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ぜあみ〜せんもんけい

世阿弥 ぜあみ 1363(貞治2/正平18)?-1443(嘉吉3)?
親族 父:観阿弥 兄弟:四郎大夫
妻:寿椿禅尼
子:観世元雅・観世元能・金春禅竹の妻
生 涯
 能楽観世流の始祖・観阿弥の子で、幼い時から人気役者として活躍して足利義満など有力者の保護を受け、父を継いで「能楽」を上流階級も鑑賞する高等芸術の域に大成させた。能に関する考察を深めた芸能論の著作も残し、後世に絶大な影響を与えている。

―美少年「藤若」―

 世阿弥が生まれたのは貞治2年(正平18、1363)とされるが、一年遅らせる説もある。彼が生まれたころ、父の観阿弥は奈良から京都に進出して積極的に売り込みを図っていた。観阿弥はバサラ大名として名高い佐々木道誉の庇護を受けており、世阿弥自身の『申楽談義』での回想によれば、幼少期の世阿弥が道誉からさまざまな芸術評、芸能論を聞かされて育ったことがうかがい知れる。父の教育もさることながら、当代随一の文化人でもあった道誉じきじきの薫陶を受けたことが、その後の世阿弥の芸術傾向の基礎となったと思われる。
 世阿弥は十歳前後から父と共に舞台に立っていたらしい。早くからその美貌は評判となっていたようで、応安7年(文中3、1374)もしくはその翌年の観世座の新熊野での興行を新将軍・足利義満がじきじきに見物、観阿弥の芸もさることながら、このとき12歳になっていた美少年・世阿弥(当時はまだこの名ではないが)を大いに気に入り、以後観阿弥父子に絶大な保護を与え、少年世阿弥を自らに近侍させるようになった。

 永和2年(天授1375)ごろと推測される「卯月(四月)十七日」付けの二条良基から尊勝院に宛てた書状は、少年時代の世阿弥を語る上で必ず引き合いに出される内容である。内容を一部要約して現代語訳すれば以下のようになる。
「藤若に時間があったら、ぜひもう一度お連れ願いたい。あれ以来一日中上の空のありさま。能はもちろん蹴鞠や連歌にもすぐれたただ者ではない子ですが、なんといってもその顔かたちと立ち居振る舞いの風情には見とれてしまうほどで、あのような童が本当にいようとは。まるで源氏物語の紫の上か、唐の楊貴妃かと思うほど。将軍さまがお気に入りなのも当然です。…この書状は読んだら火に投じて下さい」
 本文のあとに解説が添えられていて、「藤若とは大和猿楽の観世大夫(観阿弥)の子、鬼夜叉である。尊勝院が二条殿へ連れて行った折に『藤若』と名を改めた」と書かれている。この内容をそのまま信じるなら、世阿弥ははじめ「鬼夜叉」といったが二条良基のもとを訪ねた際に「藤若」と改名させられたこと、なおかつ二条良基が心もそぞろになってしまうほどの美貌と才能を発揮していたことが知られる興味深い史料となる。
 この書状については後世の偽作説も提唱されるなど、いくつか疑問点がないわけではないが、世阿弥が上流階級のもとに出入りし始めた頃に「藤若」と改名したとの話は崇光天皇の日記にもみえており、書状の内容のようなもてはやされ方をしたのは事実とみてよい。良基がこんな文章をわざわざ書いたのは、義満の寵愛する美童をほめちぎることで義満本人の御機嫌をとるためではなかったか、との意見もある(世阿弥のことではないが、後年やはり義満の寵童の美貌を公家がほめちぎった例がある)

