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ほそかわよしゆき〜ほんまやましろにゅうどう

細川義之
ほそかわ・よしゆき 1363(貞治2/正平18)-1422(応永29)
親族 父:細川詮春
養子:細川満久
官職 兵部少輔・讃岐守
幕府 阿波守護
生 涯
―阿波細川家のルーツ―

 細川詮春の子。父・詮春は貞治6年(正平22、1367)に若くして死去しており、幼い義之は伯父の細川頼之の庇護を受けて育った。名乗りの「義」は足利義満から、「之」は頼之から与えられたものとみられる。
 康暦元年(天授5、1379)閏4月の「康暦の政変」で頼之が失脚、京から四国へ落ちた際に同行していたとされる「讃岐九郎」が義之のことらしい(「花営三代記」)。この直後に阿波守護職は頼之がかつて倒した細川清氏の遺児・正氏に与えられ、頼之への追討が命じられたが、頼之は義之を阿波へ送り込んで正氏に対抗させた。結局正氏は山間部をおさえただけで義之の優位をくつがえせず、やがて頼之が幕府から赦免されるに及んで、永徳元年(弘和元、1381)4月13日付の文書で阿波守護として活動していることが確認できる。
 以後阿波守護職をつとめつつ、応永初期に出家して「常長」と号し(頼之の法名「常久」を意識したと思われる)、実子がいなかったらしく叔父の細川満之の子・満久を養子にとって家督を継がせた。この系統の細川氏を讃州家、あるいは阿波細川家という。
 応永29年(1422)2月1日に60歳で死去した(「康富記」「看聞日記」)。重態となった正月25日の時点で将軍・足利義持の嫡子・義量が見舞いに訪れるなど細川庶流の中では重視された存在であったらしい。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)ほか

細川頼有 ほそかわ・よりあり 1332(正慶元/元弘2)-1391(明徳2/元中8)
親族 父:細川頼春
兄弟:細川頼之・細川頼元・細川詮春・細川満之・守慶・守格・守明・頼雲
子:細川頼長・細川頼顕
官職 掃部助、宮内少輔、右馬頭
位階 従五位下
幕府 備後・阿波守護
生 涯
―兄・頼之をよく助けた補佐役―

 細川頼春の子で、おそらく次男。「讃岐十郎」と称した。兄の細川頼之と同腹の兄弟と『常楽記』は伝えるが、延文3年(1358)8月に死去した頼春夫人が頼有の母とされていて、その時点では頼之の母・里沢尼は存命であるため頼之と頼春は腹違いの兄弟と確認できる。なお頼有の子孫である細川熊本藩が編纂した資料により頼有の生年月日は正慶元年(元弘2、1332)5月2日と特定されている。この時代の武将で誕生日まで特定できるのは非常に珍しい。

 幕府の内戦「観応の擾乱」の時期には父・頼春に従って京都付近で戦闘に参加していたらしい。文和元年(正平7、1352)閏2月20日に楠木正儀らの南朝軍が京へ突入し頼春が戦死した時にもその近くにいたとみられる。このころ頼有は京の東・清水坂の庵を構えていた禅僧・無涯仁浩に庵の前で偶然出会い、馬上から禅問答をしてから戦場に赴いていたことが縁で深く帰依するようになり、頼春の戦死から間もない3月5日に無涯から付法状と「通勝」という道号を与えられた(「永源師壇紀年録」)。まもなく四国から兄・頼之も駆けつけ、3月から5月にかけて兄弟そろって四国勢を率い南朝軍のこもる男山八幡の攻撃にあたっている。6月からは足利義詮の命を受けて頼之と共に阿波に渡り、阿波国内の南朝勢力の掃討にあたっている。

 延文元年(正平11、1356)3月10日に頼有は足利義詮からの御教書により備後守護に任じられた(ここで初めて「宮内少輔」の官名が使われている)。備後守護職は父・頼春のものであったうえ、直後に頼之が中国方面平定の総大将に任じられるため、その助けとなることを尊氏と義詮から期待されたようである。だが頼之の中国大将(中国管領)と頼有の備後守護の「二重行政」の形に頼之は不満であったらしく、直後に出奔騒動を起こしているほか、実質的には頼之が守護の職務を行っている。この件については後年の明徳元年(元中7、1390)に頼之が頼有に送った手紙の中でも触れられている。
 延文3年(正平13、1359)9月7日に、頼有はかねて帰依している無涯から「無敵」という、なかなか凄い道号を受けている。その無涯はそれから3か月ほどでこの世を去った。やがて中国方面が平定されると貞治4年(正平20、1365)秋に頼有は備後守護職を解任され、四国管領に移った頼之と共に讃岐・阿波の経営につとめた。

 貞治6年(正平22、1367)に頼之が幕府の管領となり、幼君義満を補佐して幕政を指揮するようになると、頼有は頼之から阿波守護職を譲られて兄の留守を守った。また守護にこそならなかったものの讃岐・伊予の守護職務も頼有が事実上代行しており、細川氏の四国経営全体を兄から任される形になっている。
 しかし伊予ではかねてから細川の宿敵である河野通直が各地の南朝方の支援を受けて伊予奪回に乗り出したため、応安2年(正平24、1369)8月に頼有は自ら軍を率いて伊予へ出陣した。9月から11月にかけて頼有は河野軍と連戦したが、河野軍に敗北したとされる(「予章記」)。その後も伊予では河野氏に押され続け、永和元年(天授元、1375)3月11日に頼有が伊予・大三島神社に家門繁栄を祈る願文を納めたころには伊予全体は河野氏の手に落ちてしまっていた。
 なお、この時期のものと思われる頼之から頼有にあてた自筆書状が現存し、頼有が出陣にあたっての作法について頼之に問い合わせ、頼之が「将軍に謁見を理由に上京してくれれば直接教えるのだが、そうもいかないので」と父・頼春から聞いた作法を文章で教えているものがある。

 康暦元年(天授5、1379)の「康暦の政変」で頼之が管領を解任されて四国に戻ると、幕府方に転じて頼之を攻めようとした河野通直を返り討ちにして倒した。その後河野氏とは義満の仲介により和解し、伊予を分割支配することで話がまとまるが、この時も頼有が兄を助けてその処理にあたっている。
 頼之が四国に退居している間も頼有は阿波守護の義之(頼有・頼之の甥)を助けて阿波統治にあたり、現在の徳島県麻植郡山川町井上にあった泉屋形と呼ばれる屋敷に居住していた。頼有は56歳となった嘉慶元年(元中4、1387)の11月26日付で嫡子の松法師(のちの頼長)への譲状を作成しており、阿波・讃岐・伊予に分散した頼有の全貌を知ることができる。翌嘉慶2年(元中5、1388)には泉屋形の近くの川田八幡宮の社殿建造の施主ともなっている。

 明徳元年(元中7、1390)3月、義満は山名一族の内紛を誘い、山名時熙山名氏幸の討伐を指示した。讃岐にいた頼之にも備後守護として出陣せよとの命が届き、3月16日付の頼有あての書状の中で頼之は「備後守護にはお前を推薦したのだが私のところに来てしまった。備後のことはすべてお前に任すつもりだ」と伝えている。この書状の末尾で頼之は頼有を「柞田(くにた)殿」と呼びかけており、このとき頼有が讃岐国柞田(現・香川県観音寺市柞田)に在住していたことが分かる。あるいは頼長に家督を譲って実質的に引退状態になっていたのかもしれない。
 まもなく頼有は頼之、息子の頼長と共に山陽方面へ出陣、頼有自身は備中に進出して二万山に布陣し、山名軍と戦った。この功績により翌年に備中国に所領を与えられただけでなく、後小松天皇から「錦の御旗」も授けられた。この「錦の御旗」は「天照皇大神・八幡大菩薩」と大書された現存最古のものとして今日に伝えられる貴重なものである。この年の4月には頼之が上洛して幕政に復帰しており、頼有も共に上洛して錦の御旗もその時に授けられたものと思われる。

 しかしその栄光から間もない明徳2年(元中8、1391)9月9日に頼有は死去した。享年60。師であった無涯仁浩の塔所である建仁寺の塔頭・永源寺に葬られ、一個の自然石で作られた墓所は今も現存している。戒名は無涯から授かった道号から「勝妙院無敵通勝」という。
 頼有の子孫は「和泉上守護家」となり、戦国時代を経て熊本藩細川家となり、細川一門の中では最も後年まで存続した。第79代総理大臣・細川護熙も子孫の一人である。頼有あての頼之書状など頼有関係の資料類が豊富に残されているのもそのためである。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)

細川頼和
ほそかわ・よりかず 生没年不詳
親族 父:細川和氏
兄弟:細川清氏・細川将氏・細川業氏・細川家氏・仁木頼夏・笑山周念
子:細川義和
官職 左馬助
幕府
越中守護
生 涯
―白峰で奮戦した清氏の弟―

 細川和氏の子。兄が幕府の執事となった細川清氏で、『太平記』では清氏の弟たちの中で頼和だけが終始行動を共にしているため、同母弟だったのかもしれない。官名は「左馬助」「右馬助」とする史料が混在するが、総合すると「左馬助」が正しそうである。
 兄の清氏ともども「観応の擾乱」の時期から合戦に参加しており、功績を評価されて観応2年(正平6、1351)2月13日付で足利尊氏から越後国白河荘上下条を領地として与えられている。
 足利義詮が将軍となり兄・清氏が執事となると、延文5年(正平15、1360)から頼和が越中守護となっている。これは若狭守護の清氏が北陸方面に自身の勢力を広げようとしたもので、頼和はいわば清氏の分身であった。しかし正平16年(康安元、1361)9月に清氏が佐々木道誉の策謀により失脚すると、頼和は清氏と共にいったん若狭に逃れ、さらに若狭から京周辺を突破して南朝に投降、南朝軍と共に京を攻めて一時占領ののち撤退、と常に清氏と行動を共にしていた。
 翌正平17年(貞治元、1362)正月に清氏と共に再起を期して堺から四国に渡り、讃岐の白峰城に入って、討伐に来た従兄弟の細川頼之と対峙した。7月24日の「白峰の戦い」では頼之軍の陽動作戦にひっかかって従兄弟の信氏(淡路守護・氏春の弟)と共に白峰城を出て西長尾城への援軍に出かけ、その隙を頼之らに突かれて清氏が戦死してしまう。罠にかかったことを悟った頼和と信氏は慌てて白峰に戻り、敵将・新開真行らの軍を突破するものの、主将である清氏の戦死を知って味方の武士が散り散りとなり、頼和らもやむなく淡路へ逃走した。しかし淡路でも武士たちが敵対したため、さらに和泉へ逃れたという(「太平記」)。その後の消息は不明である。

細川頼貞 ほそかわ・よりさだ ?-1335(建武2)
親族 父:細川俊氏
兄弟:細川公顕
子:細川顕氏・細川直俊・細川定禅・細川皇海・細川氏之・細川政氏
生 涯
―中先代の乱で自害―

 細川俊氏の子で、「四郎」と呼ばれた(『尊卑分脈』に「八郎四郎」とある)。南北朝時代前半で活躍した細川顕氏細川定禅らの父で、『梅松論』には「細川四郎入道義阿」と法名で記されており、死去時には50代以上の高齢になっていたと思われる。
 建武2年(1335)7月、北条時行率いる北条残党が放棄し、一挙に鎌倉を奪取した(中先代の乱)。『梅松論』によればこのとき頼貞は湯治のために相模国河村山(現・神奈川県山北町)に滞在しており、敵中に取り残される形になってしまった。息子の顕氏から使者が来て「ご無事でご上洛なさってください」と伝えたが、頼貞は「敵中にありながら一つの手柄も立てられぬとは無念である。それにわしが生きていては皆も心配してしまうだろう。それならば我が命を捧げて息子たちに思う存分戦ってもらおう」と言って使者の目の前で自害してしまった。『系図纂要』では命日を7月20日とする。
 頼貞の死を知った足利尊氏は大いに悲しんだという。息子の顕氏が讃岐に長興寺を建立して父の菩提を弔い、このため頼貞は「長興寺殿」と称されている。

