投稿日 | : 2011/01/19(Wed) 01:32 |
投稿者 | : コルサンター |
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タイトル | : Re: 学問に「超越者」を持ち込む是非 |
Kenさん、お疲れ様です。楽しく拝見させていただきました。
議論幅が広いので、どこから話したらよいのか迷うところですが、今回はID論の根本について問題提起をしたいと思います。
それは、「学問に超越者の存在を持ち出すのははたして良いのか」ということです。
こんな話があります。
「前近代の地図は、未知のエリアに想像の陸地や生き物を描いていた。対して近代以降の地図は、未測量の地域は空白にして発行するものである」
これにあるように、近代学問とは「証明可能なものの範囲内で物事を追究する」という大原則のもと成立しています。
これは何も自然科学に限った話ではありません。
昔の歴史叙述では、説明困難な出来事を神などの意思によるものと説明していました。
トロイア戦争をヘラ、アテナ、アフロディテの嫉妬が原因と説明するギリシア神話、日本列島を神々が創ったと説明する古事記、社会の混乱を妖怪や天狗の仕業と説明する太平記など、多くの例が挙げられると思います。
もちろん、現在の近代の流れをくむ歴史学において、歴史の出来事を神の仕業として合理化することは許されていません。
なぜ近代学問において神の存在を持ち出してはいけなくなったか、これは、神を持ち出してしまったらそこから先へ追究する道が絶たれてしまうからです。
先述したように近代学問では、現時点で説明できないものには推測から結論を出すことはせずに、「未解明」という形にしておきます。そして、それを解明できるよう学者たちは研究を行うわけです。
ID論者は、ダーウィンの進化論では説明できない事象を取り上げて「ゆえに何者かによる意思が介在している」という論理を組み立てていますが、これがおかしいことは前記のことよりわかるはずです。証明できないからといってそれを「神」のような存在を持ち出して正当化するのは、近代学問の範疇においては許されない行為であることを。
もちろんID論者が、IDを仮説として「ならばその『何者か』が本当にいるのか、いるとしたらその正体は何であるのかを追究しようじゃないか」という方向で研究を始めれば、これは近代学問の手法に則っているといえるでしょう。しかし、その「何者か」の存在を追究することなしにIDを唱えるのは、科学的姿勢ではありません。
もっとも、この「証明できる物事しか扱えない」というのは近代学問の限界であるとも言われてはいます。
例えば、かつての古い書画の鑑定というのは、目利きの職人がそれまでに培ってきた鑑識眼や勘をもとに、「誰の作品である」ということを判定していました。
しかし、現在ではそういった「職人的な勘」で判断することは学問の世界では認められず、文献による裏付けなどの物証が求められるようです。
ただし、ID論者たちが近代学問の土俵の上で議論をしようとしている以上は、上記のことを口実にすることはできないわけですが。
最後に、関連してちょっとした問題提起をさせていただきます。
「科学者たちは聖書の記述だからといってID論に正面から取り組まない」というID論者による批判について。
私はこの批判に疑問を抱きます。確かにそのようにID論をあしらう人はいるでしょうが、普通の科学者ならそのような懐疑的精神の欠如したことは言わないはずです。
例を挙げましょう。
今や宇宙誕生の定説となったビッグバン。これは聖書の天地創造の話に似た説です。だからといってこれを批判する学者がいるでしょうか。
他にも、現在の人類進化の定説となった「アフリカ単一紀元説(これについては『イブ仮説』という完全に聖書を意識した通称もあるくらいです)」。これは、それまでの主流だった多地域進化説を押しのけて定説に登りつめました。これを「聖書の記述とそっくりだから」といって学会は否定しているでしょうか。
ではなぜID論が、多数の科学者たちの間で受け入れられていないか。それは、「聖書の記述だから」ではなく、「ID論に説得性がないから」だといえるのではないでしょうか。
ID論に科学的説得性があれば、それが聖書の記述に酷似していようが学者たちは受け入れます。それが受け入れられていないのは、単にID論に説得性がないからなのではということです。
とりあえずのところ以上です。自分でも書いていて「整理されていないなあ」「説明不足だなあ」と感じていますので、疑問点、批判などどんどんお願いします。