 公家の三条公忠も日記『後愚昧記』永和4年(天授4、1378)6月7日の条で、少年時代の世阿弥の寵愛されぶりを記録している。この日、祇園祭の鉾の巡業が行われて義満が桟敷を作らせてこれを見物していたが、その桟敷に「大和猿楽児童、観世の猿楽と称する法師の子」すなわち世阿弥少年が同席していた。義満はこの少年を寵愛し同席させただけでなく自らの盃も使わせていた、というのである。
 ただし公忠自身は猿楽のことを「乞食の所行」とさげすんでおり、そんな「乞食」が将軍に寵愛されて近くに仕えているために世の人々ももてはやしてしまうことに憤慨している。この少年に財物を与えると将軍が喜ぶので、大名たちが競うように金品を与えたため、少年は巨万の富を持つようになったとまで書いた上で、「比興の事なり。次いでたるに依ってこれを記す(面白くないことであるが、ついでなので書いておく)」と捨て台詞のようにしめくくっている。

 ともかく少年時代の世阿弥は義満の寵愛を受け、上流社会に出入りして教養を身につけつつ、父・観阿弥と共に舞台に上がっていた。観阿弥も京で名声を高めたが、少年世阿弥もまた「父に劣らぬ上手名誉の者」と評判をとっていた(「隆源僧正日記」)。権力者たちにもてはやされるだけでなく、しっかりと芸を磨いていたことも間違いない。

 至徳元年(元中元、1384)5月19日、観阿弥は巡業先の駿河で死去した。著書『風姿花伝』の中で父の最後の上演の模様を語っていることから当時二十歳になっていた世阿弥も巡業の旅に同行していたことになる。偉大な父から「観世大夫」の名を引き継いで、世阿弥は一座の主として芸の道に邁進してゆく。

―幽玄の道へ―

 成人した世阿弥は、「観世三郎元清」と名乗って活動していた。応永元年(1394)3月、義満は興福寺の猿楽上演を見るために奈良に向かったが、このとき「観世三郎」すなわち世阿弥も同行していた(「春日御詣記」)。すでに「寵童」といった歳ではないが、まだ義満が世阿弥に目をかけていたことがうかがえる。応永6年(1399)3月にも義満は興福寺金堂上棟供養参列のため奈良に出かけたが、この時も世阿弥が猿楽を上演した。翌4月末には醍醐寺三宝院で、さらに5月には京の一条竹鼻で三日にわたる義満主催の盛大な勧進猿楽が行われて、いずれも世阿弥が出演している。このとき世阿弥は推定37歳で、この時期すでに書き進めていたとみられる『風姿花伝』の中でも「芸能の絶頂期は34、5歳から40歳までだ」と記しているように、世阿弥にとってはもっとも充実した時期であったようだ。

 応永8年(1401)ごろ、義満に寵愛され世阿弥にとってはライバルといえる犬王が、義満の法名「道義」から一字を与えられて「道阿弥」と名乗るようになった。これと同時に観世元清も「世阿弥」(本来は「世阿弥陀仏」の略で「世阿」と略すこともある)と義満から名づけられる。「観世」の「世」の「ゼ」と濁る音の響きがいいということで名付けられたらしく、世阿弥はこの義満の命名を「面目のいたり」と大いに誇っている。

 応永15年(1408)5月6日に足利義満は権力の絶頂で急死した。その直前の3月に後小松天皇の北山山荘行幸があり、猿楽が上演されているが世阿弥ではなく道阿弥が大役を務めた。このことをもって世阿弥が義満の寵愛を失っていたとする見方もあるが、この時期以降も世阿弥がとくに立場が悪くなった様子もない。
 義満が死去すると、すでに将軍ではあったが実権のない存在だった足利義持がようやく政治を見るようになった。義持は義満の政策の多くをひっくり返したが猿楽鑑賞は父親同様に熱心で、田楽新座の増阿弥をひいきにした。といって世阿弥も冷遇されていたわけでもなく、応永17年(1410)6月に島津元久の宿舎で義持を招いての世阿弥の能が上演され、世阿弥は元久から七尺の太刀を褒美として与えられている。このほかにも義持が世阿弥の能を鑑賞した記録はいくつかある。

