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「黒真珠」(短編)
LA PERLE NOIRE
初出:1906年6月「ジュ・セ・トゥ」誌17号 単行本「怪盗紳士ルパン」所収
他の邦題:「消えた黒真珠」(ポプラ社)


◎内容◎

 アンジロ伯爵夫人の所有する「黒真珠」を狙って、深夜夫人のアパートに忍び込んだルパン。万事順調と思えたが、なんと伯爵夫人は殺害されており、黒真珠 も何者かに盗み出されていた。焦ったルパンだったが冷静に事件を推理し、失われた黒真珠を手に入れるべく策略をめぐらせる。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン(Arsène Lupin)
青年怪盗紳士。有名な宝石「黒真珠」を狙ってアンジロ伯爵夫人邸に忍び込んだが、何者かに先を越される。

☆アレル(Harel)
オッシュ街9番地のアパート4階に住む医者。

☆ガニマール警部(Ganimard)
以前アルセーヌ=ルパンを逮捕した敏腕老刑事。アンジロ伯爵夫人殺害事件の現場に「ルパンのにおい」をかぎつけるが…

☆グリモーダン(Grimaudan)
元国家警察部刑事の私立探偵。

☆サンクレーブ嬢(demoiselle de Sinclèves)
アンジロ伯爵夫人の従姉妹で唯一の相続人。伯爵夫人からの手紙を何者かに盗まれる。

☆デュドゥイ(Dudouis)
国家警察部部長。アンジロ伯爵夫人殺害事件の捜査に当たる。

☆ビクトール=ダネーグル(Victor Danègre)
アンジロ伯爵夫人に仕えた使用人。伯爵夫人殺害の容疑者として逮捕されたが証拠不十分で釈放される。

☆レオンティーヌ=ザルティ(アンジロ伯爵夫人)(Léontine Zalti、comte d’Andillot)
かつてはプリマドン ナをつとめた美女。アンジロ伯爵の妻となり莫大な財産をもとに宝石で身を着飾り、上流社交界の華として栄華を極めたが、伯爵の死後経済的に破局。宝飾品の コレクションは全て売り払ったが、さる皇帝より贈られたという「黒真珠」だけは手放さずに所有している。オッシュ通り9番地のアパートに居住。

☆「わたし(ぼく)」
ルパンの伝記作家。


◎盗品一覧◎

◇黒真珠
アンジロ伯爵夫人が、その絶頂期に「さる皇帝陛下」から贈られた至高の逸品。売却すれば「ひとつのりっぱな財産」になるほどの価値を持つが、伯爵夫人はかつての栄光の時代の思い出の品として絶対に売ろうとしなかった。


<ネタばれ雑談>

☆泥棒にして探偵、ルパンならではの一作

 言うまでも無くアルセーヌ=ルパンは怪盗紳士。要するにドロボーさんである。犯罪を行い、官憲の捜査を受ける側であって、シャーロック=ホームズのよう な事件捜査の名探偵とは本来対極の側にある。だがルブランは早い段階からルパンに「名探偵役」をつとめさせようという意図があったようで、『ふしぎな旅行者』で早くも強盗殺人犯の行方を推理し追跡して逮捕に導く役割を演じていた。自分自身が真犯人だから本来「探偵」とは言いがたいが、『女王の首飾り』における謎解き役フロリアーニも名探偵役を演じてはいた。
 そしてこの『黒真珠』で はルパンは本格的に名探偵役を演じ、事件の真相と真犯人をつきとめている。しかしそこはルパン、正義の信念から推理を行うわけではなく、あくまで自分が狙 う獲物「黒真珠」を手に入れる工作のためにその推理能力を動員しているところがミソだ。真犯人が逮捕され、さらには釈放されるようにわざわざ工作をする 「名探偵」なんだから面白い(笑)。
 ストーリーのメインにはほとんど関わらないが、「この事件にはルパンのにおいがする」と捜査現場でつぶやくガニマール、さすがはルパンの宿敵ならではの嗅覚というべきか。

 ところで本作は物語の発端が発端なので、ルパンが実際に泥棒をするために家宅侵入する描写がある。「怪盗ルパン」シリーズと言われながら実は本作のよう に「仕事」の描写が細かく描かれている作品はシリーズ全体でもそう多くはない。しかも部下を引き連れず一人で侵入している描写はなおさらめったにない。
 医者に往診を頼みにきたと偽ってアパートに入り、退路もちゃんと確保して、図面を見て事前に調べた建物の構造をちゃんと復習しつつ目的物に向かっていくルパンの仕事ぶりは(結果的に無駄になるにせよ)さすがというべきで、「神出鬼没の怪盗」も実は日々の地道な努力のたまものであることが分かる。「なぜ世間の人間は泥棒というこんな気楽な商売を選ばないのかね?ちょっとした器用さと頭があれば、こんな素敵な商売はない。実に安楽な仕事…一家の父にふさわしい職業…」などとつぶやくあたりは調子に乗りやがってとも思えるが(笑)、他のエピソードでは「泥棒というのは大変な労力のいる仕事なんだぞ」といばって語っており、ルパンならではの「職業意識」がうかがえるところだ。

 職業意識といえば…南洋一郎版ポプラ社ルパン全集バージョン「消えた黒真珠」で は、ルパンはダネーグルから取り上げた黒真珠を遺産相続人サンクレーブ嬢に引き渡す結末になってしまっている。原典同様に伝記作者の前で語る場面はあるの だが、そこで手にしているのは黒真珠のイミテーションで、それも伝記作者に「記念に」とあげてしまう。そもそもドロボーに入って巻き込まれた事件であるは ずで、今さら正義の味方ヅラするラストに改変してしまうというのもよく分からない。
 

☆そもそも黒真珠ってなに?

