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わきやよしすけ〜わだごろう

脇屋義助わきや・よしすけ1301(正安3)?-1342(康永元/興国3)
親族父:新田朝氏 兄:新田義貞 子:脇屋義治
官職右衛門佐、兵庫助、伊予守、左馬権頭、弾正少弼・治部大弼、刑部卿
位階正五位下→従四位下→贈正三位(明治16)
建武新政駿河国司、武者所
生 涯
 新田義貞の実弟。足利尊氏直義の兄弟コンビ同様、兄をよく助け、全国を転戦した武将である。

―義貞の忠実な弟―


 義貞の生年も正安2年(1300)ごろではないか、というだけで判然としないが、弟の義助の生年も諸説ある。義貞らの菩提を弔う新田荘の安養寺・明王院にある板碑に「源義助」の菩提を弔うものがあり、そこに「康永元年六月五日」の命日と「生年四十二」の明記があるのでこれを信用すると正安3年(1301)の生まれということになる。だとすれば義貞とは一つ違いの兄弟だったことになり、尊氏・直義と似た形になる。ただ義助の生年についてはなぜか嘉元元年(1303)説、嘉元3年(1305)説、徳治元年(1306)説と本によっても入り乱れている。
 新田荘・脇屋に分家したので「脇屋」を名字としている。「脇屋次郎」と呼ばれていたらしい。

 古典「太平記」における脇屋義助の初登場は元弘3年(正慶2、1333)5月8日の新田軍が挙兵を決意する部分である。幕府の徴税使を斬って幕府軍との一戦やむなしとなった時、新田一門を集めての会議では後退して越後からの一族の到来を待つか、利根川を要害にして立てこもるかといった議論が出たが、義助が「弓矢の道とは死を軽んじて名を重んじるものだ。新田のなにやらいう奴らが徴税使ふぜいを斬って逃げたと天下の人に言われては口惜しい。先に綸旨(護良の令旨をさす)をいただいたのは何のためか。運を天に任せてただ一騎であろうと鎌倉に攻め入るべきだ。勢いがつけば味方が集まり、鎌倉を落とすことができよう」と積極策を述べ、一同それに決した、と語られている。一族の長として慎重な兄に対して積極策を述べる弟、というのは「太平記」によく出てくるパターンなので、本当にこのような発言をしたかは分からない。

 5月8日に挙兵した新田軍は怒涛の勢いで味方を増やし、各地で幕府軍を撃破して、5月18日には鎌倉攻略にかかった。義助は常に兄・義貞と行動を共にしていたようで、鎌倉攻略戦における軍忠状のたぐいを見る限りでは義助が「日の大将(その日の担当司令官)」をつとめたり、戦功に確認を与えた形跡はない。「太平記」では北条一門の大仏貞直が決死の突撃をして全滅する相手が脇屋義助の部隊となっている。

 鎌倉を攻め落とした新田軍だったが、足利側と紛争になった末に鎌倉を放棄し、京へと上った。8月5日に朝廷で徐目(人事)があり、義助は正五位下・駿河国司に任じられた。兄・義貞は建武政権において京都治安維持にあたる「武者所」の長官に任じられ、この「武者所」はほぼ新田一族が独占する部署となった。義助もこの武者所の第五番に息子の義治と共に名を連ねている。

―足利との対決―

 建武2年(1335)秋、中先代の乱を鎮圧してそのまま関東に居座り、建武政権からの離脱を明らかにした足利尊氏に対し追討の命がくだった。新田義貞はその追討軍の総司令官として東海道を下り、義助もこれに同行して、迎撃してきた足利軍を各所で連破した。
 
 12月11日。勢いに乗る新田軍は伊豆国府を出発して二隊に分かれ、義貞率いる主力は箱根へ、尊良親王を総大将にして義助を副将とする別動隊は竹之下方面へと進出した。この竹之下方面には、出家・遁世の意思をひるがえして出陣した尊氏率いる一軍が迎え撃ってきた。「太平記」によるとこの尊良親王の周囲には公家たちや北面の武士(宮廷警護の武士)が多くいたようで、彼らは武士たちにおくれをとるまいと功を焦ったか「帝に弓引く者は天罰をこうむるぞ。命が惜しくば降参せよ」と敵に呼びかけた。ところが相手には土岐頼遠佐々木道誉といった権威などものともしない「ばさら」連中がそろっていたからたまらない。彼らは降参するどころか弱い公家軍に襲いかかってたちまち潰走させてしまった。これを見た義助は「どうしようもない連中が、バカな突出をして味方を敗北させてしまっとは残念だ」とくやしがり、必死の奮戦をしたと「太平記」は記す。このときまだ十三歳の息子・義治が戦闘中に行方不明になり(足利軍の中に紛れ込んでいた)、義助が「義治が見えないのは捕らわれたのか、戦死したのか、どちらかしかあるまい。武士が戦場で命を散らすのは子孫の繁栄を思ってのことだ。だから幼いとはいえ、しばしの別れを惜しんで戦場に連れてきたのだ。その生死を確かめなくてはいかん!」と涙を流して探し回り、結局無事に合流してめでたし、めでたしという展開になるのだが、この「太平記」における義助のセリフは珍しいほどの「父性愛」の発露である。

 結局この竹之下方面での敗北により形勢は逆転、義貞は撤退を余儀なくされ、畿内の情勢も不穏になったことから一気に東海道を京まで駆け戻る。これを足利軍が追い、さらにそれを奥州から北畠顕家軍が追って来る、という大変な展開となり、翌年正月には京都をめぐって激しい攻防戦を展開した。義助は義貞を助けて各所で奮戦し、ついに足利軍を九州へと敗走させることになる。この功績により義助は右衛門佐に任じられる。

