかった祭司もレビ族の男も倒れた男を無視して通り過ぎた。

ルカによる福音書10章33節:そこへ一人のサマリア人が来て、その男を見た、彼には情けがあった

 ユダヤの律法には、隣人を愛せよという一項がある。サマリア人が旅人を助けたことを語ってから、イエスは言った。

ルカによる福音書10章36節:三人(祭司、レビ族、サマリア人)のうちで、賊に襲われた男にとっては、誰が真の隣人であると思うか?

 答えはサマリア人である。伝統的にユダヤ人は、律法のいう愛すべき隣人とはユダヤの同胞のことだと理解してきたが、ユダヤ人であれ異邦人であれ、正しい行いをする者こそが隣人だと、イエスは語る。この話の衝撃の大きさを理解するには、例えば、現代のアメリカ南部で、白人の農場主が道に倒れており、牧師も保安官も無視して通ったのに、黒人の労働者が彼を助ける場面を想像すればよい。(※アジモフのバイブル・ガイドは1960年代の著書である。今ならそんなことは珍しい話でもない。※)

 ルカもまたマタイと同じく富者への敵意を隠さない。神と富の二者に仕えることはできないとか、駱駝が針の穴を通る方が金持ちが神の国へ入るよりも易しいという話はルカも記載している。また、他の福音書にはない、さらに激しい話も載せている。

ルカによる福音書16章19節:ある金持ちがいた
ルカによる福音書16章20節:その門前にラザルスという名の乞食が傷だらけで現れた

 だが、その乞食は死んで天国へ行った。

ルカによる福音書16章22節:乞食は死んで、天使の手でアブラハムの傍らへ連れて行かれた

 反対に金持ちは地獄へ行った。それも旧約聖書のショルのような暗い陰気なだけの冥府ではなく、罪人が永遠の罰を受ける恐ろしい責め苦の場所である。この変化は数世紀に及ぶユダヤ人の体験からきたものだ。旧約聖書の時代には、神の正義が実現されるのはあくまでも現世、地上の世界だった。だが、いくら待っても異教徒は栄え、ユダヤ人は抑圧されている。そこで、神の正義は来世でこそ実現されるという発想が出てきたのだ。その萌芽は「第三イザヤ」にすでに認められる。

イザヤ書66章24節:行けば、私に背いた者たちの死体を見るだろう、その蛆は死なず、火が消えることもない

 そこにはギリシャの影響があるかもしれない。ギリシャ神話のハデスはイスラエルのショルと同じく、ただ暗いだけの場所だが、それとは別に悪人が行くタルタロスという場所もある。そんな地獄へ落ちたラザルスの話の金持ちは天国のアブラハムに助けを求めるが、アブラハムはその金持ちが地獄にいるのは当然だと言って突き放す。しかも、その男が何の罪を犯したのかも言わないのである。

ルカによる福音書16章25節:だがアブラハムは言った、我が子孫よ、お前は生前に良いものばかりを受け、ラザルスは悪いものばかりを受けた、今や彼は慰められ、お前は苦しむのだ

 結局、豊かな者は、豊かであること自体が罪なのである。富者を憎悪する貧者の間で、このような教義が人気を博したのは無理もない。

 イエスの最後へいたる記述は、ルカもマルコやマタイと基本的に同じである。ただし、やはりルカとしては、異邦人ピラトの責任はより軽く、ユダヤの権力者の責任はより重くなるような筆致になっている。例えば、ピラトがイエスを助けようとする発言は、マルコでは二回、マタイでは一回発せられるが、ルカでは三回になっている。それどころか、ルカの描くピラトは、イエスを裁く仕事自体を、一度は放棄しようとする。

ルカによる福音書23章6節:ピラトは、彼(イエス)がガリラヤ人かと尋ねた
ルカによる福音書23章7節:そしてヘロデに裁かれるべき人間と知ると、その時エルサレムへ来ていたヘロデの下へ送った

 このヘロデはガリラヤの王ヘロデ・アンティパスである。過越しの祭のために、エルサレムに来ていたのだろう。イエスはヘロデに尋問されるが、彼はヘロデには一言も発せず、ヘロデはイエスをピラトの下へ送り返した。それでも一度はヘロデの所へ送られたために、イエスの死に関してピラトが負ういかなる責任も、ヘロデもまた負うことになる。ルカの記述ではそうなるのである。

 十字架の上のイエスについては、マルコもマタイも、人々に見捨てられて絶望する姿を描く。おそらくこれが史実のイエスに近いと思われるが、ルカのイエスは、はるかに救世主にふさわしく振る舞い、他の福音書には記載のない、高貴な言葉を発する。

ルカによる福音書23章34節:イエスは言った、父よ、彼らを許したまえ、自分が何をしているのか、分かっていないのだから

 イエスの両側ではりつけになった二人の受刑者が登場するのは、マルコ、マタイ、ルカの三人に共通しているが、その二人の発言が異なる。マルコの福音書では二人は何も言わない。マタイの福音書では二人はイエスを嘲る。

マタイによる福音書27章44節:一緒にはりつけになった盗賊どもも、同じ嘲弄を浴びせた

 ところがルカの福音書では、イエスは彼らの罪も許し、一人はイエスを救世主として受け入れるのである。

ルカによる福音書23章42節:彼はイエスに言った、主よ、王国へ入られたら私を思い出してください
ルカによる福音書23章43節:イエスは言った、はっきり言おう、今日、君は私とともに天国へゆく

 そして、ルカは「神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたか」という、救世主にふさわしくない言葉をイエスに言わせない。その代わりに、こう言わせている。

ルカによる福音書23章46節:イエスは言った、父よ、あなたの手に私の魂は戻ります、

 こうしてイエスは死んだ。その後の復活の話を、ルカはマルコやマタイより、はるかに詳しく語っている。

投稿時間:2015/12/20(Sun) 23:14
投稿者名:Ken
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ヨハネによる福音書
『ヨハネによる福音書』

 第四の福音書が描写するイエスは前の三書とはあまりにも異なり、バイブルの記述がすべて真実と主張する人々は、その違いを説明するのに苦労をしてきた。マルコ、マタイ、ルカの三書はまとめて共観福音書と呼ばれるが、いずれもイエスがエルサレムに滞在したのは最後の一週間ほどだという。ところが第四書では、イエスはエルサレムに三年ほど留まったように書かれている。イエスの説法も、例え話を多用する三書と比べて、はるかに本職の祭司や神学者を思わせるような議論の仕方になる。おそらく第四書が書かれた時代には、キリスト教の中に教義上の対立が生じており、著者は自分の考えをイエスの口を借りて言わせたのではなかろうか。書かれたのは、ローマによるエルサレムの破壊から一世代を経た一〇〇年頃らしい。すでにキリスト教はユダヤ教から完全に分離しており、キリスト教の将来は異邦人が担うことも明らかだった。ルカと比べてすら、第四の福音書のイエスはユダヤ性が希薄であり、何よりもユダヤ人の扱いが非好意的である。

 第四書を書いたのは誰であろうか。それを考える上で、最後の晩餐の場面が手がかりになるようだ。イエスが弟子たちを前にして、彼らの一人が裏切ると予告するのは、四つの福音書に共通しているが、弟子たちの反応は異なる。マルコは全員が質問したという。

マルコによる福音書14章19節:彼らは悲しみ、各自がイエスに尋ねた、それは私ですか、と

 ルカは、弟子たちが自分たちで議論したという。

ルカによる福音書22章23節:彼らは互いに尋ねだした、誰がそんなことをするのか、と

 マタイはユダ本人だけがイエスに尋ねたという。

マタイによる福音書26章25節:裏切者のユダが答えて言った、師よ、それは私ですか、と

 ところが第四書のイエスは極端に神格化されているため、弟子といえども簡単には質問を向けることができないのである。そこで、イエスから特に愛された一人が、皆を代表して尋ねることになった。

ヨハネによる福音書13章23節:この時イエスの傍らには、イエスから愛された一人の弟子がいた
ヨハネによる福音書13章24節:シモン・ペトロは彼に合図して、イエスが誰のことを言っているのか、尋ねるように促した

 他の三書には弟子の誰かが特に愛されたという記述はないが、第四書ではこの弟子がイエスの磔に立ち合い、復活したイエスを使徒の中で最初に認識する。なによりも、この福音書の最後に来る記述が重要だろう。

ヨハネによる福音書21章20節:ペトロは振り返って、晩餐のとき師の傍らにいた、イエスが愛した弟子を見た
ヨハネによる福音書21章24節:この文書を書いたのは、その弟子である

 たしかにこれだけでは、その愛された弟子が第四書を書いた証明にはならない。後世の著者が過去の大人物の名をかたって著作を行うのは、バイブルにいくつも例がある。そもそも著者自身が、自分はイエスから特別に愛されていたなどと、繰り返し述べるのは奇妙ではないか。ただし、もしこの書が、複数の教義が競合した時代に書かれたなら、著者は自分の考えに最大限の権威を持たせようとしたろうし、彼がイエスから愛されたとなれば、絶大な効果をもつだろう。

 ではその愛された弟子とは誰であろうか。最後の晩餐の席にいたのだから、十二使徒の一人には違いない。福音書を読むと、十二使徒の中にも、特別にイエスと親しい三名がいたことが分かる。ペトロと、ゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネである。この三人は、いわゆる「主イエスの変容」に立ち会ったことがマタイに記されている。

マタイによる福音書17章1節:イエスはペトロ、ヤコブ、その弟のヨハネだけを連れて、高い山へ登った
マタイによる福音書17章2節:そして彼らの眼前で変容した

 また、イエスがゲッセマネで祈った時も、その場にいたのはこの三人だった。イエスから特に愛された弟子がいるなら、この三名の誰かと考えるのが自然だろう。そのなかで、まずペトロが除外できる。なぜなら裏切者の正体を尋ねよと、愛された弟子を促したのは彼だからだ。残るは二人の兄弟だが、イエスは、特別に愛したこの弟子に、彼の再臨に立ち会うことを命じている。

ヨハネによる福音書21章23節:この弟子は死なないという言葉が異国の兄弟たちに伝わった。だが、イエスは彼が不死だと言ったのではない。自分が戻るまで彼が待っていることは、ペトロには関係がない、と言ったのだ

 重要なのは、初期のキリスト教徒は、イエスの再臨は遠い未来のこととは考えなかったことだ。一人の人間の生存中に起こるはずだったのである。だが、もしも第四書が書かれた時、愛された弟子が死んでいたなら、上の予言は外れたことになる。第四書が一〇〇年頃書かれたなら、その時この弟子は存命だったはずである。そうなるとヤコブではない。彼はイエスの磔からそれほどの年数が経たないうちに、殉教の死を遂げているからである。

使徒言行録12章1節:その頃、ヘロデ王が教会へ魔手を伸ばした
使徒言行録12章2節:そしてヨハネの兄ヤコブを剣で殺した

 西暦一〇〇年頃に第四福音書が書かれたなら、イエスの死から七十年ほどを経ている。著者がイエスの生前を知る十二使徒の一人なら非常な長命だが、それでもあり得ない数字ではない。結局、第四の福音書は、ヨハネによる福音書、と呼ばれるにいたるのである。

 マルコの福音書はイエスが洗礼を受け、聖霊が宿った時から始まる。マタイとルカはイエスの生誕から書き起こす。これがヨハネになると、イエスの神性がはるかに顕著で、イエスがどういう存在かを神学的に解き明かすため、言葉(ロゴス)の讃歌から始めている。

ヨハネによる福音書1章1節:初めに言葉があり、言葉と神は一体だった

 言葉(ロゴス)を神の意味で用いるのは、旧約聖書にも例がないし、新約聖書でもヨハネの記述だけの特徴である。だが、ロゴスはギリシャ哲学では重要な位置を占める。

 ユダ王国が最後の時を迎えていた頃、この世を理解するための、全く新しい思想が小アジアの地に現れた。その先駆者はタレスで、幾何学を学問として興し、電気と磁気の現象を研究し、バビロニアの天文学をギリシャ世界に紹介し、万物の根源物質は水であると主張した人物として伝わっている。だが、タレスと彼の学派の最大の功績は、この世の森羅万象は、神や悪魔の恣意的な決定ではなく、人間にも理解可能な言葉で表せる法に従う、という考え方を始めた点にある。思想としての科学の誕生と言ってよかろう。彼らは神を否定したわけではないが、造物主の神といえども、その法には従うのである。タレスの思想を継承したのが前五〇〇年頃活動したヘラクレイトスで、世界を創った合理的な理論をロゴスと呼称した。ロゴス(logos)は知識の体系でもあり、例えば、生物(bio)の知識体系をバイオロジー(biology)、大地(geo)の知識体系をジオロジー(geology)というように、現代の科学用語にまで影響を与えている。

 このロゴスがギリシャ哲学で中心的な位置を占め、万物をロゴスが支配するという考えが確立すると、やがて、ロゴスは、抽象概念を越えたものとして、それ自体が意志を持つ神として理解されるに至るのである。そしてギリシャ文化の影響がユダヤ人に及ぶと、智恵はそれ自体が人格を有する霊的存在という思想になる。例えば箴言には、智恵そのものが意志をもって一人称で語る箇所がある。

箴言8章22節:主は始まりの時、仕事にかかる前に、私を所有し、
箴言8章23節:私は太古の始まりの時に作られ、大地とともにあった

 コヘレトの言葉にも同様の表現がある。

コヘレトの言葉24章9節:神が私(智恵)を世界の初めに創られた、私が失敗することはない

 イエスと同時代に、アレクサンドリアにフィロンというユダヤ人がいた。ギリシャ思想に精通しており、ユダヤ思想をギリシャ的に表現するのが非常に巧みだった。彼は、ロゴスとはヤハウェ神の論理と創造の力が表れたものと考え、比喩的な意味で「神の姿」や「神の子」と呼んだ。ヨハネはこの考えに立ち、彼の福音書は冒頭にロゴスへの讃歌を載せている。

※考えてみれば、『最後の質問』に登場する超次元コンピュータは、智恵と論理が極大化した存在が宇宙創造の神になる、というプロットではないか。※

 なお、ロゴスと神の関係については、ヨハネのものとは異なる見解もあった。例えば一部の学者たちは、人格をもつ智恵である神は、人智をもっては到底理解しがたく、何よりも純粋に霊的な存在で、物質世界とは一切の関わりをもたないと考えた。彼らはそのような存在を「グノーシス」と呼んだが、もし真の神グノーシスが物質世界と関わりを持たないのなら、この世界を創ったのは何者かが問題になる。ここでグノーシス主義者はタレスと異なる立場をとり、世界を創ったのは偽の神で、この世はタレスが考えたような正しい合理的な法ではなく、邪悪な原理が支配すると考えた。ギリシャの思想家プラトンは造物主をデミウルゴスと呼び、人間のために働く超人的な奉仕者であるとしたが、グノーシス主義者にとってのデミウルゴスは、悪意をもって邪悪な世界を創った存在である。ただし、人間性の本質はグノーシスに近いもので、邪悪なデミウルゴスによって物質世界に閉じ込められているので、救済とは物質世界を克服してグノーシスに近づくことである。よって、グノーシス思想に拠れば、救世主イエスは、グノーシスが本来なら関わりえない物質世界と関わるため、幻の肉体をもって現れたものということになる。初期のキリスト教徒にはこのような立場をとる人々がいた。彼らにとって、この世を創ったヤハウェは邪神、キリストはグノーシスなのである。

 ヨハネの福音書は、グノーシス主義とは反対の立場をとる。旧約聖書の神とロゴスは一体であり、創造主である。

ヨハネによる福音書1章2節:初めに、言葉は神とともにあった
ヨハネによる福音書1章3節:神がすべてを創った、神なくして何ものも生じえなかった

 イエス自身も幻の肉体ではなく、ロゴスが物質となって現れたものである。

ヨハネによる福音書1章14節:そして言葉は肉となり、我らの間に居住した

 ロゴスへの讃歌は、一方で、洗礼者ヨハネをロゴスと誤解してはいけないともいう。

ヨハネによる福音書1章6節:神に遣わされたヨハネという男がいた
ヨハネによる福音書1章7節:彼の使命は光の存在を見届けることだった
ヨハネによる福音書1章8節:彼自身は、その光ではない

 その少し後では、洗礼者ヨハネ自身が、自分が救世主ということを否定する。

ヨハネによる福音書1章19節:ユダヤ人は祭司とレビの者をエルサレムからヨハネの下へ遣わして、君は何者かと尋ねさせた
ヨハネによる福音書1章20節:するとヨハネは告白した、自分はキリストではない、と

 この福音書がこういうことを述べていることから、西暦一〇〇年頃になっても、洗礼者ヨハネこそが救世主だと信じる人々がまだ勢力を保っていたことが分かる。前の三つの福音書が洗礼者ヨハネをエリヤの再来と持ち上げたのは、まだ弱体だったキリスト教が伝統的なユダヤ教と争うための味方を必要としたからだが、ヨハネの福音書が書かれた時代になると、そのような味方は必要がなくなっていたらしい。

ヨハネによる福音書1章21節:彼らはヨハネに尋ねた、君はエリヤか。彼は答えた、そうではない。ではあの預言者なのか。彼は否と言った
ヨハネによる福音書1章23節:彼は言った、私は荒野で叫ぶ声、主のために道を作る

 「あの預言者」とは、申命記でモーセが伝えた神の言葉が予言する者である。

申命記18章18節:同胞の中から預言者を作り、汝(モーセ)にしたように、私の言葉を語らせる

 洗礼者ヨハネがイエスを見る目も、第四書は前三書とは異なる。マルコとルカが記述するヨハネは、洗礼のために現れたイエスを見ても何の反応も示さない。マタイは、イエスの方が偉大だということを、一節だけ語らせている。

マタイによる福音書3章14節:ヨハネはイエスを遮って言った、私の方が君から洗礼を受けねばならないのに、君が私のところへ来るのか?