 応永20年(1413)5月にライバルであった道阿弥が死去、その後継者の岩童が台頭し、増阿弥ともども世阿弥から見れば次世代のホープとなった。しかし増阿弥による勧進猿楽の際に岩童が大勢を引き連れて義持の桟敷の下へ行って挨拶したのに対し、世阿弥は一人で義持に挨拶したため、さすがは名人と評された(「申楽談義」)というから、世阿弥の大物ベテラン演者としての地位は揺るがなかったようである。
 前年の応永19年(1412)11月の逸話として、伏見稲荷神社近くの質屋・橘屋が大怪我を負って重体となった際にその妻に伏見稲荷が乗り移り、「観世(世阿弥)に能を演じさせれば平癒する」との神託を下したため、世阿弥が実際に橘屋に行って能を演じたという話も『申楽談義』にある。能(猿楽)がもともと神にささげる神楽に由来することと、世阿弥の芸が神秘の領域にまで達しているとみられていたこととが結びついた逸話であろう。

 世阿弥の能楽史における大きな功績は、能(猿楽)の脚本を作り、それを演じるのみならず、技能論・芸術論・哲学論を追及してそれを多くの書物に残した点にある。特に幼少期から上流階級に出入りして教養を高め、彼らの前で演じたことが彼の作品に貴族趣味的な深みを与えたとされ、特に「幽玄」と表現される静かな格調の高さがあるとされる。
 世阿弥自身の語るところによると義持の時代には人々の目も肥えて来て、義満時代には見られなかった批判の言葉もぶつけられるようになっており、常に芸を磨いていなければ歓心を買えない状況であったという。世阿弥は批判を受け止めずに工夫をおろそかにしていては芸の道が絶えてしまうと訓戒を残している。

―苦難の後半生―

 応永29年(1421)4月、醍醐寺清滝宮の祭礼の猿楽に観世一座が参加し、その記録で世阿弥について「観世入道」とあることからこのころ出家していることがわかる。このとき世阿弥の嫡男・元雅が父と同じ「観世三郎」を名乗っていることから世阿弥はこの時出家と共に元雅に「観世大夫」の座を譲っていたようである。応永31年(1423)に元雅は醍醐寺清滝宮の楽頭職となり、醍醐寺の記録では観阿弥・世阿弥に続いて長男の元雅・次男の元能・養子の元重(世阿弥の弟四郎大夫の子)の三人の子たちと三代続いて名声を得たことを称えている。とくに元雅は世阿弥にとって頼もしい後継者となりつつあった。

 応永35=正長元年(1428)正月に義持は43歳で急逝した。後継指名はなく、くじ引きの結果選ばれ還俗して将軍となったのが義持の同母弟の足利義教である。彼が将軍となったことで、世阿弥の運命は暗転する。
 義教は将軍になる前から、世阿弥の甥であり一時養子であった元重あらため音阿弥を強くひいきにしていた。世阿弥は元雅に期待して観世大夫を譲る一方で音阿弥とは縁を切っていた。世阿弥は元雅や娘婿の金春禅竹らには秘伝の書を与えたが音阿弥に対しては無視し続け、これが音阿弥、ひいては義教の不興を買ったようである。
 永享元年(1429)5月、後小松上皇が世阿弥と元雅の能を見たいと幕府に希望し、義教も初めはそれを認めたが、直前になって世阿弥父子の出演を強引に禁じた。世阿弥は不服申し立てをおり、当時政僧として名高い満済も「世阿弥の主張に誤りはない」と認める文章を残しているが、義教は頑として聞かなかった。翌年正月に義教は後小松のもとに参内して共に能を見たが、その演者は音阿弥であった。そして同年4月に醍醐寺清滝宮の楽頭職も元雅から音阿弥に交代となってしまい、世阿弥父子は演じる場すら失われてゆく。
 翌永享2年(1430)、悪化する状況に絶望したか、世阿弥の次男・元能が芸の道を離れて出家遁世してしまう。その直前に元能は父から猿楽の歴史や議論を聞き書きで残している。これが『申楽談義』で、芸能史のみならず南北朝から室町初期についての貴重な記録となった。

