duel | cheat bug | 時代背景 | |
第1回UOL以前 | 実はあんまよく知らない。ダウン前に適当に戦ったりはしてたけど、何も理解してなかったし、しったか嫌いなんでよくわからんってことで許して。 | まーなんかいろいろあった気がするな。でもこの辺もnwbieだったんで、いまいちわからん。 | PKvsPKK全盛期。EVで人を殺してもカルマが落ちないってことで青PKなるものが赤PKと一緒に行動していて、助けてくれるのかと思いきや殺されるなんてことがよくあった。赤ネームも3段階目くらいまでは町にはいれたからbri bank前に赤ネームうじゃうじゃいたのを覚えてる。 |
第1回UOL前後 | ステータスはバランス型からタンクメイジに以降し始めた時期。といってもいわゆる100 100 25などというステータス構成のやつはほんの一握りしかいなかった。このころダミーメイスで24.5−25までの上げ下げを利用するステータスあげがメジャーになりUOLのころには100 100 25が浸透しつつあった。
スキルはソード 弓 Tac Magery なぐり Resist Hideの7GMが理想だった。しかしHideのGMは不可能とされていたので、7GMという言葉自体あまり聞かなかった。 戦術的には弓が両手武器であるにもかかわらずPOTを飲めたことや、弓の攻撃がAR無視だったため、基本的にはpre EXからのHXBOW hit EBというのがメジャーだった気がする。pre cast自体まだターゲットがでるまえに装備してもつかえる技だったので、弓発射から武器をちょい浮かしでcastをいれるためには、HBXは扱いやすくbowは敬遠された。 遭遇線においてはhide-recall (当時はhide中にspell castしても姿が見えなかった)を防ぐためにall nameの表示を長めに設定し、hideの直前にAll name、そのままnameにatackで逃がさないという工夫もされていた。 爆弾が爆発すると周りの爆弾も連鎖するという特性をいかし、LLFのHonyasan(だったかな?)によって開発された para−STRPOT−GHP−RA−ターゲットに密着−爆弾連鎖自爆 というコンボはだれにも破れない恐ろしいわざとして認識された。 一度に発言できる台詞が12行だったので敵に文字をかぶせながら相手の周囲を回りlagを発生させながら殺すというのも、えぐいとはいえ効果的であった。武器の不利判定があるこうが走ろうが一定間隔だったので、相手のまわりをぐるぐる走っているだけで殺せる場合も少なくなかった。 |
resistあげにNPC mageを雇い自宅におくのが流行った。わがBBQギルドのホールにも常時15人くらいはおいてあった。当時その利用方法をいまいち理解していなかったTierraはUnicorn タワーのmage 20人に一斉atackをかまし、瞬殺されていたのを覚えている。skill学習というシステムがあったため、resiあげするときは何人かで重なり、一緒にresistあげをするものもいた。これを悪用しbankなどでsnoopやbard musicを繰り返すことで、他人のGM mageを落とすというのも流行った。
家侵入bugでもっともメジャーだったのはゴーストをresしてyesを押す前に他人の家にはいり家の中で生き返り中から家のdoorをあけるというもの。これに関しては新評判システムの導入と同時にfixされた気がする。 あまりbugとして認識されていなかったが弓を装備したまま誰かに殴られるとboltなしでskillをあげれるというskill上げの方法も存在した。これは第2回以降まで残っていた気がする。 dupeに続いて世間を騒がせたcheatがUOE。当時話題になっていたのは、Last Target、Target Self、Fast Walkとhideしているキャラもしていないのと同じように扱える機能だった。これに対してGM側はHide状態のモンスターやGM自身を配置することでUOE userの摘発に乗り出した。 napa サーバーでは1hiterという現象が起きたらしいが、Bajaではなかった気がする。よって1hitterの知識はない。
