第二十二回「鎌倉炎上」(6月2日放送) 
◇脚本:池端俊策
◇演出:佐藤幹夫

◎出 演◎

真田広之(足利高氏)

沢口靖子(登子)

根津甚八(新田義貞)

高嶋政伸(足利直義)

石原良純(脇屋義助)

木村夏江(春渓尼) 渡辺哲(赤松則村)
小田茜(顕子) 北九州男(二階堂道蘊)
河合隆司(新田氏義) 大関正義(三木俊連) 久野真平(金沢貞将)
山崎満・明石良・山口純平・椎名茂(重臣)
加世幸市・山浦栄・村添豊徳・須藤芳雄(重臣)
三本英明・伊達大輔・渡辺高志(近習) 石川佳代・呉めぐみ(侍女)

大地康雄(一色右馬介)

勝野洋(赤橋守時)

柄本明(高師直)

西岡徳馬(長崎高資)

児玉清(金沢貞顕)

永田博丈(座頭) 依田英助(隆慶) 稲川善一(艮斎)
佐藤光一(道白) 市川勉・中川彰・三田村慎(新田軍の武将)
新井一典(雑兵) 石川恵美(巫女)

若駒スタントグループ ジャパンアクションクラブ クサマライディングクラブ
わざおぎ塾 園田塾 劇団東俳 東京児童劇団 足利市のみなさん 太田市のみなさん

片岡鶴太郎(北条高時) 

フランキー堺(長崎円喜)



◎スタッフ◎

○制作:高橋康夫○美術:稲葉寿一○技術:小林稔○音響効果:加藤宏○撮影:細谷善昭○照明:大西純夫○音声:岩崎延雄○記録・編集:津崎昭子 



◇本編内容◇

 元弘3年(1333)5月18日。新田義貞の軍勢は三手に分かれて鎌倉に突入しようとしていた。一手は化粧坂(けわいざか)の切り通しから、一手は極楽寺坂から、一手は巨福呂坂(こぶくろざか)方面から一斉に鎌倉府内へ攻め込むという作戦である。攻める新田軍が2万、守る北条軍が3万から4万であったと推測される。
 この日の早朝から三方で一斉に攻撃が開始された。義貞は弟の脇屋義助とともに化粧坂の切り通しで陣頭に立って戦い、巨福呂坂方面の洲崎では赤橋守時が奮戦していた。極楽寺坂方面の新田軍は一時鎌倉府内に突入したが、撃退されてしまう。

 矢を受け、傷ついた守時は部下に支えられて戦場を彷徨っていた。そこへ新田軍の兵士が現れ、守時の部下達は主をかばって彼らに立ち向かう。一人になった守時の前に、突然一色右馬介が現れる。右馬介は近くの堂の中に守時を誘い入れ、高氏から命じられたとして守時に命を長らえるよう勧める。しかし守時は「この赤橋守時、幕府の長たる執権ぞ…足利のごとき外様ずれに情けをかけられるいわれはない…」とこれを拒絶する。そして「心を強う生き抜かれよ、それが兄の願い」登子への遺言を託した守時は、大きなため息を一つつくと、「どれ、もうひと合戦…」と刀を杖に立ち上がり、そのまま堂を出ていった。黙って頭を下げて見送る右馬介。
 この夕刻、赤橋守時は戦場で自害して果てた。退却を拒んでの死であったと伝えられる。享年39才であった。この知らせは右馬介によって柄沢に潜んでいた登子に伝えられた。侍女達が泣き悲しむ中、登子は「大儀であったのう…礼を申します」とだけ右馬介に言い、涙は見せなかった。

 さすがに鎌倉を死守しようとする北条軍の抵抗は激しく、攻防は20日、21日と一進一退を続けた。そのころには足利高氏が六波羅を陥落させたとの情報が伝えられており、義貞はなんとしても自分の手で鎌倉を落とさねばと焦り始めていた。
 義貞は家臣を連れて稲村ヶ崎の海岸を偵察した。「あの岬の向こうへ回ることができれば府内へ入れるのだが…」と義貞は考え、船を用意するよう命じるが、9艘しか船が無い。しかも沖合には北条の軍船100余艘がひしめいて海沿いに来る敵を攻めるべく待機していて市中へ攻め込むのは容易ではない。ただこれより先、極楽寺坂方面の新田軍を率いていた大館宗氏が一時鎌倉市中に突入して戦死していたが、それは潮が引いた時を狙ってこの稲村ヶ崎をまわって行ったのだった。これを聞いた義貞はある作戦を思いつく。
 義貞は今夜全軍の総攻撃であるかのような陽動を仕掛け、三木俊連に極楽寺坂方面で火を放って北条軍の目を釘つけにするよう命じる。そして今夜の引き潮の時間を確認すると「この義貞は手勢を引き連れて稲村ヶ崎を駆け抜ける!」と作戦を明かした。

