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「水晶 の栓」(長編)
LE BOUCHON DE CRISTAL

<ネタばれ雑談その3>

☆ルパン一味、大活躍!

 さて、あくまでフィクション世界のルパン物語としての『水晶の栓』の設定年代はいつなのだろうか。『奇岩城』『813』のあとに発表された本作だが、ル パンが「まだ国家警察部長の地位になかった」とあることから『813』よりずっと前、乳母ビクトワールがごく普通に ルパンの手助けをしている描写から『奇岩城』の悲劇的結末以前の時点であることが読み取れる。
 実は本文をよく読むと年代が特定できる箇所がある。傷を負ったルパンがクラリスに「きょうは3月4日、月曜日です」と明言しているのだ。この台 詞をもとに万年暦で調べると該当するのは1907年。物語の発端とな るマリー・テレーズ荘への押し込みが「九月の末」と あるので、これが1906年の秋。クライマックスとなる死刑執行日が「火 曜日」とあって1907年3月12日のことと推定される。つまり『水晶の栓』は1906年秋から1907年春までの半年間の出来事と確定で き、『奇岩城』(1908年4月から物語が始まる)の ほぼ一年前までのお話ということになる。ということは、『奇岩城』で語られたソニアの死はこの直後ということになるようだ。
 『813』のあとなぜ年代が戻ったのかといえば、やはり『813』でスケールを広げすぎてこれ以上拡大路線の物語を書けない、という事情があったかと思 われる。また古巣の「ジュ・セ・トゥ」に連載するにあたって「いったん最初の短編連作路線に戻そう」という編集者の意図もあったのではなかろうか。その短 編連作の一作目『太陽のたわむれ』では『奇岩城』な ど大掛かりな冒険以 前の話、という明記もされた。そのあとを受けて『水晶の栓』もそうした年代設定になったのだろう。

 そのおかげで、というべきか、本作ではルパン一味の泥棒稼業の最盛期(?)をうかがうことが出来る。『奇岩城』でルパンが一度は引退しようとする前のこ となので部下達の顔ぶれも『813』とは全く異なっている。伝記作者「わ たし」がルパン一味の構成について推察した文があるところも面白い。

 ルパン一味はごく小人数からなっており(わたしにいわせると、 それだけに強力であるわけだが)、あらゆる階級、あらゆる国からかり集めた一匹狼たちを臨時に加盟させて補強するということなのだ。その連中はある権威を 代表する人間なのだが、それがどんな権威であるのか、彼ら自身も知らない場合が多い。そういう連中と領袖とのあいだに、同志というか、側近というか、忠臣 というか、つまりルパンから直接命令を受けて、もっとも重要な役割を演じる人間がゆききしているのだ。(偕成社版、p36)

 少々まわりくどい書き方をしているが、要するにルパンには手足となって働く少人数の側近グループと、必要に応じた臨時雇いの特殊分野エキスパートとがい る、という話だ。その後『虎の牙』でのルパンの言葉によれば、 『813』の時期のルパン直属の部下は60人だったとある。
 『水晶の栓』に登場した部下達は「側近」グループというわけだが、どういう風にリクルートしているものか、興味は尽きない(笑)。もっと もこの『水晶の栓』事件はボー シュレーがジルベール、グロニャール、ル・バリュといった男達を自分の部下にする、つまりボーシュレー派を作ってルパンに取って代わろうと していたという話でもあり、ルパンとしては盗賊団のボスとしても反省しきりの事件だったと言える。

