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「アル セーヌ=ルパンの帰還」(一幕もの戯曲)
LE RETOUR D'ARSÈNE LUPIN
初出:1920年 「ジュ・セ・トゥ」誌、9月号・10月号 

◎内容◎

 「インドからフランスに贈られた宝冠を自分に渡せ、さもなくば自らの手で盗み出す」との、アルセーヌ=ルパンの予告状が各新聞に一斉に掲載された。宝冠 を預かるダブルメニル伯爵の娘・ジェルメーヌとの結婚を控えた大使書記官ジョルジュは友人たちとルパンの予告について語り合ううち、自分の友人・ダンドレ ジについて話し始める。ダンドレジはインドでジョルジュたちを救った命の恩人だが、鋭い推理力と神出鬼没の行動力をもつ謎だらけの男だ。そのダンドレジこ そ、アルセーヌ=ルパン本人なのではなかろうか――?



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン
怪盗紳士。

☆アルベール
シャンドン=ジェロ家の召使。

☆アンリ=グレクール
ジョルジュの友人の作家。「窃盗史」という本を書きおろした。

☆ウベール=ダンドレジ
ジョルジュの友人の伯爵。インドでジョルジュたちを危険から救ったことがあり、推理力にもすぐれた謎の若者。

☆エドゥアール=ダルベル
社交界の寵児。10年前にルパンと疑われ、失踪(セリフの中のみに登場)。

☆ゲルシャール
パリ警視庁の警部。

☆ジェルメーヌ=ダブルメ ニル
ダブルメニル伯爵の令嬢。ジョルジュと婚約している。

☆ジャック=ド=ブリザイ ユ
ジョルジュの友人。

☆ジャン=ド=ファロワズ
ジョルジュの友人の男爵。飛行船の操縦士。

☆ジョゼフ
シャンドン=ジェロ家の召使。

☆ジョルジュ=シャンドン =ジェロ
大使書記官。上司であるダブルメニル伯爵の娘ジェルメーヌとの結婚を控えている。

☆ソニア=クリチーノフ
ジェルメーヌの家庭教師。

☆ダブルメニル伯爵
外交官。ボンベイの会議に出席してインドからフランスに贈られた宝冠を持ち帰る(セリフの中のみに登場)。

☆ベルジェ
ジョルジュの友人。フェンシングの選手。

☆ベルトー
シャンドン=ジェロ家の執事。


◎盗品一覧◎

◇インドの宝冠
インドの王様からフランスに寄贈された宝冠。ボンベイの会議に出席したダブルメニル伯爵が持ち帰るが、ルパンがこれを盗み出すと予告する。

◇真珠
ジョルジュがジェルメーヌのために買った真珠。いつの間にか何者かに盗まれている。


<ネタばれ雑談>

☆ボツにされていた戯曲の「帰還」

 『アルセーヌ=ルパンの帰還』と題されたこの作品 の存在を、僕が知ったのはようやく2005年になってからのことである。長年ルパンファンのつもりだったし、このサイトも実は前世紀から経営してもいたの だが実質放置状態で、2005年に「ルパン百年」でルパン熱を再燃させたときにようやくこの作品の存在を知ったのだ。
 僕にして存在自体を知らなかったのは無理もなく、この戯曲は我が国における(いや、世界的にも)最も完全なルパン全集である偕成社「アル セーヌ=ルパン全集」にも収録されていない。本国フランスでも長く忘れられた存在で、1975年に刊行されたルパン傑作集にようやく収録、1986年刊の ルパン全集にも収録されるが、100周年記念の2005年刊行のルパン全集では収録されていないとのこと。
 日本でこの戯曲が翻訳・紹介されたのは「EQ」誌1989年9月号に掲載された長島良三氏訳のものが最初で、1998年に刊行された岩崎書店「アルセー ヌ・ルパン名作集」でやはり長島氏の訳によりようやく初の単行本化が実現している。だがこの岩崎書店の「名作集」は児童書、しかもほとんど小学生以下向け の絵本の体裁をとっていたため(それでいて完全な全訳で解説もマニ アックだった)、発行部数が少なく、図書館以外ではあまり出回らなかった様子だ。現在この「名作集」はすでに絶版となっており、僕も近所の 図書館でようやく発見して読むことができた。
 その後、2006年に初めてルパンの戯曲の全訳を集めた単行本『戯 曲アルセーヌ・ルパン』が論創社から刊行され、同じく幻の作品だった『アルセーヌ=ルパンのある冒険』ともども同書に収録され、一 部の誤訳も訂正された上に掲載時の挿絵もつき、より完全な訳となって容易に読めるようになった。この戯曲の経緯についての住田忠久氏の解説も必読である。

