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「影の 合図」(短編)
LE SIGNE DE L'OMBRE
初出:1911年6月「ジュ・セ・トゥ」誌77号 単行本「ルパンの告白」所収
他の邦題:「陰影の符合」(保篠龍緒訳)「三枚の油絵の秘密」(ポプラ)「影の指 図」(新潮)「影の暗号」(青い鳥文庫)など

◎内容◎

 「わたし」が購入した一枚の風景画。それとまったく同じ風景を描いた絵が、向かいのアパートの部屋にもあった。しかも二つの絵には「15−4−2」とい う同じ日付が記されている。そしてその4月15日、その絵に描かれたのとまったく同じ風景の廃墟に大勢の人々が集まって何かを待つ奇怪な光景を、ルパン と「わたし」は目撃する。人々はこの廃墟にフランス革命時に処刑された先祖の財宝が隠されていると信じているというのだ。ルパンが財宝のありかの謎解きに 挑む。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン
怪盗紳士。

☆ジャニオ大尉
退役軍人。

☆バランディエ
テュラン通りに事務所をもつ公証人。

☆ルイーズ=デルヌモン
徴税官デヌルモンの子孫の女性。お針子をして子どもを養っている。

☆わたし
ルパンの友人にして伝記作者。購入した絵の謎解きをルパンにもちかける。


◎盗品一覧◎

◇ダイヤモンド一個
本来は発見した18個のダイヤのうち3分の1、つまり6個をもらえる約束だったが、ルパンの身元が怪しいとして一番小さい1個しか 受け取れなかった。


<ネタばれ雑談>

☆財宝探しものの短編

 古くから伝わる謎の暗号を解き、隠された財宝を発見する――アルセーヌ=ルパンシリーズにしばしば見られる要素の一つだ。同様の趣向はシャーロック= ホームズにも「マスグレーブ家の儀式書」という前例はあるが、ルパンシリーズは主人公が泥棒ということもあってか、好んでこのテーマが扱われている。その 最初のものは『おそかりしシャーロック・ホームズ』に 見られ、『奇岩城』でひとつの頂点をなし、財宝とは ちょっと違うが『813』にもその要素が含まれてい た。これ以後の作品では『三十棺桶島』『女探偵ドロテ』『カリオス トロ伯爵夫人』『緑の眼の令嬢』がこの系譜上にある。
 こうした歴史的お宝探しは大冒険の大長編になりやすいのだが、それをさらりと短編にまとめてみせたのがこの『影の合図』だ。

 短編ということで出だしが面白い。「わたし」に呼ばれたルパンがいきなり老退役軍人の格好で飛び込んでくる。『奇岩城』でもそうだったが、しばしば顔を 合わしている友人の「わたし」に対しても、ルパンは毎度違う変装で現れ、最初は誰だか分からないという。
 そのルパンに、珍しく「わたし」の方から謎解きが持ち込まれる。「わたし」がなにげなく買った絵が話の発端だ。その絵を見てルパンがさりげなく「鑑定 人」の才能を発揮してるところも見逃せない。そしてそれと全く同じ絵が、向かいのアパートの部屋にもあった、というところから謎解きが始まる。その絵の持 ち主を追跡していくと、絵とまったく同じ景色の場所に、大勢の人間がゾロゾロと集まってきて…いつもはアッサリと謎を解くルパンが「ちくしょう、わけがわからない!」と頭を抱える。そんなルパ ンを見て「わたし」がどこか楽しんじゃってるあたりも微笑ましい(笑)。

 先祖が残した財宝が出現するのではないか、と期待して子孫達がゾロゾロ集まってくる――というアイデア、ルブランはこのあと『女探偵ドロテ』でも再利用 することになる。『影の合図』では結局ルパンが解いてしまうことになるのだが、ダイヤモンドを全部頂戴することもできたはずなのに、ルパンの気まぐれとい うやつで子孫達が気の毒になって手続きどおり見つけてあげることにしてしまう。ここまでならルパン流の人情話なんだけど、親切がアダで返されるような皮肉 なオチがつく。ラストにルパンが憤慨し、嘆いてみせる様子も珍しい。
 例によってというか、南洋一郎版の『三枚の油絵の秘密』ではこのオチは微妙に変更され、ルパンが 自ら小さなダイヤ一つで身を引いたことになっていて、ラストではルパンは優しく満足げに微笑んでいるのだった。