 天真爛漫の二十歳の若者でルパンからもビクトワールからも愛されるジルベールは本作のみ の登場だが、シリーズ全体を見渡してもこれほど「大役」を任された子分はいないだろう。ジルベールは3年前から一味に加わっていたと話しているから、 1904年にまだ17歳の若さでルパンに認められたことになり、意外にやり手の不良少年だったのかもしれない。またあくまで泥棒ではなくルパンの隠れ家の 下男として地味ながら忠 実に働くアシルも 妙にいい味を出している。
 『ルパンの冒険』で初登場、『奇岩城』『813』とすっかりレギュラー化したルパンの乳母ビクトワールはいかに も彼女らしい大活躍(笑)。「ぼうや」に頼まれると断れずまたまた仕事の手伝いをさせられてしまうが、一度は水晶の栓を見つけて喜んで持ってきたり、脅迫 の手紙を見て気を失ってしまうなど微笑ましい場面が多い。その手紙の場面でルパンが「そいつは愛の告白だぞ、間違いない」という台詞もクスリとし ちゃうところ。ルパンにつかまったジャックぼうやを「このおじさん は悪い人じゃないのよ」となだめる場面なんかも印象的だ(じゅうぶん「悪い人」という気もするけど)
 ほかに名前が出てくるだけだが、ブランドボワとっつぁんも 気になるところ。もう足を洗ったルパンの部下だそうで、マルセイユで食料品屋を営み政治にまで首を突っ込んでいるが、いざ親分から声がかかるとちゃんと働 いてくれる律儀者。 「とっつぁん」という訳に「ルパン三世」のあの人を思い出してニヤッとしちゃう人も多いだろうが、原文の「père(父、おやじ、じいさんの意)」を「とっつぁん」と 訳しているのは偕成社版のみで、ほかは 「老人」「じいさん」といった表現になっている。他にもレストランを経営するルパンの部下がいることもチラッと書かれていて、ルパン一味にはいろんな人が いたことをうかがわせてくれる。

 一度はルパンを裏切るがその後は忠誠を尽くすグロニャールル・バリュは、どっち がどっちなのか文章上ではまったく見分けがつかない没個性(笑)。『虎の牙』によればその後ルパンに呼ばれて「モーリタニア帝国」建国に参加したことが分 かっている。
 しかしグロニャールはその後これとは別の「大出世」の運命が待ち受けていた。いや、小説としてのルパンシリーズ中の話ではない。1971年から本国フラ ンスで放映開始されたジョルジュ=デクリエール主演の TVシリーズ「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」は 第1作が『水晶の栓』であったためグロニャールとル・バリュが登場するのだが、このうちグロニャールは単なるルパンの部下にとどまらず、「運転手」兼「召 使い」兼「相棒」といった役どころで活躍している。おまけに彼の登場は『水晶の栓』にとどまらず、シリーズ26作全てに出演し、毎回ルパンの忠実な相棒と して、身の回りの世話から運転、変装、犯罪の手伝いまで、ありとあらゆる役目をこなす大活躍をすることになっちゃったのだ。
 このドラマ版のイメージは、そのままフランス・カナダ合作のアニメ版「アルセーヌ・ルパン」シリーズ(仏題「Les Exploits d'Arsène Lupin」英題「Night Hood」)全26話にも引き継がれ、グロニャールが運転手をはじめとしてルパンの相棒として全話に登場し てしまっている。いつの間にやら原作を飛び越えて、「ルパンの一の子分」に大出世してしまった異例の子分だ。


☆親分だって大活躍!

 もちろん子分なんかよりずっと大活躍するのは親分自身のほう。ルパンの変幻自在の変装ぶりはこれまでの作品ですでに盛んに発揮されていたが、『水晶の 栓』では「一人二役」トリックこそしないものの、場面場面でコロコロと別人になりすまして登場し、その変装の多彩ぶりが楽しめる。

 最初の変装は「年金をもらってぶらぶら暮らしている老人」で、 この格好でドーブレック邸の様子をうかがっている。その後で刑事の一人になりすまして邸内に入ったときには別の変装だったと思われる。それからビクトワー ルを料理女として住み込ませてから少なくとも三回変装しており、「古 びた外套をまとって、ささやかな年金などで暮らしている小金利生活者」になったかと思えば、「黒のフロックコートにシルクハット、頬ひげをはやし、鼻眼鏡をかけた、こぶ とりの紳士」であるベルヌ医師に化けたり する。とくにベルヌ医師の時はビクトワールも全く気づかず、「とっとと とりつがんか!くそばばあ!」と怒鳴られて初めて気づく描写がある。「あんたなのね!」と言われて「いや、余はルイ14世なるぞ」とギャグも言ったりしてたっけ (笑)。ラストシーンでもルパンは杖をついた老人に変装して登場、最後の最後まで楽しませてくれる。
 一番多く登場する変装――と、いうより登場人物の一人になってるという気もするのが、ジャックの家庭教師で文学士のニコル氏だ。その様子 は「古ぼけた山高帽に、木綿の雨傘、片方だけの手袋」で いつも猫背でおどおどした態度の、見るからに学者タイプの人物。これがあのアルセーヌ=ルパンなんだから、プラビルも半信半疑になろうというもの。

