足利直義
| あしかが・ただよし | 1307(徳治2)?-1352(観応3/正平7) |
親族 | 父:足利貞氏 母:上杉清子 兄:足利高義・足利尊氏 妻:本光院(渋川貞頼の娘)
子:如意丸 養子:足利直義・足利基氏 |
官職 | 兵部大輔・左馬頭・相模守・左兵衛督 |
位階 | 従五位下→正五位下→従四位下→従四位上→従三位→贈従二位 |
幕府 | 室町幕府・政務担当(俗に「副将軍」)
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生 涯 |
足利尊氏の実弟。挙兵以来兄をよく助けた優れた武将でもあり、確固たる政治構想と高い理想をかかげた同時代で最高の評価を受けた政治家でもあった。「室町幕府は直義によって作られた」と言っても過言ではない。ただ、そのかたくなな理想ゆえに悲劇的な最期を遂げることにもなった。
―兄との二人三脚―
兄・尊氏(高氏)と両親とも全く同じ兄弟で、足利貞氏の側室・上杉清子が尊氏を産んだ翌年徳治元年(1306)に直義を産んだとされている。つまり尊氏とは一歳違いの弟とするのが通説だったのだが、のちに尊氏の護持僧となりその家族の祈祷もした三宝院賢俊の日記によると、直義の年齢は暦応5年(1342)に「三十六歳」と明記されていて、同じ記事に「三十八歳」とある尊氏とは2歳違いということになる。これは最近確認された史料であり、直義の生年は徳治2年(1307)とするのが正しいということになるかもしれない。なお、この賢俊の日記の記事に従うと清子は38歳のやや高齢の出産で直義を産んだことになる。
兄の尊氏同様、直義は出生地も不明で、鎌倉説、足利説、丹波説がある。今川了俊の『難太平記』には尊氏と直義の出生時に二羽の山鳩が飛来して、尊氏の時はその左肩と柄杓(ひしゃく)の柄にとまり、直義の時には柄杓の柄と湯桶の端にとまったという「生誕伝説」が描かれていて、事実とはとうてい思えないが尊氏と直義が同じ土地・場所で生まれたようにも読める。
尊氏・直義兄弟には上に異母兄・高義がいて、いったんこちらが家督を継いだものの早世している。予想外の事態で同母兄の尊氏に嫡子の座が回ってきたことにより年齢の近い弟の直義の地位も上昇したのではないかと推測される。本来足利家の中心になるはずのなかったこの兄弟がどこでどのような少年時代を送ったのか、想像してみると興味深いところだ。
兄・高氏が元応元年(1319)に元服して官位を授かっているので、その翌年頃には直義も元服したと推測される。元服時の名前は「高国」であったとされ、これは兄・高氏同様に北条得宗の北条高時の一字を与えられたものである。その後彼の名は「忠義(ただよし)」→「直義(ただよし)」と変わったとされ、恐らく鎌倉幕府滅亡後に「高」字を捨てたものと考えられるが、本項では面倒なので全て「直義」で統一する。
嘉暦元年(1326)5月に従五位下・兵部大輔に補されている(足利家官位記)。同時期に兄・高氏が北条一門の赤橋登子と結婚するなど北条氏との結びつきを強めて地位を上昇させたことに伴う官位授与であったと思われる。
古典「太平記」で直義が初登場するのは巻九の冒頭、元弘3年(正慶2、1333)3月に高氏が北条氏への反逆の決意を固める場面である。倒幕派の討伐のため畿内への出陣を北条氏から命じられた高氏は妻子を連れて出陣しようとするが、長崎円喜がこれを疑い、高時に意見して妻子を人質として鎌倉に置いていかせ、さらに寝返らないと神仏に誓う誓詞を差し出させようとした。悩んだ高氏が「舎弟兵部大輔」すなわち直義に相談したところ、直義は「いま兄上がこの一大事を思い立ったのは、個人的なことではなく天下のためであります。『誓言は神も受けず』と言いますから、誓いの言葉に偽りがあっても行いが正しければ神仏も認めてくれましょう。奥方とご子息を人質に置いていくことは大事の前の小事というもの、あまり心にかけられますな。ご子息は幼いですから、何かあれば家臣たちがどこかへ隠せますし、奥方は赤橋どのの妹なのですからひどいことにはならないでしょう」と意見して高氏に決意を固めさせたという。これはあくまで物語としての描写だが、「太平記」は初期編集段階で直義自身のチェックが入った可能性が高く、実際に直義がこのような言葉を口にしたのかも知れない。この初登場の場面から、直義は高氏の良き相談相手、感情に動かされやすい兄に対して冷静な判断能力をもつ策士ぶりを発揮している。
このあと直義は兄に従い篠村八幡宮での挙兵、六波羅探題攻略戦に参加。建武政権が成立するとその功績により左馬頭に任じられ、遠江国を与えられている。そしてこの年の11月に直義は相模守に任じられ、成良親王を奉じて鎌倉に下り、鎌倉ミニ幕府(鎌倉将軍府)の実質的な主催者として関東の統治にあたった。これは10月に北畠親房・顕家父子が義良親王を奉じて奥州・多賀城に下り、東北を支配するミニ幕府体制を作ったことに対する足利側の対抗策であったと言われる。
直義は都に残った尊氏の分身として鎌倉に入り、事実上の幕府体制を復活させ、戦功のあった武士たちに恩賞を与えるなどして関東武士たちを束ねた。あくまで後醍醐天皇による天皇親政体制「建武政権」の出先機関という形式ではあったが、成良という「宮将軍」を奉じて「執権」としてふるまう直義の政治姿勢は完全に鎌倉幕府のそれであり(直義自身、「御成敗式目」を定めた北条泰時の幕府政治を理想としている)、ここに幕府復活の既成事実を積み重ねていたと見ることができる。
―兄を支えて東へ西へ―
建武元年(1334)、京では兄・尊氏と護良親王の対立が激化し、10月に護良は後醍醐の命により宮中で逮捕されて足利側に引き渡された。直義は鎌倉に護送されてきた護良を受けとり、鎌倉北東・薬師堂谷の東光寺に監禁した(土牢に九ヶ月も監禁したとするイメージが根強いが、事実ではない)。
建武2年(1335)7月、信濃に逃れていた北条時行が挙兵し、北条残党や建武政権に不満をもつ武士たちを糾合して大軍となり、鎌倉へと迫った。直義の妻の兄である渋川義季や岩松経家らがこれを迎え撃ったが、いずれも武蔵・女影原で戦死。やはり迎撃に出た小山秀朝も府中で敗死したため、7月22日に直義は鎌倉の放棄を決断した。このとき直義は成良親王と甥の千寿王(のちの義詮)を逃がす一方で、家臣の淵辺義博に命じて監禁中の護良親王を殺害させた。これは足利家にとって仇敵である護良を敗戦のドサクサに紛れて抹殺したものとされるが、こっそり手を下すなら9か月の監禁の間にいつでもできたはずで、実際には護良が北条軍の首領に担ぎ出されることを恐れてのとっさの判断であったとも言われる(現実に時行は間もなく南朝に投降する)。いずれにしても混乱の中で冷徹に重大な決断を下す直義らしさの表れた一件と言えよう。
