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鏡餅(カガミモチ)筑前煮(チクゼンニ)三平汁(サンペイジル)醤油(ショウユ)の話料理の諺(コトワザ)御節(オセチ)料理
「松竹梅」ってなぁに?御田(オデン)の語源「蛤」(ハマグリ)はお目出度い?高砂(タカサゴ)の語源



御田(オデン)の起源

 寒い季節に屋台の脇から湯気と共に煮汁にしみた種の香りが漂ってくるとつい立ち寄りたくなるお でん、今ではコンビニの定番食品になりましたが、栄養のバランスが良く手軽で誰もが好む料理です。 この料理はいつ頃からオデンと言うようになったのでしょう。その歴史を調べてみました。

▲その語源は平安時代から行われている、農耕儀礼として寺社の行事に演じられる日本古典芸能の一 つである田楽躍(でんがくおどり)からきたとされています。
田楽について「日本書紀」には天智天皇10年(671)5月の条や「続日本紀」にも巻九天平14年(742)正月 の頃に宮中でタマイという形で奏でられていた記録が残されているように、タマイは古くから豊作を 祈願する田植神事に伴う芸能でした。その様式は時代や地域によって様々でしたが、次第に田楽躍と 称して専業家の集団により演じられる様になり、鳴り物の田楽衆や田楽法師という芸人が生まれまし た。法師(僧侶・出家者)と称したのは宗教に寄与することで租税をのがれる為であったと言われてい ます。田楽躍は舞楽、散樂、獅子舞などを取り入れて発展し、散樂は猿楽を生み、鎌倉時代に入ると さらに能や狂言と言う芸能に発展したのだそうです。

参考 「田」の字の起源は畦で仕切られた田圃の形の象形文字で、また「楽」の字は旧字体で樂と書きますが 中央の白と左右の糸で鼓(ツヅミ)の形を表し木は設置する木製台の意でこれらを合わせて⇒太鼓と いう意味になり、それはつまり音楽(しむ)の道具の意味⇒楽しむ⇒快い⇒容易⇒苦労が無い⇒簡単・・・と意味が拡大して現在 の様な広い意味になりました。

▲料理で言う田楽ですが、最初は豆腐を焼いて味噌を付けたものを田楽と言ったそうですが、この田 楽法師が躍る時に鷺足(さぎあし)や高足(たかあし)という竹馬の様な棒に上る姿が串に刺して焼 いた豆腐に似ているところから田楽と名付けられたようです。その後蒟蒻、里芋、茄子などの野菜類 や鮎、石斑魚(うぐい)、山女などにも同じ手法を用いて、魚類の場合は魚田(ぎょでん)とよび蒟 蒻や芋な野菜類はオデンとよぶようになりましたが、江戸時代後期になって焼かずに醤油で煮込むよ うになり、便宜上魚菜共におでんとよぶようになりました。そして一説によると女房詞(にょうぼう ことば)といって室町時代初期頃から宮中奉仕の女官が主に衣食住に関する事物について用いた一種 の隠語的ことばで、田楽を指しておでんと言ったとも伝えられています。

▲煮込みのおでんが現在のように全盛になったのは明治時代に入ってからです。それは次のようなと ころで伺い知ることができます。歌舞伎の《慶安太平記》の中で、壕端(ほりばた)の丸橋忠弥のせ りふで「煮込みのおでんでやっちょるネ」と言うところがありますが、この狂言の書き下ろしが明治 3年(1870)で、明治維新直後の薩長藩士がはばをきかしていた時代をあてこみ、江戸っ子の忠弥にわ ざと九州弁を使わせる皮肉が、当時の観客に受けたのでした。江戸で煮込みおでんが盛んになったの はおそらくこの頃からだろうと思われます。そして庶民の趣味に「おでんに燗酒」が盛り場の屋台店 に繁盛したことでしょう。その趣味は現在でも受け継がれていて「おでんに茶飯と燗酒」これが付き 物と言われています。

▲当時の関東では「ふぐ料理」と並んで「おでん」は下層客を対象にした料理で、その人気は次第に 衰退して行きましたが、大正12年(1923)の関東大震災で東京の料理店は殆ど全滅し、一般料理の分野 で関西からの圧倒的な進出に影響されると、復興機運のおでん屋も追従して関東に逆輸入されてきま した。かつて関西に伝わって行ったおでんは、焼田楽と区別し関東炊き(又は関東煮)の名称でさら に発展し「お座敷おでん」として客座敷にも出されるように繁盛していたのでした。