 このニコル氏はじめ、ルパンの変装は人間が相手を見るときにまず気にし、先入観をもつ部分、年齢とか眼鏡・ヒゲといった顔の小道具、生活感を感じさせる 外見・服装に気をつけていることがうかがえる。基本的には演技力によるところが大きく、お孫さんのアニメのようにゴムマスクで何にでも化けられるというよ うなものではなく、緻密な観察眼と再現力を必要とするまさに俳優的職人芸なのである。

  さてこの変幻自在のルパンは隠れ家だって常に複数持っている。これまでにもパリ市内の各所に隠れ家が登場したが、『水晶の栓』では「マティニョン通りの隠れ家」と、ミシェル=ボーモン名義で下 男アシルと共に住んでいる「凱旋門近くのシャトーブリアン通りのア パート」がある。ついでなので小説中に登場したパリ市内の場所を地図で示しておこう。



 しばしば舞台となるドーブレック代議士の屋敷は「ビクトル・ユ ゴー通りのはしのラマルティーヌ広場」の近く。ビクトワールと「ジャンソン高校の裏」で落ち合う場面があるように、ジャンソン高校のすぐそ ばでもある。ジャンソン高校といえば…そう、イジドール=ボートルレ少 年が在籍している!『奇岩城』はこの『水晶の栓』のほぼ一年後の話なので、ボートルレ君は当時高校2年生。すでにいっぱしのルパン研究家だった彼が学校の すぐそばで起こった事件の現場を訪れなかったはずはない!(笑)
 物語の発端となる、ドーブレックのマリー・テレーズ荘がある「アンギアン」は、パリ郊外北部にあり(下の地図参照)、さらに詳しいネット地図で調べると確かにア ンギアン湖やそれに沿ったサンテュール通りというのも確認できる。詳しいことは分からないが、パリ郊外の別荘地といったところだったのだろう。

 他にルパン活躍の舞台となる場所を説明しておくと、ルパンとドーブレックが桟敷席で格闘した劇場「ボードビル座」は恐らく実在(あるいは当時実在)する 劇場だと思われるが、現時点では確認できていない。だがショセ=タンタン通りに面しているとあるのでだいたいこのあたりかな、と。ルパンが傍聴し、彼に頼 まれたオジサンが声を上げて大騒ぎとなる裁判が行われたのは『ルパンの脱獄』の名場面もあったあのシテ島の裁判所であろう(明記はないがルパンが裁判所からセーヌ川岸に出ている)。こ のシテ島にはパリ警視庁もあり、ルパンも何かとこの辺に出没している(笑)。

 ジルベールとボーシュレーの死刑執行が行われ大騒ぎになる現場は、ラ・サンテ刑務所からアラゴ通りに出たところにある広 場。左図は「ルパンゆかりの地写真ギャラリー」コー ナーに掲載している「あおな」さんからいただいた現在のラ・サンテ刑 務所の写真で、アラゴ通り沿いの塀を撮影したものだ。写真をみると歩道だけでも2本ある広い通りであることが分かる。刑務所からすぐ外に引っ張り出して、 こんなところで公開処刑やって たんですねぇ、20世紀の初めでも。

