楠木正行 | くすのき・まさつら | ?-1348(貞和4/正平3)
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親族 | 父:楠木正成 兄弟:楠木正時・楠木正儀 |
官職 | 左衛門少尉・帯刀・摂津守・河内守 |
位階 | 贈従三位(明治9)→贈従二位(明治30) |
生 涯 |
楠木正成の長男。父の遺訓を守って南朝の主力として戦い、父を彷彿とさせる善戦をした末に父同様の戦死を遂げたため、後世「大楠公」の父に対して「小楠公」と呼ばれる。
―桜井の別れ―
正成をはじめとする楠木一族の多くがそうであるように、正行の生涯にも謎が多い。まず正行の生年が不明である。
『太平記』は桜井の宿で父・正成と別れた時に十一歳であったと記す(流布本では「十三」となっているが、古態本では「十一」)。ここから逆算すると嘉元元年(1326)の生まれとなるのだが、同じ『太平記』に正行が成人して再登場すると正平2年(1347)の段階で「二十五歳」と記していて、こちらだと元亨3年(1323)生まれになり矛盾が生じている。また延元5年(暦応3、1340)に正行が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆があり、『太平記』の桜井の別れの記述どおりならまだ15歳の少年が父と同じ官職を受けていたことになり、楠木氏の地位から見ても無理がある(なおかつかなり老成した筆跡とされる)として「父の戦死時にすでに成人していたのではないか」という意見も根強い。それはつまり『太平記』の「桜井の別れ」の涙の名場面は完全なフィクションであるとみなすことになるのだが…。
『太平記』の語るところに従えば、延元元年(建武3、1336)5月、九州から大挙進撃してくる足利尊氏軍を食い止めるべく正成は湊川への出陣を命じられた。正成は敗戦必至とみて足利軍を京へ入れる作戦案を提示するがしりぞけられ、死を覚悟して出陣する。その途中の桜井の宿で正成は正行を呼び寄せて、「今度の戦いは天下分け目の戦いであり、この世でお前の顔を見るのもこれが最後だろう。わしが死んだと聞いたら天下は尊氏のものになったと思え。だが命を助かりたいがために降参などしてはならぬ。一族郎党が最後の一人までいる限りは金剛山のあたりに立てこもり、敵が攻めてきたら命をかけて戦え。これがお前の第一の孝行である」と諭して河内へと帰らせた。
はたして正成は湊川で戦死し、その首は六条河原にさらされた。尊氏は正成との公私にわたる旧交を思い、「妻子ももう一度その顔を見たかろう」と正成の首を河内の遺族の元へと届けさせた。覚悟していたことではあったが首を見た正行はショックを受けて持仏堂に駆け込んで自害をはかる。母親が気づいて正行から刀を奪い、「父上のご遺言を忘れたのか」と諭して二人で涙にくれた。
その後、正行は父の遺言と母の教訓を肝に銘じ、子供たちと合戦ごっこをしてその頭をつかんで「朝敵の首をとった」と言い、竹馬に乗っては「将軍(尊氏)を追いかけるぞ」と言うなど、遊びの中でもいずれ尊氏と戦うことばかりを考えて成長していった、という。ただ『太平記』の作者はそのような幼い正行の言動を「恐ろしいことだ」と批判的に表現もしている(その前の部分で首を届けた尊氏を賞賛しているので「逆恨み」に見えなくもない)。
―鮮烈なデビュー―
その後の正行の消息を知る手掛かりは先述の延元5年(暦応3、1340)4月8日に正行が建水分神社に奉納した扁額で、そこに正行自身の筆で「左衛門少尉橘正行」の署名があり、3年前の延元2年(建武4、1337)にも官位を受けた折に奉納をしていることが判明する。