▲もともと味の付かない焼田楽だから味噌を付けたのでしたが、これに対して煮込みは味が付いてい るので味噌を付けても付けなくても良く、その代わりにカラシを付けるようになりました。香辛料の 中でもカラシは最も殺菌力に優れているので、衛生設備のあまり良くない所では合理的な用意だと言 えます。味付けは、関東が昆布と鰹節の出汁を使い濃いめの醤油味で、関西は鶏ガラのスープを使っ た薄味です。材料も本来関東では先の魚菜の他に揚げ豆腐やゆで卵、昆布や魚貝の練り製品ですが、 関西は他にも蛸や鶏肉、鯨の白い脂肉などを用いて趣向を広げていた様です。

▲最近では、特に伝統を重視して関東関西それぞれの趣向にこだわりをもっている店も有りますが、一般的には出汁も中間をとった味に仕上げている店が多く、材料も牛筋、揚げ袋、牛タン、ロールキャベツ、つぶ貝、ウインナソーセージ、串銀杏、白菜巻、鶏砂きも、鶉卵串、揚げ餃子などとそのバリェーションは各店で広がりつつあります。鍋は一般的に普通の土鍋で炊きますが、業務用には専用の中仕切りの付いた四角くて浅い(上記写真参照)銅製又はステンレス製の角鍋が多く、鍋を浅くしてあるのは、材料が被るくらいに汁をはり、煮過ぎないように弱火で炊きながら食べることが美味しいく、また材料を種類別に摂りやすく工夫した作りになっている為です。
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鏡餅(カガミモチ)

正月に神仏に供える円く平らに作った餅のこと.大小2個または3個を重ね,上にダイダイをのせ,コ ンブ,イセエビ,串ガキ,クリ、ユズリハ,ウラジロ(シダ)などで飾るが、これは後代の装飾であり、 古くは鏡を神聖なものとし,正月のもちもこの鏡に似せて作ったので鏡餅,お鏡というようになった.紅白 のもちに仕上げる場合もある.お供えともいう。鏡餅は神に供えるほか、親元とか本家とかに贈ることも ある.そして家族の食べる分は小餅として区別する。しかしそれを食べることを、餅を祝うとか雑煮を祝う とか言うが、それは鏡餅の神聖視と合わせて,特別な<晴れ>の日の食べ物として尊んだことを示している。 また鏡餅を下げる日は、大正月の終わりの意味をもつが、所によって4日,7日,11日と一定していない。 そしてその時のことを、【鏡開き、鏡ならし、鏡あげ、年おろし】等といって、雑煮、雑炊、汁粉(しるこ) 等にして食することが一般的な習慣となっているが、中にはその一部分をつるしておき,六月朔日(ついたち) にそれを食べるという所もある。
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筑前煮(チクゼンニ)

福岡県の郷土料理で、筑前炊き、がめ煮、炒り鳥などともいう。 料理書によると昔は鶏肉ではなく、すっぽんが使われたと記されている。 1959年(文禄1)、朝鮮出兵の豊臣秀吉軍が福岡(現博多)に幕営した折 りに、付近の入り江に多いすっぽんを捕まえて野菜と一緒に煮て食べたのが始 まりという説があり、この地方ではすっぽんをがめとよぶ所からがめ煮の名が 起こったとされている。
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三平汁(サンペイジル)

北海道の郷土料理で、旧松前藩の料理方、斎藤三平が考案した所からという説が有力で、有田焼 の三平皿に盛るからなどという諸説がある。元来はすしにしん(糠と塩で漬けたもの)をぶつ切 りにして、じゃがいも、椎茸、大根、人参、葱などと一緒に昆布出汁で煮たものだったが、後に 酒粕を入れたり、にしんを使わずに鮭や鱈などを使ったり、その土地や作者の工夫が加わり変化 してきた。
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醤油(ショウユ)のはなし

