歴史小説「鳳(おおとり)」

第一章 「旅立ち」


(四)


 黄という一見学者然としたこの男が、武芸にも多少覚えがあったということを、正五郎はその夜の寝物語に聞かされていた。
「長らく勉学に励んではいたが、もともと性に合わないところがあったのだろうな。その合間に二、三人の知り合いの武芸者に棒術やら剣術やらを習ったことがある」
 眠りに就く前の何気ない思い出話の折に、黄はそんなことを語り始めた。
「試験にも落ちて、海にでも出てみるかと思い始めたころ、それなら多少は武術の腕が要るだろうと考えてな」
「明国にも優れた武芸者が多くいるのか」
 年中行事のように合戦が各地で行われ、武芸で身を立てようとする者も少なくないこの国に対して、明は戦いも少なく文人や商人が多くいる国という印象を持っていた正五郎は黄の武芸の話に興味を引かれ、尋ねた。
「決して多くは無いが、いるにはいる。特に近ごろでは倭寇相手の戦いに腕に覚えのある者共を官軍が集めたりもするからな、実際に多くの戦で戦った武芸者もいる…わしが武芸を習った者の中にも倭寇と戦ったという男がいた」
 正五郎自身はまだあずかり知らぬことだったが、当時の明は建国以来の国家管理による常備軍制(衛所制)がほぼ有名無実化しており、十六世紀に始まった「嘉靖大倭寇」の跳梁に対して当初全くといっていいほど対応できぬまでに頽廃していた。そこで倭寇対策にあたる官僚や軍人たちはチワン族のような少数民族や少林寺の僧兵、漁民、さらには塩賊(塩の密売商人)・無頼の類まで、軍事力として使えそうな者なら手当たりしだい動員してこれを補おうとした。そのため明の国制では本来認められていなかった私兵集団のような存在も有力軍人のもとに作られるようにもなり、武術の腕に覚えのある者がその腕をふるって世に出ようと対倭寇戦に参加するといった動きも見られた。黄に武術を教えたというのもそういった種類の人間であったかもしれない(26)
「それで、あんたはの腕前はどうなんだ」
 正五郎が聞いたが、黄はニヤリと笑うだけでそれには答えなかった。
(少なくともこの高洲で一人は殺したことがあるのだから、そこそこの腕はあるのか)
 と正五郎は考え、とりあえずそれで納得してそれ以上は問わないことにした。
 正五郎の向かいの牢の中で、黄は藁束を敷いてそれを枕に眠りに入ろうとしていた。その間、何か楽しげにブツブツと言っている。正五郎が気になって「何を言ったのか」と問うと、
「明もこの国のようになろうとしているのかも知れない…ということさ」
 と黄は答えた。
「この国のように?」
「分かるかな…乱世ということだ」
「乱世?」
「良いことばかりではないだろうがな、明朝も始まってからそろそろ二百年だ…いろいろな所から国が乱れ始めている。近いうちにこの国のように、大きな戦が起こるようになるかも知れん。だが、それは面白い時代であるかもしれん」
「面白い…とは?」
「この国がそうではないか…うまく世渡りすれば、一国の主も夢ではない」
「一国の主…?」
「そうだ、一国の主だ。あわよくば皇帝にすらなれるかもしれんぞ。そういう野心を抱く者がちらほらと現れてきている…まったく、面白い時代になってきたものだぞ」
 ふっふ、と黄は笑って目を閉じ、そのまま黙った。やがて小さな寝息が正五郎の耳にも届いてきた。
 正五郎はよく分からぬ、というように首を振ってから、横になって目を閉じた。


 翌朝、いつものように李茂が食事を持って地下牢に姿を現した。
 だが、その表情にどこかいつもとは違う緊張が表れているのを、黄は見逃さなかった。
「何かあったか?」
 黄は李茂に自分の言語、つまりビン南語で尋ねた。
 李茂は一瞬黙って黄の顔と、そして正五郎の顔を見てから重い声で短く答えた。
「飯を食ったら、牢から出す」
「牢から出す?あっちの男もか」
「ああ」
「どこかへ連れて行くのか?」
「いや…」
「どうするんだ」
 黄が問い詰めると、李茂は何か口の中でモゴモゴとつぶやいたが、それは李茂自身の母語であるらしく黄にも意味が理解できない。
