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「地獄 の罠」(短編)
LE PRIÈEGE INFERNAL
初出:1911年7月「ジュ・セ・トゥ」誌78号 単行本「ルパンの告白」所収
他の邦題:「地獄罠」(保篠龍緒、堀口大學訳)「地獄のわな」(ポプラ))など

◎内容◎

 競馬場の常連・ニコラ=デュグリバルは、刑事に扮したルパンによってまんまと5万フランもの大金をすられてしまい、ショックのあまりピストル自殺してし まった。ニコラの妻と甥は復讐を誓い、世論もルパンを非難する。ルパンは身に覚えがないとして5万フランを遺族に送ったが、その金は強盗のために奪われて しまう。不審に思ったルパンは自らデュグリバル宅を訪問するが、そこには恐るべき「地獄の罠」が待ち受けていた!



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン
怪盗紳士。

☆ガニマール
国家警察部の警部。ルパンの宿敵。

☆ガブリエル
デュグリバル夫妻の甥の若者。黒い目で金髪の細身で、青白い顔をしている。

☆デュグリバル夫人
ニコラの妻。

☆ドラングル
国家警察部の警部。

☆ニコラ=デュグリバル
競馬場の常連。妻と甥を連れて競馬場で遊ぶうち大金をすられ、ショックでピストル自殺してしまう。


◎盗品一覧◎

◇5万フランの札束
千フラン札50枚の束で、ニコラ=デュグリバルから警部に変装したルパンがすりとった。ただしその後そのまま返却。


<ネタばれ雑談>

☆ルパンシリーズの「問題作」

 いささか論評に困る一編だ(笑)。初読時の印象はよく覚えているのだが、読む進むうちはかなり面白く、グイグイ引きこまれたものだ。ただその種明かしが なぁ…(汗)。創元推理文庫の「リュパンの告白」で中島河太郎氏 の解説で「薄手の作品」とバッサリ切り捨てられてい るが、推理小説と思って読むとこれほど腰砕けになる短編もなかなかないだろう(笑)。

 この短編は「告白」シリーズの予告時に第6作「ニコラ=デュグリ バル夫人」というタイトルで挙げられていたもの。『太陽のたわむれ』でも「ニコラ=デュグリバルの奥さんに5万フランを送った話」として言 及されており、タイトルこそ変更されたもののストーリー自体は当初の構想からそう変わっていないものと推測される。それでも当初発表された第4作「うろつ く死神」と第5作「蝋マッチ」を飛ばしての発表、しかも「蝋マッチ」にいたっては完全にボツになっているので、何かルブランもしくは編集部の中で問題が発 生した可能性もある。

 完成し発表された作品じたいにもいくつか問題点がある。まず冒頭でルパンが見事に大金を盗み取るのはいいとして、そのために被害者がその場でピストル自 殺してしまうというショッキングなシーンがある。意図せぬところとはいえ、「殺人はしない」ことをモットーにしているルパンシリーズとしては限りなく「殺 人」に近い結果である。しかも、最終的にこのデュグリバル夫妻が「その道」の人だったことが分かるとはいえ、盗んだ時点ではルパンが「善良な一般市民」か ら金を巻き上げているのだ。いつもはルパンの味方だった世間がルパンに対して激しい非難の声を上げている描写があるのも無理はない。
 さらにそうした非難に対し、当初ルパンは「ぬれぎぬ」であると主張するんだから始末が悪い。わざわざニューヨークから電報を打つ偽装工作までやって、さ らに世論の非難をかわすために盗んだ金をそのまま返すという、かなり偽善的な行為までしている。さらに同じ札束で返しちゃったために犯人であることがバレ ちゃうというオマケつき。「俺の命令じゃない」と部 下のミスだと主張しているが、ここまで来るとそれだって怪しいもんである。

 不審には思ったがノコノコと罠にはまりにやってきて、見事に肩にナイフの一撃、しかも実はそれが女性によるもの、というあたりも情けない話だし、口では 強気なことを陽気に話していても、ガブリエルと二人だけになると買収を持ちかけて命乞いをしたりもする。観念したかに見せて「こんなところで犬死してたまるか」とも言っており、正直あま りカッコいいルパンではない。まぁその辺がこの短編の新味であり、やっぱり「悪人」でしぶとくしたたかな犯罪者としてのルパンを描こうというルブランの意 図があったとすれば、それは十分に達せられているとも言える。


☆ルパンの「超能力」の正体は!?