湊川の戦いの年の末に後醍醐天皇が京を脱出して吉野に入っているが、その実行にも楠木氏の関係者が関与していることから、正行を惣領とする楠木氏が南朝をその発足から支えていたことは疑いない。ただ正行自身の軍事活動はおよそ10年間まったく見られないので、やはり彼自身の年齢が若すぎたか、あるいは湊川の敗戦で楠木一族の主力が多く失われて再生を図るまでに時間がかかったかと見られる。『太平記』では延元4年(暦応2、1339)8月に後醍醐が死去した直後に和田正武らと共に「楠帯刀」つまり正行が吉野に駆けつけて警護にあたったとする記述があるが、この時点で「帯刀」であったとは上記の扁額の署名から否定できる。
正平2年(貞和3、1347)8月、楠木軍は突然活動を開始する。そのきっかけは不明だが、このとき足利幕府内では足利直義と高師直両派の対立が激化しており、関東から戻って南朝の主導権を握っていた北畠親房が足利幕府の内紛に乗じて積極攻勢に出る決断をしたものと思われる。『太平記』は「正成の十三回忌にあたるため」としているが年数は明らかに合っていない(ここで正行の年が「25歳」となるのもそのつじつま合わせと見られる)。
元弘の乱の折の父・正成同様に金剛山で挙兵した正行は、8月10日に紀伊・隅田城を攻撃。その後転じて河内の池尻、八尾へと進撃した。この動きに慌てた幕府は河内守護の細川顕氏を派遣してこれを鎮圧しようとした。9月17日に正行は河内・藤井寺で顕氏軍に夜襲をかけ、顕氏を敗走させた。この敗戦が京に伝わるとかなりの恐慌を引き起こしたらしく、洞院公賢は日記『園太暦』で京でこの戦いの噂が人々の口にのぼり、光厳上皇が北野社に祈祷までさせたことを記している。事態を重く見た幕府はさらに勇将・山名時氏を河内へと派遣する。
山名時氏は住吉に、細川顕氏は天王寺に布陣して楠木軍と対峙した。正行は11月26日に分散していた山名軍に対して自軍を一隊に集中させて時氏の本陣へ突入した。この戦いでは和田源秀(正季の子とも言われる)の奮戦もあって山名軍は崩壊、山名時氏は弟の兼義を戦死させた上に自らも重傷を負ってかろうじて淀川の渡辺橋を渡って脱出した。天王寺・堺でもいくつかの戦いがあり、細川顕氏も撤退を余儀なくされている。
渡辺橋での戦闘で山名軍の兵士たち数百人が川に落ちたが、正行は彼らを救出して着替えをさせた上に薬を与え傷の治療もさせ、さらには馬や武具まで与えて送り返してやったという。正行の恩情に感激した兵士たちの中にはその後正行側について戦い、四条畷で共に戦死した者も多かったという。このエピソードは『太平記』のみが伝えるものだが、同様の逸話が弟・正儀にもあるし、父・正成にも敵味方の区別なく戦死者を供養した形跡があり、楠木家がもつ温和な体質であったのかもしれない。
―かえらじとかねて思えば―
山名・細川軍の惨敗に幕府は驚愕した。楠木軍を討伐する大軍が招集される一方、顕氏は河内守護職を剥奪された。細川顕氏と山名時氏はいずれも当時は幕府内で直義派に属しており、彼らの敗戦は直義派の大きな失点であると同時に師直派にとっては勢力拡大のチャンスだった。12月に入って河内へ出陣したのは高師直・高師泰兄弟だったのである。
師直が八幡に出陣した翌日の12月27日、正行は弟の正時らと共に吉野におもむいて後村上天皇に謁見した。『太平記』によれば正行は父・正成の戦死以来の自らの成長を語り、「このたび手を尽くして合戦をしなければ父の遺言にそむき、武士として人のそしりを受けることになりましょう。もし病におかされて早死にするようなことになっては帝に対しては不忠、父に対しては不孝となります。今度の戦では師直・師泰と命をかけて戦い、私が師直らの首をとるか、私と正時の首を彼らにとられるか、そのいずれかの覚悟でありますので、この世でもう一度帝のお顔を拝すべく参内いたしました」と涙ながらに述べたという。この言葉の中に「病で早死に」という部分があることから後世の創作ではこのとき正行が不治の病を得ていたとするものが多く、実際にそうだったのかもしれない。この正行の明らかに死を覚悟したとしか思えぬ奏上に後村上は「命を全うせよ」と声をかけたという。
