風が変わる日

風を変えるもの


 自転車という乗り物がある。
 移動の手段としては、当然のことながら、クルマのほうが優れているだろう。しかし、自転車が持つ等身大の感覚は、クルマでは感じることができないものだ。徒歩の感覚に近く、しかし徒歩では得られないスピードを出せる。徒歩の人を追い抜き、風を切って走るとき、自分の体がそのスピードを生み出し、自分のまわりに風を起こしているのだと実感することができる。
 以前、雑誌か何かで、自転車に乗れない人が乗れるようになるためのレッスンを見かけたことがある。その時、その記事のしめくくりには、こんな言葉が書かれていた。記事の中身はすっかり忘れたが、この言葉だけは、なぜか鮮明に覚えている。
 「(自転車に乗れるようになると)明日から風が変わります。」
 この言葉があてはまるのは、自転車の初心者だけではないような気がする。クルマに乗り続けていた人が、久しぶりに自転車に乗ったとしたら、きっと「風が変わった」と感じるのではないだろうか。その風を作り出すことに、自分が主体的にかかわっているという感覚。それは移動の手段として効率がいいかどうかを超越したものなのではないだろうか。

 パソコンでハイパワーのソフトに馴染んでいるユーザは、等身大の感覚を忘れがちかもしれない。そのソフトがどれだけ強力な機能を搭載しているかに気をとられ、自分がそれを使いこなすという、肝心な点を忘れてしまっているかもしれない。自分が主体的に関わっている、という感覚が感じられないとしたら、さびしいと思う。

 T-Timeが他のツールと違っている点は、読む対象に、読者が主体的に関われることだ。
 T-Timeで読もう、と思った瞬間に、読者は読む対象に主体的にアプローチすることになる。WWWブラウザにしろ、エキスパンドブックにしろ、それがなければ読めないけれど、T-Timeがなくても文章は読める。T-Timeは「読むこと」を目的としているだけではない。「いかに読むか」を視野に入れている。これは画期的なことではないか。

 自転車に乗るとき、自分の体がスピードを生み出し、風を生み出す。
 T-Timeも同じ。
 初めてエキスパンドブックを見たときにも感じなかった大きな予感を、私はT-Timeに感じた。これは、ひょっとすると「読むこと」の歴史を書き換えるツールかもしれない。

 明日から、などではない。T-Timeで、今日から風が変わる。

電子本というもの


 初めて見たときのエキスパンドブックの印象は、「まあ、こんなものなんだろうな」という感じだった。「字が大きい」「1頁の文字数が少なすぎる」というのが、正直な第一印象で、その印象はいまだに拭い去ることができない。電子本をいくらたくさん読んでも、その点だけはどうしても好きになりきれないらしい。慣れのせいもあって、最初に見たときよりは「許せる」ようになったものの、一覧できる情報量が少ないと、なんだかもどかしいのは相変わらずである。少しずついろいろな電子本を読み、自分でも作っては読み、今では、かなり手に馴染んで、愛着を感じるようにはなったけれど、我を忘れて読みふける、という境地には達することができずにいる。これも慣れの問題で、ずっと読み続けていたら、いつの日か、電子本に読みふける自分にふと気づく時がくるのかもしれないが。
 紙の本と電子本との選択の余地があるなら、紙の本を選ぶ。電子本は、許容範囲内にある選択肢にすぎない。はじめて電子本を読んだとき、私はそう結論づけた。なのになぜか、オフィシャルガイドブックを買い、ツールキットまで買ってしまった。なんだか妙に冷静なまま、私は電子本フリークへの道を歩き始めていたのだった。

 開発者の苦労はよくわかるので、あまり文句を言いたくはないけれど、Windowsユーザの私は、Mac寄りのエキスパンドブックに、少なからず不満がある。エキスパンドブックの歴史はMacと共に語られ、機能強化もMac先行。MacでできてWindowsではできない機能が、いまだにいくつか存在する。たしかにWindows版も、読むためには不自由しない機能なのだけれど、「楽しむ」ための「おまけ」の機能はMacに独占されているようで面白くない。自動明朝・自動ゴシックの設定機能しかり、目玉温泉しかり。しかも、それらの機能は、自分で本に働きかけるためのものでもある。電子本ならではの楽しみのはずなのに、カヤの外では面白くないのは当然ではないか。

 とはいうものの、これからの世の中、本は確実に電子化されていくのだとしたら、その根っこのあたりに自分も参加していたい。今なら、それができるかもしれない。「本」というもの、「読む」ということが、ただひたすら好きな私は、漠然とそんなことを考えていた。

