世阿弥 | ぜあみ | 1363(貞治2/正平18)?-1443(嘉吉3)? |
親族 | 父:観阿弥 兄弟:四郎大夫
妻:寿椿禅尼
子:観世元雅・観世元能・金春禅竹の妻 |
生 涯 |
能楽観世流の始祖・観阿弥の子で、幼い時から人気役者として活躍して足利義満など有力者の保護を受け、父を継いで「能楽」を上流階級も鑑賞する高等芸術の域に大成させた。能に関する考察を深めた芸能論の著作も残し、後世に絶大な影響を与えている。
―美少年「藤若」―
世阿弥が生まれたのは貞治2年(正平18、1363)とされるが、一年遅らせる説もある。彼が生まれたころ、父の観阿弥は奈良から京都に進出して積極的に売り込みを図っていた。観阿弥はバサラ大名として名高い佐々木道誉の庇護を受けており、世阿弥自身の『申楽談義』での回想によれば、幼少期の世阿弥が道誉からさまざまな芸術評、芸能論を聞かされて育ったことがうかがい知れる。父の教育もさることながら、当代随一の文化人でもあった道誉じきじきの薫陶を受けたことが、その後の世阿弥の芸術傾向の基礎となったと思われる。
世阿弥は十歳前後から父と共に舞台に立っていたらしい。早くからその美貌は評判となっていたようで、応安7年(文中3、1374)もしくはその翌年の観世座の新熊野での興行を新将軍・足利義満がじきじきに見物、観阿弥の芸もさることながら、このとき12歳になっていた美少年・世阿弥(当時はまだこの名ではないが)を大いに気に入り、以後観阿弥父子に絶大な保護を与え、少年世阿弥を自らに近侍させるようになった。
永和2年(天授1375)ごろと推測される「卯月(四月)十七日」付けの二条良基から尊勝院に宛てた書状は、少年時代の世阿弥を語る上で必ず引き合いに出される内容である。内容を一部要約して現代語訳すれば以下のようになる。
「藤若に時間があったら、ぜひもう一度お連れ願いたい。あれ以来一日中上の空のありさま。能はもちろん蹴鞠や連歌にもすぐれたただ者ではない子ですが、なんといってもその顔かたちと立ち居振る舞いの風情には見とれてしまうほどで、あのような童が本当にいようとは。まるで源氏物語の紫の上か、唐の楊貴妃かと思うほど。将軍さまがお気に入りなのも当然です。…この書状は読んだら火に投じて下さい」
本文のあとに解説が添えられていて、「藤若とは大和猿楽の観世大夫(観阿弥)の子、鬼夜叉である。尊勝院が二条殿へ連れて行った折に『藤若』と名を改めた」と書かれている。この内容をそのまま信じるなら、世阿弥ははじめ「鬼夜叉」といったが二条良基のもとを訪ねた際に「藤若」と改名させられたこと、なおかつ二条良基が心もそぞろになってしまうほどの美貌と才能を発揮していたことが知られる興味深い史料となる。
この書状については後世の偽作説も提唱されるなど、いくつか疑問点がないわけではないが、世阿弥が上流階級のもとに出入りし始めた頃に「藤若」と改名したとの話は崇光天皇の日記にもみえており、書状の内容のようなもてはやされ方をしたのは事実とみてよい。良基がこんな文章をわざわざ書いたのは、義満の寵愛する美童をほめちぎることで義満本人の御機嫌をとるためではなかったか、との意見もある(世阿弥のことではないが、後年やはり義満の寵童の美貌を公家がほめちぎった例がある)。
公家の三条公忠も日記『後愚昧記』永和4年(天授4、1378)6月7日の条で、少年時代の世阿弥の寵愛されぶりを記録している。この日、祇園祭の鉾の巡業が行われて義満が桟敷を作らせてこれを見物していたが、その桟敷に「大和猿楽児童、観世の猿楽と称する法師の子」すなわち世阿弥少年が同席していた。義満はこの少年を寵愛し同席させただけでなく自らの盃も使わせていた、というのである。