 とかなんとか言いつつも、僕は中学生ぐらいで本作を読んだとき(榊 原晃三の訳に依光隆の絵と記憶していたので、本サイトの作業過程で1982年刊行の集英社「少年少女世界の名作」23巻と確定された)グイ グイ引きこまれて読んだのだ。とにかくあのルパンが絶体絶命の大ピンチに陥っている!もはや死は免れようがない!という状況でピストルを撃ったら、なんと これがいつのまにか弾丸が抜かれている。短刀で殺そうとしたらその短刀が見つからない。それでは絞め殺そうとすると突然ガラスが割れ…と、もはや「超能 力」としか思えない現象が次々起こる。これまでの冒険譚で毎度超人的なことをするルパンである、今回も実は凄いトリックが…とワクワクして読んでしまうで はないか。

 それが…それがですよ。ガブリエルが実が女で、それがいつしかルパンに惚れてしまったために助ける工作をしていました、って種明かしなんだもん。そりゃ ねぇだろうと思いつつ読んでると、トドメがあのラスト、ルパンが鏡を見ながら言う名セリフ(迷セリフ?)だ。

 「しかし、こういうことなのかね」と、ルパンはつぶやいた。「い い男だというのは!…」(偕成社版、長島良三訳)
 (原文:Ce que c'est, pourtant, murmura-t-il, que d'être joli garçon !)

 もうワクワク感台無し(笑)。要するに「いい男」だから助かっちゃった、と自ら自惚れをこめてつぶやくのだ!その顔が変装でないという保証はあるのか!?(笑)
 この名セリフ、他の訳文でも確認してみよう。

 「とにかくこれだよ。好男子だということのありがたさは!…」彼 はつぶやいたものだ。(堀口大學・訳)
 「それにしてもなにしろ」と、リュパンは呟いた。「美男子だとい うことは…」(井上勇・訳)
 「それにしても、こういうことになったのは」と彼はつぶやいた。 「色男のおかげだ!…」(集英社文庫・長島訳)
 
「やはりなんだな、男は美男子でありたいものさ!…」(保篠龍緒 訳)
 
「やはり美男子というのは得だな」(松村喜雄訳)

 それぞれ微妙にニュアンスが違うのだが、僕がフランス語の辞書とにらめっこした限りでは、偕成社版がいちばん原文のニュアンスに近い訳という気がする。

 訳のニュアンスといえば、この短編ではデュグリバル夫人に向けてルパンが精一杯ふざけて言う、こんな印象的なセリフもある。これも比較してみよう。

 「ママ、ぼく、チョコレートのほうがいいな!いっしょに食べよう よ。」(偕成社、長島訳)
 「チョコレートの方がいいな!ママさん、一緒に食べようよ」(新潮、堀口訳)
 「チョコレートにしてくれよう、おふくろさん。いっしょにたべよ うよ」(創元、井上訳)
 「チョコレートがいいな、ばあさん!一緒に食べようや」(集英社、長島訳)
 
「お母さん、チョコレートも。そして一緒に食べようぜ」(保篠龍 緒訳)
 「おっかさん、チョコレートにして くれよ。それをいっしょに食べようよ」(松村喜雄訳)
 (原文:Des chocolats, la mère ! Nous les mangerons ensemble.)


 この部分、ルパンが子どもっぽくおねだりする感じで言うのか、オバサンをからかう調子で言うのか、訳者の解釈でまるっきり分かれてくる。同じ長島良三氏 の訳でもその両極端をとったものがあるというのが面白いところ。このセリフはデュグリバル夫人に「牢屋にいったらキャンデーを送ってあげるからね(これも訳により「ボンボン菓子」「飴」とも)と言われたのに対するお返しなので、子どもっぽく訳すほうが 正しいのかなぁ…と思うんだけど。


