怪盗ルパンの館のトップへ戻る

「テレーズとジェルメーヌ」(短編、「八点鐘」第3編)
THÉRÈSE ET GERMAINE
初出:英訳発表時期不明 1922年12月〜1923年1月「エクセルシオール」紙に仏文発表
他の邦題:「海水浴場の殺人」(保篠訳)「海水浴場の密室殺人」(ポプラ)など

◎内容◎

 ノルマンディー・エトルタの海水浴場にやってきたオルタンスとレニーヌ。ここで殺人が行われる計画があるとの盗聴情報を得てやってきた二人だったが、彼 らの目の前で、しかも完璧な密室状態の脱衣小屋の中で殺人事件が発生してしまった。犠牲者の背の中央についた致命傷は誰の手によるものなのか?消えた凶器はどこに?そして犯人 はどうやって姿を消したのか?盗聴された殺人計画との関係は?レニーヌの推理が開始される。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆オルタンス=ダニエル
26歳の赤髪の美女。新たな冒険を求めてエトルタにやってくる。

☆ジェルメーヌ=アスタン
ジャック=ダンブルバルの愛人。

☆ジャック=ダンブルバル
エトルタを訪れた紳士。ブロンドのあごひげをした大男。脱衣小屋で死体となって発見される。

☆セルジュ=レニーヌ公爵
謎の青年公爵。情報元から盗聴会話を聞きだしてエトルタにやってくる。

☆テレーズ=ダンブルバル
ジャック=ダンブルバルの美貌の妻。

☆フレデリック=アスタン
ジェルメーヌ=アスタンの兄。


◎盗品一覧◎

なし。


<ネタばれ雑談>

☆ルブランが挑んだ「密室もの」短編

 近代推理小説のルーツとされるポーの「モルグ街の殺人」がすでに「密室殺人」を扱っていた。コナン=ドイルもホームズものの「まだらのひも」で密室殺人をテーマとし、フランスではガストン=ルルーの「黄色い部屋の秘密」がある。ルブランもアルセーヌ=ルパン・シリーズにおいて『虎の牙』で密室殺人の要素を盛り込んだ。
 そのルブランが短編において密室殺人トリックに挑んだのが本作。特に本格派作家からの評価が高い『八点鐘』中の傑作として、「密室殺人もの」ジャンルの古典と扱われることも多い作品だ。

  舞台となるのは開放的でほとんど隠れる場所もなく、衆人環視の場である海水浴場。そこにポツンと建つ脱衣小屋だ。誰も入りこむことのできないはずの小屋の 中で短時間の間に殺人が行われる。発見された遺体の背中、両肩の間にグサリと刺された致命傷で、自殺という線は完全に否定される。さて犯人はどうやって入 り、どうやって脱出したのか――?
 シチュエーションとしてはほとんど完璧な密室設定だ。種を明かされると「なーんだ」という声が多そうなトリッ クではあるのだが、注意して読まなければなかなかわかるものではないと思う。逆に事前に密室ものと知った上で読んだ場合は途中で察しがついてしまう人も多 いだろう。そこに本格ものとしては一抹の弱点があるのだが、短編だけにさらりとまとめられている。事前に殺人計画の存在を読者に知らせた上で読ませ、その 計画が完全に齟齬した結果の殺人事件という真相も工夫の一つ。
 恐らくトリックから先に思いついて、そこからそのトリックを実現するための舞台・キャラクター設定を行ったものだろう。読み終えてみればルブランが当初志した男女間の機微を描く心理小説のノリが強い作品とも思える。

 なお、推理作家・二階堂黎人さんのサイトに「足跡のない殺人リスト(不完全版)」という、かなり前にニフティのFSUIRIにアップなさったという内外の「足跡なし殺人もの」ミステリの一覧表があり、ここで海外編の筆頭に「テレーズとジェルメーヌ」および「雪の上の足あと」の『八点鐘』2作が堂々と選出されている。二階堂さんは言う。「《足跡のない殺人》とは何ぞや?密室殺人を含む不可能犯罪の一つである。砂浜に一人の男が倒れている。男は背中をナイフで刺されて死んでいるが、砂浜には、その男の足跡しか付いていない。では、加害者はどうやって男の側まで行って、殺人を犯したのか?」これ、まさに「テレーズとジェルメーヌ」のそのものである。
 そして「最近、アルセーヌ・ルパンが少し軽んじられているようで、僕ははがゆい気持ちで一杯だ。ルパンの活躍の中にはトリックやプロットがふんだんに盛り込まれていることを忘れるべきではないと思う。この作品のトリックは、同時に密室殺人の一トリックの先駆けとしても有名である」ともコメントされており、ルパンファンとしては嬉しくなっちゃうところである。


☆「ルパンの聖地」ご当地もの

 ところでこの物語の舞台はノルマンディー、エトルタの海岸だ。ルパンシリーズファンには説明の必要もない、『奇岩城』のクライマックスの舞台。この話でも冒頭のレニーヌとオルタンスのやりとりで「あの左手にそびえたってる大きなさきのとがった岩に、ほんとうにアルセーヌ=ルパンが住んでいたのかなんて、のんきなことを考えにここにやってきたんじゃなかったわね」(偕成社版、長島良三訳などという、ファンにはニヤリとさせられる楽屋オチっぽいセリフまである。
  ただちょっと気になるのが、この『八点鐘』の年代が1908年秋と推測されること。『奇岩城』の事件の悲劇的結末があったのはほんの半年程度前の話にな る。この悲劇の現場ともいえるところを、恋する女性と一緒にノホホンと歩いているというのも…という気もしちゃうが、「一年が十年にあたる」という人なの であまり気にしないでおこう。

