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「カリオストロ伯爵夫人」(長編)
LA COMTESSE DE CAGLIOSTRO

<ネタばれ雑談その2>

☆コー地方に浮かぶ北斗七星
 
 『カリオストロ伯爵夫人』は『奇岩城』と並んでノルマンディー北部、コー地方を主舞台に展開される物語だ。そもそも物語の発端、デティーグ男爵の屋敷はエトルタ、あの「エギーユ」のすぐそばにある。一夜を共にしたラウールとクラリスが一緒に窓から眺める景色が以下のように描写されている。

 ふたりの正面、塀に囲まれた大きな果樹園のかなたに、菜種の花がいちめんに照りかがやく野原があり、谷間の右手にはフェカンまで一本の白い線になってうちつづく高い断崖が、左手にはエトルタの入り江とアバルの港、あるいはまた巨大な奇岩城の岬が見える。(偕成社版、竹西英夫訳)

  シリーズ読者にはわかりやすいんで「奇岩城」「奇厳城」と訳す本が多いが、原文では「エギーユ(針岩)」だ。窓からすぐ見えちゃうぐらいだから、本当にす ぐ近くに建っているのだ!ルパンも将来の自分の秘密基地がこんなにすぐそばにあったとは!と後年ビックリしたに違いない(笑)。なお、この訳文と創元版で 「アバルの港」となっている部分はハヤカワ版にあるように「アバルの水門」が正しい。「エギーユ」と並んでセットの形になっているアーチ型の奇岩のことだ。
 デティーグ男爵たちがジョゼフィーヌ=バルサモを海に沈めて殺そうとし、ラウールが彼女を救出する舞台もこのエギーユのすぐそばの海岸で、断崖を登り降りするのに使っている「司祭の階段」は、『奇岩城』でも登場している。

 ラウールが七本枝の燭台を発見して逃走した現場はグール(Gueures)の城館。文中ではエトルタから汽車に乗って二度乗り換え、小さな駅で降りてさらに10kmという描写でボカしているが、地図で探すと「グール」という地名はちゃんとリュヌレーの近くに実在している。ジョゼフィーヌと合流したラウールは馬車でリュヌレー(Luneray)ドゥードビル(Doudeville)イブトー(Yvetot)を経由してコードベック(caudebec)からサン=ワンドリーユ(Saint-Wandrille)を通ってルーアン(Rouan)へと移動した。ルーアンは言うまでもなくルブランの故郷で、この小説でラウールとジョゼフィーヌが馬車で駆け抜け、ルパンが言うところの「カプアの逸楽」を楽しんだルートは、ルブラン自身が青春時代に自転車で走り回ったルートでもあったのだろう。

 物語のクライマックス、ラウール、ボーマニャン、ジョゼフィーヌ、そしてクラリスが一堂に会して緊張した謎ときが行われる名場面の舞台となったのはタンカルヴィル(Tancarville)の 古い灯台。本文中にも描写があるが、ここはセーヌ川河口を少し入った地点で、ここからル・アーブル港へつながるタンカルヴィル運河が掘られている。灯台と いうと海にあるものと思いがちだが、セーヌ川はパリと大西洋を結ぶ重要な水運ルートとなっていて多くの船が行き来しているため当然灯台も必要なのだ。ルブ ランの故郷ルーアンもそうしたセーヌ水運の港町の一つであり、ルブランの父はまさにその水運業で財をなした人物だった。家業を継がずに作家になってしまっ たルブランだが、この小説におけるセーヌ川を行き来する「ノンシャラント号」の描写には、そうした家業の知識が反映しているようでもある。
 …などと考えていくと、やっぱりこの小説における青春まっさかりのルパンの姿は、青春時代のルブラン自身を反映しているのではないかなぁ…。