 そして5月22日夜、新田軍は各方面で一斉に大がかりな攻撃を開始した。そのころ、高時邸では鎧姿になった北条高時「いやじゃ!ここは動かぬ」と叫んでいた。長崎円喜金沢貞顕が必死になって高時だけでも船で鎌倉から脱出するよう勧めていたのである。しかし高時は「鎌倉あっての北条…鎌倉あっての高時ぞ!わしは動かん」と断固逃亡を拒否した。それでも説得を試みようとする貞顕だったが、円喜も達観したように「金沢どの…太守の仰せも道理ではある。この鎌倉は我らが築いた北条の都…我らが作った分身ぞ。それを失うて、いずくに我らの立つべき所やある」と言い、「この鎌倉を死守いたそうぞ!」と一同に呼びかける。これにその場の武者が「おおっ!」と応えた。

 5月22日午前3時頃。新田義貞が稲村ヶ崎の海岸にやって来る。そして海に歩み入り、太刀を両手で捧げ持った。「南無八幡…!我をここより渡らせ給え…!」と言うと、義貞はその太刀を海中へと投げ込んだ。
 その時、極楽寺坂方面に火の手が上がった。三木俊連の軍勢が火をつけて回ったのだった。沖合にいた北条の軍船はこれを新田軍の主力の攻撃と見て鎌倉方面へと移動を開始する。
 そして22日未明。潮は大きく沖へ引き、稲村ヶ崎一帯は広い干潟となった。海岸の状態を兵達が確認し、合図を送る。これを見た義貞は「いくぞ!者ども、続け!」と叫ぶと馬を駆って稲村ヶ崎へと突進した。騎馬武者たちが雄叫びをあげてこれに続く。新田軍は稲村ヶ崎を突破して守る北条軍の不意を突き、ついに極楽寺坂下の木戸を突破して鎌倉市中へ乱入、敵を蹴散らし家に火をつけて回る。混乱した北条軍は各所で総崩れとなり、化粧坂などの切り通しの防衛線も突破されてしまう。
 日中の鎌倉市中では各地で激しい市街戦が展開される。あちこちで斬り捨てられ、首を取られていく北条勢。荷物を抱えて逃げまどう庶民達。長崎高資も兵達を励まして逆茂木(さかもぎ)を築いて突進してくる新田軍を防ごうとするが、勢いに勝る新田軍に押されて突破されてしまう。逃げ出す味方の兵士を斬り捨ててまで戦おうとする高資だったが、彼にも矢が命中する。それでも「ひくなーっ!」と叫ぶ高資。

 そのころ、高時は顕子に化粧をほどこしていた。「顕子は良いおなごじゃ…わしが長年かけてようやくここまで美しうしたのじゃ」と言いながら紅を塗っていく高時。「おもとはこの高時の申すこと何でも聞くか?わしが死のうと申せば共に死んでくれるか?」と高時が問うと、顕子は黙ってうなづいた。
 高時が顕子の手を取って屋敷の中を歩いていくと、田楽一座の者達が泣きながら集まってきた。「この鎌倉が灰になってしまいまする!」「我らは太守さまのご恩顧で長らえてきた者…どうかおそばに」と泣きつく芸人達。高時はこれから一族を連れて菩提寺の東勝寺へ行くと告げ、一緒に来て滅び行く鎌倉の供養に最後の舞を見せるように命じる。
 東勝寺で田楽の踊りが始まった。賑やかな田楽の調べが流れる中、夕陽の差す鎌倉の各所では地獄絵図が繰り広げられていた。炎上する市街、殺戮されていく兵士達、泣く子を抱えて呆然と立つ女、生首を抱えて歩く武士のそばで無心に祈り続ける巫女たち…。