エトルタの海岸(Wikipediaより拝借)。右前方に「アヴァルの門」と「針の岩」が見える。「テレーズとジェルメーヌ」の密室殺人事件はこの砂浜のどこかの脱衣小屋で発生、レニーヌとオルタンスは写真左側のどこかの建物(物語中ではカジノ)からそれを目撃した。

 エトルタはノルマンディー特有の断崖と例の「針の岩」「アヴァルの門」といった奇岩がある一方で、砂浜もあって海水浴もできるこから観光地、別荘地としてこの当時も賑わっていた。ルブラン自身もこの地に別荘を借りて、これが現在ルパン博物館「ルパン荘」となっている(当サイト「ルパンゆかりの地写真ギャラリー」参照)。作家として成功してからのルブランは多くの時間をこちらで過ごしたとされ、この「テレーズとジェルメーヌ」はいわばルブランの「ご当地もの」なのだ。事件のカギを握る地名「トロワ・マティルド(Les Trois Mathildes)」もエトルタに実在するもの。レニーヌも言うようにちょっと見かけない地名なのだろう。ネット検索してみると「トロワ・マティルド」にある貸別荘の案内ページらしきものにつながり、地図で確認するとエトルタの海岸から東に2〜3kmほどいったところらしい。

 この事件は10月2日と明記されている。さすがにバカンスシーズンも終わり貸別荘に滞在している人も少なくなった描写はあるが、まだ観光客がいるのは確かなようだし、ジャック=ダンブルバルが 暑がっている様子も書かれている。だいたい脱衣小屋を使うわけだからまだまだ海水浴シーズンらしいのだ。秋に突入した10月といえどもこの地方では結構気 温が高いんだろうか。現地に住んでいる当人が書いてるんだから実際にそうなんだと思われるが、これは現地に行った人に聞いてみないとなぁ。


☆「ジャワ語」って何?

 ルパンは日頃からあらゆるところに情報源を持ち、事件に首を突っ込んだり盗みの仕事に生かしたりしている。この一話はその実態もチラリと垣間見せる。それもなんと電話盗聴だ。いかなる方法による盗聴なのか本文からは分からないが、単純に電話室の壁に耳を当てて聞く方法もあるし、初期段階の盗聴器を仕掛ける方法もある(調べたところ第一次大戦期にはアメリカでスパイの電話の盗聴が行われている)。あと、電話交換手を買収、もしくはルパンの部下が交換手をしているという可能性がある。『金三角』パトリス大尉が断末魔の叫びを電話で聞き、すぐに交換手に「聞こえただろ?」と問いかけたように、交換手は会話を盗み聞きしようと思えば可能だった。サスペンスの巨匠・アルフレッド=ヒッチコック監督の無声映画時代の作品「ふしだらな女」(1927年製作)ではずばり電話交換手が男女の会話を盗み聞きしている場面がある。ルパンの場合もこの電話交換手による盗聴ではないかと思えるのだが…なお、ルブラン自身の作ではなく保篠龍緒のパスティシュと思われる『青色カタログ』では郵便局に勤めるルパンの部下が電報をチェックして情報収集している描写があった。
 
 さて、その盗聴された会話は、「ふつうジャワ語と呼ばれていることばづかい」(長島良三訳)を交えていたとされる。新潮文庫の堀口大学訳では「普通ジャワ語と呼ばれている隠語」となっている。文庫化はされてない東京創元社版「リュパン全集」収録の井上勇訳『八点鐘』では「ジャヴァ語(第二帝政時代の隠語)」と説明がついている。ここは原文では「javanais(ジャヴァネ)」となっているのだが、このままだと単純にインドネシアのジャワ島の「ジャワ語」ということにもとれてしまう。
 これ、フランス人には常識的なことらしく本文に全く説明がないので、原文に忠実な全訳だとかえって分からない。ここで親切なのがポプラ社・南洋一郎版だ。児童向けリライトということもあり、子供にはわかりにくい話をしっかりと説明してくれている。南版「海水浴場の密室殺人」ではこれは「ジャバネーズ」として以下のように説明されている。
 
 ジャバネーズというのは、ふつうのフランス語に「アブ」とか「バ」とかの音をつけくわえて、他人には意味がわからないような隠語にすること。たとえばボンジュールを、ボアヴォンジュバールと発音する。日本語なら、「こアブんにバちは」とでもいうところだ。

 日本語の例までつけてくれる、親切丁寧にして明快な解説。ネットで調べてみたところ英語版Wikipediaにも「Javanais」はしっかり項目がたっており、「bonjour(ボンジュール)がbavonjavour(バヴォンジャヴール)になる」といった、南洋一郎とほとんど同じ例で説明していた。フランス語特有の隠語テクニックらしく、英語圏ではこの例で説明することが多いのかも知れない。井上訳にある「第二帝政時代」とはナポレオン3世の治世(1852-1870)のことで、その時代に発生した隠語らしいのだが、それ以上詳しい話は現時点ではわからない。


 最後にこの作品の漫画化の例を。
 以前にも紹介しているが、森元さとるが「マガジンGREAT」誌に不定期連載している「ミステリー・クラシックス」シ リーズは名作古典ミステリ短編を児童向けに分かりやすく漫画化して紹介するもので、ルパンシリーズからも選出が多い。密室トリックの古典作品として「テ レーズとジェルメーヌ」も漫画化されており、単行本「アルセーヌ・ルパン編1」に収録されている。大筋で原作に忠実だが、細かいところで読みやすくするた めの改変がある。
 永井豪・安田達矢とダイナミックプロ版『八点鐘』では残念ながらページの都合でカットされており、「そういうことがあった」という感じで1ページで片付けられている。
 
怪盗ルパンの館のトップへ戻る