  さて、謎を解いてもいないくせに謎の解答を教えることを条件にクラリスを解放させるという毎度おなじみの「嘘つきは泥棒の始まり作戦」(笑)をやっちゃう ラウールであったが、それからしっかり謎を解いてしまう。その解答とは、謎の手がかりとされた七つの修道院を線で結ぶと、なんと北斗七星の形になる!というものだ。これはまさに「奇岩城」に匹敵する大技。よくこんなこと考えたなぁと感心しちゃう。もしかするとルブランは若き日の自転車旅行のときにこんな妄想を抱いていたのかも知れない。
 ところでこの七つの修道院、ジュミエージュやサン・ワンドリーユ、サン・ジョルジュ・ド・ボシェルビルといった修道院はそれぞれちゃんと実在しており、有名なものだ。ただ「クルシェ・ル・バラス(Cruchet-le-Valasse)」という地名は実在しない。ただしほぼ同じ位置に「グルシェ・ル・バラス(Gruchet-le-Valasse)」という一字違いの地名は実在しており、なんでこれだけ変えたのかは不明。単に誤字・誤植の可能性もあり、映画「ルパン」では実在の地名「グルシェ」で発音していた。その映画「ルパン」では、サン・ジョルジュの修道院の位置をルーアンの北方に配置していたが(確かにそっちにも「サン・ジョルジュ」という地名はあった)、ネットで調べた限り「サン・ジョルジュ・ド・ボシェルビル(Saint-Georges-de-Boscherville)」の修道院として有名なのはルーアン西方にあるもののようだ(公式サイトまであった)
 上の地図で「北斗七星」を再現してみたが、小説中に掲げられている図ほどカッコよく「北斗七星」にはならないような気もするなぁ…。映画でサン・ジョルジュの位置が変えられているのはそのほうが北斗七星の形に似てくるからではなかったか。

 修道院のお宝は「北斗七星」の「アルコール(Alcor)」の位置にある。本文中のラウールの説明にもあるように、「アルコール」とは北斗七星の尾の部分の真ん中の星「ミザール」のすぐそばにあり、見かけ上の「伴星」となっていて、そこそこの視力がないと「ミザール」と「アルコール」を分離して認識できないため、視力検査に使われていた。『カリオストロ伯爵夫人』本文では「アルコール」を「アラビア語で“試練”という意味」と説明しているが、実際には「アルコール」の語源「アル・クワール」が「かすかで小さいもの」という意味で、そのくらい見分けづらいことから「アル・サダク(試験)」の名で呼ばれたこともあった、ということらしい(この辺、いろんな説明を読んでみたが諸説入り乱れているので確信がない。ハッキリわかる方、教えてください)
  ところで「アルコール」にしても「ミザール」にしても、みんなアラビア語に由来している。これはもともと天文学・占星術がイスラム圏で発達して、それらの学 術書がそのままヨーロッパに紹介・普及したためだ。同様のことは科学分野にも言え、お酒の成分「アルコール」もアラビア語に由来している、というのは余 談。

 アルコルはミザールのすぐそばにいて「騎乗」してるように見えることから、「乗り手」の別称で呼ばれたこともある。また中国では「輔星」、日本では「そえ星」と呼ばれるなど、「おまけでくっついてる星」という扱われ方が世界的に多いようだ。また日本のある地方ではこの星について「寿命星」などと呼んで「この星が見えなくなったら間もなく死ぬ」という迷信まで存在するという(老眼により見えなくなるのだから、「死が近い」のも根拠がないわけではない)。これが漫画「北斗の拳」の「死兆星」の由来だというのだが、あれは「見えると間もなく死ぬ星」なので意味合いが逆になってしまっている。

 アルコルの項目をWikipediaで見ると、「アルコルが登場した作品」の欄に日本語版では「北斗の拳」や「聖闘士星矢」(アニメ版)が紹介されているが、さすがフランス語版では『カリオストロ伯爵夫人』がバッチリ紹介されている(笑)。


☆そして「怪盗ルパン」の誕生へ…

 物語の結末で、ラウール=ダンドレジーはめでたくクラリスと結婚。「できちゃった婚」だったわけだが、残念なことに生まれた女の子は産後間もなく死んでしまった。映画「ルパン」ではこの「できちゃった」最初の子供をジャンにしちゃってたけど。
  ラウールとクラリスの幸福な結婚生活は5年間続いたという。二人の結婚は1894年後半と推測されるから、1899年まで幸福が続いたことになる。その間 もラウール=ダンドレジーは表向きは貴族(子爵)として普通に生活していたが、陰では妻に隠れて泥棒稼業に邁進、実は妻の実家のすぐそばにあった「奇岩 城」の発見もこの時期にしていたという。