 3月になって、新田軍は足利軍を追って山陽道へと出陣した。その入口にあたる播磨・白旗城の赤松円心は籠城戦で義貞を苦しめ、ここで義貞は50日もの日数を費やしてしまう。「太平記」では義助が「先に正成が金剛山にこもっているうちに天下がひっくり返ってしまったではありませんか。こんな小城にこだわっていてはいけません」と意見して、さらに西へと軍を進めたことになっている。5月に入って義助は備前の三石・福山において戦ったが、5月18日に足利直義が率いる大軍の進撃にあって撤退を余儀なくされた。
 そして5月25日、兵庫において「湊川の戦い」が行われる。義貞は足利水軍の上陸地点をいくつか予想して布陣したようで、義貞の主力が和田岬、義助は湊川河口付近の経が島付近に布陣している。「太平記」の記述するところでは、最初の矢合わせが終わった直後に足利軍の最初の上陸地点は経が島で、ここに上陸した200名はたちまち義助の軍に包囲され全滅してしまったという。
 だが細川定禅の水軍が東へ進む陽動作戦を行い、新田軍はそれに引きずられて東へ移動、その空隙に尊氏の主力が上陸して、湊川合戦の大勢は決まった。

 京に敗走した新田軍は後醍醐天皇と共に比叡山に逃れ、ここを基地にして足利軍を激しく京で戦いを交えた。義助も義貞と共に各所で戦っている様子が「太平記」にしばしば見える。9月になって近江の佐々木道誉が後醍醐側につくと見せて巧みに比叡山への糧道を断ったので、道誉を討つべく義助が東坂本から水軍で琵琶湖を渡ったが、上陸した途端に道誉軍の攻撃を受けて敗走している。結局この兵糧攻めに耐えかねた後醍醐は足利との和睦をひそかに進めることになる。

―北陸での苦難の道―

 延元元年(建武3、1336)10月10日、後醍醐は義貞になんの相談もなく尊氏と和睦して比叡山を下りようとしていた。直前になってこれを知った新田一族は猛抗議したので、後醍醐は皇太子・恒良親王に皇位を譲り、義貞らに北陸へ落ちるよう指示した。義助も当然これに同行することになる。10月13日に越前国敦賀の要害・金ヶ崎城に入った義貞は、息子の義顕と義助を越後へと向かわせようとしたが、二人は越前守護・斯波高経の妨害にあって断念し、越前の南朝方・瓜生保のいる杣山(そまやま)城に入った。「太平記」ではこのとき義助が保の弟・瓜生義鑑房を信頼して息子・義治を預けたとしていて、ここでも愛する息子との別れを惜しむ描写を入れている(ただ義治の年齢が十三歳のままになっているのが不自然で、幼さを強調しているフシがある)。そして義助・義顕はどうにか敵の包囲を突破して金ヶ崎城に入る。
 翌年正月から足利方の高師泰らによる金ヶ崎城攻略が始まり、義治をかつぎだした瓜生一族が師泰軍を背後から襲って城中の義貞と連携した作戦をとってもいる。だが金ヶ崎城は兵糧攻めにあって凄まじい飢餓状態に陥り、3月6日についに陥落、「天皇」である恒良親王は捕虜となり、尊良親王・一条行房・新田義顕ら多くの者が自害して果てた。義貞と義助はその直前に杣山城に移動していて難を逃れている。恐らく義助が杣山城にあり、義貞が救援を求めるため金ヶ崎を離れたのだろうが(その間に何度も行き来していたとみる意見もある)、結果的には奉じるべき親王たちを見殺しにして生き延びることになってしまった。

 しばらく杣山にこもった義貞・義助だったが、越後・越前でゆっくりと着実に勢力を回復していった。翌延元3年(暦応元、1338)には義貞の呼びかけに応じて奥州の北畠顕家が大挙上洛を開始し、一部新田一族とも合流して畿内へと進撃したが、北陸の新田勢との連携がかみ合わず(これについて原因は諸説あるが)、5月に顕家が石津の戦いで敗死して北畠軍も崩壊、南朝軍は京奪回の最大の機会を逸してしまう。
 そして閏7月2日、優勢に戦いを進めていた新田軍は、黒丸城を攻めていた主将義貞の不慮の戦死という悲劇に見舞われてしまう。「太平記」によると義助はこのとき石丸城にあったが、混乱のうちに兄・義貞の戦死の確報を得て「ただちに黒丸城に攻めよせ、大将が戦死した場所で共に死のうではないか」と呼びかけたが、新田軍の兵たちは呆然自失、逃亡したり降参したり出家したりと散り散りになってしまい、義助と義治はやむなく残った手勢を率いて越前国府へと撤退したという。

 主将・義貞を失った越前新田軍は一時崩壊の危機に置かれたが、脇屋義助が主将の地位を引き継ぎ、再び態勢を立て直した。その後も一時は斯波高経を追い詰め ほどの攻勢を見せたこともあり、しぶとい活動を続けていたことが分かる。南朝から「刑部卿」に任じられたのもこのころと思われる。しかし延元4年(暦応2、1339)8月に後醍醐天皇が死去、南朝は精神的支柱を失った。義助の越前での戦いも次第に劣勢を余儀なくされ、興国2年(暦応4、1341)の後半には義助は越前を離れ、美濃へと移った。
 美濃国根尾城(現・岐阜県本巣市)に拠点を構えたが、ここも美濃守護・土岐頼遠の攻撃を受けてこの年の9月に陥落、敗れた義助らは尾張・伊勢・伊賀を経由して吉野に向かい、ここで初めて後村上天皇に拝謁した。後村上は義助のここ五、六年の北陸での苦難をねぎらい、「命が無事で今ここに来てくれたことはうれしい」と涙を流し、義助らの位階を上げ、家臣らにも恩賞を与えたという。敗残兵の義助を褒賞するのはおかしいと洞院実世が意見を述べたが、四条隆資が義助をかばったという話が「太平記」に載る。