細川頼長 ほそかわ・よりなが 1375(永和元/天授元)-1411(応永18)
親族 父:細川頼有
兄弟:細川頼顕
子:細川持有・細川有勝
官職 刑部大輔
幕府 備後半国・土佐半国・和泉半国守護
生 涯
―和泉上守護家の始まり―

 細川頼有の子で、「九郎」と呼ばれる。父の頼有が正慶元年(元弘2、1332)生まれなので、40歳を過ぎてから生まれた子ということになる。嘉慶元年(元中4、1387)11月26日付で頼有が「松法師」に阿波・讃岐。伊予に点在する18か所の所領を譲渡する「譲状」を作成しており、この「松法師」が頼長と推定される。この時点では元服前だが、間もなく元服して実質隠居した父の跡を継いだとみられる。
 明徳元年(元中7、1390)3月に頼有が備後・備中に出陣して山名勢と戦うと、これに同行した。翌明徳2年(元中8、1391)9月9日に頼有が死去すると備後国の守護職を従兄弟の細川基之と半国を分け合う形で務めるようになる。その後応永7年(1400)から基之ともども土佐守護職に移され、さらに応永15年(1408)には和泉国守護に移り、ここでも基之と二分統治体制となった。頼長は岸和田城に拠点を構え、彼の子孫は「和泉上守護家」と呼ばれるようになる。この系統の子孫が熊本藩主細川家である。

細川頼春 ほそかわ・よりはる 1352(嘉元2)?-1352(文和元/正平7)
親族 父:細川公頼 兄弟:細川和氏・細川師氏 
子:細川頼之・細川頼有・細川頼元・細川詮春・細川満之・守慶・守格・守明・頼雲
官職 蔵人、刑部少輔、讃岐守
官位
従四位下
幕府 阿波・備後・伊予(?)・越前・讃岐(?)守護、引付頭人、侍所頭人
生 涯
―文武両道の名将―

 細川公頼の長子で、通称「九郎(源九郎とも)」。南北朝動乱で活躍した細川一族の第一世代で、兄和氏、弟師氏と共に足利高氏(尊氏)挙兵以来の功臣である。
 元弘3年(正慶2、1333)4月、足利高氏は丹波・篠村で討幕の挙兵をする。このとき細川和氏・頼春・師氏の三兄弟も同行している。そして六波羅陥落後ただちに三兄弟そろって関東に派遣され、陥落後の鎌倉の支配をめぐって新田義貞と争い、これを追い出したとされている(「梅松論」)

 建武政権が成立すると、功績により蔵人に任じられた。建武元年(1334)春、後醍醐天皇の宮中の馬場殿で行われた射礼(じゃらい。弓矢の競技)の催しで見事な腕前を披露し、後醍醐みずからこれを称えて衣装を恩賞として与えている。細川家の史料によるとこのとき頼春は昇殿してこれを受け取り、そのときに「あづさ弓 家に伝えて 青柳の いともかしこき ならひにぞひく」(我が家が代々伝えてきた弓矢の腕前をこの春に帝の目の前で披露することができました)一首歌を詠んで、後醍醐からますます褒められたという。この一件は尊氏もよほどうれしかったのか、恩賞として日向国の領地を頼春に与えている。

 建武2年(1335)7月に中先代の乱が起こり、尊氏はこれを平定するため出陣し、そのまま鎌倉に居座って幕府政治復活の既成事実を作ろうとした。これに対して後醍醐は新田義貞を司令官とする追討軍を派遣した。これを聞いた尊氏は「帝にそむく気はない」として浄光明寺にひきこもって出家・遁世の意思をしめしたが、このとき尊氏の近習以外で一緒に寺まで同行したのは頼春だけだった(「梅松論」)。他にも大勢家臣がいるはずだが、そのなかでわざわざ選ばれているあたり、頼春が尊氏から深く信頼されていたことがうかがえる。

 その後尊氏は出陣を決意し、箱根・竹之下の戦いで新田軍を撃破し、京へと攻めのぼった。京都をめぐる攻防戦では頼春もよく戦い、建武3年(1336)2月11日に摂津・瀬川河原で行われた戦いでは重傷を負う奮戦を見せたことが「梅松論」に書かれている。
 いったん敗れて九州まで落ち延びた尊氏は、その途中の室泊の軍議で細川一族を四国に配置して巻き返しに備えた。細川一族は四国勢を率いて湊川の戦い、それに続く京での再度の攻防戦で活躍し、頼春は6月30日の戦闘で内野(大内裏跡の空き地)に布陣していたところをわざわざ選抜されて、宇治方面から進んできた敵軍を撃退している(「梅松論」)
 11月にひとまず尊氏と後醍醐が和睦し、恒良親王を奉じた義貞が越前・金ヶ崎城に移ると、翌建武4年(延元2、1337)正月から頼春は高師泰らと共に金ヶ崎城攻略にあたり、3月にはここを陥落させている。

 数々の戦功により刑部少輔の官職を授かり、建武4年(1337)8月には淡路守護の兄・和氏に代わって淡路国内の南朝方討伐を命じている(兄・和氏がこのころ引退を決めたのでその代行らしい)。翌建武5年(延元3、1338)5月には高師直・師泰、そして従兄弟の細川顕氏らと協力して北畠顕家ひきいる奥州軍を石津の戦いで壊滅させ、その別動隊の春日顕国がこもる男山八幡の攻略にも参加している。

 兄・和氏の隠居にともない、阿波守護職を引き継ぎ、さらに備後守護職も任されて、四国と瀬戸内方面に活発に活動していた南朝軍の鎮圧にあたった。康永元年(興国3、1340)5月にこの地の南朝軍の総帥として迎えられたばかりの脇屋義助(義貞の弟)が伊予・今治で急病のため死去すると、頼春はチャンスを逃さず伊予に侵攻、義助のあと伊予の南朝軍を率いていた大館氏明を世田城に攻めて戦死させた。このころ伊予守護ともなってこの地の支配を推し進めたが、従来この地に根を張る河野氏がこれに抵抗し、これ以後、阿波細川氏と伊予河野氏は戦国時代まで続く因縁の間柄となる。

―壮烈な戦死―

 南朝に対して圧倒的優勢に立った足利幕府だったが、今度は幕府内における直義派・師直派の対立が激化、「観応の擾乱」へと突入してゆく。頼春はもともと尊氏の側近の立場であったから一貫して尊氏・師直派に属していたが、これは従兄弟の顕氏が直義の腹心となっており、細川一族の中でも惣領の地位をめぐる抗争があったことも一因のようだ。

 貞和5年(正平4、1349)8月に師直派がクーデターを起こし、直義を失脚に追い込んだ。翌観応元年(正平5、1350)11月、尊氏・師直は直義の養子・直冬を討つため九州に向けて出陣するが、その直後に直義が南朝と手を結んで挙兵した。尊氏軍に同行していた細川顕氏も直義と呼応して讃岐に逃亡し、慌てた尊氏は同族の頼春と清氏(和氏の子)に顕氏の討伐を命じている。だが頼春があまり乗り気でなかったのか、あるいはその暇もなかったのか、すぐに引き返している。

 年が明けて観応2年(正平6、1351)正月14日、京都で尊氏・直義両軍の激しい戦いが行われ、頼春は尊氏派武将として戦い、敗れて自邸に火をつけて京から没落している(「観応二年日次記」)。これとほぼ同時に畿内と守護国の阿波との連絡をとる海路を確保するためか、紀伊の安宅水軍に阿波国の領地を安堵する書状も出している(正月7日付)。しかし2月に戦いは直義派の勝利に終わり、2月26日に師直・師泰らは殺害され、尊氏はひとまず直義と和解して京に戻った。頼春もこれに同行したものと思われる。

 だが7月に尊氏・直義は決裂、尊氏派の武将達は一斉に京を離れ、その直後に尊氏・義詮も京を離れた。これは周囲から京にいる直義一派を挟撃する謀略だったのだが、このとき頼春も7月21日に京を離れて拠点の阿波に帰ったことが確認できる。こののち紆余曲折があって直義は関東へと逃亡、尊氏は南朝と手を結んで(正平の一統)直義を討つべく関東へと出陣する。このとき頼春は尊氏の嫡子・義詮を守って京に残る留守部隊となった。尊氏と直義の戦いは翌文和元年(正平7、1352)2月26日に直義が鎌倉で急死したことにより一応の決着がつく。

 ところがその直後、京・鎌倉を同時奪回する機会をうかがっていた南朝軍が動いた。南朝の後村上天皇は京の近くの男山八幡に進出、閏2月20日に突然北畠顕能楠木正儀率いる南朝軍が京へ突入したのである。
 急報を受けた頼春は鎧もつけず、鞍も置かずに馬に飛び乗り、小勢を率いて迎撃に出た。四条大宮(あるいは六条大宮)で楠木・和田軍と戦闘になり、ここで壮絶な戦死を遂げた。「太平記」では落馬しながらもなお敵兵二人を斬って捨てたが、槍で貫かれて死んだといい、細川家の史料では家臣四人を討たれてもなお単騎で駆け回り、周囲から矢を射かけられて死んだと伝える。

 頼春の嫡子が、南北朝動乱を終息させる名宰相・細川頼之である。頼之は後年弟の頼有にあてた書状のなかで、父・頼春から口伝で教えられた出陣作法について記しており、頼春がその方面でも造詣が深かったことをうかがわせている。
 また、こののち室町時代、戦国時代、江戸時代、そして近代まで脈々と続いた奇跡の大名・細川家の直接的ルーツはこの頼春ということになる。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」 ドラマ中盤、建武政権期から幕府成立期にかけて合計6回登場。演じたのは「太平記」出演者に多い「たけし軍団」の一員・芹沢名人だが、特に目立たず「足利家臣一同」の中に紛れ込んでいるだけである。
その他の映像・舞台 1964年の歌舞伎「私本太平記」で「○○延録」(下の名前のみ確認)が演じた。1991年の歌舞伎「私本太平記 尊氏と正成」では市川右之助(三代目)が演じた。
歴史小説では  兄の和氏と共に名前だけなら時々出てくる。なお、当サイトに掲載されている仮想大河ドラマ「室町太平記」では主人公の父親ということもあり、第1回から戦死する第6回まで重要キャラとして登場している。
PCエンジンCD版 北朝側武将として和氏・顕氏とともに讃岐阿波に登場する。初登場時の能力は統率79・戦闘84・忠誠89・婆沙羅35
メガドライブ版 竹之下合戦や湊川合戦のシナリオで足利軍武将として登場。能力は体力79・武力89・智力112・人徳90・攻撃力70
SSボードゲーム版 細川定禅のユニット裏で登場。武家方の「武将」クラスで、勢力地域は「四国」。合戦能力1・采配能力4

細川頼元 ほそかわ・よりもと 1343(康永2/興国4)-1397(応永4)
親族 父:細川頼春 養父:細川頼之
兄弟:細川頼之・細川頼有・細川詮春・細川満之・守慶・守格・守明・頼雲
子:細川満元・細川満国・宇都宮基綱室
官職 右馬助・右京大夫
位階 従四位下
幕府 摂津・土佐・讃岐・安芸・丹波守護、侍所頭人、小侍所別当、管領
生 涯
―細川京兆家の始まり―

 細川頼春の子で、おそらく三男。『細川管領家御系』で伝えられる享年から康永2年(興国4、1343)の生まれと推定されるが、『系図簒要』からは貞和4年(正平3、1348)生まれとの数字も出る。いずれにしても長兄の細川頼之から見れば十四歳以上年の離れた弟である。通称は「三郎」で、幼名は「聡明丸」といった。元服して初めは「頼基」と名乗っていた。