 だが、マタイもルカも、その後ヨハネが、イエスが救世主なのかを確かめるために弟子を派遣したと書いている。だが、第四書のヨハネにはそんな必要はなかった。自分の目で奇跡を目撃したからである。

ヨハネによる福音書1章29節:翌日ヨハネはイエスを見て言った、世界の罪を取り除く神の羊を見るがよい
ヨハネによる福音書1章30節:私が言ったのは彼のことだ、私よりも神に愛でられた者が私の後に来る
ヨハネによる福音書1章32節:そしてヨハネは証言した、聖霊が鳩のように天から降り、彼の上にとまるのを見た
ヨハネによる福音書1章34節:私は見て証言した、彼は神の子である、と

 前三書も聖霊がイエスに降ったことを語るが、それを見たのはイエス本人だけとなっている。前三書では、イエスが救世主ということは、彼の弟子たちすらも徐々に理解していったのであり、イエス自身も、最後の段階で祭司長カイアファの前でそれを認めるまで、公言を避けている。一方、第四書では、ヨハネだけでなく誰もがイエスを直ちに救世主と認識するし、イエス自身も、救世主に言及したサマリア人の女性に答えている。

ヨハネによる福音書4章26節:今、君に話している私がそうだ。

 このように自他共にイエスを救世主と認める事例が、エルサレムを含む各地で三年も続くのである。だが、史実としての当時の状況からすれば、そんなことをして無事でいられるはずがない。これは神学的記述であって、歴史的記述ではないのだ。なお、洗礼者ヨハネがイエスを神の羊と呼んでいるのは、救世主に関する考え方がすでに変化していることを示している。救世主といえば、ダビデのように異教徒を征伐する英雄王と長く考えられてきたが、ここでは世界の身代わりになって贖罪を行うものとされている。

 イエスが弟子を得る過程も異なる。前三書ではガリラヤの地で、イエスが声をかけて弟子を集めているが、第四書のイエスは威厳に満ちた存在で、弟子たちは自分から集まってくる。例えば、洗礼者ヨハネからイエスが神の羊だと聞いた二人の弟子は、直ちにヨハネを去ってイエスに従うのである。

ヨハネによる福音書1章40節:ヨハネの言を聞いてイエスに従った二人の内の一人はシモン・ペトロの弟アンデレ

 前三書のどこにも、十二使徒の誰かがヨハネの弟子だったという記述はないが、ヨハネよりもイエスが偉大であることを示す第四書の目的を考えれば、これほど好都合な話はないだろう。そのアンデレは兄のペトロに語っている。

ヨハネによる福音書1章41節:アンデレは兄のシモンを見て言った、救世主を見つけた、と

 これでは、ペトロが自発的にイエスが救世主であることを発見し、それがイエスのエルサレム行きと処刑に繋がったという、重要な話を否定してしまう。だが、イエスを徹底して神格化する第四書では、当初は誰も彼が救世主だとは分からなかった、という話は認められないのだ。

 もう一つ、第四書ならではの特徴がある。

ヨハネによる福音書1章45節:フィリポスはナタナエルを見て言った、その人を見つけた、ナザレのイエスで、ヨセフの子だ

 第四書は、イエスがベツレヘムで生まれたとも、ダビデの子孫であるとも言わない。この点はマルコの福音書も同じだが、マルコと異なるのは、救世主ならベツレヘムに現れるはずというユダヤの伝統自体は語られているのである。

ヨハネによる福音書1章46節:ナタナエルは問い返した、ナザレなどからすばらしいものが現れるのか?
ヨハネによる福音書7章42節:経典によれば、キリストはダビデの子孫で、ダビデと同じベツレヘムに生まれるはずではないか?

 このような記述は第四書に多くある。にも関わらずイエスをナザレの人としか言わないとすれば、著者はユダヤの伝統を承知しながら、もはやそれに賛同していないからではないのか。

 最も重要なことは、誰がイエスの対立者だったかである。前三書では、ファリサイ派やサドカイ派の者たちがイエスの教えを危険視し、彼を陥れて処刑させたことになっている。ところがヨハネの福音書の読者は大半が異邦人で、そのようなユダヤ内部の派閥の知識もないし、関心もない。イエスの敵は単に「ユダヤ人」と呼ばれているのだ。だから、イエスを尋問したのも、サドカイ派ではなく「ユダヤ人」である。

ヨハネによる福音書2章18節:するとユダヤ人たちはイエスに言った、君がそんなことをするというどんな証を示せるのか?

 それどころか、イエスの弟子たちまでも、敵を「ユダヤ人」と呼んでいる。例えば、エルサレムへ行こうとするイエスに、行けば危険だと注意する場面がそうだ。まるで弟子たち自身はユダヤ人ではないかのようだ。

ヨハネによる福音書11章8節:弟子たちは言った、師よ、近頃ユダヤ人たちは、あなたを処刑しようとしているが、それでも行かれますか?

 あるいはまた、イエスが子供の病を治したとき、子供の両親はそのことを口外しなかった。なぜなら、

ヨハネによる福音書9章22節:ユダヤ人を恐れたからである

 もちろん子供の両親もユダヤ人なのだが。

 第四書(ヨハネの福音書)における、このようなユダヤ人の描写は、後世のキリスト教徒に絶大な影響を与えた。キリストを殺したのはユダヤ人で、ペトロからパウロにいたる初期の使徒たちはユダヤ人ではなかったと、信じられるにいたるのである。

 イエスがエルサレムの神殿で金融業者を叩き出した話だが、ユダヤ人(サドカイ派ではなく)が、イエスに本当に神の意思でやったのかと尋ね、イエスは答えている。

ヨハネによる福音書2章19節:神殿を破壊しても、三日で再建できる

 前三書のイエスはこんな発言はしていない。というより、マルコもマタイも、イエスを陥れるために、祭司たちが事実を捏造して、イエスが言ってもいないことを言ったと証言したのだと述べている。

マルコによる福音書14章57節:その時立ち上がって偽証をした者がいた
マルコによる福音書14章58節:手が築いた神殿を破壊し、手を用いずに三日で再建してみせると、彼が言うのを聞いた、と

 第四書を書いたヨハネにすれば、神殿を三日で再建するとは、イエスが死の三日後に復活することを、暗に予言したというのである。

 イエスのサマリア人への態度も重要である。マルコもマタイも、サマリア人へのユダヤ人一般の敵意をイエスが共有していることを語る。ルカは良いサマリア人を語ったが、これも、本来サマリア人がユダヤ人の敵という前提があってこそ意味を持つ話である。それがヨハネの福音書になると、イエスはユダヤ人とサマリア人をまったく区別することなく扱っている。イエスはユダヤ人ではなく、全人類の救世主とされているし、そうでなければ福音書を読む異邦人にとって意味をなさない。そしてイエスに言葉をかけられたサマリア人も、ユダヤ人と変わるところがなく、直ちにイエスを自分たちの救世主として受け入れたと書かれている。

 おそらく最も明確に、イエスを真に奉じるのが異邦人と言っているのが、次の部分であろう。

ヨハネによる福音書1章11節:彼は同胞の所へ来たが、同胞は彼を拒絶した
ヨハネによる福音書1章12節:それでも多くが彼を受け入れ、彼はその人々に神の子となる力を与えた。彼の名を信ずる者たちにも

 イエスの同胞のユダヤ人はイエスを拒絶したが、多くの異邦人がイエスを受け入れて神の子になった、というわけだ。

 イエスが捕らわれた夜について、ヨハネの福音書には、最後の晩餐も、ゲッセマネの祈りも記載がない。むしろそれとは矛盾するようなことをイエスに言わせている。

ヨハネによる福音書12章27節:我の心が乱れる今、何を言うべきか、父よ、今の私を救い給え、だが、これこそ私が今ここにいる理由なのだ

 これが、逮捕、処刑されるイエスの言動にそのまま反映されている。彼の死は、神による計画に従って起こったことなのである。

 イエスとピラトのやり取りは、どうなっているだろうか。君はユダヤの王なのかと尋ねるピラトに、

ヨハネによる福音書18章34節:イエスは答えて言った、これは君自身の考えか、それとも他者が私について言ったことか?
ヨハネによる福音書18章35節:ピラトは答えた、私はユダヤ人ではない、君の国民と祭司長たちが、君を連れてきたのだ、君は何をしたのだ?

 つまりピラトはイエスのことを何も知らず、ユダヤの宗教指導者たちに言われたとおりに動いている。イエスを処刑した罪は、完全にユダヤ人が負うことになる。そのことを一層明確にしたのが次の箇所である。なんとかイエスを助けたいピラトは言った。

ヨハネによる福音書19章10節:なぜ話さない? 私には、君を十字架にかけることも、釈放することもできるのを知らないのか?
ヨハネによる福音書19章11節:イエスは答えた、君が私に何をできるのも天から許されていればこそだ、よって私を連れてきた者の罪は、もっと大きい

 ユダヤの律法も、救世主の予言も、イエスの教えも知らないピラトには罪はない。罪があるのは、これらをすべて知っていながら、イエスを捕らえた者なのだ。それでもピラトは処刑をためらった。ところがユダヤ人はピラトを脅迫までしたと、ヨハネの福音書はいう。

ヨハネによる福音書19章12節:ユダヤ人たちは叫んだ、この男を釈放したら皇帝への反逆ですぞ、彼は皇帝に逆らって王を名乗るのだから

 何が何でもイエスを殺したいユダヤ人は、ついに自らの伝統を覆すような発言までする。

ヨハネによる福音書19章15節:ピラトは彼らに尋ねた、君たちの王を処刑してもよいのか。祭司長は答えた、我らの王はカエサルだけである

 イエスは処刑された。洗礼者ヨハネが初めてイエスを見たとき言ったように、彼は神の羊として犠牲の祭壇に登り、世界の罪をあがなったのである。

投稿時間:2016/01/31(Sun) 22:20
投稿者名:Ken
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使徒言行録
『使徒言行録』

 イエスは死んだ。それに続く時代のキリスト教史を語るのが使徒言行録である。初期のキリスト教の発展には二つの大きな特徴がある。一つは教勢の拡大で、エルサレムを出発点としながら、ついにその影響はローマにまで及んだ。もう一つは、キリスト教が、ユダヤ教の一宗派から、異邦人のための普遍的な教えに変質したことだ。その物語の最大の主人公が使徒パウロなのである。もっともパウロの活躍を描くのは、おもに使徒言行録の後半で、前半はいろいろな弟子たちについて書いている。その文体や用語から、第三福音書と同じルカの著作と考えられ、書かれたのも同じ八〇年頃だろう。

 使徒言行録の冒頭では、復活したイエスがまだ弟子たちに指示を与えている。だが、やがてイエスは昇天し、いよいよ今後のことは弟子たちの肩にかかることになった。まずイスカリオテのユダに代わる十二人目の弟子マティアを籤で選んだのが、彼らの初仕事となった。

 次に、過越しの祭の安息日から五十日目と決められているペンテコステの祭が近づいていた。ユダヤ教の祭だが、弟子たちはまだ全員ユダヤ教徒だから、当然これを祭らねばならない。なおイエスは昇天して去る前に、弟子たちにこんな予言を残していった。

使徒言行録1章5節:多くの日数を経ないうちに、諸君は聖霊に清められる

 そのとおりのことが、ペンテコステ祭では起こったという。

使徒言行録2章4節:使徒たちは皆、聖霊に満たされ、その霊の力で、異国語を話し始めた

 霊の力で話すとは、宗教儀式の中で神懸り状態になったときに言葉を発することで、士師や王の時代の預言者はみなこうだった。十九世紀のアメリカにすらシェイカーと呼ばれた人々がいたほどである。だが、この場合の奇跡は「霊の力」で発した異国語を、その場の全員が理解したことだろう。

使徒言行録2章5節:そこには世界万国から来た信仰心の篤いエルサレムのユダヤ人がいた
使徒言行録2章9節:パルティア、メデス、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
使徒言行録2章10節:フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキュレネ地方、そしてローマからの訪問者、
使徒言行録2章11節:クレタ、アラビア、

 アジアというのは小アジアのことだから、ここに列挙された諸地名は、東のパルティアから西のローマまでを網羅したものだ。これほど広汎な地域から集まった人々が、使徒が発する言葉を理解したのなら、聖霊の奇跡かもしれない。だが、この時代にはユダヤより西の諸国ではエジプトやローマにいたるまですべてギリシャ語が通用したし、ユダヤ自体と東のパルティアではアラム語が交易の共通言語だった。使徒たちが発した言葉にギリシャ語とアラム語が入っていれば、列挙された諸国の人々が理解できる言葉が、必ずあったはずなのである。

 それでも目撃した人々の中には、奇跡と信じて、キリスト教に入信する者が多数いた。

 この時期のキリスト教がどうにか生き残れたのは、ユダヤ教の内部抗争が一因だったといえる。貴族階級を代表し親ローマのサドカイ派は、反ローマ運動に繋がりかねないこの新興宗派を最も危険視したが、ファリサイ派は常にサドカイ派と対立関係にあった。実のところ、イエスを救世主と認めるかの一点を除けば、初期のキリスト教とファリサイ派の教義は重なる部分が多く、ファリサイ派の人々は、イエス信仰などは無知な誤解でいずれ消え去るのだから、サドカイ派こそがユダヤ教の敵だと信じていた。サドカイ派に反対して使徒たちを弁護したのも、ファリサイ派の一人だった。

使徒言行録5章34節:そのときファリサイの一人で、律法学者として名高い、ガマリエルという人物が立ち上がり、

 ガマリエルは、キリスト信者が正しいにせよ、誤っているにせよ、神が彼らを裁くのだから、放っておけばよいと主張し、他の宗教指導者たちを説得したので、使徒たちは活動を続けることができた。

 むしろ初期の教会を危険にさらしたのは、二つの派閥の内部対立といってよい。一派はユダヤ本土とガリラヤのユダヤ人で、アラム語を話し、伝統を大切にする人々である。もう一派はそれ以外の地に住む人々で、言語も生活習慣もギリシャ風になっている。どちらもユダヤ人なのだが、使徒言行録は彼らをヘブライ人、ギリシャ人と呼び分けている。ヘブライ人はギリシャ人を異邦人に影響された不純な存在と見なし、ギリシャ人はヘブライ人を広い世界を知らない田舎者と思っていた。

使徒言行録6章1節:その頃、弟子の数は増えたが、日々の配給で彼らの寡婦がヘブライ人に無視されている、という苦情がギリシャ人から出た。

 十二使徒の全員がヘブライ人だったので、あるいはこの苦情には根拠があったのかもしれない。だが、ここでヘブライ人の使徒たちは優れた決定をした。ギリシャ人側から七人の代表を選んで、教団の運営に参画させたのだ。

使徒言行録6章5節:その報せはすべての者を喜ばせ、ステファノ、フィリポス、プロコロス、ニカノル、ティモン、パルメナス、ニコラスが選ばれた

 ギリシャ人の筆頭がステファノで、彼は仲間のギリシャ人の間にキリスト教を広める活動を始めた。ところが、抵抗に直面した。

使徒言行録6章9節:すると、自由人、キュレネ、アレクサンドリア、キリキアのシナゴーグでステファノに反論した者たちがいた。

 自由人とは解放された奴隷のことだ。審問の場へ呼び出されたステファノは、イエスを真の救世主と信じる自分が反対されるのは、モーセが反対者に直面したのと同じであると弁じるが、神を冒涜した罪に問われ、ただちに処刑された。紀元三一年、イエス処刑の二年後だが、キリスト教の最初の殉教者がギリシャ人だったことは、すでに起こりつつあった重要な変化を示すといえよう。

 ステファノが処刑された後、同じギリシャ人のフィリポスが布教活動をした。

使徒言行録8章5節:フィリポスはサマリアの町へ行き、キリストの話を伝えた

 この頃には、キリスト教徒の間で、サマリア人への偏見はなくなっており、むしろユダヤの伝統勢力から排斥される者同士の連帯感すら見られた。フィリポスがサマリアで信者を獲得すると、十二使徒のペトロとヨハネが直ちに赴いて入信の儀式を行ったが、そのことにためらいはまったくみられない。サマリア人のキリスト教徒はユダヤ人のキリスト教徒と対等な立場を得、これもキリスト教が勢力を拡大する重要な一歩となった。サマリアで成功したフィリポスは、次にガザへ行き、その地で遠い異国から来た人物と遭遇した。

使徒言行録8章27節:エチオピアの女王カンダケに仕え、女王の財宝を管理する宦官の一人が、礼拝のためエルサレムへ向かっていた

 前七世紀にはエジプトを征服したこともあるエチオピアには、長い間にユダヤ人が流入し、この宦官もその一人だったろう。のちのイスラム教徒がメッカへ巡礼するように、彼もエルサレムへの途上にいたのだ。このユダヤ人の宦官はイザヤ書を読んでいたのを、フィリポスは救世主イエスを理解するためのイザヤ書の正しい読み方を指導し、彼をキリスト信者にしてから帰郷させた。この時はフィリポスが自分だけで入信の儀式を行い、ペトロもヨハネも関与していない。これも、キリスト教の布教がエルサレムのヘブライ人の手を離れ、ギリシャ人が主体になってゆく過程を表すエピソードであろう。

 だが、ステファノやフィリポスとは桁違いに巨大な影響を与えたギリシャ人が、このとき舞台に登場した。しかも登場した時は、イエスの信徒たちにとって容赦のない迫害者だったのだ。その名をサウルという。

 ベニヤミン族に生まれたサウルは、後に彼自身が書いているように、強烈なユダヤ民族主義者だった。

フィリピの信徒への手紙3章5節:八日目に割礼を施したイスラエル人、ベニヤミン族、ヘブライの中のヘブライ

 彼は、ベニヤミン族の英雄サウル王の名をつけられたのだ。ただ、自分をヘブライの中のヘブライという彼は、キリキアのタルサス市の出身で、当時の分類ではギリシャ人だった。もっと重要なことは、彼がローマの市民権をもっていたことである。彼は生涯に何度も迫害を受けるが、ローマ市民権のおかげで迫害を逃れたことも多くあった。また、ユダヤ人の彼がローマの市民権を持っていたのは、彼の生家が市民権を買えるほど豊かだったことを示す。そのおかげでサウルはエルサレムへ留学し、ギリシャ語だけでなく、アラム語にも通じることができた。