―遠く四国での死去―

 後村上に苦労をねぎらわれた義助は感激もし、複雑な心境にもなっただろう。敗将の汚名をそそぐためにも南朝勢力の挽回に命をかけようと思ったに違いない。翌年興国3年(康永元、1342)に備前の飽間信胤が南朝方に寝返って小豆島に挙兵し、四国から瀬戸内方面に南朝の大将を送ってほしいと吉野に要請してきた。これを受けて吉野の朝廷は脇屋義助を伊予に派遣することを決定した。

 義助は4月1日に吉野を出発、高野山を経て田辺から熊野水軍の協力を得て渡海、淡路島・備前児島に立ち寄りつつ、4月23日に伊予国・今治に到達した。伊予には新田一族の大館氏明、四条隆資の子・有資が先に入って活動しており、また九州平定のために派遣され忽那水軍のもとにあった懐良親王もここにいた。義助は彼らと合流して伊予国府(今治にあった)に入った(以上、日付資料は太平記のみ)

 だが船での長旅がこたえて長年の戦陣の苦労が吹き出してしまったのだろうか、義助はその直後に突然病死してしまう。ただし義助病死の日付について「太平記」は5月4日とするが、本文冒頭に紹介した故郷・新田荘の板碑には「6月5日」とある。この板碑は「康永元年」と北朝年号を記していることから(南朝年号なら興国三年としなければならない)、疑問視する声もあるのだが、新田一門で北朝側についた誰かが後日菩提を弔ったものと考えれば不自然ではない。日付があてにならない「太平記」よりは、関係者が作ったらしい板碑のほうを信用した方がよさそうだ。
 故郷を遠く離れた伊予の地で死んだ義助を、誰が故郷で弔ったのか。恐らく新田一門の一員ながら早くから足利方で活動し、この地に領地をもった岩松頼有ではないかと考えられる。観応元年(正平5、1350)に足利尊氏が頼有に新田義貞・脇屋義助の菩提を弔わせるため領地を与えて安養寺明王院を建立させたものとみられ、頼有は一族のつながりで義助の正確な命日を知ることができたのではないだろうか。

 義助の死により伊予南朝軍は間もなく細川頼春の攻撃を受けて壊滅する。義助の愛息・義治はどこからどう行ったのかは不明だが、やがて新田一族の故郷・上野に戻り、いとこの新田義宗義興らと合流して南朝方として戦い続けることになる。

参考文献
峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書)
山本隆志「新田義貞」(ミネルヴァ日本評伝選)ほか
大河ドラマ「太平記」 新田義貞が挙兵する第21回から登場し、その後義貞のそばに常に姿を見せていた。演じたのは石原良純で、このドラマにおける尊氏に対する直義同様、ともすればお人よしの兄を叱咤し、けしかける役どころだった。最後の登場シーンは雪の杣山城で北畠顕家軍の動向を義貞らと語り合う場面で、「兄上はまだ公家を信じておられるのか?」とグサリとする一言を発している。義貞戦死後の状況はナレーションで済まされ、病死のことは触れられなかった。
その他の映像・舞台 1933年の映画「楠正成」で桂武男が演じている。
 1978年のアニメ「まんが日本絵巻」の「海を引裂く竜神の剣 新田義貞」では荒木真一が声を演じた。
 舞台の例では大正11年の「義貞最期」で市川寿美蔵が演じているという。
歴史小説では出番が当然多いのだが、あくまで義貞の弟・副将という立場なので特に印象に残るものはない。義貞を主人公とする新田次郎「新田義貞」での出番が一番多いか。
漫画作品では さすがに学習漫画系では登場例があまりない。「太平記」の漫画化作品でも登場はまれ。
 珍しい例がさいとう・たかをの「太平記」(シリーズ日本の古典)。義貞死後の義助の越前・美濃での奮戦ぶりが異例のページを割いて描かれ、敗れて吉野に向かう義助が兄と共に北条を滅ぼし尊氏・直義と互角に渡り合った日々を回想し、「あの…めくるめく日々を取り戻すことは、もはやかなわぬ夢か…」とつぶやく印象的な場面(古典にはそんな場面はない)がある。さいとう版太平記がなぜここまで脇屋義助に入れ込んだのか、一つの謎。
 ほかに沢田ひろふみ「山賊王」、岡本賢二「私本太平記」で顔を見せている。
PCエンジンCD版ゲーム開始時に義貞とともに山城に登場。登場時の能力は統率85・戦闘91・忠誠99・婆沙羅28で、義貞とコンビを組ませると強力な大軍を編成できる(この点は尊氏側でプレイした時の直義と同じ)。なお、尊氏でプレイして義貞を討ち取ると、義助が後継者となることが多い。息子の義治も元服すると同じ国に出現する。義貞プレイ時のオープニングビジュアル(アニメのようなもの)にも登場しており、山下道雄が声を演じている。
PCエンジンHu版シナリオ2「南北朝の動乱」で伊予・新居浜城に登場。能力は「騎馬2」
メガドライブ版新田軍の主力として多くのシナリオに登場。能力は体力80・武力129・智力124・人徳82・攻撃力117
SSボードゲーム版公家方の「大将」クラスで、勢力地域は「全国」。合戦能力2・采配能力5でそこそこ強力。ユニット裏は子の脇屋義治。

