◎巨匠の手になる「劇画・太平記」 中央公論社
(現在は読売系で「中央公論新社」に引き継ぎ)は
1990年代に積極的に「マンガ叢書」とも呼ぶべき本を発売していますが、石ノ森章太郎の「日本の歴史」と並ぶ大型企画がこの「マンガ日本の古典」です。
それまでにも古典名作の漫画化の例はいくつもありましたが多くは児童向けだったのに対し、こちらは大人向けを前提に、しかもベテランの大物漫画家たち
(名前を並べると日本マンガ史そのものとも思えるほどスター漫画家そうざらえの感があります)に
執筆させるという意欲作でした。古典のコミック化なのは間違いないのですが、その内容・表現についてはそれぞれの作品を担当した漫画家さんの裁量に大幅に
任せているのも特徴で、作品ごとにその担当者の作家性が濃厚に出たシリーズとなっています。僕も全部は読んでないんですが、石ノ森章太郎の「古事記」
(004が出てきたりするんだよな)、横山光輝の「平家物語」
(「三国志」とノリがほとんど一緒)、矢口高雄の「奥の細道」
(曽良をあえて青年に描いている)など、単純な古典のコミック化にはとどまらない、その漫画家のファンならちゃんとチェックしておかないといけませんよというシリーズだと思います。
さて問題の「太平記」を担当したのは、劇画の巨匠・さいとう・たかをさんです。このシリーズの人選ってどうやって決定されたのかわかりませんが
(少なくとも矢口さんの場合自分から「奥の細道」を選んだようです)、
「平家」を横山光輝に対して「太平記」をさいとう・たかをとは、なんと見事な人選かと当時思ったものです。血で血を洗い、裏切りと謀略に満ちたハードボイ
ルドな「太平記」世界を描くのに、さいとう劇画はもっともうってつけだと感じたものです。そしてその予想はおおむね裏切られませんでした。
「あとがき」にさいとうさん本人が書かれてますが、昭和十一年の生れである作者は「皇国史観教育」を受けた最後の世代だといいます。
楠木正成は大忠臣、
足利尊氏は大逆賊、
後醍醐天皇は
絶対神格化といった「吉野朝時代」教育を叩きこまれた最後の世代であり、間もなく敗戦によりそれらを全て「墨塗り」させられ「昨日までの英雄が突如として
抹殺されたことに戸惑いを感じた」世代でもあるわけです。「太平記」の劇画執筆が決まって「太平記」原典を通読し、かつての教科書を思い出して少なからぬ
感慨があったといいます。
「劇画こそスペクタクル・シーンに最適のメディアである」との持論を掲げるさいとう氏。確かに映画やドラマで大合戦シーンとかやると金と手間がかかって大変ですからね。大河「太平記」だってあまりにも合戦の連続
(しかも山岳・平野・都市など戦場も多彩)で、
後半は映像の使い回しを駆使するなど苦労してるのがよくわかりましたし。そこいくと劇画はどんな大集団のスペクタクルシーンでも手軽に描けます、というの
は確かでしょう。ただ劇画でも同じような合戦シーンが繰り返される恐れがあり、それを避けるため合戦ごとに演出を工夫したとさいとうさん本人も書いてま
す。この言葉にウソはなく、この劇画「太平記」の全編にわたって繰り広げられる合戦シーンの迫力・凄惨さは抜群のものがあります。
◎ハードなタッチで展開される「太平記」
さいとう版「太平記」は上・中・下の三巻構成。奇しくもさいとう・たかを氏の親友であった石ノ森章太郎の「日本の歴史」南北朝シリーズと同じ18・19・
20巻となっています。当然両者は同じ場面を多く含んでおり、描き方の違いを比較してみるのも一興でしょう。上巻は鎌倉幕府の滅亡まで、中巻は湊川の戦い
まで、下巻は一応古典「太平記」と同じ義満の登場までナレーションで語ってはいますが、劇画としては尊氏の死をもってエンディングにしています。
前述のようにこのシリーズは、古典をどう「料理」するかは作家各自の裁量にほぼ任されていて、さいとう・たかを氏も「太平記」をかなり自分流に料理しています。その料理の仕方は一言でいえばハードボイルド。
ゴダイゴ13の世界と思っていただければよろしい(笑)。このゴルゴ天皇、顔からしてソックリですし、目的のためには手段を選ばず、時には平気で味方を切り捨てる非情さなどは古典「太平記」よりも強調されてると感じます。
足利尊氏もかなりゴルゴ顔(笑)でして、一見見分けがつかないぐらい。「太平記」の描きぶりに従っているからでもあるでしょうが、かなり男くさい野心家の
イメージで描かれています。例の出家騒動で「一束切り」にするとあの「騎馬武者像」に近い感じになるのは、さいとう氏も「尊氏」というとあの絵のイメージ
を抱いておられるのかな、という気もします。「太平記」にも記されている「躁鬱」的な言動をする描写もありますが、他の作品に比べ「非凡な軍事能力」をも
つ頼れる指導者、最終的な勝利者という印象が強くなってる気がします。
直義の死の場面で尊氏が吐く
「ともに闘いともに笑いともに天下を治めようとした…に」「これが…戦の世に生きる者の宿命なのかっ」という独白はもちろんこの劇画オリジナルのものですが、なかなかいい味を出してます。オリジナルといえば、尊氏がらみでは「太平記」ではなく足利方の立場をとる「梅松論」からエピソードをもってきている場面もいくつかありますね。