☆フランス革命の影

 この話における「隠された財宝」は、フランス革命中に処刑された総括徴税官ルイ=アグリッパ=デルヌモンが、逮捕の直前に庭のどこかに隠した 宝石類だ。もちろんデルヌモンという人物自体は創作なのだろうが、ルパンが「詩人のアンドレ=シェニエと同じ日の処刑だ」とつぶやいてい る。アンドレ=シェニエ(André Marie Chénier、1762-1794)はもちろん実在した有名な詩人で、革命が過激化したジャコバン派政権による「恐怖政治」の中で逮捕さ れ、「国家反逆罪」にとり1794年7月25日にギロチ ンで処刑されている。惜しいことにこの3日後に「テルミドールの反 動」がおこって恐怖政治は終わる。そういえば『おそかりしシャーロック=ホームズ』でもそういう惜しい話があったはず。
 これでデルヌモンの処刑の日が確定するわけだが、処刑の日が即座に出るとはルパンも相当な詩人好きらしい。そういえば『太陽のたわむれ』でもミュッセの詩を口ずさんでいたっけ。

 ところで本文だけ読んでいるとなんでデルヌモンがギロチンにかけられて処刑されたのか良く分からない。フランス人にとっては歴史常識のようなものだから わざわざ説明していないだけなのだが、このフランス革命の過激化時期、「恐怖政治」の時代には多くの徴税官(徴税請負人)が「民衆の敵」として逮捕・処刑 された史実が背景にあるのだ。有名どころで近代化学の父とされるアント ワーヌ=ラボアジェ(1743-1794)が、やはり徴税官であったためにこの年の5月8日にギロチンにかけられている。
 ラボアジェについては冤罪の声もあるのだが、徴税官たちが民衆から税を取り立てる役を務めるだけでなく、手数料として民衆から金を集めて私腹を肥やす ケースもままあり、そのために民衆から敵視されたのは事実。この小説のデルヌモンもそうやってひそかに私腹を肥やしていて、革命が起こるとパシー(当時は パリ郊外)に隠れ住み、逮捕直前にそれらを庭に隠した、という設定になっている。その後国民議会政府、それを倒して成立した総裁政府 (1795〜1799)も捜索を行ったが財宝を発見できず、最終的にデルヌモンの息子シャルル=デルヌモンナポレオン1世に取り入ってその応援を受け、1803年に屋敷を取 り戻した…とこの激動期の歴史がきっちりからめられている。

 この財宝の謎解きの鍵となる「15−4−2」という数字。はじめ「わたし」はそれを「1802年4月15日」と解釈している。だが公証人バランディエは「2」を「革命暦2年」と説明する。
 「革命暦」なるものについては『おそかりしホームズ』の項目ですでに説明しているように、1793年の国民公会で定められたもので、1793年を「革命 暦1年」として、30日間の「月」にそれぞれ「熱」「霜」「芽」といった自然に由来する名前をつけられ、グレゴリオ暦とは面倒な換算を必要とする。『影の 合図』の問題の日付は「革命暦2年ジェルミナル(芽月)26日」「1794年4月15日」といったあんばいだ。
 しかしルパンは考える。この時代の人間が「革命暦2年4月15 日」なんてゴッチャな日付を使うだろうか?と。本人も言うように、そのことに一世紀ものあいだ誰も気づかなかったのが不思議ではある。ルパ ンはこの「2」を年号ではなく「2時」と解釈して真相にたどりつくのだ。


☆「デルヌモンの庭」を探せ!

 「わたし」がルブラン自身とにおわせているせいもあるのか、「わたし」の住所は本文中にはいっさい書かれていない。それでも『太陽のたわむれ』とこの 『影の合図』を読み合わせると、なんとなくパリ北西部のどこか、凱旋門からそう遠くないあたりではなかろうかと思える。
 『影の合図』では、「わたし」の家の向かいのアパートに住むルイーズ=デルヌモンが毎年恒例の「4月15日詣で」をするために パッシーへ向かうのを、ルパンと「わたし」が追跡していくだりがある。デルヌモンはまずパリのはずれを通る大通り沿いにエトワール広場(凱旋門がある)まで歩き、そこからクレベール通りに入り、パッシー地区の入り口に向かう。そこから左にそれてレーヌワール通りを歩いて、そこから分かれてセーヌ川へ向けて 降りていく小道に入って最終目的地「デルヌモンの庭」についている。そのルートは右の地図のようになる。

 このレーヌワール通りの様子を、ルブランは以下のように描写する。

 フランクリンや、バル ザックが住んでいた古くからの通りで、両側にはむかしながらの家や、あまりめだたない庭がならび、そうとう田舎に来たような印象を与えている。街ぜんたい はすこし高くなっていて、すぐ下をセーヌ川が流れていた。この通りから、何本もの細い路地が川に向かっておりている。(偕成社全集版、p83。長島良三訳 より)