 そして結婚6年目の初め、クラリスは男子ジャンを産むが、「産後の肥立ちが悪いのがもとで」死んでしまった。この部分、最新の平岡敦訳では「産褥で亡くなり」と なっているように、これは出産時の感染症によるもので近代医療未確立な時期にはよくあるケースだった。とくに感染症の認識がほとんどなかった19世紀医療 では不衛生な医者たちの手からの感染が多く、かえってそれ以前の、いわゆる産婆さんによる出産の方がよっぽど安全だったという説もある。19世紀半ばにハ ンガリー出身の医師イグナッツ=ゼンメルワイス(1818-1865)がこの 危険性に気づいて「不衛生な医師の手からの感染」が産褥熱の原因であると主張したが、当時はまだ細菌というもの自体の認識が薄く、産褥を伝染病の一種とみ る学説が主流であったためゼンメルワイスの説はほとんど相手にされなかった。ゼンメルワイスの正しさが立証されるのはパスツールコッホにより細菌の研究が進んだ1870年代以降のことだ。そういえば『ルパンの脱獄』では1894年段階でルパンがサン=ルイ病院で「細菌学に関する巧みな仮説」をたてていたという話があった。
 ともあれ1890年代段階では産褥の原因も分かっていて出産医療もそれなりに進歩していたとは思うのだが、21世紀の今日ですら出産は母体の生命の危険を伴っている。クラリスもそうした不幸の一例であったのだろう。

  クラリスの死の翌々日、生まれたばかりのジャンが何者かに誘拐される。これがジョゼフィーヌ=バルサモ、カリオストロ伯爵夫人の手によるものなのは明らか で、のちのちこれが恐るべき「カリオストロの復讐計画」の一環であったことが明らかになるのだが、それはいずれそちらのほうで。ルパンはその後数々の大冒 険を繰り広げながらも常にこの息子を探し求めていたというわけなのだが、どの話でもそんな影は微塵も感じられないんだがなぁ(笑)。しかしそういう秘めら れた暗い部分が常にルパンにつきまとっていたと思ってそれぞれの冒険譚を読み返すと、あの過剰なまでのネアカぶりは実は「影の部分」を自ら払拭しようとす る反動的行動であるとも見えてくる。

 息 子をうしなった悲しみが、彼を変貌させた。もはやひきとめる妻も息子もない彼は、本能があらんかぎりの力をもってひきずりこもうとする道のなかに、意を決 してとびこんでいった。またたくまに、ラウールはアルセーヌ=ルパンとなった。もはや遠慮はいらなかった。はばかることもなかった。それどころか、話は正 反対だった。スキャンダル、挑発、尊大、虚栄心と嘲弄の見本市。壁という壁に名前を書きしるし、金庫という金庫に名刺を残し去った。アルセーヌ=ルパンさ まだ、ざまあみろ!偕成社版、竹西英夫訳)

 そう、ルブランもちゃんと書いている。妻と子を失った悲しみこそが、やたらに自己顕示欲の強い「怪盗紳士アルセーヌ=ルパン」を本格的に始動させたのだ。「アルセーヌ=ルパン」という彼の本名は、クラリスの死後に大々的にアピールされるようになったということだ。

 ただ、過去に書かれた『ルパンの脱獄』には「被告は今から三年前、どこからともなくアルセーヌ=ルパンとして現れた」と いう裁判長のセリフがあった。『逮捕』〜『脱獄』の雑談に書いているように、ルパンのアメリカにおける逮捕は1899年、裁判と脱獄は1900年のことと 推測される。だとすると1897年には「アルセーヌ=ルパン」として活動を開始していたはずなのだ。ここは明らかに矛盾なのだが、ひとつの逃げ解釈とし て、この1897年の時点では「ルパン」とは名乗ってなかったが後から「あれはルパンの犯行だった」と判明したと考えることも一応可能。それ以前にさかの ぼって奇術師や医学生だったことなどルパンの過去の経歴が追跡されていることもその傍証になるかもしれない。
 逆に1899年にルパンがアメリカ に渡った理由のひとつが『カリオストロ伯爵夫人』から推理できる。ちょうどこの年、ルパンは妻と息子を失って「怪盗紳士」としての暴走を開始し、ヨーロッ パをまたにかけてガニマールと追いかけっこをしていた。その追跡を逃れるための渡米だったのだろうが(あの「右腕の負傷」もガニマールに追われるなかで負ったのだろう)、アメリカといえば彼の父テオフラストが詐欺容疑で逮捕されて獄死した国だ。妻も子も失ったルパンが「家族」の記憶を求めて、亡き父の面影を追っての渡米であった…という想像もできるんじゃないかと。