北条軍の追撃を逃れつつ、足利の勢力圏である三河に入った直義は、自らはここにとどまったまま成良親王を都へと帰し、兄・尊氏の出陣を待った。この時点で直義は明白に建武政権からの離脱と三河以東に「足利幕府」を樹立する意思を示したと見られている。やがて尊氏は後醍醐の許可を得ぬまま出陣して三河で直義と合流、凄まじいスピードで鎌倉を奪回し、そのまま関東に居座って幕府設立へと動き出す。
ただ、尊氏と直義とでは後醍醐に対する姿勢に大きな差があったのも事実らしい。個人的に後醍醐を敬愛し親近感を持っていた尊氏は後醍醐との全面対決を避け、既成事実の積み重ねで京の朝廷と鎌倉の幕府が共存・両立する形を作ろうとしていた(それは源頼朝がやった方法でもある)。後醍醐から京への帰還命令が出るとそれに従う姿勢すら見せたという。だが直義は幕府再興のためには後醍醐との全面対決が避けられないものであることを認識しており、尊氏をあくまで鎌倉にとどめる一方、各地に反後醍醐の挙兵(名目上は新田義貞討伐)を呼びかける軍勢催促状を「左馬頭」すなわり直義の名義で発している。結局これが後醍醐による足利討伐の決断を招くのだが、これを聞いた尊氏は「帝に弓を引くつもりはない」と出家の意思を示してわずかな側近と共に鎌倉の浄光明寺にひきこもってしまった。
やむなくその間の政務・軍務はすべて直義が取り仕切ることになり(今川了俊も「難太平記」のなかで「中先代の時以来天下のことも足利家のことも任せてしまった」と書いている)、足利討伐に向かって来た新田義貞軍を迎え撃つべく、11月に直義自ら東海道へと出陣した。しかし三河の矢作川の戦い、駿河の手越川原の戦いで連敗、とくに手越川原では戦死寸前の危機に陥り、箱根へと敗走した。この知らせを聞いた浄光明寺の尊氏は「直義が命を落としては、わしだけ生きていても意味がない」として出陣を決断、12月11日に箱根・竹之下の戦いで新田軍を打ち破って直義の急を救った。ただし、「太平記」では尊氏がこもった寺は建長寺とし、直義自身が出家寸前の尊氏のもとへ駆けつけ、「出家しても許さぬ」という偽の綸旨を尊氏に見せて翻意をうながしたことになっている。
尊氏・直義率いる足利軍は新田軍を追って京へ突入。翌建武3年(延元元、1336)正月に京を占領するが、間もなく奥州から北畠顕家の軍勢が駆けつけ、激しい攻防戦の末に足利軍は敗北、西へと敗走することになった。だがこの西下の途上で足利軍は光厳上皇の院宣を手に入れて後醍醐に対抗する正統性を確保し、元弘の乱以降に没収された土地をすべて元に戻すという政策を発することにより多くの武士の支持を得る。そして尊氏と直義は態勢を整えるために九州へと下った。この一連の戦いでは尊氏側近の武将が書いたと思われる「梅松論」では「両大将」「両御所」といった表現がしばしば見られ、ほとんどいつも兄弟そろって戦闘を指揮していた様子がうかがえる。
しかし足利兄弟があてにしていた北九州の少弐貞経は、尊氏の到着直前に後醍醐側についた菊池武敏に攻め滅ぼされていた。足利軍は少ない手勢で菊池の大軍に立ち向かうことになる。
そして3月2日の多々良浜の戦いが行われる。「太平記」では尊氏がはじめ敵の大軍を見て「これはかなわぬ。つまらぬ敵の手にかかるよりは腹を切ろう」と言い出したのを直義がおさえて「少数で大軍を破った例も多い。まずはこの直義がひといくさしてみましょう」と先陣に立った。一方で「梅松論」では尊氏から「我ら二人が一緒に戦って苦戦を強いられては全滅の恐れがある。わしは一騎なりとも本陣に踏みとどまるから、直義が先陣を切って戦え。もし不利になったらわしが馬廻りの者(将軍の親衛部隊)を率いて入れ替わって戦おう」と提案し、まず直義が前線に立って力戦したことになっている。いずれにしても直義が尊氏を後ろにおいて前線に出た点は一致する。
激戦の中で尊氏の周囲が手薄で危ないとみた大高重成が尊氏の所へ行こうとすると、直義は「臆病風に吹かれたか。大高の自慢の大刀を刻んで剃刀にしてしまおうか」とあざ笑い、士気を鼓舞したという(「太平記」)。一時優勢にたった直義だったが菊池軍も反撃に転じ、菊池側の新手も現れたことに兵士たちは恐れをなしたが、直義は平然として「旗をしっかりと立てよ」と命じ、自らの直垂(ひたたれ)の右の袖を切って形見として部下に渡し、「直義はここで防戦して身代わりとなって命を落としましょう。そのすきに兄上は長門・周防へと落ち延びて大望をなしとげてくだされ」と決死の覚悟を伝言させた。結局最後に尊氏が敗走兵をまとめて出撃し、これを見た直義が太刀をふるって突進したため、合戦は足利軍の大勝に終わる(「梅松論」)。
この戦いののち、直義は戦死した少弐貞経を悼んで喪に服してひきこもり、周囲の者にも声高に騒がぬよう命じた。これは涙を流して見せただけの尊氏より極端な行動であったため、貞経の息子の少弐頼尚が酒と肉を持ち込んで直義に会い、「お気持ちはありがたいが戦時であることを忘れてはなりませぬ」と自ら酌をして直義に酒を勧めたところ、直義はやむなくその夜は酒を飲み明かし、人前にも出るようになったという逸話がある(「梅松論」)。
九州を押さえた尊氏・直義は4月2日に海路東上を開始、途中の備後の鞆の津で直義は陸路、尊氏は海路と二手に分かれて並行して東進することになる。陸を進む直義軍は迎撃に来た義貞の弟・脇屋義助と備前で戦ってこれを破り、5月25日の湊川の戦いで新田・楠木軍と決戦する。「太平記」では楠木正成は陸路を進撃してくる直義一人を狙って突撃を繰り返し、直義の馬が矢じりを踏んだため直義が落馬、あわや楠木軍に討ち取られようかという危機に陥り、家臣の薬師寺十郎次郎の奮戦と尊氏の「直義を討たすな!」との攻撃指示により、ようやく馬を乗り換えて難を逃れたと伝える。直義を討ち損ねた正成は自害して果て、新田軍は京へと敗走した。
