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くすのきまさつら〜くろぬまひこしろう

楠木正行くすのき・まさつら?-1348(貞和4/正平3)
親族父:楠木正成 兄弟:楠木正時・楠木正儀
官職左衛門少尉・帯刀・摂津守・河内守
位階贈従三位(明治9)→贈従二位(明治30)
生 涯
 楠木正成の長男。父の遺訓を守って南朝の主力として戦い、父を彷彿とさせる善戦をした末に父同様の戦死を遂げたため、後世「大楠公」の父に対して「小楠公」と呼ばれる。

―桜井の別れ―

 正成をはじめとする楠木一族の多くがそうであるように、正行の生涯にも謎が多い。まず正行の生年が不明である。
 『太平記』は桜井の宿で父・正成と別れた時に十一歳であったと記す(流布本では「十三」となっているが、古態本では「十一」)。ここから逆算すると嘉元元年(1326)の生まれとなるのだが、同じ『太平記』に正行が成人して再登場すると正平2年(1347)の段階で「二十五歳」と記していて、こちらだと元亨3年(1323)生まれになり矛盾が生じている。また延元5年(暦応3、1340)に正行が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆があり、『太平記』の桜井の別れの記述どおりならまだ15歳の少年が父と同じ官職を受けていたことになり、楠木氏の地位から見ても無理がある(なおかつかなり老成した筆跡とされる)として「父の戦死時にすでに成人していたのではないか」という意見も根強い。それはつまり『太平記』の「桜井の別れ」の涙の名場面は完全なフィクションであるとみなすことになるのだが…。

 『太平記』の語るところに従えば、延元元年(建武3、1336)5月、九州から大挙進撃してくる足利尊氏軍を食い止めるべく正成は湊川への出陣を命じられた。正成は敗戦必至とみて足利軍を京へ入れる作戦案を提示するがしりぞけられ、死を覚悟して出陣する。その途中の桜井の宿で正成は正行を呼び寄せて、「今度の戦いは天下分け目の戦いであり、この世でお前の顔を見るのもこれが最後だろう。わしが死んだと聞いたら天下は尊氏のものになったと思え。だが命を助かりたいがために降参などしてはならぬ。一族郎党が最後の一人までいる限りは金剛山のあたりに立てこもり、敵が攻めてきたら命をかけて戦え。これがお前の第一の孝行である」と諭して河内へと帰らせた。
 はたして正成は湊川で戦死し、その首は六条河原にさらされた。尊氏は正成との公私にわたる旧交を思い、「妻子ももう一度その顔を見たかろう」と正成の首を河内の遺族の元へと届けさせた。覚悟していたことではあったが首を見た正行はショックを受けて持仏堂に駆け込んで自害をはかる。母親が気づいて正行から刀を奪い、「父上のご遺言を忘れたのか」と諭して二人で涙にくれた。
 その後、正行は父の遺言と母の教訓を肝に銘じ、子供たちと合戦ごっこをしてその頭をつかんで「朝敵の首をとった」と言い、竹馬に乗っては「将軍(尊氏)を追いかけるぞ」と言うなど、遊びの中でもいずれ尊氏と戦うことばかりを考えて成長していった、という。ただ『太平記』の作者はそのような幼い正行の言動を「恐ろしいことだ」と批判的に表現もしている(その前の部分で首を届けた尊氏を賞賛しているので「逆恨み」に見えなくもない)

―鮮烈なデビュー―

 その後の正行の消息を知る手掛かりは先述の延元5年(暦応3、1340)4月8日に正行が建水分神社に奉納した扁額で、そこに正行自身の筆で「左衛門少尉橘正行」の署名があり、3年前の延元2年(建武4、1337)にも官位を受けた折に奉納をしていることが判明する。
 湊川の戦いの年の末に後醍醐天皇が京を脱出して吉野に入っているが、その実行にも楠木氏の関係者が関与していることから、正行を惣領とする楠木氏が南朝をその発足から支えていたことは疑いない。ただ正行自身の軍事活動はおよそ10年間まったく見られないので、やはり彼自身の年齢が若すぎたか、あるいは湊川の敗戦で楠木一族の主力が多く失われて再生を図るまでに時間がかかったかと見られる。『太平記』では延元4年(暦応2、1339)8月に後醍醐が死去した直後に和田正武らと共に「楠帯刀」つまり正行が吉野に駆けつけて警護にあたったとする記述があるが、この時点で「帯刀」であったとは上記の扁額の署名から否定できる。

 正平2年(貞和3、1347)8月、楠木軍は突然活動を開始する。そのきっかけは不明だが、このとき足利幕府内では足利直義高師直両派の対立が激化しており、関東から戻って南朝の主導権を握っていた北畠親房が足利幕府の内紛に乗じて積極攻勢に出る決断をしたものと思われる。『太平記』は「正成の十三回忌にあたるため」としているが年数は明らかに合っていない(ここで正行の年が「25歳」となるのもそのつじつま合わせと見られる)
 元弘の乱の折の父・正成同様に金剛山で挙兵した正行は、8月10日に紀伊・隅田城を攻撃。その後転じて河内の池尻、八尾へと進撃した。この動きに慌てた幕府は河内守護の細川顕氏を派遣してこれを鎮圧しようとした。9月17日に正行は河内・藤井寺で顕氏軍に夜襲をかけ、顕氏を敗走させた。この敗戦が京に伝わるとかなりの恐慌を引き起こしたらしく、洞院公賢は日記『園太暦』で京でこの戦いの噂が人々の口にのぼり、光厳上皇が北野社に祈祷までさせたことを記している。事態を重く見た幕府はさらに勇将・山名時氏を河内へと派遣する。

 山名時氏は住吉に、細川顕氏は天王寺に布陣して楠木軍と対峙した。正行は11月26日に分散していた山名軍に対して自軍を一隊に集中させて時氏の本陣へ突入した。この戦いでは和田源秀(正季の子とも言われる)の奮戦もあって山名軍は崩壊、山名時氏は弟の兼義を戦死させた上に自らも重傷を負ってかろうじて淀川の渡辺橋を渡って脱出した。天王寺・堺でもいくつかの戦いがあり、細川顕氏も撤退を余儀なくされている。
 渡辺橋での戦闘で山名軍の兵士たち数百人が川に落ちたが、正行は彼らを救出して着替えをさせた上に薬を与え傷の治療もさせ、さらには馬や武具まで与えて送り返してやったという。正行の恩情に感激した兵士たちの中にはその後正行側について戦い、四条畷で共に戦死した者も多かったという。このエピソードは『太平記』のみが伝えるものだが、同様の逸話が弟・正儀にもあるし、父・正成にも敵味方の区別なく戦死者を供養した形跡があり、楠木家がもつ温和な体質であったのかもしれない。

―かえらじとかねて思えば―

 山名・細川軍の惨敗に幕府は驚愕した。楠木軍を討伐する大軍が招集される一方、顕氏は河内守護職を剥奪された。細川顕氏と山名時氏はいずれも当時は幕府内で直義派に属しており、彼らの敗戦は直義派の大きな失点であると同時に師直派にとっては勢力拡大のチャンスだった。12月に入って河内へ出陣したのは高師直・高師泰兄弟だったのである。

 師直が八幡に出陣した翌日の12月27日、正行は弟の正時らと共に吉野におもむいて後村上天皇に謁見した。『太平記』によれば正行は父・正成の戦死以来の自らの成長を語り、「このたび手を尽くして合戦をしなければ父の遺言にそむき、武士として人のそしりを受けることになりましょう。もし病におかされて早死にするようなことになっては帝に対しては不忠、父に対しては不孝となります。今度の戦では師直・師泰と命をかけて戦い、私が師直らの首をとるか、私と正時の首を彼らにとられるか、そのいずれかの覚悟でありますので、この世でもう一度帝のお顔を拝すべく参内いたしました」と涙ながらに述べたという。この言葉の中に「病で早死に」という部分があることから後世の創作ではこのとき正行が不治の病を得ていたとするものが多く、実際にそうだったのかもしれない。この正行の明らかに死を覚悟したとしか思えぬ奏上に後村上は「命を全うせよ」と声をかけたという。
 正行らは後醍醐天皇の陵墓に参拝したのち、如意輪堂の壁板に正行以下兵士432名の名を過去帳の形で書き連ね、各自の髪の毛を仏堂に投げ入れた。このとき正行は「返らじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる(矢を放ったら帰ってくることのない梓弓のように私はもう生きて帰ることなく戦死者の名簿に名を残す覚悟をしている)」と詠んだとされる。