☆その他いろいろ

  ところでそのルパンの父テオフラストは体操・フェンシング・ボクシング教師だったという。その逮捕と獄死の時期は不明ながら、どう考えてもルパン6歳以前のことのはずだ。だが 6歳までに息子を鍛えに鍛えたのか(お乳を飲んでる時期にボクシングを仕込んだという恐ろしいセリフもある)、『カリオストロ伯爵夫人』のなかでラウール=ルパンは何かというと父親譲りの自身の体力の自慢をしている。とくに注目 されるのはルパンが巨漢レオナールと格闘して勝利したあとに言う次のセリフだ。

 「どうだい、みごとな一撃だっただろう?」と彼はにやにや笑った。「テオフラスト=ルパン先生の遺訓、日本流武術の一節をちょいとためしてみたのさ」(偕成社版、竹西英夫訳)
 
 ボクシングだけではない、テオフラストは「日本流武術」の心得もあったのだ。この「日本流武術の一節」は原文では「chapitre des méthodes japonaises」となっていて直訳すると「日本の方法の一章」といったところ。創元版・井上勇訳では「日本流の奥伝」、ハヤカワ版・平岡敦訳では「日本流武術」となっている。ポプラ社・南洋一郎版にいたっては「ジュウドウの“しめおとし”という術」と明記までしているのだが、実際のところ原文を見ただけでは「柔道」とは断定できない。「一撃」と言っているように、どうもパンチかチョップを繰り出した可能性も高い。
  これも「脱獄」の雑談で触れたことだが、アルセーヌ=ルパンは1890年ごろにまだフランスでは知る人も少なかった柔道の教師をしていたことになってい る。だから1894年の段階でルパンが柔道を使うことはとくに不自然ではないのだが、「父親譲り」という言い方は気になる。フランスに柔道が伝来したのは 1889年のパリ万博に講道館柔道の創始者・嘉納治五郎がやって来たことに始 まるはずで、1880年以前に死去したテオフラストが近代的な講道館柔道を知る機会はまずなかったはずなのだ。もちろんそれ以前から武道としての「柔術」 は存在していたので、それが何らかの形でフランスに伝わっていた可能性はなくもないが。ルパンが使う柔道も「脱獄」で見せた「ウデヒシギ」がどうみても空 手チョップだったりするので、講道館柔道かどうかは怪しい気もする。
 なお日本武術といえば、シャーロック=ホームズが「犯罪界のナポレオン」モリアーティ教授との対決で「バリツ」な る謎の「日本式格闘技」を使ったことが有名だ。これも柔道(柔術)のことなのか昔から議論がなされているが、どうも投げ技っぽいのである。このホームズと モリアーティの決闘があったのは1891年のこととされていて、『カリオストロ伯爵夫人』より3年前、ルパンが奇術師のもとで修行していたかと推測される 頃の話だ。


 「カリオストロ伯爵夫人」の美貌についての描写でなにかと名前が出てくるのがルネサンス期の画家ベルイナルディーノ=ルイーニ(Bernardino Luini、1482?-1532)。ルパンも盗んでいた「モナ・リザ」で知られるレオナルド=ダ=ヴィンチの後輩で、直接影響も受けた実質的な弟子だったとも言われている。そのタッチは確かにダ=ヴィンチによく似ており、ルイーニの作品なのに長いあいだダ=ヴィンチ作品と信じられていたものもいくつかあるほど。
 ジョゼフィーヌ=バルサモはその母親ともどもルイーニの描く聖母マリアによく似ているとされている。どんな顔なのか、実例を並べてみよう。