 父・頼春の守護国であった阿波で育ったと推測されるが、1352(文和元/正平7)に頼春が京で南朝軍と戦い戦死。その後は兄の頼之によって育てられ、やがて実子のなかった頼之の養子となった。記録はないが、成人以後は兄・頼之を助けて四国統一戦などに参加していたとみられる。
 貞治6年(正平22、1367)9月に頼之が管領就任のため上洛するとこれに同行。応安元年(正平23、1368)4月15日の足利義満の元服式では「打乱箱」の役目などを務めた。翌応安2年(正平23、1369)正月に南朝の主将であった楠木正儀が頼之の誘いを受けて幕府に投降、南朝方が正儀を攻撃すると、3月に頼基が主将となって河内に出陣し、正儀を応援した。しかし戦況はかんばしくなく、頼基・正儀らは天王寺・榎並方面まで撤退する羽目になっている。

 応安4年(建徳2、1371)5月にも頼基を主将として楠木支援の軍が派遣されたが、頼之に不満を抱く諸大名は全く非協力的で、怒った頼之が辞任騒動を起こしている。頼基の対南朝戦はしばらく続き、南朝に対する抑えのためであろう、応安7年(文中3、1374)から赤松氏に代わって頼基が摂津守護に任じられている。ただし有馬郡は赤松氏、住吉郡は楠木氏の支配下にある分郡支配の形で、頼基自身は常に在京して頼之を補佐していたため奈良入道という守護代に統治を任せている。
 永和3年(天授3、1377)ごろに頼基は「右京大夫」に任じられた。、これがのちに彼の子孫「細川京兆家」が代々名乗る官名となる。この永和3年には興福寺衆徒が春日大社神木の強訴をかけると脅して奈良の紛争への介入を要請したため10月に頼基が奈良まで出兵する事態となったが、翌年にその時の対応が消極的だったとして興福寺側が頼基の摂津守護罷免を要求する騒ぎになっている。

 永和4年(天授4、1378)11月に一度は幕府に投降した橋本正督が南朝に舞い戻り、紀伊守護・細川業秀を襲った。頼之はまたも頼基を主将とする援軍を派遣し、頼基は一時は南朝方を追い払って京へ凱旋したものの、直後に正督が業秀を攻撃、業秀は淡路へ逃亡する事態となった。怒った義満は山名義理山名氏清を討伐に派遣、山名軍はたちまち和泉・紀伊を制圧したため、頼基ら細川一門は大いに面目を失うこととなった。
 翌年の康暦元年(天授5、1379)閏4月15日、反頼之派の諸大名が大軍で義満のいる「花の御所」を包囲、実力で頼之の管領罷免を要求した。義満がこれを認めたため、頼之は一族郎党を引き連れて四国へと逃亡した(康暦の政変)。もちろん頼基も兄に従って四国に渡り、摂津守護職も罷免された。
 
 一時は討伐対象となった頼之fだったが、阿波・讃岐・土佐に頑強な基盤を固めていたためその力は揺るがず、間もなく赦免への動きが始まる。さすがに頼之本人をすぐに赦免するわけにもいかず、弟で養子の頼元(このころ改名している)が前面に立たされた。康暦2年(天授6、1380)末には伊予守護職を河野氏に返還することを条件に頼元は幕府への帰参を認められ、翌永徳元年(弘和元、1381)には頼元が上洛、6月5日に京の自邸に義満や政敵の斯波義将をはじめとする大名たちを招いて、赦免に感謝する盛大な宴を催している。永徳3年(弘和3、1383)には摂津守護にも復帰し、頼元は完全な復権を果たしたのである。

 康応元年(元中6、1389)3月、義満が諸大名を引き連れて壮大な厳島参詣を挙行、頼元も義満の乗船に同乗している。この一行には途中から頼之も参加し、頼之復権が明確に世に示された。
 そして明徳2年(元中8、1391)3月12日に斯波義将が管領を辞任して越前に帰り、4月3日に入れ替わりに頼之が四国から京に入った。4月8日に頼元が管領に就任して頼之がその後見人とされたが、頼元は幕府の評定(閣議)で管領の席に参加はするものの、評定終了後に頼元が退出すると頼之が入れ替わりに出仕して義満の前での「御前沙汰」を行っており、実質的な管領が頼之であることは誰の目にも明らかであった。
 この年の暮れの山名一族の反乱「明徳の乱」にも頼元は頼之ともども参陣した。その功により山名氏が持っていた丹波守護職を獲得している。それから間もない明徳3年(元中9、1392)3月2日に頼之が死去。頼元は臨終を見届けてのち、花の御所に出向いて頼之の遺言を義満に伝えている(「明徳記」)。この遺言のなかで頼之は「頼元は短慮蒙昧で管領の器ではない。管領職については上様がよろしく取り計らってほしい」と伝えており、多少身内を卑下する口調でもあるのだろうが、こうしてわざわざ記録されてしまっているところを見ると、頼元は政務能力においてやはり頼りなかったのかもしれない。
 頼之の死により讃岐・土佐守護職を相続、頼元は摂津・丹波と合わせて四か国の守護大名となった。この年のうちに南北朝合体が実現、翌明徳4年(1393)6月に管領を辞任した。後任はまたも斯波義将となり、その後は細川・斯波・畠山の三家が管領職を交代で務める「三管領」が定着する。また頼元の系統は「右京大夫」を世襲する名家「細川京兆家」となり、「元」の字を通字として代々受け継いでいくことになる。
 応永元年(1394)に義満が出家すると、諸大名や公卿がこぞって出家する事態となったが、頼元もならって出家した一人であった。応永4年(1397)5月7日に死去。享年五十七とされる。法名は「妙観院春林梵栄」。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
その他の映像・舞台
アニメ番組「まんが日本史」で平野正人が声を演じている。
漫画作品では
足利義満を扱った学習漫画でたいてい登場している。

細川頼之 ほそかわ・よりゆき 1329(元徳元)-1392(明徳3/元中9)
親族 父:細川頼春 母:里沢尼 
兄弟:細川頼有・細川詮春・細川頼元・細川満之
妻:「玉淵」 養子:細川頼元・細川基之
官職 右馬助・右馬頭・武蔵守
位階
従四位下
幕府 阿波・讃岐・伊予・土佐・備後守護、中国管領、四国管領、管領
生 涯
 南北朝時代のほぼ全体を生き抜き、三代将軍・足利義満を管領として、育ての親として補佐し、浮沈の波を乗り切って室町幕府を強化、その生涯をかけて南北朝動乱を終結に導いた名宰相とうたわれる。細川氏が室町幕府の「三管領」の一つとなり、その後も名家として長く続くことになったのは頼之の存在によるところが大きい。

―動乱の中の青春―

 細川頼春の長男で、母親は出家後に「里沢禅尼」として知られる女性。多くの史料が頼之の享年を64歳としているので、鎌倉幕府末期の元徳元年(1329)の生まれと推定される。出生地は細川氏発祥の地、三河国額田郡細川郷である。通り名は「弥九郎」といった。
 物心ついたころには南北朝動乱が始まっており、足利尊氏のもとで各地に転戦する父の背を見て育ったはずである。江戸時代に編纂された『雑々拾遺』という逸話集には、諸将が集まる席で「主人の使いに行く途中で親の仇に出会ったらどうするべきか」との議論が出て誰も答えられないでいると、まだ10歳の頼之が「そのような事情のある者は本来主人に仕えるべきではありません」と発言し、一同を感嘆させたという話が紹介されている。後世の書物の伝承なので事実とは認めがたいが、頼之の幼少期ならさもありなん、と思う人々によって生み出された逸話であろう。
 また『細川三将略伝』という書物は、11歳の時の頼之が両親に連れられて阿波におもむき、ここで従兄弟の細川清氏と武芸を競ってすべて勝利したとの逸話を伝える。これもまた後年に頼之と清氏が宿命的な対決をしたことを念頭にした創作の可能性が高い。また同書には暦応3年(興国元、1340)に12歳の頼之が父に従って伊予に出陣し、すこぶる戦功があったとするが、やはりその年齢では事実とは思えない。ただ戦場へ父に連れられたという可能性はあるだろう。

 頼之の武将としての活動が最初に確認されるのは彼が22歳となっていた観応元年(正平5、1350)11月である。この時期、幕府は内紛「観応の擾乱」を始めており、阿波ではその隙を突いて小笠原頼清を中心とした南朝勢力が活発に活動、頼之は翌年12月にかけて約一年にわたり現在の徳島平野各地で彼らと連戦し、小笠原らの拠点の破壊に成功している(光吉心蔵軍忠状)
 文和元年(正平7、1352)閏2月20日、楠木正儀らの南朝軍が京を奇襲、父・頼春は七条大宮で奮戦のすえ戦死した。父と共に戦っていた弟の頼有から悲報を伝えられたと思われる頼之は直後に阿波勢を率いて京にのぼり、洞ヶ峠に陣を敷いて南朝軍の拠点である男山八幡の攻撃に参加している(光吉心蔵軍忠状)。5月に男山が陥落すると、留守中に阿波の南朝勢が息を吹き返したらしく、6月には足利義詮の命令で頼有と共に阿波にわたった。この年のうちに頼之は亡父から阿波守護を引き継ぎ、南朝勢力を山間部に追い込んで阿波の分国支配を進めていった。文和3年(正平9、1354)末ごろから伊予守護としても活動しており、これが伊予を古くから支配する豪族・河野氏との確執の始まりとなる。

 文和4年(正平10、1355)正月、足利直冬山名時氏斯波高経ら旧直義派が南朝と結んで京を占領した。このとき頼之も四国から尊氏・義詮の応援に駆け付け、2月6日の摂津国・神南の戦いに又従兄弟の細川繁氏と共に参戦、山名軍と激闘を繰り広げている(「太平記」)。直冬らを畿内から追い払った後の6月4日に頼之は清氏・繁氏と共に尊氏の護持僧である醍醐寺三宝院の賢俊のもとを訪ね、風呂を使って終日懇談している(「賢俊僧正日記」)。これは一種の任官運動であったらしく、頼之は8月10日付で右馬助から右馬頭に昇進している(これも賢俊の日記にある)
 
 延文元年(正平11、1356)4月、頼之は尊氏から京に呼び出され、直冬党が優勢な山陽山陰方面の平定を行う総大将に任命された。この地位を「中国大将」あるいは「中国管領」と呼ぶ。足利一門の中でも戦闘や分国支配で実績を上げていた若き頼之を尊氏が抜擢した形であったが、頼之は突然命令を拒否して京から逐電してしまう。4月29日夜に従兄弟の清氏が山崎まで頼之を呼び返しに行き、5月2日になってようやく京に戻ってきた(「園太暦」)
 洞院公賢が日記『園太暦』に記すところによると、頼之は中国方面への出陣にあたって「闕所(無領主地)」を自由に部下たちに与える裁量権を認めてほしいと湯給したが受け入れられず、それに不満で逃亡したのだという。公賢は「近頃の武士ときたら、このようなものか。利益のためには恥もかえりみない」と批判を記しているが、当時の武士にとって戦闘参加の見返りに恩賞=領地を求めることは当然であり、自身の利益のためには陣営鞍替えも当たり前の時代なので、領地を自身の裁量で与える権限を認めてもらわなければとても「中国大将」などつとまらない、というのが頼之の主張だったと思われる。いきなり拒否・逃亡というのはひどく感情的な行動にも見えるが、結局罰せられることもなく頼之の要求はおおむね認められたようで、7月までに頼之は中国方面へと出陣した。

 中国管領となった頼之は小早川氏・平賀氏といった安芸の有力武士たちを味方につけて直冬の拠点である石見への攻勢をかけた。数年がかりの地道な頼之の攻勢により直冬は石見から身動きが取れなくなり、山陽平定は着実に成果を挙げていった。この間の延文3年(正平13、1358)4月に足利尊氏が死去、8月に後の三代将軍で頼之と深い関係となる足利義満が生まれている。頼之の妻は義満の乳母となったとする史料があるため、同時期に頼之にも子が生まれていたと推測されるが、その子についてはまったく消息がなく、夭折したものと考えられている。