脇屋義治わきや・よしはる1323(元亨3)-?
親族父:脇屋義助
官職式部大夫
位階贈正四位(大正4)
生 涯
―十三歳の初陣で大活躍―

 新田義貞の弟の脇屋義助の子。『太平記』では建武2年(1335)12月の箱根・竹之下の戦いの時に13歳で初陣したとあるので、元亨3年(1323)の生まれであることが分かる。恐らく建武政権期に京で元服して「式部大夫」の官職を得ていたのだろう。
 このとき足利尊氏が関東で建武政権に反旗を翻し、後醍醐天皇は新田一族を主力とする尊氏討伐軍を出動させた。義治はこの軍に父・義助に従って参加し、12月11日の竹之下の戦場にあった。それまで優勢だった新田軍はこの戦闘で足利軍の逆襲を受けて敗走するが、このとき義治は混乱のなかで足利軍の中に郎党三騎と共に取り残されてしまう。しかし義治はあわてることなく笠印を外して敵中に紛れ込み、じっと機会をうかがった。
 義治が行方知れずとなったことを知った義助は「戦死したか生け捕りになったのかのいずれかだ。その生死を確かめねば」と引き返して敵の大軍の中へと突入、足利軍を一時的に敗走させる。父が突進してきたのを見た義治は郎党らと共に馬を引き返し、足利軍の兵たちに「あんな小勢に引くとは情けない。さあ引き返して討ち死にしようぞ」と呼びかけて義助の軍へと突入した。これを見た足利軍の武士二人が「あっぱれなり。お供いたしますぞ」と義治についてきた。義治は義助の近くまで来ると郎党たちに目配せして四人でさっと馬を返し、ついてきた武士二人を馬上から切って落とし、その首を挙げた。これを見て義助は息子の帰還を死者が蘇生したかのように喜んだという(「太平記」)
 
 その後も父に付き従って各地に転戦、建武政権が崩壊すると義貞ともども北陸へと下り、越前の要害・金ケ崎城に入った。義助・義治は南朝に味方する越前・杣山城の瓜生保のもとを訪ねたが、ここで保の弟・義鑑房から「誰かひとり公達をここに残してほしい」と頼まれて義治が瓜生氏に預けられることとなった。『太平記』はここでも義助が義治を溺愛し片時もそばから離さないほどだったと記しているが、義治を竹之下の戦いのときと同じ「十三歳」と記す矛盾がある。
 11月8日に義治を大将として瓜生一族は杣山に挙兵した。一時は足利軍の高師泰からの討伐軍を撃破する勢いを見せたが、義治が金ケ崎救援のために派遣した里見伊賀守や瓜生兄弟は延元2年(建武4、1337)正月11日に今川頼貞・高師泰らの軍に敗れてそろって戦死してしまう。瓜生兄弟の老母が義治に酒をすすめながら涙ながらに息子たちの戦死を誉れと語る場面が『太平記』で印象的に語られている。
 3月6日に金ヶ崎城は落城し、その直前に義貞と義助は杣山へと移って義治と合流、一時は勢力を盛り返して越前を制圧する勢いだったが、延元3年(暦応元、1338)閏7月2日に義貞が黒丸城攻略中に不慮の戦死をしてしまう。義助と義治はその後も越前で活動を続けたが斯波高経にじりじりと押され、興国2年(暦応4、1341)に杣山城を攻め落とされて越前から美濃へ落ち延び、美濃の拠点もすぐに失って吉野へと向かい、ここで父子そろって後村上天皇に拝謁する。
 翌興国3年(暦応5、1342)4月、義助・義治は海を渡って伊予へと下向、伊予国府に入ったが、その直後の5月(あるいは6月)に義助が急逝してしまう。残された義治ら伊予南朝軍は細川頼春の攻撃を受けて壊滅、義治はしばらくその消息が知れなくなる。

―従兄弟たちと長く抵抗―

 脇屋義治の名が歴史上に再び登場するのは、足利幕府が「観応の擾乱」と呼ばれる内戦に突入した直後である。『新田足利両氏系図』によれば正平6年(観応2、1351)冬に信濃にいた新田義宗(義貞の三男で嫡男)のもとを新田義興(義貞の次男)が義治が訪れ、関東に来ている尊氏を討つべく挙兵をうながしたという。義治はこの十年近くのあいだ、越後など新田一族ゆかりの地でかくまわれながら転々としていたらしい。
 翌正平7年(文和元、1352)2月に南朝軍は京都と鎌倉を攻略する同時作戦を開始、閏2月20日に小手差原の戦いで尊氏軍と激突、義治は義興と共に奮戦し、上野に戻る道がなくなったため、いっそのことと手薄な鎌倉を直接襲撃し、一時とはいえ鎌倉占領に成功した。しかし3月2日には鎌倉を離れ、再び上野・越後方面に潜伏して機会をうかがうこととなった。

 その後正平13年(延文3、1358)10月に義興が矢口渡で謀殺される。新田一族の動きはますます散発的なものとなり、史料的にもはっきりしなくなる。
 江戸時代に編纂された『喜連川判鑑』では、正平23年(応安元、1368)7月に義宗と義治が上野・越後の国境付近で挙兵し、守護の上杉氏の軍勢に討伐されて義宗が戦死、義治が出羽へと逃れたと記されている。以後の彼の消息は全く不明である。

参考文献
久保田順一『新田三兄弟と南朝』(戎光祥出版「中世武士選書28)ほか
PCエンジンCD版1337年になると元服して父・義助のいる国に登場する。初登場時の能力は統率69・戦闘78・忠誠93・婆沙羅35
SSボードゲーム版父・脇屋義助のユニット裏で、公家方の「武将」クラス、勢力地域は「全国」。合戦能力1・采配能力4