 彼はまた、自分はファリサイ派だという。若い頃は、イエスが救世主という教えを、到底許すことができなかった。ステファノの殉教につながる告発を行った中にキリキアのユダヤ人もいるが、キリキアはサウルの故郷だから、彼も熱心な告発者の一人だったろう。ステファノが群衆に処刑されたその場にサウルがいたことも明記されている。

使徒言行録7章58節:告発者たちは、サウルという名の若者の足元に、脱いだ上衣を置いた
使徒言行録8章1節:そしてサウルはステファノの死に同意を与えた

 ユダヤの伝統的な処刑法は、衆で囲んで相手が死ぬまで石をぶつけることである。告発者たちは石を投げやすいように上衣を脱いだのだ。実はこれが使徒言行録へのサウルの初登場なのである。サウルにとって、ステファノの処刑は、キリスト教徒迫害の手始めにすぎなかった。

使徒言行録8章3節:サウルは教会を襲い、各家に押し入って男女を連行し、投獄した

 サウル自身も、彼がキリスト教を迫害したことを、後に語っている。

ガラテヤの信徒への手紙1章13節:私が神の教会に計り知れない害を与え、滅ぼしたことを聞かれたことがあるだろう

 ところが、サウルはキリスト教徒を捕らえるために赴いたダマスカスで、異常な体験をする。

使徒言行録9章3節:サウルがダマスカスの近くまで来た時、天からの光が彼を包んだ
使徒言行録9章4節:彼は地に倒れ、声を聞いた。サウルよ、サウルよ、なぜ私を害するか、と
使徒言行録9章5節:サウルは言った、どなたですか、と。主は答えた、お前が害しているイエスだ、と

 実は、サウルはのちに自身のことをこのように語っている。

コリントの信徒への手紙一2章3節:私もまた弱く、恐れ、そして震えることが多い

 この「震えることが多い」とは、実際に発作が起こったことを意味し、彼にはてんかんの持病があったと解釈されることがある。あるいはこのときのダマスカスでも幻覚を見たのかもしれない。このときサウルは失明し、三日後にキリスト教徒が彼に触れると視力を回復したという。

 これでサウルはキリスト教に改宗し、それまでの最も熱心な迫害者が、最も熱心な伝道者となった。その時期は書かれていないが、紀元三二年から三六年の間と考えられている。サウルは直ちにダマスカスでキリスト教の布教を始め、それまでの彼を知っていた人々を仰天させた。

使徒言行録9章23節:その後かなりの日数を経て、ユダヤ人たちは彼を殺そうと相談した

 後にサウルが書いていることから判断すると、彼はこのときダマスカスに三年滞在したようだ。その間に布教のやり方を考えたのだろう。だが、彼を背教者と見なすユダヤ人だけでなく、この地方を統治していたアレタス王もサウルを捕らえようとしたので、彼は奇策を用いて脱出せざるをえなかった。

コリントの信徒への手紙二11章32節:ダマスカスではアレタス王の総督が守備隊を配して、私を逮捕しようとした
コリントの信徒への手紙二11章33節:そこで私は窓から籠に乗って城壁伝いに降り、彼の手を逃れた

 エルサレムへ戻ったサウルはキリスト教会に加わろうとしたが、彼の過去を知る人々から当然ながら警戒された。幸い彼の参加を支持してくれた人物がいた。

使徒言行録9章27節:だがバルナバがサウルを使徒達の下へ連れて行き、サウルが主と会ったことを保証した

 バルナバもギリシャ人で、キリキアから近いキプロスの出身だから、サウルへの親近感があったのだろう。参加直後の彼自身については、サウルが後に語っている。

ガラテヤの信徒への手紙1章18節:私はエルサレムへ行ってペトロと会い、十五日間いっしょにいた
ガラテヤの信徒への手紙1章19節:他の使徒では、主の弟のヤコブだけと会っていた

 ペトロは十二使徒の筆頭だが、イエスの弟のヤコブも、この頃には指導的な役割に就いていたらしい。サウルがこの二人と会っていたということは、この二人からイエスの教えを学んだということだろう。だが、エルサレムでもサウルはユダヤ教徒から裏切者として狙われ、逃げ出さねばならなかった。その後の数年を彼は故郷のタルサスで過ごした。

 この頃、ペトロもまた伝道の旅をしていたが、あるとき彼はローマ軍の駐屯地カエサリアを訪れた。

使徒言行録10章1節:カエサリアにコルネリウスという百人隊長がいた
使徒言行録10章2節:信心深く、神を畏れる彼は、多くの喜捨を行い、いつも祈っていた

 コルネリウスはペトロが町を訪れていると聞いて招待したが、ペトロは躊躇した。

使徒言行録10章28節:ユダヤ人が異国人と接するのは、律法に反するので

 接するといっても、この場合は食事を共にすることを意味する。異教徒と会食をすれば、食物に関する戒律を破ることになるので、本来なら許されない。ペトロはユダヤの律法と、ローマの士官をキリスト信者にできる機会の板ばさみで苦しんだであろうが、ついに食物の戒律を廃止する決定をした。それだけではない。

使徒言行録10章48節:ペトロは主の名において彼に洗礼を与えた

 これは画期的なことだった。これまでキリスト教への入信者は、すべてモーセの律法に従う者だった。マタイの福音書では、イエス自身が明言している。

マタイによる福音書5章17節:私が律法を壊しにきたと思ってはならない、私は破壊ではなく、完成させるためにきたのだ

 ところが、今やペトロは割礼もしていない者と会食したのみか、彼をユダヤ教徒にする前にキリスト教徒にしたのだから、いわばモーセの律法を無視したことになる。もちろん保守派からは非難を受けた。

使徒言行録11章2節:ペトロがエルサレムへ来ると、割礼をした人々は彼を非難した
使徒言行録11章3節:君は、割礼をしない者たちのところへ行き、食事をともにした、と

 使徒言行録では、結局ペトロの説明を保守派が受け入れたことになっているが、事実は異なるであろう。むしろ後にパウロの書簡が、ペトロの弱気をなじっていることからして、ペトロの方がヤコブたち保守派に屈したと思われる。

ガラテヤの信徒への手紙2章12節:ヤコブからの使いが来る前は、ペトロは異邦人と会食したのに、使いが来るとペトロは割礼した者たちを恐れ、引き下がった

 事実、ペトロはこれ以後だれ一人改宗させていない。それでもコルネリウスの入信が無効にされることはなかった。やはりこれも歴史の転換点の一つになったのは、間違いない。

 ユダヤ本土を離れた場所では、布教ははるかに容易だった。

使徒言行録11章19節:諸国へ散った者たちは、フェニキア、キプロス、アンティオキアへ行き、ユダヤ人相手に伝道をした
使徒言行録11章20節:そしてキプロスとキュレネの者たちがアンティオキアへ来ると、ギリシャ人に道を説いた
使徒言行録11章21節:そして多くの信者を得た

 ここでの「ギリシャ人」は直前の「ユダヤ人」との対比だから、これまでに出たギリシャ語を話すユダヤ人ではなく、本物のギリシャ人かギリシャ化したシリア人と思われる。つまりここでも、ユダヤ教の段階を省略して、直ちにキリスト教徒になっている。異邦人の本格的な入信が起こったのはこの時のアンティオキアだろう。キリスト教徒という呼称自体もこの地で発生した。

使徒言行録11章26節:アンティオキアの弟子たちが、最初にクリスチャンと呼ばれた

 この呼び名は当初は蔑称だったのが、やがて信者たちはそう呼ばれることを誇るようになったのは、後世のクエーカー教徒などと事情が共通する。キリスト教の発展に重要な役割を果たすことになるのは、地方都市エルサレムではなく、ローマとアレクサンドリアに次ぐ帝国第三の都市アンティオキアの教会だった。一方でエルサレム教会は、アンティオキア教会が、ユダヤの律法に正しく準拠して布教を行っているのか疑い始めていた。遠隔地のキリスト教が正統から外れた道を行くのを防ぐため、エルサレムはバルナバを指導者として派遣することにした。重大な責務を負うことになったバルナバは、強い意志と情熱をもつかつての仲間を思い出し、協力者とした。

使徒言行録11章25節:バルナバはサウルを探すためタルサスへ赴いた
使徒言行録11章26節:そして彼を見つけると、アンティオキアへ連れて行った

 その時期は、

使徒言行録11章27節:その頃、
使徒言行録11章28節:クラウディウス皇帝の治世で、世界を覆う飢饉があった

 もちろん世界を覆う飢饉などなかったが、バイブルの著者にとって「世界」はユダヤのことだから、これは史家ヨセフスがいう、四六年から四八年にかけてこの地方を襲った飢饉のことではないか。だが時代に言及した記述はもう一つある。

使徒言行録12章1節:同じ頃、ヘロデ王は教会に弾圧の手を伸ばし
使徒言行録12章2節:ヨハネの兄ヤコブを剣で殺した

 このヘロデはヘロデ・アグリッパ王のことで、ユダヤ主流派の支持を得るためにキリスト教を弾圧した。ヤコブは(ユダを除き)十二使徒の中で最初に死んだことになる。ヘロデ・アグリッパはペトロも投獄させたが、彼は脱出して友人宅へ逃れた。

使徒言行録12章12節:彼はマルコと呼ばれたヨハネの母、マリアの家へ来た

 バイブルに記述はないが、このヨハネ・マルコがマルコの福音書の著者とされている。

 ヘロデ・アグリッパ王は人間関係の調整に優れ、ユダヤの伝統主義者及びローマの双方と、非常に良好な関係を維持していた。この王が長命しておれば安定した王朝を築き、ユダヤ人の反乱も起こらず、キリスト教は歴史から消えていたかもしれない。だが紀元四四年に不慮の事故で王が急死したことが運命を変えた。ユダヤ人はいよいよ激しくローマを憎み、ついに六六年の反乱を起こした。その結果ユダヤ教は殲滅され、代わってキリスト教が勢力をのばし、やがてローマ帝国そのものを、ひいては西洋世界を支配するにいたる。ともあれ、彼が王位に就いていたのは四一年から四四年までで、サウルたちがアンティオキアへ行ったのはこの時期とも考えられる。やはり、バイブルは年代については大まかな記述しかしていないということだろう。

投稿時間:2016/01/31(Sun) 22:21
投稿者名:Ken
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使徒言行録 (続き)
 成長したアンティオキア教会は、エルサレム教会をしのぐ実力を持ち始めていた。前述の飢饉にユダヤ本土が襲われたとき、アンティオキアは援助をするまでになっていたのだ。

使徒言行録11章29節:アンティオキアの弟子たちは、各自が自分にできることで、ユダヤの兄弟たちを助ける決心をし、
使徒言行録11章30節:それを実行した。援助を届けたのはバルナバとサウルだった

 二人がアンティオキアへ戻るときヨハネ・マルコも同行した。そしてアンティオキア教会を本拠にして、いよいよ本格的な伝道活動が始まった。布教に赴くのはバルナバとサウル、助手として従うのがヨハネ・マルコである。

使徒言行録13章4節:彼ら(バルナバとサウル)はセレウキアへ行き、そこからキプロスへ航海した
使徒言行録13章5節:サラミスではユダヤ人のシナゴーグで神の言葉を説き、

 サラミスはキプロス島の中心都市だが、一行はこの後、島を横断してパフォスの町へ行った。そこはローマの駐屯地で、ローマの地方総督セルギウス・パウルスが滞在していた。パウルスはユダヤ教に関心があったが、それは彼に仕えるユダヤ人の影響だったらしい。

使徒言行録13章6節:バルナバとサウルの二人は、その地で魔術を使う偽の預言者で、ユダヤ人のバルイエスとまみえた

 パウルスは新しい教義を説く二人に関心を持ったが、バルイエスは彼らを異端者とみて排除しようとした。両者は総督の前で対決した。

使徒言行録13章8節:魔術師は二人と対峙し、総督を正しい教えから遠ざけようとした

 この次の一節で、人類史上最も有名な伝道者の名が登場する。

使徒言行録13章9節:このときサウルまたの名をパウロは、バルイエスをしっかと見据えた

 この時代、ユダヤ人でもギリシャ・ローマ風の名を持つのは普通の習慣になっていた。使徒の中でもアンデレやフィリポスがそうだし、ヨハネ・マルコのようにヘブライ(ヨハネ)とローマ(マルコ)の名をあわせ持つ人物もいた。サウルもまたパウロというローマ名を持っていたが、使徒言行録は、これまでこの人物を一貫してユダヤ名のサウルで呼んできた。それがこの時を境に、以後はすべてローマ名のパウロで呼ぶようになる。なぜここで彼の呼称が変わったのか、使徒言行録は語らない。だが、このとき彼は初めて異邦人を入信させ、それに反対したのがユダヤ人バルイエスだった。しかもパウルス総督は、ユダヤ教に惹かれていても、割礼をはじめとするモーセの律法は、彼には全く不合理なものに見えたに違いない。もしも、キリストへの信仰があればモーセの律法は入信の条件としないとなれば、彼を改宗させるのははるかに容易だろう。総督がどういう条件で改宗したのかは記述がないが、その後の歴史を見れば、サウルは割礼なしで彼を入信させたのは間違いない。サウルからパウロへの転換はそのことを、つまりキリスト教がユダヤ教から一歩遠ざかって、異邦人のための宗教への道を歩み始めたことを象徴しているのではなかろうか。あるいはパウロという、この時が初登場の名も、パウルス総督を改宗させたことを記念して付けたのかもしれない。さらには、名前を変えることで、かつてキリスト教を迫害したサウルとしての過去と、ここで完全に決別したとも考えられる。ここまでのサウルは常にバルナバの助手として描かれていたのが、彼が伝道者たちの中で占める地位すらも変わったように見えるのである。

使徒言行録13章13節:さて、パウロの一行がパフォスを発した時

 この一節の書き方が象徴的である。これまではずっと「バルナバとサウル」という書き方だった。バルナバが疑いなく上位者で、かつてサウルがエルサレム教会で受け入れられるのにも、バルナバの支持を必要とした。その地位が逆転した理由も使徒言行録には記述がないが、想像するのはさして難しくはない。パウルス総督の入信についてバルイエスと対決したとき、モーセの律法厳守を省略しようというサウルの主張に、バルナバは恐れをなして、しり込みをしたに違いない。だが総督を改宗させたのはサウルのやり方だったし、これ以後の布教活動もそれを踏襲する。ここからの使徒言行録は、全くパウロの物語になるのである。

 同時にそのことは、ユダヤ伝統派とパウロの間に路線の対立を生じ、次第に深刻になったことを意味する。例えば、ヨハネ・マルコはこのとき一行を離れ、エルサレムへ戻っている。もし彼が本当にマルコの福音書の著者なら、その内容からして彼はユダヤの伝統主義者だったはずで、パウロのやり方にはついてゆけなかったであろう。実際に、パウロが説く教えを異邦人は受け入れるのに、ユダヤ人は反発するケースがますます多くなってゆく。例えばピシディア地方のシナゴーグで伝道した時も、パウロたちが成功するかにみえたとき、現地のユダヤ人指導者の妨害が入り、結局イエスは救世主とは認められなかった。情熱家のパウロは、同時に短気でもあったようだ。

使徒言行録13章46節:パウロとバルナバは言い放った、必要があったから神の言葉を諸君に伝えたが、諸君がそれを拒むなら永遠の命に値しないのだから、これからは異邦人を相手にする

 とはいえ、パウロはユダヤ人を見捨てたわけではなく、彼が伝道の旅で新しい町へ到着すると、どこでもまずユダヤ人たちに接触している。ただ、ユダヤ人が彼の教えを受容しなければ、対象を異邦人に変えているのだ。パウロは第二イザヤが伝える神の言葉を挙げて、異邦人への布教の正しさを主張した。

イザヤ書49章6節:君を異邦人の光としよう、私のために、君が世界の果てまで救済できるように

 だが一行が旅を続けるにしたがい、ユダヤ人による迫害はますます激しくなった。ルステラの町では、病人を治療したところ、市民はバルナバとパウロを、人間の姿をとったゼウス神とヘルメス神に違いないと拝しにきた。すると今度はユダヤ人が集まってきて、二人が神を冒涜する者であると扇動し、一転して二人は集団暴行を受けた。半死半生になりながらも、二人はルステラを脱出し、次の目的地へ向かった。

 やがてアンティオキアへ戻ったパウロたちは布教活動の報告を行った。モーセの律法の完全厳守を求めずに異邦人を改宗させる彼の手法は、アンティオキア教会で支持されたようである。

使徒言行録14章27節:パウロとバルナバは教会の衆を集め、神が彼らにやらせたこと、それが信仰の扉を異邦人に開いたことを説明した

 だがこの報せがエルサレム教会に伝わると、ヤコブを筆頭とする保守派の反発を買った。

使徒言行録15章1節:ユダヤから来た者たちが言った、モーセの方法で割礼をしない者に、救済はありえない、と

 この時エルサレムから来た告発者の中にはペトロもいたようだ。後にパウロがこの時のことを語っている。

ガラテヤの信徒への手紙2章11節:だが、ペトロがアンティオキアへ来た時、彼は誤ったことを行い、私は彼に立ち向かった

 パウロは、ペトロもかつて異邦人コルネリウスと会食したくせに、ヤコブたちに迫られて立場を後退させたと相手をなじった。議論は沸騰し、誕生したばかりのキリスト教会は、分裂の危機に直面した。