―清氏との対決〜四国統一―

 延文4年(正平14、1359)6月に讃岐守護であった又従兄弟の細川繁氏が急死した。頼之が讃岐守護を引き継ぎ、従来の領国である阿波に加えて讃岐への支配も強めていったが、強い抵抗にもあっていたらしい。少し後だが貞治元年(正平17、1362)に島津貞久が自身のもつ讃岐の領地を頼之に横領されたと幕府に訴えてもいる。
 『太平記』にも康安元年(正平16、1361)9月のこととして、山名時氏の軍が播磨の赤松則祐の倉懸城を攻撃、「中国大将」である頼之が赤松支援に出陣することとなったが、このとき頼之は讃岐にあり国の守護をめぐって相論(紛争)していたと書かれている。9月10日に頼之が先に備前に渡って讃岐・備前・備後・備中の武士たちの到着を待ったが、とくに山陽方面の武士たちはそれぞれ地元の「私戦」にかまけて参陣せず、頼之は彼らを「彼らはみな野心を抱いているからあてにすべきではない」と唐川(辛川?)というところに布陣してむなしく過ごしているうちに倉懸城は11月に陥落してしまったという。ここでは山陽武士たちがついてこなかったとしているが、その後の清氏との対決を見ても讃岐武士も容易には従わなかったであろう。こうした地域武士たちの統制の困難を知っていたからこそ頼之は恩賞裁量権を強く求めたのだと理解できる。

 さて頼之が山陽と讃岐で苦闘している間に、中央でも異変が起こっていた。将軍となった義詮に見込まれて幕府の執事(のちの管領)となった従兄弟の細川清氏が康安元年(正平16、1361)9月に佐々木道誉の策謀により謀反の疑いをかけられて失脚、12月には南朝と手を組んで京都を攻撃、占領したのである。まもなく京は奪回されたが、清氏は再起を期して自身の故郷ともいえる阿波へと渡り、やがて讃岐の白峰城(現・坂出市林田付近)に入った。清氏にはやはり従兄弟で淡路守護である細川氏春とその弟信氏が味方し、阿波から頼之の宿敵である小笠原頼清も応援に駆け付けた。『太平記』によれば中院源少将という南朝公家と思われる人物も参戦している。

 幕府から清氏追討の命を受けた頼之は備前から讃岐へと渡り、宇多津に城を構えてわずか二里ほどをへだてて清氏と対峙した。この従兄弟同士の対戦は少なくとも4月から7月にまで及んだ。『太平記』では頼之の軍は備前・備中・備後など山陽方面の遠征武士が多く、しかも南朝方の飽浦氏胤の水軍が海上封鎖を行って補給を断ったため兵粮も不足し逃亡兵も出て困難な状況に置かれたとも書いている。また時間稼ぎのために頼之が生母の里沢尼を清氏の陣営に送って和睦を申し入れ、清氏が油断したすきに城の構えを整えたという逸話も書かれているのだが、実際の頼之がそれほど苦境にあったとは思えず、『太平記』の記述は「猛将清氏VS智将頼之」という対戦構図にするための軍記物語的フィクションではないかとする意見もある。
 だが一方で頼之は清氏と対峙していた4月から7月にかけて伊予の河野通盛に繰り返し援軍を求めている事実がある。河野氏にしてみれば頼之はその父・頼春以来伊予を侵略してきた仇敵であり、そう簡単には援軍に応じない。通盛は頼之が奪った伊予守護職と所領の返還を求めてきて、頼之がそれに応じているところを見ると実際に頼之は苦境に立たされていたとみるべきではないか。頼之は幕府に連絡して「援軍にきて功績を挙げたら望みどおりにする」と伝えたが通盛はあくまで無条件返還を要求。頼之はこれも飲んだが、結局河野氏は最後まで動かなかった。彼らにとっては頼之と清氏の共倒れが最大の望みであっただろう。

 清氏は『太平記』では数々の武勇伝を残す猛将。かたや頼之について『太平記』は「あくまで心に智謀ありて機変時とともに消息する人」(常に智謀をめぐらして状況の変化に対応する人)と表現し、両者の対照をきわだたせてその対決を語る。『太平記』巻38に載るこの対決はこの長大な軍記物語の最後の山場ともなっている。その後の経緯を考えれば、確かにこの一戦は南北朝の歴史の流れを決定したともいえる。

 貞治元年(正平17、1362)7月23日、頼之は家臣の新開真行(阿波守護代)の献策を受けて清氏との決戦を決意する。まず真行の軍が中院源少将のこもる西長尾城を攻撃する陽動作戦を行い、これにかかった清氏は弟の頼和と従兄弟の信氏に兵を割いて西長尾救援に向かわせた。西長尾を攻めていた新開軍はかがり火だけを残して夜陰に紛れて白峰に移動、これと同時に頼之も夜のうちに白峰の搦め手に移動、翌24日の朝に攻撃を開始した。自身の武勇をたのむ清氏は味方が戻るのを待たずに自ら出撃、頼之軍の武士を次々と一騎打ちで破ったが、ついに備後の武士・伊賀高光に討ち取られた。清氏の戦死を知って清氏方についていた武士たちは散り散りに逃げ去り、讃岐における頼之の支配は決定的なものとなったのである。

 頼之が清氏と対決している間に山陰の山名氏が勢力を拡大、直冬も息を吹き返して攻勢に転じた。讃岐平定を終えた頼之は翌年正月には備前に渡ってその対応に当たっている。一方で幕府は南朝方有力大名の懐柔にも乗り出し、貞治2年(正平18、1363)には大内弘世が長門・周防守護職を認められて幕府に帰順、同時期に山名時氏も自ら切り従えた山陰方面の5か国の守護を認められて幕府に帰順した。一説にこの山名時氏の帰順は、頼之が義詮に提案して家臣の飯尾某を伯耆の時氏のもとへ派遣して交渉した成果であるという(「山名家譜略簒補」)
 大内・山名の帰順によって直冬もその活動をほとんど止めてしまい、中国地方はほぼ平定される形となった。これにより頼之は中国管領の職を解かれ、代わりに阿波・讃岐・伊予・土佐四国の守護となる「四国管領」の立場へと移って自身の基盤強化に専念している。またこの間、貞治2年(正平18、1363)2月20日に阿波・秋月の安国補陀寺に光勝院を創建し、春屋妙葩を招いて亡父頼春の十三回忌法要を行い、翌貞治3年(正平19、1364)には上洛して自ら洛外に創建した景徳寺にて父の命日の2月20日にまた春屋妙葩を招いて落慶法要を行っている。

 その貞治3年の9月、阿波に戻った頼之は四国の完全制覇を目指して突如伊予へと侵攻した。河野通盛の長男・河野通朝を世田山城に包囲し、11月6日に攻め落として通朝を自害に追い込んだ。そのショックで直後の26日に通盛が急逝し、通朝の遺児・通堯(のちの通直)が必死の抵抗をつづけたが、翌貞治4年(正平20、1365)4月10日に頼之は通堯のこもる高縄山城を攻め落とし、伊予全土をほぼ手中に収めた。河野一族・家臣の多くは頼之に投降し、通堯は九州を制覇していた南朝の懐良親王を頼って再起を期すこととなる。
 頼之は翌貞治5年(正平21、1366)12月ごろまで伊予にとどまり、河野氏から奪った伊予の支配確立にいそしんでいたとみられる。また阿波で長らく頼之に抵抗し続けた小笠原頼清も貞治6年(正平22、1367)正月には幕府に投降して頼之の家臣の列に加わった。頼之の四国統一はここにほぼ達成されたのである。

―義満の「父」に〜管領としての苦闘―

 この間、中央では貞治5年(正平21、1366)にそれまで幕政を牛耳っていた斯波高経義将父子が失脚して越前へ逃れ、翌貞治6年(正平22、1367)年7月に高経が死去すると義将は許されて9月4日に京に戻った。それまで執事(管領)であった義将が再登板かとも思われたが、直後の9月7日に細川頼之が義詮の呼び出しに応じて軍勢を率いて上洛している。頼之は数日嵯峨に滞在したのち、14日に京の六角小路・万里小路にある「細川局」(頼之の近親者の女性で後光厳後宮にいたらしいが正体不明)の屋敷へと入った。人々は、頼之の上洛は管領就任のためであろうが、斯波高経や山名時氏が頼之と合戦に及ぶのではないかと噂しあったという(「愚管記」)。頼之が呼び出された裏事情は判然としないが、高経と対立する佐々木道誉が頼之を義詮に推薦したのではと推理されている。

 直後の10月から義詮は病に倒れ、11月には重態に陥った。11月18日に青蓮院で法会が行われたが、このとき十歳の義満が義詮の代理として諸大名と共に参加している。この法会には頼之も参列しており、青蓮院の門跡・尊道入道親王は「頼之が『執権』に内定している」と聞いて頼之に挨拶している(「門葉記」)。頼之の執事=管領への抜擢は、中国・四国を平定した実績を買われたことと、妻が次期将軍義満の乳母であったために義満の「父」がわりがつとまるとみられたためであろう。
 
 11月25日。死期を悟った義詮は義満と頼之を枕元に呼び寄せた。義詮は義満に家督を譲ることを告げ、さらに頼之に三献の儀を行わせて剣一振りを与えて正式に管領に任命した。そして義満を指さしながら頼之に「われ今汝(なんじ)のために一子を与えん」と言い、頼之を指さしながら義満に「汝のために一父を与えん。その教えに違うなかれ」と諭した(「愚管記」「細川管領家御系」)。ここに頼之は将軍を補佐する管領、および幼君義満の「父替わり」を託されたのである。その日のうちに諸大名が集められて足利家家督相続と新管領就任を祝っている。
 12月7日に義詮は38歳で死去した。頼之は12日に義詮の葬儀を執り行い、その後の仏事・埋葬についても手配しつつ、12月29日に管領として最初の政治活動となる「倹約令」五箇条の布告を行った。これは義詮の喪中ということで年始の物品贈答、華美な服装の禁止、身分による服装制限などを定めたものだが、やがて義詮の喪が明けたのちも華美・贅沢な風潮を戒める頼之の姿勢は維持されてゆく。

 年が明けて正月28日に将軍義満の臨席を仰いで頼之・今川了俊土岐頼康らが集って「評定始」が行われ「頼之政権」は本格的にスタートする。2月18日に年号は応安元年(正平23、1368)と改元された。4月5日に頼之は過去にも宰相クラスが任じられることが多かった「武蔵守」に昇進、4月15日には義満の元服式が執り行われ、頼之が父替わりで「加冠」(烏帽子親)の役目をつとめ、従兄弟の細川業氏が理髪、頼之の弟で養子となった細川頼基(のちの頼元)や従兄弟の細川氏春もそれぞれ役目を務めた。そして4月27日には元服した義満が出席して「評定出仕始」があり、義詮の喪が明けたのちの12月30日に義満は朝廷から征夷大将軍に任じられた。
 『太平記』は頼之の管領就任をもって「頼之の人徳は評判通りで、足利一門は彼を重んじ、外様大名たちもその命令に背かなかったので、国内は平和となったのである。めでたいことであった」と書いて、唐突にその長大な物語に幕を下ろしている。これは頼之自身が『太平記』編纂にタッチしているためとの見方もあるが(『太平記』古態本が巻22を欠いているのは頼之が焼き捨てたため、との伝承がある)、現実には各地に南朝勢力は残っていたし、幕府内部でも紛争の種はつきなかった。管領、いわば「首相」として全国政権を担うこととなった頼之には、将軍権力・権威の強化、諸大名や北朝朝廷・寺社勢力との政策調整、南朝勢力の処理などなど、難題が次々と降りかかることとなる。

 頼之が最初に手がけた重要政策が応安元年6月17に発布された「応安の大法」である。「観応の擾乱」の際に兵粮獲得の非常措置として始まった、荘園の年貢の半分を守護が徴収する「半済」がすでに常態化しており、荘園領主である皇族・貴族・寺社たちと武士たちの軋轢を生んでいた。そこで頼之は天皇・上皇・摂関家・寺社の直接支配する荘園などについては適用外としつつ、それ以外の荘園では領主と地頭が年貢を折半する、つまりは「半済」を法的に恒久のものとした。北朝の皇族・上級貴族や寺社勢力との妥協を図りつつ、荘園性を突き崩しつつある武士勢力の希望にも応える現実追認の政策であるが、これが室町幕府の土地政策の基本として後年まで受け継がれることとなる。

