投稿日 | : 2011/01/23(Sun) 02:50 |
投稿者 | : ろく |
Eメール | : tasiroku@hotmail.co.jp |
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タイトル | : Re^5: 学問に「超越者」を持ち込む是非 |
まずはKenさん、ありがとうございます。
ID論の話大変面白く読ませて頂きました。
ここまで読んでいるうちに皆さんの的確かつ論理的な文章に圧倒されまして(笑)
自分の言いたいことはほぼ言い尽くされている感がありますが、せっかくですので少し感想を述べさせて頂きます。他の方々と重複している点もあるかと思いますがご容赦下さい。
まず、これまで何度かその言葉の出ている<時計作りのアナロジー>について。
確かに時計も生物も、ひとりでに組みあがることはない、その通りです。
しかし少々こまかい話になりますが、この場合の<ひとりでに>という言葉の遣い方からして、時計に関するときと生物に関する時とでは異なってきます。
時計の部品が道端に落ちていても、そこに例えば強い風が吹き、部品同士がかみ合わされたとしても、そこには何の規則性もありません。
しかし自然界においては、こちらを読まれている方々ならよくご存知でしょうが、例えば酸素原子が2個あれば結合してO2に、またはNOxやCO2などの様々な分子に、なろうとする力が働いています。
そしてこのように、規則性を持ち結合された分子が更に結合してゆき、アミノ酸などを形成し、たんぱく質となり最終的には生物が発生する・・・と私は認識しているのですが、これは当然時計が人為的にしか作られない、時計の自然発生はない、という場合とは異なってきますよね。
時計のネジや歯車が組み合わさる事には自然の法則は働きませんが、原子や分子の結合は一定のパターンに沿って(放っておいても)行われます。(もちろん全く刺激のない場合はこの限りではないでしょうが、地球上では太陽からのエネルギーや地球内部の熱などが表面の分子・原子を刺激してエントロピーの減少を見る事が出来るわけです。)
もしこの分子・原子の結合こそが人為的な進化の証明、超越者のいる証明だと言われてしまえば反論は不可能です。話はここで終了です。
しかし逆に言えば、もしそこまで、超越者が操作出来得るものならば、なぜその後の進化にこれ程欠陥が多いのか。
ウェンデル・アースさんのおっしゃるように、眼など、人体(のみならず地球上の様々な生物の様々な部位)は、人為的な操作の結果作られたものとするには余りにも杜撰な作りに思われます。
そして、<現在の進化論では(一例として挙げられたのだと思いますが)恐竜から鳥への進化は証明できない、だから人為的なものだ>という論においては文章自体が破綻しているようにさえ思えます。
AではないイコールBであるという証明は、他に選択の余地がないことが先に証明されている時のみ成り立つのであり、そして現在の進化論科学が世界の全てを証明しているわけではないことはもちろんです。
これは「わからない→神様の仕業だ」という原始のアニミズムから一歩も出ていない論に思われます。
以上のような論点の破綻を考えると、残念ながら、こちらを読む限りではID論には説得力を感じられませんでした。
最後に、ウェンデル・アースさんのおっしゃる不在証明は「そこに何かがいない事を証明する」という意味かと思いましたがいかがでしょうか。
何かが「ある」事を証明するのと違い、「ない」事を証明するのは困難で、場合によっては不可能に近いため、「ある」事を主張する側がその存在を証明する必要がある、という原則の事だと思います。
この場合はダーウィニストが超越者の不在を証明するのではなく、ID論者の側がその存在を証明しなければならないわけです。