醤油は日本の伝統的な液体調味料といえます。私達料理人同士ではムラサキとかまたは簡単に略し てムラとか、古くはオシタジとかイロとか、エドイロとかそのときの状況で使い分け、単に材料名 としてだけではなく、使用状況や使用方法などマニュアルも同時に伝える表現とした言い方もしま す。またそのルーツに関しては原型として6世紀頃、越南(ベトナム)−天竺(インド)−中国大 陸から朝鮮を経て伝来したヒシオと言う塩蔵発酵食品で、現在のようにショウユになったのは室町 時代からで工業的になったのは江戸時代からであることはすでに学びましたね...覚えてますか ?。 現在の、最も一般的な濃い口醤油の製法を概略すると、蒸し煮したダイズまたは脱脂ダイズ煎って 砕いたコムギと種こうじを加え、こうじ室で菌を繁殖させたのち、塩水と混ぜて仕込む。そして発 酵,熟成させてできたもろみを搾り、さらに火入れしてできあがる。
種類としては、日本工業規格(JAS)で定めており、まず濃い口醤油の他は色を薄くした薄口醤 油,ダイズを主原料とした,たまり醤油,塩水の代わりに更なる旨味を求めて醤油を用いて仕込んだ 再仕込み醤油、ダイズの使用量を減らして淡色に仕上げた白醤油等々があり、さらにこれらも成分の 濃さと種類や官能検査により特急,上級,標準の3等級に分けられ、またその製法上で原料の分解が 全くこうじによるものを本醸造,もろみまたは生あげ醤油にアミノ酸や酵素処理液を加えて発酵、熟 成させたものを新式醸造,本醸造または新式醸造の醤油にアミノ酸液または酵素処理液を加えて調製 したものをアミノ酸液混合酵素処理液混合として分けているので買うときにレッテルなどを良く見 ることで認識しておくと良いでしょう。
ヒシオとしての種類では味噌や塩辛も醤油の仲間になるし、また魚醤としての秋田のショッツル, 四国香川のイカナゴショウユ,北陸のイシル,英国のアンチョビソース,越南(ベトナム)のナンプラーや 泰(タイ)のニョクマムも仲間と言うことになります。
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料理の諺(コトワザ)

産地に調理なし
古く縄文時代の我が先祖達が「調理文化」を考案したと言われ、大陸から流入した弥生人と 相まって更に料理らしくなり、長い年月をかけて今日の「世界的和食文化」が育まれ、つくられてき たのです。
 日本には、地方によらず古くから「産地に調理なし」ということわざがあります。これは「調理法 がない」と言う意味ではなく、四季のハッキリとした日本では、野菜や魚介類を初めとして海にも山 にも川や里にも季節になると豊富に「旬のもの」があり、採りたての旬のものはそれだけで充分にお いしいので、都でやるような、やたらと手を加えた料理法はかえって不用であると言う意味なのです。 「旬の素材が持つ味と栄養」をそのまま生かして食べる。それが一番うまい食べ方であり、健康にも 良いと先祖達は考えたのです。
 日本料理のシンボルといえば「刺身」です。刺身は生の魚の身を食べやすいように切り揃えて出す だけです。素材の味を充分に考慮することは勿論ですが、この刺身が和食の代表であるということは、 日本料理というのは、素材の鮮度と旬の味を非常に重視していることを物語っています。
西洋的な料理法の視点から見たら、「刺身」はとても料理のカテゴリーには含まれません。欧米の伝 統的な料理というのは、香辛料や調味料、その上にクリームやソース、油等をたっぷり使った大変手 の込んだものが多く、この点で中華料理も類似してます。 和食と欧米中料理の決定的な違いは、前者の「素材の味を生かす」のに対して、後者は「人工の味の 工夫」を重視する点です。
 西洋料理は「おいしくして食べる」料理であり、日本料理は「おいしいのを食べる」料理といえる でしょう。日本料理は素材の持ち味を活かして調理するという意味で、別の言い方をすると、素材の 持ち味以上に美味しくしてはならないというのが鉄則になっています。その意味で刺身がシンボルに なるのです。もっとも最近の風潮として某番組の某先生方の指導によると、この辺はすでに無視され ていて、ただ見た目と珍しさとゲストの好みによる理屈合わせで採点する乱暴な見方も横行している 様なので、少なくとも皆さんは、そのような「意識のウィルス」に感染しないように注意して下さい。