 以上の話は『太平記』のみが記すことなので傍証がない。またあまりにも戦死を前提にした悲劇性の強い出陣描写は物語的虚構性が強いとみられている。確かにこの時点で高師直の大軍に直接立ち向かうのはほとんど無謀といってよく、正行らが出陣にあたって悲壮な覚悟をしたこと自体は事実かもしれない。ただそれまで二度の戦いで巧みな遊撃戦により勝利を収めた楠木軍がこのとき急に「特攻作戦」をとったことを不自然とみる意見は昔からある。それこそ「桜井の別れ」の正成の遺言のように金剛山の千早・赤坂城の籠城戦の再現を考えていたのではとの推測もある。同時期に京市内で不審な放火が多発している事実もあり、ゲリラ戦による混乱を狙っていた可能性も高い。
 江戸時代に編纂された『続本朝通鑑』では正行が「恨みを朝廷に含んで計略をめぐらすことなく大軍に突入して死んだ」という表現を使っている。あくまで後世の記述だがこのときの正行の行動が南朝朝廷に対する「抗議の死」なのではないかと見る研究者は少なくない。正行は期待される軍事力ではあったがあくまで一武将にすぎず、このときの南朝の総司令官は強硬派の北畠親房である。親房は正成について『神皇正統記』で「正成とかいう武士」といった表現を使う上にそもそも湊川合戦にも一言も触れておらず、正成に無理な出陣を強いた張本人ではなかったかと言われる人物である。その親房がこのとき南朝の攻勢の司令官であったために正行は望まぬ形で父と同じパターンに陥ってしまったのではないか、との推理がある(古くは高柳光寿、最近では岡野友彦が同様の説を唱えている)

―四条畷の激闘―

 年が明けて正平3年(貞和4、1348)。楠木正行・四条隆資を主力とする南朝軍と、高師直・師泰兄弟、佐々木道誉細川清氏仁木頼章宇都宮公綱ら足利一門や外様まで含めたそうそうたる顔ぶれの北朝軍は、1月5日に河内北方、四条畷で激突した。
 『太平記』によれば南朝軍は四条隆資が陽動作戦をとって師直軍の一部をひきつけ、その隙に楠木軍が師直の本陣を直撃して師直を討ち取るといういちかばちかの作戦をとったとされる。兵数では圧倒的な差がある状況ではこれしか取りうる方法はなかっただろう。あくまで『太平記』のみが伝えることだが実際に楠木軍は師直の本陣に迫り、師直本陣が一時混乱状態になって、師直本人も危うく討ち取られかけたという。しかし師直に恩義のあった上山六郎左衛門(高元?)が師直を名乗って身代わりで討ち取られた。
 正行は上山の首を師直の首と確信して狂喜し、首をお手玉のように投げ飛ばしてはしゃいだが、弟の正時が師直の首ではないことに気がついた。正行は怒って上山の首を投げ捨てたが、「お前は日本一の勇者だ。我が帝にとっては許しがたい朝敵であるがあまりにも見事な最期、他の首とは一緒くたに扱うまい」と言って、小袖の片袖を引きちぎって首を包んでやったという。

 正行らはその後も激しく師直に迫ったが、ついに師直と直接切り結ぶには至らなかった。戦闘は午前十時から午後五時ごろまで続いたとされるが、ついに正行・正時兄弟は矢を雨のように浴びて瀕死の重傷を負い、「もはやこれまで。敵の手にかかるな」と兄弟で刺し違えて果てた。和田源秀・和田高家ら一族の多くも戦死し、楠木軍は正成の湊川の戦いをそのままコピーしたかのような激闘の末の玉砕をすることになってしまった。そのためこの戦闘の過程が『太平記』作者の文学的脚色を多く含むもので実際にはあっさり勝負がついたのではないかとの見方もあるが、洞院公賢も日記に「合戦すこぶる火の出づるほどのことなり」と記しており、激戦であったことは事実のようだ。公賢は「楠木帯刀正連(←公賢はこう表記する)ならびに舎弟、和田新発(=賢秀)らが自殺した。さらし首や捕虜もいくらか京都に持ってこられた。天下は万歳を叫んだ」とも記しており、京都の幕府や北朝側では正行の存在をひどく恐れ、またその壊滅を大いに喜んでいたことを伝えている。

 この四条畷の戦いの結果、南朝軍は攻勢どころか壊滅的な打撃を受け、高師直は直接吉野を攻撃、炎上させ、後村上ら南朝首脳は賀名生へと逃走することになる。

―その後の評価など―

 正行・正時の死後は一人残された弟の正儀が楠木家を継ぎ、のちのちまで南朝の主力として戦い続ける。しかし正儀は常に南北両朝の和平推進のために活動し、一時は北朝に鞍替えさえした。正儀には親房ら南朝内の強硬派によって「兄たちを殺された」という意識があったためではないかとも言われている。
 一方の北朝側・足利方にとって正行の死が大きな喜びであったことは上記のとおりだが、正行を武将として尊敬していた者もいた。ほかならぬ尊氏の子で第二代将軍・足利義詮その人である。義詮と正行の間に接点があった様子はないのだが(義詮は正行の生前はずっと鎌倉にいた)、義詮は自身の死に当たって「敬愛していた正行の隣に葬ってくれ」と遺言しており、実際に京の観林寺(現・宝筐院)の正行の首塚の隣に葬られている。義詮がなぜ正行を敬愛したのかは全く不明だが、父親同士親交があったとの話もあり、「二世同士」で何か共感があったのかもしれない。

 時は流れて、室町後期〜戦国〜江戸初期にかけて、『太平記』は広く人々に親しまれ、そのヒーローである正成・正行父子の人気はグングン高まっていった。江戸時代になり時代が下るにつれて正成を「大楠公」として神格化する流れの中で正行も「小楠公」として「忠臣」「孝子」ともてはやされることになる。
 明治に入るとさっそく従三位の贈位がなされ、明治23年(1890)には戦死の地に正行らを神として祭る四条畷神社が創建される。明治30年(1897)にはさらに従二位を贈位された。戦前においては「桜井の別れ」「母の教訓」「如意輪堂の過去帳」などなど『太平記』が語る正行の逸話は誰もが知る名場面であり、とくに戦中期には正行の生涯は「軍国教育の鑑」そのものであった。

参考文献
佐藤和彦ほか編「楠木正成のすべて」(新人物往来社)
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
林屋辰三郎「内乱の中の貴族・南北朝と『園太暦』の世界」(角川選書)
岡野友彦「北畠親房」(ミネルヴァ日本評伝選)
歴史群像シリーズ「戦乱南北朝」(学習研究社)ほか
大河ドラマ「太平記」倒幕戦の時期の少年時代「多聞丸」を北代隼人、建武新政期に元服して「正行」となってから加藤盛大が演じた。このドラマでは正成の子は正行しか登場せず、正行の年齢も古典に従った「十一歳説」を採っている。尊氏と護良親王が一触即発となった時に偶然尊氏と語り合う場面もあった。フィクション説もある「桜井の別れ」はロケ撮影され、アレンジを加えつつも涙の名場面となった。正成の首との対面では古典と異なり気丈にふるまって尊氏への礼を述べていた。
第43回で成人して再登場、ここでは中村繁之が演じた。後村上に拝謁後、親房にほとんど無理やり出撃させられるような描写になっていて、矢を浴び髪を振り乱して敵陣に突入していくストップモーションカットでその戦死が描かれた。
その他の映像・舞台 戦前においては「大楠公もの映画」に登場するのはもちろんのこと、家族向け要素がありまた正成より扱いやすいこともあってかなりの数の「小楠公映画」が製作されている。「小楠公」(1910)では尾上松之助、「忠孝の亀鑑・小楠公」(1919)では嵐璃珀(?)「小楠公」(1921)嵐璃徳「大楠公夫人」マキノ正唯「大楠公」(1926)高尾光子「楠正成」(1933)では沢村昌之弼「小楠公とその母」(1936)では嵐菊磨「菊水太平記」(1939)坂東好太郎「小楠公」(1940)天津竜太郎「大楠公」(1940)片山明彦「楠公二代誠忠録」(1958)では少年期を新倉一夫、青年期を和田圭之助が演じている。変わったところでは「続水戸黄門」(1928)磯川金之助の例がある。
 テレビドラマ「大楠公」(1959)では高島新太郎が演じている。
 歌舞伎では昭和39年(1964)の「私本太平記」で市川新之助(=12代目市川団十郎)が正行役、実父の市川団十郎(11代目)が正成役だった。「私本太平記 尊氏と正成」(1991)では同年の大河ドラマで足利義詮を演じていた片岡孝太郎が正行を演じるという不思議な縁がある(さらに孝太郎の実父は大河で後醍醐役の片岡孝夫である)
歴史小説では楠木正成を描いた作品であれば当然皆勤である。ただ正行のみを主役とする長編小説は田中英資「楠正行」(1980)ぐらいしか見当たらない。短編小説では「歴史読本」の楠木一族特集で掲載された岡本好古「朱の菊花」(1982)がある。
楠木正儀を主人公とする鷲尾雨工「吉野朝太平記」(1935)では序盤で登場し、『吉野拾遺』を元ネタにした「弁内侍」との恋物語が描かれ、また結核をわずらっていたとする設定がここでも採用されている。
漫画作品では『太平記』の漫画版で「桜井の別れ」はじめ名場面が確実に描かれるのでほぼ間違いなく登場している。一方で「日本の歴史」漫画では登場例は少ないが、日本史学習漫画の草分けで復古調な内容が多かった昭和40年代の集英社版では「桜井の別れ」が描かれていた。また石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」で四条畷の合戦がそこそこ詳しく描かれている。
一般コミックでは河村恵利「時代ロマンシリーズ」第3巻収録の一編「笛の音色」が正行と弁内侍の悲恋をテーマにしている。岡村賢二「私本太平記」で少年期が描かれる。内野正宏『ナギ戦記』ではラストで生まれている子供が正行らしい。天王洲一八原作・宝城ゆうき作画「大楠公」では桜井の別れの場面が冒頭と終盤で繰り返され、正成が正行に後を託す気持ちが繰り返し強調される。エピローグ部分では正行の最期も簡単惟描かれている。
PCエンジンCD版1337年に元服して父・正成のいる国に登場する。初登場時のデータは統率63・戦闘92・忠誠92・婆沙羅28でタイプ的にはやはり父に似る(大軍は率いられないが戦闘力が高い)。正成が死亡すると楠木勢力の君主の地位を継ぐ。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で河内・千早城に南朝方武将として登場する。能力は「弓6」で父親を小ぶりにしたような強力さ。
SSボードゲーム版楠木正成のユニット裏で登場(つまり父が死なないと登場しない)、公家方の「大将」クラスで勢力地域は「南畿」。合戦能力3・采配能力3でまさに「小楠公」な能力。