ただし公忠自身は猿楽のことを「乞食の所行」とさげすんでおり、そんな「乞食」が将軍に寵愛されて近くに仕えているために世の人々ももてはやしてしまうことに憤慨している。この少年に財物を与えると将軍が喜ぶので、大名たちが競うように金品を与えたため、少年は巨万の富を持つようになったとまで書いた上で、「比興の事なり。次いでたるに依ってこれを記す(面白くないことであるが、ついでなので書いておく)」と捨て台詞のようにしめくくっている。
ともかく少年時代の世阿弥は義満の寵愛を受け、上流社会に出入りして教養を身につけつつ、父・観阿弥と共に舞台に上がっていた。観阿弥も京で名声を高めたが、少年世阿弥もまた「父に劣らぬ上手名誉の者」と評判をとっていた(「隆源僧正日記」)。権力者たちにもてはやされるだけでなく、しっかりと芸を磨いていたことも間違いない。
至徳元年(元中元、1384)5月19日、観阿弥は巡業先の駿河で死去した。著書『風姿花伝』の中で父の最後の上演の模様を語っていることから当時二十歳になっていた世阿弥も巡業の旅に同行していたことになる。偉大な父から「観世大夫」の名を引き継いで、世阿弥は一座の主として芸の道に邁進してゆく。
―幽玄の道へ―
成人した世阿弥は、「観世三郎元清」と名乗って活動していた。応永元年(1394)3月、義満は興福寺の猿楽上演を見るために奈良に向かったが、このとき「観世三郎」すなわち世阿弥も同行していた(「春日御詣記」)。すでに「寵童」といった歳ではないが、まだ義満が世阿弥に目をかけていたことがうかがえる。応永6年(1399)3月にも義満は興福寺金堂上棟供養参列のため奈良に出かけたが、この時も世阿弥が猿楽を上演した。翌4月末には醍醐寺三宝院で、さらに5月には京の一条竹鼻で三日にわたる義満主催の盛大な勧進猿楽が行われて、いずれも世阿弥が出演している。このとき世阿弥は推定37歳で、この時期すでに書き進めていたとみられる『風姿花伝』の中でも「芸能の絶頂期は34、5歳から40歳までだ」と記しているように、世阿弥にとってはもっとも充実した時期であったようだ。
応永8年(1401)ごろ、義満に寵愛され世阿弥にとってはライバルといえる犬王が、義満の法名「道義」から一字を与えられて「道阿弥」と名乗るようになった。これと同時に観世元清も「世阿弥」(本来は「世阿弥陀仏」の略で「世阿」と略すこともある)と義満から名づけられる。「観世」の「世」の「ゼ」と濁る音の響きがいいということで名付けられたらしく、世阿弥はこの義満の命名を「面目のいたり」と大いに誇っている。
応永15年(1408)5月6日に足利義満は権力の絶頂で急死した。その直前の3月に後小松天皇の北山山荘行幸があり、猿楽が上演されているが世阿弥ではなく道阿弥が大役を務めた。このことをもって世阿弥が義満の寵愛を失っていたとする見方もあるが、この時期以降も世阿弥がとくに立場が悪くなった様子もない。
義満が死去すると、すでに将軍ではあったが実権のない存在だった足利義持がようやく政治を見るようになった。義持は義満の政策の多くをひっくり返したが猿楽鑑賞は父親同様に熱心で、田楽新座の増阿弥をひいきにした。といって世阿弥も冷遇されていたわけでもなく、応永17年(1410)6月に島津元久の宿舎で義持を招いての世阿弥の能が上演され、世阿弥は元久から七尺の太刀を褒美として与えられている。このほかにも義持が世阿弥の能を鑑賞した記録はいくつかある。
