脇屋義助 | わきや・よしすけ | 1301(正安3)?-1342(康永元/興国3) |
親族 | 父:新田朝氏 兄:新田義貞 子:脇屋義治 |
官職 | 右衛門佐、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正少弼・治部大弼、刑部卿 |
位階 | 正五位下→従四位下→贈正三位(明治16)
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建武新政 | 駿河国司、武者所 |
生 涯 |
新田義貞の実弟。足利尊氏・直義の兄弟コンビ同様、兄をよく助け、全国を転戦した武将である。
―義貞の忠実な弟―
義貞の生年も正安2年(1300)ごろではないか、というだけで判然としないが、弟の義助の生年も諸説ある。義貞らの菩提を弔う新田荘の安養寺・明王院にある板碑に「源義助」の菩提を弔うものがあり、そこに「康永元年六月五日」の命日と「生年四十二」の明記があるのでこれを信用すると正安3年(1301)の生まれということになる。だとすれば義貞とは一つ違いの兄弟だったことになり、尊氏・直義と似た形になる。ただ義助の生年についてはなぜか嘉元元年(1303)説、嘉元3年(1305)説、徳治元年(1306)説と本によっても入り乱れている。
新田荘・脇屋に分家したので「脇屋」を名字としている。「脇屋次郎」と呼ばれていたらしい。
古典「太平記」における脇屋義助の初登場は元弘3年(正慶2、1333)5月8日の新田軍が挙兵を決意する部分である。幕府の徴税使を斬って幕府軍との一戦やむなしとなった時、新田一門を集めての会議では後退して越後からの一族の到来を待つか、利根川を要害にして立てこもるかといった議論が出たが、義助が「弓矢の道とは死を軽んじて名を重んじるものだ。新田のなにやらいう奴らが徴税使ふぜいを斬って逃げたと天下の人に言われては口惜しい。先に綸旨(護良の令旨をさす)をいただいたのは何のためか。運を天に任せてただ一騎であろうと鎌倉に攻め入るべきだ。勢いがつけば味方が集まり、鎌倉を落とすことができよう」と積極策を述べ、一同それに決した、と語られている。一族の長として慎重な兄に対して積極策を述べる弟、というのは「太平記」によく出てくるパターンなので、本当にこのような発言をしたかは分からない。
5月8日に挙兵した新田軍は怒涛の勢いで味方を増やし、各地で幕府軍を撃破して、5月18日には鎌倉攻略にかかった。義助は常に兄・義貞と行動を共にしていたようで、鎌倉攻略戦における軍忠状のたぐいを見る限りでは義助が「日の大将(その日の担当司令官)」をつとめたり、戦功に確認を与えた形跡はない。「太平記」では北条一門の大仏貞直が決死の突撃をして全滅する相手が脇屋義助の部隊となっている。
鎌倉を攻め落とした新田軍だったが、足利側と紛争になった末に鎌倉を放棄し、京へと上った。8月5日に朝廷で徐目(人事)があり、義助は正五位下・駿河国司に任じられた。兄・義貞は建武政権において京都治安維持にあたる「武者所」の長官に任じられ、この「武者所」はほぼ新田一族が独占する部署となった。義助もこの武者所の第五番に息子の義治と共に名を連ねている。
―足利との対決―
建武2年(1335)秋、中先代の乱を鎮圧してそのまま関東に居座り、建武政権からの離脱を明らかにした足利尊氏に対し追討の命がくだった。新田義貞はその追討軍の総司令官として東海道を下り、義助もこれに同行して、迎撃してきた足利軍を各所で連破した。