 ついに、この問題を論ずるため、紀元四八年のエルサレム会議が開かれた。会議では、ヤコブが律法の厳守を、パウロがその対極を主張し、ペトロとバルナバがなんとか妥協点を見つけようと腐心したようである。使徒言行録は会議の推移を記録している。

使徒言行録15章5節:そのときイエスを信じるファリサイ派の者たちが立って言った、割礼は必要である、モーセの律法を守らせなければならない

 だがペトロが立ち上がって、彼自身がコルネリウスを割礼なしで入信させたことを述べた。

使徒言行録15章7節:諸君も知ってのとおり、昔、神は、異邦人が私の口から福音を聞き、信仰を得るように、我らの内から選んだ

 これは律法厳守派には打撃を与えたろう。パウロも彼のやり方はペトロの前例を踏襲しているのだと主張し、ついにヤコブを屈服させた。ヤコブは異邦人を入信させる上で、どうしても譲れない四つの点を挙げるに留まった。

使徒言行録15章20節:穢れた偶像、姦淫、絞め殺した獣、血、これらは避けねばならない

 それでも、割礼も複雑な食物の戒律も免除されることになった。マカバイ時代のユダヤ人は、これらの戒律を破るよりも死を選んだことを思えば、パウロの完全勝利といえる。アンティオキアへ戻るパウロたちには新しい仲間のシラスが加わっていた。このシラスもパウロと同じローマ市民だったと思われる。

 アンティオキアのパウロとバルナバは二度目の伝道の旅を計画するが、バルナバがヨハネ・マルコを加えることを主張し、パウロが反対したことで、ついにこの両者が決裂した。

使徒言行録15章39節:二人の争いはあまりにも激しく、別々に旅立つことになった

 パウロにすれば、モーセの律法に固執するマルコはもちろん、マルコを切ることができないバルナバとも、行動をともにできないと思ったのだろう。

使徒言行録15章39節:バルナバはマルコとキプロスへ航海した
使徒言行録15章40節:パウロはシラスを選び、
使徒言行録15章41節:シリアからキリキアを通って、

 パウロとシラスはルステラまで来て、新しい同志を得た。

使徒言行録16章1節:そこにテモテという名の弟子がいた。母はユダヤ人、父はギリシャ人で、

 ただ、ギリシャ人の子テモテは割礼をしていなかった。ユダヤ人たちはパウロがテモテを伴うことを認める代わりに、彼に割礼を施すことを要求し、パウロもここでは保守派の要求に従った。

 この二度目の旅は、前回の旅で教会を設置した地域に連なる小アジアの地方を回るはずだった。ところがパウロはそれらに目もくれず、まっしぐらに西方を目指した。理由については、

使徒言行録16章6節:聖霊がアジアでの布教を許さなかった

 などと書かれているが、真相は、エルサレム会議で異邦人への布教を公認されたパウロが、異邦人の本拠ともいえるヨーロッパの地を目指したのではなかろうか。もしそうなら、彼はアンティオキア教会にすら真の意図を隠して出立したことになり、あるいはこれこそ彼とバルナバの道が別れた真相かもしれない。結局バルナバは大胆すぎるパウロの行動についてゆけなかった。彼はその結果歴史から姿を消し、キリスト教の命運はパウロが一身に背負うことになる。

 パウロがヨーロッパに入ったのは紀元五〇年頃であろう。

使徒言行録16章11節:トロアスを離れ、我らはまっすぐサモトラキへ、そして翌日はネアポリスへ来た
使徒言行録16章12節:さらにはフィリピまで、

 つまりエーゲ海を横断してネアポリス港で上陸し、マケドニアへ入ったことになる。フィリピはマケドニアの大都市で、かつてカエサルが暗殺された後、暗殺者ブルートゥスとカシウスの連合軍がアントニウスとオクタウィアヌスの連合軍と前四二年に戦った戦場だった。パウロたちはここでいつものユダヤ人ではなく、異邦人から迫害を受けた。迫害者には、ユダヤ教徒とキリスト教徒の区別がつかず、一行がユダヤ教を広めに来たと思ったのだ。

使徒言行録16章20節:このユダヤ人たちは、
使徒言行録16章21節:我らローマ人が学ぶことも行うことも法に反する習慣を教えにきた

 パウロとシラスは鞭打たれて投獄されたが、折からの地震で脱出し、さらには彼らがローマ市民と判明したので自由の身になった。パウロの布教活動において、彼のローマ市民権は何度も彼を守ったが、このときもそうだったのだ。そして一行は、テサロニケ、ベレヤを経て、ギリシャ史上の最も偉大な町に入った。

使徒言行録17章15節:彼らはパウロを案内してアテネへ連れて行った

 この時代のアテネはもちろんローマの支配を受けていたが、いわば大学の町として、学府で学びに来たギリシャ人やローマ人が多くいた。過去から製造されてきた神殿や偉大な美術品も多かったが、パウロにとっては、戦慄すべき偶像崇拝のしるしに過ぎなかった。またアテネには哲学者が多くいて、奇妙な思想を持つ新来者のことを聞き、面会を求めてきた。

使徒言行録17章18節:すると、エピクロス派とストア派の哲学者たちが、パウロと遭遇した

 この二つの学派は、どちらも当時のアテネでは大きな存在だった。エピクロスは前三四一年にサモス島で生まれた人物だが、人間を含む宇宙の万物は「原子」の動きにのみ影響されるので、神の意思が介在する余地はないという、大胆な無神論を提唱した。そのような宇宙にあっては、人間が知覚できるのは快楽と苦痛だけなのだから、快楽を最大に、苦痛を最小にすることを追求すればよい、という思想である。エピクロス当人にとっては、真の快楽とは学問をしたり友情を育む心の動きであって、過度の肉体的快楽ではなかったのだが、人間の通弊として、肉体的快楽だけが人生の喜びだと短絡する者がはるかに多く、結局、エピクロス派は享楽主義者の代名詞になってしまった。

 もう一方のストア派は、エピクロスと同じ頃にキプロスで生まれたゼノが創始者である。アテネに作られたゼノの学校には、ギリシャ語で彩色柱廊を意味するストア・ポイキレがあったのが、学派の名称となった。基本的には多神教の立場をとるが、圧倒的な力をもつ最高神がいると考える点で、一神教への途上にあるようにもみえる。ストア派も苦痛を最小にすることを目指すが、その方法はエピクロス派のような享楽ではなく、苦楽を超越し、ただ倫理的に正しいことを追求する精神を養うことだった。パウロよりも一世紀後に現れたマルクス・アウレリウス皇帝などはこれの信奉者で、異教徒にも関わらず、まるでキリスト教の聖者のような人格を持っていた。

 そのアテネの哲学者たちを相手に、パウロは議論をすることになった。

使徒言行録17章19節:彼らはパウロをアレオパゴスへ案内して言った、新しい教義について聞かせてもらえようか、と

 ここでパウロが倫理の話だけをしておれば問題はなかったろうが、彼の教義の根幹というべきイエス・キリストの復活を語ると、アテネ人の失笑を買った。ただ、その中でも信者になる者はいた。

使徒言行録17章32節:死者が復活した話を聞くと、ある者は侮辱した
使徒言行録17章34節:だが一部の者はパウロに従い信仰を得た、その中にはアレオパゴスのディオニシオスがいて、

 このディオニシオスは後に数々の伝説の題材になった。アテネの初代司教になったという話もあるし、ガリアの地で殉教し、フランスの守護聖人サン・ドニになったという話もある。すべてフィクションではあるが。

 アテネの次に訪れたコリントでは、パウロは一年半も滞在した。彼を告発する機会を窺っていた現地のユダヤ人は、新任の総督が到着した時を捉えた。

使徒言行録18章12節:ガリオがアカイアの副知事だったとき、ユダヤ人たちはパウロを裁きの場へ連れて行った

 だがガリオ総督はユダヤ人内部の争いには無関心で、パウロに何の手出しもしなかった。ここからパウロたちは東へ向かって旅立ち、エフェソ、カエサリアを経てエルサレムへ、その後アンティオキアへ戻り、二度目の伝道の旅を終えた。

 パウロが三度目の伝道の旅に出たのは五四年だった。まず小アジアのエフェソへ行き、五七年頃まで留まった。この時期になってもなお、洗礼者ヨハネを奉じる人々がいたらしい。

使徒言行録18章24節:アレクサンドリアの生まれで、弁の立つアポロというユダヤ人がエフェソへ来た
使徒言行録18章25節:彼はヨハネの洗礼しかしらなかった

 パウロはこのような人々にキリストの教えを説いていった。彼の努力は報われ、エフェソはエルサレム、アンティオキアに次ぐ、キリスト教の第三の根拠地となるのである。使徒ヨハネもこの地で第四福音書を書いたし、イエスの母マリア、マグダラのマリア、使徒アンデレとフィリポスもこの地へ移ったという。

 だが、教会の発展に伴って、予想外の摩擦も起こった。

使徒言行録19章24節:デメトリオスという銀職人は、ディアナ神の銀の祭壇を作り、職人たちに多くの利益をもたらしていた
使徒言行録19章25節:その職人たちと、同じような仕事をする作業者を集め、

 ディアナとはギリシャ神話の豊穣の女神で、バビロンのアシュタルテなどと同様の位置を占める。エフェソはこの女神の祭祀の場として知られていたが、旧約聖書がアシュタルテを邪神と見なしていることを思えば、パウロたちのディアナへの反応も容易に想像がつく。祭祀のおかげで利益を得ていたデメトリオスが怒りを発し、仲間を語らってパウロたちを襲おうとしたが、エフェソの当局が押さえ込んで、事なきを得た。そのことに安心したのか、パウロはギリシャの諸教会を数ヶ月かけて巡回し、その後、小アジアのミレトスに滞在した。そこからエフェソの長老たちに送った書簡の一節が記載されている。

使徒言行録20章35節:主イエスの言葉を思い出されよ。主は言われた、与えられるより与える者が、神に祝福される、と

 非常に有名な「イエスの言葉」であるが、実は福音書のどこにも記載がない。

 その後、パウロはエルサレムを訪れた。彼の布教方法が承認された前回のエルサレム会議から、早くも十年が経過していた。

 ここでパウロはヤコブたちから、割礼も律法の厳守も免除して異邦人を入信させるパウロの布教への不満と怒りが、いよいよ大きくなっていることを聞いた。

使徒言行録21章20節:見られよ、兄弟、信仰を持つどれだけ多くのユダヤ人が、律法を激しく守ろうとしていることか
使徒言行録21章21節:彼らは、君が異邦人に混じって住むユダヤ人に、モーセを忘れよと教えていることを、聞いているのだ

 実際には、パウロは異邦人には律法厳守を課さないだけで、ユダヤ人には律法を守らせていた。それでもヤコブたちは、信徒の中に律法を守る者と守らない者があり、守らない側が異邦人を取り込んで果てしなく勢力を拡大すれば、最後には守る側が圧倒されてしまい、キリスト教はまったく異邦人の宗教になってしまうという懸念をもっていた。(その後の歴史はまさしくそうなったのだが。)それにヤコブたちは、ユダヤ教徒にも時間をかけてイエスが救世主だと納得させ、やがては彼らと宥和することを願っていた。それなのに、パウロのせいで、キリスト教が反ユダヤ思想であるかのように思われたら、その望みは雲散霧消し、エルサレムのキリスト教徒はまたも迫害を受けるに違いない。ヤコブはパウロに神殿で清めの儀式を行い、パウロ個人は律法を守っていることを人々に見せることを求め、パウロも従った。ところがパウロが神殿に入ると、彼を知っている者に発見され、大声で叫ばれてしまった。

使徒言行録21章28節:イスラエルの民よ、手を貸せ、この男だ、あらゆる場所で我らに、律法に、この神殿に反対しているのは

 パウロはあやうく殺されるところだったが、騒ぎを聞いたローマの守備隊が駆けつけたので救われた。パウロはローマの隊長には彼がローマ市民であると告げ、ユダヤの祭司たちには、自分は救世主の復活を信じるファリサイ派であると主張して、難を逃れた。たしかに、ファリサイ派はイエスを救世主と認めないだけで、救世主の復活自体は重要な教義であり、救世主を否定するサドカイ派こそが敵だと、この時期でもまだ信じていたのだ。

 しかし、エルサレムの人々のパウロへの怒りは治まらない。ローマの隊長は、彼をカエサリアへ送り、フェリクス総督の裁きを受けさせるように取り計らった。フェリクスは当時は珍しい、解放奴隷から高官に昇った人物で、しかも妻はユダヤ人だった。

使徒言行録24章24節:フェリクスはユダヤ人の妻ドルシラを伴って現れ、パウロを呼び出し、キリストへの信仰について話を聞いた

 だがフェリクスはパウロがキリスト教の倫理面を語りだすと、関心を失ったらしい。ただ、エルサレムの社会不安が悪化するのを恐れて、パウロを拘留するにとどめた。二年が過ぎると、フェリクスはローマ皇帝の宮廷で政治的な後ろ盾を失い、総督の地位を解任されてしまう。新総督として赴任したのがポルキウス・フェストゥスで、パウロの裁判をあらためてエルサレムで行うことを考えた。だが、パウロは、エルサレムで裁判を行えば、ユダヤ人が強硬に彼の処刑を要求し、三十二年前のピラトと同じく、フェストゥスも抗しきれなくなることを恐れ、ローマ市民の自分には皇帝に直訴する権利があると主張した。そうなるとフェストゥスもどうすることもできず、ついにパウロをローマへ行かせることになった。これがパウロにとっては四度目の伝道の旅となり、彼は再びアジアへ戻ることはなかった。パウロを乗せた船は、何度も嵐に襲われながら、クレタ島、マルタ島、シチリア島を経由してイタリア半島に達し、六二年、ついにパウロはローマに到着した。

 パウロの皇帝への直訴がどうなったのかは記述がない。二年後の六四年に、

使徒言行録28章31節:誰に妨げられることもなく、自信をもって神の王国を説いていた

 と、彼がローマの地で布教活動をしていることを記して、使徒言行録は終わっている。実は、この年こそネロ皇帝によるキリスト教徒弾圧の年で、いわばそれが起こる直前の、パウロの伝道活動が最も成果を上げた時点を選んで、著者のルカは筆を置いたのではなかろうか。パウロの死は三年後の六七年と伝わる。イエスが十字架にかかってから三十八年、パウロがキリスト教に転じてから三十三年が経っていた。パウロが登場したとき、キリスト教はエルサレムに残ったわずかな弟子たちが奉じる、いつ消滅してもおかしくない弱小宗派だった。それが今や、キプロス、小アジア、マケドニア、ギリシャの各地に力強く布教を行う教会がたち、その信徒は帝都ローマにまでいた。それを実現したのは、タルサスのサウルとして生まれ、聖パウロとして生涯を終わった、驚嘆すべき一人の人物だったのである。

投稿時間:2016/02/28(Sun) 21:58
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書簡集
『ローマの信徒への手紙』

 使徒言行録の次に収録されているのが、各地の教会や個人へ宛てた合計二十一通の手紙で、うち十四通はパウロが書いたとされる。書かれた順番ではなく、長い手紙から順に並べられており、最も長いローマの信徒への手紙が最初に来る。パウロの見解が最も詳しく述べられ、かつ帝都の信者へ向けた手紙であることも、最初に置かれた理由だろう。執筆時期は明記されていないが、

ローマの信徒への手紙15章25節:今、私は聖者たちを手伝うために、エルサレムへ向かう
ローマの信徒への手紙15章26節:なぜならマケドニアとアカイアの人々は、エルサレムの貧しい聖者たちを助けることを喜んでいるので

 というくだりは、使徒言行録に記載のある、三度目の旅からの帰途、マケドニアとギリシャの豊かな教会からエルサレムの貧しい教会への援助を届けたことと一致するので、この手紙は五八年に書かれたと思われる。冒頭で、手紙の著者と宛て先が明示される。

ローマの信徒への手紙1章1節:イエス・キリストに仕え、使徒と呼ばれるパウロより、
ローマの信徒への手紙1章7節:聖者と呼ばれる、ローマのすべての人へ

 まだパウロ自身はローマを訪れていないが、ユダヤ人は帝国各地に居住し、エルサレムへ巡礼するから、キリスト教の教義を覚えて帰った者もいたろうし、ローマ在住者の中から信徒が生じたのだろう。パウロがローマへ到着するのは、この手紙から五年後である。

 パウロは手紙の中で、この時期の最重要問題を論じている。異邦人がキリスト教に入信するとき、割礼を含めて律法が定める儀式に従わねばならないのか。

 律法に対するパウロの姿勢は、かつての神殿に対するエレミヤの姿勢と同じであった。割礼をすれば十分と考えるのも、逆に割礼をやらねばそれだけで駄目と思うのも、誤解であるという。

ローマの信徒への手紙2章25節:法を守る者には割礼は役立つが、法を破る者には割礼は意味がない
ローマの信徒への手紙2章26節:よって、もし割礼をしない者が正しい法を守るなら、割礼の有無にこだわる必要はない
ローマの信徒への手紙2章29節:その者は内なるユダヤ人で、心の中で割礼を行っているのだ

 そして、キリストの教えに従うなら、最も大切なのは倫理であるという。

ローマの信徒への手紙6章15節:我らが法ではなく、神の慈悲の下にいるから、罪を犯してよいことになろうか、そんなことは神は禁じている

 パウロは、ユダヤ人が異邦人の信徒に寛容であるべきと説くことが多いのだが、彼自身がユダヤ人であることは、常に意識していたようだ。

ローマの信徒への手紙11章1節:では言おう、神は自分の民を見捨てたか? それは神の意思ではない。私はイスラエル人、アブラハムの裔、ベニヤミン族

 とくにローマでは異邦人の信徒の方が優勢だったので、むしろ異邦人信徒がユダヤ人信徒に寛容であってほしいと、パウロは訴えている。

ローマの信徒への手紙14章13節:お互いに相手を裁かぬようにしよう
ローマの信徒への手紙14章14節:本質的に穢れた存在などはなく、ただ穢れていると思っているだけなのだから