 永享4年(1432)正月22日、将軍御所で諸大名を集めた宴があり、座興として細川氏の若党らが五番の能を義教の前で披露した。その同じ舞台で続けて元雅、世阿弥が一番ずつ能を演じた(「満済准后日記」)。座興ではあろうがこれは明らかに義教による世阿弥父子に対する「いじめ」である。
 さらに悪いことは続き、この年8月1日に伊勢安濃津で元雅が急死する。原因は全く不明だが、自然死ではない可能性も指摘される。元雅の死を世阿弥は深く悲しみ、頼みにしていた息子の死に対する慟哭の思いを『夢跡一紙』という文にしたためている。後継者と期待していた元雅に死なれて「当流の道絶えて、一座すでに破滅せぬ」という心境になった世阿弥は、元雅に口伝で伝えていた秘伝を『却来華』にまとめている。
 永享5年(1433)4月に京の糺河原で盛大な勧進猿楽が催され、音阿弥が「観世大夫」として主役を張った。音阿弥元重の芸風は世阿弥とはまた違った華麗さがあって一般受けしやすく、義教のバックアップもあって強固な立場を築き、結局今日に続く観世流はこの元重の系統が引き継いでいくことになる。

 そして永享6年(1434)、義教はついに世阿弥を佐渡に流刑とする。すでに七十歳前後の高齢で何の力もない世阿弥にそこまでするとは理解しがたいが、義教の偏執的な性格も災いしたのだろう。5月4日に世阿弥は京を発ち、佐渡へと向かった。世阿弥は京に残した妻・寿椿を娘婿の金春禅竹に養ってもらい、彼から佐渡まで現金の仕送りを受けて、おかげで佐渡の人にも面目の立つ生活ができていると書状に書いている。またこの書状の中で禅竹から「鬼の能」についての質問も受けており、流刑先でも能への情熱を失わなかったことが知られる。佐渡でも『金島書』という流刑先での日々をつづる文章を残しており、その奥付に「永享八年(1436)二月」の日付がある。これが世阿弥の活動で年次が確認できる最後の記録となった。

 嘉吉元年(1441)6月に足利義教は赤松満祐に暗殺され、義教に迫害された人々の多くが罪を許されたが、世阿弥については消息が不明である。上述の禅竹への書状の解釈から佐渡から京に戻ったとの見解もあったが、現在はこの書状は佐渡で書いたとする説が有力で、世阿弥がどこで一生を終えたかはまったく分からぬままである。

参考文献
今泉淑夫『世阿弥』(吉川弘文館・人物叢書)ほか
歴史小説では 世阿弥の生涯を描いた小説としては杉本苑子の『華の碑文-世阿弥元清』がある。この小説は世阿弥の弟・四郎の一人称で語られていて、世阿弥の「寵童」としての側面が強調されるほか、「上嶋文書」を下敷きに観阿弥一家が楠木一族と深くかかわっていた設定になっている。
ほかに佐々木道誉を主役とする山田風太郎『婆沙羅』、義満を主人公とする平岩弓枝『獅子の座』などにも部分的に登場する。
なお、当サイトの仮想大河『室町太平記』では作中に登場するだけでなく解説も担当しており、10回ごとに異なるお面をつけてその美少年ぶりは見せてくれない(笑)。
漫画作品では 学習漫画系で室町文化について触れる箇所で観阿弥ともどもたいてい登場している。特に石ノ森章太郎の『萬画日本の歴史』では能楽の大成を世阿弥を中心にダイジェストにまとめており、美少年時代の彼に二条良基がみとれている場面や、次第に老けてゆく世阿弥が能の真髄を語っていく「萬画」的な技法が印象に残る。

世尊寺行俊
せそんじ・ゆきとし ?-1407(応永14)
親族 父:世尊寺伊兼 養父:世尊寺行忠 子:世尊寺行豊
官職 参議
位階 従三位→従二位
生 涯
―義満の上表をしたためた能書家―