 『水晶の栓』で、ルパンはパリを離れて北へ南へと大移動もしている。ヨーロッパ大都市の鉄道の駅はたいていそうなのだが、目的地によってターミナル駅が 行っており、フランス北方やイギリス方面へ向かう列車は「北駅」か ら出発している。アルビュフェ侯爵がドーブレックを監禁したのは友人モンモール公爵の領地内の古塔の中だったが、アルビュフェ侯爵は北駅から列車に乗ってオマール駅で降り、そこから車でモンモールへ移動している。こ れを追うルパンはクラリスを近くのアミアンに泊まらせ、オマール、モンモール、アミアンを行ったり来たりしている。それらの位置関係については下の地図を 参照されたい。
 物語の後半にさしかかると、今度はドーブレックとクラリスを追いかけて、ルパンと子分二人がフランス・イタリア国境地帯を走りまわることになる。当初パ リのどこの駅から乗ったのか分からないのだが、南へ行ったのだろうと見当をつけたルパンたちは南仏方面へのターミナル駅であるリヨン駅へと駆けつけている。危なっかしい話だが、さいわい推 理はズバリで夜行の普通列車でモンテカルロ(モナコ公国の市街地)へ と向かう。夜の9時半出発で、モンテカルロ到着が翌日の午後3時。実に17時間半もの汽車の旅である。
 しかしモナコで二人は発見できず、イタリアのサン・レモに 向かったとの情報を得たルパンたちはただちに列車で国境を越えた。ここでさらに東のジェノバに向かったとの情報を得て列車に乗り込むが、これが偽 情報。実はドーブレックとクラリスは逆方向のニースに いて、察知したルパンはすぐにパリ行きの列車に乗ってそっちへとんぼ返り…というあわただしい展開。
    地名を聞いただけでも観光地だらけで、緊迫した場面なのに読んでいて観光気分がただようこのくだり。ああ、そういえば日本の2時間サスペンスドラマってこ んな感じですね(笑)。なお、ニースの近くに後に映画祭で知られるカ ンヌがあり、ジョルジュ=デクリエール主演のTVシリーズ中の「ルパンのバカンス」(「813」を原作に大幅改変した内容)では、この観光地カン ヌを舞台にルパンが活躍していた。

 発端が強盗事件だったとはいえ、子分ジルベールを救うために損得抜きで親分ルパンが奔走するかに見える『水晶の栓』。しかしよくよく読むと、しっかり 「仕事」もしているからやっぱり「怪盗」だと思い知らされる。
 ジャックを取り返すためにドーブレックにマリー・テレーズ荘から盗んだ品物の返却をもちかけるくだりがあるが、ここでルパンは盗品のリストをきちんと書 類にまとめて示している。盗品は全部で113点で、うち68点はすでに売却済みでアメリカに発送したあとだった。子分がつかまって大変なときでもビジネス は忘れなかったわけだ(笑)。そして『奇岩城』でも語っていたように、盗んだ美術品の多くを国外へ転売して稼いでいた、という事実も再確認できる。
 ニースのホテルでドーブレックを捕まえたときにもしっかりクラリスの目を盗んで(慣用句ですよ、念のため)ドーブレックの上着のポケットから 大金の入った財布をちゃっかりちょうだいしている。(わるくない商 売だな。経費をすべて払っても、まだたっぷりふところに入る勘定だ)とほくそえんでいるあたり、やっぱり根っからのドロボーさんだ(笑)。 さらに白紙を封筒につめて証拠書類に見せかけ、プラビルから4万フラン巻き上げたりもしていて、なんだかんだで『水晶の栓』事件はルパン一味としては大黒 字を計上したのではないかと思われる。


☆ルパン、失恋す!

 毎回毎回、さまざまな女性と浮名を流す天下の色男アルセーヌ=ルパン。今回はなんと二十歳の息子さんがいる未亡人がヒロインである。ジルベールとジャッ クの母、クラリスの 年齢は明記されてはいないが、どう考えても38〜40歳前後というあたりになり、明らかにシリーズ中最高年齢のヒロインと推測される(まぁビクトワールをヒロインという人はおるまい)。ドーブ レックの台詞に「まだ若い」という表現もあるので30代ギリギリかな、という感じもある。ただし夫の自殺など苦労が多かったためか白髪交じりにもなってい た。ちなみに1874年生まれのルパンはこの年33歳と推定される。