※ローマの信徒への手紙についてのアジモフの記述は、このようにユダヤ人と異邦人の宥和を訴える箇所と、あとは手紙に登場する個人名についての考察からなる。意外なのは、神学的教義に関する記述がなにもないことだ。この手紙こそ、パウロの教義が最も明確に述べられていると、多くの研究者が指摘するのに。

 そもそも「キリストの教え」として、現在世界中の教会で語られる思想は、真にイエスが唱えたことなのか、それともパウロが唱えたことなのか、議論が費やされてきた。神の意思に従って正しい人生を送ることを求めるのは、両者に共通する。異なるのは、イエスは人間の努力でそれが可能とするのに、パウロは人間の独力で罪を克服するのは不可能ということだ。

ローマの信徒への手紙7章18節:良いことはせず、やってはいけない悪いことは、やってしまう

 そのような人間は、捨て置けば全員が地獄へ落ちるからこそ、キリスト(救世主)が必要なので、神の子は、当然人間が受けるべき罰を、人間の身代わりに受けてくれたと教会は教えてきた。その最大の論拠がローマの信徒への手紙なのに、アジモフは何も言わない。

 もちろん、アジモフは無神論者だから、このような思想にはまったく同意できないであろう。しかし、それならパウロの教義を紹介した上で批判を加えればよいので、これほど人類史に巨大な影響を与えた教義の説明を忘れるのは、アジモフ先生の手抜かりと言わざるをえない。※



『コリントの信徒への手紙一』

 コリントの信徒への手紙は二通が収録されており、一通目の長さはほとんどローマの信徒への手紙に匹敵する。コリント教会は、五一年、パウロが二度目の伝道旅行の途上で創設した。三度目の旅のとき、パウロは五五年から五七年までエフェソに滞在し、その間にこの手紙を書いたのは、次の一節から明らかだ。

コリントの信徒への手紙一16章8節:私はペンテコステまではエフェソに留まるつもりだ

 書き出しで、送り主の名が記されている。

コリントの信徒への手紙一1章1節:使徒と呼ばれたパウロ、我が兄弟のソステネス、

 このソステネスは、使徒言行録で、集団暴行を受けたことが記録されている人物だ。

使徒言行録18章17節:ギリシャ人たちは、シナゴーグの長のソステネスを捕らえ、裁きの場の前で、殴りつけた

 ここで「ギリシャ人」というのは、明らかに誤訳で、ここはユダヤ人でなければ意味が通らない。この時、ユダヤ人たちはアカイア総督のガリオの手でパウロを断罪させようとしたが、ガリオは、パウロのことはユダヤ人の問題だからと、関わりを拒否した。憤慨したユダヤ人たちは、彼らの指導者ソステネスがキリスト信者に断固とした姿勢で臨まないからこういうことになるのだと言いがかりをつけ、彼を集団リンチにかけた。バイブルに記述はないが、このソステネスは、やがてキリスト教に改宗してパウロの伝道仲間になったという。コリントの信徒へ送る書状の送り主が、パウロとソステネスの連名になっていても、不思議はない。

 手紙の文面からすると、どうやらこの頃、コリントの教会では内部対立があったらしい。

コリントの信徒への手紙一1章12節:諸君のそれぞれが、自分はパウロ派とか、自分はアポロ派とか、ペトロ派だ、キリスト派だと言っている

 キリスト派とは、伝えられるイエスの言葉だけに固執し、使徒をまったく認めない者をいう。それ以外は、それぞれ支持する使徒の教えを重んじる者だが、この場合とくにユダヤの伝統に重きを置く保守派がペトロを、その反対がパウロを支持したのだろう。アポロは洗礼者ヨハネの教えを奉じていたが、エフェソへ来てからキリスト教に改宗した人物だ。やがて彼はギリシャへ行き、アカイアやコリントで伝道活動をした。現存するどの文章からも、アポロとパウロの主張がどう違っていたのか分からない。支持者同士の派閥争いだったのかもしれない。パウロ自身は終始アポロを賞賛しているのだ。

コリントの信徒への手紙一3章6節:私が種を蒔き、アポロが水をやった

 パウロが男女関係について語った部分がある。基本的には、あまり肯定的には捉えていないが、正式な婚姻関係を結ぶことは、無制限の欲望に駆られることを制御できるので、それ自体は罪ではないという。ただ、多くのキリスト教徒と同じく、パウロもまた救世主の再臨と世界の終末は近いと信じていたから、急いで結婚しても意味がない、という立場だった。

コリントの信徒への手紙一7章29節:だが言おう、兄弟たちよ、時間はあまりない、
コリントの信徒への手紙一7章31節:この世のことは過ぎ去ってしまうのだ

 この世はじきに終わるが、キリストは再臨し、死者は甦って永遠の命を得る。だからこそ、今を正しく生きねばならない。わずかな時間の人生だけがすべてなら、でたらめでも楽しければよいではないか。このようなキリスト教の根本思想が、はっきりとした言葉で語られている。

コリントの信徒への手紙一15章32節:エフェソの獣のような者たちと戦ってきたが、もし死者が復活しないのなら、それに何の意味があるか、どうせ遠からず死ぬのだから、食べて飲んでおればよいではないか



『コリントの信徒への手紙二』

 コリントへの最初の手紙が送られた時、パウロは手紙を届ける一行に愛弟子を同行させたようである。

コリントの信徒への手紙一4章17節:この目的で、わが愛する息子テモテウスを派遣する。彼は、私がどこの教会でも教える私の道を忘れないための助けとなるだろう

 パウロがテモテをコリントへ送ったことは、使徒言行録に記載がある。

使徒言行録19章22節:パウロはテモテウスとエラストスの両名をマケドニアへ派遣したが、彼自身は、季節が変わるまでアジアで過ごした

 また、パウロ自身もやがてコリントを訪れる意思を表明している。

コリントの信徒への手紙一16章5節:私も、マケドニアを通過する時、諸君の所へ立ち寄るつもりだ
コリントの信徒への手紙一16章6節:あるいは、一冬を過ごすかもしれない

 これも使徒言行録に記述がある。銀職人の暴動のあと、

使徒言行録20章1節:パウロは、マケドニアへ向けて出発した
使徒言行録20章2節:そしてこれらの地域を通過した時、ギリシャへ入った
使徒言行録20章3節:そして三か月滞在した

 三か月滞在したなら、パウロの二度目のコリント訪問時のはずである。

 コリントへの二度目の手紙が書かれたのは、五七年にパウロがコリントへ向かう途上だったのは明らかで、二通ともローマへの手紙よりも前に書かれたことになる。コリントへの旅については、

コリントの信徒への手紙二13章1節:諸君を訪問するのはこれが三度目だが

 三度目ということは、使徒言行録に記載された二度のコリント訪問の間に、もう一度訪れたことになる。おそらくテモテの活動は成功とはいえず、コリントのキリスト教徒は、パウロ以外の使徒たちから影響を受けていたのだろう。それでパウロが自ら乗り込んだが、やはりうまくはゆかなかったとみえる。

コリントの信徒への手紙二2章4節:心に激しい悲しみと苦悩をもち、涙ながらに手紙を書いた

 涙ながらに書いたのが、コリントの信徒への手紙二の、最後の四章であろう。

 結果的には、パウロの怒りの書簡をコリントへ運んだテトスが朗報をもたらした。コリント教会はパウロの主張に従うことになったようなのである。テトスが戻ってそのことをパウロに伝えた。

コリントの信徒への手紙二7章6節:神は私を安らかにさせるため、テトスを戻らせた
コリントの信徒への手紙二7章7節:戻らせただけではなく、彼が諸君と安らかな仲になったときいて、私の心も安らいだ
コリントの信徒への手紙二7章9節:諸君が悔いていることを、私は喜ぶ

 コリント教会が「悔いている」とは、パウロを怒らせた者たちが処罰を受けたことを意味するのだろう。コリント教会との間に恨みを残さないためにパウロが書いたのが、コリントの信徒への手紙二の、初めの九章と思われる。その後、パウロがコリントを訪れたのは、周知のとおりである。



『ガラテヤの信徒への手紙』

ガラテヤの信徒への手紙1章1節:使徒パウロから、
ガラテヤの信徒への手紙1章2節:ガラテヤの教会へ

 まず注意を要するのは、ガラテヤとは正確にはどの地を意味するかだろう。本来のガラテヤとは、その名の由来であるゴール人がパウロより三世紀前に定住した、小アジア北部の地域である。そしてパウロより一世紀前にローマが小アジア全土を征服して、その全体を「ガラテヤ州」とした。使徒言行録にパウロが訪れた町の名としてデルベやルステラが記載されているが、これは小アジア南部の都市なので、パウロがいうのは広い意味のガラテヤで、帝国のガラテヤ州のことだろう。

ガラテヤの信徒への手紙4章13節:私が一回目の時に、病をおして福音を説いたことは、覚えておられよう

 「一回目」というからには、この手紙を書いた時点で、すくなくとも二回目があったのだろう。パウロは最初の伝道旅行で、往路と復路の二度ガラテヤを訪れているから、この書簡は最初の旅の後、四七年以降に書かれたと思われる。また、

ガラテヤの信徒への手紙2章11節:ペトロがアンティオキアへ来たとき、私は彼と対決し、

 このペトロとの「対決」は、異邦人の入信に割礼を課すべきかをめぐる論争だが、この問題に裁定を下した四八年のエルサレム会議への言及がないので、この手紙が書かれたのはその前、おそらく四七年だろう。だとすれば、現存するパウロの手紙の中で、というより新約聖書の文書の中で、最も早く書かれたことになる。

 異邦人の割礼をめぐって各地の教会が紛糾していた時期であり、ガラテヤ教会には強硬な保守派が多かったことは、パウロが二度目の伝道旅行のとき、この地で弟子になったテモテに、割礼を施すように勧めたことからも見てとれる。

 もっとも、こういう記述もある。

ガラテヤの信徒への手紙2章9節:ヤコブ、ペトロ、ヨハネは、私とバルナバに承諾を与え、我らは異教徒を、彼らは割礼をした者を担当することになり、

 これだと、割礼なしに異邦人を入信させることに、エルサレムの保守派が既に同意しているようにとれるので、エルサレム会議の後に書かれたことが考えられる。パウロのいう二度のガラテヤ訪問が、彼の二度の伝道旅行を意味しているなら、ガラテヤへの手紙が書かれたのは、五一年頃まで時期が降る。それでもエルサレム会議への言及がないのは、ペトロたちガリラヤ人使徒の承諾つまり彼らの権威に頼っているようにみえるのを避けるためかもしれない。なにしろパウロは、彼は他人の意思に従って行動しているのではないと、誇り高く語っているのだから。

ガラテヤの信徒への手紙1章1節:人ではなく、イエス・キリストと父なる神から命を受けた使徒パウロ、
ガラテヤの信徒への手紙1章12節:私の教義は他人から教わったものではなく、イエス・キリストの啓示によるものだから



『エフェソの信徒への手紙』

 最初の四つの手紙(ローマ、コリント一、コリント二、ガラテヤ)をパウロが書いたのは疑問の余地がないが、五つ目のエフェソの信徒への手紙の著者については議論がある。もっとも、冒頭ではパウロの手紙だと言ってはいる。

エフェソの信徒への手紙1章1節:イエス・キリストの使徒パウロから、エフェソの聖者たちへ、

 しかしながら、手紙全体の用語や文体から、別人の作ではないかと疑われている。例えば、特定の個人へ宛てた挨拶がないのも、他の手紙と異なる。手紙を届けたのは、ティキコスという人物だという。

エフェソの信徒への手紙6章21節:愛すべき弟、主の忠実な下僕のティキコスが、諸君に伝える



『フィリピの信徒への手紙』

 この手紙は、ローマから送られたらしい。

フィリピの信徒への手紙4章22節:聖者たち全員が挨拶を送る、とりわけ帝室に仕える者たちが、

 帝室に仕える者たちがキリスト教に改宗した宮廷奴隷だとすれば、この手紙が書かれたのは、パウロがローマに到着した六二年より後。ただしネロ帝がキリスト教徒を迫害した六四年以降は、宮廷に信者がいたはずがないので、この間の期間であろう。

 手紙は、このように書き出している。

フィリピの信徒への手紙1章1節:パウロとテモテより、司教および助祭と共にいる、フィリピのすべての聖者たちへ、

 フィリピはマケドニアの町で、パウロがヨーロッパで最初の教会を建てた地でもある。その教会には、司教と助祭がいたらしいが、はたして後世のカトリック教会におけるような絶大な権威をもつ聖職者が、この時代の教会にすでにいたのだろうか。そうではなく、使徒たちの仕事を手伝う長老とその助手という程度の意味だったのだろう。長老といっても老人とは限らない。平均寿命が三十五歳くらいの時代には、四十を越えれば長老と見なされたはずである。

 フィリピの信者たちはパウロに援助をしていたようだ。

フィリピの信徒への手紙4章18節:諸君が送ってくれた物資を、エパフロディトスから受け取った


『コロサイの信徒への手紙』

コロサイの信徒への手紙1章1節:パウロと、テモテから、
コロサイの信徒への手紙1章2節:コロサイの聖者たちへ、

 コロサイの名は使徒言行録に登場せず、パウロが訪れたことがない町と思われる。エフェソより二百キロほど東に位置し、ペルシャ帝国時代は商業都市として栄えたが、アレクサンダーの征服後は衰退した。コロサイ教会を設立したのは、パウロの仲間だった。

コロサイの信徒への手紙1章7節:我らの愛すべき仲間、キリストの忠実な下僕、エパフラスのことを覚えておられよう

 パウロが手紙を送ったのは、コロサイでグノーシス主義が影響を増していると知らされたからだった。コロサイの信徒の中には、天使には非常に多くの階層があり、イエスなどは下級の天使に違いないと考える者がいたようだ。パウロは雄弁に駁し、イエスを超えるものなどありえないと論じたてた。

コロサイの信徒への手紙1章15節:イエスは、目に見えない神が姿をえたもの
コロサイの信徒への手紙1章16節:万物を創ったのはイエスである、天のものも、地のものも、見えるものも、見えないものも、朝廷も、王国も、公国も、藩国も、すべてはイエスが、イエスのために造られたのだ

 朝廷、王国、公国、藩国とは、天使の階層に付けられた名称である。

※原文では、thrones、dominions、principalities、powersと、政治単位として上位のものから下位のものへと順に並べ、階層を表現しているので、上記のように日本語化した。日本聖書協会のサイトでは、王座、主権、支配、権威となっているが、どうであろう。これでは、階層の意味がうまく伝わらないのではないだろうか※

 パウロは、このような天使の階層を想像することを戒めた。

コロサイの信徒への手紙2章18節:天使を拝したり、見たこともないものに踏み込んだり、しょせんは肉体の中の精神に想像させたり、そういうことをしないように、

 もっとも後世のキリスト教は、パウロが否定した天使の階層を大量に教義に取り入れてしまった。想像された階層の名称には、セラフィム、ケルビム、大天使、天使といった旧約聖書に記載があるものと、朝廷や公国のようにグノーシス主義に由来するものがある。

 パウロは、彼と一緒にいる仲間の名も挙げている。

コロサイの信徒への手紙4章10節:我が囚われの仲間アリスタルコスも挨拶を送る、バルナバの甥マルコスも、

 マルコスはヨハネ・マルコのことだろうから、どうやらパウロと仲直りしていたようだ。アリスタルコスはパウロがエフェソで銀職人の暴動に襲われたとき、彼と一緒にいた仲間である。そのあとも、マケドニア、ギリシャ、アジアそしてエルサレムまで、パウロに同行し、やがてローマへ旅立つ時も一緒だった。

 同じく、パウロと一緒にいたのがルカとデマスである。

コロサイの信徒への手紙4章14節:愛すべき医者のルカとデマスも、

 だが、デマスは殉教の危険を伴う伝道活動に耐えられなかったらしい。のちの書簡で、パウロを見捨てたことが語られているのである。

テモテへの手紙二4章10節:デマスは今のこの世を愛するあまり、私を捨て、テサロニケへ去ってしまった



『テサロニケの信徒への手紙一』

 パウロとシラスは、二度目の旅の途上でテサロニケを訪れたが、現地のユダヤ人社会から異端者として叩き出された。それでも異邦人のための教会はできており、パウロの手紙が送られた。

テサロニケの信徒への手紙一1章1節:パウロ、シルバヌス、テモテウスからテサロニケの教会へ

 手紙が書かれたのは、パウロがアテネを去り、コリントに滞在していた時期なので、五〇年頃と思われる。ガラテヤの信徒への手紙が四七年に書かれたという説には賛否があり、このテサロニケへの最初の手紙が、現存する最古のパウロの著作と考える研究者も多い。

 パウロはテサロニケの信徒の信仰心を讃えているが、大半が異邦人の教会は、元々ファリサイ派のユダヤ教徒が考え出した、復活と最後の審判の教義には不案内だった。そこでパウロは、印象に残る表現で説明をしている。

テサロニケの信徒への手紙一4章16節:大天使の声と神のラッパとともに、主その人が声を上げて天より降り、キリストを奉じる死者がまず甦る
テサロニケの信徒への手紙一4章17節:そして我ら生きる者は、雲の中で彼らと一緒になり、空で主とまみえる

 「我ら生きる者」が復活したイエスとまみえるといっているのは、パウロが自分が生きている間にそれが起こると信じていたことにほかならない。それでも時期の明言はできないと、慎重な態度をとることも忘れない。

テサロニケの信徒への手紙一5章1節:その時期については、兄弟らよ、私が書き記す必要はない
テサロニケの信徒への手紙一5章2節:なぜなら、諸君も知るとおり、主の日は夜盗のようにしのび来るのだから

投稿時間:2016/02/28(Sun) 21:59
投稿者名:Ken
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書簡集(続き)
『テサロニケの信徒への手紙二』