その後10月まで続いた京をめぐる攻防戦でも直義は尊氏と共に連戦し、良く兄を支えた。この間の8月に尊氏は清水寺に願文を納め、その中で「私は早く遁世したい。今生の果報は全て直義に与えて、直義を安穏に守らせたまえ」と祈った。しばしば感情に動かされ、ひきこもったり取り乱したりする兄に対し、常に冷静沈着で勇猛果敢な弟の存在は、尊氏にとって他に代わるもののない右腕、心の支えであったことがよく分かる。どこまで本気だったかは分からないが、尊氏は今後の幕府設立とその政務は直義に任せ、あとは心穏やかに「余生」を送る願望があったらしい。また尊氏がそう思うほどに、直義は「よくできた弟」だったのだ。
―潔癖症の大政治家―
10月にいったん和睦が成立して後醍醐が比叡山から京にもどってきた時、直義がみずから兵を率いてこれを出迎えている。そして11月7日、「足利幕府発足宣言」というべき「建武式目」が発表された。これは尊氏から出された諮問に対し、かつて鎌倉幕府の評定衆をつとめた官僚である二階堂是円や知識僧の玄恵らが回答するという形式で作成された、新幕府の基本方針を示すものである。そして実質これは直義が中心となって作成されたと推定されている。
この式目は幕府は鎌倉に置くべきであるが諸事情により京におくことから始まって、善政によって民心の安定を図ること、流行する婆沙羅行為の禁止、酒色にふけることや賭博に興じることの禁止、強盗・殺人など犯罪行為の禁止、京の住宅・土地の復旧、金融業の再興による経済立て直し、政務能力による守護の選定、権門・女性・僧侶の政治介入の禁止(この部分は建武政権批判と思しい)、役人の政務専念と贈収賄(贈り物も)の禁止、礼節をたっとび、廉直・名誉を重んじ、貧者の訴えに耳を傾け、寺社の主張は状況によっては拒絶する、政務は日時を決めて執り行う…といった内容で、全体的に非常に儒教的感覚のストイックな政治姿勢が示されている。
現実には足利軍の中に大勢の「婆沙羅大名」がいて酒色や賭博に興じていたし、守護は政務能力ではなく軍功によって「恩賞」としてふるまわれたし、贈収賄や口利きのたぐいも多かったということなのだが、それをあくまで否定する潔癖ぶりは直義の性格をよく反映していると言われる。
直義の潔癖症・生真面目ぶりは当時から有名だったようで、さまざまな逸話が残る。当時は8月1日の「八朔(はっさく)」に贈り物をする習慣があり、当然将軍・尊氏のもとにも人々から多くの贈り物があったが、尊氏はそれを片っ端から周囲のものに与えてしまい、夕方には一つも残らなかった。一方で直義は八朔の贈り物そのものを「建武式目で禁じた贈賄にあたる」として受け取ろうとしなかったという。
また建武4年(延元2、1337)に母方のいとこで自らの腹心でもある上野守護・上杉憲顕にあてた手紙の中で「他の国の守護が非法なことばかりしていると聞く中で、あなたが上野をよく治めているのは大変喜ばしい。(中略)まったく諸国の守護について心苦しい思いをする中で、上野の様子を聞くと生き延びる思いがする」と書き、自分の理想がなかなか実現しないで葛藤している様子をうかがわせている。
直義が詠んだ和歌にはこんなものがある。「うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん」(いやなことばかりのこの世の中、人のためだと思わなくては、とても生きていけない)(『新千載和歌集』)、「閑かなる 夜半のね覚めに 世の人の 人の憂へを 思ふくるしさ」(静かな夜半にふと寝苦しく目が覚める。世の人々の苦しみに思いをはせて)(『風雅和歌集』)といった、いずれもこのうっとうしい乱世の中で世のため人のために良き政治をしようと葛藤する彼の姿勢が率直に反映されている。
幕府の設立後、尊氏は直義に政務の全てを任せた。『梅松論』によると直義は再三辞退したが、ついに尊氏に押し切られてこれを引き受け、いったん引き受けた後はひたすら政務に没頭して尊氏に一切口出しをさせなかったという。こうして足利幕府の初期にあって、直義は所領問題や政務全般を担当、尊氏は武家の棟梁・征夷大将軍として武士たちとの個人的な主従関係を保ち軍事指揮権を握るという二頭体制がとられた。これを人々は足利兄弟が二人で将軍になったものとみなし、直義を「副将軍」と呼ぶことすらあったという。康永3年(興国5、1344)の尊氏が九州の伊作宗久にあてた書状では「援軍のことを直義に催促したところ、ただちに処置するとの返答だったので、もう少しこらえてくれ」という記述があり、直義が軍事面でも指揮権をもっていた時期もあるようだ。
あるとき尊氏は直義に「お前は政治をする身なのだから、重々しくふるまえ。遊んだりして時間を浪費してはいけない。花見や紅葉狩りぐらいならともかく、物見遊山はほどほどにしろ」と忠告したという話も『梅松論』に載るが、そんなことを言われなくても直義は遊びなどほとんどしなかったらしい。尊氏が好んだ演劇(猿楽・田楽)を「政務の妨げになる」として全く見なかったという話も伝わる。
またこれはあくまで『太平記』中の物語性の強いくだりではあるが、南朝の怨霊たちが集まって幕府に内紛を起こさせようとするくだりで「直義は他犯戒(たぼんかい。女性との接触を絶つ)をしていて、『俗人の中では自分ほど禁欲的なものはない』と自負している」と語られている。実際直義は同い年の渋川氏の正室がいたがながらく子ができず、それにもかかわらず当時としては当然の側室をもった形跡がない。それを世の人は彼の性格からくる「禁欲」ととらえたかもしれない。
直義は政務の中心メンバーを足利一門と鎌倉幕府以来の官僚一族で固めつつ、朝廷の儒家である日野氏を採用するといった幅広い姿勢も示している。直義にとっての理想政治は鎌倉幕府前期、北条独裁が強まる以前の北条泰時時代の執権政治であったようで、足利一門による独裁体制を避けようという意図もあったようだ。養子の直冬(尊氏の庶子)や今川了俊ら若者たちに対し「自身の家柄によって身を立てようなどとは決して思ってはならぬ。文の道をもって将軍をお助けし、自らの徳によって立身すべきである」と朝に夕に語っていたという。
直義は武将ではあったが、幕府が設立された上は「文」をもって世を治めねばならないという、かなり儒教的な政治観をもっていた。それは建武5年 (延元3、1338)に「建武」の年号を変えることになったとき、直義が「『武』の次は『文』の字を用いるべきだ」と強く主張した事実に表われている。結局これは朝廷で通らず「暦応」という年号になるのだが。