正行らは後醍醐天皇の陵墓に参拝したのち、如意輪堂の壁板に正行以下兵士432名の名を過去帳の形で書き連ね、各自の髪の毛を仏堂に投げ入れた。このとき正行は「返らじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる(矢を放ったら帰ってくることのない梓弓のように私はもう生きて帰ることなく戦死者の名簿に名を残す覚悟をしている)」と詠んだとされる。
以上の話は『太平記』のみが記すことなので傍証がない。またあまりにも戦死を前提にした悲劇性の強い出陣描写は物語的虚構性が強いとみられている。確かにこの時点で高師直の大軍に直接立ち向かうのはほとんど無謀といってよく、正行らが出陣にあたって悲壮な覚悟をしたこと自体は事実かもしれない。ただそれまで二度の戦いで巧みな遊撃戦により勝利を収めた楠木軍がこのとき急に「特攻作戦」をとったことを不自然とみる意見は昔からある。それこそ「桜井の別れ」の正成の遺言のように金剛山の千早・赤坂城の籠城戦の再現を考えていたのではとの推測もある。同時期に京市内で不審な放火が多発している事実もあり、ゲリラ戦による混乱を狙っていた可能性も高い。
江戸時代に編纂された『続本朝通鑑』では正行が「恨みを朝廷に含んで計略をめぐらすことなく大軍に突入して死んだ」という表現を使っている。あくまで後世の記述だがこのときの正行の行動が南朝朝廷に対する「抗議の死」なのではないかと見る研究者は少なくない。正行は期待される軍事力ではあったがあくまで一武将にすぎず、このときの南朝の総司令官は強硬派の北畠親房である。親房は正成について『神皇正統記』で「正成とかいう武士」といった表現を使う上にそもそも湊川合戦にも一言も触れておらず、正成に無理な出陣を強いた張本人ではなかったかと言われる人物である。その親房がこのとき南朝の攻勢の司令官であったために正行は望まぬ形で父と同じパターンに陥ってしまったのではないか、との推理がある(古くは高柳光寿、最近では岡野友彦が同様の説を唱えている)。
―四条畷の激闘―
年が明けて正平3年(貞和4、1348)。楠木正行・四条隆資を主力とする南朝軍と、高師直・師泰兄弟、佐々木道誉、細川清氏、仁木頼章、宇都宮公綱ら足利一門や外様まで含めたそうそうたる顔ぶれの北朝軍は、1月5日に河内北方、四条畷で激突した。
『太平記』によれば南朝軍は四条隆資が陽動作戦をとって師直軍の一部をひきつけ、その隙に楠木軍が師直の本陣を直撃して師直を討ち取るといういちかばちかの作戦をとったとされる。兵数では圧倒的な差がある状況ではこれしか取りうる方法はなかっただろう。あくまで『太平記』のみが伝えることだが実際に楠木軍は師直の本陣に迫り、師直本陣が一時混乱状態になって、師直本人も危うく討ち取られかけたという。しかし師直に恩義のあった上山六郎左衛門(高元?)が師直を名乗って身代わりで討ち取られた。
正行は上山の首を師直の首と確信して狂喜し、首をお手玉のように投げ飛ばしてはしゃいだが、弟の正時が師直の首ではないことに気がついた。正行は怒って上山の首を投げ捨てたが、「お前は日本一の勇者だ。我が帝にとっては許しがたい朝敵であるがあまりにも見事な最期、他の首とは一緒くたに扱うまい」と言って、小袖の片袖を引きちぎって首を包んでやったという。