 さてそんな経緯でなかなか読めない幻のルパン物語であったこの戯曲だが、残念ながら期待して読むと肩透かしを食う。一幕ものの戯曲なのだが、とくに山ら しい山もなく、ほとんどが登場人物たちのディスカッションで進行し、いろいろ伏線のようなものがあってルパンとしか思えない人物も登場するのだが、結局何 事も起こらずに唐突に幕を下ろして終わってしまう。読み終えた読者の大半は放り出された気分になってしまうだろう。児童向けで多くの挿絵も入った「名作 集」版ももちろんそのままの内容で、読んだ子供も難解かつ退屈かつ唐突に終わる内容にビックリしちゃったのではなかろうか。

 そもそもこの『帰還』、最初にルパンの舞台化が企画されたときにルブランとクロワッセによって最初に書かれた、いわば「パイロット版」の ようなのだ。この辺、明確な事情は不明のようだが、ルブランとクロワッセが最初に書いた戯曲は上演予定のアテネ座の支配人に提出されたもののボツ を食らって書き直しを要求された事実が確認できるそうで、そのボツになった作品が『帰還』なのではないかと言われている。
 そう言われればこの戯曲には実際に上演された戯曲『アルセーヌ・ ルパン』(小説版「ルパンの冒険」)と 比較すると、ジェルメーヌとソニアが違う設定ながらほぼ同じキャラクターで登場するし、ルパンとしか思えないダンドレジは「シャルムラース公爵の甥」とい う設定。ルパンが期日を定めて盗みを予告するし、狙うお宝も宝冠で同じ。召使のアルベールが指輪を盗んでいるのをダンドレジに見つかるくだりも『アルセー ヌ・ルパン』に似た場面がある(アルベールがルパンの部下であるこ とが明示されるセリフもある)。両者を読み比べると『帰還』のほうが原型なのだと判断せざるを得ない。
 またこの『帰還』、一幕もの戯曲ということなのだが、より長編の想定で書かれたものの、その第一幕のみが形にされた未完成品なのは明らかだ。ルパンの宝 冠盗みも予告状まで出すからには実行されるはずであるし、明らかにルパンその人としか思えないダンドレジの正体は曖昧なまま。ジェルメーヌとソニアが出て くる部分も「その後」への伏線と感じられるし(やはりソニアが泥棒 という設定が匂わされている)、ジョルジュの真珠の行方も不明のままで終わってしまう。ラストに登場するゲルシャールが持ってくる通行許可 証も、そのあとのダブルメニル伯爵が持つ宝冠を盗む展開へのつなぎと思われる。

 結局ボツにされた理由もなんとなくわかる。まず展開がトロい。ジョルジュとその友人たちがディスカッションする形でルパンの実在論争が行われ、ダン ドレジという謎の男(観客には明らかにルパンと分かる)の 前歴が延々と語られてから、ようやく本人登場となるのだが、舞台とはいえどうしても退屈を覚える展開だ。またダンドレジはあくまで謎の人物なので舞台上で はジョルジュが実質的主役として進行することになり、観客は視点をどこに定めればいいのかわかりにくい。ジョルジュとダンドレジの謎めいた会話が延々と続 く部分も今後の伏線になっているのだろうが、観客には少々忍耐が要求されるところだ。実際に上演された戯曲ではルパンをシャルムラース 公爵その人にして早々と舞台に登場させ、ジョルジュの役割を持たせることでこの点を解消している。