12月11日。勢いに乗る新田軍は伊豆国府を出発して二隊に分かれ、義貞率いる主力は箱根へ、尊良親王を総大将にして義助を副将とする別動隊は竹之下方面へと進出した。この竹之下方面には、出家・遁世の意思をひるがえして出陣した尊氏率いる一軍が迎え撃ってきた。「太平記」によるとこの尊良親王の周囲には公家たちや北面の武士(宮廷警護の武士)が多くいたようで、彼らは武士たちにおくれをとるまいと功を焦ったか「帝に弓引く者は天罰をこうむるぞ。命が惜しくば降参せよ」と敵に呼びかけた。ところが相手には土岐頼遠・佐々木道誉といった権威などものともしない「ばさら」連中がそろっていたからたまらない。彼らは降参するどころか弱い公家軍に襲いかかってたちまち潰走させてしまった。これを見た義助は「どうしようもない連中が、バカな突出をして味方を敗北させてしまっとは残念だ」とくやしがり、必死の奮戦をしたと「太平記」は記す。このときまだ十三歳の息子・義治が戦闘中に行方不明になり(足利軍の中に紛れ込んでいた)、義助が「義治が見えないのは捕らわれたのか、戦死したのか、どちらかしかあるまい。武士が戦場で命を散らすのは子孫の繁栄を思ってのことだ。だから幼いとはいえ、しばしの別れを惜しんで戦場に連れてきたのだ。その生死を確かめなくてはいかん!」と涙を流して探し回り、結局無事に合流してめでたし、めでたしという展開になるのだが、この「太平記」における義助のセリフは珍しいほどの「父性愛」の発露である。
結局この竹之下方面での敗北により形勢は逆転、義貞は撤退を余儀なくされ、畿内の情勢も不穏になったことから一気に東海道を京まで駆け戻る。これを足利軍が追い、さらにそれを奥州から北畠顕家軍が追って来る、という大変な展開となり、翌年正月には京都をめぐって激しい攻防戦を展開した。義助は義貞を助けて各所で奮戦し、ついに足利軍を九州へと敗走させることになる。この功績により義助は右衛門佐に任じられる。
3月になって、新田軍は足利軍を追って山陽道へと出陣した。その入口にあたる播磨・白旗城の赤松円心は籠城戦で義貞を苦しめ、ここで義貞は50日もの日数を費やしてしまう。「太平記」では義助が「先に正成が金剛山にこもっているうちに天下がひっくり返ってしまったではありませんか。こんな小城にこだわっていてはいけません」と意見して、さらに西へと軍を進めたことになっている。5月に入って義助は備前の三石・福山において戦ったが、5月18日に足利直義が率いる大軍の進撃にあって撤退を余儀なくされた。
そして5月25日、兵庫において「湊川の戦い」が行われる。義貞は足利水軍の上陸地点をいくつか予想して布陣したようで、義貞の主力が和田岬、義助は湊川河口付近の経が島付近に布陣している。「太平記」の記述するところでは、最初の矢合わせが終わった直後に足利軍の最初の上陸地点は経が島で、ここに上陸した200名はたちまち義助の軍に包囲され全滅してしまったという。
だが細川定禅の水軍が東へ進む陽動作戦を行い、新田軍はそれに引きずられて東へ移動、その空隙に尊氏の主力が上陸して、湊川合戦の大勢は決まった。
京に敗走した新田軍は後醍醐天皇と共に比叡山に逃れ、ここを基地にして足利軍を激しく京で戦いを交えた。義助も義貞と共に各所で戦っている様子が「太平記」にしばしば見える。9月になって近江の佐々木道誉が後醍醐側につくと見せて巧みに比叡山への糧道を断ったので、道誉を討つべく義助が東坂本から水軍で琵琶湖を渡ったが、上陸した途端に道誉軍の攻撃を受けて敗走している。結局この兵糧攻めに耐えかねた後醍醐は足利との和睦をひそかに進めることになる。
―北陸での苦難の道―
延元元年(建武3、1336)10月10日、後醍醐は義貞になんの相談もなく尊氏と和睦して比叡山を下りようとしていた。直前になってこれを知った新田一族は猛抗議したので、後醍醐は皇太子・恒良親王に皇位を譲り、義貞らに北陸へ落ちるよう指示した。義助も当然これに同行することになる。10月13日に越前国敦賀の要害・金ヶ崎城に入った義貞は、息子の義顕と義助を越後へと向かわせようとしたが、二人は越前守護・斯波高経の妨害にあって断念し、越前の南朝方・瓜生保のいる杣山(そまやま)城に入った。「太平記」ではこのとき義助が保の弟・瓜生義鑑房を信頼して息子・義治を預けたとしていて、ここでも愛する息子との別れを惜しむ描写を入れている(ただ義治の年齢が十三歳のままになっているのが不自然で、幼さを強調しているフシがある)。そして義助・義顕はどうにか敵の包囲を突破して金ヶ崎城に入る。