応永20年(1413)5月にライバルであった道阿弥が死去、その後継者の岩童が台頭し、増阿弥ともども世阿弥から見れば次世代のホープとなった。しかし増阿弥による勧進猿楽の際に岩童が大勢を引き連れて義持の桟敷の下へ行って挨拶したのに対し、世阿弥は一人で義持に挨拶したため、さすがは名人と評された(「申楽談義」)というから、世阿弥の大物ベテラン演者としての地位は揺るがなかったようである。
前年の応永19年(1412)11月の逸話として、伏見稲荷神社近くの質屋・橘屋が大怪我を負って重体となった際にその妻に伏見稲荷が乗り移り、「観世(世阿弥)に能を演じさせれば平癒する」との神託を下したため、世阿弥が実際に橘屋に行って能を演じたという話も『申楽談義』にある。能(猿楽)がもともと神にささげる神楽に由来することと、世阿弥の芸が神秘の領域にまで達しているとみられていたこととが結びついた逸話であろう。
世阿弥の能楽史における大きな功績は、能(猿楽)の脚本を作り、それを演じるのみならず、技能論・芸術論・哲学論を追及してそれを多くの書物に残した点にある。特に幼少期から上流階級に出入りして教養を高め、彼らの前で演じたことが彼の作品に貴族趣味的な深みを与えたとされ、特に「幽玄」と表現される静かな格調の高さがあるとされる。
世阿弥自身の語るところによると義持の時代には人々の目も肥えて来て、義満時代には見られなかった批判の言葉もぶつけられるようになっており、常に芸を磨いていなければ歓心を買えない状況であったという。世阿弥は批判を受け止めずに工夫をおろそかにしていては芸の道が絶えてしまうと訓戒を残している。
―苦難の後半生―
応永29年(1421)4月、醍醐寺清滝宮の祭礼の猿楽に観世一座が参加し、その記録で世阿弥について「観世入道」とあることからこのころ出家していることがわかる。このとき世阿弥の嫡男・元雅が父と同じ「観世三郎」を名乗っていることから世阿弥はこの時出家と共に元雅に「観世大夫」の座を譲っていたようである。応永31年(1423)に元雅は醍醐寺清滝宮の楽頭職となり、醍醐寺の記録では観阿弥・世阿弥に続いて長男の元雅・次男の元能・養子の元重(世阿弥の弟四郎大夫の子)の三人の子たちと三代続いて名声を得たことを称えている。とくに元雅は世阿弥にとって頼もしい後継者となりつつあった。
応永35=正長元年(1428)正月に義持は43歳で急逝した。後継指名はなく、くじ引きの結果選ばれ還俗して将軍となったのが義持の同母弟の足利義教である。彼が将軍となったことで、世阿弥の運命は暗転する。
義教は将軍になる前から、世阿弥の甥であり一時養子であった元重あらため音阿弥を強くひいきにしていた。世阿弥は元雅に期待して観世大夫を譲る一方で音阿弥とは縁を切っていた。世阿弥は元雅や娘婿の金春禅竹らには秘伝の書を与えたが音阿弥に対しては無視し続け、これが音阿弥、ひいては義教の不興を買ったようである。
永享元年(1429)5月、後小松上皇が世阿弥と元雅の能を見たいと幕府に希望し、義教も初めはそれを認めたが、直前になって世阿弥父子の出演を強引に禁じた。世阿弥は不服申し立てをおり、当時政僧として名高い満済も「世阿弥の主張に誤りはない」と認める文章を残しているが、義教は頑として聞かなかった。翌年正月に義教は後小松のもとに参内して共に能を見たが、その演者は音阿弥であった。そして同年4月に醍醐寺清滝宮の楽頭職も元雅から音阿弥に交代となってしまい、世阿弥父子は演じる場すら失われてゆく。
翌永享2年(1430)、悪化する状況に絶望したか、世阿弥の次男・元能が芸の道を離れて出家遁世してしまう。その直前に元能は父から猿楽の歴史や議論を聞き書きで残している。これが『申楽談義』で、芸能史のみならず南北朝から室町初期についての貴重な記録となった。