 幕府で代替わりがあった直後、南朝でも後村上天皇が死去し、長慶天皇が継承した。長慶は強硬主戦派であったため、以前から幕府との講和を画策していた楠木正儀は南朝での立場を悪化させていた。このとき頼之はすかさず正儀にはたらきかけ、応安2年(正平24、1369)正月に正儀を幕府に帰順させることに成功する(なお、かつて頼春を戦死させたのは楠木軍であり、頼之にとって正儀は父の仇と言えなくもない)。正儀が南朝方の攻撃を受けると頼之は援軍を派遣、4月には正儀の上洛、義満との対面にまでこぎつける。以後、正儀は幕府方の将として南朝への攻勢をかけ、頼之は管領在職中は一貫して正儀の応援をし続けた。
 一方、南朝の懐良親王が十年も支配する九州に対しては、応安3年(建徳元、1370)6月に盟友である今川了俊を九州探題(鎮西管領)に任命して平定をゆだねた。了俊は頼之の期待に応えて応安4年(建徳2、1371)に懐良らの拠点・大宰府を奪取、その後20年近くの時間をかけて九州平定を進めることとなる。

 南朝だけでなく、北朝対策も頼之にとっては厄介な問題であった。当時の北朝の天皇は後光厳天皇であったが、彼は南朝が京を占領して北朝皇族達がこぞって拉致された際に本来僧になるところを非常措置で即位した経緯があり、皇位継承をめぐって兄の崇光上皇と確執があった。応安3年(建徳元、1370)8月に後光厳は子の緒仁親王への譲位の意向を頼之に伝えたが、崇光は自身の子の栄仁親王の即位を強硬に主張した。頼之が「譲位については聖断を尊重」とこれをかわすと、崇光は故・義詮の正室で義満の義母として幕政に影響力をもつ渋川幸子にはたらきかけ、皇位継承問題は頼之と幸子をめぐる幕府内の暗闘と結びついてしまった。結局頼之は後光厳から、「光厳上皇の遺勅」なるものを持ち出させ、光厳の遺志は後光厳系による皇位継承であったと断定して崇光・幸子派の介入を封じた。かくして翌応安4年(建徳2、1371)3月に緒仁が践祚、後円融天皇となる。
 この一件のために頼之は崇光派からはひどく恨まれたが、後光厳の絶大な信頼を勝ち得ることともなった。応安7年(文中3、1373)正月に後光厳が疱瘡(天然痘)のために死去した際、頼之はその死の床に呼び出されて後事を託される異例の待遇を受けている。また頼之は北朝の人事にも介入、公家社会ともおおむねうまくつきあっていたようで、義満のハイスピードな官位昇進と公家社会参加も頼之の存在があればこそであった。

 これと並行して、寺社勢力対策にも頼之は悩まされた。応安元年に臨済宗、京都五山の中心である南禅寺に壮大な楼門を築く計画が春屋妙葩から提案され、頼之もこれを承認して工事が開始されたが、南禅寺住持の定山祖禅が天台宗を非難する著作を出したために比叡山延暦寺が激怒、春屋・定山の流刑と南禅寺楼門破却を要求して衆徒(僧兵)による強訴が実行された。朝廷は比叡山を恐れて妥協する姿勢を見せたが頼之は強硬姿勢を示し、諸大名の兵力を動員して強訴を阻止した。その後頼之も定山流刑については妥協したが、楼門破却は拒否したため、応安2年4月20日に比叡山僧兵が強訴して内裏へ突撃、佐々木氏頼が奮戦して多くの死傷者を出して撃退する騒ぎになった。

 こうした事態に頼之も楼門破却を認めざるを得なくなり、7月から南禅寺楼門は建築途上のまま破壊された。これに今度は春屋妙葩ら五山の指導者たちが激怒、一斉に住持を辞して抗議の隠遁に入った。もともと頼之が管領就任直後に出した倹約令で五山僧侶たちの奢侈も戒めていたことから確執はあったのだが、春屋妙葩は頼之も私淑していた夢窓疎石の甥で臨済宗および政界に強い影響力を持っていたため、頼之はなんとか春屋と和解しようと彼の隠遁先を何度も訪ねて南禅寺住持になってくれるよう頼んだ。しかし春屋は断固として拒絶、応安4年11月には丹後の雲門寺まで逃げてしまった。頼之が春屋の門弟たちに面会に行っても全員風邪と称して合おうとしなかったため、ついに頼之も堪忍袋の緒が切れ、春屋派の僧侶の一掃を実行している。頼之と春屋の対立はその後も尾を引き、後年の「康暦の政変」の一因とも言われている。
 比叡山もさらに日吉神社の神輿造替を頼之に要求、頼之がこれを拒否したためまたも強訴に及ぶ事態となった。また奈良の興福寺も内紛から発展して頼之との対立を起こし、こちらも春日神木を担ぎ出して強訴を繰り返した。こと寺社政策においては頼之はほとんど四面楚歌の状態であった。そんな中で頼之が慕ったのは碧潭周皎義堂周信といった、夢窓門下ながら春屋とは一線を画す禅僧たちであった。

―康暦の政変―

 応安4年(建徳2、1371)5月、頼之は南朝への攻勢をかけ、伊勢と河内で軍事作戦を展開した。とくに河内の楠木正儀を支援して弟で養子の細川頼基を主将として山名・一色・畠山・佐々木・土岐・赤松ら諸大名に出陣させたが、諸将は正儀の応援をきらってか淀川を越えぬままサボタージュを起こした。5月19日、この事態に怒った頼之は「管領を辞任して隠居する」と言い出し、京の西の西芳寺に駆け込んでしまった(「花営三代記」「愚管記」)。慌てた義満と赤松則祐が追いかけて説得し、どうにか翻意して戻ることとなったが、この時期頼之の専制的なやり方に多くの守護大名が反感を抱いていたうえ、同時に春屋らとの確執もかかえていたこともあって、頼之には相当なストレスがたまっていたものと思われる。
 頼之は翌応安5年(文中元、1372)9月24日にも「辞任して四国に帰る」と言い出してひきこもり、義満がじきじきに頼之邸を訪ねて説得して翻意させられている。結局河内方面での戦況は、応安6年(文中2、1373)8月に細川氏春・楠木正儀らの軍が南朝皇居のある天野を攻撃して長慶らを賀名生へと追いやり、ひとまずの成果を挙げることとなる。
 なお応安7年(文中3、1374)6月には義満の生母・紀良子が出奔騒動を起こし、頼之は義満と共に良子を清水坂の草庵まで追いかけて連れ戻している。このとき「将軍と管領が京から逃げ出した」と人々は騒ぎ立てたという(「後愚昧記」)
 
 永和3年(天授3、1377)3月9日、頼之の生母・里沢尼が死去した。頼之は母の死を悲しみ、一時嵯峨に篭居して喪に服し、四十九日を終えてから幕政に復帰している。
 この年の6月、斯波義将の守護国である越中で事件が起こった。義将の家臣の守護代が越中国人と合戦を起こし(越中はもともと直義・南朝方の桃井直常の勢力圏であった)、国人たちが頼之の所領である太田荘へと逃げ込むと、守護代は太田荘内に兵を入れて国人たちを殺害、荘内に火を放つという挙に出た。これを知った頼之は太田荘の代官・篠本某に飛騨で兵を集めて越中へ進攻するよう命じたといい、7月には京の人々の間で細川・斯波の合戦になるのではと噂が広まった。8月になると実際に京に軍勢が馳せまわり、大火も発生、幕府内で近習どうしの刃傷沙汰が起こるなど、合戦寸前という情勢になった。結局8月10日に義満が諸大名のもとへ使者を走らせて説得したため合戦は起こらずにすんだが(「後愚昧記」)、頼之と義将の対立関係は明白なものとなっていた。

 当時の幕府では以前管領をつとめ、家格も最高である斯波義将が渋川幸子や土岐頼康・山名師氏ら反頼之派のリーダー的存在となっていた。頼之派の大名としては佐々木(京極)道誉の子・佐々木高秀がいたが、永和3年に佐々木一門の内紛に頼之が介入して高秀の子・高詮を近江守護から解任したことを恨み、以後は反頼之派になってしまった。かつて頼之を支援してくれた赤松氏も則祐の死後は摂津守護職をめぐって頼之と確執をかかえるようになり、頼之が頼みとした能登守護・吉見氏頼も、永和4年(天授4、1378)8月に義満が妻・業子の兄・日野資教の家臣である本庄宗成に能登守護職を与えようとして頼之に諌められる事件が起こり、ますます頼之の味方は減ってしまっていたのである。

 永和4年(天授4、1378)11月、一度は幕府方に帰順した紀伊の橋本正督が南朝方に戻り、紀伊守護・細川業秀を襲った。頼之はまたも頼基を主将に諸大名を動員して援軍に向かわせたが、すでに諸大名は頼之への反感からやる気もなく、頼基は正督がひとまず撤退したのを見て京へ戻った。ところがその直後に正督が業秀を奇襲、業秀が淡路へ逃亡する事態となった。この敗報に怒った義満は12月15日に自ら武装して東寺まで赴いて諸将を激励(頼之も男山まで出陣している)山名氏清を和泉守護、山名義理を紀伊守護に任じて南朝方平定にあたらせた。氏清と義理は紀伊へ進攻すると翌年2月までに南朝方の拠点を攻め落として平定に成功、細川一門の敗戦の一方でかねてより反頼之の山名一族が功績を挙げたことは頼之の大きな失点となった。

 その直後の永和5=康暦元年(天授5、1379)正月、折から大和で興福寺と十市遠康の紛争が起きていた大和へ土岐頼康が出陣した。2月にはさらに斯波義将・赤松義則・吉見氏頼ら、反頼之派の諸将が大和へ出陣、これは義満の指示によるものではあったがかねて頼之に反感を抱く諸将が大軍で京近くに出陣するという状況はかなり不穏なものであった。義満は諸将に京への帰還を命じたが土岐頼康が無断で領国の美濃に帰ってしまい、義将は命令を無視した。2月22日に頼之は義満に意見して頼康の討伐命令を発し、義将から越中守護職を取り上げさせたが、24日になって義将が京に戻って来て義満に弁明、その罪をあっさりと許された。危険を感じた頼之は自邸に一族郎党を集めて防備を固めたが、ひとまず事態はおさまったかに見えた。

 しかし27日に近江で佐々木高秀が挙兵。この混乱に乗じて鎌倉公方の足利氏満までが将軍位を狙って挙兵の構えを見せ、この情勢を受けて義満は義将の意見を入れて3月18日に頼康・高秀の赦免を決定した。このとき頼之はまたしても管領辞任と四国への帰還を求めたが義満に慰留されている。結局事態はなし崩し的に反頼之派の思い通りに進んで諸将が軍勢を京に集め、閏4月13日に高秀に軍を率いて入京すると、翌閏4月14日に高秀ら反頼之派諸将の大軍が義満の邸宅「花の御所」を包囲した。
 諸将は義満に頼之の管領罷免を要求、義満は受け入れざるを得ず、頼之邸に使者を出して京からの退去を命じた。頼之は頼基・氏春・義之ら一族と家臣らを引き連れて京を出発、頼之が京を出た直後に諸将が頼之邸を徹底的に破壊した。京から退く際に頼之は等持寺の住持を招いて剃髪・出家して「常久」と号し、頼之一行は16日に摂津西宮から船に乗って四国へと落ち延びていった。この細川頼之失脚のクーデターを「康暦の政変」という。
 頼之が京を出るのと入れ替わりに春屋妙葩が京に戻り(丹後を数日前に出たはずで、反頼之派と連絡をとっていたと推測される)、京都五山は春屋派がいっせいに復権、各方面の頼之の対寺社政策もすべてひっくり返された。28日には斯波義将が管領に就任、幕政も改まることとなる。頼之という後ろ盾を失って、楠木正儀も永徳3年(弘和3、1383)に南朝へと舞い戻っている。