楠木正遠くすのき・まさとお生没年不詳
親族父:楠木盛仲? 子:楠木正成?・楠木正季・楠木正家?・観阿弥の母?
生 涯
―楠木正成の父?―

 『尊卑文脈』などの系図類で楠木正成の父とされる人物。ただし他の系図類では正成の父を正康としたり正澄としたり正玄としたりで、要するに正成は「父親の名前も分かっていない」とするのが正確なところである。ここでは一応「正遠」で項目を立て、「正成の父」について述べる。
 「正遠」を正成の父とする系図類とよく似た系図として注目されるのが肥前・長島の渋江氏の系図である。渋江氏は橘諸兄の子孫の橘氏を称し、その家系図に記されている渋江氏と枝分かれした系統の家系が『尊卑文脈』などの楠木氏系譜とかなりの点で一致していてそこに「橘盛仲の子・正遠」の名があり、渋江氏の系図が一定の信用度を持つことから何らかの共通の史料があったのではないかとの見方がある。ただしこの渋江氏の系図を信用した場合、「橘盛仲の子・橘正遠」は平安時代の末、源平合戦ごろに生きていた人になってしまい、単にこの系図を流用して「正」字のつく正遠を正成の父に見立てて適当にくっつけてしまっただけではないかとの見方もある(植村清二「楠木正成」)
 一方で、『上嶋家文書』では観阿弥の父・服部元成が「河内国玉櫛荘の橘入道正遠」の娘を妻に迎えて観阿弥が生まれたとする記述があり、河内の住人で橘姓、しかも「正遠」の名が系図類と一致することからこれが正成の父ではないかとする推測がある(この史料自体は正成との関係は一切強調していない)。この発見があったため正成の父を「正遠」とみなす見解が有力にはなったのだが、決定的とは言い難い。

 したがって正成の父についてはその事跡が分かるはずもない。ただ近年では楠木氏は駿河国・楠木(現静岡市)におこった北条得宗家家臣を先祖に持ち(ちなみにその「楠木」のすぐそばには内管領家を出したことで名高い「長崎」もある)、正成から3代ほど前に河内に代官として派遣されここに土着した武士であり、北条氏や長崎氏と深い関係を持っていたのではないかとの見方が強くなっている。橘姓を名乗るようになったのも河内移住後のこととみられている。
 永仁3年(1295)東大寺領の播磨国・大部荘で「非法」をおこなったとして非難される「河内楠入道」なる人物がおり、これが正成の父もしくは祖父の可能性が高いと言われている。これについてはさまざまな推測があるが、北条得宗家の家臣として荘園の管理にあたりつつ、荘園領主の東大寺など旧勢力と支配をめぐって争う「悪党」的存在であったとみる意見が多い。
 上記の『上嶋家文書』を信用するなら、正成の父は伊賀の勢力とも関係が深かった。伊賀はまさに「悪党活動」の盛んな地であり、正成が挙兵した際にも足利高氏がわざわざ伊賀掃討にまわっていることから楠木氏と伊賀の関係が深かったのは事実と見られる。またその血縁から芸能民が出ていることは『太平記』においてなぜ正成が超人的英雄に祭り上げられているかを考える上でも示唆的である。
 正成の活躍の背景には楠木氏のかなりの財力・人脈があったことは疑いなく、それは正成一代で築かれたとは思えない。父や祖父の代からの着実な積み重ねがあったのだろう。

参考文献
植村清二「楠木正成」(中公文庫)
新井孝重「黒田悪党たちの中世史」(NHKブックス)
佐藤和彦編「楠木正成のすべて」(新人物往来社)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ中への登場はない。ただ第17回で正成の妹・卯木(=花夜叉)が正成の妻・久子に父の思い出話をする場面がある(「正遠」の名は出ない)。そこで語られるのは敵の子ならば幼児でも容赦なく殺害する、恐ろしい「悪党」イメージである。
歴史小説では吉川英治「私本太平記」は「上嶋文書」を最も早く創作に取りこんだ小説で、作中に登場はしないものの父の名を「正遠」としている。邦光史郎「楠木正成」では「河内入道正遠」とし、謀略のために戦死してしまう設定。北方謙三「楠木正成」では大和川沿いに勢力を広げた人物として描かれている。
漫画作品ではうめだふじおの学習漫画「楠木正成」では目立たないが一般的な御家人風に描かれ登場している。この漫画ではその父・楠木盛仲を「河内楠入道」と設定している。
一般青年誌としては珍しく正成を主役とした内野正宏「ナギ戦記」では回想場面で正成の父「正澄」が登場している。ただし「橘」姓というだけで楠木氏という設定ではなく、「楠木」の名字は血縁のない悪党・河内楠入道から正成が譲られるという展開になっている。
少女漫画では飴あられ『君がために・楠木正成絵巻』の序章のみに登場し、一見コワモテの悪党だが実際は優しいおじいさん、という感じに描かれている。

楠木正時くすのき・まさとき?-1348(貞和4/正平3)
親族父:楠木正成 兄弟:楠木正行・楠木正儀
位階贈正四位
生 涯
―正行と共に散った弟―

 楠木正成の次男。『太平記』では「楠次郎」の表記がある。その事績も『太平記』のみが伝えるもので、巻26の四条畷の戦い周辺の記事の中にしか登場しない。兄の楠木正行ともども生まれた年は不明だが、『太平記』の正行の上奏のなかで「正行・正時すでに壮年に及び」との表現があり、それほど年が離れていないことは確実で、一応1320年代後半の生まれと推測される。
 正平2年(貞和3、1347)8月に兄・正行が挙兵し、恐らく最初から正時もそれに同行して転戦したと思われる。12月27日に吉野に赴いて兄と共に後村上天皇に拝謁し、出撃にあたって死を覚悟し、如意輪堂の壁板に兵士一同の名前を刻んでいった。
 
 正平3年(貞和4、1348)正月5日、高師直を指揮官とする幕府軍と四条畷で激突、楠木軍は師直の首一つを狙って突撃し、あと一歩まで迫ったが、師直の家臣・上山六郎左衛門が身代わりになって楠木軍に討ち取られ、師直本人を逃してしまった。正行は師直の首と思いこんで上山の首を鞠のように放り投げて大喜びしたが、正時が「首を損なうようなことをなさいますな。旗先に掲げて敵味方に見せてやりましょう」と言って上山の首を太刀の先に貫いたところで「師直ではない。上山六郎左衛門の首だ!」と気がついたという。
 その後も楠木兄弟は奮戦したが、須々木四郎という強弓の者が矢を雨のように浴びせて来て、正時は眉間のはずれを射られて矢を抜くこともできなくなった。正行も体中に矢を立てて「今はこれまで。敵の手にかかるな」と兄弟で刺し違えて死んだ。その死にざまは父・正成と叔父・正季の湊川における死にざまと瓜二つと言っていい。
 『太平記』以外で正時の名は確認できないが、北朝公家・洞院公賢の日記『園太暦』には「楠木帯刀正連(行)ならびに舎弟、和田新発(=賢秀)らが自殺した」と記していて、正行に「舎弟」がいるという情報は広く知られていたようである。正行・正時が戦死したことで楠木一族の命運は弟の楠木正儀一人に託されることとなる。
 後年、南朝称揚の流れの中で「小楠公」正行と共に正時もセットで賞賛され、明治22年に四条畷神社が創建されるとそこに合祀されている。

参考文献
佐藤和彦ほか編「楠木正成のすべて」(新人物往来社)
林屋辰三郎「内乱の中の貴族・南北朝と『園太暦』の世界」(角川選書)
歴史群像シリーズ「戦乱南北朝」(学習研究社)ほか
大河ドラマ「太平記」楠木正成の息子は正行一人に絞られたため、全く登場しなかった。正行の戦死シーンも兄弟刺し違えではなく敵陣に突撃してゆく形になっていた。
その他の映像・舞台基本的に兄の正行とセットでの登場のみ。1919年の映画『忠孝の亀鑑 小楠公』で牧野満男が演じているのが最古か。1933年の映画『楠正成(楠公父子)』で中野英雄、1936年の映画『小楠公とその母(修羅城)』で中村松葉、1940年の映画『大楠公』で旗桃太郎、1943年の映画『悲願千早城(菊水とはに・改題)』で沢井正夫がそれぞれ演じているが、タイトルから察するに子役での登場がほとんどらしい。
戦後では1958年の映画『楠公二代誠忠録』で由木城太郎、1959年のテレビドラマ『大楠公』で大月正太郎が演じた例がある。
歴史小説では楠木正成・正行・正儀を描いた小説であれば確実に登場している。だがさして個性が与えられていない。
漫画作品では南北朝時代を扱った歴史物、「太平記」の内容を紹介する古典文学コミックなどで四条畷の戦いが描かれていればほぼ間違いなく正行との刺し違えシーンで登場している。
PCエンジンCD版1337年以降に途中から楠木氏支配領域に出現する。楠木氏が滅んでいれば浪人になってるので召し抱えることも可能。初登場時のデータは統率55・戦闘88・忠誠37・婆沙羅33。忠誠が意外なほど低いのは浪人状態で登場したためか。