幼い聖ヨハネと聖家族
(プラド美術館蔵)
薔薇園の聖母
(ブレラ美術館蔵)
カーネーションの聖母

  こうして並べてみるとなんとなく想像がつくのではないだろうか。小説中では「聖家族」の絵から肖像が模写されたという話が出てくるので、おそらくはいちば ん左の絵のイメージがいちばん強いと思われる。小説の終盤でジョゼフィーヌ自身が鏡の前で頭にかけたヴェールを顔にたらし、「ルイーニの描く聖母」のポー ズをとる描写があるが、こんな風に少し頭を傾け、眠たげな慈愛に満ちた目で斜め下を見下ろすポーズなんだろう。なお、フランス語版Wikipediaで 「ベルナルディーノ=ルイーニ」の項目をみると、『カリオストロ伯爵夫人』の紹介がちゃんとあって嬉しくなってしまった(笑)。
 クラリスもジョゼフィーヌとの初対面でその優しげな美貌に感銘を受けて「親切な人に違いない」と思っちゃうのだが、それが大変な悪女であるところがこの小説の面白さでもある。美貌の悪女、ということではデュマ『三銃士』の登場人物・ミレディーの影響もあるような気がする。


 タンカルヴィルの灯台で謎解きをするラウールが「ぼくはポリネシアでいうところの<タブー>なんだよ」と言う。現在でも「触れてはならないもの」「禁忌」の意味で使われる「タブー(仏語ではTabou)」とは、ラウールの言うように太平洋のポリネシア語に由来する。これは太平洋・南洋各地を探検したイギリスの探検家ジェームズ・クック(James Cook,1728−1779)が現在のトンガを調査した時、現地の人々から「禁じられていることを総じて“タブー”という」と 聞かされて、それを報告書に書いたことでヨーロッパじゅうに広まったものだ。クックの時代から一世紀以上が過ぎていたこの時代、「タブー」という言葉自体 はよく知られていたのかも知れないが、わざわざ「ポリネシア語でいうところの〜」などとつけるあたりがルパンがたまにひけらかす「学識」というやつだ。ク ラリスとの会話でも、「ホメロスをギリシャ語で、ミルトンを英語で暗唱してみせようか?」と言ってみせてるし、『ルパンの脱獄』や『奇岩城』でもえらく高尚な書籍を読んでいる描写があった。こういうところは貴族出身の母親が素養を仕込んだのだと思われる。


 謎ときにかかったラウールが「おおい、ボーイさん、書くものをもってこい!上等の紙がいいぞ。蜂鳥の羽根でつくったペンと、黒い桑の実からしぼった汁を持ってこい。文箱はレモンの木の皮でつくったものがいい。詩人がそういっておるぞ」(竹西英夫訳)と言い出す。さて、この「詩人」とは誰なのか、気になったので原文をたよりにネット検索かけて調べてみたらすぐに発見できた。いやはや、便利な時代になったもんである。
 これはルイ=ブイエ(Louis Hyacinthe Bouilhet,1822-1869) の書いた「CHANSON D'AMOUR(愛の歌)」という詩。以下に引用してみよう。訳は例によって自動翻訳と辞書をちょろっと使った適当なものですのであしからず。

 Allez au pays de Chine,   さあ中国の地へ行け、
 Et sur ma table apportez  そしてぼくの机の上に届けよ
 Le papier de paille fine   上質のわら紙を
 Plein de reflets argentés !   銀色でいっぱいに輝いた!

 Pour encre et pour écritoire,  インクと文箱とをとるために、
 Allez prendre à l'Alhambra   さあアルハンブラ宮殿へ向かえ
 Le sang d'une mûre noire   黒い実の樹液でできたやつと
 Et l'écorce d'un cédrat !   そしてセブラの木の皮でできたやつとを!

  Au fond des vertes savanes   緑のサバンナの奥地に
  Où l'oiseau pousse son cri,   どこで鳥は鳴くのだろうか
  Ramassez dans les liams     蔓植物をかき集めよ
  La plume d'un colibri !  蜂鳥の羽根も!  

 Puis, pour sécher l'écriture,  それから手紙を乾かそう、
 Par les prés et les sillons,   草原と畑の上で、
 Recueillez, la poudre pure  集めよ、きれいな粉を
 Qui tombe des papillons !  蝶が落としていったものを! 