 もはや最期を覚悟した北条一門は死に場所と定めた菩提寺の東勝寺に集まってきていた。一同に今生の別れの酒が振る舞われ、田楽の踊りに続いて高時自身が扇と太刀で舞い、歌い始める。その最中、一角から声が上がり舞が中断する。重傷を負っていた高資が一足先に自害したのだった。高時は「さても気短な…もう死んだか。まだ舞は残っておるのに」とつぶやくように言い、また舞を始める。しかし一同が合わせて歌ってくれない。
 そこへ「太守、舞をおすすめ遊ばせ。この尼が相拍子をつとめましょうほどに」と女の声がした。覚海尼のそばに仕える春渓尼だった。春渓尼は高時に覚海尼の無事を伝え、また「どうぞお取り乱しなく北条九代の終わりを潔くあそばされますように」と母親からの言葉を伝えた。彼女は高時の最期を見届けに来たのだった。「花も咲き満つれば、枝を離れる日も否みようもなく参ります」と春渓尼。「高時は花か…だが人間には業がある。死にたくないと泣き吠えて死ぬかもしれん」と言いながら、高時は春渓尼の歌に合わせて舞を続ける。しかしパタリとやめて顕子の手を取り、「世の中、謡のようには参らん…さらばこの高時も甘んじて地獄に堕ち、世の畜生道をしばしあの世から見物いたすかのう」と自害の用意を始めるのだった。

 高時は太刀を腹に当て、「春渓尼…そこにいてよう見届けてくりゃれ」と切腹の態勢に入った。今にも刀を突き立てようとした時、にわかに鬨の声が聞こえてくる。「来たか?敵が来たのか!?」と思わず立ち上がり、うろたえる高時。「敵はまだ見えませぬ。ご案じのう…」と円喜が諭すように言う。そのまま呆然として立ちすくむ高時。これを見た春渓尼が側に控えていた女達に命じた。「太守がお寂しそうじゃ。みなここへ!」ただちに高時の周りに女達が群がり、まるで高時を中心に花が咲いたように取り囲む。彼女たちが念仏を唱える中、ついに高時は立ったまま太刀をおのれの腹に突き刺した。
 「円喜…こ、これで…よ、よろしい…か…」と苦痛に顔を歪めて高時が円喜に問い掛ける。黙ってうなづく円喜。「春渓尼…高時、こう…いたしましたと…母御前に…お伝え…してくれ…」と絞り出すように言い終えると、高時は舞うように崩れ落ちた。これを見届けて顕子が短刀を抜き、「皆様…お先に」と言うと自らの喉を刺した。これに促されるように、他の女達も「お先に」「お先に」と言いながら自らを刺したり刺し違えたりしながら果てていく。
 「春渓尼どの…」と円喜がうながし、春渓尼は立ち去っていく。女達に続いて北条一門の男たちも次々に自害を始めた。貞顕も短刀を抜いたが、眺めただけで鞘に戻した。「父上?」といぶかる息子の貞将に貞顕は短刀を渡す。そして自分の胸を指して「貞将…頼むぞ」と言い、息子の顔を撫でてからその鎧をしっかりとつかんだ。貞将は貞顕の心臓をひと突きにし、貞顕は一瞬で絶命。貞将もただちに自らの首筋を斬ってあとを追った。
 いつしか東勝寺は炎に包まれていた。一族郎党が次々と自害していく光景を見ながら、円喜は数珠を取り出して手に巻き、涙を流して祈り続ける。そして最後の一人となって真一文字に腹を切り、その刀で力を振り絞って自らの首筋を切った。そして手を天に差し出すようにして数珠を落とすと、崩れ落ちるように倒れていった。
 抱き合うように倒れている高時と顕子。それを紅蓮の炎が包み込んでいく。