「飯は、ゆっくり食え…また来る」
 李茂はそれだけ言い残して、ひとまず地上へと戻っていった。
 正五郎は言葉こそ分からないが黄と李茂のやりとりに異変を感じて出された飯にもすぐには手を出さなかった。心なしか、飯の量もいつもより多いような気がする。
「首をはねられるかな」
 正五郎が椀を手にしつつつぶやくと、
「なぜそう思う?」
 と黄が大隅言葉で聞いてきた。
「敵の捕虜の首をはねる日の朝には飯を多くしてやることがある」
 正五郎がそう答えると、黄は一瞬ビクリと体を震わせた。
「今の男が、飯を食ったら牢から出す、と言っていたが…」
「では、食うしかないな。どうなるにせよ、この狭苦しい所から出られるなら有難い」
 正五郎はガツガツと食事を摂り始めた。黄はいつになく緊張した面持ちで地上への出口に目をやり、それから李茂に言われたようにゆっくりと食事を口に運び始めた。
 いつもより何割か多い食事を正五郎がさっさと食べ終わり、黄がいつにも増してゆっくりと食べて、地上からの日の光が牢の入り口にかすかに射し込むほどの時間になったころ、李茂が再び姿を現した。
 李茂だけでなく数人の大柄な男たちもその後ろについて牢内に入ってきた。見るからに長年船の上で生き抜いてきたと思われる、赤く日焼けした肌に屈強な太い腕を持ついかつい男達。彼らは二つの牢の鍵を開けて黄と正五郎をそれぞれ三人がかりで引きずり出し、地上へと運んだ。
 正五郎にとっては十三日ぶりの地上だった。黄にとってはその何倍かだろう。地上は光にあふれて眩しく、また朝からすでにかなり暑い。
 眩しい光に目を慣らしながら、正五郎と黄は両腕を男達につかまれたまま李茂の後ろを歩かされた。しばらく屋敷の中を歩かされ、屋敷の奥にある中庭へと連れてこられた。
 中庭は周囲をぐるりと建物と回廊で囲まれており、一辺五、六丈ほどの正方形を成していた。正面に唐風に反りの大きな屋根を持つ建物があり、その中に豪勢な唐風の衣装を身にまとった四人の男が座っている。そのうちの二人が先日自分を牢に訪ねてきたこの屋敷の主と自分が忍び込んだ船の持ち主だと正五郎は知った。残り二人は太った商人風の中年と自分と同じぐらいの年頃の青年だ。
 もちろんその四人とは沈門、林国顕、そして洪沢珍とその息子・洪文宗である。
 席についた洪沢珍が隣の林国顕の耳に顔を寄せて、ささやきかけた。
「どうだな、林老…こんなことまでせんでもいいように思うんだが」
 林国顕は黙って庭に立たされた二人の囚人を眺めて、答えない。やむなく洪沢珍は話を続けた。
「そりゃあ、この二人がどれほどの腕なのか、わしも興味はあるよ。だが金は惜しまないから二人とも買い取ってやってもいいんだが…」
 すると林国顕は半分だけ洪沢珍の方に顔を傾け、皺のよった片目で洪沢珍の目を睨み付けながら言った。
「わしも商人だ。売り物には責任を持たねばな。出来の悪い品物を売りつけるような真似はできんからな」
 年老いながらも、いや長年修羅場をくぐり抜けてきた老人ならではの鋭い眼光で睨み付けられて、洪沢珍は二の句が継げなくなった。
 林国顕が椅子から立つと、沈門も立ち上がって手を振り、男達に無言で指示して囚人二人の周囲から離れさせた。拘束を解かれた正五郎と黄は力が抜けたように中庭の中央の地面に座り込んだ。
 林国顕が一歩前に進み、黄に向かって声をかけた。
「今からわしが言う言葉は、お前とその倭人の両方に向けるものだ。その倭人にはお前が訳して伝えてやれ」
 黄が少し青ざめた顔で頷くと、林国顕は老人とは思えぬほどしっかりした大声で話し始めた。
「お前達両人は、いずれもわしの船に勝手にもぐり込んだ。一人はわしらと関わりのある人間を殺して密航を企て、もう一人はわしの品物を盗み取ろうとして…」
 この林国顕の言葉を、黄は恐る恐る、大隅の言葉に訳して正五郎にそのまま伝えた。正五郎はその意味を解したが、目の前の恰幅のいい老人が凛として言い放つ声と、貧相な黄の震える声との落差に、どうもピンと来ないものを感じていた。