稙田宮わさだのみや?-1377(永和3/天授3)
親族父:稙田宮僧正真覚
生 涯
―九州南朝軍に参加し戦死した皇孫―

 九州に在住した皇族の子孫で、「稙田宮(わさだのみや)」の呼び名は豊後国大分郡稙田荘に土着したことに由来するという。父は鎌倉幕府将軍にもなった宗尊親王の子で「僧正宮」と呼ばれていた真覚で、この真覚が還俗して稙田に土着、「稙田宮」と呼ばれていた。この項目で解説する「稙田宮」は実名不明で、『後愚昧記』の記述から真覚の子、宗尊親王の孫、後嵯峨天皇の曾孫であることが知られるのみである。

 その経歴はほとんど不明であるが、九州に土着した皇族の子孫(すでに皇族を離れて源姓を称していた可能性もある)として、九州の南朝勢力に加わって戦っていたらしい。天授3年(永和3、1377)8月12日、肥後国臼間白木原で行われた合戦で、菊池軍と共に今川了俊大内義弘らの幕府軍と戦ったが大敗、菊池勢の多くが戦死するなかで稙田宮も自殺したという。
 この情報は翌月に京都に届き、三条公忠が日記『後愚昧記』に記している。はじめ公忠は「南方宮が自殺」と聞いたが、のちに大内義弘の家臣から「それは大樹宮(後征西将軍宮=良成親王)ではなく稙田宮真覚の子である、と正確な情報を得たという。彼に関する情報はこの『後愚昧記』の一行程度の記述のみであるが、九州南朝で戦う傍流の「宮」の存在はそれなりに意識されていたということかもしれない。この戦いにより九州南朝勢はほぼ息の根を止められた形となり、公忠も「これで九州はことごとく当方(北朝)が統一した」と記している。

鷲頭貞弘わしず・さだひろ生没年不詳
親族父:鷲頭長弘
兄弟:鷲頭弘員・鷲頭弘直・鷲頭盛継・鷲頭氏弘・鷲頭弘成
官職信濃守
幕府周防守護?
生 涯
―惣領の地位を嫡流に奪われる―

 大内氏庶流で事実上の惣領となっていた鷲頭長弘の三男。詳しい事跡が伝わらないが、遅くとも文和3年(正平9、1354)には兄・弘直から家督を継いでいたと見られる。跡を継いで幕府から周防守護を任されていた可能性があるが、この時期大内家嫡流の大内弘世が南朝から周防守護に任じられて鷲頭家への攻勢をかけており、押され気味の貞弘が守護として活動していた証拠は確認できていない。
 結局この文和3年に貞弘は大内弘世の攻勢に耐えかねて投降、周防は完全に大内弘世の掌握するところとなった。その後の鷲頭家は大内家家臣の立場に転落した。

鷲頭長弘わしず・ながひろ?-1351(観応2/正平6)
親族父:大内弘家 養母:鷲頭禅恵尼
兄弟:大内重弘・大内弘景、大内弘氏、矢田盛賢
子:鷲頭弘員・鷲頭弘直・鷲頭貞弘・鷲頭盛継・鷲頭氏弘・鷲頭弘成
官職豊前守
位階従五位下
幕府周防守護
生 涯
―庶流ながら嫡流を凌駕―

 大内弘家の子だが、大内庶流の鷲頭家の後継ぎが絶えたため、鷲頭親盛の娘・禅恵尼の養子となって鷲頭家を継いだ。
 元弘3年(正慶2、1333)に鎌倉幕府打倒の機運が高まるなか、嫡流の甥・大内弘幸が長門探題の金沢時直に味方したのに対し、長弘は討幕側についた。このため幕府滅亡後の建武政権では嫡流大内家に代わって周防守護に任じられている。名乗りも鷲頭ではなく「大内」を称し、実質的に大内一族の惣領としてふるまっていたようである。
 建武3年(延元2、1336)2月、建武政権に反旗を翻した足利尊氏は京都攻防戦に敗れて兵庫へ退いたが、このとき鷲頭長弘は長門の厚東武実と共に尊氏に味方して援軍を海路で派遣、尊氏が九州への下向を決めるとその船団の送り届け役もつとめた(「梅松論」。「大内豊前守」として登場する)。この功績により長弘は尊氏から周防守護職を安堵され、尊氏が足利幕府を開くとその地位は安定する。嫡流の弘幸も尊氏側に味方したのだが、世の動きを見るのに敏な長弘に凌駕された形となった。

 その後も安定して周防守護職をつとめていた長弘であったが、幕府の中で内紛が発生し、観応元年(正平5、1350)に九州で足利直冬(尊氏の庶子で直義の養子)が勢力を拡大して中国にまでその勢いが及ぶと、鷲頭・大内嫡流共に直冬に味方し、これを討伐しに来た高師泰らと戦っている。このため幕府から一時的に周防守護職を取り上げられている。
 めまぐるしく情勢が変転するなか、観応2年(正平6、1351)に死去。息子の鷲頭弘直が跡を継ぎ、尊氏に帰順して再び周防守護職を手に入れている。これに不満を抱いた大内嫡流家は南朝について鷲頭家に戦いを挑むこととなる。
メガドライブ版足利方武将として「打出浜の合戦」のシナリオに登場する。能力は体力83・武力124・智力89・人徳68・攻撃力99。
SSボードゲーム版「大内長弘」の名前で身分「武将」クラスで山陽に登場する。能力は合戦能力1・采配能力4。ユニット裏は大内弘世。