強火の遠火で炎立てず
火鉢や囲炉裏が私たちの生活から遠ざけられ、炭火が縁遠くなってしまった現在、焼き物の料理が 徐々に姿を消しつつあるのは残念です。魚は刺身で食べる以外は、焼いて食べるのがおいしく、壱岐 地方のことわざにも『一焼き二なます、捨てようより煮て食え』といい、焼き物はうまい調理の筆頭 にあげられています。
普通焼き物の火加減は『強火の遠火で炎立てぬ』と言われ理想とされています。わけても直火で焼く ときは火加減が大切で、熱源としては炭火が一番とされてきました。その木炭の中でも備長炭は木炭 の内部に湿り気が少なく火力にムラがなく火持ちがよいとされています。一般家庭で用いられるガス の炎は、800度から1000度C近くもあり直火焼きには不向きな熱源です。焼き物の温度は200度から 250度Cくらいにとどめないといけません。ガスの炎のような高温では表面が黒焦げになったり、乾 燥しすぎたり、とかくうまみを含んだ肉汁が不必要に失いがちになります。こんな時のコツは 『間接焼き』です。
最近のガス器具はかなり改良されてきましたが、無駄なところに費用をかけて、根本的な改良はまだ まだ余地が残されているように思います。
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御節(オセチ)料理

「おせち」の本来の意味は節会(せちえ)の時に供される、供御(くご)・供饌(くせん)の事 で、節句料理の事である。一般に五節句と呼ばれる事がありますが、実は五節句の時の供物を意 味するところから、昔はすべて<節供>と書かれていたのです。伝統の年中行事には必ず食事が 付き物だったので、昔は自然食を主とした、節会が節供と言われるようになり、五節句の供饌が 何時の頃からか正月に限っての祝饌を「おせち」と呼ぶようになり、その五節の中でも年の始め を特に重んじた風習から、やがて正月料理の名称となったのでしょう。また本来おせちの姿は蓬 莱飾りにあると言われ、三方に白米、熨斗鮑(のしあわび)、伊勢海老、勝栗(かちぐり)、昆 布、野老(ところ)、馬尾藻(ほんだわら)、串柿、裏白(うらじろ)、譲葉(ゆずりは)、橙、 橘などの縁起物をその年の年神へ供え、これを下げて調理して、一同が神と共に食して祝う事を 直会(なおらい)の儀といい、これが御節料理となったのです。
昔の料理書によると、当時一般 家庭の「おせち料理」は牛蒡、芋、人参、蒟蒻、大根、焼き豆腐などの精進物を主とした煮しめ が中心で、簡素を旨とした時代にこれなら五節を通じてどんな家庭にも実行することができ、そ の他は経済事情に応じて適宣に加増すれば、自ずから栄養の目的も叶うとの意であった事が伺わ れます。
御節料理を4段重ねに詰める場合、一の重に数の子、黒豆、田作などの祝い肴(いわいざかな) を、二の重にはきんとん、伊達巻などの口取りを、三の重には海の幸、山の幸などの鉢魚を、与 の重(四の重とは書かない)には畑物などの煮物を収めたが、色彩の美しい口取りを、最上段で ある一の重に収め、祝い肴を与の重に入れ替わる場合もある。御節料理には年始に当たり、文化、 経済、勤労、武勇、平安など国家の安泰、子孫の繁栄、五穀豊穣を祈願する縁起が込められている。
伊達巻や昆布巻には文物即ち文化、きんとんや錦卵には財宝、陣笠椎茸や盾豆腐(たてどうふ)、 矢羽羹(やばねかん)などには武家時代の名残で武勇、日の出蒲鉾や紅白膾には国の隆盛と平安を 表し、八つ頭は人の頭に、クワイはやがて才能の芽が出るように人生の希望を、草石蚕(ちょろぎ) や腰を曲げた海老には長寿をそれぞれに意味し、縁起を込めて調理しているのです。