☆大天使ガブリエル

 ところでこの話を中学生で読んだとき以来、ずっとひっかかっていた問題がある。それは「ガブリエル」という名前だ。男になりすましていて「ガブリエル」 という名前だったから、これは男の名前なのかなとも思ったのだが、正体を知ってるはずのデュグリバル夫人も「ガブリエル」と呼ぶので、どうも気になったの だ。
 その後フランス人の名前を調べてみると、この「ガブリエル」という名前、やっぱり男にも女にも使われるものであることがわかった。有名人だけあたった限 りでは主にカトリック圏(南欧・南米など)を中心に、どちらかというと男性についていることが多い気もするが、女性名についているケースも珍しくはない。

 そもそも「ガブリエル」というのは、作中でルパンがふざけ半分に「大 天使ガブリエル」と呼ぶように、聖書に登場する大天使の一人の名前だ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれでも重要な役割を与えられ る天使で、イエスの母マリアに「受胎告知」をしたのもこのガブリエルなら、ムハンマドにアッラーの言葉をもたらすのもこのガブリエルだ。そし てこの天使、本来性別はないはずなのだが、有名な「受胎告知」の絵の数々を見ても分かるように、キリスト教圏の宗教画ではなぜか女性の姿で描かれることが 多い。
 という知識を踏まえてみると、『地獄の罠』のこの「真相」は、キリスト教圏の読者には「ガブリエル」という名でうすうす勘付く、推理のヒントになってい るものなのかもしれない。そんなことを思いついたらこの「薄手の作品」もちょこっと見直したくもなってくる(笑)。

 ルパンが美男子だから助かる、という展開も、読み込むともう少し複雑な女性心理が描かれている、ととれなくもない。看護をする、あるいは受ける男女間に 愛情が芽生えてしまうという現象はちゃんと「ナイチンゲール症候群」な どと名づけられたりもしているし(笑)。


☆そしてあの「大問題作」へ…

 さて、例によって南洋一郎版の話である。この『地 獄の罠』は南版「ルパン全集」では、原作なぞほとんど形を残さないとんでもない大長編に成長するという、異例すぎる運命に見舞われた。なんとルパンがフラ ンスから飛び出してエジプトへ、さらにはナイル上流の奥地への大冒険をすることになっちゃうのだ。そう、それが『ピラミッドの秘密』という一編である(左下図)。

 『地獄の罠』は上記のような話なので、「恋愛沙汰カット」「悪人しか狙わず貧者にほどこす」ことになっている南洋一郎ルパ ンとしては内容をそのままリライトするわけにはいかなかった。そこでまずデュグリバル夫妻を「フランス全国をまたにかけた大盗賊」に変更、ルパンが最初か らそれと知っていて狙ったことになった。しかしそれだけでは動機が…と考えたのだろう、どこから思いついたのか、南洋一郎は「黒人王国の財宝のありかを示すパピルス紙の古文書」をニコラ が持っていてそれをルパンが狙っていた、という話にさらに改造してしまう。
 そしてガブリエルが実は女だったという設定は生かしつつ、「エリザ」という名の孤児の美少女に変え、むかしブーローニュの森で凍死しかかっていたところ をルパンに拾われ、一時ビクトワールのもとで養育されていたことにした。その恩に報いるためにルパンを助ける、ということになったのだ。
 そして古文書を手に入れたルパンはエリザととともに、エリザの両親の考古学者を探してエジプトへと向かい、「インディ・ジョーンズ」そのまんまとも思え る大冒険を展開することになっちゃうのだ。この物語についての詳しい話は、パスティシュコーナーのほうで語りたい。

 この『ピラミッドの秘密』は「怪盗ルパン全集」旧版(全15巻)の第13巻として1961年に刊行された。その後1971年にやがて全30巻となる新版 では『七つの秘密』の収録作変更(『ルパンの名探偵』へ2作移動し た)の都合から、『ピラミッドの秘密』のプロローグとなっていた部分を『地獄のわな』として分離、『七つの秘密』に収録しなおした。
 その後、1999年から刊行が始まった「シリーズ怪盗ルパン」ではルブラン原作のあるものに限り、その発表順に並べる編集方針がとられたため、『ピラ ミッドの秘密』はあっさりと除外された。しかし『七つの秘密』が『ルパンの告白』にあたることからこの『地獄のわな』だけはしっかり生き残り、現在でも読 むことができる。ただし『ピラミッドの秘密』へのつながりがそのまま残っているため、なんだか中途半端な話となってしまっている。


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