 この未完成の戯曲は、ルパンシリーズの古巣である雑誌「ジュ・セ・トゥ」に、1920年になって掲載された。この年、「アルセーヌ・ルパン」の舞台がリ バイバル公開されており、それに合わせた「掘り出し物」的企画記事であったと思われる。『アルセーヌ・ルパンの帰還』という不思議なタイトルも、実は古巣 の「ジュ・セ・トゥ」にルパンが「帰還」したという意味なのだ。「ジュ・セ・トゥ」にルパンシリーズが載ったのは1913年の『白鳥の首のエディス』以来7年ぶり、しかもあの忌まわしい第 一次大戦以前の「古き良き時代」を思い起こさせる内容は、「帰還」と題するにふさわしいと思えたのだろう。


☆ルパンのアナザー・ストーリー?

 一応雑誌に掲載され公になったものとはいえ、この戯曲は「ルパン・シリーズ」中で扱いに困る作品だ。もともとボツになった未完成品である上に、それを改 良して完成品となった戯曲が存在するため、設定に明白な矛盾が生じてしまうからだ。フランスの最新のルパン全集に収録されなかったのもそのためと思われ る。
 特に困るのが、ルパンのみならずジェルメーヌとソニアが違う設定で登場してしまうこと。しかも実際の戯曲版では語られていないルパンとソニアのなれそめ が、なんと遠くインドを舞台にして語られてしまう。話としては面白いのだが、「ルパン史」をまとめる上でこれを「史実」として認めていいのか、という問題 がある。また、「カオルン男爵事件」や「ラ・サンテ刑務所脱獄」についての言及がありながら、「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」の存在そのものが「伝説的」 で、世間ではまだ実在人物とは信じられていないらしい設定もシリーズとして矛盾を生じてしまっている。
 ルブラン自身がタッチしているとはいえ、その後の他作家によるパスティシュ同様「外典」「異説」として扱うにとどめておくのが妥当だろう。

 と、開き直った上でこの『帰還』を読むと、なかなか興味深いルパンの前歴が浮かび上がってくる。
 ここで登場するウべール=ダンドレジは、もちろんル パン初登場の『ルパン逮捕される』で名乗っていたベルナール=ダンド レジーを意識したものだ。後で書かれた『カリオスト ロ伯爵夫人』によれば「ダンドレジー(「アンドレ ジー」に貴族を示す「ド」がついたもの)」という姓はルパンの母親のもので、ベルナール=ダンドレジーはルパンの「いとこ」であったとされ る。もしかすると「ウべール」という「いとこ」もいたのかも…?そのウべール=ダンドレジと外見もよく似ており、ルパンとの疑いがかけられて失踪したとい うエドゥアール=ダルベルも、もちろんルパンの変装の一 つだったのだ ろう。