<参考>・・・上の文中に 出てくる語句を注釈しますと下記のようになります、参考にして下さい。
節会(せちえ)
古代、朝廷で節日その他公事のある日に宴会が行われた。この日天皇が出御して酒饌を 群臣に賜った。3節会の1/1元日(ガンジツ)、1/7白馬(アオウマ)、1/16踏歌(トウカ)、 それに5/5端午(タンゴ)、旧暦11月中の辰の日豊明(トヨノアカリ)が加わり5節会と呼ばれ、 この他に7/7相撲(スマイ)、9/9重陽(チョウヨウ)、等の節会があり後に、任大臣(ニンダイ ジン)などが加わりました。
供御(くご、くぎょ)
主に天皇の飲食物を供御と言います。
供饌(くせん、ぐせん)
神に供える酒食つまり神饌(稲、米、酒、鳥獣、魚介、果実、蔬菜、塩、水など)を言い、 御供物の事である。
五節句(ごせっく)
1/7人日(ジンジツ)七草の節句、3/3上巳(ジョウシ、ジョウミ)桃の節句、5/5 端午(タンゴ)菖蒲の節句、7/7棚機津女(七夕,タナバタ)銀河祭、9/9重陽(チョウヨウ)菊の 節句など。
蓬莱飾り(ほうらいかざり)
中国の伝説で、東海(東シナ海)中にある神の島で、仙人が住み不老不死の地とされた霊 山、「よもぎが島」「亀山」「蓬莱山」とか言われ、その神島の名に肖って、神に拘わ る新年の祝儀の飾り付けを言う様になりました。
三方(さんぼう)
神仏または貴人に供物を奉り(献上し)、または儀式に物をのせる台で、方形の折敷(オシキ) を桧の白木で作り、前左右三方に刳形(クリカタ)のある台を取り付けた物で、古くは食 事をする台に用いていたようで、本膳料理などに名残が窺えます。
熨斗鮑(のしあわび)
細く切った鮑の肉を薄く伸ばして乾燥した物で、「打ちアワビ」とも言い武士の出陣の際や 儀式様の酒の肴として用いたが、のちには進物に添えて祝意の表明とした。鮑の肉が 長く伸びるので永続の意を表し、これが簡易化されたのが現在の紅白の紙や水引などで出来た 「のし」のモチーフである。
勝栗(搗栗/かちぐり)
栗の実を乾燥して臼でつき、鬼皮と渋皮を除いたもので一種の保存食である。かちは搗 (ツ)くの古語で「勝ち」をゴロ合わせで、昔から縁起物とされ、武家の出陣や勝利 の祝い、新年その他の祝儀等に用いられました。
年神(としがみ)
五穀(米、麦、粟、豆、黍又は稗)を守り豊年を祈る神で、歳徳神(としとくじん)とも 言い、その年の徳神のことでこの神が居る方を恵方と言い万事に吉とする。
祝い肴(いわいざかな)
祝い膳の酒の肴を言います。おめでたい時にその気持ちを込めた献立料理一般を祝い膳と言 うのですが、その素材が持つ意味から尾頭付きの鯛、鯉、伊勢海老、鯔、鰤などが 定番として用いられます。しかし正月の祝い肴は内容が決められていて、三ツ肴と言われる(数 の子、黒豆、ごまめ)の事を意味します。
口取り(くちとり)
口取り肴や口取り菓子のことをいうが、古くは饗膳の最初に座着き吸物と共に出された、昆 布、熨斗鮑、勝栗などの祝儀の肴であった。次第に食味本意へと変化して、海山里の ものを浅皿(口取り皿)に盛り合わせるようになりました。やがて品数も増え広蓋という衣装箱 の蓋を模した盆状の器に盛り、各自が硯蓋という硯箱の蓋を裏返した様な器に取り分けて食べるよう になったのです。のちにきんとん、伊達巻、蒲鉾、寄せ物など甘い物を用いるようになり、これ らは今でも正月のおせち料理にその形を残しており、この甘い料理は折り詰めにして土産とする場合 もあります。また喰い切りの会席料理ではこの甘い口取りに代わる物として「口代わり」という 酒の肴を出します。
錦卵(にしきたまご)
ゆで卵を白身と黄身とに分け、それぞれ裏漉しして砂糖や塩で調味し、蒸し缶で白黄の二段 に蒸したものや平たく二色に巻簾に延ばして卷いたものもある。いずれも冷ましてから形良く切 り揃えて口取りなどに利用する。
草石蚕(ちょろぎ)
中国が原産の紫蘇科の多年草で、秋に肥大した巻き貝の様な形をした地下茎を掘り出し塩 漬けにしてから、梅酢に浸け赤く染めて正月料理の黒豆などに添える。
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「松竹梅」ってなぁに?