「二人ともただちにその首をはねねばならぬところだが…ここにいる林老がお前達のうち一人、腕利きの者を買い取りたいと言っている」
 林国顕が自分のほうを指差してそう言うと、洪沢珍は気まずい顔をして視線を中庭からそらした。
「お前達の腕のほどはこの目で見てみなければ分からん。そこでお前達に今から勝負をしてもらう…そして、生き残った方を洪老が買い取ってくださる」
 林国顕が言った言葉を、黄は自分の頭の中で整理し理解するために、正五郎に訳して伝えるまでやや間を置いた。それから正五郎の目をじっと見つめ、
「わしとお前で今から戦えと言っている。生き残った方が船に乗れるということだ」
 と静かに言った。
「なに…」
 正五郎は目を見開いて黄の顔を見、そして林国顕の顔を睨み付けた。正五郎の視線に林国顕も気づいたが、全く表情を変えようとしなかった。
「なんて奴だ」
 正五郎は吐き捨てるようにつぶやき、、実際に唾も地面に吐いた。
 林国顕はそれにも顔色ひとつ変えずに言葉を続ける。それを黄が注意深く聞いて正五郎に訳して聞かせる。
「武器はそこにある何を使っても良い。ただし双方とも真剣にやらねば双方ともこの場で斬って捨てる。むろん、逃げようなどとした者は即座に斬って捨てる」
 いつの間にか中庭の周囲の回廊には屈強の男たちが二十数人ほど、武器を手にして並び、正五郎と黄を遠巻きに取り囲んでいた。そしてその中から三人ほどが様々な武器を両手に抱えて進み出て、正五郎と黄の目の前の地面にそれらをドッと投げ出した。
 唐風に曲がり幅の広い刀、それにそのまま長い柄をつけたような薙刀、真っ直ぐな両刃の長剣、槍や矛、正五郎には見慣れた日本刀や脇差のたぐいまでがあった(27)
「……」
 それまで座り込んでいた黄はゆっくりと立ち上がり、目の前に並んだ武器の山を見つめた。そしてチラリと正五郎の方を見てから、おもむろに一本の槍をつかんで立ち上がった。
「黄さん…」
 正五郎が名を呼びかけたが、黄は答えず、正五郎に背を向けて三、四歩歩み、そこでくるりと向きを変えた。槍の長い柄を両手でつかみ、腰を引き気味にして刃を正五郎の方に向けて構えをとった。
「本当にやるのか…」
 正五郎は救いを求めるように黄の目を見ながらも中腰の姿勢になり、じりじりと武器の山へと近づいた。
 黄は上体と両腕を大きく振り回し、槍で「ブンッ」と音を立てて空気を斬った。そして柄を握ったまま片手を真っ直ぐに伸ばし、切っ先の先を正五郎の目の前に突きつけた。
「刀をとれ。これも何かの因縁だろう」
 黄はそう冷たい声で言って、正五郎を促した。
 正五郎がなおもためらってただ武器に目をやっていると、黄は突然雄叫びを上げ、槍を振り回しつつ前進してきた。槍先が空を切り、その起こす風が正五郎の頬をかすかに撫でた。
 正五郎は焦ったように武器の山をガチャガチャと音を立ててあさってから地面を転がり、黄との距離をとった。そして鞘に収まった一本の日本刀を手に黄と向かい合って立ち上がった。
 長らく地下牢に押し込められ、頬もこけて眼窩もくぼみ、髪も髭も伸びきって顔全体が真っ黒に覆われ、ボロボロに汚れた衣服をまとって立つ黄の姿は、まさに幽鬼のそれのように正五郎には思えた。顔に垂れる長い髪の間に見えるくぼんだ眼窩の収められた両目は鋭く殺気を含んだ眼光を放っている。
「……」
 林国顕と沈門は席に座り、これから始まる囚人二人の死闘を見物しようと楽な姿勢をとった。林国顕は無表情のまま近くの卓の上に盛られた肉を手にとって口に運んだが、洪沢珍は落ち着かない様子で庭と林国顕を交互に見やっていた。洪文宗は興奮とも怖れともつかない表情で頬を紅潮させ、庭で向かい合う二人に見入っている。
 正五郎は刀を鞘から抜き、鞘を投げ捨てて柄(つか)を両手で握った。刀身を二度ほど回転させて刃に日の光を当て、その輝き具合を確かめる。そして正面の黄の身体に対してやや斜めに刀を構えた。
 黄は槍を振り回すのをやめ、腰を引いてまっすぐに正五郎に向けて槍を構えた。そしてじりじりと右へ右へと動き始めた。これに応じて正五郎も刀を構えたまま右へ右へと動き、両者は距離を一定に保ったまま中庭を半周した。