 翌朝、右馬介は東勝寺の焼け跡にやってきた。一族の仇・北条を滅ぼす宿願をついに果たしたというのに、どうしたことか右馬介の心の中は空しさばかりであった。新田軍の兵士達は焼け跡を片づけながら「これが長崎殿だと言うのだが…」「あれが高時だというのは本当らしいぞ」「死ねば皆同じことじゃ」などと笑って言い、金目のものを拾い集めていた。右馬介の足が何かに触れて、見れば女性と子供の死体の足が焼け跡からのぞいていた。右馬介は沈痛な思いで自分の上着を脱いでその死体にかけてやる。
 右馬介の報告が六波羅の高氏にもたらされた。報告は義貞の見事な戦いぶり、登子たちが鎌倉に戻って変わり果てた鎌倉の姿に皆で涙したことなどを綴った上で、「足利の陣営に勝ったと笑う者一人も無く、不思議な勝ち戦にて候」と締めくくっていた。高氏は直義たちに投げ捨てるように手紙を渡す。
 六波羅の奉行所では再建の槌音が響き、家を焼かれ親を失った子供達が「食べるものをくだされ」と物乞いに集まってきていた。そんな光景を高氏が見ていると、赤松則村(円心)が部下を連れてズカズカと歩いてきた。鎌倉陥落の話をして「これで我らの世じゃ!良い世の中になりまするぞ」と則村は笑って立ち去っていった。
 「のう、直義、師直…戦には勝ったが、あの子たちに食べ物をやらねばならん、家も建てねばならん。これから大仕事じゃのう」と高氏は言うのだった。
 



◇太平記のふるさと◇
 
 鎌倉市。稲村ヶ崎、東勝寺跡、高時腹切りやぐらなどを紹介。


☆解 説☆
 
 ドラマの中盤のクライマックスとして鎌倉幕府滅亡を壮絶・華麗に描いた、このドラマ全体でも恐らく最高の完成度を誇る回。不幸にして主人公のはずの高氏クンは京都にいるため番組の最後に申し訳のように出てくるだけだ(笑)。
 大河ドラマはだいたい一年の真ん中当たり(だいたい6月、7月)にクライマックスとなる山場を持ってくる傾向がある。普通の物語だと終盤にもっと大きいクライマックスがあるものだが、大河ドラマでは終盤はだいたい大した山場が無い事が多く(予算も無くなってくるようだし)、この中盤クライマックスが最高の見せ場になっているケースが多い(その点「忠臣蔵」は絶対に終盤にクライマックスが来るんで得なんだよな)。「太平記」においては鎌倉幕府滅亡がこの中盤クライマックスにあてられることになった。僕もまぁそうなるだろうなとは予測していたが、内心では「それじゃ後半戦辛いぞ〜」と思っていたものである。 「太平記」はまともにやると鎌倉陥落なんて序盤のクライマックスに過ぎないのだ。

 鎌倉攻撃はドラマでも描かれたように、新田軍を三手に分けて三方から同時に行われた。武士の都として定められた鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた天然の要害であり、ここまで怒濤の進撃をしてきた新田軍もさすがに攻めあぐねることになった。ま、それでも結局落ちちゃうんだけど。考えてみるとその後の南北朝動乱を通して、鎌倉を守って勝った試しはない(笑)。その辺は京都と変わらないという見方もできるが、やっぱり日本の一都市で防衛戦をやるということ自体がすでに無理があるのかも知れない。
 
 幕府首脳キャラのトップを切って高氏の義兄・赤橋守時が戦死。古典「太平記」でも赤橋守時の自害は印象的に描かれている。そこで守時は配下の南条左衛門に「この戦で北条が滅ぶとは思っていないが、わしはここで自害しようと思う」と語っている。そのまま読むと変な話だが、守時は自害の理由に「謀反人の親戚として一族の者に疑われた」ことを挙げている。ここで古典「太平記」の定番、「史記」刺客列伝からの引用が入るのだが、そんな教養ある会話をしていたかどうかはともかく、守時がやはり妹婿の高氏の寝返りを気に病んでいたこと、また一族から冷たい目でみられていたことをうかがわせる会話である。「太平記」と並ぶ南北朝史書で足利寄りと言われる「梅松論」でも守時の戦死に触れており、「一歩も退かずに自害した」と記している。ドラマのナレーションで「退却を拒んでの死であったと伝えられる」の元ネタはたぶんこれだ。ドラマの守時はどういう風に死ぬのかな〜と楽しみ(不謹慎!)にしていたら、「もうひと合戦…!」とお堂を出ていく後ろ姿が最後だった。まぁこれはこれでカッコ良いですね。御苦労様でした。
 古典「太平記」ではこの守時を筆頭に北条一門の武将達が次々と散華していく様子がこれでもかこれでもかと列挙されている。鎌倉幕府を悪政の権化として描きその滅亡を必然視する古典「太平記」も、その滅亡の前にした武士達の散華の煌めきを描くことに筆を惜しんでいない。その一方で島津四郎という高時恩顧の武者が派手な鎧姿で颯爽と登場し、「おおっ、こいつは手強いぞ!」と思わせておいて、いきなり兜を脱いで降参するなんていう拍子抜けな場面も出てくる。こういうあたりが軍記物語「太平記」の持つリアリズムなんだよね。