直義の政治姿勢はあえて言えば保守的なものでもあった。彼は朝廷の皇族・公家や寺社といった京の旧権威とも折り合いをつけていく政治姿勢であったため、その方面からの人気はかなり高かった。暦応5年(興国3、1342)正月に直義が重病になったとき、光厳上皇はひそかに勅使を石清水八幡につかわし、直義の平癒を祈願したという。
その年の9月に土岐頼遠が光厳の車に「院か、犬か」と矢を射かける事件が起こる。直義はこれに対して断固たる厳罰をもって臨み、帰依している夢窓疎石の助命の口添えも受け入れず、頼遠を死罪に処した。その一方で土岐氏の領地は安堵させており、バランスのとれた対応をしたとも言える。この処置に人々は畏怖し、直義の政道をたたえたと「太平記」は記す。
―観応の擾乱―
だが、そうした直義の保守的ともいえる「理想的政治性」は時代とは相容れない部分が多かった。特に直義が嫌った「婆沙羅」な武将たち、旧権威をものともせず公家・寺社の領地を侵略し、動乱の中で実力でのし上がってきた新興武士たちにとっては直義の姿勢は邪魔なものでしかなかった。こうした存在の代表が、足利家の執事である高師直だった。幕府設立初期までは共に軍事と政務でそれぞれ才能を発揮して尊氏を見事に支えた二人だったが、南朝との戦いが長引くなかで新興武士層の支持を集めて軍事的成功を収めてきた師直は次第に直義と深刻な対立を始めるようになる。
こうした中で自らの立場を強化する意図もあったのだろうか。このころ鎌倉の東勝寺から上京してきた尊氏の庶子・新熊野丸(いまくまのまる)の存在を学僧・玄恵から知らされた直義は彼を引き取り、自らの養子として「直冬」と名乗らせた。実父に冷たくされた直冬はこの叔父である養父によくなつき、以後その忠実な腹心となり、武将としても成長してゆく。時期は不明だが尊氏の三男・光王丸(基氏)も直義の養子という扱いになっていたようで、幼少期に直義の薫陶を強く受け、後年直義を模範とする実直な政務をこころがけることになる。
そんな貞和3年(正平2、1347)6月8日、直義の妻・渋川氏が数え年42歳で夫婦にとって初めての子を産んだ。それも後継ぎとなるべき男子で如意丸と名付けられた。直義はもちろんのこと周囲も大いに驚き、光厳上皇が祝いの太刀を贈ったほか、公家も武家もこぞって祝いの馬や太刀を贈ったという。
だが「太平記」ではこの異例の出産を南朝の怨霊が仕組んだものとして、むしろ不吉の前兆として描いている。実際にこの直義にとっても意外な後継ぎの誕生は兄・尊氏との関係や幕府内部に微妙な波風を起こした可能性が高い。幕府の実務的な最高権力者といえる直義にその血統をひく後継ぎができたということは、今後の足利将軍家が尊氏からその嫡子・義詮の系統に行くとは限らない、ということも意味していた。これは当時の全国の武士の一族にありふれて見られる本家・分家の紛争、惣領権をめぐる争いのパターンでもあり、それは頂点にいる足利家においても例外ではない。幕府の内戦「観応の擾乱」の要因は複雑だが、足利家に関して言えば将軍一族の本家・分家の家督争いの側面が強かった。
貞和5年(正平4、1349)4月、直義は養子の直冬を長門探題に任じ、中国地方へ向かわせた。そして閏6月、直義は尊氏に迫って師直を執事職から解任させる。ただしその後任には師直の甥である高師世(師泰の子)を立て、高一族のメンツは一応立ててやっている。さらに直義は懇意の光厳上皇に面会して師直を政治から退けると上奏しているが、これは光厳の院宣により師直らを打倒する大義名分を得ようとしたのではないかと考えられる。
このころ直義の側近・上杉重能と畠山直宗、そして僧・妙吉らが盛んに師直の抹殺を直義に進言し、7月に師直を自宅に招いてその暗殺を謀ったが、粟飯原清胤らの内通があってこれは失敗に終わる。そして8月13日、師直・師泰兄弟らを中心とする反直義のクーデターが発生、直義は尊氏から呼びかけられて尊氏邸に避難する。14日に師直軍は尊氏邸を包囲し、尊氏は直義に「家臣の手にかかるぐらいなら兄弟ともども自害しよう」とまで言ったが、結局直義がそれを諫めて政務を義詮に譲ることを承知して包囲は解かれる。この騒動は当時から尊氏と師直が仕組んだ芝居であったと見る見方が強く、尊氏としては対立する二者の上に立つ第三者の立場を取りつつ、息子の義詮に確実に将軍権力が継承されるよう直義を引退に追い込んだのが真相と見られている。今川了俊も「難太平記」のなかで「大御所(尊氏)はさすがにご子息のことを見捨てるわけにはいかず、かといって大休寺殿(直義)には中先代以来全てを譲ってきたこともお忘れにはなっておらず、ただどうにかして直義どのから義詮どのへ“うつくしく”天下を譲らせようとお考えになったのだ」と記していて、尊氏なりに穏便にことを収めようとしての作戦だったと思われる。
この政変の結果、鎌倉にいた義詮が京に呼び出されて直義から引き継いで幕府の政務にあたることになり、入れ替わりに尊氏の三男・基氏が鎌倉に行くことになる(鎌倉公方・関東公方の始まり)。基氏が直義の養子とされたのはこの時ではないかとする説もあり、その後基氏が直義の政治姿勢を引き継ぐことから、この基氏の鎌倉下向は直義が自らの引退と引き換えに実現させたもので、後日の反撃のために関東に地盤を築いておこうとしたのではないかとの見方もある。
10月22日、上京した義詮は直義がいた三条坊門の屋敷に入り、直義は腹心の細川顕氏の屋敷に移った。そして12月8日に出家し、法名「慧源(えげん)」を名乗ることになる。直義の側近・上杉重能と畠山直宗も流刑先で暗殺され、直義一派は完全に敗北したかに見えた。
だが翌観応元年(正平5、1350)になると直義の養子・直冬が逃亡先の九州で勢力を拡大、その勢いを恐れた尊氏・師直は10月に九州へ出陣する。ところがその直前に直義は京から姿をくらました。師直はその追跡を主張したが、なぜか尊氏は「その必要なし」と放置したまま出陣してしまう。そして直義は大和の越智伊賀守を頼り、彼を通じてこともあろうに南朝に投降、11月に師直・師泰を討てとの後村上天皇の綸旨を受ける(「尊氏を討て」との綸旨になっていなかったのは直義がそう主張したためとみられる)。これに呼応して各地で畠山国清、斯波高経、桃井直常、石塔頼房、細川顕氏、上杉憲顕といった直義党の武将たちが挙兵し、一気に巻き返しを図った。この一連の動きはおそらく九州の直冬とも連動し、この一年の間にひそかに周到に準備されたものであったと思われる。