 世尊寺家は藤原北家伊尹流で、能書家として知られる。行俊は南北朝時代の大半を生きた第13代当主・行忠の子としてその跡を継いだが実際は一族の世尊寺伊兼の子であるという。事情は不明だが行忠の子・経有は系図に「殺された」との注があり、また能書の家だけにそれだけの技術を持つ者を当主にしなければならなかったのかもしれない。
 応永6年(1399)正月5日に従三位に叙せられ、その後従二位・参議にまで昇った。

 応永8年(1401)5月、足利義満は博多商人・肥富と僧・祖阿を明に派遣し、「日本准三后源道義」と名乗る国書(上表文)を持たせた。この国書は儒学者の東坊城秀長が起草し、世尊寺行俊が清書したものであった。義満としては明と正式な国交を結ぶ最初の国書であり、選び抜いた人選であったのだろう。その後の国書の清書にも行俊があたったかどうかは不明である。
 応永14年(1407)正月10日に没。子の行豊が幼くして跡を継いだ。弟子に一条実秋がおり、行俊の死後幼い行豊に代わって世尊寺家の領地管理や書家宗匠の立場をつとめ、彼の子孫も書家となった。今日でも行俊の書は多く残されているが、能書家として知られただけに偽物も多いとのこと。

絶海中津 ぜっかいちゅうしん 1334(建武元)-1405(応永12)
生 涯
―五山文学の最高峰―

 土佐国高岡の豪族・津野氏の出身。貞和4年(正平3、1348)に15歳で京に上り、天龍寺の喝食となったのち、観応元年(正平5、1350)に剃髪して僧侶となり、晩年の夢窓疎石の近くに仕えた。文和2年(正平8、」1353)に建仁寺に移って同郷の先輩・義堂周信と共に龍山徳見に師事、龍山が南禅寺の住持となると建仁寺に残って大林善育に仕えて湯薬侍者をつとめた。貞治3年(正平19、1364)に鎌倉に下って、建長寺で蔵主や焼香侍者をつとめたのち、善福寺の住持となった義堂のもとで衣鉢侍物をつとめた。

 応安元年(正平23、1368)2月に海を越えて明に渡り、杭州の中天竺寺に入って季潭宗泐に師事。それまで「要関」と号していたが、このとき季潭から「絶海」の道号を与えられた(はるか海を越えて来たことにちなむのだろう)。その後、霊隠寺や護聖万寿寺を訪ねて明の高僧たちと面会し、季潭と共に金陵(南京)の天界寺(当時、多くの日本僧がここに集められていた)に移る。明の洪武9年=永和2(天授2、1376)には洪武帝(朱元璋)に謁見し、洪武帝の求めで日本の熊野三山の詩を賦した。こうした明での留学中に詩文の才能に磨きをかけたのち、永和4年(天授4、1378)に帰国する。

 帰国後は天竜寺に入り、康暦2年(天授6、1380)に建仁寺住持となっていた義堂と再会。同じ年に赤松則祐から播磨国法雲寺の住持にと招かれるが断って代わりに汝霖良佐を推薦、自らは師の夢窓が開山した甲斐の恵林寺の住持となった。
 渡明して名声を高めた絶海に将軍・足利義満も注目し、義堂を介して上洛を求められたため、永徳3年(弘和3、1383)9月に上洛、義満が創建した鹿苑院の住持となった。しかし間もなく絶海は義満に直言して不興を買い、至徳元年(元中元、1384)6月に摂津銭原に退去。義満の追跡が迫ったため翌年4月に有馬温泉の牛隠庵に移転した。
 この時期失脚して讃岐に隠遁していた細川頼之が絶海を招き、絶海は讃岐に渡って普済院の住持となり、さらに頼之の本拠地である阿波・秋月に宝冠寺を開山した。さらに頼之の依頼で土佐に赴き、夢窓ゆかりの吸江庵を再興している。