「読む」ということ


 Windowsユーザには、いまだに道がひらけていない、エキスパンドブックの「目玉温泉」。ニフティの会議室で話を聞き、Mac雑誌を立ち読みして情報を仕入れ、しかし体験することはできなかった機能。ベータ版を入手したものの動作が不安定で、快適に読書、とはいかなかったために、ここでも私は、衝撃も感銘も受けることができなかった。Mac雑誌で熱っぽく語る富田倫生氏の言葉を読んでも、実感が伴わないので共鳴できず、まわりではしゃいでいるMacユーザ達を横目で眺める日々を過ごした。
 しかし、読み続けていたMac雑誌の連載には、それまでと違った風が吹いていた。実際に目にすることができなかったWindowsユーザにさえも、その違いは感じられた。「本」の方角から吹いていた風が、少しずつ方角を変え、「読むこと」という言葉をめぐる方角から吹き始めていたのだった。
 「ブックブラウザでエキスパンドブックを読むこと」は当たり前。「WWWブラウザでHTMLを読む」のも当たり前のことだ。しかし、ブックブラウザでHTMLを読むことは?

 それまでは「画面で本が読めるか」「電子本は紙の本を超えられるか」といったような議論が主流を占めていたように思う。「本」を画面で読む、というくくりの中に、議論は閉じこもっていたのだった。今でも、電子本をめぐる世間一般の議論は、そこを焦点にして続いている。しかし、あの頃の連載で既に、富田氏の意識は、そこから抜け出していた。「本」から抜け出した意識は、「読むこと」そのものに向かう。「本」という名詞から解き放たれ、画面上で文字を追うことは、すべて「読む」という動詞に融け出していく。電子本というものの始まりの時代に自分も参加していたい、と思ってから半年あまりの頃、私のまわりで、時代は名詞から動詞に変わろうとしていた。思えば、途方もない時代の始まりに、我々は立ち会っていたのだった。

T-Time!

 
 時代の幕開けは、やはりMacからだった。T-TimeはMacWorld Expoでベールを脱いだ。ここでもWindowsユーザはカヤの外。とはいえ、今回は最初からWindowsも視野に入っていたらしいので、先行販売のMac版の噂をききながら「待つ楽しみ」(時には苦しみにもなったけれど)として積極的に楽しむことができたのだった。製品版はハイブリッドCD-ROMで、当然ながら同時発売。エキスパンドブックのホームページで、ずっと「Windows版『も』あります」と書かれてきた悔しさを、やっと晴らすことができる。今度こそ「Mac版とWindows版があります」なのだ。Windowsでもスタンダードなツールたり得る。そんな期待を胸に、まだ見ぬT-Timeに、私は次第に肩入れし始めた。

 ちょっとそこまで。でも、歩けば時間がかかる。大きな荷物があれば、持って歩くのはおっくうだ。車で行けば、停める場所がない。かえって遠回りになってしまう。
 そんなときには、自転車は強い味方となる。歩くよりも速いし、荷物も積めるし、置く場所もあまりとらない。運転免許もいらないから、いつでも気軽に乗れる。難しい練習は必要ない。バランスを崩さずに前に進めるようになればいいだけだ。そして何よりも、自分の足が動力源、という、自分自身を少しだけパワーアップさせてくれる乗り物なのである。

 できあがった本を読むのではなく、自分で読みやすい形にして読む。パワフルなソフトを、ただ使うだけ、というのではない。「読む」という行為において、読者は少しだけ自分自身をパワーアップすることができる。T-Timeを使うために、難しい練習はいらない。ただクリックするだけ、ドラッグ&ドロップするだけで、とりあえず読める。「さあ使うぞ」と身構えずに、そこにあるのが当たり前のものとして使える。メールを読んだり、ホームページを見たり、という、日常の生活の延長線上に位置するものなのだ。

 文字が大きすぎるとか、1頁の文字数が少ないとかは、もう問題にはならない。自分で好きなように設定できるのだから。さっと目を通したいものは、小さめの文字にすれば、あまりページをめくらなくても読める。校正をするときのように、一文字ずつをしっかり見たいときには、大きな文字にすればいい。同じテキストファイルでも、読むときと校正するときとでは、設定を変えることができる。これはもう、「本」という名詞ではなく、「読む」という動詞にこそ、まさにふさわしいツールではないか。

 クルマには、クルマという名詞がふさわしいときがある。しかし自転車にふさわしいのは、乗るとか、走るとかいう動詞だろう。
 「読む」という動詞。私は、それこそがT-Timeを語るキーワードだと思う。

 T-Timeの解説本には、富田倫生氏の本の広告が載っている。そこには、こう書かれていた。
 「T-Timeは、考えの行動範囲を広げる、精神の自転車だ。」
 やはり、今日から風が変わるのだ。