 昔から、お祝い事の床飾りとか、生け花、島台(洲浜型の台に蓬莱島を模写した祝い飾り)などあらゆ るお祝いに、松竹梅が良く使われますが、なぜ祝い事に松竹梅を使うのでしょうか?その由来を故事文献 などで調べてみると・・・・
 まずは一説によると「神さび立ちて栄えたる千代松の木の・・・」と詠われてい るように、神がその木に天降る事をマツ意とか、葉が二股に分かれるところからマタの転称であるとか言 われていますが、四季を通じて葉も枯れずに、常に蒼々としていて、歳をとって腰が曲がってきてもなお、 生い茂っているので、これに肖って人々が壮健で長寿を保ち繁栄する事を祈るためである。現に漢方薬と しても中国の本草綱目には「松を服して強壮なり、歯を固め、目や耳をよくし、瘡を治し久しく服すれば 身軽く不老延年する」と書かれている様に、赤松や黒松の葉にはボルネオールなどの精油成分やビタミン A、C、クエルセチンなどの有効成分が含まれ、血管壁を丈夫にし、動脈硬化に有効に働き、脳卒中や心 筋梗塞などの予防や不眠症の治療等に効果があり、外用薬としても肩こり、筋肉痛、あかぎれに効果的で さらに、脳障害の後遺症として起こる手足や半身の麻痺を治療し改善する効果もある優れ物です。 また松はその字の形からいっても、木の字に公を組み合わせて構成されており公つまり主(あるじ)、 家の中心である柱に同じく木の中心格を意味し、即ち男、旦那を意味している。
 は素直にすくすくとよく伸びて、そのうえ、風雨に曝されても挫けずその根は何処までも伸びて地盤 を築く、心の中にも適当に区切りがあり、挫けそうでも節々によって支えられ、素直なばかりでなく腹も 腰もすわっている。気持ちもサッパリしていて一口に竹を割ったような性質の持ち主とか表現される。ま た竹は笹と同様に昔から日本では不老長寿の妙薬とされ、植物特有のフィトンチッドと言う防腐防菌作用 を持った物質が多く含まれているため、食品には鯛鮨や、笹餅等の防腐剤として使われたり、食べれば体 内で整腸作用や癌予防になり、そのうえ、細胞修復作用があるので癌はもとより胃潰瘍、十二指腸潰瘍、 糖尿病、痔、口内炎、歯槽膿漏、外耳炎、扁桃腺炎、水虫、火傷など古くから日常の万能薬として親しま れてきました。
 は昔から貞節(志をたてゝ変えない女子の操の正しいこと)を表している花として有名です。可憐な 花を咲かせて、清らかな香りを匂わせて人々に限りない清潔感とその清々しさを与えてくれる慈愛多い花 なので、どうぞいつまでも清く、美しく、人に良い印象を与え、やがて時期が来れば実を結び、梅干しの 様にしわが出るまでも、長生きして下さいとの、種々の意味を持った花なのです。また昔から清々しい春 を告げる花としても親しまれてきた梅は、素晴らしい薬効効果も持つことでも広く知られ、「梅干しを日 毎食べれば福をよぶ」とか「医者を殺すにゃ刃物は要らぬ、朝昼晩に梅を食え」とか「梅は三毒(食べ物 ・水・血の毒)を絶つ」など梅の薬効をうたった諺が多いのはその証です。梅干しの名を聞くと口の中が 酸っぱくなるほどの味の誘因は、クエン酸によるもので、これは糖質の代謝を促し、疲労のゴミである乳 酸を燃焼してエネルギーに変える働きを持っているので、疲れた時に梅干しを食べると疲れがとれるのは 実に合理的なのです。さらに強力な殺菌抗菌効果は、有害物質の繁殖を抑え胃腸の働きを助け、食中毒な どから守ってくれます。昔から日の丸弁当等と言って、箱に入れた白いご飯の真ん中や握り飯に梅干しを 一粒入れたりしたのも先人の知恵と言えます。食中毒はもとより疲労回復、便秘症、発熱、二日酔い、肌 のトラブル緩和、食欲不振など日本人には欠かせない強い見方なのです。しかし何事も付き合い方を間違 えると、大変こわい相手になります。梅の核には青酸配糖体のアミグダリンという物質があり、未熟な物 は核が砕けやすく、アミグダリンが酵素分解により青酸を生じ中毒する事になり危険なのです。人に優し い梅でも、あまり未熟な内にいじられると仕返しをすると言う事でしょうか。梅は、木に母の字が付いて います。この一字を見ても女性を表し、母親、母性愛、万物の母胎を表現しているのです。  鶴と亀も、千年、万年と言われる長寿を誇る動物であることから、これを肖って慶事には付き物になっ たと言われます。
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「蛤」(ハマグリ)はお目出度い?