 至徳3年(元中3、1386)2月に義堂から和解を勧められた義満が絶海を許す気になり、義堂を介して上洛を求めた。頼之も自ら宝冠寺に赴いて泣きながら上洛を勧めたため、絶海は3月に上洛して義満に対面、12月に等持寺の住持となった。明徳2年(元中8、1391)に北山等持院に移り、翌明徳3年(1392)10月に相国寺の住持となり、応永元年(1394)にまた等持院に戻る。同年に相国寺が火災に見舞われるとその復興に尽力、応永4年(1397)から再び相国寺住持となった。応永5年(1398)に鹿苑院塔主となり、京都五山と臨済宗を統括する「僧録」を応永11年(1404)まで勤めた。

 応永6年(1399)10月13日、大内義弘が和泉・堺に上陸、ここに要塞を築いて義満に挑戦した(応永の乱)。義満は絶海を使者として義弘のもとへ送り、説得を試みている。絶海がそれだけ当時の大名たちに影響力のある宗教指導者であった証しであろう。10月27日に堺に赴いた絶海は義弘と面談、義満が義弘の勢力を削ぐために陰謀をめぐらし、上洛を命じて暗殺を計画していると疑う義弘に対して、絶海は「世間の噂を信じてはいけない」と否定し、「京での暗殺を図っているなら、たとえ義満の意向であろうと僧侶の身の私がその手助けをするはずがない」と述べて、上洛して義満と和解するよううながしたが、義弘は「すでに鎌倉公方とも示し合わせている」と言って説得を拒絶、絶海は「この上は是非もなし」とあきらめ、翌日空しく京に戻って義満に報告するしかなかった(「応永記」)。結局戦闘が始まり、12月末には堺も落城して義弘も戦死してしまう。
 応永10年(1403)2月に義満が二度目の遣明使を送り出した際には、当時内戦を行っていた建文帝と永楽帝のどちらが勝ってもいいように二通の国書を持って行かせたが、その起草には絶海が関わっていると見られる。
 
 絶海はその後、鹿苑寺の勝定院に隠棲し、応永12年(1405)4月5日に七十二歳で死去した。帰依していた後小松天皇から「仏智広照国師」、称光天皇から「浄印翊聖国師」の勅謚を贈られた。
 絶海は数多くの詩文の傑作を残し、同郷人の義堂周信と共に臨済宗夢窓派発展の功労者にして「五山文学」の双璧と称えられている。故郷の高知県津野町には義堂と絶海の二人が並んだ銅像も建てられている。

参考文献
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)
松岡久人『大内義弘』(戎光祥出版、中世武士選書14)
榎本渉『僧侶と海商たちの東シナ海』(講談社選書メチエ、選書日本中世史4)ほか
漫画作品では 石ノ森章太郎『萬画・日本の歴史』の義満時代、応永の乱のくだりで義満に命じられて大内義弘を説得に行く場面が描かれている。

摂津(せっつ)氏
 法律を家業とする中原氏の系統で、鎌倉幕府創設時に行政を担当するために鎌倉に招かれた「官僚一族」のひとつ。鎌倉幕府確立期に評定衆をつとめた師員が「摂津守」になり、その子孫も同職になったことから「摂津」を家名とするようになった。鎌倉幕府滅亡ののちは室町幕府にも仕えて行政事務にあたっている。室町幕府の衰退と共に存在感を失い、将軍足利義輝暗殺時に共に殺された人物をもって嫡流は絶えている。

中原師員 ┬師連 ─親致 親鑑 ─高親





└師守
親秀 ─貞高 能直 ─能秀 ┬満親─ ─之親







└春日局

摂津親鑑
せっつ・ちかあき ?-1333(正慶2/元弘3)
親族 父:摂津親致 兄弟:摂津親秀 子:摂津高親
官職 刑部大輔・隼人正
位階 正五位下
幕府 評定衆・引付頭人
生 涯
―下戸でも飲まぬわけにはいかぬ―