慌てて山陽から引き返した尊氏・師直は観応2年(正平6、1351)年明けの正月にかけて京をめぐって直義軍と激しく戦ったが、ついに京を失陥。2月17日に摂津・打出浜で両軍の最終決戦が行われて、これは直義軍の圧勝に終わる。尊氏は師直・師泰の出家・引退による助命を条件に直義と和睦するが、その直後の2月26日に師直・師泰以下の高一族は武庫川で直義派の上杉能憲により暗殺されてしまう。ここに「観応の擾乱」はひとまず直義の圧勝で終わったかに見えた。
―滅亡への道―
師直が死ぬ前日の2月25日、八幡の直義の陣中で悲劇が起きていた。直義の愛息・如意丸がわずか4歳で急死したのである(「太平記」は26日のこととするが、「園太暦」に従う)。直義がなぜ幼い如意丸を陣中に連れていたかは不明だが、もしかするとすでに容体が悪く、情勢が有利なこともあって直義自身が気づかって身近に置いていたのかも知れない。政権を奪回し、いよいよこれからという時に愛児を失った直義とその妻、そして周囲の人々の悲しみは激しかった。「観応の擾乱」の一因だったとも思えるこの幼児の死は、その後の展開に少なからぬ影を落としたようでもある。
直後の戦後処理の交渉ではなぜか負けたはずの尊氏が強気に出て、自分に味方した武将たちの領地安堵と恩賞を勝ち取り、師直を殺した上杉能憲の死罪を主張して直義になだめられるという一幕もあった。直義としてはあくまで師直らの排除して元のように政務をみることが目的で、尊氏を敵にして打倒するつもりなどなかったところに弱みがあった。
またこれと同時並行で、直義は南朝と講和交渉を進めていた。直義は師直を倒すための大義名分を得るために方便として南朝に投降したのだが、一方で光厳はじめ北朝皇族に対する配慮も忘れていなかった。そして南朝天皇が京に戻る形での両朝の合体・和睦をかなり本気で実現しようともしていた。南朝側で直義と直接交渉したのは南朝の総帥・北畠親房で、その仲介にあたったのは楠木正成の三男・正儀だった。
この交渉の中で親房は「吉野の天皇こそが後醍醐先帝を受け継ぐ正統の天皇であるのだから、奪った天下をまずこちらの帝にお返しするべきである。幕府などの問題はそのあとの話だ」と原理原則論を主張したが、直義は「源頼朝が幕府を開いて以来、天下は武士の力によっておさまってきた。承久の乱でも北条義時がこれを治めているし、元弘の乱の時も後醍醐先帝の功績だというが、実際には尊氏の戦功によるものだ。(中略)先帝が天下を統一したといっても三年とたたずに天下は乱れたではないか。諸国の武士が元弘の時のように公家の家来・下僕として仕えることを望むとお思いか。天下泰平を願うなら、もとのように武士に政治を任せて御入京されるべきだ。そうすれば先帝の血統も絶えることなく、皇室も安泰である」と、こちらもあくまで幕府政治の原理原則を主張して譲らなかった。親房も一種の原理主義者だったが、直義もまたあくまで鎌倉幕府の執権政治を理想として掲げる原理主義者だったのだ。
結局この交渉は5月に決裂し、親房から突き返された直義の書状を持参した正儀の使者は「このうえは吉野を攻撃してくれ。そうすれば正儀は味方に加わる」と伝えたという。
いったんは和睦した尊氏と直義の仲もたちまち険悪となった。3月には直義派の斎藤利泰が暗殺され、5月にはやはり直義派の桃井直常が何者かの襲撃を受けた。6月には地方で尊氏派・直義派の戦闘も始まり、緊迫する情勢の打開を図ったか、7月19日に直義は自分から申し出て政務を辞した。しかしその直後に尊氏派の諸将が京から姿をくらまし、赤松則祐や佐々木道誉が南朝と手を結んで挙兵の姿勢を示し、尊氏と義詮がこれを討つためと称して東西に出陣した。これは全て京周辺から直義一派を包囲する策略で、これを察知した直義たちは7月30日に大急ぎで京を離れ、越前・金ヶ崎城に入った。
8月に尊氏は直義に「京へ戻って政務をとれ」という使者を送る一方で、南朝にも使者を派遣し講和交渉にとりかかっている。尊氏は直義と違って原則論はほとんど主張せず、「天下のことはよろしく聖断あるべし」としごくあっさりと南朝天皇の主権を認めて交渉をまとめてしまった。もちろんお互いに一時の講和と分かった上での交渉だったのだろうが、それすらもできなかった直義の生真面目さがかえって浮き彫りになる。直義はこの段階で光厳ら北朝皇族に比叡山に逃れるよう勧めていて、これが尊氏に対抗するために北朝皇族を奉じようとしたものか、あるいは純粋に親切心から南朝による北朝接収を逃れるよう忠告したものなのかは分からない。
9月に近江で尊氏・直義両軍の戦いがあり、これは尊氏側が勝利した。尊氏はそれでも直義に繰り返し和睦を求めて交渉しており、10月2日には近江・錦織の興福寺で二人で直接会談もしている。尊氏もその性格上、直義を徹底的につぶす気はなく、なんとか穏便に話をまとめたいと思っていたのだろう。だが、結局直義党の最強硬派・桃井直常の猛反対が和議をぶちこわし、直義は直常に従って北陸から関東へと逃れた。直義は桃井ら自分に忠実な部下たちを見捨てきれず、引きずられたのかもしれないが、こうした直義のかたくなな態度は細川顕氏、畠山国清といった腹心たちを尊氏側に寝返らせる結果も招いた。
11月15日に直義は建武政権に反旗をひるがえした出陣以来じつに16年ぶりに鎌倉に入った。鎌倉には直義の養子である基氏が待っていた。直義はこの基氏を一方の旗頭にして関東に独立政権を作る意図があったとの見方もある。それはその16年前にも直義が構想していたものだった。だが基氏は直義に対して父・尊氏との和睦の仲介を申し出た。直義がこれを拒絶すると、基氏は鎌倉を出て伊豆(安房とも)に閉じこもってしまう。
―謎に満ちた最期―
11月24日、尊氏は北朝を見捨てて南朝と完全に講和し(正平の一統)、後村上天皇から「直義討伐」の綸旨を受けた。尊氏は京を義詮に任せて関東へ出陣し、12月27日に駿河・薩埵山の戦いで直義軍を完全に打ち破った。敗れた直義は伊豆山中に逃れたが、畠山国清・仁木頼章が使者に立って直義に投降をすすめ、直義もそれを受け入れて尊氏の軍門に下った。尊氏と直義はひとまず「和睦」し、観応3=文和元年(正平7、1352)正月5日にそろって鎌倉に入った。
このとき、基氏が実父と養父の兄弟の不和を嘆いて安房にひきこもり、尊氏からの使者をうけてようやく鎌倉に帰ってきた、という話が基氏の子孫・喜連川氏の歴史書「喜連川判鑑」にみえる。そして彼が鎌倉に帰ってまもなくの2月25日に基氏の元服が行われている(数えで13歳)。そしてその直後に、直義は急死した。享年47。