 パッシー地区はパリ旧城壁のすぐ外側にあり、18世紀〜19世紀はおもに別荘地となっていて、デルヌモンの隠れる別宅があったという設定もだからリアル なのだ。やがて外側の新城壁ができて1860年にパリ市内に組み込まれたが、20世紀初頭のこの時期でもまだまだ古く、田舎びた風情を残していた様子が読 み取れる。現在のパリの観光地図を見てもここが小高い「丘」になっていて、あちこちに階段小路があることがわかるのだが、今や高級マンションの立ち並ぶ近 代的な地域になっちゃったとか聞くんだが…

 「フランクリン」とは、アメリカ独立の英雄にして「雷の正体は電気である」ことを実験で解明した科学者でもあるアメリカ人、ベンジャミン=フランクリン(Benjamin Franklin、1706-1790)のこと。彼は独立戦争時に外交官としてパリに赴き、フランスをはじめとして欧州諸国をアメリカ独立 支持に向かわせるべく外交工作を行っており、このレーヌワール通りの近くに8年ほど住んでいた時期があるのだ。それを記念して彼が住んだ通りは「フランク リン通り」と名づけられ、ルパンも活躍していた1906年には生誕百年を記念してフランクリンの銅像もこの地に建てられている。

 もう一人のバルザック(Honoré de Balzac,1799-1850)はフランスが誇る世界的大文豪。あらゆる階層のさまざまな人物を主人公に多層的に19世紀フランスの社 会を描く小説群『人間喜劇』で知られる、などとえらそうに書いてみたが僕はまるっきり読んだことがない(汗)。パッシーのバルザックの家は今日も残されて いて記念館として公開されているそうだが、彼はここに1840年から1847年にかけて住んでいたという。


☆年代考証

 ところで、この『影の合図』のエピソードの年代設定はいつごろなのだろう?
 『太陽のたわむれ』の中で「三枚の絵の謎を解いた 話」が言及されているが、まだ事の真相について「わたし」は知らない様子だ。この事件の真相を知ったのは実際に事件があってから数年後のこととなってい る。またデルヌモンの財宝は「100年間」探されたというセリフがある。これらのことからおおむね1903年前後の事件とみなせるかと思う。

 この短編は途中でまるまる一年が経過している。その間にルパンが「ア ルメニアに行って赤いサルタンと血みどろの戦いをくりひろげ、ついにこの暴君をうちのめした」ことがあとで分かった、という記述がある。アルメニアとはコーカサス地方にあるキリスト教国で、この時期 はオスマン・トルコ帝国の支配下にあった。
 アルメニアではオスマン帝国が弱体化した19世紀半ばごろから独立運動が盛んとなり、彼らがキリスト教徒であることからヨーロッパ諸国民がこれを心情的 に応援、政治的にはこれを材料にオスマン帝国を領土的に侵食しようという動きが見られた(実際その後ここはソ連領にもなった)。とくに1894年から 96年にかけての大規模な「アルメニア人虐殺」が問題視され、多くのアルメニア人が西欧諸国へ亡命したこともあり、この当時のヨーロッパ人は一様にアルメ ニア人びいきだった。ルブランがルパンに(一行だけの言及とはい え)わざわざアルメニアまで出かけさせ活躍させているのはそうした世間の気分を背景にしている。
 「赤いサルタン(スルタン)」というのはとくに具体的な誰かを指しているわけではないだろう。ただ「サルタン(スルタン)」といえばオスマン帝国の場 合、帝国全体の君主がスルタンにしてカリフである。ルパンの活躍によりそのスルタンが打倒された…ととれるこの記述は、1908年に「青年トルコ革命」がおこり、オスマン帝国のスルタン=カリフ の専制がひとまず終止符を打ったことを念頭に置いている可能性はある(本 作の発表は1911年)。ただ『影の合図』の事件は少なくとも1905年よりは前ではないかという感じがあるので、直接的にそのことを指し ているわけではなさそうだ。
 さらに想像をたくましくすれば、オスマン=トルコが第一次大戦直前のこの時期、ドイツ帝国と同盟関係を持っており、フランスにとって仮想敵国となってい たことも影響しているかもしれない。実際第一次大戦中に書かれたルパンシリーズ『金三角』の悪役はトルコ系の人物だ。
 アルメニアではその第一次世界大戦中にもトルコ帝国によるアルメニア人虐殺があったとされ、21世紀に入った今日でもフランスをはじめとする西欧諸国と トルコの間でしばしば噴出する「歴史問題」となっていく。

 それにしても…謎解きの現場にかけつけてきたルパンは途中で列車事故にあい、人助けをしつつオートバイをちょろまかして駆けつけてきたことになってい る。しかも謎をさっさと解くと「人に会う用がある」と用意させた車であっという間に立ち去ってしまう。まさに「24時間戦う男」なのだ(笑)。


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