 四国に下るにあたり、頼之は「海南行」と題する漢詩を一つ賦している。
「人世五十愧無功 花木春過夏已中 満室蒼蠅掃難尽 去尋禅榻臥清風」(三句目の末尾が「去」、四句目の最初が「起」あるいは「独」とするものもある)
(人生を五十年生きながら何の功績も上げていないのが情けない。花咲く木も春を過ぎてすでに夏になる年頃。部屋いっぱいに飛び回るハエは払っても払いきれぬ。もうここを去って休むところを見つけて清らかな風の中に寝そべろう)
 このとき頼之、51歳。もはや老境に入った年齢だが「功なきを愧(は)じる」という無念の思いであったのだろう。その一方で政敵たちを「満室の蠅」に例え、もうこのまま政界から離れて穏やかに暮らしていきたいという本音ものぞかせている。なお、この漢詩を刻んだ石碑が現在の宇多津町に建てられている。

―十年の雌伏―

 頼之が四国に落ちると、義満は(本意ではなかっただろうが)頼之の追討を各地に命じた。かねて頼之と対決してきた伊予の河野通直はこれをチャンスとみて幕府に帰順、伊予守護職を得て頼之に対する攻撃にとりかかった。阿波でも清氏の遺児で南朝方として活動していた細川正氏が幕府から阿波守護に任じられて頼之を待ち受けた。
 こうした展開はかつて頼之が倒した清氏と同じパターンである。しかし頼之は清氏とは違った。頼之の京都退居の際に一族家臣は誰一人脱落せず頼之に従ったといい(「後愚昧記」)、阿波・讃岐・土佐の武士たちも頼之を支持してほとんど逆らう者はいなかった。頼之自身も南朝に走ることなどせず、逆に先手を打って11月6日に伊予へ進攻、折から頼之討伐のために軍勢を出撃させて手薄になっていた河野通直の世田山城を吉岡山中から奇襲攻撃した。この頼之の素早い不意打ちを食らって通直は戦死、河野氏は壊滅的な打撃をこうむった。阿波の正氏も頼之の甥・義之に動きを封じられてしまい、ほとんど身動きがとれない状況であった。備後守護となった山名時義にも頼之討伐が命じられたが、時義も備後に入って兵を集めただけで四国には渡れない有様であった。

 かくして翌康暦2年(天授6、1380)には早くも頼之赦免の動きが出てくる。頼之自身も様々に働きかけをしたらしいが、頼之ではなく弟で養子の頼元(このころ頼基から改名)を前面に出し、伊予守護職を河野氏に返還することを条件に頼元の復権を求めている。この年の暮れには義満も頼元の赦免を認め、永徳元年(弘和元、1381)に頼元の上洛が実現、6月5日には自邸に義満と義将をはじめとする諸大名、義満側近の日野資康らを招き、盛大な謝礼の酒宴を催している(「愚管記」)。頼元の復権は事実上の頼之の復権にほかならず、不満を抱いた斯波義将が9月16日に管領辞任を申し出て、義満が義将邸を訪ねて慰留する一幕もあった。ただ義満の赦免の対象はあくまで頼元だけであり、頼之自身には何の通知もなく、頼之は「不思議のこと」と思いつつ(明徳元年の頼有あて書状に自身で書いている)四国にとどまり続けた。
 頼之は義満のあっせんで宿敵である河野氏との和解にも乗り出した。この年の11月15日、伊予国福角(現・松山市)の北寺で河野通直の次男・鬼王丸(当時まだ十歳にもなっていなかった)と会見、伊予守護職は河野氏に返還するが伊予のうち新居・宇摩二郡は細川氏に分割するとの合意がなされた。のち、至徳3年(元中3、1386)に鬼王丸が元服にするにあたって頼之はその父親代わりをつとめ、名の一字を与えて「通之」と名乗らせている。ここに一応細川・河野両家は和解したことになるが、両家の確執自体はその後も長く尾を引くことになる。
 なお、一時阿波守護となって頼之に抵抗した清氏の遺児・正氏も「正之」と名乗った形跡があり、これもあるいは頼之と和解して一字を与えられたのかもしれない。

 永徳3年(弘和3、1383)9月、頼之は康暦の政変以来4年ぶりでようやく京に上った。ただし政治活動は一切みせず、9月30日に嵯峨の景徳寺で夢窓疎石の三十三回忌法要を行い(なお頼之は若い時期に父と共に夢窓と面会している)、翌至徳元年(元中元、1384)2月20日にはやはり景徳寺で父・頼春の三十三回忌法要を営んでいる。いずれの法要でも春屋妙葩が導師を務めており、かつて深く対立した春屋との和解も進んだようである。
 まもなく頼之は四国に戻り、表面的には隠棲の身ながら領国の経営、一族の結束、国人の家臣団化に力を入れた。同時に義満にうとまれて京を追われてきた絶海中津を招いて讃岐・阿波・土佐の寺院の創建や再興といった宗教活動にも力を入れている。至徳3年に絶海が許されて京に呼び戻されると、頼之は自ら阿波・秋月の宝冠寺を訪ね、泣きながら絶海に上洛を勧めたという。

 康応元年(元中6、1389)3月、義満は諸大名を引き連れた壮大な「厳島参詣」の旅を挙行した。このとき義満は事前に讃岐の頼之に連絡を取り、義満一行の乗船の用意を命じた。頼之は義満じきじきの指示に感激し、ただちに百余艘の船団と、それに乗る雑役の者もそろえて用意している。義満の厳島参詣の目的は将軍の権威を見せつけて西国大名を畏怖させることと、失脚から10年を経た頼之に政界復帰の道をひらくことにあったとみられる。
 3月6日に京を出発した義満一行は兵庫から頼之の仕立てた船団に乗りこみ、6日の夜に讃岐・宇多津に到着した。頼之はここに義満らの滞在所を設けて待ち受けており、7日は盛大な歓迎の宴が催された。このとき一行には頼之の盟友である九州探題・今川了俊も同行しており、その旅行記『鹿苑院厳島参詣記』には、「かの入道(頼之)、こころをつくしつつ、手のまひ足のふみ所をしらず、まどひありくありさま、げにもことはりとみゆ」(頼之が心づくしの歓待をしつつ、手足の置き所もないほどにあたふたと忙しく走り回っているのも、無理もないことと思えた)と友人らしい視線で頼之の発奮ぶりを微笑ましく描写している。
 翌8日に頼之も一行に加わり、10日に厳島神社に参詣、その後義満は九州へも向かおうとしたが嵐のために断念、頼之と了俊の意見により周防で引き返すこととなった。22日に宇多津まで戻り、翌23日に義満は他の者を遠ざけて頼之だけを呼び寄せ、何か「物語り」をしている。了俊の描写を借りれば「何があったのだろうか、頼之は涙をおさえて出てきたとのことである」(「鹿苑院厳島参詣記」)。このとき義満が頼之に「政界復帰」を約束したのは間違いなかろう。

―政界復帰と「現役」のままの死去―

 この年の4月に義満は土岐氏の内紛を利用して土岐康行を討伐、続いて5月に山名時義が死ぬと山名一族にも内紛を仕掛けて明徳元年(元中7、1390)3月に山名時熙山名氏幸の討伐を命じた。このとき頼之にも山名討伐のため備後に出陣せよとの命令をくだし、頼之を備後守護に任じている。命令を受けた頼之は弟の頼有に書状を送り、その中で「備後守護のことはお前を任命してくれるよう申し上げていたのに私に命令が下ってしまった。備後のことはすべてお前に任せるつもりだ」という趣旨を述べて義満の朝令暮改ぶりに不信も示し、「御所様(義満)の性格は、一度口に出されたら他人にあれこれ言われるとかえってむきになるから」と、「育ての親」らしい義満評もしたためている。
 時熙・氏幸らは同族の山名氏清・満幸の攻撃を受けて備後へ逃げ込んだが、閏3月に頼之・頼有らが四国から軍を率いて備後に渡り、備中方面も含めて山名勢の鎮圧にあたった。功を挙げた頼之は備後・備中の守護を任されて勢力拡大と政界復帰の足掛かりをつくることとなった。

 そして明徳2年(元中8、1391)3月12日、頼之復権の流れの確定をみた斯波義将が管領を辞し、越前へと下向した。義満はすぐさま頼之を京に呼び出し、4月3日に頼之は上洛した。そして8日に頼元が管領に就任することとなったが、以後の幕府の評定(閣議)には頼元が管領として出席するものの、評定が終わって頼元が退出すると入れ替わりに頼之が義満のもとへ出仕して報告(御前沙汰)をするという形がとられていて、実質的な管領が頼之であるのは誰の目にも明らかであった(頼之はすでに出家していたため管領にはなれなかった)。実際、『明徳記』など当時の記録でも頼之が管領に復職したとする記事がみられ、人々もそう認識していたようである。
 かくして62歳にして「首相」の座に復帰した頼之であったが、この年の9月9日に片腕として長らく彼を支えてくれた弟・頼有が60歳で死去した。頼之も自身の先がそう長くはないと実感したであろう。頼之は最後の大仕事として、義満と共に山名一族の勢力削減にとりかかる。

 この年の10月、義満は逃亡していた山名時熙らを赦免、11月には山名満幸から出雲守護職を取り上げて京から出るよう命じた。これは明らかな兆発で、満幸は氏清に「将軍の真意は山名つぶしだ」と挙兵をうながした。氏清は一族の総領である山名義理を説得して、ついに12月24日に山陰と南畿の二方面から大軍で京へと迫る。これが「明徳の乱」である。山名氏を挑発するその計画は、おそらく頼之と義満とで入念に練られたものであろう。
 山名との和議の意見も出るなか、義満は「足利の運と山名の運とを天に任せてみよう」と決戦を指示、義満自ら諸大名を率いて山名軍迎撃に向かった。もちろん頼之も参戦しており、『明徳記』によれば頼之は細川一族の二千余騎をまとめて中御門西の大宮付近の馬場に布陣している。12月30日に決戦が行われたが、細川家の伝える史料によればこのとき頼之は老骨に鞭打って終日在陣していたため食事をとるひまがなく、道端の寺に入って仏前にあった供え物を食したという。細川家ではこれを吉例として毎年元旦に仏前に供え物をするようになったというから、そのような場面が実際にあったのだろう。
 この戦いで山名氏清が戦死したほか山名一族は大きな打撃を受け、全国の6分の1を守護国とし「六分一衆」と言われた勢力を大きく減じることとなる。入れ替わりに義満の威勢はますます強化され、細川一族は功績により守護国を8か国に増やした。そして頼之にとってはこれが生涯最後の合戦となったのである。

 明徳の乱が終わって間もない明徳3年(元中9、1392)の正月までは政務に参加していた頼之だったが、やがて風邪をこじらせ、3月2日についに死去した。享年は64歳とされる。『明徳記』によれば、その臨終に際して頼之は頼元に義満への遺言を聞かせ、頼元が花の御所へ出向いてその内容を伝えた。頼之は「近頃山名一族がともすれば上様の御命令を軽視していると聞いておりましたので、この常久(頼之)の命のあるうちに彼らをこらしめていただこうと思っておりました。彼らが天罰をこうむったのを見届けてから死ぬことができるとは、まさに本意至極というものです。今や天下に上様を見下すような者もいるとは思えず、すっかり安心して思い残すようなこともございません。管領職については頼元は短慮蒙昧でふさわしいとは思えませんので、しかるべきようにご処置ください」と言って事切れたという。
 頼之が事切れた直後、頼之の家臣で、頼之と同年齢で長らく仕え、主従の間柄を越えて友人のように交流していた武勇の士・三島外記入道が切腹、殉死している(「明徳記」)。これは日本史上、病死した主君に殉死した最初の例として知られている。
 頼之の戒名は「永泰院殿桂岩常久居士」という。頼之の遺骸は三日後に義満らの涙に見送られながら、頼之が応安元年に創建した嵯峨の地蔵院へと運ばれ、同院の碧潭周皎の墓の隣に埋葬された。頼之の墓は禅の精神から一個の自然石で造られた、説明がなければ墓と分からないほどの実に簡素なものである。この地蔵院には頼之の42歳の寿像(その年齢の姿を写した像)のほか、頼之およびその妻の法体の肖像画など、頼之ゆかりの品が多く残されている。
 頼之の死からおよそ8か月後、南北朝合体が成立して南北朝時代は幕を下ろした。頼之が南北朝合体に直接関与した形跡は残っていないが、当然その準備には頼之も関わっていたはずである。