直義は公式には「黄疸」による病死と発表されたが、尊氏に毒殺された―という「噂」が流れたという記述が「太平記」にあり、その命日がちょうど師直の一周忌にあたる2月26日であることから、「毒殺説」は昔からほぼ通説になっている。だが尊氏がこの時点で直義をわざわざ殺害する必然性が薄いこと、これまでにも直義に何度も講和を呼びかけた事実、毒殺の噂を記すのは「太平記」のみで物語的意図が強いことなどから毒殺という通説に疑問をとなえる声もある(最近では峰岸純夫氏が著書「足利尊氏と直義」で病死説を強く主張した)。また尊氏が手を下さずとも高一族の誰かが報復として殺したのではないかとする見方もある。
最近では田辺久子氏が著書「関東公方足利氏四代」の中で、直義の死と基氏の元服があまりに接近していることに注目している。直義の死を「2月26日」とするのは「鶴岡社務記録」だが、生田本「鎌倉大日記」には2月25日に基氏が元服、その同じ日のうちに直義が死去したと記し「かの御逝去は以後」とわざわざ注記しているというのである。足利側の立場の史書「源威集」(佐竹師義が作者と言われる)では「2月25日に基氏元服、直義はその翌朝死去」と記しており、田辺氏はこれらの史料から「25日に基氏の元服式が行われ(一般的に夜行われたと推測)、それを見とどけた後で真夜中過ぎに直義は急死した」との見解を出している。さらに田辺氏は「直義は基氏の元服を見届けて覚悟の死を遂げたのかもしれない」と、直接的表現を避けつつも「直義は尊氏らと了解の上で自決した」とする新説を示している。あくまで推測の積み重ねで完全な証拠を見つけることは困難だろうが、直義の性格やその後の基氏が直義を非常に敬慕した事実からすると事実の可能性がかなり高いのではなかろうか。
直義が死んだ場所は「常楽記」では延福寺、「鎌倉大日記」では大休寺、「建長寺年代記」では鎌倉稲荷智円坊屋敷とまちまちに記録されているが、いずれにしても足利義兼が創建した浄妙寺の一帯である。ここには父・貞氏の墓もあり、延福寺は早世した兄・高義の菩提を弔って建てられたもの、ここに隣接して足利氏の屋敷もあり、以後の鎌倉公方の邸宅ともなった。この足利一族ゆかりの寺で直義は死に、大休寺に葬られた。このため後年彼は「大休寺殿」と呼ばれることになる。残念ながら大休寺はのちに廃寺となり、直義の墓も現存していない。
直義の死から6年後の延文3年(正平13、1358)2月12日、尊氏の強い要請により北朝朝廷は直義に対し従二位の贈位をした。公家たちも「すでに出家して死去した人物に対し異例。根拠も不明だ」と困惑したというが、自らの死期を悟った尊氏(この年4月30日死去)が直義の霊を慰めようとしたのではないかと言われている。尊氏の死後、二代将軍となった義詮は貞治元年(正平17、1362)7月に京・天竜寺の近くに直義を祭る祠を建立し、「大倉二位大明神」なる神とした。一説に、直義の死には義詮が深く関与していて、その怨霊を恐れたのではないかとも言われている(天竜寺も後醍醐の怨霊対策施設である)。
―人物像―
直義という政治家の生真面目ぶりについてはすでに書いたが、その他に彼についての逸話をまとめたい。
直義は夢窓疎石に深く帰依したが、兄・尊氏がひたすらすがりつくような帰依を示すのに対し、直義はあくまで論理的に疎石と渡り合ったと言われる。直義と疎石の問答集「夢中問答集」は直義が素朴な疑問や論理の矛盾をつき、これに疎石がやさしく答えて禅の奥義を説明してゆくという構成になっており、直義のなみなみならぬ教養と論理的思考ぶりがうかがえる。
禅僧との交流ではこんな逸話もある。ある日、禅僧たちが直義邸を訪問したとき、ひとり雪村友梅だけが遅れて帰ろうとしたが誰も履物を差し出さなかった。すると「副将軍」である直義みずからが履物をとって差し出したという。
今川了俊は若き日に直義と顔を合わせることが多く影響もよく受けたのか、回想録「難太平記」で多くの直義の言動を伝えている。彼によると尊氏・直義が対立した時、人々は「直義は政道に私心がないから捨てがたい。尊氏は弓矢の将軍でさらに私曲がなく、これまた捨てがたい」と悩んだという。結果的に多くの人は人間的に親しみやすい尊氏についていってしまうのだが、冷徹で論理的でクソまじめで付き合いにくい直義の誠実さ、私心のなさは誰もが認めるところであったようだ。そして基氏のように尊氏の実子でありながら直義を強く敬愛した例もあり、尊氏を敵に回した人物でありながらも、その後の室町幕府にあって直義は「創始者」として敬慕の対象であり続けた気配がある。少なくとも了俊は直義のことをそうとらえている。
その了俊が証言していることだが、南北朝動乱を描く軍記物語「太平記」そのものの編集に直義が深く関わっている。「難太平記」によれば「むかし」(康永年間?1340年代)に等持寺で法勝寺の円観慧鎮が「太平記」三十余巻を直義のもとに持ち込み、直義が玄恵に命じてそれを読み語らせ、直義はその内容に「誤りが多い」として訂正を命じた、という話が書かれている。むろん直義存命中のことであるからこの時点の「太平記」が現在読めるものと同じものであるはずはないが、恐らく後醍醐天皇の死去までを描く内容(「太平記」研究でいう第二部まで)だったと思われる。この記述から直義は「太平記」編纂に深く関与したと推測され、了俊の書きぶりだとその後も「太平記」は室町幕府のチェックを受け続け、事実上の「公式史書」の地位にあったようだ。
後年「南朝正統」「足利逆賊」論の根拠とされてしまう「太平記」だが、確かによく読めば北条氏、後醍醐の失政を論じ、足利幕府成立が必然の過程として描かれている。ただ記述に政治介入したという割には尊氏や直義にとっては都合の悪そうな話もかなり残っており、これもまた直義の生真面目な性格がそのようにさせたのではないかとの見方がある。「太平記」の内容は直義の死後もリアルタイムで書き継がれ、最終的に細川頼之の手によりまとめられた可能性が高いが、この頼之もまた直義の政治姿勢を目標としていたフシがある。
後年、直義の存在は兄・尊氏の陰に隠れたせいもあるのかあまり強くは意識されなかったようだ。ただ江戸時代の「仮名手本忠臣蔵」は赤穂事件を「太平記」の世界に置き換えた芝居だったので、高師直ともども足利直義もその冒頭にだけ登場している。「将軍」そのものを出すのを避けるために直義を登場させたのかもしれない。