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新評判システムの導入により赤nameの死亡にたいして、スキルダウンというリスクが課せられた。同時にギルドwarシステムも導入され、ギルドメンバー及び同属性のVGギルドのメンバーは名前が緑に、敵対ギルドメンバーの名前はオレンジに表示されるようになった。このpatchにより多くのPKギルドが戦争ギルドへと姿を変えていった。 |
第2回UOL前後 | PvPをするものの9割以上がタンクメイジだった時代。しかしhealingが実用性のあるものに変更されたことと、anatomyによる武器攻撃のDMGボーナスのpatchを見越して弓をすててソードのみに絞るものも少なくはなかった。(少なかったかな...)弓ソードを含む基本6GM+hide healing かanatomy healing の組み合わせがメジャーだった。EI による魔法DMGボーナスを見越して(当時はdmgボーナスともresist無視とも噂されていた)EIをいれた7GMなども出現した。フェンシングとメイスによる攻撃力もupしてTMFが生まれ始めたのもこの時期。
LAGが減ったことと、装備しながらのPOT飲みができなくなったことで弓の優位性はかなり落ちた。1on1において回線 PC ともにスペックがよいものは、bolt発射の後敵から離れることでその攻撃をすべて交わせるようになり、一定間隔で振り下ろされるハルバードのタイミングが非常につかみやすくなったこととあわせて、極まったソードマンは他のスキルに関係なく強かった。弓つかいは、爆弾のみ例外として装備しながら投げれたので、bow hitのタイミングにあわせながら爆弾を投げるのが流行った。弓使いの基本コンボはpre para−HXB hit−para発動−pre eb−詠唱中に爆弾なげ−bow装備−bow hit−eb発動−自爆特攻 こんな感じだった。 ソードを使う場合の基本戦術は、相手が武器を振るタイミングと自分が武器をふるタイミングをずらすように武器を装備して、相手のタイミングでははなれ、自分のタイミングのときのも相手に接することで、一方的に武器をあてることが常識とされた。実際にこれができたのは少なかったが・・・このため、マナマネージメントと並んで心理戦の要素が非常にでかく、動きのパターンをよまれるといっさいhealさせてもらえずに死んでいく場合も少なくなかった。 当時のduelの最重要事項はマナマネージメント。いかに無駄マナを相手に使わせつつ自分は効果的な魔法を打っていくかで勝負の行方が左右された。 |
PvPにおけるBug技らしいbugはなく、macer fencerの強化に伴いもっともバランスがとれていた時期ではないであろうか。ハイデックスもそれなりに強く、瞑想が導入されていなかったためタンクメイジの圧倒的なまでの強さはなかった。
UOL2終了直後にASUKAでAPBが考案された。パラが完全に無効になってしまうAPBは当時yamato組にはbug技にしかうつらなくあまり積極的に受け入れられることはなかった。 UOEにはどこでもbankや全サーバー共通bankが登場し、他サーバでmarkしたruneをつかってrecasllすると簡単に家進入をすることができたらしい・・・・ resiあげはもっぱら圏内でのマクロに頼ることが多く、圏内に家をもたないものは大量の秘薬とともに人気のないところでマクロすることが多かった。とうぜんこれを殺して秘薬を荒稼ぎするものも多く、相手に重なって攻撃させることでガードkillをしたり、UOE UOA userには毒武器だけもって斬りかかり、毒るまでこれを繰り返すという方法で殺すのが流行った。
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日本サーバーの出現により多くのものがyamato asukaの2サーバーに集まった。当時のScV GM LAPISによるuobでのサーバー棲み分け提案がある程度影響力をあたえ、PvPを好むものは比較的にyamatoに多くなった。大規模ギルド同士による戦争が活発だった時期で、毎日の様に20vs20規模の戦いが繰り広げられていた。日本サーバーの出現はわれわれにLAgの少ない環境をあたえてくれ、これにより高度なPvP戦術が展開され始めた。
T2Aの発売もこの時期であるが、俺自身はMage 館でresiあげした記憶しかない。 日本サーバー誕生当初、skill バブルが発生し6時間でGM smithを育てものもいたらしい。このバブルに乗り遅れたものは続いてできたwakokuサーバーに移住するというのが流行った |