 先に仕掛けたのは黄の方だった。小さく「カッ」と声を上げて大きく一歩踏み込み、槍を正五郎に向けて繰り出す。正五郎が素早く片足を後ろにそらし体を斜めにしてこれを避けると、黄はさらに一歩、跳ねるように踏み込んで槍を突き入れた。
 ザクリ、と布が裂ける音がした。正五郎の服の左袖のたるみを槍が貫いたのだ。黄は素早く槍を引き抜き、両手で構えなおした。そしてひるみを見せた正五郎に、二突き、三突きと繰り返して槍を繰り出す。正五郎はそれを後退気味にかわし、あるいは刀のつばで槍先を打ち、いなしていく。
 いきなり、正五郎は横っ飛びに飛んだ。そして槍を突き出したために出来た黄の右側の隙に体を飛び込ませ、片手一本で大きく刀を振るった。黄が素早く飛びのいたので刀は空を切ったが、黄の伸びた顎鬚をふわりと浮かせた。
「やはり素人ではないな、あの槍は」
 沈門が林国顕にささやいた。
「習ったことがあるというのは本当らしいな。動きに官軍がよく見せる型がある」
 林国顕は沈門のささやきに反応はせず、その鋭い視線をじっと正五郎に注いでいた。
「…まだ殺気がないな、あの男」
 林国顕がそうつぶやくと、膝立ちになっていた正五郎が一瞬ジロリと林国顕に瞳を向けた。言葉が分かるはずはなかったが、察しはついたのだろう。林国顕がじっと睨み返すと、正五郎は激しい憎悪の一瞥を突き返してから立ち上がり、また黄に向かい合った。
 李茂は中庭の入り口の門に立ち、腰に下げた刀の柄をつかみつつ、この対決を無表情に見守っていた。李茂の視線が正五郎の視線と一瞬合ったが、正五郎は李茂には関心がないというようにすぐに視線をそらした。だが李茂はその瞬時の正五郎の眼光に激しい憎悪がこもっているのを見て取り、頬をピクリと震わせた。
 黄と正五郎は間合いを取りつつ相手の隙をうかがいながら、再び中庭を半周し、双方ほぼ最初の位置に戻って向かい合った。そしてまた黄の方から仕掛け、次々と槍が正五郎の胴めがけて繰り出され、これを正五郎がいなしていく。時折隙を突いて正五郎が飛び込んで刀を振るうが、これを黄がかわし、あるいは槍の柄で刀を防ぐ。
 どうしても槍の方が届く距離が長いため正五郎が飛び込む隙は決して多くはなかった。だがその一瞬の隙を見逃さずに正五郎が飛び込んでくるため、黄も次第に隙の多くなる突き入れの数を少なくせざるを得なくなった。
 両者とも久しぶりの激しい運動である。すぐに息が上がり、お互い呼吸を整えるために間合いをとって動きを止めた。
 正五郎は片手を刀から外し、目の周囲に垂れてきた汗をぬぐった。一方で乾いた唇を舌で舐めて湿らす。
(あれは去年の夏だったな…)
 正五郎はふと前に出た戦場での体験を思い起こしていた。乱戦の中ではあったが、こんな風に敵兵と一対一で向かい合い、斬り合いをした。うだるように暑い日差しの中で汗みどろになっての長い死闘の末、ようやく相手を殺して生き延びたが、首を取るのも忘れて疲労困憊のまま陣へと戻った。その殺し合いがあの合戦の中でどれほどの意味があったのか、いまだに分からない。
(あれが俺が殺した三人目の男だったか…)
 今まで殺した相手三人の名前も素性も知りはしない。ただ生き延びたいがために彼らを殺してきた。だがいま命のやりとりをしている相手は、わずか十三日間とはいえ名前もその過去も知り、友情と敬意すら抱いた人間なのだ。
(なんでこんなことをしているのか…)
 という思いを、今は敵となっている黄も抱いているはずだ。
(この男を殺してでも生きねばならぬのか)
 正五郎は自分がここで死ぬという可能性についてはあまり想いが及ばなかった。ただ、なぜこの男を殺さねばならないのか、その理由だけを求めていた。
 ふと正五郎は再び林国顕の方に眼をやった。するとその林国顕が卓の上に何か布に包んだ物を置き、それを洪沢珍の方に差し出しているのが目に入ってきた。洪沢珍が布を取って手に握ったのは、正五郎には見間違うはずもない、あの蒙古刀だ。
 正五郎の胸の奥から、激しい感情が火山のように噴き出してきた。