楠木正儀くすのき・まさのり1331(元弘元)?-?
親族父:楠木正成 兄弟:楠木正行・楠木正時 妻:伊賀局?
子:楠木正勝・楠木正秀・楠木正元・楠木正能?
官職左衛門尉・河内守・左馬頭・左兵衛督・左衛門督・参議(いずれも南朝)・中務大輔(北朝)
幕府河内・和泉守護
生 涯
 楠木正成の三男。父の戦死、そして兄たちの戦死を受けて楠木一族を一人で背負い、なおかつ南朝軍の主力として父親譲りの巧みな戦術で戦いを続けた。その一方で和平を切実に望んで盛んに運動し、そのために一時北朝に寝返り、その後また南朝に舞い戻るなど、後世楠木一族称賛の流れのなかで議論を残す行動もみせた。一族のため、南朝のためにもがきながらも結果的に南朝も楠木一族も衰退させてしまった苦悩の武将である。

―父・兄たちの死を受けて―

 兄たちと同様、その生年は不明である。だが『太平記』巻31に正平7年(文和元、1353)の時点で「今年二十三」との記述があり、これを信じるなら元弘元年(1331)の生まれとなる。『太平記』は兄の楠木正行湊川の戦いの時に11歳だったとしており(これもやや混乱があるが)、とくに不自然ではない。父・正成が赤坂城・千早城で戦い、その後湊川で戦死したころ正儀はまだ記憶が定かですらない幼児であったということになる。

 正平2年(貞和3、1347)8月から兄の正行・正時らの活動が始まり、翌正平3年(貞和4、1348)正月5日に四条畷の戦いがあって正行・正時はじめ楠木一門の多くが戦死してしまった。このとき正儀はまだ十代なかば頃であったと推測され、そのために兄たちに同行していなかったのだろう。あるいは死を覚悟した兄たちはこの末の弟に跡を託すべく出陣を認めなかったということかもしれない。『太平記』では四条畷の戦いののち吉野が焼き払われて後村上天皇が賀名生に逃れたことを語るくだりで「和田・楠が一族皆亡びて、今は正行が舎弟次郎左衛門正儀ばかり生き残りたりと聞へし」と記していて、これが『太平記』において正儀の名が初めて出る箇所であり、三男と思われる正儀が「次郎左衛門」と呼ばれていることが注目される。『太平記』ではこのとき楠木館も焼かれたとあるので、千早城など山城に避難していたのかもしれない。

 四条畷合戦の翌日付で正儀の幼名と思われる「虎夜刃丸」の名で「昨日合戦の候次第は以(意)外に候…」と書かれた手紙、というものが存在するようだが、後世の偽作と見られているらしく、学術レベルではほとんど採り上げられていない。このため正儀の幼名が「虎夜刃丸」だというのもかなり疑わしい。
 さらに言えば新田家臣の篠塚伊賀守の娘「伊賀局」が正儀の妻となったという話もよく紹介されるが、これも後世の南朝人気を反映した偽書『吉野拾遺』だけに出てくる話で、ほとんど信用できない。正儀の子に正勝・正元・正秀などがいたという話も信用度の高い史料には見当たらず、事実とは言い切れない。楠木氏はもともと不明点が多いが、正儀以降の時代はなおさら資料不足になり、それが逆に後世楠木人気による欲求不満を招き、数々の創作がなされてしまっているというのが実態である。

 話を戻すと、四条畷で楠木軍を破った高師泰の軍勢は楠木館を焼き払ったが、河内南部では楠木勢のしぶとい抵抗にあって結局楠木氏を滅ぼすことはできぬまま京へと引き上げた。楠木氏は一時逼塞を余儀なくされた。しかしこの直後に足利幕府で内紛「観応の擾乱」が始まり、南朝にチャンスがまわってくる。

―和平を求めて〜南朝軍京占領―

 正平4年(貞和5、1349)8月、高師直派のクーデターが起き、足利直義は失脚、出家引退に追い込まれる。だが翌正平5年(観応元、1350)末に直義は直義派の武将たちと共に挙兵、南朝に投降してこれを旗頭に足利尊氏・師直らに戦いを挑んだ。翌正平6年(観応2、1351)2月に戦いは直義派の勝利に終わって師直・師泰らは殺害された。

 幕府の実権を取り戻した直義は、南朝の総帥・北畠親房を相手に南北両朝の和睦交渉を進めた。この交渉の南朝側の窓口となったのが楠木正儀その人で、単なる連絡役にとどまらず正儀自身が両朝和睦を実現しようとかなり積極的に関わったとみられている。
 洞院公賢の日記『園太略』によると正儀の代官が都に入って直義と親房のやりとりを仲介しており、結局5月に幕府存続をめぐる意見の対立で親房が交渉打ち切りを通告すると、この代官は正儀の言葉として「ことがほとんど決まりかけたのにぶち壊した連中がいる。まことに残念だ。こうなったら早く吉野を攻撃する決断を下されたい。そのときは正儀が先陣をつとめましょう」という趣旨の発言したという。この発言が実際にあったことは『観応二年日次記』に載る南朝と折衝した僧・房玄円観恵鎮に伝えた言葉の中にもほぼ同内容があることで確認できる。この発言からも正儀が強く和睦実現を願望し、それをぶち壊した親房(彼にもいろいろ戦略があったのだろうが)を激しく憎んでいたことがよく分かる。ついには幕府側に味方して吉野を攻めたいとまで発言しているが、これは18年も後のことになるが正儀が実際に北朝側に鞍替えする伏線となっている。親房に関して言えば、父・正成も兄・正行らはいずれも親房によって戦死に追いやられたフシがあり、もともと憎しみを抱いていた可能性もある。

 このの尊氏と直義が決裂、今度は尊氏が北朝を放り出して南朝に降伏し「正平の一統」が実現する。そして正平7年(文和元、1352)2月に直義が鎌倉で急死して「観応の擾乱」にひとまずの決着がついた直後、南朝軍は京・鎌倉を急襲して東西同時に占領する作戦を実行に移した。後村上天皇自身が京を望む男山八幡に入り、閏2月20日に北畠顕能千種顕経そして楠木正儀らの軍が京に突入した。正儀の軍は桂川を渡って七条大宮一帯に突入し、これを迎撃してきた細川頼春の兵とぶつかったが、このとき楠木軍はあらかじめ楯をはしごのように組めるようにして民家の屋根にのぼり、上から屈強の射手に細川軍を射させ、立ち往生したところを騎兵で襲いかかり、頼春を討ち取った(『太平記』)。こうした市街戦におけるゲリラ的な戦術は父親譲りであったようだ。

 京を守っていた足利義詮を近江に追い出し、京占領に成功した南朝軍だったが、それは長くは続かなかった。占領から一ヶ月も経たない3月15日に南朝軍は京から撤退し、義詮の軍が京を取り返した。南朝軍は男山八幡で籠城戦をすることになり、『太平記』によると義詮が男山と河内を結ぶ補給線を断とうとしたため、南朝軍は正儀と和田五郎の二人を出撃させ、荒坂山で足利軍を防いだが結局多勢に無勢で男山に引き上げたという(「楠は今年二十三」とあるのがこの個所)
 さらに南朝軍は正儀をいったん河内に帰らせ、軍勢を整えて救援に来させようとしたが、正儀は結局援軍に来ず、男山八幡は5月に陥落する。この部分で『太平記』は「楠は父にも似ず兄にも替りて、心少し延(のび)たる者なりければ、今日よ明日よというばかりにて、主上の大敵に囲まれて御座あるを、いかがはせんとも心に懸けざるこそうたてけれ」と非常に手厳しい批判を加え、「これが正成の子、正行の弟とは、とそしらぬ者はいなかった」とまで書いている。
 『太平記』はこの他の部分でも正儀にかなり批判的な記述が目立ち、「名将」である正成・正行との違いを際立たせようという文学的意図を感じるので、そのまま事実とも考えにくい。この時の正儀は単に身動きがとれなかっとも思えるが、もしかすると直前に和睦を進めながらそれをぶち壊され、さらに半ば騙し打ちの形で京を攻めたことに不快感を抱いていたため、とも感じられる。ただ南朝軍にとっては楠木軍は最大の軍事力には違いないし河内の楠木支配地域は重要な拠点で、このとき拉致した北朝の光厳光明崇光の三上皇らも正儀が支配する東条、さらに金剛寺に移し、やがてその金剛寺に南朝皇居が移されることからも結局は正儀をあてにしていることは確かである。