 摂津親致の子で、出家して「道準」と号した。家業としていた法律に明るい実務官僚として兄弟の摂津親秀と共に鎌倉幕府の評定衆メンバーとなっている。文保2年(1318)に上洛し、持明院統と大覚寺統の皇位をめぐる紛争をまとめて「文保の和談」を成立させ、後醍醐天皇即位に貢献している。嘉暦元年(1326)に執権・北条高時が重病のため出家すると、実力者の内管領・長崎高資の意向を受けて高時を追って出家しようとしている金沢貞顕を説得、結果的に貞顕をほんの一時期とはいえ執権職につけさせた。翌嘉暦2年(1327)より引付頭人となり、得宗家の御内宿老の扱いで幕府中枢で重んじられた。

 正慶2年(1333)5月に新田義貞が鎌倉に攻め入り、22日に最期を覚悟した北条一門は東勝寺に集結、親鑑も行動を共にした。『太平記』巻十によると、最後の奮戦を終えて東勝寺にやってきた長崎高重が盃に酒を注いで三度飲み、その盃を親鑑の前に置いて「思い指し申しますぞ(次はあなたが飲め、という指名)。これを肴(さかな)になされよ」と腹を切り裂き、腸をたぐり出して親鑑の目の前に突っ伏した。これを見た親鑑は「見事な肴だ。どんな下戸でもこれを飲まぬわけにはいかんな」と冗談を言い、置かれた盃の残り半分を飲んで諏訪直性の前に置いてから、自身も腹を切った。かくして切腹のリレーが続き、北条一門は集団自決する。その中には息子とみられる高親も含まれている。
 親鑑は北条に殉じたが、兄弟の親秀は室町幕府にも仕え、実務官僚として活躍している。

参考文献
岡見正雄校訂『太平記』(角川文庫)
永井晋『金沢貞顕』(吉川弘文館人物叢書)ほか

摂津親秀
せっつ・ちかひで 生没年不詳
親族 父:摂津親致 兄弟:摂津親鑑 子:摂津貞高
官職 掃部頭
位階 従五位下
幕府 評定衆・引付頭人
生 涯
―二つの幕府をまたいだ官僚武士―

 家業としていた法律に明るい実務官僚として兄弟の摂津親鑑と共に鎌倉幕府の評定衆メンバーとなっている。鎌倉幕府滅亡時に親鑑は北条氏に準じたが、親秀は室町幕府でも引き続き評定衆となり、武家執奏を務めて朝廷との折衝にも活躍している。こうした鎌倉・室町両幕府をまたいで活躍した実務官僚家系には他に二階堂家がある。
  暦応元年(延元3、1338)から三年間、幕府の引付頭人を勤めている。暦応2年(延元4、1339)に夢窓疎石を招いて先祖の中原師員が浄土宗の寺として創建した西方寺を、禅寺・西芳寺として再興した。連歌にもすぐれ、連歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』にも入選している。京の松尾大社の宮司という立場でもあった。

 暦応4年(興国3、1341)8月7日に孫の摂津能直阿古丸松王丸らへの所領の譲状を書いているので(息子の貞高は早世したらしい)、それから間もない時期に死去したとみられている。この譲状の中で親秀は全国各地に点在する領地を孫たちにそれぞれ譲ったが、三人の孫たちで愚かな振る舞いをする者がいたら相続してはならぬ、家臣の山岸蔵人入道ら五人が協議して「器用の仁」(能力のある者)を選んで惣領とするように、と厳しい指示もしている。政務官僚ながら激動の時代を生きた親秀としては、無能な者が惣領では家の存続も危ういという危機意識があったのだろう。

参考文献
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)ほか

摂津能直
せっつ・よしなお ?-至徳3年(元中3、1386)?
親族 父:摂津貞高 兄弟?:阿古丸・松王丸
官職 掃部頭
位階 従五位下
幕府 評定衆
生 涯
―北朝も南朝も相手に活躍した実務官僚―

 鎌倉幕府と室町幕府の両方に仕えた実務官僚・摂津親秀の孫。暦応4年(興国3、1341)8月7日に親秀から所領を譲り受けているので父の貞高はそれ以前に死去していたと思われる。能直も家業である実務能力を生かして、幕府の評定衆として活躍している。