(生き延びねばならぬ、この男を殺してでも)
 正五郎はその眼光に鋭い殺気を宿らせた。そして、
「おおおおおっ!」
 と雄叫びを上げると、裸足で地面を蹴り、前方へと跳躍した。
 林国顕が腰を浮かせ、李茂が身を乗り出した。
 不意の突撃を受けて、黄は槍を正五郎の前面に突き出した。正五郎は軽く右に飛んでそれをかわし、左手でつかんだ刀を猛烈な力と共に槍の柄にぶつけて弾き飛ばした。そして黄の前面に出来た空間に我が身を躍り込ませ、ドンッと黄の胴に体を衝突させた。正五郎の刀は黄の槍と擦れあったままで、周囲の男達には正五郎が黄の顎に頭突きを食らわしただけのようにも見えた。
 正五郎と黄、二人の男の体は密着したまま、しばし動きを止めていた。
「オウッ…!」
 沈黙を破って呻き声を上げたのは黄の方だった。
 林国顕がじっと見つめていると、組み合った二人の男の体の接触したあたりから、鮮血が地面へと滴り落ちていることに気がついた。
 黄の手が力を失い、槍は地面に落ちて跳ね返った。そして黄の体は正五郎にもたれかかったまま、ズルズルと崩れ落ちていく。
 ここで誰の目にも決着がどのようにしてついたのかが分かった。正五郎が日本刀の短刀である脇差をいつの間にか手にしており、それを黄の胸に深々と突き刺していたのである。見れば、正五郎は背のくぼみの辺りの帯にその脇差の鞘を差し込んでいた。
「いつの間に…」洪沢珍が声を上げると、
「最初に刀を持った時からさ。わしは気づいていたぞ」
 と林国顕が笑った。
「倭人というのは抜け目がない…それに、実際に命のやり取りをくぐり抜けて来た男というのは小ずるくなっているもんだ」
 林国顕の言葉にはどこか自嘲めいた響きも含まれていた。
 決着がついたのを見て、門に立つ李茂も小さく頷いていた。
 崩れ落ちた黄の体を、正五郎は両腕で抱き止めた。胸の急所を一突きした脇差を抜き取り、あふれ出てくる鮮血を我が身にも浴びながら、正五郎はひしと黄の体を抱きしめ、その死に行く顔を見下ろした。
「あ…」
 もはや声も出せない黄は口を開けたまま震わせ、正五郎の顔を見上げた。そして一度目を大きく見開き、もがくように両手を差し上げてから、一転して穏やかな笑顔を見せ、正五郎に何かを訴えかけるような目線を送った。
 正五郎が(わかっている)というようにこっくりと頷くと、黄は嬉しげな顔でコクコクと忙しく頷いた。そして間もなくブルブルと全身を震わせると、ガックリと膝を折り、頭を垂れた。
(わかっている…あんたの分も、俺は生きるよ。生きて、生き抜いて…あんたが為しえなかった何かを、俺が…)
 黄の骸(むくろ)を抱きながら、正五郎はその耳に小声でささやき、涙していた。
 そんな正五郎の様子を眺めながら、林国顕、沈門、洪沢珍、洪文宗の四人は席を立って回廊を歩いて行った。洪沢珍はばつが悪そうな顔をしていたが、林国顕が平然とした表情で話しかけた。
「これであの“品物”がどれほどのものか分かったはず…買い取っていかれるがいい」
「しかし…わしの船には倭人がおらん。言葉で困るのではないですかな」
「なあに、そのうち自然に覚えるものさ。李茂はあれで倭人の言葉も多少は知っているようだから、一緒に乗せていかれるがいい。どうせ南澳に行くんだろ、それまで貸しておくさ」
「林老も後から潮州へ?」
「ああ…十日ぐらい後になるかな。そうだ、先に行くついでにこれを預かってもらおう」
 そう言って林国顕は先ほど見せていた蒙古刀を洪沢珍に渡した。
「これを…?もともとあの倭人の持ち物であったという…」
「わしは途中いろいろと寄り道するかもしれんでな。洪老にこれをあやつめに届けてもらいたいのだ」
「え?誰に…」
 林国顕はいったん歩みを止めて正五郎の方を振り返ってから、洪沢珍も見るのは珍しい穏やかな笑顔を見せて答えた。
「阿鳳にな…爺様からの贈り物だと伝えてくれ…」

 


第二章「月の港」へ

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