―南朝の主力として―

 この年の11月に、正儀は吉良満貞石塔頼房といった旧直義派の武将たちと共に摂津に進出し、摂津守護代を追い出している。翌正平8年(文和2、1354)5月には摂津だけでなく大和・和泉方面まで軍を勧めるなど活発な攻勢を示し、京の人心を不安に陥れている(『園太暦』)。そして折から南朝側に寝返った山名時氏らの軍と京を挟撃し、6月9日に二度目の京占領を実現させる。だがこのときの占領も長くは続かず、7月24日には南朝軍は撤退を余儀なくされた。

 時期が明確ではないが、正平9年(文和3、1355)に北畠親房が死去したとされる。そして同年10月に後村上天皇が賀名生を出て楠木勢力圏である河内天野の金剛寺に居を移した。親房は晩年南朝内で失脚していたとの憶測もあり、後村上が正儀のもとへやってきたのもそうした情勢と関わりがあるかもしれない。
 さらに同年12月には南朝に下った足利直冬やその一党の桃井直常・山名時氏らと共にまたも京を攻めて尊氏・義詮を近江に走らせ、翌正平10年(文和4、1356)正月に三度目の京占領を実現した。しかしこのときは主導権を完全に直冬一党に握られており、正儀も含めて南朝側はほとんど主体性を持てず、統一性もなかったという。この時は京をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられたが、結局3月28日に京は尊氏側に奪い返された。
 
 この戦いののち南北間の対立はひとまずの小康状態に入り、金剛寺に置かれていた北朝皇族も正平12年(延文2、1357)2月に京に返還され、結果的に不調に終わったとはいえ南北両朝の和睦の話もかなり進んだと言われる。
 しかし翌正平13年(延文3、1358)4月に足利尊氏が死去し、第二代の将軍となった足利義詮は正平14年(延文4、1360)末に関東から大軍を率いてやってきた畠山国清ら諸将と共に天野金剛寺の直接攻撃にとりかかった。『太平記』ではこのとき正儀は一族の和田正武と共に金剛寺の皇居に参内し、「幕府軍には天の時、地の利、人の和のいずれも欠けており勝利は確実である」と豪語し、後村上らを観心寺に非難させた上で、正成を思わせる神出鬼没の戦いで幕府の大軍を食い止める様子が描かれ、ここでは正儀は「元来思慮深きに似て」といった好意的な表現もされている。この戦いは翌年5月までズルズルと続き、結局幕府軍は南朝にとどめを指すこともできぬまま内紛を起こして撤退することになる。

 正平16年(康安元、1361)9月、幕府執事をつとめていた細川清氏佐々木道誉の謀略によって失脚し、南朝に投降してきた。清氏はいま攻撃すれば京を占領できると後村上に訴え、後村上は正儀を呼び出して意見を問うた。このとき正儀は「これまで何度も京を占領しましたが長くはもちませんでした。いったん京を落とすくらいは清氏どのの力を借りずともこの正儀一人の軍勢でもたやすいことですが、すぐに奪い返されてしまうでしょう。ですがこれはあくまで私の個人的意見でありまして、ともかくも帝のご命令に従いましょう」と、至極もっともな意見ながら後村上の内心を見透かしたような意見を述べている(「太平記」)。結局後村上や公家たちは「せめて一夜の夢でも」と京攻撃を決定、正儀は気乗りしないまま清氏と共に京を攻め、12月8日に四度目の京占領を行った。

 このとき有名な逸話が『太平記』にある。京から逃れた諸大名はみな自身の屋敷に火を放ってから逃げたが、佐々木道誉は「我が屋敷にはきっと名のある武将が入ろう」と火を放つどころか屋敷内を派手に飾って酒と料理の用意までさせ、さらに遁世者を二人残して屋敷に来た武将をもてなすよう命じておいた。そしてこの道誉の屋敷に入ったのが正儀だったのである。正儀はこの道誉の「バサラ」ぶりに感嘆し、焼き払えと主張する清氏を止めたという。そして12月27日に予想通り京から撤退するはめになると、正儀は道誉のもてなしへの返礼としてさらに盛りだくさんの酒肴を用意させ、秘蔵の鎧と白太刀を置いて行った。
 京の人々は「道誉の今回の振る舞いは情け深く風情あり」「道誉のいつもの古バクチにだまされて楠木は太刀をとられた」とはやしたと『太平記』は記し、正儀をお人好し扱いするのだが、これは素直にとれば道誉の粋な計らいに正儀も粋に返したとみるべきだろう。もともとこの戦いに乗り気ではなく醒めたところのあった正儀には道誉の振る舞いに魅力を覚えたのかもしれない。

 京から撤退した清氏はこの翌年の正平17年(貞治元、1362)3月に讃岐に渡って再起を図ったが、7月に従兄弟の細川頼之に敗れて戦死した。『太平記』によればこのとき正儀・正武らは「このままでは諸国の南朝方が敵に投降してしまう。ひといくさして気合いを入れてやらねば」と「野伏」を大勢含んだ軍勢で摂津に進出し、摂津守護の佐々木道誉の軍と戦っている。このとき道誉の孫の佐々木秀詮らを討ち取るなど大きな戦果をあげている(『太平記』は前年のこととして別の章に書いているが『尊卑分脈』によればこの年8月22日のこと)。このときの戦闘で橋から川に落ちた敵兵を救出し、裸の者には小袖を着せ、負傷者には薬を与えるなど情け深い行動をとって敵兵から感謝されたという正行とよく似た逸話も書かれている。
 勢いに乗った楠木軍は湊川まで進出して赤松勢と対峙したが正儀は何を思ったのか引き返し(「太平記」本文がそう書いている)、全面衝突を避けて野伏たちを少しばかり出して小競り合いをした程度で、幕府の大軍が迫るとさっさと河内にひきあげている。前述のように『太平記』では正儀はいたく酷評もされているが、その本文中でも父や兄を彷彿とさせる機動性をもった活動をしていたことがうかがえる。それは楠木軍そのものの特性だったのかもしれないが、正儀自身の指揮能力も決して父や兄に劣るものではなかったのだと思わせる。

―足利幕府への投降―

 正平21年(貞治5、1366)にもなると幕府の体制も安定して来て、義詮がそれを背景に南朝との講和交渉を進めている。この年11月にもかなりの進展があったとされ、交渉にあたったのは南朝側が楠木正儀、幕府側が佐々木道誉であった。翌正平22年(貞治6、1367)4月末には南朝公家の葉室光資が京に入って義詮と対面するところまでこぎつけたが、持参してきた後村上の綸旨の中に「武家(将軍)の降参」という文言があったために義詮が怒り、いったん交渉打ち切りになってしまった。それでも正儀は使者を義詮に送って交渉の継続を求め、義詮もこれに応じて後村上のいる住吉に使者を送って折衝しているが、結局このときの和平話も立ち消えになってしまう。

 さらに悪いことに、この年の末に交渉相手の足利義詮自身が病のために急逝してしまった。追い打ちをかけるように翌正平23年(応安元、1368)3月に後村上も死去してしまう。交渉では強気な姿勢をみせつつも正儀が進める和平方針自体は認めていたとみられる後村上が死去し、その後継に強硬派とされる寛成親王=長慶天皇が立ったことが正儀の立場を一層悪くした。
 折しも幕府では幼い足利義満が将軍となり、細川頼之が管領となってこれを補佐する新体制となった。頼之は幕府の改革を進める一方、南朝対策の要として正儀に幕府への投降を呼びかけた。正儀と頼之の間にいかなる接点があったかは不明だが(強いて挙げれば頼之の父・頼春は正儀の軍に討たれていて「父の仇」ではあったりする)、あるいは正儀の交渉相手であり頼之擁立の立役者であった道誉が橋渡しをしたかもしれない。南朝で立場を失っていた正儀は頼之の呼びかけに応じ、ついに正平24年(応安2、1369)正月2日に公式に幕府に投降した(『花営三代記』)。頼之は正儀が南朝から与えられた「左兵衛督」の官職をそのまま認め、なおかつやはり南朝において正儀が行使していた河内・和泉守護および摂津住吉守護の職権もそのまま公認した。

 2月7日に幕府は河内・和泉に正儀の幕府帰参を大々的に触れまわった。これに対し楠木・和田一族など古くから南朝を支えてきた武士たちの間では強い反発も起こり、3月には彼らが結束して正儀を攻撃、正儀は天王寺に退いた。細川頼之はただちに弟の細川頼基(元)、および摂津守護の赤松光範を援軍に送りだして正儀を支援した。正儀は4月2日に上洛して頼之と対面し、その翌日には将軍義満とも対面し、22日になって河内に戻ったが、これは長年の敵将に対しては破格の厚遇と言え、頼之がいかに正儀を重く見ていたかを示している。
 かつての盟友である和田正武をはじめとする南朝勢の正儀に対する攻勢は持続して続き、頼之はしばしば援軍を送って正儀を助けた。しかし幕府内でもかつての仇敵を支援することに気乗りしない武将も多く、応安4年(建徳2、1371)5月には河内に出陣した武将たちがサボタージュを起こしたことに怒った頼之が西芳寺に駆けこんで管領辞職を言い出し、義満がなだめるという一幕が起こっている。
 細かい小競り合いが長く続いたが、応安6年(文中2、1373)8月に正儀・細川氏春らの幕府軍が天野金剛寺の南朝皇居を攻撃、ついに長慶天皇は天野を放棄して吉野(あるいは賀名生)へと遷幸した。これと前後して長慶が弟の熙成親王=後亀山天皇に譲位したとの風聞が幕府側に流れている(通説では10年後のこととされるが明確ではない)。強硬派であった長慶も天野失陥により南朝内での発言力を低下させていたということかもしれない。
 それまで正儀に敵対していた河内・和泉の南朝方武士たちの間にも動揺が広がったらしく、応安7年(文中3、1374)に正儀は橋本正督和田助氏淡輪左衛門大夫らに投降を呼びかける書状を送っていて、やがて彼らはこれに応じて一時期幕府側に鞍替えしている。このため南朝側の勢いは大いに衰え、しばらくその動きは鳴りをひそめる。正儀もしばらくは河内・和泉守護としての仕事に専念し、この間に北朝から中務大輔の官職も授かっている。