 テサロニケへの最初の手紙は現地の反発を呼んだらしい。なにしろキリストが再臨する兆候などどこにも見えず、迫害者は栄えるばかりだったのだ。パウロは直ちに二通目の手紙を送り、その日がくれば、いま勝ち誇る者たちはみな罰されると論じた。

テサロニケの信徒への手紙二1章7節:主イエスは天上より、強い天使たちを連れて現れる
テサロニケの信徒への手紙二1章8節:神を信じない者、主イエス・キリストの福音に背く者は、火に焼かれる

 ただし、その日が来るまでは、悪は栄え、それこそがキリストが再臨する証しなのだという。

テサロニケの信徒への手紙二2章3節:その前に災厄が襲い、罪びとの正体が現れるまでは、その日はこない
テサロニケの信徒への手紙二2章4節:その罪びとは神に背き、自分こそが至高の存在といい、

 要するに、正義が実現する前提として、誰が罪人なのかを明らかにする必要がある、という説明である。特にこの一節はダニエル書がセレウコス朝のアンティオコス四世について語る表現とよく似ている。

ダニエル書11章36節:そして王は意のままに振る舞い、自分こそが神々より偉大といい、

 つまり、マカバイ登場前にはアンティオコス王の暗黒時代があったのだから、キリスト再臨前にも暗黒時代がある、と示唆している。それに、バビロニアやペルシャの神話をルーツとするユダヤの神話には、世界の始まりと終わりに同じことが起こるという考えがあった。怪獣ティアマトやレヴィアタンが殺されて天地が生じたのだから、この世が終わり、新たな世界が創られる前には、古い世界の敵が克服されねばならない。エゼキエルはマゴグの国のゴグが斃されて理想の王国ができるというし、イエス登場前のユダヤの伝説は悪魔ベリアルを語った。ベリアルはアンティオコス四世だけでなく、ポンペイウスやヘロデ大王もモデルになっているだろう。

 イエス自身も、世の終わりの前に数々の災厄が襲い、その中には偽者の救世主もいると語っている。

マタイによる福音書24章24節:偽りのキリストが現れ、

 ヨハネの手紙一では、そのような偽りのキリストを反キリストと呼ぶ。

ヨハネの手紙一2章18節:反キリストが来ると聞いたことがあろうが、今この時でさえ多くの反キリストがいるのだ

 パウロ自身は、反キリストとは特定の個人を指すような言い方をする。テサロニケへの手紙が書かれた時代を考えると、十年前に自分を神として崇めることを要求し、神殿に像まで作らせようとしたカリグラ帝が念頭にあったかもしれない。

 だがカリグラは命令が実行される前に暗殺されたし、なによりも彼の死後、世界は終わらなかった。その後の歴史でも、ネロ帝、ドミティアヌス帝、デキウス帝、ディオクレティアヌス帝などが現れると、今度こそ反キリストに違いないと言われた。中世になると、他宗派のキリスト教徒が反キリストだと互いに言い合い、宗教改革が起こると、カトリックはプロテスタントを、プロテスタントはローマ教皇を反キリストと呼び合った。

 しかし、いくら待っても、どれだけ凶悪な人物が出現しても、キリストの再臨は起こらず、やがて反キリストが口にされることはなくなっていった。レーニンもヒトラーも、もはや反キリストとは呼ばれなかったのである。



『テモテへの手紙一』

 テサロニケ宛に続く三つの手紙は、「牧師」宛てに、教会の運営について助言を与えるために書かれている。宗教指導者を牧師と呼ぶのは、人間を羊に例えることからきている。その最初の手紙の宛先はパウロの愛弟子である。

テモテへの手紙一1章1節:イエス・キリストの使徒パウロより
テモテへの手紙一1章2節:我が信仰の息子テモテへ

 ところが、この手紙は書かれた時期が謎である。

テモテへの手紙一1章3節:私がマケドニアへ行くとき、君はエフェソに留まるように望んだ
テモテへの手紙一3章14節:近日に君の所へ行けることを望みつつ、これを書いている

 だが、使徒言行録のどこにも、この記述が当てはまる時期はない。この手紙の著者が真にパウロなら、考えうるのは、使徒言行録に記された時代よりも後で書かれたことだろう。使徒言行録は、ネロ帝がローマのキリスト教徒を弾圧した紀元六四年で終わっているが、テモテへの手紙一を信じるなら、パウロは弾圧の原因となった大火の前にローマを立ち去ったことになる。ローマに残っていれば、ライオンのえさにされるか、火焙りになったろう。それなら弟子のテモテと二人でエフェソへ行き、テモテはエフェソに留まったと考えられる。バイブルには記述がないが、テモテはエフェソの初代司教となり、やがて、ネロ帝よりもはるかに本格的な弾圧を行ったドミティアヌス帝の時代に殉教したという話が伝わっている。

 もっとも「牧師宛」の手紙は、パウロのものとは文体や用語が異なり、後世人が使徒パウロの名を借りただけで、そもそもパウロの著作ではないという意見もある。



『テモテへの手紙二』

 明らかに、テモテへの手紙一の続きである。いくつかの町を訪れた後、著者は自分の死が近いことを語っている。

テモテへの手紙二4章6節:召されるための準備はできた、旅立ちの時は近い
テモテへの手紙二4章7節:私はよく戦い、使命を終え、信仰を保った、

 この手紙も、パウロの著作と信じるなら、ローマを逃れた彼は再び捕らえられ、今度こそ殉教したのだろう。つまりテモテへの手紙二は、パウロが最後に書いたものということになる。



『テトスへの手紙』

テトスへの手紙1章1節:神の下僕にしてイエス・キリストの使徒であるパウロより、
テトスへの手紙1章4節:信仰を同じくする我が息子テトスへ、
テトスへの手紙1章5節:この目的のため君をクレタに残した。君は正しくない状況を直さなければならない

 パウロはローマへ向かう途上でクレタ島に寄っているから、その地に弟子のテトスを残したのだろう。手紙の中で、パウロは、クレタ人について警告し、異端への警戒を怠るなと言う。

テトスへの手紙1章12節:彼ら自身の預言者さえも、クレタ人は常に嘘をつく悪辣な獣で、満足することのない大食いだ、と言っている

 パウロがいう「預言者」とは、前七世紀のエピメニデスのことだと解釈されている。洞窟で五十七年も眠り続け、目覚めた時は魔術師になっており、百五十歳もしくは三百歳の寿命を保ったという伝承の中の人物である。



『フィレモンへの手紙』

 フィレモンはコロサイの人である。

フィレモンへの手紙1章1節:イエス・キリストの囚われ人パウロ、及びテモテより、フィレモンへ
フィレモンへの手紙1章2節:そして我らが愛すべきアフィア、アルキポス、そして君の家の中の教会へ

 自分の家の中で教会の集まりを持つということは、フィレモンはコロサイのキリスト教徒の指導的立場にいたのに違いない。アフィアは彼の妻、アルキポスは息子であろう。アルキポスの名はコロサイの信徒への手紙に登場する。

コロサイの信徒への手紙4章17節:アルキポスに伝えよ、受託した主の使命を思い、それを果たすように、と

 ということは、コロサイの信徒の実質の指導者は、息子のアルキポスということも考えられる。フィレモンへの手紙はコロサイ教会への手紙と同時期に書かれたのだろう。実際、コロサイ教会への手紙をティキコスが託された時、もう一人の人物の名が挙げられている。

コロサイの信徒への手紙4章8節:私はティキコスを送ったが、
コロサイの信徒への手紙4章9節:我が忠実で愛すべき兄弟にして、諸君の一人であるオネシモスも一緒に付けた

 このオネシモスはフィレモンの奴隷だったが、主人の財産を盗んで逃亡したのを、ローマでパウロと出会い、入信した人物である。パウロは、オネシモスをフィレモンのもとへ送り返し、ただし罰すべき逃亡奴隷ではなく、信仰の仲間として扱うように求めている。しかも、フィレモンが被った損失を償うことまで申し出ている。

フィレモンへの手紙1章15節:君は彼を受け入れねばならない
フィレモンへの手紙1章16節:それも奴隷ではなく、兄弟として、
フィレモンへの手紙1章18節:もしも彼が迷惑をかけ、君に借りがあるなら私に言いたまえ
フィレモンへの手紙1章19節:私が支払おうではないか

 キリストの教えはすべての人間のためにあると訴える、パウロの有名な言葉がある。

ガラテヤの信徒への手紙3章28節:ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、イエス・キリストの中では皆ひとつの存在なのだ

 とはいえ、パウロが奴隷制度そのものを否定したわけではない。

エフェソの信徒への手紙6章5節:奴隷は、肉の世界の主人に、キリストに仕えるように、恐れと真心をもって仕えねばならない

 当時は奴隷なしの社会など考えられなかった。現代社会が奴隷を必要としないのは、機械のおかげにほかならない。パウロはただ、フィレモンにオネシモスを寛容に扱ってくれと頼んだだけである。



『ヘブライ人への手紙』

 この手紙の著者が誰かは書かれていないが、これまでのパウロの手紙と比べると異なる点がいくつもある。まず全体の構成がしっかりしており、原文のギリシャ語の質も高く、口頭の説教を文書化したようにみえる。

ヘブライ人への手紙6章9節:だが愛すべき人々よ、このように話しつつも、諸君のより良きこと、救済とともに来たるものを、我らは理解している

 この手紙はまた、冒頭の書き出しも、著者と宛名を記するパウロの体裁とは異なる。

ヘブライ人への手紙1章1節:神はかつて我らの父祖に、時を選び、多様な形で、預言者をして語らせた
ヘブライ人への手紙1章2節:今や、神の子によって、我らに語ったのだ

 神学面の思想も、パウロのものとは異なり、むしろフィロンのような、アレクサンドリアの哲学に精通した、教養あるユダヤ人を思わせる。後世、マルティン・ルターは、パウロの助手のアポロが著者ではないかと考察した。

使徒言行録18章24節:アレクサンドリアの出身で、弁が立ち、かつ経典に精通した、アポロという名のユダヤ人が、

 たしかに、アポロならこの手紙の著者の条件に当てはまる。

 なぜ、ヘブライ人への手紙と呼ばれるのか。そもそも、ここでいうヘブライ人とはユダヤ教徒のことなのか、それともユダヤ系のキリスト教徒のことなのか?

ヘブライ人への手紙13章24節:イタリアの人々が敬意を込めて挨拶をしている

 と書かれていることからして、手紙の著者はイタリアの外に、受取人はイタリアにいるように思われる。最もありそうなことは、著者はアレクサンドリアの住人で、受取人はローマに住むユダヤ系のキリスト教徒であろう。書かれた時期についても、状況から推測するしかないが、

ヘブライ人への手紙10章28節:モーセの律法を侮る者が容赦のない死に方をしたことには、複数の証人がある
ヘブライ人への手紙10章29節:では神の子を踏み付けにした者がどれほどの罰に値するかを考えてみよ

 というくだりは、ネロ帝による弾圧の時代に書かれたのかもしれない。あるいは、わざわざヘブライ人を対象に書かれたのは、エルサレムの神殿が破壊された紀元七〇年以後、キリスト教内部における異邦人の優勢が顕著になり、ユダヤ系の信徒たちが元のユダヤ教へ回帰し始めたため、彼らを繋ぎ止めるためだったかもしれない。そのために、イエスが旧約聖書の創世記で語られる祭司長のことだと言う。

ヘブライ人への手紙6章20節:イエスはメルキゼデクに連なる祭司長となった

 メルキデゼクは、アブラハムの勝利を祝いに来た王であり、聖職者でもあった。



『ヤコブの手紙』

 ヘブライ人への手紙に続く七通の手紙の著者はパウロではないし、特定の教会へ宛てたものでもない。宛先はいわばすべてのキリスト教徒である。最初に来る手紙の著者はヤコブという人物だという。

ヤコブの手紙1章1節:神と主イエス・キリストの下僕ヤコブより、各地に散居する十二部族へ

 このヤコブは、イエスの弟で、エルサレム教会の指導者だったヤコブのことだという考えが、一般に支持されている。ユダヤ人の史家ヨセフスの記述では、紀元六二年、エルサレムの祭司長アンナス二世が、ローマの総督フェストゥスが後任者に交替する間隙をついて、ヤコブを処刑したことになっている。ユダヤ人がローマへの反乱に立ち上がるのはわずか四年後で、すでに民族主義者たちの感情は沸騰寸前だったのであろう。彼らはローマに抵抗しようとしないキリスト教徒を裏切者とみなし、アンナスは彼らを抑えきれなかったと思われる。

 六二年に死んだヤコブが著者なら、この手紙が書かれたのはそれより前になる。それどころか、キリスト教徒を「十二部族」つまりユダヤ人と呼び、異邦人への割礼免除問題がどこにも言及されていないので、書かれたのは、異邦人の入信が大問題になる紀元四八年のエルサレム会議より前、つまりパウロのどの手紙よりも前ではないかと思われる。

 一方で、手紙のギリシャ語の質は高く、ヤコブのような、ガリラヤの庶民出身の人物の筆にはみえないのも事実。手紙の内容は、人々に、正しい行いについて教えるものである。



『ペトロの手紙一』

 続く二通の手紙は、使徒ペトロによるものだという。

ペトロの手紙一1章1節:イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、コパドキア、アジア、ビテュニアの人々へ、

 もっとも書かれている内容はパウロの思想に近いし、そもそもガリラヤ人のペトロがギリシャ語に堪能だったとは思えない。あるいは、翻訳者の助けを得たのかもしれない。それを窺わせる記述がある。

ペトロの手紙一5章12節:忠実な兄弟シルバノスの手を借りて、この手紙を書いた

 シルバノスといえば、テサロニケへの手紙に登場するパウロの弟子で、パウロの二度目の旅に同行した使徒言行録のシラスと同一人物ではないか。新約聖書を通して描かれるペトロは意志の弱い人物で、もし彼がパウロの弟子の助けを借りて手紙を書いたなら、手紙自体がパウロの思想に引きずられた可能性は、大いにある。

 もっとも、手紙が書かれたのはペトロやパウロの死後かなりの年月を経た後で、権威を持たせるためにペトロの名を借りたのかもしれない。手紙の末尾にこのような記述がある。

ペトロの手紙一5章13節:バビロンの教会が、挨拶を送る

 もちろんバビロンは消滅して久しいが、現在の迫害者を過去の迫害者の名で表すのは、バイブルで何度も利用された方法で、バビロンとはローマに他ならない。ペトロがローマへ行った記述はバイブルのどこにもないが、後世には事実として認められ、彼こそが初代のローマ教皇ということになった。

 しかし使徒の時代のキリスト教を最も迫害したのはユダヤ教徒であって、パウロの例に見られるように、ローマはむしろ保護者であることが多かった。六四年にネロ帝の迫害はあったが、ローマ市だけのことで、帝国全体ではない。そのユダヤ教徒は、やがてローマへの反乱の結果、壊滅状態となり、キリスト教を迫害するどころではなくなった。ローマが真にキリスト教の迫害者となるのは、八一年から九六年まで在位したドミティアヌス帝の時代である。この時はじめて、手紙の冒頭に挙げられた諸地域のキリスト教徒は、帝国による迫害を経験することになる。

ペトロの手紙一4章12節:愛すべき者たちよ、諸君を襲う炎の試練を、異常事態と思うな

 その後二世紀にわたって、ローマこそが迫害者すなわち「バビロン」となったのだ。そうなると、この手紙が書かれたのはペトロよりも一世代か、それ以上あとのことになる。



『ペトロの手紙二』

 次の手紙もペトロが書いたことになっている。

ペトロの手紙二1章1節:イエス・キリストの下僕にして使徒のシモン・ペトロより、同じ尊い信仰をを得た人々へ、

 しかし、ペトロの手紙一やヤコブの手紙と同様、その文体や内容から、これもまた後世の著作と考えられている。とくにそれをはっきりと示唆するのは、この部分だろう。

ペトロの手紙二3章15節:我らの主が長く苦難に会われたことが救済であり、我らの愛すべき兄弟のパウロも、
ペトロの手紙二3章16節:彼の書簡集で述べているだろう

 パウロの手紙がすでに書簡集としてまとめられていたなら、パウロ自身の時代から年月を経た時代でなければならない。また、この手紙の中には、キリスト教徒の中には、待てど暮らせどキリストの再臨が起こらないことに、不信の念を抱く者が現れていることを窺わせる記述もある。

ペトロの手紙二3章8節:主の一日は千年であり、千年は一日である
ペトロの手紙二3章9節:主が約束を守るに怠惰なのではない

 このような言い方で信徒たちを説得せねばならないとすれば、やはり使徒たちの時代よりも後世に書かれたことが、分かるだろう。



『ヨハネの手紙一』

 ここからの三つの手紙は著者の名が入っていない。ただ、文体も内容も第四福音書と酷似しており、同じ作者であるのは確実と思われる。イエスを「言葉」と呼ぶことまで共通している。

ヨハネの手紙一1章1節:始まりから存在したもの、命の言葉、

 それゆえ第四福音書の著者がゼベダイの子ヨハネとされているので、この三つの手紙もヨハネの手紙と呼ばれる。紀元一〇〇年頃エフェソで書かれたことが推測されるのも、第四福音書と同じである。三つの内で最初の手紙が最も長く、反キリストに気をつけること、兄弟愛を持つことを訴える内容になっている。



『ヨハネの手紙二』

 二つ目と三つ目のヨハネの手紙では、著者は自分のことを「長老」と呼んでいる。

ヨハネの手紙二1章1節:長老より、選ばれた婦人とその子供たちへ

 婦人というのは、特定の女性を指すのかもしれないが、あるいは教会のことかもしれない。

※カトリックでは、イエスと教会を、夫と妻の関係に例える※



『ヨハネの手紙三』

 三つ目のヨハネの手紙も同様の書き出しになっている。

ヨハネの手紙三1章1節:長老より、愛すべきガイウスへ

 ガイウスは、他宗派との争いでヨハネを支持した味方であったようだ。

ヨハネの手紙三1章9節:教会へ手紙を出したが、地位を望むディオトレフェスが、我らを拒んだ
ヨハネの手紙三1章10節:私が訪れることがあれば、彼(ガイウス)の功績を忘れまい