 ドラマではナレーションやセリフで済まされてしまったが、義貞が攻め込むより先に、一門の大館宗氏率いる一隊が稲村ヶ崎の干潟を通って鎌倉市内に乱入し、猛烈な反撃にあって戦死してしまっている。新田義貞の名場面と言えば昔から「稲村ヶ崎」なのだが、彼より先にここを突破していた人がいるわけ。つまり干潟となる稲村ヶ崎を突破するなんてのは敵味方共に予想の範囲内だったのだ(だいたい潮の満ち引きなんて毎日やってるわけで、稲村ヶ崎も切り通しを造る以前から鎌倉に入る交通路とされていたと言われる)。このドラマでは戦略上の重点を沖合にいる北条軍船に置き、義貞が陽動作戦によりその軍船を移動させることに成功するという展開で描いた。 軍船うんぬんの話は吉川英治が「私本太平記」で強調しているところで、確かに古典「太平記」の「稲村ヶ崎干潟となる事」にも「横矢射んと構えぬる数千の兵船、落ち行く塩に誘われて遙かの沖に漂へり」という記述がある。稲村ヶ崎突破を神がかり的な奇跡のように描く古典「太平記」もよく読めば無視できない史実が見出されるという一例だ。まったくの余談だが、「歴史読本」の太平記特集号に載っているいしいひさいちの4コマ漫画で、義貞が太刀を投げ入れたら「千年に一度の大波・稲村ジェーン」が押し寄せてくるというギャグがあって大受けしたものだ(当時の映画ネタね、これ)

 新田軍が鎌倉市内に突入し、各所で展開される市街戦の模様は、このドラマの戦闘シーン中最高の迫力。大河ドラマ全体を通してもこれほど大がかりな市街戦映像が見られたことはなかっただろう。足利市に建設した市街オープンセットが最大限に利用された映像だ。燃え上がる火と逃げまどう民衆、そんな中で繰り広げられる殺戮。特に高資が守る逆茂木(現代語でいうバリケードね)に新田軍が突進してくるシーンは圧巻だ。こうした市街戦場面は余りに出来が良かったせいか、それとも製作費を食いつぶしたせいか、ドラマ後半戦の京都攻防戦で何度も使い回されることになった。せっかく鎌倉と京都のセットを別に作ったのに、一緒くたになっちゃっているのはかなり残念なところ。そういえば美術担当のスタッフとかプロデューサーの発言に「どうせ壊すんだから盛大な炎上シーンにしちゃうか」という話が出てくるのだが、さすがに実行はしなかったようだ。この鎌倉攻防戦でもところどころに火と煙が上がっている程度である。
 東勝寺で田楽の踊りが繰り広げられ、そのメロディーが流れる中で鎌倉市中の惨状をカットバックで描いていくところも、これぞ映像美、というべき名場面。田楽って本来酒の肴にされるぐらい明るい調べなわけだけど、そこに陰惨な滅びのイメージが重なることによって、「滅亡の美」を強烈に醸し出すことに成功していた。生首持って歩いている武者が出てきたり、上半身裸の巫女(第一回でもいたな)が出てきたり、NHKにしてはかなりショッキング(?)なものも映る。このシーン見ていると、なんとなく黒澤明監督「乱」の三の城落城の名シーンを連想しちゃうのだが。

 高時切腹にいたるやりとりはほとんど「私本太平記」のまんま。春渓尼というキャラクターが唐突に登場するが、これは「私本」の方を読むともう少し深みがある。小説ではもっと若く美しい尼で、どうやら高時と恋愛関係だか三角関係になったこともあるらしいのだ。そう言う人が高時の最期を見届ける事に作者の意図があるのだが、ドラマでは全く説明がないので「なに、この人?」という印象しか受けない。高時が「敵が来たのか?」と言って切腹を渋る様子を見せ、侍女達が花のように高時の周りに集まるのも「私本」にそのままある描写。それにしてもこの場面ってみんなでよってたかって高時を殺しているようにも見えちゃうんだけどな(汗)。なお、顕子はドラマのオリジナルキャラクターだが、そこそこ上手くこの場面に花を添えている。「皆様、お先に」は小田茜がしゃべったたった2つのセリフのうちの1つ(笑)。