正行らはその後も激しく師直に迫ったが、ついに師直と直接切り結ぶには至らなかった。戦闘は午前十時から午後五時ごろまで続いたとされるが、ついに正行・正時兄弟は矢を雨のように浴びて瀕死の重傷を負い、「もはやこれまで。敵の手にかかるな」と兄弟で刺し違えて果てた。和田源秀・和田高家ら一族の多くも戦死し、楠木軍は正成の湊川の戦いをそのままコピーしたかのような激闘の末の玉砕をすることになってしまった。そのためこの戦闘の過程が『太平記』作者の文学的脚色を多く含むもので実際にはあっさり勝負がついたのではないかとの見方もあるが、洞院公賢も日記に「合戦すこぶる火の出づるほどのことなり」と記しており、激戦であったことは事実のようだ。公賢は「楠木帯刀正連(←公賢はこう表記する)ならびに舎弟、和田新発(=賢秀)らが自殺した。さらし首や捕虜もいくらか京都に持ってこられた。天下は万歳を叫んだ」とも記しており、京都の幕府や北朝側では正行の存在をひどく恐れ、またその壊滅を大いに喜んでいたことを伝えている。
この四条畷の戦いの結果、南朝軍は攻勢どころか壊滅的な打撃を受け、高師直は直接吉野を攻撃、炎上させ、後村上ら南朝首脳は賀名生へと逃走することになる。
―その後の評価など―
正行・正時の死後は一人残された弟の正儀が楠木家を継ぎ、のちのちまで南朝の主力として戦い続ける。しかし正儀は常に南北両朝の和平推進のために活動し、一時は北朝に鞍替えさえした。正儀には親房ら南朝内の強硬派によって「兄たちを殺された」という意識があったためではないかとも言われている。
一方の北朝側・足利方にとって正行の死が大きな喜びであったことは上記のとおりだが、正行を武将として尊敬していた者もいた。ほかならぬ尊氏の子で第二代将軍・足利義詮その人である。義詮と正行の間に接点があった様子はないのだが(義詮は正行の生前はずっと鎌倉にいた)、義詮は自身の死に当たって「敬愛していた正行の隣に葬ってくれ」と遺言しており、実際に京の観林寺(現・宝筐院)の正行の首塚の隣に葬られている。義詮がなぜ正行を敬愛したのかは全く不明だが、父親同士親交があったとの話もあり、「二世同士」で何か共感があったのかもしれない。
時は流れて、室町後期〜戦国〜江戸初期にかけて、『太平記』は広く人々に親しまれ、そのヒーローである正成・正行父子の人気はグングン高まっていった。江戸時代になり時代が下るにつれて正成を「大楠公」として神格化する流れの中で正行も「小楠公」として「忠臣」「孝子」ともてはやされることになる。
明治に入るとさっそく従三位の贈位がなされ、明治23年(1890)には戦死の地に正行らを神として祭る四条畷神社が創建される。明治30年(1897)にはさらに従二位を贈位された。戦前においては「桜井の別れ」「母の教訓」「如意輪堂の過去帳」などなど『太平記』が語る正行の逸話は誰もが知る名場面であり、とくに戦中期には正行の生涯は「軍国教育の鑑」そのものであった。
参考文献
佐藤和彦ほか編「楠木正成のすべて」(新人物往来社)
高柳光寿「足利尊氏」(春秋社)
林屋辰三郎「内乱の中の貴族・南北朝と『園太暦』の世界」(角川選書)
岡野友彦「北畠親房」(ミネルヴァ日本評伝選)
歴史群像シリーズ「戦乱南北朝」(学習研究社)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 倒幕戦の時期の少年時代「多聞丸」を北代隼人、建武新政期に元服して「正行」となってから加藤盛大が演じた。このドラマでは正成の子は正行しか登場せず、正行の年齢も古典に従った「十一歳説」を採っている。尊氏と護良親王が一触即発となった時に偶然尊氏と語り合う場面もあった。フィクション説もある「桜井の別れ」はロケ撮影され、アレンジを加えつつも涙の名場面となった。正成の首との対面では古典と異なり気丈にふるまって尊氏への礼を述べていた。