 要するに恋文を書くために、世界中から上質の材料を集めてこい、という詩らしい(間違ってたらごめんなさい)。なお「黒い実」となってる部分は「桑の実」と訳す人と「黒苺(いちご)」と訳す人とで分かれている。「セブラ」の部分も「レモン」「シトロン」と分かれていた。「セブラ」はレモンとするには大きめのもので「シトロン」が妥当らしいのだが。
 ルイ=ブイエはまさにノルマンディーはコー地方、ディエップとフェカンの間にあるカニーの出身でルーアンで生涯の大半を過ごしている。ルーアン出身の文豪フロベールの学校の後輩に当たり、親友でもあったという。若き日のモーパッサンも 彼と交流があり影響を受けている。とくに有名にもならないまま1869年にルーアンで世を去っているが、死後にフローベルが彼の詩集を出版している。ルブ ランはルーアン出身であり、フロベールとモーパッサンを文学の師と仰いで純文学畑を歩んでいた作家だから、ブイエの詩にはなじみがあったのだろう。ここに も若き日のルパンはルブラン自身の青春期の分身というにおいがするんだよな〜。

 カリオストロ伯爵夫人が陸上移動の時に愛用しているのがベルリーヌ型二頭立て馬車。 どんなものかと探してみたら、右図のようなものだった。『カリオストロ伯爵夫人』の時代、1894年は自動車の普及はまだまだの時期で、移動手段の主力は 馬車だった。しかしこのベルリーヌ型については本文中にも「かなり時代遅れ」なものだという記述があり、こうして図で見ても、19世紀末にしても時代劇状 態の乗り物だと思える。もちろん「カリオストロ伯爵夫人」という存在そのものが時代劇状態なので、その彼女が乗る乗り物としてはこれがふさわしいと考えて のことだろう。
 なお「ベルリーヌ(Berline)」という名称は、これがドイツのベルリンで作られた形式だからだそうで。馬車時代が去って自動車時代になってもこの名称は生き残り、フランスでは普通の乗用車のことを今でも「ベルリーヌ」と呼んでいる(日本で言う「セダン」はアメリカ由来)


☆映像化作品について

 2004年にルパン誕生から100年を記念して製作されたフランス映画「ルパン(原題「アルセーヌ・ルパン」)」はこの『カリオストロ伯爵夫人』を原作に選んだ。怪盗ルパン誕生秘話を描くというコンセプトで作られたこの映画は、とくに前半は原作小説をほとんど忠実に映像化している。これまで貫禄たっぷりの中年男が演じるケースが多かった主役ルパンをバリバリの若手ロマン=デュリスが演じ、若く躍動的なルパンを鮮烈に見せてくれた。映画は「カリオストロの復讐」の部分まで入っているため、老境に差しかかったルパンまで演じてみせている。
 ヒロイン・クラリスにはまさに人気急上昇中の清純派・エヴァ=グリーンが配された。映画では「王妃の首飾り」をとりこんだため、クラリスはルパンのいとこで、スビーズ男爵の娘という設定に変えられている。ルパンと一夜をともにして身ごもってしまう展開も原作通りだが、原作よりもずっと出番は増やされている。エヴァ=グリーンはその直後にダニエル=クレイグがジェームズ=ボンドを演じてシリーズ仕切り直しの第一作となった「007:カジノ・ロワイヤル」にもヒロイン役で出演していて、「“誕生秘話”づいた女優さんだなぁ」と思わされたものだ。だいたい「007」だってルパンの落とし子みたいなものだ。
 肝心のカリオストロ伯爵夫人役にはクリスティン=スコット=トーマス。 原作のイメージよりもずっと「熟女」になってしまったが、そもそもこの映画ではトリックではなく本当に何百年も不老不死で生き続ける魔女になってしまって いて、自ら手を下して殺人を繰り返すなど原作以上にすごくワル。正直なところ映画の中ではルパンがクラリスを捨ててまでのめりこむほど魅力的ではなかったなぁ…。
 ボーマニャン役にはパスカル=グレゴリー。こちらは中年オジサンの渋いカッコよさが光った。映画では原作ファンにはかえってビックリの仕掛けがあってよけいに印象に残るのだが、ネタばれなのでここにはこれ以上は書きません。
 原作に登場する人物としてはカリオストロ伯爵夫人の忠実な部下レオナールもいる。普仏戦争で頭に深い傷を負ってその発作に悩まされているという設定で、なんだかサイボーグみたいだった(笑)。