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)…当記事はほぼ全面的に本書を下敷きにしています。
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)ほか
その他の映像・舞台 アニメ番組「まんが日本史」で上田敏也が声を演じている。また当サイト内の仮想大河ドラマ「室町太平記」は頼之が全編にわたる主人公となっている。
歴史小説では 頼之を主人公とする小説は今のところないが、平岩弓枝「獅子の座」など義満を扱った小説なら確実に登場する。また世阿弥を描いた杉本苑子「華の碑文」では世阿弥の弟が頼之の「夜伽」の相手をさせられそうになる描写がある。登場はしないものの吉川英治「私本太平記」では晩年の尊氏が将来を託せる候補として頼之の名を挙げているくだりがある。
漫画作品では 通史ものの「日本の歴史」漫画、あるいは足利義満を扱った伝記漫画なら確実に登場する。特に小学館版「少年少女日本の歴史」においては頼之の失脚と復活がしっかりと描かれ、義満と共に山名一族つぶしの陰謀をめぐらす場面がコミカルで印象に残る。

細川頼之の妻 ほそかわよりゆきのつま ?-1396(応永3)
親族 父:持明院保世
夫:細川頼之
生 涯
― 頼之の妻にして義満の乳母―

 侍従・持明院保世の娘。細川頼之と結婚した時期は不明だが、おそらくは「観応の擾乱」直前、頼之が二十歳前後の時期であろう。地蔵院の『笠山会要誌』によれば頼之夫人は夢窓疎石(観応2=1351年没)に教えを受けて「玉淵」の道号を得たとあり、やはり頼之も若い時に生前の夢窓の教えを受けたと後年記していることから、ほぼ同時期に夢窓を通して接点があった可能性が高い。あるいは縁組もそんなきっかけで決まったのかもしれない
 一条経嗣の日記『荒暦』には彼女が足利義満「襁褓(きょうほ=おむつのこと)に傅(かしず)いた」、つまりは乳母になったとの記述がある。義満は延文3年(正平13、1358)8月22日に生まれており、その時夫の頼之は30歳で、夫婦の間に義満と同時期に生まれた乳児がいたと考えるのが自然である。しかし頼之に実子がいたとの記録は全くなく、死産か夭折したものと思われる。頼之夫人はその分の愛情を義満に実の子のように注いだと想像され、それが後年夫の頼之が義満の父替わりの管領職に指名される大きな要因になったものとも推測される。

 子を亡くしたためであろうか、彼女は夫の頼之ともども仏門(禅宗)を熱心に学んでおり、頼之が師と仰いだ碧潭周皎のもとに彼女も参禅し、夫と共に弟子の一人に数えられている。そして尼寺の法性院を創建して往来の尼たちを集め、門徒たちと大蔵経を五部移すなど並々ならぬ活動を見せた。古幢という僧を養子として育てたとされるほか、頼之の末の弟の満之の子・基之が老年の頼之の養子になったのはあるいは夫婦そろって孫のような甥に愛情を注ぐためだったかと想像される。頼之には実子がなかったが側室が存在した形跡がまったくなく、弟や甥を養子にしており、父の頼春のように大名クラスなら側室が複数いるのは当たり前の時代にあって目を引く。それもあるいは頼之が妻一人に対して深い愛情を注いでいたということかもしれない

 明徳3年(元中9、1392)3月2日に頼之が64歳で死去。彼女は以後は出家して夫の菩提を弔ったと推測される。頼之の墓がある京の西山の地蔵院には法体の頼之夫人の肖像画も残されており、晩年の彼女の姿を今日に伝えている。また地蔵院にある銅造千手観音坐像(重要文化財)は彼女の念持仏であったと伝えられている。
 夫の死から四年後、応永3年(1396)に死去した(「荒暦」応永3年5月10日条)

参考文献
小川信「細川頼之」(吉川弘文館・人物叢書)
歴史小説では 足利義満の伝記小説である平岩弓枝「獅子の座」では冒頭から登場、19歳で子を死産して胸に張る乳を夫と絞っている描写がある。この小説では名前が「玉子」とされており(おそらく道号の「玉淵」からとったのだろう)、これが他作家の小説でも使われたほか、どなたかの義満関連の文章でもそれが実名と思い込まれて使われていたのを見たことがある。

堀口貞満 ほりぐち・さだみつ 1297(永仁5)-1338(暦応元/延元3)?
親族 父:堀口貞義 子:堀口貞祐
官職 大炊助、美濃守
位階 正六位上→正五位上
生 涯
―新田一門の重鎮―

 堀口氏は新田一門の一員で、新田荘の東南部・堀口(現・群馬県太田市堀口)に分家してそこを名字とした。新田義貞との関係は、義貞の父・朝氏と貞満の父・貞義が「またいとこ」、というレベルである。大館、江田などと並んで堀口氏は新田軍主力として挙兵以来活躍している。

 元弘3年(正慶2、1333)5月8日、新田義貞とその一族郎党は上野新田荘・生品明神で討幕の挙兵をした。「太平記」ではここに集った一門の中に「堀口三郎貞満・舎弟四郎行義」を登場させている。
 破竹の勢いで鎌倉に迫った新田軍は5月18日から鎌倉攻撃にとりかかり、堀口貞満は巨福呂坂切通しを攻撃する一隊の「上将軍」を任されている(「太平記」)

 建武政権が成立すると、新田一族は京にのぼって恩賞や官位を与えられ、貞満は正六位上・大炊助に任じられている。京の治安維持・天皇の親衛隊的存在の「武者所」を任され、貞満の父・貞義が武者所第二番頭人となり、貞満の叔父・貞政も第一番のなかに名を連ねている。

 建武2年(1335)8月、北条残党による中先代の乱が起こり、これを鎮圧するため出陣した足利尊氏は鎌倉を奪回するとそのまま関東に居座って建武政権からの離脱を明らかにした。そこで足利追討の命を受けた新田義貞が一族を率いて出陣することになるが、ここでも堀口貞満の名が主力の将の一人として明記される。「梅松論」では、11月に東進する新田軍を高師泰軍が迎え撃った三河・矢作川の戦いで、堀口貞満が突撃してきて「四角八方を討ってめぐり、武略を尽くして戦った」と明記している。かなり印象的な活躍ぶりだったのだろう。

 新田軍に堀口あり、という印象が当時広まっていたようで、今川了俊「難太平記」によると、「今川に 細川そひて 出ぬれば 堀口きれて 新田流るる」という落首まで出ていたという。足利軍の「今川」「細川」の活躍で「堀口」「新田」が敗れたということを「水」つながりの言葉でつなげた風刺和歌だが、「堀口」が足利軍における今川・細川の立場であったことをよく示している。

 いったん敗れて京にもどった新田軍だったが、その後の京都攻防戦で北畠顕家の協力も得て京を奪回、足利軍を九州まで追い落とした。恐らくこの功績に対する恩賞として貞満は正五位上・美濃守に任じられている。

―後醍醐天皇に猛抗議!―

 九州に落ちた足利軍を追って新田軍は山陽道へ進んだが、もたもたしているうちに足利軍が九州を平定して東上、建武3年(延元元、1336)5月の湊川の戦いで新田・楠木軍を破り、京を再占領した。新田軍を主力とする後醍醐天皇方は比叡山を拠点に10月まで苦しい戦いを続けたが、ついに兵糧の道を断たれる。このときを狙って尊氏側から後醍醐に和睦の申し入れがあり、後醍醐は義貞に何の断りもなくこれに応じて比叡山を下りて京に戻ろうとした。

 10月10日、何も知らない義貞のもとに洞院実世から使者が来て、後醍醐の下山を告げた。これを聞いた義貞は「そんなことがあるわけない。ご使者の聞き間違いでござろう」とすました顔をしていた。だが新田一族のうち大館氏明江田行義の姿が見えない(なぜか彼らには後醍醐から連絡があったらしい)ことに不審を抱いた堀口貞満はさっそく様子を見に行ってみた。はたして後醍醐一行は下山に出発する間際だった。貞満は怒って後醍醐を乗せた鳳輦(天皇の乗る輿)の轅(ながえ)に手をつき、涙ながらにこう訴えた。

「帝が京にお戻りになるなどという噂を聞き、義貞はまったく知らぬことなので聞き間違いかと思っておりましたら、なんとまことのことでござりましたか。そもそも義貞に何の罪があって、多年の忠義の働きを見捨てて、大逆無道の尊氏にお心を移されるのです。さる元弘の乱の折には義貞は綸旨を受けて関東の大敵を数日のうちに滅ぼし、三年のあいだ帝のお心を安らかにいたしました。これは古今にも例のない功績ではありませんか。
 尊氏が反逆してからこのかた、九死に一生を得るような苦しい戦いが続き、そのなかで命を落とした我が一族は百三十二人、戦場にしかばねをさらした郎党は八千余人にものぼります。しかしながら、ただ今の京での数回の合戦で、敵の勢いが盛んで官軍が敗れているのは、まったく戦い方がまずいからではありません。ただ帝の徳が欠けているためでありませんか。だからこそ味方に来る武士が少ないのではありませんか。我が一族の長年の忠義を見捨てて京へお戻りになるのでしたら、義貞をはじめとして当家の一族五十余人を目の前にお呼び出しになって首をはねてからにしてくださりませ!」(「太平記」の本文よりかなり意訳)

 この猛烈な抗議に、後醍醐も自らの誤りを悔いる表情を見せ、その場にいた一同もみなうなだれた、と「太平記」はつづる。
 あくまでこの話は「太平記」にしか出てこないので事実かどうか疑わしいのだが、後醍醐が義貞に断りもなく和睦を結んだこと、それに怒った義貞をなだめるために皇太子の恒良親王に皇位を譲って義貞を北陸に向かわせたことは前後の状況から事実と思われる。したがって「太平記」の伝えるような貞満の抗議のようなことは実際にあったのではないかと推測されるのだ。
 おおむね後醍醐・南朝寄りの立場をとる「太平記」のなかにあって、貞満の抗議のセリフはかなり強烈な後醍醐批判として注目される。特に「敗北の原因は帝の徳が欠けているためだ」という個所は建武新政失敗の核心を突いたものだ。物語として見た場合、後醍醐に利用されるだけ利用され続けた新田一族が、ポイと使い捨てにされたことに、ついに堪忍袋の緒が切れた、という場面である。

 こののち、堀口貞満は義貞と共にいったん北陸に向かったが、途中から別行動をとって美濃に入っている。越前に入る途上で風雪に苦しめられて離脱したとの見方もあるが、「美濃守」であることから美濃になんらかの拠点を持っていたので、北陸の義貞と連携運動をとるつもりだったのではないだろうか。「太平記」では貞満は美濃の「根尾・徳山」にいたとされ、ここは越前との国境近くであり、後に義貞の弟・脇屋義助も拠点にしたところである。
 延元3年(建武5、1338)正月、北畠顕家の軍が奥州から大挙畿内へと攻めのぼってきた。美濃・根尾城にいた堀口貞満はこれに合流している。この北畠軍には上野から義貞の子・義興も加わっており、北陸の新田軍との連携が想定されていたはずである。だが顕家は青野原の戦いで足利軍を撃破したものの、ここから転進して伊勢に向かい、結局新田軍との合流・連携プレーは全く実現しなかった。
 堀口貞満のその後の消息は全く不明である。顕家と共に5月の石津の戦いで戦死したとする説もあり、落ち延びて義貞のもとへ向かい越前で死んだとする説もある。いずれにせよ、この延元3年を最後に消息が途絶えるので、この年に死んだのであろうと推測される。