―再び南朝へ〜消えゆくように―

 しかし永和4年(天授4、1378)暮れごろから橋本正督が再び南朝側に寝返って蜂起し、紀伊の細川業秀を淡路に追い出すなど活発な攻勢をかけ始めた。12月には義満自ら東寺まで象徴的に出陣し、山名氏清を和泉守護、山名義理を紀伊守護として正督討伐が行われる。このとき正儀は和泉守護および摂津住吉守護を奪われ、また頼之の政敵である山名一族の登用は頼之の権勢の陰りを示すもので、それは同時に正儀にとっても頼みの綱が細くなる事態であった。

 そしてついに康暦元年(天授5、1379)閏4月14日、反頼之派の諸将が軍を率いて「花の御所」室町第を包囲して頼之の管領解任を義満に要求、義満はやむなくこれに応じ、頼之は出家して本拠地の四国へと去った(康暦の政変)。頼之の失脚は正儀にとって幕府内に頼れる味方がいなくなったことを意味した。そして間もなく紀伊・和泉では山名一族の攻勢で橋本正督らが戦死し、この方面における山名氏支配がますます強まり、南北双方に属する楠木一族にとっても死活問題となってきていた。

 正儀がついに南朝に舞い戻ったのは弘和2年(永徳2、1382)閏正月のことである。その直前の正月30日までは北朝年号で和田助氏に所領を安堵する文書を発行しているので、急な動きではあったらしい。だが予想されたことでもあったようで、さっそく閏正月24日に山名氏清の軍が正儀を攻撃し、平尾の戦いで正儀は一族六名、家臣百六十名もの戦死者を出す惨敗を喫して金剛山に逃げ込むはめになった。その直後の2月18日に正儀は南朝から帰参を公式に許されて一時北朝に去った時点の左兵衛督の官職を認められ(さすがに北朝から与えられた中務大輔は認められなかった)、同日に南朝年号で所領安堵の文書を発行している。
 翌弘和3年(永徳3、1383)3月に南朝では長慶天皇から後亀山天皇への譲位があったとされ(前述のようにもっと早かった可能性もある)、後亀山は北朝・幕府との講和に前向きであった。正儀が12月に南朝の参議に昇進して中枢に参与する形になったのも後亀山の意向が大きかったものとみられる。

 こののち正儀および楠木一族についての消息はかなり少なくなる。正儀が南朝側の河内守護の立場で発行した所領安堵状がいくつか確認されており、元中3年(至徳3、1386)4月19日付の淡輪因幡左衛門尉(長重)に「河内国花田六郎の跡を知行せしむ」とした文書が確認される最後の正儀の消息である。このとき正儀は元弘元年生まれとして66歳。それから数年以内に没した可能性が高いとみられている。もしかすると彼が生きているうちに、彼が念願していた南北朝合体(1392)を見届けられたかもしれない。
 『大和社紀』という後世の史料に元中3年に十津川の奥で73歳で死去、しかも「自殺ともいう」と書かれたものがあるが、ほとんど信用できない。ほかに元中8年(明徳2、1391)8月22日に赤坂城で62歳で討ち死に、とするものもあるというが、これもまた同様で、後年の正成人気のなかで正成の息子にはこういう最期であってほしい、という大衆の願望のようなものが背景にあると見られる。
 正儀の息子たちについても正勝正元正秀などとされ、各所で戦闘をしたとか義満を暗殺しようとしたといった話があるが、いずれも後年の通俗史書に出てくる話ばかりで信用できる史料には全く出てこない。楠木一族がその後も長く南朝復興の運動をしたのは事実で、寛正元年(1460)に「南朝将軍の孫・楠木某」が謀反を企んだかどで六条河原で処刑されたという記録(「碧山日録」)が最後のものとなる。「南朝将軍」が誰を指すのかはっきりしないが、世代的には正儀の孫なのではなかろうか。

―その後の評価など―

 室町時代に楠木一族は逆賊として追討の対象となり、歴史の闇の中へと消えていった。戦国末期に楠木正虎なる人物が現れて正成の子孫と称して朝廷から赦免を得て楠木氏の名誉回復を果たす。軍記『太平記』が広く読まれて戦国末から江戸初期にかけてブームとなると、楠木一族はスターに祭り上げられ、『太平記』の続編となる『後太平記』(「太平記」の直後から天正年間まで)などというものまで刊行されるが、すでに正儀が南北両朝を行き来したことは一般では忘れ去られていたらしく、その中では全く触れられず正儀はあくまで南朝のために父親同様の活躍を見せている。

 楠木正成を高く称揚した徳川光圀ら『大日本史』の編纂者たちは、資料収集の段階では正儀が北朝側に寝返った事実にかなり疑いを持っていたという。朱子学的な名分論から南朝を正統とし、それに忠義を尽くした正成・正行を忠臣として絶賛する立場からすると正儀の存在は非常に困るものであったのだ。しかし室町幕府の正式記録『花営三代記』のほか書状類でその事実はくつがえしようがなく、『大日本史』では正儀を正成らとは別の列伝、宇都宮公綱北条時行、細川清氏といった両朝にまたいで仕えた人物をまとめた部分に収録した。
 『太平記』の一部で正儀を父や兄に似ぬ「心延びたる者(のんびりした性格)」などと酷評されていることもあり、正儀の評価は江戸時代が進むにつれ高まっていった南朝称揚の流れの中で「楠木家の忠烈をけがした者」として批判されるようになる。あるいは楠木家称揚のために不都合な存在として無視されがちであった。近代に入ってから楠木一族はそろって贈位がなされ神社に祭られるなど大変な扱いを受けたが、正儀は一切無視された。中でも昭和前期においては大楠公・小楠公の「滅私奉公」絶賛の陰で、正儀が二度の寝返りをした事実自体が封印されてしまうことになる(近親の中に異分子がいること自体が不都合なのだ)。この時期に直木賞を受賞した鷲尾雨工の小説『吉野朝太平記』は正儀を主人公にした意欲作であるが、後年の寝返りの事実自体には直接は触れず、全ては南朝のために自らを犠牲にしたものという解釈がとられていた。
 戦後になると教条的な解釈からは自由にはなったものの、南北朝時代じたいが一般になじみの薄いものとなったこともあり、正成・正行はまだ有名でも正儀についてはやはりどうしても人気はなく、世間ではほとんど知られていないのが実態である。

 だが『太平記』もよく読めば正儀を戦術家・戦略家として評価しているくだりもあるし、情け深い人物とする記述もしっかりある。また正儀が情け深い人物であったという評判じたいはあったらしく、後世作られた『吉野拾遺』という書物(南朝のこぼれ話を集めたものだが南朝人気が高まって以降の編纂物で史料的価値はほとんど認められていない)にはこんな説話が載る。
 正儀が摂津住吉で赤松光範と戦った際、光範の部下の宇野六郎という者が戦死した。六郎の幼い遺児・熊王は仇討ちをしようと考え、光範に「正儀は父の仇、なんとしても討ちたい。河内へ行って正儀に仕えていれば幼い私ならきっと心を許すでしょう。数年のうちには仇を討てるはずです」と申し出て、光範から刀を授けられた。そして河内赤坂に向かい、「父も戦死し、一族のために所領を奪われ、光範にもとりあってもらえず、もう坊主にでもなって父を弔うしかない」と人に語り、それを伝え聞いて哀れに思った正儀は熊王を召しだして自分に仕えさせた。
 熊王はそのまま数年正儀に仕え、十五、六歳になったころに父の七回忌となったのでいよいよ正儀を殺そうと決意した。ところが正儀がまさにその日に「今日は吉日だから元服せよ」と言い出し、熊王を元服させて一族扱いで「和田正寛」と名乗らせ、南朝の帝から賜った鎧を熊王に与えた。熊王は感激したが、今こそ正儀を討たねばならぬ、と身構えて正儀の顔を見やったとたん、長年かけられた情けや今日の元服のことなどが頭をかけめぐってどうしても手が出せず、庭に飛び出して号泣した。正儀たちが驚いてわけを問うと、熊王は全てを打ち明け「もはや私は死ぬほかない」と自害しようとしたが正儀たちから止められ、やむなくその刀でもとどりを切り、僧侶となった…という一話である。
 そのまま史実とはとても思えないが、正儀が情け深い人物であったという記憶がこんな物語を作ったのかもしれない。正儀の和平を求めながら迷い続けた生涯を見るにつけ、いかにもそういう武将だったのではないかと思わせるところがあるのだ。