『ユダの手紙』

 手紙の中で最後に収録されているのがユダの手紙である。冒頭で著者の名を挙げる。

ユダの手紙1章1節:イエス・キリストの下僕にして、ヤコブの兄弟のユダより、聖者たちへ、

 ヤコブとユダの兄弟といえば、イエス自身の兄弟として福音書に現れる。

マタイによる福音書13章55節:これは大工の息子ではないか、それに弟のヤコブとヨセフとシモンとユダではないか

 だが、この手紙の内容はペトロの二通目の手紙の第二章とそっくりで、やはりドミティアヌス帝の時代に書かれたと思われるので、たとえ著者の名がユダだとしても、兄弟云々は、権威付けのための加筆であろう。異端を攻撃する点もペトロの手紙二と共通するが、ユダは黙示文学を引用し、異端者をサタンと呼んでいる。

ユダの手紙1章9節:大天使ミカエルが悪魔と争ったとき、モーセの遺体に関する議論となった

 これはイエスと同じ時代にパレスチナのユダヤ人が著した、モーセの死と埋葬と昇天の伝説に基づいている。人間の魂が死後に裁かれるとき、悪魔は生前の罪を告発する。モーセはエジプト人監督を殺したから、天国へ入る資格はないと、悪魔は主張した。

出エジプト記2章11節:モーセが成長した時、エジプト人がヘブライ人を打っているのを見た
出エジプト記2章12節:モーセは周囲を見て、誰もいないことを確認すると、エジプト人を殺して砂に隠した

 この伝説が広く信じられていたとなると、手紙が書かれたのはやはりイエスの時代よりもずっとあとであろう。

投稿時間:2016/03/27(Sun) 22:47
投稿者名:Ken
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エズラ記二
『エズラ記二』

 黙示文学は紀元七〇年のエルサレム神殿破壊後も作られ続けた。むしろ、ユダヤ人にとって状況が絶望的になるほど、世を正す救世主の出現が待ち望まれたのだ。神殿破壊から一世代を経た頃に書かれたユダヤ教の黙示録の一つは、バイブルの複数の異本の中に座を占めることになった。この書もまた、著者は遠い昔の著名人に設定され、実際に書かれた時代より五世紀半前に活動したエズラということになっている。ユダヤ教の外典だが、キリスト教の記述も混ざっている。

 構成的には、最初と最後の各二章はキリスト教徒による加筆でギリシャ語で書かれ、それ以外の部分はアラム語の原文をギリシャ語に翻訳したものである。もっともアラム語もギリシャ語も原文は失われ、ラテン語訳のみが現存し、カトリック教会はこれを正典に含めている。

※日本聖書協会のサイト(http://www.bible.or.jp)では、この書を『エズラ記(ラテン語)』と名付けている※

 最初の二章は割礼を否定し、ユダヤ人が態度を改めないと神に見捨てられ、別の民族が選ばれると警告している。本来の文章は第三章から始まる。

エズラ記二3章1節:町が破壊された三十年後、私はバビロンにおり、眠れぬ夜を過ごしていた
エズラ記二3章2節:なぜならシオンが荒廃し、その富はバビロンに移されたのだから

 ネブカドネザルがエルサレムと神殿を破壊してから三十年といえば前五五六年で、史実のエズラが活動した時期より一世紀も前になるが、ここではローマがエルサレムと神殿を破壊してから三十年と黙示的に言っているので、この書は紀元一〇〇年頃に書かれたことになる。なぜ異教徒のバビロン人(実はローマ人)ばかりが栄え、ユダヤ人は惨めさの中に置かれるのかという「エズラ」の問いかけに、神の回答がくる。

エズラ記二4章1節:ウリエルという名の天使が遣わされ、私に答えた

 ウリエルの名は旧約聖書には登場しないが、この一節のせいで、ミルトンは『失楽園』でウリエルを太陽を司る天使として描き、イスラム教ではウリエルはイスラエルの別名で、世界の終わりを告げるラッパを鳴らすのは彼であるという。(キリスト教ではガブリエルの役目になっている。)ウリエルは「エズラ」に、神の計画は人間には理解不能なので、とにかく審判の日の後に理想の世界が訪れると言う。そして、その前に起こる奇跡をウリエルは語る。

エズラ記二5章4節:太陽は夜また輝き、月は昼にみたび輝く
エズラ記二5章5節:木は血を流し、石は声を上げる
エズラ記二5章6節:ソドムの海から魚が獲れる

 ソドムの海は、古代都市ソドムが沈んだ、一切の生き物がいない死海のことだ。そこに魚が現れるというのである。これを皮切りに、ウリエルは数々の奇跡を語ってゆく。そして最後に現れる神のしるしがある。

エズラ記二7章28節:我が息子イエスが現れ、生ある者は皆、四百年の喜びの時をもつ
エズラ記二7章29節:その後、わが子キリストと、すべての生ある者は死ぬ

 キリスト(救世主)を「イエス」と呼ぶことから、この部分がキリスト教徒の加筆であることが分かる。救世主の王国は世界の終りの後ではなく、その直前に来ることになっている。

 ウリエルが「エズラ」に見せる光景の中に、ダニエル書で有名になったものがある。

エズラ記二11章1節:私は夢を見た、海中より鷲が現れ、それは十二の翼と三つの頭をもち、

 この鷲はダニエルが見た四匹目の獣だと、ウリエルはいう。

エズラ記二12章11節:君が見た鷲は、君の兄弟のダニエルが見た王国なのだ
エズラ記二12章12節:ダニエルには説明がなされなかったので、今、君に告げる

 ダニエル書の四つ目の王国は、このように語られている。

ダニエル書7章7節:四番目の獣を見よ、恐ろしく、比類なく強く、鉄の歯と十本の角をもち、

 ダニエル書の著者はアンティオコス四世の時代に生きたから、獣はセレウコス朝で、十本の角は、その時点までの十代の王を表す。だが、第二エズラ記の時代には、獣は当然ローマ帝国であって、十二の翼は、その時点までの十二代の皇帝にほかならない。

エズラ記二12章14節:同じく十二人の王が順に現れ、
エズラ記二12章15節:二人目が最も長い時間を持つ
エズラ記二12章16節:十二の翼はそのことを示す

 ユリウス・カエサルを初代の皇帝と考えると、十二代は、ユリウス、アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ、ガルバ、オト、ウィテリウス、ウェスパシアヌス、ティトゥス、ドミティアヌスで、四十一年君臨した二代目のアウグストゥスは、たしかに他の十一人よりも治世が長かった。

エズラ記二11章29節:三つのうち最も大きな中央の頭が目覚め、
エズラ記二11章31節:見よ、王位に就いたはずの、翼の下の二つの羽毛を喰らい、
エズラ記二11章32節:そしてこの頭は地上のすべてを支配する

 三つの頭はフラウィウス家の三帝で、大きな中央の頭がウェスパシアヌス、両側の小さな頭がティトゥスとドミティアヌスに該当する。第二エズラ記の著者にとっては、最も凶悪な皇帝たちで、ウェスパシアヌスとティトゥスは反乱を起こしたユダヤ人を討伐し、特にティトゥスは神殿を破壊させた当人である。三つ目の頭(ドミティアヌス帝)のとき、新たな獣が鷲を退治するという。

エズラ記二11章37節:吼える獅子が森から現れ、鷲に言った
エズラ記二11章39節:お前は四頭の獣の生き残りではないか、と
エズラ記二12章3節:そして鷲の肉体は焼き尽くされた

 そしてウリエルは獅子の正体を明かす。

エズラ記二12章31節:君が見た、鷲を責める獅子は、
エズラ記二12章32節:油を注がれた王であり、

 言い換えれば、救世主が現れてローマを倒すといっている。だが、史実のローマは倒れるどころか、ドミティアヌス帝のあと、最も繁栄した「五賢帝」時代を迎えるのだ。だが、第二エズラ記のような文書に扇動されたユダヤ人は、各地で反乱を繰り返しては鎮圧され、そのつど根絶やしにされ、とうとう帝国各地で細々と生きるだけの存在になってしまった。

 また、救世主が異教徒を倒した後の光景を、このように描いた記述もある。

エズラ記二13章12節:その後、その人は平和を好む人々を呼び寄せた
エズラ記二13章40節:彼らはアッシリア王に連れ去られた十部族で、

 イスラエル王国が滅んでから八百年を経ていたが、まだ彼らの子孫がどこかで強国を築き、ユダヤの兄弟を助けに来るという夢を見ていたのだ。

 最後の二章は、キリスト教徒が三世紀に加筆したもので、外典まで含めたバイブル全篇で最も遅く書かれたものである。神がエジプトについて語っている。

エズラ記二14章10節:見よ、我が民は根こそぎ殺されている、彼らをエジプトで災厄の中には置かぬ
エズラ記二14章11節:私はエジプトを討ち滅ぼすであろう

 我が民はキリスト教徒、エジプトはローマのことだ。ただし、現実のエジプトで起こったことが、題材になっているかもしれない。神の民が殺されつくす記述は、何度も反乱したユダヤ人が、エジプトだけでなくヨーロッパ以外のすべての地で根絶やしにされた事実を背景にしているかもしれない。また、二一五年にカラカラ帝がアレクサンドリアの博物館への援助を打ち切ったことが、エジプトを襲う災厄と見なされた可能性もある。さらに二六〇年を過ぎた頃、飢饉と疫病がアレクサンドリアを襲い、大量の死者が出ている。

 何よりも、三世紀になるとローマ自体が衰退の道を辿っていた。東方ではサーサーン朝帝国が強大になり、ローマは敗退を続け、ついにはローマ皇帝ウァレリアヌスまでが捕虜になった。いよいよ悪が倒れ、救世主が現れる兆候に見えても不思議ではない。

 だが、ローマはまだ倒れなかった。そこから有能な皇帝が続いてサーサーン朝を撃退し、二八四年に即位したディオクレティアヌス帝の下で、元の姿を取り戻した。そして三〇六年に即位したコンスタンティヌス帝の治世で、ついにキリスト教の国になるのである。

投稿時間:2016/05/08(Sun) 23:14
投稿者名:Ken
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ヨハネの黙示録
『ヨハネの黙示録』

 ドミティアヌス帝の時代にキリスト教徒の手で書かれ、バイブルの正典となった黙示文学が本書である。新約聖書の最後の一書で、イザヤ書やダニエル書のように一部ではなく、全体が黙示文学となっている唯一の書でもある。黙示文学といえば、著者名に過去の著名人の名を借りることが多いのだが、本書の著者は自ら名乗っている。

ヨハネの黙示録1章1節:神がイエス・キリストに与えた啓示で、まもなく起こることをイエスの下僕たちに示すため、天使がイエスの下僕ヨハネに伝えた

 だが、どのヨハネなのか。第四福音書の著者で、十二使徒の一人ヨハネと考えられることが多く、カトリック版のバイブルでは「使徒聖ヨハネの黙示録」という題名がついている。だが、本書と第四福音書では、文体、用語、なにより思想が大きく異なる。それに本書の著者は自分のことを「イエスに愛された弟子」と言っていない。ヨハネはヨハネでも別人なのであろう。

 この黙示録もまた、勝ち誇る悪の勢力に迫害される信徒たちに、信仰が報われる日は近いという。

ヨハネの黙示録1章3節:この予言を読むものは幸いである、その日は近いのだから

 著者は旧約聖書から、大量に表現を借用している。

ヨハネの黙示録1章7節:見よ、その人は雲に包まれて現れ、全ての目がその人を見るだろう。その人を刺した者たちもだ。地上の親族までもが、その人のために泣き叫ぶだろう
ヨハネの黙示録1章8節:私はアルファでオメガ、始まりと終りであると主は言われた。過去と現在と未来なのだ、と

 これらは、ダニエル書、ゼカリヤ書、イザヤ書の黙示部分に元になった文章がある。

ダニエル書7章13節:見よ、人間の息子が天の雲と現れ、
ゼカリヤ書12章10節:彼らは自分たちが刺した私を見上げて嘆くだろう
イザヤ書44章6節:主はいわれる、私は最初であり、最後なのだ、と

 ヨハネは、この神の啓示を七つの教会へ伝えるべく指示を受けたと語る。

ヨハネの黙示録1章10節:私は、背後で大きな声を聞いた
ヨハネの黙示録1章11節:君の見たことを書にしてアジアの七教会へ伝えよ、と。すなわち、エフェソ、スミルナ、ペルガモス、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの教会へ

 このうちエフェソ、ティアティラ、ラオディキアは、使徒言行録やパウロの手紙に登場するが、あとの四つがバイブルに登場するのは、この黙示録だけである。

 実際の教会は七つよりも多かったはずだが、ヨハネの黙示録には、七という数がいたるところで現れる。あたかもマジックナンバーであるかのようだ。これはこのときに始まったことではなく、天地創造が六日で行われ、安息日を加えて、一週間が七日になっていることから分かるように、創世記もその元になったバビロニア神話も、七をマジックナンバーと考えている。天空を移動する七つの天体(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星)があることに由来するのは疑いない。

 七教会のそれぞれに天使が伝えるメッセージが黙示録で語られる。現代人が読んでも意味不明なものが多いが、当時の人々には容易に理解できるものであった。まず、最も重要なエフェソ教会だが、

ヨハネの黙示録2章4節:それでも、君たちには問題もある、当初の愛を喪失している

 このように言われるところをみると、エフェソ教会は以前ほどの熱心さを失っていたのだろう。ただしヨハネが非難する宗派をエフェソ教会も非難することでは、賞賛されている。

ヨハネの黙示録2章6節:私が憎むニコライ主義者の行いを君たちも憎んでいる

 ニコライ主義者がどういう教義を唱えたのかは記されてないが、どうやら初期キリスト教の特徴である、あらゆるものを分け合う思想を極端に拡大解釈し、夫や妻まで分け合う、つまりどんな相手とでも自由に性的関係を持ってよいという主張を行っていたらしい。そのことは、ペルガモス教会への言葉から察せられる。

ヨハネの黙示録2章14節:その地には、バラムの教えに従い、イスラエルの子等を妨害せよとバラクに教えた者たちがいた
ヨハネの黙示録2章15節:彼らは私が憎むニコライ主義者の教えに従うのだ

 民数記の呪術師バラムは、モアブ王バラクの依頼でイスラエルを呪うつもりが、意に反して祝福を与えることになったので、今度は女たちを利用してイスラエル人を堕落させる提案をしたことになっている。

民数記25章1節:イスラエルはシティムに滞在し、民はモアブの娘たちと背徳の行為を始めた

 サルディス教会も警告を受けるが、何名かは立派な者もいると言われる。

ヨハネの黙示録3章5節:その者の名を生命の書から消すことはしない

 本来、生命の書とは生きている人間のリストのことで、ここから名を消されるのは、単に死ぬことを意味した。これがバビロン捕囚以後の時代になると、死後神の国へ行ける者のリストに変質する。

 フィラデルフィア教会は、信仰の強さを讃えられる。

ヨハネの黙示録3章8節:諸君には力がある、我が言葉に従い、我が名に背かず

 この町のその後の歴史は、そのとおりになった。千年後にトルコ帝国が小アジアを征服しイスラム化してゆく過程で、一三九〇年に陥落するまでキリスト教の砦だったのがこの町なのである。一六八二年に開拓者ウィリアム・ペンがアメリカのデラウェア河畔に建設した町の名にも採用された。ペンは黙示録のこの一節を知っていたのだ。

 対照的に激しく非難されるのがラオディキア教会である。ヨハネの考えに賛成も反対もせず、責任逃れの態度に終始したことが許せなかったのだ。ヨハネは、信頼できない味方よりは、正直率直な敵の方がよほどましと考えたようである。

ヨハネの黙示録3章15節:君らがしたことは承知している。君らは冷たくも熱くもない。むしろどちらかの方がよい
ヨハネの黙示録3章16節:君らは優柔不断で、冷たくも熱くもないから、私は君らを吐き出すだろう

 「無関心」を意味する英語の「Laodicean」の由来はここにある。

 ここからは天国の描写へと記述が移る。ダニエル書、エゼキエル書、イザヤ書から多くの題材を採用し、七つの封印を施された預言書と、その封印を解く救世主が登場する。

ヨハネの黙示録5章6節:見よ、長老たちの中に、かつて惨殺された子羊が現れ、
ヨハネの黙示録5章7節:その子羊は近づいて、玉座の人の右手よりその書を受け取り、

 子羊の正体が何者であるかは、説明の必要もない時代だった。

ペトロの手紙一1章18節:諸君の罪は消える
ペトロの手紙一1章19節:一点の汚れもない子羊の姿をとるキリストの高貴な血のおかげで

 預言書の七つの封印は一つずつ解かれてゆくが、最初の四つは、封印が解かれるごとに騎馬が現れる。

ヨハネの黙示録6章1節:子羊が封印の一つを開くと、
ヨハネの黙示録6章2節:見よ、白馬にまたがる人は弓を持ち、冠をいだき征服に赴いた
ヨハネの黙示録6章3節:二つ目の封印を開くと、
ヨハネの黙示録6章4節:赤馬にまたがる人には、地上の平和を奪う力が備わり、
ヨハネの黙示録6章5節:三つ目の封印を開くと、見よ、黒馬にまたがる人は、一対の天秤をもち、
ヨハネの黙示録6章6節:声がして麦一はかりが一ペニーといい、
ヨハネの黙示録6章7節:四つ目の封印を開くと、
ヨハネの黙示録6章8節:見よ、無色の馬が現れ、またがる人の名は「死」である

