航空フォーラム−’97春−

「YS-11から未来へ」
パネリスト/東 昭氏(東大名誉教授)、野口 常夫氏(日本航空学園 航空研究所長)、横山 正男氏(元全日空機長)
司会/中村 浩美氏(航空評論家)
1997/3/23 PM2:00〜PM3:30(予定)
航空発祥記念館イベントホール

H9/3/23、春のイベントの一環として、掲題のフォーラムが開かれた。このイベントを知ったのは、記念館からの手紙によるもので、どうやら去年の記念館主催の公開講座に出席していたかららしい。

その日は生憎の小雨交じりの曇りで結構寒い。目的のフォーラムが午後2時からなので、正午過ぎに自宅を出ることにする。天気も悪いし普段なら自動車で向かうところだが、日曜の昼といえば家の周りや通り道の浦所街道は大渋滞、航空記念公園も一番混んでいて駐車に一苦労する時間帯である。バイクで行くのがよかんべえと、久しぶりに愛車FZRのエンジンをかけた(バッテリがあがってなくてよかった(^^;)。途中はやっぱり混んでいて、天候は霧雨程度、まあ合羽を着るほどの天気でなくて一安心。記念館の駐車場はこんな天気なのに一杯だった。晴天ならさらに混むので、公園散策等も含めてここに来るのは土曜日が絶対おすすめ、日曜日の状況が嘘のようにすいている。

時計をみたらまだ1時前だったので、記念館内を見てまわることにする。最近は月イチ程度のペースでここを訪れている感じだが、全然ホームページに反映していない。いずれにせよ記念館の設備やレイアウトは時々変わるので、チェックは欠かせない。新しいフライトシミュレータ(写真右:2台あるうちの奥側、写真は2Fのもので1Fにもあり)も、導入後早い時期に発見して遊んでいたのだが、ホームページには反映していない。果たしてこのページをチェックして記念館を訪れる人がどれほどいるのかという思いもあったりするので、この辺は結構いいかげん。

ロビー受け付け横のガラスケースの模型展示が、スペイン内乱をテーマとしたものに変わっていた。以前有料区画で展示されていたものの一部で、SLBという地元の模型サークル(?)の作によるものらしい(写真左)。こういうのを見ると、自分が全然完成品を仕上げていないのに気づく。最近手がけているものでは長谷川の雷電とか田宮の一式陸攻とかいつ完成するのだろうか。まあ道楽なので、色々実機について調べたり、関連する戦記を読んだりするといったプロセスを楽しむといった面もあるので、ただ完成させることだけが目的でないことも確かなのだが、綾波レイとかしょーもないものはすぐ完成するのにね。人にあげるつもりで作らないとないとダメなのかな。

時間があったので、ニューポール81Eの前にあるビデオ展示を見て時間をつぶすことにする。所沢飛行場の歴史、ニューポール実機のいきさつ、復元機についてが短くまとめられて面白い。この機体の復元はアメリカのDAWN PATROL AGENCYというところが行ったらしい(ここかな?間違ってたら教えてください>詳しい方)。


程なくフォーラム開始となる。残念ながら予定されていた佐貫亦男先生はいらっしゃらなかった。なんでも体調がお悪いとのことで、ちょっと心配。替わりに(というか、追加メンバーということらしいが)、野口常夫先生が来られた。最近では「航空ファン」誌(97/4)にカラーぶち抜きで人物紹介されていたりして同窓の会社同僚と話題になったりもした。実際にお会いするのは私が某大学(バレバレ)卒業以来なのだが、研究室も違っていたし実にトホホな学生だったので野口先生の記憶には私なぞ存在しない。

フォーラムのテーマは「YS-11から未来へ」。前半はYS-11に関する当時のいきさつや思い出を各人に語っていただく形。

東先生の話では、土井武夫先生を通じてYS-11を知ることになったのだが、土井先生は小柄なかたで、土井設計の機体はどれもコックピット等が狭い傾向があること。木村秀政先生も小柄なかたなので、YS-11の乗客席の窓が今の感覚ではどうも低い位置にあるのがいかにも土井先生の設計を彷彿とさせるといった話。生産機になって、安定を増すために上半角を増やしたのだが、「桁にくさびを挿せばいいよ」ってな感じでされて土井先生らしい。だからYSの脚は広がり気味になったといったエピソードを披露。

野口先生は、高校時代に初飛行の生中継を学校をさぼってテレビで見たこと。その時のパイロットの方を鮮明に記憶していたのだが、のちに日大木村研にその息子さんが入られたこと。アメリカ留学時に、あちらでYSを目の当たりにして感激した話などを披露。

横山先生は、全日空キャプテンとしてYSに搭乗していたときの話で、就航当時は装備も貧弱で自分たちが使うことで改良されていった話。コックピットへのエアコンの利きが悪く、夏は汗だく冬は凍えるといった苦労。八丈島に向かうときに積乱雲を避けて飛んでいて、厚木の米軍にスクランブルを受けたエピソードなどを披露された。

あと、司会の中村氏の話として、YS-11が生産打ち切り当初の目論見ではあと5年も使えばいいよってことだったのに、今でも現役で飛び続けていること。それに関して、YS-11がいかに丈夫な機体であるかという話。YSが赤字といっても国鉄に比べたら桁が違う程度でしかなかったのに打ち切り残念といった話。YX計画が続かなかったが、国際協力に形を変えてB-767、777といった機体に反映されている、といった話をされた。

後半は、日本の航空の今後について。みなさんざっくばらんに話された。以下はその抜粋。

旅客機の開発としては、もはや1国による開発はコストの面で現実的でなくなってきてしまていること。したがってマスを狙うのであれば、国際共同開発という規模のものになってしまうこと。したがって、YSに続く機体が全く無いわけではなく、形を変えているだけなのだといった話。

ただし、小型機に関してはもっと取り組んでもよいのではないかという話。たとえばスイスなどでは小型機の需要が多く4000機程ある。この割合を日本に当てはめると10万機にもなるほどの高率であること。日本は地形が悪いといった言い訳は通用しないのではないか。天候に関しても、日本などよりはるかに条件の悪い北欧でも小型機の需要は多い事を考えると、本気で運用しようとしていないだけなのではないかといった話。

アジア各国が盛んに自国で自主開発を行おうとしており、YS-11の経緯をじつに良く研究しているといった話。日本はモーターグライダーなどをブラジルから買ったりしているが、日本の航空関係者としてちょっと残念といった話。

ヘリコプターも含めた航空機の運用を、自動車やバイクの様にもっと身近なものとして考えてゆく必要があるのではないか。そのためにも、若い人たちへの啓蒙がもっと必要といった話。

その後、質疑応答で国産民間機に関する様々な疑問が投げかけられ、霞ヶ関や永田町への色々も余談として出たりして、予定時間を20分以上もオーバーして終了となった。


こういった話は楽しいのだが、直接航空とは関係しない職場にいるものとして、複雑な心境になったりもした1日だった。

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