鷲頭弘員わしず・ひろかず生没年不詳
親族父:鷲頭長弘
兄弟:鷲頭弘直・鷲頭貞弘・鷲頭盛継・鷲頭氏弘・鷲頭弘成
官職但馬権守
生 涯
―石見方面で活躍―

 大内氏庶流で事実上の惣領となっていた鷲頭長弘の長男。暦応3年(興国元、1340)に石見守護・上野頼兼の要請に応じて周防の豪族平子重嗣と共に出陣、石見の南朝方のこもる豊田城攻撃を援助している。
 観応元年(正平5、1350)10月には一族ともども足利直冬方に属し、高師泰方の軍と戦っていることが確認できる。長男だったらしいが父の死後、家督は弟の弘直貞弘が継いでおり、庶子であったか、あるいはそれ以前に死去したのかもしれない。

鷲頭弘直わしず・ひろなお生没年不詳
親族父:鷲頭長弘
兄弟:鷲頭弘員・鷲頭貞弘・鷲頭盛継・鷲頭氏弘・鷲頭弘成
官職美作守・民部大輔
幕府周防守護
生 涯
―周防守護となるも消息不明―

 鷲頭長弘の二男。詳しい事跡が伝わらないが、父と共に観応の擾乱では足利直冬に属して戦ったものとみられる。このため長弘はそれまで保持していた周防守護職を取り上げられたが、観応2年(正平6、1351)に長弘が死去して弘直が跡を継ぎ、その後擾乱が一段落すると幕府側に復帰したようで文和元年(正平7、1352)9月には弘直が周防守護として活動していることが確認できる。
 しかし、かねて鷲頭家から大内惣領の地位奪回をはかっていた嫡流の大内弘世が、このころ南朝について南朝から周防守護に任じられ、鷲頭家への攻勢をかけてきた。弘直の周防守護としての活動は文和2年(正平8、1353)正月18日の文書を最後に途絶えており、大内弘世の攻勢に押しまくられたものと見られる。
 弘直のその後の消息は不明で、文和3年(正平9、1354)には弟の貞弘が当主となっていたらしい。

和田賢秀 わだ・かたひで(けんしゅう)
 楠木正行に従って奮戦したとされる人物。「かたひで」と紹介されることが多いが法名「源秀(げんしゅう)」が正しいようである。→和田源秀(わだ・げんしゅう)を見よ。

和田源秀わだ・げんしゅう?--1348(貞和4/正平3)
親族父:楠木正季? 兄:和田高家
位階
贈従四位
生 涯
―四条畷で大奮戦した若武者―

 『太平記』の楠木軍に登場する若武者。今のところ彼の活躍を確認できる資料は『太平記』のみである。
 『太平記』の流布本などに「賢秀」と記す部分があり、これをもとに名を「賢秀(かたひで)」とされることが多いが、『太平記』の古本では「源秀」で統一されている(流布本でも初登場時は「源秀」と書かれている)。彼の通称として使われる「新発意(しんぽち)」は「新たに出家した者」の意味であり、「源秀」が法名なのは明らかである。「賢秀」は流布本系の誤記であり、『大日本史』など実名主義にこだわる姿勢が「賢秀(かたひで)」説を生み出したものと思われる。
 彼と楠木氏の関係もはっきりしない。楠木正氏あるいは正季の子(もしくは正氏と正季が同一人)とする系図があるが、江戸時代以降の『橘氏系図』が出典でありあてにはならない。和田氏と楠木氏に深い関係があり、親族とみても不自然ではないのだが『太平記』も含めて彼が正季の子であるという明確な史料は存在しない。

 正平2年(貞和3、1347)11月26日、楠木正行軍は幕府方の山名時氏軍と住吉で会戦した。このとき楠木軍の中から二十歳ばかりの若武者が「和田新発意源秀」と名乗り、洗皮の鎧(鹿皮をなめした柔らかいもの)を身に着け大小の太刀を帯び、長刀を小脇にかかえて馬上で小唄を歌いながら進み出た。源秀は味方の阿間了源とたった二騎で突進、山名勢を蹴散らして敵将・時氏に迫り、勝利のきっかけを作っている。
 
 翌正平3年(貞治4、1348)正月5日、楠木軍は高師直率いる幕府軍と四条畷の戦いで激突した。『太平記』出は正行らは出陣前に死を覚悟しており、吉野を出るときに如意輪堂の板壁に全員の名を書き残したが、もちろん源秀の名もその中にあった。
 開戦直後に源秀は敵将の居野七郎の兜を激しく打って討ち取り、さらに松田次郎左衛門を長刀で打って馬から突き落として討ち取っている。数ではかなわない楠木軍は師直の首一つを目指して突撃したがかなわず、正行・正時兄弟は刺し違えて死んだ。『太平記』の最も原形に近いとされる西源院本ではこのとき和田源秀も敵の矢を七か所に受け、正行・正時と三人そろって刺し違えて死んだことになっている。

 しかし『太平記』の流布本では源秀(賢秀)はひそかに師直軍の中に紛れ込んで師直と刺し違えようとする筋書きとなっている。この時、先ごろ南朝方から鞍替えして師直軍に参加していた湯浅本宮太郎左衛門という者が源秀に気づき、後ろから両ひざに斬りつけて源秀を倒した。源秀は湯浅をにらみつけたまま首をとられ、死んでもその目は閉じなかった。その光景に恐怖した湯浅は七日後に悶え死にしたとされる。この流布本に見える逸話は印象的だが、原形では割とあっけない源秀の戦死をより華々しくするために後年書き加えられた創作のように思われる。
 その後さらに発展して「斬られた首が湯浅にかみついた」という話になってしまったらしく、現在四条畷の地にある和田源秀(賢秀)の墓所は「歯噛み様」と呼ばれている。「和田賢秀」として楠木正行を祭る四条畷神社に合祀されており、明治時代に従四位を贈られている。
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「和田賢秀」の名で登場する。1338年になると「元服」して和田正遠のいる国に登場する。初登場時の能力は統率32・戦闘91・忠誠90・婆沙羅33で、やはり戦闘能力が非常に高い。

