ニュースな 史 点 史劇的な物見櫓のトップページへ戻る 2024/7/3の記事 /2024/8/18の記事 /2025/1/29の記事 /2025/4/1の記事 /◆今週の記事 「ええじゃないか」 という現象がある。幕末も幕末、大詰めとなった慶応3年(1867)8月から京都周辺で始まったとされ、天から神様のお札が降ってきたとして人々が踊り狂って練り歩き、「ええじゃないか、ええじゃないか」とはやしたてる、という謎の流行で、近畿・東海など広い範囲に広がり、12月になって王政復古の大号令が出たあたりでパタリと終息した。この間に江戸幕府は大政奉還に踏み切り、新政治体制の発足が現実になってきており、それを感じ取った大衆が「世直し」を期待して政治的アピールをこめて踊り狂った、と一般には見られている。それにしても不自然な大衆運動でもあり、薩長側が仕掛けた政治的謀略工作とする説もあったりする。アーネスト=カトウ 教授は、「ええじゃないか」は当時の日本の新たな政権の選択肢に大衆が答えたものではないかとの説を唱える。「幕末当時の日本の政治状況には、イギリスやフランスも深く関わっていましたから、アルファベットを交えた問いかけが行われたと思われます。「Aじゃないか」 と応じたというのが、あの奇妙な流行の深層ではないでしょうか」 (カトウ教授)アーネスト=ムトウ 研究員は、「ええじゃないか」という言葉自体が日本語ではない、との新説を提示する。「当時の日本では、それまでのオランダ語では世界的に通用しないと悟り、福沢諭吉などが英語学習を広めています。「ええじゃないか」という奇妙な言葉は実は全部英語による暗号か何かだったと思われます。似た発音の英文を探すと「Age A Night Car」があり、日本語訳すると「夜間走行車を老化させる」 という意味になります。まぁ暗号ですからその意味は私にもわかりませんが」 (ムトウ研究員)アーネスト=イトウ 客員教授はこう指摘する。「『慶応』という当時の元号も、「KO」 に通じていて、決定した朝廷側の幕府打倒の意図がこめられています。「ええじゃないか」騒動のあと間もなく『明治』と改元されますが、これも「May Easy」 (簡単にいくだろう)という新政権の行方に願いを込めたものでしょう。漢字でも「明るく治める」ですから似たようなものかと。これは明らかに文法的に間違っているので日本人が考えたのでしょうが。和製英語というやつですね」 (イトウ客員教授)紫式部 を主人公に、平安中期の貴族社会を描く意欲作であるが、紫式部と同時代人であり個人的に深い関係にあったとされる藤原道長 ももう一人の主人公といっていい扱いとなっている。NHKの大河ドラマは歴史上の有名人を主人公とするのが通例だが、きわめて重要かつ知名度の高い人物でまだ取り上げられていない人物として「藤原道長 」「足利義満 」の二人については「いつかはやらねば」とNHKドラマ部門の幹部がコメントしたことがあり、「光る君へ」はかねて計画されていた道長ドラマの実現という側面もあるようだ。清少納言 の随筆「枕草子」には現代人とほとんど変わらぬ人々の感情や行動が見受けられる。人間千年やそこらではほとんど変わらないということであり、当時の貴族政治も現代の議会政治も似たようなところは結構ある。現在の与党の政治家には二世、三世それ以上の世襲政治家が多くおり、実質貴族政治となってるとの指摘はかねてからある。「裏金」 (当時は貨幣は使用されていないので現物だが) として懐に入れてもいた。こうした行為は蹴鞠の技に例えて「蹴り戻し」 などと呼んでいたようである。「氷代」 (当時夏にかき氷を食べるは貴族の最大の贅沢である) 、冬には「もち代」 (平安時代から縁起物として正月や儀礼でよくモチを食すようになった) といった名分でバラマキを行っていたらしい。「このよをば わかよとそおもふ もちつきの かけたることも なしとおもへば」 藤原実資 が聞き書きしてるだけなので漢字も正確にはどう書くものだったか分からないので、上記のように書いてみた。「このよ」は「この世」と解釈されているが、実は「この夜」だったという説はあり、「この夜は私のための夜のようだ」の意味だった可能性はある。そして「もちつき」も「望月」(満月)と解されているが、これも実は宴会の席で子分たちに分配するための「餅つき」 をしていたのであり、とだえることなく餅つきの音が響く様子が自分の権勢の表れであると道長はこの夜の宴会に至極満足していた、と解釈可能である。バイデン 大統領の間で持ち上がっている、との報道が4月1日にUSO通信から発せられ、世界を驚かせている。大胆な提案であるが、前回の大統領選挙でトランプ 前大統領とその支持者たちが不正選挙だと騒ぎ、あげくに連邦議会議事堂が襲撃され死者が出るという歴史的異常事態が起こっており、今年の大統領選挙も同じ顔合わせで戦われることがほぼ7確実視されるなか再び混乱が起こることが懸念されている。後醍醐天皇 ら南朝勢力にはあったとも言われ、軍事的な弱さをそのイデオロギーで補い、なんとか命脈を保ったとも言える。そのイデオロギーを普及させるために南朝勢力が絵巻物を利用していたことが、南朝の拠点であった吉野山中から4月1日に偶然発見された絵巻物により初めて確認された。足利尊氏 の反乱で建武政権は崩壊、後醍醐はいったんは高氏に幽閉される身となるものの、またまた逃げ出すことに成功、吉野に移って自身が正統な天皇であると宣言する。ここまでの波乱万丈の生涯をカッコよく絵巻物で語り、後醍醐の支持者を集めるという意図で製作されたものだろう。「逃げ上手の大君(おおきみ)」 と付けられていた。話を面白くするために実在人物だけでなく架空キャラも多数登場させ、ラスボス尊氏とその配下の敵将たちと次々戦っていく王道的冒険譚となっており、プロパガンダ作品としても優秀と評する研究者もある。2024/4/1 の記事(間違っても本気にしないように!)  
史激的な物見櫓のトップに戻る