 児玉清の金沢貞顕の死に方は切腹ではなく息子・貞将に心臓を刺させるという異例の形になった。まさか「救心」のCMに出ていたからってわけではあるまいな(笑)。古典「太平記」では貞顕の自害についてはただ名前を自害リストの中に載せているだけだが、貞将の方はかなりの見せ場が用意されている。戦場から手傷を負って東勝寺に帰ってきた貞将に、高時が喜んで彼を六波羅探題に任命する旨の御教書を与えるのだ。もちろん貞将は北条の命運が今日で尽きると分かっているが「長年望んできた一族の名誉の役職。冥土への良い思い出になりましょう」と感謝して受け取り、その御教書の裏に「我が百年の命を捨てて公の一日の恩に報ず」と書いて体に身につけ、大軍の中へ突入して戦死してしまう。だからドラマの死に方は完全な創作。もちろん「太平記」だってどこまでホントか分からないけれど。

 ドラマでは鎌倉幕府滅亡の「トリ」をつとめるかのように、フランキー堺の長崎円喜が最後に自害する。それも腹を一文字に切った上に自ら頸動脈を切るという「正統派」の切腹だ(まぁ十文字に切るのが正統らしいがまず無理だって)。ところが古典「太平記」の円喜は全く異なる最期となっている。高時がちゃんと自害するかどうか見届けてから死のうと円喜が様子を見ていると、彼の孫の長崎新右衛門というまだ15才の少年が「父祖の名をあらわすをもって子孫の孝行とする」とか言っていきなり円喜の脇腹を刀で刺し、自らもその刀で腹を切って重なり合うように果てるのである。少年のこんな最期を見て高時も腹を切るという展開になっていた。つまり円喜はトリどころか真っ先に死んで(殺されて)いたのである。ドラマのあの最期はもう俳優サンの格の問題なんでしょうかね。

 ドラマでは描かれなかったが多少関連のあるエピソードを古典「太平記」からいくつか紹介しよう。
 新田義貞の妻の伯父・安東左衛門入道聖秀という武将がいる。彼を助けようと義貞の妻が手紙を出すのだが、聖秀は降伏の誘いを拒否して(これがまた例によって中国古典からの引用をするんだよな)自害してしまう。義貞の正室はドラマの第24回に顔を出しているが、こうした話はいっさい登場せず、「実家の父も喜んでいる」というセリフが出てくるだけ。義貞の正室というのがどういう家の出だったのかは今ひとつ不明だ。

 長崎高資の奮戦と一足先の自害がドラマで描かれていたが、これに近いかな、と思うのが高資の息子の長崎高重である。彼は北条滅亡を覚悟すると、せめて一矢報いようと敵の総大将・義貞の首を狙う。いったん東勝寺で高時のもとに参上して「私が戻るまでご自害なされますな。その間に思う存分に戦って冥土へお供する時の語りぐさにいたしましょう」と言い残して出陣し、まんまと新田軍の中に紛れ込む。しかし義貞の家臣に正体を見破られ、結局義貞と組み合うことは出来なかったが、その代わりとばかりに大暴れして新田軍を思う存分に引っかき回し、東勝寺へと帰ってくる。祖父の円喜が「遅いぞ」と出迎えると「義貞に会えなかったので雑兵共を蹴散らして来ました。もう少し暴れても良かったのですが、高時様の事が気にかかり帰って参りました」と豪快に答える。そして一同に自害を勧め、自ら腹をかっさばいて内臓を取り出し「これを肴にせよ」と言って果ててしまう。まぁとにかく北条氏の最後を飾る豪快なお話なのだ。

 この東勝寺付近で鎌倉幕府滅亡と共に自害した人間の数は遺骨などから総勢900名以上にのぼることが確認されている。日本の歴史上でもこれほど劇的、かつ派手な滅亡をしたケースは珍しいと思う。古典「太平記」の著者は「史記」の世界を借りて「悪政は滅び、善政は栄える」という構図でこの革命を描こうとしてとりあえずここまでは破綻しないで済んでいる。で、これを倒して善政を始めるはずだった後醍醐・建武政権がどうなったのか、それを描くのが「太平記」の第二部である。ドラマも次回から雰囲気を変えて第二部へと突入することになる。