第3回UOL前後 | 瞑想のスキルや知性評価による魔法DMGボーナスの実装、武器のあたり判定の劇的変化により各自がスキル配分に悩んでた時期。UOL開催だというのに戦闘システムの内容も解明されておらず、手探りでの戦いとなった。 もっとも影響を与えたのは瞑想のスキルで、スキルなしだと以前と比べてマナの回復は遅く、スキルありの低ARだと以前と比べ物にならない速さで回復するようになった。当初瞑想スキルをつかって初めてマナ回復がはやまると思われたが、使わなくても十分はやいことが判明し、素直にスキルキャラ改造にのぞんだものと、瞑想を嫌ったものの二通りに別れた。 鎧を着ないで戦うというスタイルは当初受け入れられず、UOL3本番でも積極的に裸で戦い瞑想していったのは、私のチームメイトくらいだった気がする。 武器のあたり判定に関してはあたったその日に「武器を装備して1回目の攻撃は必ずあたる(振る)」ということが判明し、戦争がめちゃくちゃになった。これに関しては当時ProphecyのBBSにおいて、bugか仕様かでもめた。 弓に関しての発射判定は変更されなかった。これにより弓使いはゴミと化した。 後にZDと呼ばれるシステムもこのとき導入されたもので、以前の等間隔で振り下ろされる判定から、止まった状態でディレイをためておけば、接触した瞬間があたり判定になるようになった。 当時裸TMSと、鎧TMSどっちが強いかが議論の対象になったが、結果をみればVanqクラスのマジックをもつなら裸TMSは即死という結論に達した。 またハイドに視線チェックがはいるようになったため、duelではくその役にも立たないようになった。このときのチェックはかなり厳しく、8マスはなれればとかではなく、20マスくらい離れなければだめだった。つまりtab 連打からのハイドがつかえなくなり、duelでは無用の長物と成り下がったのだ。 メイスは相手のスタミナを削るようになったのだが、当時の周りにメイサーがいなかったので、全然気にしていなかった。 戦争においては、それまでのデーモンがひとつの戦術として認知されていたのに対して、瞑想のせいでデーモン量産、transferでえらい事になることが判明。個人的にやる気が萎えた原因の一つである。 結局試行錯誤の時期であり、誰一人として改造せずに戦うわけにはいかなかった。UO PvP史上もっともがらりと仕様が変わった時期であると認識している。 |
左でもあげた、あたり判定の変更によりHALの連射が可能になった。PDのHALを一瞬浮かすことでディレイがリセットされ、dexに関係なく切り刻むことができた。事実当時圏内での遭遇1on1はまず決着がつかないと言われていたが、私はpatch後街中で1日10人以上を確実に葬り去っていた。個人的には仕様だと思っていたので使いまくっていたが、結局UOL3では両手武器の使用が禁止になった。 bugではないが、EQの発売を見越してか瞑想のほかにもネクロマンサーのスキルが導入されると噂され、Kintaroは7GMをくずしてスピリットスピークをあげたが、噂でおわった。 |
基本的にYmtに関する限りはPvPそのものに勢いがなくなり、asukaに新天地を求めたものや、第4の日本サーバーhokutoに移住するものなど様々であった。 ymt稼動当初のサーバー対抗戦争のスタイルから、VG戦に近い戦争になっていたのもこの時期で、大和大戦の秒読み段階だったと言える。 特にUOL3を経て大和大戦が終了すると、多くのもがUOに区切りをつけEQへと旅立っていった。 Ymtが稼動してから半年がたったこともあり、この前後には多くのoff会がもようされ、大戦の後の勢力再編成などもこれに連動して行われていったような気がする。 またSPサーバーができたのもこの少し後だった気がする。もしもう少し時期がはやかったなら、大和大戦はおきなかったかもしれない。 |
第4回UOL前後 |
メモリアル duelist(俺が1度も勝てなかった、あるいは勝ててもかなわんと思う相手)
AKIRA
俺がScVに入る気になった直接の原因を作った人 baja−yamato通して1度も勝てなかった。俺の中における最強のduelist
Setura(旧patch 限定)
弓をつかっても勝てなかった ソードマン いまのpatchでどう育てていくかが見物