参考文献
佐藤進一「南北朝の動乱」(中公文庫)
佐藤和彦ほか編「楠木正成のすべて」(新人物往来社)
林屋辰三郎「内乱の中の貴族・南北朝と『園太暦』の世界」(角川選書)
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
森茂暁「南朝全史・大覚寺統から後南朝へ」(講談社選書メチエ)
大谷晃一「楠木正儀」(河出書房新社)
小池明「『君臣和睦』を貫いた楠木正儀の生涯」(歴史春秋社)ほか
大河ドラマ「太平記」楠木正成の息子は正行一人に絞られたため、全く登場しなかった。ただ放送前に出版された「大河ドラマストーリー」の久子の項目では、正成・正行を戦死させた久子の平和を祈る思いが正儀に受け継がれた、という記述があり、あるいは登場させる構想があったかもしれない。
その他の映像・舞台戦前の映画にいくつか登場例がある。1933年の『楠正成(楠公父子)』で中村寿郎、1939年の『菊水太平記』で高田浩吉、1943年の『悲願千早城(菊水とはに・改題)』で沢井昭が演じている。ただいずれも正成映画の中で子どもたちの一人という形で子役が演じたものだと思われる。
1983年のテレビアニメ『まんが日本史』の第26回「南北朝の統一」では宮内幸平が声を演じ、長慶天皇との激論の末に領民たちのためにも、と義満のもとへ投降してくる場面が描かれた。なお同回で後亀山天皇も宮内幸平が演じている。
歴史小説では第二回直木賞受賞作となった鷲尾雨工の『吉野朝太平記』は戦前において正儀を主役とした意欲作。ただし物語は正行の戦死あたりから観応の擾乱までに絞られており、正儀は若いながらも手段を選ばぬ謀略家として描かれ、愛人を送りこんで色仕掛けで高師直と足利直義の対立を引き起こさせる。将来的に北朝側へ寝返ることが示唆されるが、それもあくまで南朝のために自らを犠牲にして、というスタンスである。「吉野拾遺」に取材したストーリーも多い。
戦後の作品では正成・正行が登場する小説にその弟ということで脇役で出てくるものが大半。「歴史読本」昭和57年5月号「特集・楠木一族と南北朝」に掲載された小林久三の短編「裏切りの葬列―楠木正儀」は二度の寝返りののち山名軍に大敗して苦悩する正儀が見る幻影を描いた作品。大谷晃一「孤景の人―楠木正儀」(1990)は小説のスタイルをとりつつ内容的には史伝に近い。やはり史伝作品としては海音寺潮五郎の「武将列伝」のなかで正儀がとりあげられており、上述の「吉野拾遺」の逸話もとりあげて読みやすくまとまっている。杉本苑子「華の碑文」は世阿弥を主人公とした小説で観阿弥の母が楠木正成の妹という説を採用しており、正儀とその息子たちが登場している。
漫画作品ではさすがに正成・正行に比べると登場例は圧倒的に少ない。広岡ゆうえい画の「学研まんが人物日本史・足利義満」(1985)や荘司としお画「集英社版学習漫画日本の歴史・足利義満」にはわずかではあるが正儀が登場するカットがある。甲斐謙二・画「マンガ太平記」(1990)は「太平記」の結末まで漫画化しているため登場しているし、田中正雄・画「まんが太平記-乱世に生きた足利尊氏」(1991)も南北朝統一まで描かれるので終盤ちょこっと登場している。
一般作品では河村恵利「時代ロマンシリーズ」第3巻収録の一編「笛の音色」(正行と弁内侍の恋がテーマ)の中で登場し、正行から出陣を外され後を託される。
PCエンジンCD版ゲーム終盤になると元服して登場する。楠木氏が滅んでいれば畿内で浪人になっているので召し抱えることも可能。初登場時のデータは統率55・戦闘79・忠誠97・婆沙羅77。婆沙羅が高いのはやはり二度の寝返りがあるからか。道誉との逸話を考えれば婆沙羅なところは確かに高かったろう。

楠木正秀くすのき・まさひで生没年不詳
親族父:楠木正儀? 兄弟:楠木正勝・楠木正元?
生 涯
―いたかいないかすら不明―

 楠木正儀の子として名前が出される人物だが、確実性の高い史料にはまったく見えない人物。その兄弟に正勝正元がいたとされるが、これも確たる話ではなく、当時「楠木」の名で活動しているどれかが正秀のことかもしれない、という程度のことしか書けない。正儀の子ではなく正勝の子であるとか、正勝と事績が混同されているといった話もあるが、そもそも正儀にどういう子供がいたのかすら分からないのが実態である。
 ずっと後年の嘉吉3年(1443)9月に「悪党」らが徒党を組んで内裏を襲撃し、三種の神器のうち神璽を奪っていくという事件、いわゆる「禁闕の変」が発生するが、これに楠木正秀が関わって3年後の文安3年(1446)に死んだとする情報がネット上で多くみられ、何らかの出典があるらしいが史料には楠木次郎とあるだけで諱は不明である。
その他の映像・舞台1943年の映画「悲願千早城」に高瀬守に演じられて登場したというが、この映画は正成の妻が正成亡きあと息子たちを育て上げる内容だったというから「正秀」が正成の息子として登場してしまったものらしい。
また中世日本のような仮想世界を舞台にしたアダルトゲーム「装甲悪鬼村正」に登場するアイテム「劔冑」のうち「銀星号」のかつての使用者が楠木正秀ということになってるらしい。
歴史小説では杉本苑子「華の碑文」の中で世阿弥の親戚として楠木正儀の息子たち三人が遊びに来る場面があり、そこで登場している。

楠木正元くすのき・まさもと生没年不詳
親族父:楠木正儀? 兄弟:楠木正勝・楠木正秀?
生 涯
―足利義満暗殺未遂?―

 楠木正儀の子として名前が出される人物だが、確実性の高い史料にはまったく見えない人物。その兄弟に正勝正秀がいたとされるが、これも確たる話ではない。正元という人物が実在したかどうかすら怪しいところである。
 正元について伝えられるところでは、元中7年(康応2、1390)2月に兄の正勝と共に河内守護の畠山基国と戦い、敗れて千早城にたてこもり、さらに元中9年(明徳3、1392)2月にまた基国と戦った。5月に紀伊粉河寺を参詣した足利義満を襲撃しようとしたが失敗、正元はさらに義満の命を狙って京に潜伏したが5月18日に赤松顕範(則)の手の者に捕えられ、惜しんだ義満から投降を勧められたが拒否し、19日に千本松原で処刑された、ということになっている(翌明徳4年のこととするものもある)。しかし室町幕府の公式記録や公家の日記類には全く出てこない話で、楠木一族を活躍させたいという願望を反映した後世の俗書の創作の可能性が高い(後年、足利義教を暗殺しようとして処刑された楠木光正の実例があるのでそれをもとにしたかもしれない)
歴史小説では杉本苑子「華の碑文」は世阿弥を主人公とした小説だが、世阿弥と楠木一族が親戚であったとする説を採っており、正儀の息子たち三人が登場して正元が義満暗殺に失敗して処刑されるストーリーもとりこまれている。

楠木光正くすのき・みつまさ?-1429(永享元)
親族不明
官職左衛門尉
生 涯
―足利義教暗殺未遂―

 楠木一族の誰かであることは間違いなく、世代的には楠木正儀の孫あたりではないかと推測される。「五郎左衛門尉」と名乗り、出家して法名を「常泉」と号したという。彼については貞成親王の日記『看聞日記』に記されている。
 永享元年(1429)9月、将軍足利義教が奈良の春日大社を参詣したとき、光正は僧に身なりを変え(「常泉」の号もそのときつけたものだろう)、奈良に潜伏して義教の命を狙った。義教は22日に奈良に入る予定だったが計画は露見し、18日に興福寺衆徒の筒井順永の手に寄り光正は捕縛された。京に連行された光正は9月24日に六条河原で処刑されたが、奈良に滞在中の義教はしきりに処刑をせかしたという。この前年にも北畠満雅と呼応した楠木党の挙兵があったともいうので、義教も神経質になっていたのかもしれない。

 処刑の前日に光正は筆と硯を取り寄せて辞世の頌と和歌を書いた。「幸いなるかな、小人の虚詐により大謀の高誉を成す。珍重々々(つまらぬ奴の嘘のおかげで大犯罪者の名誉を得られた、ありがたいことよ)」と初めに書いているので、もしかするとこのとき暗殺計画があったという話自体は興福寺あたりのでっちあげであったのかもしれない。光正は「不来不満摂真空 万物乾坤皆一同 即是甚深無二法 秋霜三尺斬西風」と歌い(生も死もなく宇宙万物すべて同じ、潔く一瞬死のうという処刑前の頌にはよくあるもの)「なが月や すゑ野の原の 草のうへに 身のよそならで きゆる露かな」「我のみか たが秋の世の すゑの露 もとのしづくの かゝるためしを」「夢のうちに 宮この秋の はてはみつ こゝろは西に ありあけの月」と三首の和歌を詠んでいる。貞成親王はこれらの詩歌を「頌歌など、天下の美談なり」と称えたが、いささかどれも定番でかっこつけすぎという気もしなくはない。「五郎左衛門尉光正」「常泉」の名はこれらの歌に署名されたものである。