第43回で成人して再登場、ここでは中村繁之が演じた。後村上に拝謁後、親房にほとんど無理やり出撃させられるような描写になっていて、矢を浴び髪を振り乱して敵陣に突入していくストップモーションカットでその戦死が描かれた。 |
その他の映像・舞台 | 戦前においては「大楠公もの映画」に登場するのはもちろんのこと、家族向け要素がありまた正成より扱いやすいこともあってかなりの数の「小楠公映画」が製作されている。「小楠公」(1910)では尾上松之助、「忠孝の亀鑑・小楠公」(1919)では嵐璃珀(?)、 「小楠公」(1921)で嵐璃徳、「大楠公夫人」でマキノ正唯、「大楠公」(1926)で高尾光子、「楠正成」(1933)では沢村昌之弼、「小楠公とその母」(1936)では嵐菊磨、「菊水太平記」(1939)で坂東好太郎、「小楠公」(1940)で天津竜太郎、「大楠公」(1940)で片山明彦、「楠公二代誠忠録」(1958)では少年期を新倉一夫、青年期を和田圭之助が演じている。変わったところでは「続水戸黄門」(1928)の磯川金之助の例がある。
テレビドラマ「大楠公」(1959)では高島新太郎が演じている。
歌舞伎では昭和39年(1964)の「私本太平記」で市川新之助(=12代目市川団十郎)が正行役、実父の市川団十郎(11代目)が正成役だった。「私本太平記 尊氏と正成」(1991)では同年の大河ドラマで足利義詮を演じていた片岡孝太郎が正行を演じるという不思議な縁がある(さらに孝太郎の実父は大河で後醍醐役の片岡孝夫である)。 |
歴史小説では | 楠木正成を描いた作品であれば当然皆勤である。ただ正行のみを主役とする長編小説は田中英資「楠正行」(1980)ぐらいしか見当たらない。短編小説では「歴史読本」の楠木一族特集で掲載された岡本好古「朱の菊花」(1982)がある。
楠木正儀を主人公とする鷲尾雨工「吉野朝太平記」(1935)では序盤で登場し、『吉野拾遺』を元ネタにした「弁内侍」との恋物語が描かれ、また結核をわずらっていたとする設定がここでも採用されている。 |
漫画作品では | 『太平記』の漫画版で「桜井の別れ」はじめ名場面が確実に描かれるのでほぼ間違いなく登場している。一方で「日本の歴史」漫画では登場例は少ないが、日本史学習漫画の草分けで復古調な内容が多かった昭和40年代の集英社版では「桜井の別れ」が描かれていた。また石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」で四条畷の合戦がそこそこ詳しく描かれている。
一般コミックでは河村恵利「時代ロマンシリーズ」第3巻収録の一編「笛の音色」が正行と弁内侍の悲恋をテーマにしている。岡村賢二「私本太平記」で少年期が描かれる。内野正宏『ナギ戦記』ではラストで生まれている子供が正行らしい。天王洲一八原作・宝城ゆうき作画「大楠公」では桜井の別れの場面が冒頭と終盤で繰り返され、正成が正行に後を託す気持ちが繰り返し強調される。エピローグ部分では正行の最期も簡単惟描かれている。 |
PCエンジンCD版 | 1337年に元服して父・正成のいる国に登場する。初登場時のデータは統率63・戦闘92・忠誠92・婆沙羅28でタイプ的にはやはり父に似る(大軍は率いられないが戦闘力が高い)。正成が死亡すると楠木勢力の君主の地位を継ぐ。 |
PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の動乱」で河内・千早城に南朝方武将として登場する。能力は「弓6」で父親を小ぶりにしたような強力さ。 |
SSボードゲーム版 | 楠木正成のユニット裏で登場(つまり父が死なないと登場しない)、公家方の「大将」クラスで勢力地域は「南畿」。合戦能力3・采配能力3でまさに「小楠公」な能力。 |