和田五郎わだ・ごろう1338(暦応元/延元3)-1353(文和元/正平7)
親族父:和田正武?
生 涯
―奮戦した十六歳の少年武将―

 楠木正儀に従って南朝軍の京都占領に貢献した人物。『太平記』では「和田五郎」としか書かれていない。『太平記』一部版本に名を「正忠」とするものがあり『大日本史』や各種書籍でその名が採用されているが、確たる証拠があるわけではない。実在が確認できる「和田正武」の子とする説もあるが、これも推測の域を出ない。
 『太平記』では正平7年(文和元、1353)の時点で年齢が「十六」と明記されており、逆算すると延元3年(暦応元、1338)生まれと推定される。この前年に足利尊氏と南朝との間で「正平の一統」が実現、尊氏が関東に下って弟の直義を倒した直後、正平7年閏2月に南朝軍は京と鎌倉を一挙に攻撃する奇襲作戦を実行に移した。ここで「和田五郎」個人の活躍は記録上確認できないが、楠木正儀に従って京へ突入、細川頼春を討ち取るといった戦闘に参加していたものと思われる。

 その後3月に入って足利義詮が近江から攻め上って京を奪回、後村上天皇ら南朝軍は男山八幡にたてこもって抵抗を続けた。義詮が男山と河内を結ぶ兵糧ルートを断とうとしたため、南朝軍は正儀と和田五郎に出撃を命じた。このとき正儀が23歳、五郎が16歳と若かったため危ぶむ声があったが、五郎が参内して「親類兄弟ことごとくが、度重なる合戦で身を捨てて討ち死にしております。今日の合戦も公私ともに一大事と考えておりますから命をかけて戦い、敵の大将を一人でも討ち取るまでは生きて帰ってくることはありますまい」と言って出撃したので、みな「さすがは勇士の家の出だ」と賛嘆したという。
 荒坂山に出撃した正儀と五郎は険しい地形を利用して細川清氏細川顕氏土岐頼康らの軍を翻弄、中でも五郎は、土岐軍で怪力の勇士として知られた土岐悪五郎と斬り合いとなり、悪五郎が清氏配下の関左近将監を抱えて撤退する途中で崖が崩れて落ちたところを討ち取る大手柄を挙げた。五郎が後村上のもとへ帰参して報告すると、後村上は「初めに言っていた通り、敵の大将を討ち取って数か所傷を負いながらも無事に帰って来るとは、前代未聞の功名である」とほめたたえたという(「太平記」)

 しかしこの一戦自体は多勢に無勢で敗北に終わり、男山の南朝軍は河内からの補給を断たれる結果となる。そこで南朝軍は正儀と五郎をひそかに河内へ脱出させて支援を画策させたが、五郎は直後に病のため急死してしまった(「太平記」)。河内からの支援を断たれたことで南朝軍は5月に男山を失陥して敗走することとなる。

和田高家わだ・たかいえ?--1348(貞和4/正平3)
親族父:楠木正季? 弟:和田源秀
位階
贈従四位
生 涯
―逃げるのかと言われて引き返し戦死―

 『太平記』の楠木軍に登場する武将で「和田新兵衛」と呼ばれている。『太平記』古本ではその名をほぼ「高家」と記すが、一部に「行忠」と書く箇所があり、さらに流布本では「正朝」となっているなど混乱もある。『大日本史』で「正朝」の名で取り上げられたため「和田正朝」の名で紹介されていることが多い。また『太平記』古本では高家を兄、源秀を弟と明記しているが、流布本では兄弟関係が逆になっている箇所がある。
 『太平記』本文では和田源秀の兄であることしか分からないが、一部系図で楠木正氏あるいは正季の子とされ、楠木正行の従兄弟になっていることがある。だが少なくとも『太平記』でそのことは全く触れられていない。

 正平3年(貞和4、1348)正月5日の四条畷の戦いで、楠木正行率いる楠木軍は高師直率いる幕府軍と激突した。この戦いに高家と源秀の兄弟も参加、師直の首一つを狙って突撃を行った。『太平記』流布本では和田新兵衛、つまり高家が「相手は馬で我らは徒歩。追いかけて追いつくことができまい。わざとこちらが引く様子を見せて近づいて来たところで師直を討ち取ろう」と作戦を述べたことになっているが、原形に近いとされる西源院本ではこの作戦を述べるのは和田橘六左衛門という別人である。
 結局激戦の末に正行・正時の兄弟、そして和田源秀は刺し違えて自害。生き残っていた楠木軍の武者たちもその後を追った。だが高家のみは片手に敵将の首をひっさげて小唄を歌いながら徒歩で河内の東条目指して戦場を去ろうとした。それを見た安保忠実が「和田・楠木の人々はみな自害したのに見捨てて一人逃げるとは情けない。引き返して来られよ、一戦交えよう」と声をかけると、高家はニッコリと笑って「引き返すなどわけもない」と答えて血刀を手に斬りかかった。忠実は一騎打ちは避けて馬で一定の距離をとりながら逃げ、高家はそれを夕方まで追いかけ続けたが、結局幕府方の兵に弓で射られ、忠実に首をとられてしまった。
 近代になって正行や源秀(賢秀)ともども、「和田正朝」の名で四条畷神社に祭られ、従四位の贈位を受けている。

