CAMELの音楽歴

 

CAMELが音楽に興味を抱いたのは中学1年の時である。

当時は吉田拓郎・井上陽水といったフォーク系の音楽が仲間内では人気があった。

最初に買ったレコードがシングル盤『地下鉄にのって』(by 猫)である。

それから,深夜放送を聞いていると自然と洋盤にも興味を持つようになる。

何回も聞いてるうちに,英語の意味はわからずとも”この曲いいなあ”と思う

ようになってきた。

最初にそう思った曲はカーペンターズの『トップ・オブ・ザ・ワールド』であった。

それから,邦盤より洋盤の方に興味を抱くようになる。

そうして,当時流行ってたエルトン・ジョンを良く聞くようになる。

ピアニストを撃つな』というアルバムは,私にとってかなりに衝撃であった。

それを期に,シングル盤よりアルバムを聞いた方がそのミュージシャンの魅力が

よくわかる!といったことを認識する。

私の音楽のベースはエルトン・ジョンといってもいいだろう。

中学の時はクラスでもギターをやってる者もいて,私も家にあったクラシックギターで

フォーク系の曲を弾いたりしていた。

かぐや姫の曲とかを弾き語りしてた。(スリーフィンガーが得意だった)

高校に入って,クラスの仲間3名でバンドを組む。(ギター2人・ドラム1人)

フォークばかりやってたが,ロックバンドとして,やっていこうとなると

この編成ではおかしく,私はベースをする事になる。

バンド名はSBR(シルバー・ブリック・ロード)と名づける。

主にオリジナル曲ばかりをやってた。アルバムを作ろうということになり

(といっても遊びだが!)計12曲を作る。 3人なので多重録音で私はベースと

ギターとボーカルとかやってた。

しかし,私は当時卓球部に所属しており,次第と活動ができなくなっていった。

1年経って卓球部を辞め,別の友達とバンドを組んだ。(音楽部に所属)

ディープ・パープル,ザ・フー,クリームとかをやった。 しかし下手だった。

大学に入って,ホエールズというバンドを結成し,サザン,柳ジョージとかやってた。

しかしそれも長続きしなかった。3年の時,先輩バンドの前座をすることになり

急遽メンバーを集めて,”81%”を作る。4人編成で私はギターとキーボードと

ボーカルをする。 その時のドラムは大学の将棋部から連れてきた。

(私のいた将棋部には,いろんな奴がいたなあ!)

Wishbone・Ashオリジナル曲とかやってたその前座のときは化粧を

してでたような記憶がある。

その後,2人の女性が加入して,”中之島ブルースバンド”を結成。

この時は,何回となくコンサートをした。コンテストにも出たりしたが

いつも予選落ちだった!(当然かな)

この時のボーカルは女性2人が交互にとっていたので,私はベースに専念。

しかし,ブルースバンドとはいっても,曲はロック系ばかりだった。

そして,就職とともに私はバンドから脱退し,ひたすら仕事に専念する。

それから6年たって,そのときのバンド仲間だった女性の結婚の前祝会で

そのダンナさんから,『バンドを組もう』と誘われ,会社を転職

地元に戻ることになる。 それから会社のクラブ(PSC:音楽部)で

バンド活動をする。 曲のジャンルはばらばらである。

主に担当はキーボードで(キーボード弾ける者がいなかった) ,たまにSAXもした。

(YAMAHAのSAX教室にいってた)

また,並行して,高校のときからずっとやってた仲間から誘われ,

”ウイズ・フレンド”というバンドに参加する。

長崎を拠点にしてるため,ちょくちょく北九州〜長崎にいく。

リーダーはお医者さんで,私より少し年上であった。

曲も,ベンチャーズがメインで,3〜4年間続いた。

地元の野外コンサート,スナック,忘年会の余興のときに演奏した。

国見町の祭り(9月23日)とかにも出て,地元の新聞とかにも紹介され

たらしい。

ベンチャーズだけで.20曲はレパートリーがあった。アコギのリード

をする曲のみ私がギターを担当した(『長崎慕情』『京都慕情』)

クラプトンの『クロスロード』だけは私がボーカルをとった。

しかし,現在は会社のサークルでの活動で”ダイナマイト順子バンド”だけで

年に一回だけコンサートをしている。ちなみに担当はキーボード。

今は,もっぱら,演奏するより,リスナーとして音楽を楽しんでいる。

いずれは,多重録音なんかしたいと思ってるが,性格が豆じゃないので

実現性は薄そうだ!

偉そうに書いたけど,わたしにとって,将棋と音楽とどっちが自信あるかと

聞かれたら,きっとしばらく考えて”将棋”と答えると思う。

つまり,その程度のレベルなのである。