 処刑の日、刑場には見物人が押しかけて充満する騒ぎで、幕府は6〜700もの兵士を配置して警備を固めた。光正の首を落とした斬り手は魚住某という人物であったという。光正の首は京の四塚にさらされた。
 こののちも楠木党の散発的な活動は続き、寛正元年(1460)に「南朝将軍の孫楠木某」が陰謀のかどで六条河原で処刑されたとの記録が最後になる。この人物が光正の何に当たるのかは想像をめぐらすほかはない。

工藤高景くどう・たかかげ生没年不詳
親族父:工藤貞祐?
官位左衛門尉あるいは右衛門尉
生 涯
―不吉な連歌を詠んだ千早城攻め軍奉行―

 北条得宗家に仕えた御内人の一人。史料上の初出は『御的日記』元亨元年(1321)に「工藤左衛門次郎高景」と記されているもので、「工藤左衛門」の子「次郎」の「高景」であること、「高」の字は当然得宗の北条高時の一字を授けられたものであることが分かる。『御的日記』には翌元亨2年(1322)にも名が見え、さらに翌年の元亨3年1323)の北条貞時三十三回忌の供養記には「工藤二郎左衛門」の名がみえ、恐らくこれが左衛門尉の官位を得た高景と思われる。嘉暦3年(1328)の『御的日記』には「工藤次郎左衛門高景」として一番筆頭の射手をつとめたことが記されている。

  元徳3年(元弘元、1331)に後醍醐天皇の討幕計画が再び発覚(元弘の変)、その首謀者として日野俊基が捕えられ、翌年に鎌倉で処刑されることとなるが、『太平記』によればこの処刑の執行責任者が「工藤二郎左衛門尉」すなわち高景であった。このとき俊基に仕える後藤助光が俊基との面会を高景に懇願すると、高景も涙を流して面会を許可したとされている。
 『太平記』では後醍醐の倒幕挙兵がひとまず鎮定されたのち正慶元年(元弘2、1332)正月に工藤高景と二階堂行珍の二人が幕府から京に派遣され、乱後の処理にあたったとしているが、他資料からこの二人がこの時に京に派遣された事実はないとみられている。『太平記』は鎌倉幕府が京に派遣した使者について誤りがおおいとされるが、混乱のもととなるような高景の京都派遣が他の時期に会ったのかもしれない。

 この正慶元年の秋から畿内では護良親王楠木正成らの藩幕府勢力の活動が活発化したため、幕府は9月に関東から大軍を派遣、工藤高景もその一員として出陣している(「太平記」)千早城の戦いについての一次史料である『楠木合戦注文』では幕府軍のうち大仏高直を大将とする大和道方面軍の「軍奉行」として「工藤二郎右衛門尉高景」の名があり、「左衛門」「右衛門」の違いはあるが「高景」と明記していることから同一人であると考えられる。
 『太平記』によれば、千早城を攻めあぐねた幕府軍は持久戦の構えをとり、暇を持て余した諸将は連歌師を呼んで連歌の会を催した。発句を長崎師宗「さきかけて かつ色みせよ 山桜」と詠むと、「工藤右衛門尉」が「嵐や花の かたきなるらん」と続け、これが花を味方に、嵐を敵に例えた縁起の悪い歌であったと論じられている。この場面に登場する工藤右衛門尉も高景のことと考えられ、あるいはこの間に右衛門尉に官位が変わったのだろうか。

 その後の高景についての格たる消息は不明である。千早城攻めに参加した幕府軍首脳は幕府滅亡後に後醍醐方に投降したものの、その大半がやがて処刑されており、高景も同様の運命であった可能性は高い。『蓮花寺過去帳』には六条河原で斬首された人々のなかに「公藤次郎、同次郎右衛門尉・五十二歳」の名があり、あるいはこれが高景であるかもしれない。ただ五十二歳という年齢は高景としては高齢すぎるようでもある。
 一方、建武元年(1334)に「高景」なる者が名越時如と共に奥州・大光寺城で反乱を起こしており、これが安達高景か工藤高景の可能性があると言われている。

参考文献
岡見正雄校注『太平記』(角川文庫)
梶川貴子「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」(創価大学大学院紀要2012年)ほか

窪田光貞くぼた・みつさだ生没年不詳
親族父:滝口惟光 子:彦部光朝
生 涯
―高一族の一員―

 足利家の執事をつとめた高一族(高階氏)の一員。源頼朝と同時代の高惟長の子・惟光が「滝口」を名字とし、その子の光貞が足利荘内の窪田郷(のち久保田町)に入って「窪田」の名字を称するようになったらしい。その子の光朝が陸奥国に入ってその地の「彦部」を称するようになったという。
 群馬県桐生市に残る彦部家の由緒書によると「彦部光貞」なる人物が湊川の戦いで戦死しているという。ただしこれがここで扱う窪田光貞と同一人物とは考えにくく(世代的に難しい)、「光貞」ではなく「光高」「秀貞」の誤りともみられるらしい。
大河ドラマ「太平記」第1回から第10回まで、主人公の高氏の京都行きを描く第3回を除いて連続登場している(演:高品剛)。登場するのは全て足利貞氏の家臣一同が集まっている場面で、あくまで「貞氏世代の重臣の一人」という扱いで没個性である。

黒田法円くろだ・ほうえん
 NHK大河ドラマ「太平記」の第1回のみに登場する架空人物(演:伊藤高)。ドラマでは「北条得宗被官の悪党」の例として登場、足利荘内で米蔵に火をつけようとしているところを捕縛される。足利貞氏は法円の背後に長崎円喜の陰謀ありとみて実害もなかったということで放免してしまう。「北条にいじめられ耐える足利」を象徴的に描くために登場させられたキャラクターだが、放映時の中世史研究者からは「悪党を単なる盗賊まがいに描いている」として不評もあった。

黒沼彦四郎くろぬま・ひこしろう?-1333(正慶2/元弘3)
生 涯
―義貞挙兵のきっかけを作ってしまった男―

 黒沼氏は北条得宗家被官(御内人)で、得宗領となっていた上野国渕名(淵名)荘の代官として現地に入っていた。渕名荘は新田荘のすぐ隣で、新田一族とも何かと縁があったらしい。新田荘世良田にある長楽寺の住職が文永九年に渕名荘政所の黒沼太郎に土地の所有を証明する手続きをさせた文書がある。時宗の第二の開祖と言われる他阿と関わりのあった武蔵の武士・黒沼太郎四郎入道も同族と推測されている。

 正慶2年(元弘3、1333)5月、幕府は折からの畿内各地での反乱を鎮圧する戦費を調達するため、新田荘に出雲介親連黒沼彦四郎入道の二人を派遣した。彼らは「五日のうちに六万貫を差し出せ」と強硬な要求をし、荘内で実力行使をしたため新田義貞が激怒、義貞は二人を捕えてこのうち黒沼彦四郎の首をはね、世良田の里の中にさらし首にしたという(「太平記」)。出雲介親連のほうは義貞の執事・船田義昌と同族(紀氏)であることと幕府高官でもあったため命は助けられたとされるが、黒沼のほうはもともと新田氏とは因縁があった可能性もある。黒沼を斬首したことで後戻りがきかなくなった義貞は倒幕の挙兵に踏み切ることになった。
 現在の世良田地区の東の端の小山の上に「二体地蔵」と呼ばれるものがあり、地元の伝承ではこれが黒沼と親連の首を埋めた場所だとされているという。ただし地蔵そのものは江戸時代のものであり、親連も実際に処刑されたかは怪しく、「太平記」に慣れ親しんだ人々による後世の付会の可能性が高い。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
大河ドラマ「太平記」第21回「京都攻略」で登場(演・市川勇)。新田荘に徴税にやってきて、仮病を使っていた義貞が姿を現すと「さては仮病であったか」と嘲笑い、義貞本人に一刀両断にされてしまう。
歴史小説では義貞に殺されて挙兵のきっかけを作ってしまうので登場例は多い。新田次郎『新田義貞』では徴税のみならず新田氏が武器密造をかぎつけて脅しをかけ、堀口貞満の美貌の娘に夜伽をしろと要求、その娘の婚約者・今井惟義に一刀で首をはねられてしまう。桜田晋也の小説『足利高氏(尊氏)』ではなぜか黒沼が捕縛され親連が斬られてしまうアベコベ状態になっている。
漫画作品では横山まさみち「コミック太平記」の新田義貞編では北条高時の寵臣として義貞の青春時代から登場、鎌倉の浜で安東重保の娘・阿弥をかどわかそうとしているところを義貞に邪魔される(阿弥はそれが縁で義貞の妻となる)。この因縁の末に新田荘に徴税に行って義貞に斬られることになるのだが、義貞本人に腕を斬られてから首をはねられるという凄惨な描写になっている。好色の設定は新田次郎の小説をヒントにしたのかもしれない。
沢田ひろふみ「山賊王」でも「徴税吏の使い」として登場、少年漫画的に義貞をさんざんいたぶったのち、義貞本人に切り殺される(意図したかどうかは不明だが大河ドラマの描写に似ている)


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