 日本の蛤は海に住む二枚貝の代表的な種類として古くから人々に良く知られている。蛤科の二枚貝の中 でも最も美味しく、殻模様も一番美しい。殻長8.5Cm,高さ6.5Cm,幅4Cm表面は滑らかで光沢がある 。殻の色や模様に変化が多くて,白い物から栗色のもの迄様々で,栗色の物は色も形も栗に似ているので, 山の栗に対して浜の栗という事でこの名が付けられたようである。模様や殻は人間の顔と同じようにどんな に沢山あっても二つと同じ物はなく配偶の貝以外とは決して合わないので、身の潔(いさぎよ)さを意味 し、昔から夫婦和合の象徴として、祝い事や雛節句等の料理に用いられた。結婚式の椀種に使うときは必 ず2個入れるのが正当だとされている。仲良く一対を用い、一方が欠けては目出たいとは言えない、夫婦 蛤というわけである。結婚式や祝い事に良く出る料理に一対の蛤の蓋に赤と白の砂塩で焼いた焼き蛤と金 銀蛤というのがある。
 また鎌倉時代から室町時代にかけては、拾い集めた蛤の殻に仏教の経文を一字づつかいた「貝殻経」と よばれるものがあった。貝殻は小道具として親しまれ殻の内面に種々の絵や歌を書き、カルタのように絵 合わせや歌合わせに応用して遊ぶもので、それらを作り持つ人の品位や感覚を表現する嫁入り道具の一つ とされていた。
 貝殻が北海道の貝塚からも発見されているが、現在でも北海道南部から九州、台湾、朝鮮半島西岸、中 国大陸沿岸にかけて広く分布し、国内では東京湾、伊勢湾、瀬戸内海が主な産地で、牡蛎に次ぐ産額を上 げている。盛んに隣国からも輸入されている海産品の一つである。内湾の河口に近い浅い砂地に住み、冬 は砂地50Cm位に潜り、春潮干狩りの頃表面に移動する。5〜11月に卵を生み、卵から孵った幼生は海 中を浮遊し、河口近くの浅瀬に落ちつき、育ってから沖の方に落ちつく。昔から「ハマグリは一夜に三里 走る」と言われているのは、体長の割には短時間での移動距離について驚くほどであり神秘的で不思議に 思うが、種明かしをすると実は粘液の長い紐を貝の後端から出し、それが潮流に引かれて運ばれるのである。
 養殖は、春に稚貝を捕り、やや沖合に置き、2年後に取り出す。冬から春にかけて一番味が良く、 日本料理として殻付きでは三重県桑名地方の名物の焼き蛤、少量の酒で蒸した酒蒸し、潮汁、はま鍋、 そして剥き身としては水飴と溜醤油で味付けしたしぐれ蛤、蛤ご飯、鮨種、串焼き、中国料理として煮物、 炒め物、西洋料理としてクリーム煮、フライ、クラムチャウダー、加工品として干し貝、味付け缶詰など 色々な料理に用いられる。蛋白質含量は二枚貝としては中程度で、脂質、糖質は少ない。ビタミン類では AやB2が比較的多い。コハク酸など貝類の旨味に関する成分が多い事と、形の大きい事から利用度が高い。 良い物の見分け方としては大型で表面につやのある物、貝と貝を打ち合わせた時澄んだ音がする物、また剥 き身にすると貝柱が貝に固く付着しヒモの縁の黒い線が縮んで見えない物、肉全体に透明感のある物など である。
 貝塚からこの殻が沢山出てくるので、牡蛎と同様に古くから重要な食用貝であった事がわかる。殻を焼 いて作った石灰は胡粉(ごふん)<絵の具のこと>や上等の人形の顔に用いられる。これに似た朝鮮蛤は 殻が厚く外洋に面した砂地の20m位の深さに住むが、殻は碁の白石として最上の材料で、宮崎県がその産 地として有名である。
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「高砂」(タカサゴ)の語源