 貞治6年(正平22、1367)7月に、将軍足利義詮の命で南朝のある住吉へ使者として赴き、和平交渉にあたった。このとき能直は南朝の後村上天皇から寮馬を、楠木正儀から鎧二領に装束馬一匹、和田正武から馬一匹・腹巻一具を贈られたといい、交渉の感触自体は悪くなかったようである。しかしこの年の暮に義詮が、翌年3月に後村上が死去したため、和平の機運は消え去ってしまうことになる。

 応安元年(正平23、1368)4月の三代将軍・足利義満の元服の儀では加冠役の管領・細川頼之を助けて奉行役を勤めた。応安3年(建徳元、1370)に北朝の後光厳天皇が子の緒仁親王への譲位の意向を幕府に伝え、崇光上皇側がその阻止を図って幕府内で暗闘が繰り広げられた際には頼之を助けて北朝との連絡役を勤め、皇位継承についての光厳上皇の遺勅が後光厳から幕府に貸し出された時にはそれを納めた箱を能直が手にした(「後光厳院御記」)
 なお細川頼之は臨済宗の指導者・春屋妙葩と対立して、同じく夢窓疎石の弟子ながら春屋とは関わりの薄い碧潭周皎を重んじたことがあるが、碧潭は能直の祖父・親秀が再興した西芳寺の住持であり、能直自身も碧潭に深く帰依していたことから、両者を結びつけたのは能直とみられている。頼之もそうだったが能直も夢窓疎石に深く帰依しており、夢窓から法衣を授かっていたことが、息子・能秀がその法衣を地蔵院へ寄進していることによって知られる。

 至徳2年(元中2、1387)2月に土佐にあった所領を頼之が碧潭のために建てた地蔵院に寄進。翌々年の至徳4=嘉慶元年(元中4、1387)3月に能秀が父を「故入道」と呼んで先述の法衣を地蔵院に寄進しているので、その間に死去したことが分かる。

参考文献
高柳光寿『足利尊氏』(春秋社)
小川信『細川頼之』(吉川弘文館人物叢書)ほか

瀬尾兵衛太郎
せのお・ひょうえたろう ?-元徳2年(1330)
親族 兄弟:瀬尾卿房
生 涯
―暗殺を請け負った「名誉の悪党」―

 鎌倉時代末期に生きた武士で、『東寺執行日記』には「名誉悪党セノヲト云者」とあることから、悪名の方であろうが名を広く知られていたらしい。
 元徳2年(1330)4月1日、瀬尾兵衛太郎は明法家で知られた中原章房を清水寺の西の大門付近で襲撃して殺害、そのまま逃亡した。『太平記』島津家本によればこの暗殺は倒幕計画が漏れることを恐れた後醍醐天皇と、その側近の平成輔の指示によるものであったとされる。瀬尾自身は特に政治的つながりはなく、それまでにも依頼されて殺人を請け負っていたのだろう。いわばプロの刺客である。
 章房の息子、章兼章信の兄弟は独自に捜査して瀬尾兵衛太郎が犯人であることを突き止め、5月17日に白河にあった瀬尾の隠れ家を襲った。瀬尾は屋根裏に隠れたが見つかり、章信と斬り合いの末に殺害された。このとき弟の卿房という者も生け捕られ殺されたという。

千寿王 せんじゅおう
 室町幕府第2代将軍・足利義詮の幼名で、大河ドラマ「太平記」における役名(演:稲葉洋介→森田祐介)。「千寿丸」とも。→史実関係は足利義詮(あしかが・よしあきら)を見よ。
 また、その足利義詮の長男も「千寿王」と名付けられ、夭折している。→足利千寿王(あしかが・せんじゅおう)を見よ。

宣聞渓 せんもんけい
 応安7年(1394)に明を訪れた日本使節の代表者として明側に記録されている人物。「聞渓円宣」という禅僧であったと見られる。→聞渓円宣(もんけい・えんせん)を見よ。


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