楠木正成は
と言えば、吉川英治や大河ドラマ版の影響でしょうか、どちらかといえば「田舎のオッサン」な印象を受けるデザインになってます。彼の見せ場である赤坂・千
早の籠城戦は「太平記」そのままに描かれ、かなりの迫力です。湊川での最期も「太平記」の記述そのままとは言え、「南無阿弥陀仏」と念仏の合唱が奏でられ
るなかで刺し違えていくという、とても印象的な演出になっています(右図)。
一方の
新田義貞は少々キツい顔ですね。義貞といえば燈明寺畷の戦死シーンは「太平記」の記述とは異なり、あっさり敵に首をはねられる描写になっています。意外なところで義貞戦死後の弟・
脇屋義助の戦いが詳しく描かれたりしています。義助が北陸で敗れ、吉野へ落ちる道中でかつての栄光の日々を回想するという珍しいシーンも描かれており、作者がこの地味な人物に不思議と共感を寄せているような感じもします。
南北朝の戦いの模様は
楠木正行の
戦死でだいたい終わってしまい、あとは観応の擾乱が簡潔にまとめられてます。直義の死後、巻頭の南朝方が一斉蜂起したのを尊氏が見事な戦略で打ち破り、そ
の後の戦いでも尊氏が最終的に勝利して室町幕府の基盤を作ったというナレーションを彼の死に顔とすでに死んだ群雄たちの顔をにかぶせて劇画は終わり。足利
直冬がまったく登場せず、その後も続く南北朝動乱もカットされているのはページ数の都合もあったのでしょうが、「尊氏が天下をとった」というわかりやすい
形で話をまとめようとした感もあります。
◎もしかして真の主人公!? この劇画、古典にはないオリジナルシーンが目につくのは前述の通りですが、その最大のものは後醍醐天皇の寵妃・
阿野廉子の
扱いでしょう。古典「太平記」でも「傾国の美女」と悪く言われる廉子、古典での出番は実際はほとんどないのですが、さいとう版では序盤から終盤まで要所要所で顔を出
します。
後醍醐天皇に見染められ、寝所をともにしたところで
(きっちり濡れ場も描いちゃうところはさすが劇画です。勾当内侍もそう)早くも幕府打倒を天皇にささやき、わが子が生まれると「何としても我が子を天皇に」と考え、討
幕の密議にも自ら参加
(「太平記」では彼女の参加の記述はない)、
隠岐では後醍醐を励まして寄り添い、建武政権ではもちろん大活躍(笑)、尊氏との講和をはかる後醍醐に堀口貞満が抗議に来る場面では自ら「無礼者!」と身
を乗り出して後醍醐のピンチを救い、、吉野でも我が子を殺された復讐に燃え、落ち込みがちな後醍醐を叱咤して南北朝動乱の原動力になり、後醍醐臨終シーンでは「義良を天子の位
に…」と後醍醐の遺言を聞きとる
(どうも廉子が捏造したような描写になってます)などなど、とにかく強烈な存在感。なんだか
南北朝動乱の真の主人公は実は廉子だったのではないか、という読後感すら残します。
「太平記」は軍記物ですから、もともと女性キャラは希少な存在。その中でもひときわ存在感のある廉子は小説やドラマ
(といっても実質一例しかないですが)でクローズアップされることが多いのですけど、このさいとう劇画はその究極をいった感がありますね。激しく男臭い「さいとう劇画」にあって「女は怖い」と思い知らされるというという点でもユニークです(笑)。
◆おもな登場人物のお顔一覧◆
けっこう登場人物が多いのですが、他作品との比較がしやすい人を厳選。
皇族・公家 |
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後醍醐天皇 | 護良親王 | 日野資朝 | 日野俊基 | 阿野廉子 |
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坊門清忠 | 千種忠顕 | 文観 | 万里小路藤房 | 北畠顕家 |
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後村上天皇 | 光厳天皇 | 西園寺公宗 |
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北条・鎌倉幕府 |
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北条高時 | 北条泰家 | 北条時行 | | |
足利・北朝方 |
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足利尊氏 | 足利直義
| 足利直冬 | 高師直 | 高師泰 |
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赤松円心 | 土岐頼遠 | 佐々木道誉 | | |
新田・楠木・南朝方 |
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楠木正成 | 楠木正季 | 楠木正行
| 名和長年 | 児島高徳
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新田義貞 | 脇屋義助 | 勾当内侍 | | |