「高砂」と言う名の主な地名を挙げてみると、北から北海道の羊蹄山の麓にある倶知安町より尻別川を下る と国道5号線沿いにあり、次いで東京葛飾はとらさんでお馴染みの柴又近くにあり、横浜は元町や山下公園 に流れる中村川の中程南区にあり、岐阜では鵜飼いで有名な長良川より瓢ヶ岳方向に登った所にあり、大阪 は南部の湾に面した高石市の埋め立て新地にあり、福岡博多は渡辺通りと国道201号吉塚付近との2ヶ所 にあり、などと頭の中を日本列島で忙しい思いをさせましたが、ここに挙げた他にも小さい地名としては各 地方にあるようですが、これらの地名の発祥を辿(たど)ると全てとは言わないまでも兵庫県南部、加古川 の河口西岸にある高砂市とその名に少なからず拘(かゝ)わりが窺(うかが)えてくるのです。
 この高砂市は昔は播磨藩の要津(ようしん)で風光明媚な地として知られているが、この地には古来から 名高い三つの松がある。先ずは兵庫県加古川市の高砂神社境内にある謡曲で知られた相生(あいおい)の松、 その加古川対岸の尾上神社境内にある尾上(おのえ)の松、そして大阪北区は曾根崎天満宮境内の曽根の松 である。それぞれに松ノ木に纏(まつ)わる古来の言い伝えがあるが、そのなかでも高砂の「相生の松」に ついては歴史も古く、あまりにも有名である。
 室町時代初期に足利義満に仕えて能を優雅なものに洗練し今日の芸術論の基礎を与えたとされる能役者で あり能作者でもある世阿弥(ぜあみ)が創作した能の曲「高砂」によると、住吉(大阪住吉神社)の松と高 砂の松は夫婦であると言う伝説を素材とし天下泰平を祝福する話であるが・・・
その昔九州阿蘇ノ宮の神主友成が上京のついでに高砂浦を見物し、松の木の下を清めて いる老夫婦に出会う。友成が二人に尋ねると老夫婦は高砂・住吉の2本の名木の松を「相生の松」と称する いわれを説き、和歌の徳と松のめでたい故事の数々を物語ったすえ、自分たちは高砂・住吉の二神であると 名を証し、老人は小舟に乗って沖へ去る。友成が住吉へ赴(おもむ)くと、住吉明神が本体を現し美しい舞 を奏し、天下泰平を祝福すると言うストーリーだ。
この曲の終わりに「千秋楽」と言う部分があるが、この形式は今日でも相撲や劇場等の各興業の最終を意味 する事として用いられている。その後この能曲に基づき、時代と共に歌舞伎舞踊、邦楽曲、長唄、うた沢、 三味線楽、箏曲、一中節(京浄瑠璃)などに改作され、さらに近年では婚礼の餞(はなむけ)の祝い歌とし ても民謡の長持ち歌(宮城・秋田)やお立ち酒(山形)などに並んでよく唄われている。そしてこの松の木 は天然記念物として現在でも高砂神社境内にあり、黒松と赤松とが自然に合着していたが、昭和六年に残念 ながら赤松は枯れてしまった。
 島台や置物を見ると必ず高砂の尉(じょう:お爺ちゃん)は熊手を持って立っており、姥(うば:お婆ちゃん) は箒(ほうき)を持っている。この意味は【相生:いっしょに生きる】ことで、【相老:老いてもいっしょ】の 意に通じ、「おまえ百まで、わしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」という俗語に例えられるように、 おまえ(掃く)まで、私は九十九まで(熊手)、縁があって一緒になったのだから、いつまでも仲良く行 こうね・・・と言う事でしょう。蓬莱飾りの尉と姥の姿はいま祝う二人の将来を象徴しているかのようです ね。それにしても日本も昔から、やっぱり女性は男性より1年でも長生きする様になっていた?・・えっ男のエゴ?・・ ・・でしょうかねぇ??
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