 それぞれの騎馬は、救世主の到来前に地上世界を(とりわけローマ帝国を)襲う災厄を表す。白馬の騎士は戦争を表す。特に、弓は、ユリウス・カエサルの時代から一貫して東方の脅威だったパルティアの象徴といえる。赤馬も戦争であるが、とりわけ悲惨な流血を伴う内乱と叛乱を意味するのだろう。黒馬は、一はかりの麦に一ペニーという法外な高値をつけることから、明らかに飢饉を意味する。無色の馬と騎士は「死」というが、最初の三つの原因による死と区別されているので、考えうるのは疫病である。世界の終りの前兆である戦争、謀叛、飢饉、疫病という四つの災厄を、その後の歴史の中で探し求める人々は、近代まで現れ続けた。二十世紀になると、黙示録のこの箇所は、ほかならぬ一九一四年から一九二〇年までの世界を予言したものだという解釈まで現れた。戦争は第一次大戦、謀叛はロシア革命、飢饉は大戦後にロシアとドイツを襲った大凶作、そして疫病は一九一八年に世界規模で流行し、大戦以上に人名を奪ったインフルエンザというわけだ。

 五つ目の封印が解かれると、審判の日を待つ殉教者たちの魂が現れ、六つ目の封印が解かれると、世界の終りが始まる。いよいよクライマックスで、七つ目の封印が解かれ、世界が終わり最後の審判がなされるはずなのだが、ヨハネの黙示録は、ここからこのクライマックスを何度も先へ延ばす。まず、六つ目の封印が解かれた後で、

ヨハネの黙示録7章1節:私は四人の天使を見た
ヨハネの黙示録7章3節:彼らは言う、神の下僕たちの額に印をつけるまで、地上を傷つけるな

 救済されるべき人々は、いわば神の所有物の印を付けられるのだが、その人数まで指定される。

ヨハネの黙示録7章4節:印を付けられる人の数を聞いた、イスラエルの全部族から十四万四千人だ、と

 人類の総数と比べて救済される数が少なすぎるようだが、数値自体には意味がない。七と同じく十二も聖なるマジックナンバーで、十二を二度かけて、最大の数を表す言葉の「千」をかけると百四十四千、つまり十四万四千になる。なお、千の上の「ミリオン(百万)」という言葉が現れるのは、中世のイタリアである。結局「イスラエルの全部族から十四万四千人」とは「すべての正しい者、非常に多くの者」と言っているのと同じなのである。正しい者はもれなく救われるのだ。

 彼らの苦しみが洗い流される様が語られるのが、有名な一節である。

ヨハネの黙示録7章4節:彼らは大いなる試練から出てきて、その衣は子羊の血で洗われて白くなる

 いよいよ七つ目の封印が解かれるが、まだクライマックスは訪れない。七人の天使が順にラッパを鳴らし、その都度災厄が訪れる。とくに五人目の天使がラッパを鳴らすと、地獄の口が開く。

ヨハネの黙示録9章2節:すると穴から煙が昇り、
ヨハネの黙示録9章3節:煙の中からイナゴの大群が現れて地を覆い、
ヨハネの黙示録9章7節:イナゴは戦いに赴く馬のようであり、顔は人の顔のようである

 人面馬身の怪物は、当時の最大の恐怖だったパルティアの騎馬軍団のイメージだろう。退却に際しても、一斉に矢を放ち、敵に打撃を与える様が象徴的に描かれている。

ヨハネの黙示録9章10節:サソリのような尾をもち、とげで刺す

 六人の天使がラッパを鳴らし、次こそ世界が終わるかと思われたが、最後の七人目の前にまたも事態の進行はわき道へそれる。世界を悪の勢力が支配するのである。ドミティアヌス帝による迫害を述べる著者の意図は明らかだが、セレウコス帝国の迫害を描いたダニエル書の表現を借用している。

ヨハネの黙示録11章2節:神殿のない宮廷は異邦人のものとなり、聖都は四十二箇月のあいだ、彼らに踏みにじられる

 四十二ヶ月は三年半だから、アンティオコス四世が神殿を穢した時期と一致するが、もちろん黙示録が書かれた時代にはセレウコス朝は消滅して久しく、この神殿は、すでに破壊されていたエルサレム神殿ではなくキリスト教会で、迫害者もセレウコス帝国ではなくローマ帝国にほかならない。

 ついに七番目のラッパは鳴らされた。だがまだクライマックスは訪れず、今度は善と悪の戦いが描かれる。

ヨハネの黙示録12章1節:天に奇跡が起こり、太陽の衣、月の靴、十二の星の冠を身につけた婦人が現れ、

 その女性は救世主を出産する。

ヨハネの黙示録12章5節:彼女は男の子を産み、その子は鉄の杖で諸国を支配する

 だが、その子には敵がまちかまえていた。

ヨハネの黙示録12章3節:天にもう一つの奇跡があり、見よ、冠を着けた七つの頭と十本の角をもつ赤竜が現れ

 竜はつまりサタンで、赤子を呑み込もうとするが、救世主にも味方がいた。

ヨハネの黙示録12章7節:天で戦があり、ミカエルの天使軍と竜が戦った
ヨハネの黙示録12章8節:竜は敗れた
ヨハネの黙示録12章9節:巨大な竜は地に落ち、悪魔王またサタンと呼ばれた老いた蛇と、彼の天使たちもともに落ちた

 だが、地に落ちた竜はしぶとく戦い続け、地上の正しい者たちを苦しめる。

ヨハネの黙示録12章17節:竜はその婦人に怒り、彼女の子とその一党に戦いをしかけた。神の戒めを守り、イエス・キリストに忠実な人々である

 だから教会の受難は終わらない、と黙示録の著者は言うのである。

ヨハネの黙示録13章1節:私は見た、七つの頭と十本の角をもつ獣が海から現れ、頭上には神を冒涜する者の名があり、
ヨハネの黙示録13章2節:竜がその獣に力を与えた
ヨハネの黙示録13章3節:すると一つの頭が傷ついて死ぬが、その傷は治り、

 海から現れた獣とは地中海からやってきたローマ、七つの頭の一つが死んだとはネロ帝で、その傷が治ったのは、ローマ帝国がネロの後も続いたことを示す。ドミティアヌスが登場するまでは、迫害者とはネロ帝のことだった。

 神を冒涜するとは、皇帝を神として崇めることをいう。しかし、皇帝崇拝は、ローマほどの多様な言語、習慣、宗教をもつ国家を維持するにはどうしても必要で、近代国家が国旗への忠誠を国民に要求するのと変わらない。

 ここで、黙示録の著者は悪を体現する個人に言及するが、その名を言えば謀叛人になるので、暗号的な言い方をしている。

ヨハネの黙示録13章18節:賢人を連れてきて、獣に付いた数を見せよ、この数は人を表し、六百六十六である

 これを理解するには当時のヘブライ語の知識が必要なのだが、その前に、特定の文字はある数を表すことを思い出す必要がある。ローマ数字なら、Iは1、Vは5、Xは10、Lは50、Cは100、Dは500、Mは1000を表すから、例えばDill McDixという人物の名は合計2212になる。同様に、獣に付いた数666も特定の人物を表すと推測され、誰のことであるのか検討がなされてきたが、ネロ帝だろうという意見が最も多い。Nero Caesarをギリシャ風に書くとNeron Caesarで、これをヘブライ文字で表し、各文字の数を合計すると666になるのである。ローマ風にNero Caesarと書くとヘブライ語で50を意味するnが一つ抜け落ち616になる。実はヨハネの黙示録の古い原稿の中には、666ではなく616と書いているものもある。

 もっとも黙示録が書かれた時代には、ネロは四半世紀前に死んだ皇帝で、むしろドミティアヌス帝こそが言及されるはずである。おそらくは、当時のキリスト教徒だけに通じるドミティアヌスの呼び方があり、それが666だったのではなかろうか。

 その獣が支配する都に、神の印を付けた十四万四千人の正しき者が戦いを挑み、見事勝利する。

ヨハネの黙示録14章8節:バビロンは落ちる、落ちる、かの大都は

 もちろん大都バビロンとはローマのことだ。獣が敗北すると、善と悪の最終決戦の舞台が整う。

ヨハネの黙示録16章16節:その獣は、ヘブライ語でハルマゲドンと呼ぶ場所へ全軍を集め

 ハル・マゲドンはメギド山を意味する。前六〇八年、ユダ王国のヨシヤ王とエジプトのファラオ・ネコが戦いを交えた地である。

列王記二23章29節:エジプトの王ファラオ・ネコはアッシリア王と戦うために進み、ヨシヤ王は彼に挑んだが、メギド山で戦死した

 偉大な改革者ヨシヤ王はメギド山で敗れ、悪が勝利した。同じ地で、今度は善が勝つはずなのである。

 最後の時を前にして、天使が一つの光景を示す。

ヨハネの黙示録17章1節:来たれ、水の上に座す悪しき女を君に見せよう
ヨハネの黙示録17章3節:彼はそういって私を荒れ野へ連れ去り、私は緋色の獣に座す女を見た、その獣は神を冒涜する者の名に満ち、七つの頭と十本の角をもつ
ヨハネの黙示録17章4節:女は紫と緋を着込み、黄金と宝石と真珠を身に付け
ヨハネの黙示録17章5節:彼女の額には「偉大なるバビロン」という名が書かれていた

 ここまできて、獣の七つの頭の意味がついに解説され「バビロン」の正体に一切の疑問を残さなくなる。

ヨハネの黙示録17章9節:七つの頭は七つの山、そこに女が座す
ヨハネの黙示録17章10節:七人の王がおり、五人は歿し、一人は存し、もう一人はこれから来て、ごく短い間存する
ヨハネの黙示録17章11節:そして死に去った獣、八番目ではあるが、

 ユリウス・カエサルを初代とすればネロは六代目の皇帝で、彼の治世を表現するなら、五人の王は歿して、六人目が現存することになる。七人目のガルバ帝は、たしかに短期間君臨した後、反乱者に殺されている。これでは迫害者がドミティアヌスであるという事実と合わないようだが、ネロ帝の時代に書かれた文章を、黙示録の著者がそのまま転写したのではないか。

 そのバビロン(ローマ)もついに滅び、救世主の時代が訪れる。ただし、それさえも永遠に続くものではない。

ヨハネの黙示録20章1節:そして、私は天使が降臨するのを見た
ヨハネの黙示録20章2節:天使は竜を、そして悪魔王でありサタンである老いた蛇を捕らえ、千年の間、拘束した
ヨハネの黙示録20章3節:そして、その後、一旦解きはなち

 解き放たれた悪魔は、もう一度征伐され、ついに審判の日が来る。

ヨハネの黙示録20章12節:そして死者たちが、小なる者も大なる者も、神の前に立ち、裁きを受けるのを見た

 そして、不完全だった古い世界の代わりに、完璧な新しい世界が創造される。

ヨハネの黙示録21章1節:そして私は新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は消え去ったのだから
ヨハネの黙示録21章2節:この私ヨハネは、聖都、新しいエルサレムが、神から降るのを見た

 新しいエルサレムの偉大な様を言葉を尽くして語った後、その日がもうそこまで来ていることを、天使に語らせる。

ヨハネの黙示録22章6節:これらの予言は真実である、主なる神は天使を遣わし、まもなく来たるものを示されたのだ
ヨハネの黙示録22章7節:見よ、私はすぐにも来たる

 この神の約束を述べて、新約聖書は完結する。以後二千年、その約束はまだ実現しないが。

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これにて、アジモフのバイブルガイドの紹介を終了します。

投稿時間:2016/05/08(Sun) 23:17
投稿者名:Ken
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終りに〜アジモフ作品の中のバイブル
 外国の文学作品を読む難しさの一つに、その国の文化背景を知っていないと理解できない文章に遭遇することがあるのは、多くの人が経験されているでしょう。日本人が外国の作品を読むときも、外国人が日本の作品を読むときにも、そのような例を挙げればきりがありません。例えば、日本の小説の中に「敵に塩を送る」という表現が登場すると、一般的な日本人ならそれがどんな状況を表現しているのか直ちに理解しますが、日本の文化背景を知らない人が読めば何のことか分かりません。それどころか日本の習慣を中途半端に覚えている人は、まるで的外れの誤解をするかもしれないのです。例えば日本には「清めの塩」という習慣があるので、誰かに塩を送るという行為は、特にその誰かが「敵」である場合には、「お前は穢れた存在だから、この塩で清める」という侮辱の意味を込めていると思われる可能性もあります。「敵に塩を送る」という成句を理解するには、今から五百年ほど前にあった(史実かどうかは知りませんが)、日本史の中の特定のエピソードを知っていなければならないのです。

 日本人が外国の文学を読むときも同じ難しさに遭遇します。最も広範に親しまれている英米の文学作品も例外ではなく、とりわけバイブルは多様なところで引用されるので、多くの英米文学を読むための必須知識になっています。なかでも頻繁にバイブルを引用する作家の一人がアジモフではないでしょうか。

 例えば『鋼鉄都市』の第4章で、イライジャ・ベイリが、列王記に登場するイゼベル(ジェゼベル)王妃を語る箇所がそうです。王妃がヤハウェ神の祭司たちと抗争した話や、他人の果樹園を奪うために所有者を謀殺した話が語られます。また、同じ『鋼鉄都市』の第14章では、ヨハネの福音書に書かれたイエスの事跡が語られます。あるとき、不倫の罪を犯した女性が公開処刑をされることになりました。当時の処刑法は、衆で囲んで石をぶつけることでしたが、石を手に女に迫った人々にイエスが告げたといいます。「諸君の中で、罪を犯したことがない者が、最初に石を投げるがよい」と。すると、誰一人、手にした石を投げることができなかったという話です。(なお、イライジャ・ベイリは、この話は正義よりも慈悲が優先することを教えるのだ、とダニールに語りますが、すこし違うでしょう。すべての人は罪人であり、他人の罪を裁く資格などない、と教えるのが福音書の真意であると思います。)

 実をいうと、これらはアジモフ作品の中で、最も分かり易いかたちでバイブルが引用された例なのです。なぜなら、バイブルの物語自体が作品中で説明されているからで、バイブルを読んだことがない人でも、理解に困ることはまずないからです。

 いつもそういう親切な解説つきでバイブルが引用されるとは限りません。例えば『最後の質問』の末尾の一節は、こうです。

  「光あれ」と言われた
  そして光が生じた

 ここで引用元の説明はありません。それでもこれなどは一般的な教養をもつ読者なら、バイブルのどの部分を引いているのか、すぐに分かることでしょう。

 それに比べると、『永遠の終り』の第13章に登場する「サムソンの一撃」は、より理解が難しいといえます。ノイエスを奪われたと信じたハーランが決死の反撃を決意する場面でこの表現が登場しますが、「サムソンの一撃」自体の説明はありません。これは士師記の16章に登場する古代イスラエルの士師サムソンが、ペリシテ人に捕らえられ、両目を潰され奴隷にされていたのを、あるときペリシテ人が集まった建物の柱を壊して建物を崩落させ、多くの敵を殺したが、サムソン自身も建物の下敷きで死んだ、という話を引いているのです。それを知れば『永遠の終り』のハーランがタイムマシンの事故を故意に起こし、彼自身が命を落としてでも、エターニティを消滅させようとする行為との共通点が分かるでしょう。

 それでも、サムソンの一撃などは、バイブルの物語でも比較的知られた話といえます。これが『ファウンデーションと地球』の第8章で、ペロラトが古代の神話の一節と紹介する「イバラとアザミも与えよう」という文章などは、大半の日本人は知らないのではないでしょうか。私自身も何のことか分からず、バイブルを検索してみて、創世記の3章18節の文章と知った次第です。

 やはり『鋼鉄都市』に書かれた「顔を塗ったジェゼベル」などは、ある意味さらに厄介で、なぜジェシーがこの表現を気にしたのか、バイブルを読んでもまだ分からないかもしれません。列王記に書かれているのは、謀叛を起こした将軍が王妃を殺すために来たとき、王妃は化粧をしていた、という事実だけです。このことはしかしアジモフが『バイブル・ガイド』で説明したように、王妃がいかに最低の女であったかを示す逸話として、悪意の解釈をされるようになりました。そんな伝統を知っていないと、ジェシーの反応は理解できないのです。

 アジモフ作品には、バイブルの文章自体を引用してなくても、バイブルの世界を反映していると思わせる記述もあります。例えば『ファウンデーションへの序曲』に登場するマイコゲンの人々を思い出してください。彼らが徹底した脱毛処理を行い、それをしていない外部の「部族民」を激しく忌避するのは、それだけを読んでも面白いでしょうが、古代のユダヤ人が律法によって髭を剃ることを禁じられ、髭を剃っているエジプト人やローマ人を憎み軽蔑していた事実を知れば、アジモフの意図がよりよく理解できるでしょう。ユダヤ人とマイコゲン人の行為は正反対ですが、異民族の習慣に呑み込まれてしまうことを恐れ、自分たちの伝統に固執する点では同じなのです。

 私は思うのですが、アジモフが1960年代の後半に『バイブル・ガイド』を発表した動機の一つに、アメリカにおいてすら、人々がバイブルの知識を失いつつあり、アジモフ作品が次第に読みにくいものになっていた背景があるのではないでしょうか。あくまでも動機の中のひとつですが。

投稿時間:2016/06/16(Thu) 14:18
投稿者名:徹夜城(第一発言者)
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遅ればせながら大作ありがとうございました。
しばらくこちらを放置してしまっておりましたが…いつしかアシモフの聖書ばなしの解説、完成されていたんですね。

いや〜〜〜これはそれこそ一冊分くらいの内容の濃さがありますね。アシモフ関連というだけでなく歴史読み物としても興味深いものがありました。

投稿時間:2016/06/17(Fri) 23:34
投稿者名:Ken
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Re: 遅ればせながら大作ありがとうございました。
これでもアジモフの原作を非常に圧縮しています。
文章量でいえば十分の一程度ではないでしょうか。

バイブル・ガイドはアイザック・アジモフ畢生の大作にちがいありません。

なぜ日本で出版しませんかねえ。