 この『帰還』のみで語られる重大な点は、なんといってもルパンがインドやチベットに行っていることだ。外交官であるジョルジュとその婚約者となるジェル メーヌ、およびジェルメーヌの家庭教師であるソニアがそろってインドに旅行しており、ここで仏教のものと思われる寺院でジョルジュたちが災難にあったとこ ろをルパン(ダンドレジ)が駆けつけてきて救ったこ とになっている。
 この寺院、「メナッソンからカルカッタに行く途中」に あるとされ、「ラサのダライラマが僧侶長」となって いる。ラサのダライ・ラマといえば、もちろんチベット仏 教の活仏、亡くなっても「生まれ変わり」を探してきて次のダライ・ラマにするという、あの宗教指導者だ。これはインド国内の話らしいが、チベット仏教の寺 院だったということらしい。当時「世界の秘境」であり、独特の宗教国家となっていたチベットにはヨーロッパ人も深い関心を寄せており、あのシャーロック=ホームズもモリアーティ教授との戦いのあとの失跡 中、チベットを訪れていたことになっていた。
 だが、今日の観点からすると興味深いのは、この戯曲におけるチベット仏教の描かれ方が、狂信的・邪教的な怖いイメージになっていることだ。今だと欧米を 中心に、中にはやや過剰とも思える人もいるほど、チベット仏教への共感・関心が広まっているが、この時期のフランスだと一般的にはこんなイメージだったの か な?と驚かされてしまう。
 未開な国の邪教の儀式にいけにえにされそうな人を助けにやってくるスーパーヒーロー…という構図は映画「インディ・ジョーンズ」でもあったが昔から定番 の一つとも言え、南洋一郎の書いたルパンもの『ピラミッドの秘密』にも似たような場面が出てくる。南の『ピ ラミッドの秘密』を初めて読んだときはルパンというキャラを使ってずいぶんムチャやらせたもんだ、と思ったものだが、『帰還』のこのくだりを読むと、実は ルブランもやってました、ってことになる。
 『白鳥の首のエディス』では「宝冠事件」(つまり戯曲版「ルパンの冒険」)のあとガニマールが偽情報を つかまされ、ルパンとソニアを追ってインドまで出張したことが記されているが、これは最初に書かれた戯曲の名残なのかな?

 ダンドレジが登場する前、ジョルジュと友人たちが謎の男ダンドレジについて語り合うなかで『モンテ=クリスト伯』(日本では長いこと「巌窟王」の題で親しまれる)が引き合いに 出される。『三銃士』でも知られるアレクサンドル=デュマが 1840年代に新聞連載で発表した小説で、無実の罪を着せられ投獄された男が脱獄して財宝を手にいれ「モンテ・クリスト伯」なるイタリア貴族となって自分 を陥れた者たちに復讐をしていくというストーリーは、もはや古典中の古典として何度となく翻案・リメイク・拝借が繰り返されている。
 ルブランもアルセーヌ =ルパンのキャラクター作りに大いに参考にしており、『女王の首飾 り』がすでに「モンテ・クリスト」の構造を持っている(フ ロリアーニはイタリアの貴族だ!)。この『帰還』より後で書かれた作品だが、『虎の牙』においていったん死んだことになっていたルパンがス ペインの貴族に化けてフランスに戻ってくるのも同様で、登場人物のセリフで直接的に「モンテ・クリスト」に例えられている。

 『ルパンの冒険』のパイロット版ということでルパンによる犯行予告の要素が物語に組み込まれているが、実際に完成した戯曲版よりもずっと派手で、パリの 全部の新聞に予告状を送りつけていることが注目される。ルパンが新聞を大いに利用する描写はこれまでにも何度か出てくるが、全部の新聞に同じものを送りつ けて掲載させた例はこの戯曲にしかない。『帰還』ではジョルジュの友人たちが次々と違う新聞を持ってきてそこに載ったルパンの予告の話題を持ってくる…と いう喜劇的展開に使われているのだが、やはり無理があるとみなされて完成版には存在しないのだろう。なお、ここに名前が登場する新聞は調べた限りではすべ て実在のものらしい。

 ルパンが宝冠を盗んだら次はルーブル美術館の「モナ・リザ」を 狙うと予告していて、ジョルジュたちはこれについて「ふざけた話だ」とまるっきり本気にしていないが(そもそもこの一事をもってルパンの実在を疑っている)、これ はルパン・シリーズではこの戯曲の直後に書かれた『奇岩城』で 実現している。『奇岩城』の雑談でも触れたように、その直後に本当に「モナ・リザ」がルーブル美術館から盗まれるという珍事が発生してしまうのだから面白 い。

 ジョルジュたちが謎の男ダンドレジについて語り合う中で、「アル フォンソ13世かな?」という冗談が出る。『金三 角』雑談で触れたようにアルフォンソ13世は レッキとした実在人物で当時のスペイン国王。『金三角』そして『虎の牙』によればスペイン貴族ドン・ルイス=ペレンナに化けたルパンはこのスペイン国王と個人的 に親しかったようだ。


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