 ただこの小説、なにせスリルとサスペンス満載の大忙しで展開する物語であるため、ルパン自身の恋愛模様はほとんど描かれない。むしろドーブレックが若き 日の失恋の痛手を解消するべく執拗にクラリスに迫る場面ばかりが目に付く。そもそもルパンがクラリスに対して恋愛感情を抱いていることはエピローグになる まで明確にはならない。大はしゃぎで何度もクラリスにキスするシーンもあるが、あれはあくまでその場のノリという感じだし。エピローグを読んで、「あ、ル パンはクラリスに恋してたんだ」と分かるという仕掛けはルブランとしてもシリーズの新趣向のつもりだったのかもしれない。

 エピローグで本人が語るように、ルパン自身も自分の感情に最後まで気づいてなかったのだ。「自分が思っていたよりはるかにはげしい感情を彼女によせていた」こ とにようやく気づく。それで「結婚を申し込んだも同然」の 恋情をぶちまけたというが、クラリスはルパンに対して「軽蔑とうら み、嫌悪の感情」さえ抱いており、ルパンはあえなくフラれてしまう。確かに考えてみればクラリスは良家の出で議員と結婚していたような、ル パン言うところの「まじめで、お堅くて、しっかりものの女性」で あり、彼女から見ればルパンなぞ「ただのならずもの」に 過ぎなかったというわけだ。
 この失恋はルパンにとり相当な打撃であったらしく(聞き手の「わ たし」がその痛手の深さを感じ取っている)、クラリスとのあいだに超えられない垣根を作るため、正式な結婚をするという行動に出る。これは 短編『ルパンの結婚』で語られる話で、発表時期から するとルブランはこれをほぼ同時進行で書いていたものと思われる。詳しくはそちらの雑談で語ることにしたいが、ルパンが傷心ゆえと語る割にはこの結婚はか なり計算高いものだったことが分かっており、クラリスへの失恋ゆえに結婚した、という説明はあくまでルパンの弁解ととらえるべきかもしれない。

 「クラリス…クラリス…いつか、わたしが人生に疲 れはて、絶望したそのときには、きっとそこへいくよ。きみが待っているそのアラビア風の小さな白い家に…。クラリス、わたしは信じているんだ、きみがかな らず待っていてくれると…」(偕成社版、p401より)

 このルパンのつぶやきで叙情詩的な余韻を残しつつ、この傑作は幕を下ろす。このつぶやきを読んでいると、ルパンは『続813』での身投げのあと、クラリ スのところへ行ったんじゃないかしら、と思った読者は筆者だけではないはず。そういえば『続813』のラストでルパンが現れたのはアルジェリアであり、そ の奥地の農園にはジルベールが生活している。「アラビア風の家」という表現からクラリスもアルジェリアにいるような気がする。『813』のあとで書かれた 作品だけに、そんな想像もしちゃうではないか。

 なお、ルパンが「クラリス」という名前の女性に想いを寄せてしまうのは、最初に結婚して一児をもうけた女性と同名だからではないか、との推理もある。そ う、『カリオストロ伯爵夫人』のヒロインのクラリスだ。もちろんこの 時点ではルブランは『カリ伯』の構想なぞ考えてもいなかったろうけど、なんとなく符合する気がしてくるから面白い。ついでに言えばお孫さんのルパン三世が カリオストロ公国のお姫様を助けて大活躍しちゃうのもその名前に反応してしまったからでは、なんて憶測もあったりする(笑)。


☆その他あれこれ

 物語の中盤。ルパンとドーブレックが対決し、じっとにらみ合う緊迫の場面がある。ここで「三十分(Une demi-hrure)」も黙ってにらみ合ったとあるのだが、想像してみるとかなり不自然でもある。この部分、新潮文庫の堀口大學訳文は「半分間」つまり30秒と解釈しており、フランス語的にそれが アリなのか分からないが、そのほうが自然ではある。現時点の最新訳であるハヤカワミステリ文庫の平岡敦訳では「そろそろ警察が来るころだ」という表現でこの時間部分の訳出 を避けた形になっていて、これはやっぱりルブランの記述ミスととらえるべきなのだろう。