翌年正月から足利方の高師泰らによる金ヶ崎城攻略が始まり、義治をかつぎだした瓜生一族が師泰軍を背後から襲って城中の義貞と連携した作戦をとってもいる。だが金ヶ崎城は兵糧攻めにあって凄まじい飢餓状態に陥り、3月6日についに陥落、「天皇」である恒良親王は捕虜となり、尊良親王・一条行房・新田義顕ら多くの者が自害して果てた。義貞と義助はその直前に杣山城に移動していて難を逃れている。恐らく義助が杣山城にあり、義貞が救援を求めるため金ヶ崎を離れたのだろうが(その間に何度も行き来していたとみる意見もある)、結果的には奉じるべき親王たちを見殺しにして生き延びることになってしまった。
しばらく杣山にこもった義貞・義助だったが、越後・越前でゆっくりと着実に勢力を回復していった。翌延元3年(暦応元、1338)には義貞の呼びかけに応じて奥州の北畠顕家が大挙上洛を開始し、一部新田一族とも合流して畿内へと進撃したが、北陸の新田勢との連携がかみ合わず(これについて原因は諸説あるが)、5月に顕家が石津の戦いで敗死して北畠軍も崩壊、南朝軍は京奪回の最大の機会を逸してしまう。
そして閏7月2日、優勢に戦いを進めていた新田軍は、黒丸城を攻めていた主将義貞の不慮の戦死という悲劇に見舞われてしまう。「太平記」によると義助はこのとき石丸城にあったが、混乱のうちに兄・義貞の戦死の確報を得て「ただちに黒丸城に攻めよせ、大将が戦死した場所で共に死のうではないか」と呼びかけたが、新田軍の兵たちは呆然自失、逃亡したり降参したり出家したりと散り散りになってしまい、義助と義治はやむなく残った手勢を率いて越前国府へと撤退したという。
主将・義貞を失った越前新田軍は一時崩壊の危機に置かれたが、脇屋義助が主将の地位を引き継ぎ、再び態勢を立て直した。その後も一時は斯波高経を追い詰め ほどの攻勢を見せたこともあり、しぶとい活動を続けていたことが分かる。南朝から「刑部卿」に任じられたのもこのころと思われる。しかし延元4年(暦応2、1339)8月に後醍醐天皇が死去、南朝は精神的支柱を失った。義助の越前での戦いも次第に劣勢を余儀なくされ、興国2年(暦応4、1341)の後半には義助は越前を離れ、美濃へと移った。
美濃国根尾城(現・岐阜県本巣市)に拠点を構えたが、ここも美濃守護・土岐頼遠の攻撃を受けてこの年の9月に陥落、敗れた義助らは尾張・伊勢・伊賀を経由して吉野に向かい、ここで初めて後村上天皇に拝謁した。後村上は義助のここ五、六年の北陸での苦難をねぎらい、「命が無事で今ここに来てくれたことはうれしい」と涙を流し、義助らの位階を上げ、家臣らにも恩賞を与えたという。敗残兵の義助を褒賞するのはおかしいと洞院実世が意見を述べたが、四条隆資が義助をかばったという話が「太平記」に載る。
―遠く四国での死去―
後村上に苦労をねぎらわれた義助は感激もし、複雑な心境にもなっただろう。敗将の汚名をそそぐためにも南朝勢力の挽回に命をかけようと思ったに違いない。翌年興国3年(康永元、1342)に備前の飽間信胤が南朝方に寝返って小豆島に挙兵し、四国から瀬戸内方面に南朝の大将を送ってほしいと吉野に要請してきた。これを受けて吉野の朝廷は脇屋義助を伊予に派遣することを決定した。
義助は4月1日に吉野を出発、高野山を経て田辺から熊野水軍の協力を得て渡海、淡路島・備前児島に立ち寄りつつ、4月23日に伊予国・今治に到達した。伊予には新田一族の大館氏明、四条隆資の子・有資が先に入って活動しており、また九州平定のために派遣され忽那水軍のもとにあった懐良親王もここにいた。義助は彼らと合流して伊予国府(今治にあった)に入った(以上、日付資料は太平記のみ)。
だが船での長旅がこたえて長年の戦陣の苦労が吹き出してしまったのだろうか、義助はその直後に突然病死してしまう。ただし義助病死の日付について「太平記」は5月4日とするが、本文冒頭に紹介した故郷・新田荘の板碑には「6月5日」とある。この板碑は「康永元年」と北朝年号を記していることから(南朝年号なら興国三年としなければならない)、疑問視する声もあるのだが、新田一門で北朝側についた誰かが後日菩提を弔ったものと考えれば不自然ではない。日付があてにならない「太平記」よりは、関係者が作ったらしい板碑のほうを信用した方がよさそうだ。