 この映画については別コーナーで詳しく語っている(ツッコんでいる)のでここでは詳しくは書かないが、『カリオストロ伯爵夫人』をベースに『ルパン逮捕される』『女王の首飾り』『おそかりしホームズ』『奇岩城』『813』『水晶の栓』『カリオストロの復讐』まで、シリーズ作品のエッセンスをいろいろと詰め込んだ内容、そして実は珍しい100年前の時代設定をちゃんと守って描いた「時代劇映画」になってることで原作ファンには結構楽しめると思う(後半話を大幅にいじったことを批判する向きもあるけど)。 逆に「怪盗ルパン」の通俗イメージ、あるいは南洋一郎版あたりで軽くルパンに触れてる人たちには内容に激しくギャップを感じた人も多かったようだが…前半 はかなり原作に忠実、ルパンシリーズでも屈指の愛憎劇の部分はしっかり映像化してるんですよ、とだけ、そういう感想を抱いた人たちには申し上げておきた い。
 この映画「ルパン」のDVDには日本語吹き替えが入っており、カリオストロ伯爵夫人を増山江威子、スビーズ男爵を小林清志、クラリスを島本須美が演じるという、狙いまくった配役になっている。言うまでもなくこれは「ルパン三世」、とくに名作「カリオストロの城」の配役を意識したものだ。さすがにルパンに栗田貫一をあてるという暴挙はやらなかったが(宮本充が配されている)
 

 この映画以外で『カリオストロ伯爵夫人』の映像化はTVドラマで2例ある。ただし、いずれも原作からは大きく離れた、事実上のオリジナルだ。
 ジョルジュ=デクリエール主演の「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」では第1シリーズに「カリオストロの七つの環」と いうエピソードがあり、ウィーンを舞台に「カリオストロ伯爵夫人」という異名をもつ美貌の女盗賊タマラが登場、宝をめぐってルパンと争ったり共通の敵に共 同戦線組んだりする話だ。これもこのドラマ専用のコーナーで書いておいたのでそちらを参照してほしいが、「カリオストロ伯爵夫人」の名と「七つの指輪」が出てくるだけで同 名の小説とは全くつながりがない。ただ女盗賊タマラが「ルパン三世」における峰不二子を思わせる役回りで存在感があり、二転三転する話の展開もオリジナル ストーリーのなかでは抜群に面白い。
 もう一つ、1989年に放映されたフランソワ=デュノワイエ主演の「帰って来たアルセーヌ・ルパン」シリーズでも第11話に「カリオストロ伯爵夫人」という原題そのままの1話がある。こちらは僕は未見なのだが、聞くところによると舞台がスペインに移され(デクリエール版もそうだが西欧各国共同制作のためと思われる)、序盤の海に沈められそうになった伯爵夫人をルパンが救うところが共通するだけで、やはりまったくのオリジナル話になっているそうだ。

 最後にやっぱり取り上げておこう。宮崎駿監督のアニメ映画「ルパン三世カリオストロの城」を。
 アニメ映画として大傑作であることは今さら言うまでもない。あまりに傑作すぎちゃって、本来の「ルパン三世」からすると明らかに異色作であるにも関わらず、世界的に「ルパン三世」を代表する作品とみなされている。原作者のモンキー・パンチさん自身も「日本国外のルパン三世ファンの95%は「ファンになったきっかけ」として本作を挙げる」と、ちょっと複雑な心境をのぞかせているほど。
  この映画のクライマックスがルパンシリーズでは『伯爵夫人』の次作になる『緑の目の令嬢』から拝借されていることはよく知られるが、「カリオストロ」「ク ラリス」は明らかに前者から拝借されている。ただし清純そのもののクラリス自身が「カリオストロの娘」になっちゃって、「カリオストロ伯爵」が悪者という 構図。名前以外で『伯爵夫人』とのつながりはとくにないのだが、しいて指摘するなら、クラリスがカリオストロ伯爵から「もう男をくわえこんだか」と言われるところとか、ルパン三世が回想する自分の若き日の無謀ぶりぐらいだろうか。そもそも中世以来の古城を舞台にした冒険活劇というコンセプトそのものが、「ルパン三世」よりも初代「アルセーヌ・ルパン」風味なのだ。


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