 ところで「黒真珠」とはどういうものだろうか?
 ご存知のとおり、「真珠」というのは真珠貝などが自分の体内に入ったゴミを無害化しようと体液を分泌してこれを取り巻き、結晶化したものである。そのうち見事に球体になったものはめったに得られるものではなく、古来宝石の一種として珍重されてきたわけだ。
 ふつう真珠は白いものだが「黒真珠」が時おり出現する。これは真珠の成分中、結晶を結びつけるタンパク質「コンキオリン」に含まれる少量の色素が重なり 合った結果暗めの色を発するもので、ひとくちに「黒真珠」といっても色合いは様々だ。小説中、「黒真珠」についての詳しい描写は無いが、一粒で何十万フラ ンもするというから、かなり大きく、独特の色合いのものだったのではないかと思われる。
 
 ルパンの時代、20世紀初頭までは真珠はあくまで自然状態で偶然発見されるものであり、その価値は非常に高かった。その真珠の養殖に取り組み、人工真珠生産に日本人の御木本幸吉 が世界で初めて成功したのは1893年のことだった。1905年には完全な球体の真珠を人工的に作り出すことに成功し、世界の真珠業界に革命を巻き起こし た。間もなく世界に進出したが当初は「偽物」扱いされ裁判沙汰にもなっている。この御木本の人工真珠の取り扱いを頑なに拒否し続けたのがルパンの母国であ るフランスの宝石商たちで、フランスの裁判所が御木本の真珠を「本物」と認定したのは1927年のことだった。御木本の功績もあって、今日でも国際的な真 珠の取引においては日本語の「モンメ(匁)」が重量単位として使用されているほど。
 本筋とはあまり関係ない話になったが、ちょうど「真珠史」がそんな時代であったということを知っていると、ルパンシリーズに出てくる「真珠」の価値に実感が沸くかもしれない。

 さらに脇道にそれると、「黒真珠」をアンジロ伯爵夫人に贈ったという「さる皇帝」とは誰のことなのだろう?このエピソードは20世紀の最初期と思われる ので、伯爵夫人が20年前に全盛期だったとすると1880年代に皇帝だった人物が該当者ということになる。フランス皇帝ならナポレオン3世がいるが彼は1870年に普仏戦争に敗れて退位しており、除外していいだろう。だとするとそれと入れ代わりにドイツ帝国皇帝になったウィルヘルム1世か。あるいはオーストリア皇帝、ロシア皇帝などが候補にはなるのだけど、決め手は無い。


☆実はルパンシリーズ日本紹介の第一号!?

 日本がフランスに次いで、いやヘタするとフランスよりもルパンシリーズを愛読している国だというのは良く言われるが、そのルパンシリーズが日本にどのようにして紹介されたのか調べていくと、これがまた面白いのだ。
 明治〜大正期には海外小説の日本への紹介は「翻訳」ではなく「翻案」という形がしばしばとられた。つまり原作をそのまま訳すのではなく、登場人物や舞台設定を全て日本に置き換えて、あたかも日本のオリジナル小説であるかのように「超訳」するのである。ルパンシリーズもやはりそういう方法で日本に紹介され始めた。

 そんなわけで日本に上陸したルパンシリーズの第一号はなんだったのか、断定するのは結構難しいことらしい。なんせその手の翻案ものがやたら出ていたから タイトルから判断できないことも多いし、そもそもその現物が残っておらず確認できないこともあるようだ。そのため「ルパンの日本上陸第一号」については過 去にも説が二転三転した経緯がある。

 集英社文庫版「怪盗ルパン・奇巌城」(江口清訳)には、ルパン研究家として名高い浜田知明氏の詳しい解説が載っており、ルパンシリーズそのものとその翻 訳の歴史について重要な情報が含まれているのでファン必読の一文なのであるが、その中で現時点における「ルパンの日本上陸第一号」がこれではないか、とい うのが紹介されている。
 それは森下流仏楼(もりした・るぶろう。もちろんモーリス・ルブランをもじっている)なる作者による「巴里探偵奇譚・泥棒の泥棒」なる短編。1909年(明治42)に雑誌「サンデー」に掲載されたもので、その内容はこの「黒真珠」を翻案したものだという。原作の「アルセーヌ=ルパン」は「鼬(いたち)小僧・有田龍三」 と改められているそうで…そう、もちろん「アルセーヌ・リュパン」をさりげなく日本名にもじっているのだ。しかも「ネズミ小僧」ならぬ「イタチ小僧」とい う命名には次郎吉も草葉の陰でビックリ(笑)。他にも思わず爆笑ものの日本名が翻案ものにはいっぱい見られるそうで。なお、「森下流仏楼」の正体は不明だ が、初期に「清風草堂主人」などの筆名でルパンシリーズ翻案を多く手がけてた安成貞雄であろうと推測されている。なんか、訳者のほうまで変幻自在のルパ ンっぽい(笑)。

 それにしても1909年といえば、「黒真珠」発表から3年、単行本「怪盗紳士ルパン」発行からわずか2年後のことである。日本におけるルパンシリーズの輸入はその初期からやたらに早かったのだ。


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