 その緊迫の最後の瞬間、ルパンがふところに手をやり、ドーブレックもピストルをつかむ。ところがルパンがおもむろに取り出し たのはなんと「ジェローデルのドロップ(pastilles Géraudel)」で、あっけにとられるドーブレックに「おまえが風邪をひくといけないからな」とジョークを飛ばして立 ち去っていく。手玉にとられ続けるルパンのささやかな抵抗、という場面なのだが、このジェローデルのドロップというのはこの時代定番の「のど飴」で、ベ ル・エポックを象徴するポスター画家・ジュール=シェレ (1836〜1932)のポスターでも知られている。右図がその一例(1895年作品)で、「咳(せき)をしたらジェローデルのど飴」というキャッチコ ピーが書かれている。日本で言えば“浅田飴”みたいなポピュラーな存在だったのだろう。この箇所を「錠剤」とか訳している本もあるが、緊迫場面にいきなり “浅田飴”が出てくるから笑えるのだ。それにしてもルパンが「のど飴」を常時携帯していたのは、もしかして変装で声が枯れやすかったからかな?

 ラスト、自殺したドーブレックに向けてルパンが哀悼の言葉をつぶやき帽子をとる場面がある。ここは原文では「De profundis(デ・プロフィンデス)」となって いるのだが、これが訳本によっていろいろで面白い。現行の物だけでも並べてみると、

「主のお恵みを」(偕成社、羽林泰訳)
「主よ、哀れみたまえ」(ハヤカワ、平岡敦訳)
「南無阿弥陀仏(「デ・プロフンデイス」とルビ)」(創 元、石川湧訳)
「南無阿弥陀仏(「なむあみだぶつ」とルビ)」(新 潮、堀口大學訳) 

 意味としてはそういうことなんだろうけど、キリスト教徒のフランス人に「南無阿弥 陀仏」はないんじゃないかと。仏人だからいいって!?(笑)。
 ほかに「超訳」では、堀口大學訳の新潮版ではドーブレックが「小笠原流」な んて言葉を口にするものもある。

 エピローグ部分で、無期懲役に減刑され南米のギアナへの流刑が決まったジルベールが、「レー島」からルパンの手引きにより脱走している。
 「レー島(Île de Ré)」とはフランスの中西部の大西洋岸、ラ・ロシェルのすぐ沖にある島で、現在は本土との橋もかけられて観光地として知られているが、この当時はギニア やニューカレドニアといったフランス植民地の流刑地へ送られる囚人達の出発地として使われていた。

 実に映画的な面白さをもつ『水晶の栓』だが、調べた限り映画化作品はないらしい。ただし先述のようにジョルジュ=デクリエール主演のTVドラマシリーズ「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」の1作目がこの『水晶の栓』 で、日本でもDVDで鑑賞することが出来る。パロディっ気の強いこのシリーズとしては珍しく原作にかなり忠実なサスペンスたっぷりの作品となっていて、お 奨め。この話を正味1時間弱で描いてしまうのでさすがにカット部分が多くあわただしい展開で、プラヴィルが登場しない(警視総監がその代わり)、ビクトワールが登場しない代わりに ルパンが使用人に変装してドーブレック邸に潜入するとか、ボーシュレーの代わりにアルビュフェ侯爵の部下セバスティアニが配されている、ドーブレックが自 殺しない、年代設定が異なるため運河事件から銀行事件に変更されている…などなど、細かい変更点はあるが、大筋で原作の通りに展開してくれる。とくにデク リエール演じるルパンがミシェル=ボーモン、使用人、家庭教師ニコル(と くにこれが絶品)、と次々に変装し、見事に演じ分けてくれるのが見所。ギロチン処刑を銃撃で阻止するアクションシーンもちゃんと入っている のも嬉しい。

 漫画化作品では永井豪とダイナミックプロによる「劇画・怪盗ルパ ン」シリーズの『水晶の栓』がある。ドーブレックの二重眼鏡が漫画では再現しにくいと思ったか、眼帯に変更されており、しかもドーブレック は自殺せず発狂して「水晶の栓」を求めてゴミ捨て場をあさる…というラストになっている。
 フランスのコミック版のシリーズでも『水晶の栓』があり、このシリーズの他作品と同様に原作に忠実なコミック化。ドーブレックのオランウータン・ゴリラ ぶ りもイメージどおりだ。ただページ数の都合か、ドーブレックがルパンの目の前で自殺せず、新聞報道で知る形になっていた。


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