 それから16年後の正平8年(文和2、1354)6月、南朝軍が一時京を奪回(南朝の第二回入京)して足利義詮後光厳天皇を奉じて近江に逃げたとき、ここに隠れ住んでいた「故堀口美濃守貞満の子息・掃部助貞祐」なる者が突然現れ、突琵琶湖のほとりの堅田で野武士を集めて義詮の一行を襲撃、佐々木道誉の子・秀綱を討ち取っている。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
大河ドラマ「太平記」 第38回のみの登場(演:門田俊一)。古典「太平記」そのままに、比叡山を下りようとする後醍醐に猛抗議をする場面で、この場面のみの登場ながら一場面の主役であり、強烈に印象に残る。
PCエンジンCD版 新田軍の武将のなかで越前国主として登場。直接操作が可能になる。初登場時の能力は統率76・戦闘86・忠誠88・婆沙羅39
メガドライブ版 新田軍主力武将として多くのシナリオに登場。能力は体力62・武力117・智力88・人徳58・攻撃力72

本光院殿 ほんこういんどの 1307(徳治2)-?
親族 父:渋川貞頼 弟:渋川義季
夫:足利直義 子:如意丸
生 涯
―足利直義の妻―

 足利一門・渋川貞頼の娘。その名前も伝わっておらず、直義と結婚した時期も不明である。ただし彼女の義兄・足利尊氏の護持僧であった三宝院賢俊の日記により暦応5年(興国3、1342)に「三十六歳」とあるので、生年は徳治2年(1307)と確定できる。なお、その賢俊の日記に従えば夫・直義は彼女と同い年で、足利尊氏は二つ上、尊氏の妻・赤橋登子は一つ上であった。だとすると恐らく嘉暦元年(1326)前後の結婚ではなかっただろうか。
 元弘3年(正慶2、1333)に足利高氏(尊氏)・直義兄弟は鎌倉幕府に反旗を翻すが、尊氏の家族が命の危険を冒して脱出している一方で、この時点の直義の家族については史料上は何も出てこない。さすがにすでに結婚していたと思うので彼女もこのとき何らかの危険な思いをしている可能性がある。
 建武2年(1335)7月、北条時行が信濃で挙兵し、鎌倉目指して進撃した(中先代の乱)。このとき彼女の弟・渋川義季は直義の命で迎撃に出て武蔵・女影ヶ原で戦死してしまう(まだ22歳の若さであった)。直義は鎌倉を棄てて命がけの撤退をしているが、このときも直義の妻は再び鎌倉を脱出して危険な目にあっていたかもしれない。この中先代の乱をきっかけに足利兄弟は建武政権から離脱、翌年までの東奔西走の末に足利幕府を樹立することになる。彼女も状況が落ち着いてから京の夫のもとに行ったのだろう。

 彼女と直義の間には長いこと子ができなかった。そのためであろう、直義は兄・尊氏の庶子である直冬、尊氏の実子・基氏を養子として引き取り、養育している。この時代、妻に子ができなければ側室を持つのが当たり前なのであるが直義は一切側室をもった形跡がない。「太平記」では南朝系の天狗たちが「直義は他犯戒(女性との接触を断つ)をして禁欲を誇っている」と語る場面があるが、これも直義に子がないのに「女っ気」も一切なかったことが原因であろう。真面目な直義だけに愛妻一筋であったと思われる。養子たちの養育にその妻がたずさわっていた可能性もあるだろう。
 ところが貞和3年(正平2、1347)6月8日、直義夫人は男子・如意丸を産んだ。四十を過ぎてからという高齢初産に誰もが驚いたらしい。「太平記」ではこれは天下を混乱に陥れようとする天狗たちと示し合わせた護良親王の怨霊が直義夫人の体内に入って生まれ変わったものとしている。直義夫人が体調不良になって医師たちが何の病気かとあれこれ議論し、天狗たちの話を耳にしていた医師が「ご懐妊です。男子でございましょう」と診断すると他の医師たちは「お追従を言っておるな。四十を過ぎて懐妊などするものか」とささやきあったとまで描いているのだ。6月8日に吉良満貞邸において無事に男子が生まれると、直義と親しい光厳上皇から祝いの太刀が贈られたほか、公家も武家もこぞってお祝いに駆け付け、山と贈り物を積んだという。
 だがこの男子の誕生は、足利家に微妙な空気を生んだようだ。このころ直義は幕府の政務を一手に握っており、その直義に後継となる男子ができたとなると、尊氏の子・義詮に権力が移行するという保証はなくなってしまう。一番それを懸念したのは赤橋登子であったろうし、尊氏も妻に押されていった可能性が高い。こうして尊氏と直義の対決「観応の擾乱」へ突入していくわけで、「太平記」が如意丸の誕生を世を乱す不吉の兆しとして描くのは決して的外れではなかったのだ。

 如意丸誕生から二年後、高師直のクーデターで直義は失脚。翌年直義は南朝と結んで反撃に出て、観応2年(正平6、1351)2月17日の打出浜の戦いで直義が勝利し、尊氏・師直は直義の軍門に下った。いよいよ直義の時代が来たかと思えたその直後、2月25日に如意丸は八幡の直義の陣中で死んだ(「園太暦」。太平記は26日とする)。陣中に幼い息子を連れて来たのは、すでに体が弱っていたためかもしれず、恐らく母親も同行していたであろう。「太平記」は「母儀をはじめたてまつり、上下万人泣き悲しむこと限りなし」と如意丸の母の嘆きを伝える。
 それからまた情勢は変転し、今度は尊氏が南朝と講和して、直義は関東へ逃れた。翌観応3年(正平7、1352)2月26日に鎌倉で直義は急死する。尊氏による毒殺とも、あるいは自決とも言われるが、その死は愛児の死からちょうど一年後のことであった。

 息子も夫も失った直義夫人は仏の道に心の安らぎを求めるしかなかっただろう。直義夫人のその後についてはよく分かっていないのだが、「本光院殿」と呼ばれることから、北野天満宮の近くにある尼寺・本光院を開山し「足利の一族」とされる無説尼が直義夫人その人と見られている(筆者は現時点で詳しい検証をしてないので自信がないが…2009年の東京芸大美術館の「尼門跡寺院の世界」展の図録では完全に同一人物としてあったそうだ)。この「無説尼」は40歳ごろから禅に興味をもって高僧・夢窓疎石のもとに参禅し、さらにその甥の春屋妙葩のもとにも参禅したという(春屋妙葩「普明国師語録」)。夫・直義は夢窓と「夢中問答」を交わせるほど禅に通じていたから40歳ごろに禅に興味を持つというのはうなずけるし、春屋妙把によれば「晩年になって浮世の空しさを深く嘆いて髪をおろした」と記されているので、直義の死後に世をはかなんで出家したこと、そしてそれからあまり長くは生きなかったのではないかということが推測される。
 なお、弟の渋川義季の娘・幸子は足利義詮の正室となっている。
大河ドラマ「太平記」 第46回に「直義の妻」の役名で登場する(演:武藤令子)。尊氏に一礼するだけでセリフはなく、体が虚弱そうな雰囲気である。この妻が登場したあとで直義は自分に子がないので不知哉丸(直冬)を我が子にもらえないかと尊氏にもちかける。
漫画作品では
河村恵利「時代ロマンシリーズ」のうち「春宵」という作品で、「はるめ」という名前で登場する。直義のもとに下働きにきた少女で、次第に直義との関係が深まり、ラストで渋川氏の娘であることが判明する。

本庄宗成
ほんじょう・むねしげ ?-1389(康安元/元中6)
官職 検非違使
幕府 能登守護
生 涯
― 義満にとりいり能登守護を狙う

 能登の武士で、能登国珠洲郡若山荘の荘官であったという。都に出て若山荘の領主である公家の日野資教に仕え、その「青侍」(公家に仕える武士)となっていた。資教の同母の姉妹・業子は将軍足利義満の正室となったが、その業子の乳父(めのと)が宗成であった(業子の乳母が宗成の妻か)。その関係で義満にも接近し、将軍邸に住むつくまでになっていた。宗成は義満と資教の権勢をかさに着て他人の所領の横領を繰り返していたという。
 永和3年(天授3、1377)8月、宗成はとうとう能登守護職を義満にねだり、義満は一時これを認めようとした。激怒したのは能登守護職である吉見氏頼であった。このとき氏頼も京にあったため、8月10日に宗成を討ち取ろうとする動きを見せたらしく、京の人々がこれを噂しあった(「後愚昧記」)。この時期は管領の細川頼之と、その政敵である斯波義将が越中で紛争を起こして一触即発の状況であり、京で戦乱が噂されるほどであった。吉見氏は頼之の与党とみられており、北陸地方をめぐる両派の争いが背景にあった可能性もある。結局この時は頼之が義満をいさめて氏頼をそのまま在任させ、宗成の野望はいったんは挫折した。
 しかし康暦元年(天授5、1379)に「康暦の政変」が起こって頼之が失脚すると、宗成はさっそく義満に運動したようで、能登守護職は氏頼から取り上げられた。明確に示す史料はないが、そのあとは宗成が能登守護を務めていたと推定される。ついに野望を果たした宗成だったが、能登ではこの成り上がりに対して抵抗も少なくなかったらしく、一部で合戦も起こっている。
 宗成自身は康安元年(元中6、1389)正月に死去し、それから間もない明徳2年(元中8、1391)に頼之が政権復帰、能登守護職は畠山基国に与えられて以後は畠山氏が守護領国として相続してゆく。

参考文献
佐藤進一「室町幕府守護制度の研究」(東京大学出版会)
「石川県の歴史」(山川出版社)

本間三郎
ほんま・さぶろう ?-1332(正慶元/元弘2)?
親族
父:本間山城入道
生 涯
― 阿新丸に殺害される

 『太平記』に登場する人物で、佐渡を統治する本間山城入道の息子。日野資朝の子・阿新丸の仇討ち話にのみ登場する人物で、この逸話自体『太平記』が語るのみで、どこまで実話か分からず、本間三郎なる人物も実在したか定かではない。
 『太平記』によれば三郎は父の命を受けて資朝の斬首を執行した。阿新丸は当初父に合わせてくれなかった山城入道を恨んで彼を殺そうと屋敷に忍び込んだが、三郎の寝室にもぐりこんでしまう。阿新丸は三郎も父の仇だと考えてその枕を蹴飛ばして起こしたうえで殺害したとされる。

本間山城入道
ほんま・やましろにゅうどう ?-1332(正慶元/元弘2)?
親族
父:本間頼直?
子:本間三郎・本間有直?
官職 山城守?
幕府 佐渡守護代
生 涯
― 日野資朝を処刑した佐渡守護代

 本間氏は北条氏大仏流の家臣。佐渡守護の大仏家に代わって守護代として佐渡支配にあたっていた。実態としては守護代というより現地地頭と言った方がいいとの意見もある。
 本間山城入道『太平記』巻2に登場する。「正中の変」で佐渡へ流刑となった日野資朝を預かっていたが、「元弘の乱」が起こったために幕府の命を受けて資朝を処刑する役回りである。『太平記』では元徳3=元弘元年のうちに処刑される展開になっているが、史実では乱がひとまず鎮圧され後醍醐天皇が隠岐へ流された後の正慶元年(元弘2、1332)6月2日に処刑が執行されている。『太平記』では処刑直前に資朝の子・阿新丸が佐渡までやって来て、本間山城入道は哀れには思って丁重に扱いつつも父子の面会は許さぬまま処刑する。そのために阿新丸に父の仇として命を狙われるが代わりに息子の本間三郎が殺されてしまうという展開になっている。
 雑多系本間氏系図ではこの山城入道に該当しそうな人物として「泰宣」がいる。この系図では彼が「山城兵衛尉」であったとしているためだが、「正慶元年六月十日死」と注記されており、これが事実であれば資朝処刑の直後に死去したことになる。
 一方、正慶2年(元弘3、1333)5月の鎌倉攻めで、大仏貞直に従って極楽寺切通しで奮戦した本間山城左衛門と同一人とする見方もある。



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