和田正武わだ・まさたけ生没年不詳
親族子:和田五郎(正忠)?
官職
和泉守(南朝)
位階
贈従四位
生 涯
―南朝に節を通した猪突型勇将―

 『太平記』では「和田和泉守正武」と明記されており、延元4年(暦応2、1339)8月に後醍醐天皇が死去した直後に楠木正行と共に吉野に駆けつけ警備にあたったという「和田和泉守」も正武のこととみられる。名に「正」字を持つことから楠木氏の親族の可能性も高いが、推測の域を出ない。和泉に拠点をおき楠木氏と共に南朝で活動した「和田」一族との関わりもありうる。

 正平14年(延文4、1359)12月に二代将軍・足利義詮が天野の南朝皇居を攻略、和田正武楠木正儀と共に後村上天皇に奏上して皇居を観心寺に移させ、翌正平15年(延文5、1360)の5月にかけて赤坂城などで幕府軍相手に抵抗を繰り広げた。『太平記』では思慮深い正儀に対して正武は「戦いを先として謀を待たぬ者」(計略も立てずとにかく戦ってしまう者)と評され、金剛山にこもってのゲリラ戦を主張する正儀に対して「戦うべき時に戦わず、保身に走るのは恥というもの、天下を敵に受ける南朝方の武士がとうとう野伏いくさ(ゲリラ戦)をするようになったと日本中の武士に笑われては悔しい。なんとしても夜襲をかけて力いっぱい戦ってみたい。敵が引いたら勝に乗って攻め、引かなければその時に金剛山の奥にこもって戦えばよい」と言い、5月8日の夜に夜襲を実行した。正武は赤坂城の向かいに結城直光が築いた拠点へ攻撃をかけたが細川清氏らが駆けつけたため撤退、このとき幕府方の武士数名が和田軍の中にもぐりこんだが正武は「立て・座れ」という合図を決めてあったため敵兵をすぐに発見、殺害することに成功したという(「太平記」)

 その後も正武は正儀と常に行動を共にして南朝軍の一翼を担った。足利直冬や細川清氏に呼応して南朝軍が京を攻めた際にも正儀と共にあったとみられ、『太平記』で「和田・楠木」と常にセットで書かれたものは正武と正儀のことと見てよさそうである。貞治6年(正平22、1367)7月に義詮と後村上の間で和平交渉があり、幕府の使者として摂津能直が南朝皇居の住吉を訪ねた際には、正武も正儀と共に能直に馬と鎧を贈っている。
 しかし後村上が死去して主戦派の長慶天皇に代わると、北朝との和平を模索する正儀は幕府の管領・細川頼之の誘いに乗って正平24年(応安2、1369)正月に幕府へ投降してしまった。正武ら、それまで正儀を支えてていた和田・楠木一族の多くは反発し、正儀の館を攻撃して正儀を天王寺へと追いやった。建徳元年(応安3、1370)11月1日に「和田以下」の軍が正儀の拠点を攻撃しており(「花営三代記」)、これも正武が率いたものとみられる。文中2年(応安6、1373)8月に正儀に先導された幕府軍が天野の南朝皇居を攻撃した際にも正武が奮戦したとみられるが敗れ、以後の消息は不明である。

和田正遠わだ・まさとお?-1336(建武3/延元元)
生 涯
―楠木正成と共に奮戦―

 楠木一族の一人と思われるが、その事跡は全くの不明。元弘の乱の折、楠木正成が最初に挙兵した赤坂城の戦い「舎弟七郎と和田五郎正遠」が登場していて、「舎弟七郎」が楠木正季であることは確実視される。「舎弟」が後の和田五郎にまでかかっているのではないかとみる意見もある。なお、「正遠」は正成の父の名の候補の一つでもある。
 湊川の戦いで楠木正成と共に自害した一族郎党の中に「和田五郎正隆」の名がある。これが「和田五郎正遠」と同一人物なのかは不明。正成を祭る湊川神社には「太平記」の記述に従って「和田正隆」の名で合祀されている。
大河ドラマ「太平記」「和田五郎」の役名で、第10回から第37回まで楠木家臣キャラの一人としてレギュラー出演。演じたのは桜金造で、楠木一族に漂うコミカルな雰囲気に一役買っていた。大量のかがり火をたくために懸命に薪割りをしているシーンや、千早籠城でトカゲ(?)の干物を口にして吐き出すシーンが印象に残る。意外にも湊川で戦死はせず正行と共に河内に帰り、一色右馬介が正成の首を届けにくる場面で顔を見せている。
その他の映像・舞台1928年の「続水戸黄門」では「和田正隆」の役名で尾上蝶次郎が演じている。1940年の日活映画「大楠公」原健作が「和田五郎正遠」の役名で演じている。
昭和39年(1964)の歌舞伎「私本太平記」では「正隆」として尾上菊蔵(六代目)が演じた。
歴史小説では「太平記」に正成家臣として明記があるだけに、登場例は多い。だが特に個性が描かれるわけでもない。
PCエンジンCD版楠木軍の武将として伊賀大和に登場。初登場時のデータは統率36・戦闘83・忠誠91・婆沙羅29。時期が来ると息子(?)の和田賢秀が同じ国に出現する。
メガドライブ版楠木軍に登場。能力は体力72・武力114・智力83・人徳57・攻撃力99。  

和田正朝 わだ・まさとも
 楠木正行に従って奮戦したとされる人物。その名については諸説ある。→和田高家(わだ・たかいえ)を見よ。


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