直義を室町幕府体制の実質的な創設者として高く評価したのは南北朝の大家・佐藤進一氏で、網野善彦・笠松宏至両氏との三者鼎談(平凡社ライブラリー「日本中世史を見直す」所収)で「佐藤先生の直義びいきは誰の目にも明らか」とまで言われている。この鼎談でも直義は北条泰時の幕府政治を理想としてあまりに真面目に動き回り、それが「(後醍醐、師直などの)時代を変えようって人間にとっては、邪魔者でしかないわけですよ」(佐藤氏)「そうなると、直義は非常に保守的な存在になってしまう」(網野氏)と評されている。佐藤氏は「少なくとも泰時と同じ頃に生まれていればね、まだまだ直義もやりがいがあったかもしれませんね」とも表現し、その悲劇性を指摘してもいる(もちろん、頑固に保守的な人物でもなかったともフォローしている)。
ところで、1995年に美術史家の米倉迪夫氏により京都・神護寺にある三つの肖像画のうち、従来「源頼朝像」とされていた肖像画は実は「足利直義像」である、というショッキングな新説が発表された。歴史教科書にも定番で載り、恐らく日本史上もっとも有名な肖像画といっていい、あの傑作肖像画である。あれが実は「直義」だったというのだ。
神護寺の記録「神護寺略記」には平安末期に生きた藤原隆信の手による後白河法皇・平重盛・源頼朝・藤原光能・平業房の五人の肖像画があると書かれている。神護寺に現在あるのはそのうち三像だが、実はどの絵が誰を描いたものかは明記がない。はっきり言ってしまえば「なんとなくあの人っぽい」ということでその三像が「源頼朝」「平重盛」「藤原光能」とされてきただけの話なのだ。特に「頼朝像」はこれを模したと思われる肖像画が大英博物館にあり、そこに「頼朝像」の明記があるので「確定」されていた。そして威厳に満ち、冷徹な性格を感じさせるその顔だちが人々の「頼朝イメージ」を完璧に結びつき、教科書等に載ることで再生産されてきた。
しかし米倉氏はこの「頼朝像」の等身大肖像画という特異性、身につけている衣装の考察、そして画像技法の考察から制作時期を南北朝時代、その時代に生きた人物の寿像(存命の人物のその年齢の姿を描いた絵)と推定した。そして康永4年(興国6、1345)4月23日付で直義が神護寺に収めた願文のなかに「征夷将軍(尊氏)ならびに予(直義)の影像(肖像画)をここに安置する」と明記していることに注目し、左を向いている「重盛像」を「尊氏像」、右を向いている「頼朝像」を「直義像」と断定した(残りの一枚は後から追加された「義詮像」とする)。この康永4年という年は軍事的に足利幕府が南朝をほぼ完全に制圧し、観応の擾乱が始まるまでの安定期にあたり、足利兄弟による支配確立を誇示し、その安泰を祈願する意味があったのではないかと推測している。
この説が発表されると、歴史学界、美術史学界に大きな波紋を呼んだ。傾向として歴史学者は「直義説」を支持する方向にあり、政治史的にこの説を裏付ける意見も出ている。一方で美術史方面ではとくに古参の学者の間では批判も強く、制作年代を鎌倉時代までさかのぼらせる反論も出ている。だが、いずれにしても「頼朝像」とする根拠がはなはだ薄弱なものであったことは明らかにされた。
直義は肖像をほかに全く残していないので証明のしようがないのだが、残り二つの肖像画は「尊氏」「義詮」とされる他の肖像と比較すると似てると言えば似ており、直義像の可能性はやはり高いとみるべきではないか。
あの「頼朝像」は、伝えられる頼朝のイメージによくマッチしていたからこそ「頼朝」と信じられてきた。だが、あの肖像を「直義」と言われてみると、確かに直義のイメージにもよくマッチしてくる。冷徹で、威厳のあるその姿は「副将軍」として幕府を切りまわしていた絶頂期の直義の姿を写したものであったのかもしれない。仮にこれが本当に直義像なら、自身の肖像が後世に彼自身も尊敬したであろう「頼朝」とされてしまったことに、直義も地下で恐れ入りつつ苦笑していたかもしれない。
歴史人物としては決して知名度は高くない直義だが、実はもっとも顔をよく知られた歴史人物だった、という大逆転になるのかも…。
参考文献
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
佐藤進一・網野善彦・笠松宏至「日本中世史を見直す」(平凡社ライブラリー)
米倉迪夫「源頼朝像・沈黙の肖像画」(平凡社ライブラリー)
田辺久子「関東公方四代」(吉川弘文館)
櫻井彦・樋口州男・錦昭江編「足利尊氏のすべて」(新人物往来社)
峰岸純夫「足利尊氏と直義・京の夢、鎌倉の夢」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)
黒田日出男「国宝神護寺三像とは何か」(角川選書)
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大河ドラマ「太平記」 | 3、14、29、30回以外の全ての回に登場し、主人公の尊氏を除くと最多の登場数を誇る。演じたのは高嶋政伸で、血気盛んな若武者時代から幕府首脳時代、尊氏に毒殺される最終回までを熱演した。謹厳実直かつ潔癖ぶりも描かれたが、尊氏と比較して武人らしい熱血タイプに描かれためか、直義ファンを公言する歴史家・佐藤進一氏は放送時「大変不満でね。直義があんな男であるわけがないという…」と切って捨てていた(網野善彦も「ミスキャスト」と同意したが熱演は認めている)。だが「幕府はわしが作った!兄上はわしがいなければ何もできなかったではないか!」と引退を迫る尊氏に対して絶叫するシーンや、最終回の「よくご決断なされた。兄上は大将軍じゃ…」と言い残す壮絶な毒殺シーンは大河ドラマ史上の名場面としてファンの間では語り草になっている。
「当初は緒形直人の予定だった」との情報もあるが未確定。緒形直人は「太平記」の翌年の「信長」で主演している。
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その他の映像・舞台 | 1933年製作の映画「楠正成」で丹下知嘉が演じている。しかしどういう形での登場かは不明。
昭和34年(1959)のTVドラマ「大楠公」では末広憲治、昭和41年(1966)のTVドラマ「怒涛日本史 足利尊氏」では仲谷昇が演じている。