永享4年(1432)正月22日、将軍御所で諸大名を集めた宴があり、座興として細川氏の若党らが五番の能を義教の前で披露した。その同じ舞台で続けて元雅、世阿弥が一番ずつ能を演じた(「満済准后日記」)。座興ではあろうがこれは明らかに義教による世阿弥父子に対する「いじめ」である。
さらに悪いことは続き、この年8月1日に伊勢安濃津で元雅が急死する。原因は全く不明だが、自然死ではない可能性も指摘される。元雅の死を世阿弥は深く悲しみ、頼みにしていた息子の死に対する慟哭の思いを『夢跡一紙』という文にしたためている。後継者と期待していた元雅に死なれて「当流の道絶えて、一座すでに破滅せぬ」という心境になった世阿弥は、元雅に口伝で伝えていた秘伝を『却来華』にまとめている。
永享5年(1433)4月に京の糺河原で盛大な勧進猿楽が催され、音阿弥が「観世大夫」として主役を張った。音阿弥元重の芸風は世阿弥とはまた違った華麗さがあって一般受けしやすく、義教のバックアップもあって強固な立場を築き、結局今日に続く観世流はこの元重の系統が引き継いでいくことになる。
そして永享6年(1434)、義教はついに世阿弥を佐渡に流刑とする。すでに七十歳前後の高齢で何の力もない世阿弥にそこまでするとは理解しがたいが、義教の偏執的な性格も災いしたのだろう。5月4日に世阿弥は京を発ち、佐渡へと向かった。世阿弥は京に残した妻・寿椿を娘婿の金春禅竹に養ってもらい、彼から佐渡まで現金の仕送りを受けて、おかげで佐渡の人にも面目の立つ生活ができていると書状に書いている。またこの書状の中で禅竹から「鬼の能」についての質問も受けており、流刑先でも能への情熱を失わなかったことが知られる。佐渡でも『金島書』という流刑先での日々をつづる文章を残しており、その奥付に「永享八年(1436)二月」の日付がある。これが世阿弥の活動で年次が確認できる最後の記録となった。
嘉吉元年(1441)6月に足利義教は赤松満祐に暗殺され、義教に迫害された人々の多くが罪を許されたが、世阿弥については消息が不明である。上述の禅竹への書状の解釈から佐渡から京に戻ったとの見解もあったが、現在はこの書状は佐渡で書いたとする説が有力で、世阿弥がどこで一生を終えたかはまったく分からぬままである。
参考文献
今泉淑夫『世阿弥』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
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歴史小説では | 世阿弥の生涯を描いた小説としては杉本苑子の『華の碑文-世阿弥元清』がある。この小説は世阿弥の弟・四郎の一人称で語られていて、世阿弥の「寵童」としての側面が強調されるほか、「上嶋文書」を下敷きに観阿弥一家が楠木一族と深くかかわっていた設定になっている。
ほかに佐々木道誉を主役とする山田風太郎『婆沙羅』、義満を主人公とする平岩弓枝『獅子の座』などにも部分的に登場する。
なお、当サイトの仮想大河『室町太平記』では作中に登場するだけでなく解説も担当しており、10回ごとに異なるお面をつけてその美少年ぶりは見せてくれない(笑)。
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漫画作品では | 学習漫画系で室町文化について触れる箇所で観阿弥ともどもたいてい登場している。特に石ノ森章太郎の『萬画日本の歴史』では能楽の大成を世阿弥を中心にダイジェストにまとめており、美少年時代の彼に二条良基がみとれている場面や、次第に老けてゆく世阿弥が能の真髄を語っていく「萬画」的な技法が印象に残る。 |