故郷を遠く離れた伊予の地で死んだ義助を、誰が故郷で弔ったのか。恐らく新田一門の一員ながら早くから足利方で活動し、この地に領地をもった岩松頼有ではないかと考えられる。観応元年(正平5、1350)に足利尊氏が頼有に新田義貞・脇屋義助の菩提を弔わせるため領地を与えて安養寺明王院を建立させたものとみられ、頼有は一族のつながりで義助の正確な命日を知ることができたのではないだろうか。
義助の死により伊予南朝軍は間もなく細川頼春の攻撃を受けて壊滅する。義助の愛息・義治はどこからどう行ったのかは不明だが、やがて新田一族の故郷・上野に戻り、いとこの新田義宗・義興らと合流して南朝方として戦い続けることになる。
参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
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大河ドラマ「太平記」 | 新田義貞が挙兵する第21回から登場し、その後義貞のそばに常に姿を見せていた。演じたのは石原良純で、このドラマにおける尊氏に対する直義同様、ともすればお人よしの兄を叱咤し、けしかける役どころだった。最後の登場シーンは雪の杣山城で北畠顕家軍の動向を義貞らと語り合う場面で、「兄上はまだ公家を信じておられるのか?」とグサリとする一言を発している。義貞戦死後の状況はナレーションで済まされ、病死のことは触れられなかった。
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その他の映像・舞台 | 1933年の映画「楠正成」で桂武男が演じている。
1978年のアニメ「まんが日本絵巻」の「海を引裂く竜神の剣 新田義貞」では荒木真一が声を演じた。
舞台の例では大正11年の「義貞最期」で市川寿美蔵が演じているという。 |
歴史小説では | 出番が当然多いのだが、あくまで義貞の弟・副将という立場なので特に印象に残るものはない。義貞を主人公とする新田次郎「新田義貞」での出番が一番多いか。 |
漫画作品では | さすがに学習漫画系では登場例があまりない。「太平記」の漫画化作品でも登場はまれ。
珍しい例がさいとう・たかをの「太平記」(シリーズ日本の古典)。義貞死後の義助の越前・美濃での奮戦ぶりが異例のページを割いて描かれ、敗れて吉野に向かう義助が兄と共に北条を滅ぼし尊氏・直義と互角に渡り合った日々を回想し、「あの…めくるめく日々を取り戻すことは、もはやかなわぬ夢か…」とつぶやく印象的な場面(古典にはそんな場面はない)がある。さいとう版太平記がなぜここまで脇屋義助に入れ込んだのか、一つの謎。
ほかに沢田ひろふみ「山賊王」、岡本賢二「私本太平記」で顔を見せている。 |
PCエンジンCD版 | ゲーム開始時に義貞とともに山城に登場。登場時の能力は統率85・戦闘91・忠誠99・婆沙羅28で、義貞とコンビを組ませると強力な大軍を編成できる(この点は尊氏側でプレイした時の直義と同じ)。なお、尊氏でプレイして義貞を討ち取ると、義助が後継者となることが多い。息子の義治も元服すると同じ国に出現する。義貞プレイ時のオープニングビジュアル(アニメのようなもの)にも登場しており、山下道雄が声を演じている。
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PCエンジンHu版 | シナリオ2「南北朝の動乱」で伊予・新居浜城に登場。能力は「騎馬2」。 |
メガドライブ版 | 新田軍の主力として多くのシナリオに登場。能力は体力80・武力129・智力124・人徳82・攻撃力117。
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SSボードゲーム版 | 公家方の「大将」クラスで、勢力地域は「全国」。合戦能力2・采配能力5でそこそこ強力。ユニット裏は子の脇屋義治。 |