舞台では昭和3年(1928)の自由劇場「足利尊氏」で市川猿之助(二代目)が直義を演じた(尊氏役は市川左団次(二代目))のが最古の例と思われる。1961年の舞台「幻影の城」では日下武史、同舞台の1969年公演では浜畑賢吉が演じている。
なお、「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士の討ち入りを「太平記」の時代に移した内容で、足利直義は幕閣(老中?)にあたる役どころで登場しており、それを含めれば演じた俳優はかなり多い。「忠臣蔵」から離れた南北朝もの歌舞伎としては大河と同じ平成3年(1991)の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」があり、そこでは松本錦弥(三代目)が直義を演じた。
昭和58年(1983)のアニメ「まんが日本史」では第22〜25回に登場、池田勝が直義の声を演じた。 |
歴史小説では | 南北朝時代を描く作品なら当然ほぼ確実に重要人物として登場する。ただ尊氏とセットで語られることが多く、その個性が描かれることはあまり多くない。現時点で直義だけを主人公にした作品はないはずである。
吉川英治「私本太平記」では主役が尊氏ということもあって全編を通して重要人物で、祖父・家時の置文とからめて兄弟の愛憎が描かれた。ただ湊川の戦い以降がダイジェストになっているため、兄弟の確執の過程は詳しくは描かれない。吉川英治の直弟子である杉本苑子の「風の群像・小説足利尊氏」では直義にかなり焦点があてられており、直義ファンからの評価が高い。この小説では直義は尊氏の手ではなく南朝の策謀によって死に至らされる。林青悟「足利尊氏」も尊氏による直義毒殺を否定する。
桜田晋也「足利高氏(文庫版は「尊氏」)」は「高氏」を徹底的に悪者として描く作品だが、ここでは直義は高氏に忠実に動くだけでやがてその兄に裏切られる気の毒な人という描かれ方になっている。安部龍太郎「道誉と正成」では尊氏を善人に描くぶん直義が悪者扱いされる傾向が強く、正成はもちろん道誉にまで嫌われるキャラクターに描かれた。 |
漫画作品では | 学習漫画系の南北朝時代・太平記漫画版などでは当然皆勤状態。古くは昭和40年代の集英社版「学習漫画・日本の歴史」に登場、ここではなぜか最終的に尊氏と和解してしまい、毒殺がないどころかいっしょに南朝に逆襲してくるという完全に史実にもとる展開が描かれていた。小学館版「少年少女日本の歴史」では最初「王貞治」の似顔絵みたいな顔で登場するが、なぜか途中から顔が変化している。学校図書「コミックストーリーわたしたちの古典14・太平記」(漫画:千明初美)では冒頭で直義が慧鎮から初版「太平記」を読まされ、「誤りが多い」と怒る場面がある。
石ノ森章太郎「萬画・日本の歴史」では観応の擾乱の果てに鎌倉で尊氏と直義が「鎌倉は16年ぶりか…そなたと共に鎌倉の空を見るのは…お前がいなかったらおれはここまでやれなかっただろう。本当のところ将軍はお前のほうだったかもしれん」「いえ、武士たちは結局兄者をとった…」と語り合う場面が印象的。「毒殺」については「太平記」を引用する形でぼかされており、椿の花が雪の上に落ちるカットで表現される。
一般の漫画ではなんといっても湯口聖子「風の墓標」を挙げねばならない。北条氏びいきのこの作家のシリーズの最終章にあたる作品だが、主人公となるのは赤橋四郎(守時の弟の設定)・北条仲時そして足利直義の三人である。この三人の熱い友情が物語の軸となるが、やがて直義は苦悩のうちに討幕側にまわる。メインヒロインの章子(赤橋四郎の妹)と直義のラブストーリーも主軸となっていて、物語の最後、後日談部分で直義毒殺も描かれている。「続・風の墓標」という仲時の遺児を描く中編でも直義が再登場する。直義の養子・直冬を描く「北天の星」でも直義が回想としてチラッと出ており、作者の直義に対する思い入れをうかがわせる。なお、作者は大河ドラマで高嶋政伸のキャスティングを聞いて「三の線だった」とガッカリしている(笑)。この作品で直義が「苦悩の美青年」と描かれたこともあって女性の直義ファンが急増したらしく、他にも少女漫画系でいくつか直義が登場するものが存在する。
例えば河村恵利の「時代ロマンシリーズ」の第1巻と第2巻には直義を主人公とする短編が合計3作存在する。第1巻収録の「雨の糸」「火炎」の二作は倒幕から建武政権打倒にかけての直義を追い、人の好い兄を支えて非情な謀略をめぐらす美青年という役どころ。第2巻収録の「春宵」はそんな直義の恋物語で、妻となる渋川氏との馴れ初めがミステリ風味に語られる。
さらに市川ジュン「鬼国幻想」がある。阿野廉子の異母妹・緋和(架空人物)を主人公に南北朝ドラマを描く作品で、物語の前半、緋和は護良と恋人関係にあるのだがその時点から直義とも微妙な関係をもつ。直義が護良を殺してしまうので緋和は直義を激しく憎悪して復讐を誓うが、「憎悪は恋愛と同じ」というわけで物語の後半は緋和と直義のラブストーリーである。ラストの直義の死は真相をぼかした描き方だが、尊氏は関与せず自殺であったことをほのめかす描写になっている。
十川誠志・原作/あきやま耕輝・画「劇画・楠木正成」では回想部分で建武政権期に町中で偶然会った正成と直義が政治論を戦わせるという珍しい場面があり、湊川合戦で正成が直義にあと一歩まで迫るシーンもある。 |
PCエンジンCD版 | 北朝方武将として尊氏と同じ相模伊豆に登場。初登場時の能力は統率83・戦闘93・忠誠99・婆沙羅38で、大軍を率いられる上に戦闘も強力。兄・尊氏とコンビを組ませるとほとんど無敵。政治要素のないこのゲームでは全く個性が生かせないのが残念。
オープニングのビジュアルシーンにも登場し、家時の置文を尊氏と見る場面がある。声は水内清光。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の動乱」で幕府方武将として山城・延暦寺に登場。シナリオ2ではプレイヤーは南朝側を操作するので、直義はクリアのために倒さなければならないラスボスである。能力は「長刀4」。 |
メガドライブ版 | 足利軍武将の一員として多くのシナリオに登場。能力は体力104・武力144・智力103・人徳85・攻撃力129で、ゲーム中でも屈指の強力武将。 |
SSボードゲーム版 | 武家方の「総大将」クラスで勢力地域は「全国」。合戦能力1・采配能力6と兄・尊氏にはやや劣る。ユニット裏は養子の足利直冬。 |