〜〜 過去のモノローグ 〜〜



少し前に読んだ本

 最初に見かけたときから、気になる本だった。
 行きつけではない、とある巨大書店の売場でのことである。
 自分の行動半径から外れているので、その書店に行くのは、用事があるときか、時間があるときだ。その時は、待ち合わせまで少し時間があって、例のごとく書店をうろついていたのだった。
 外函の白い背に、端正な明朝体の文字で、書名の『装釘考』、そしてその下に、少し字間を詰めて著者名が「西野嘉章著」と並ぶ。その下には、横組みで発行所の名。何の変哲もないといえばないのだが、その変哲のなさがただごとではない。ましてや『装釘考』などという書名であればなおのこと。
 店内にある椅子は、なぜかその本の至近の一脚が空いていた。坐って手に取って見ろといわんばかりだ。促されるように坐り、函から本を振り出す。
 三十年前には児童書でさえも函入りは当たり前だったが、いまどき、函入りの本自体が珍しい。そして、本も慣れない函をまとうとうろたえるのか、どれも借り物のようだったりする。しかしさすがにこの本は、函と本とがしっくりなじんでいる。見返しの黒は、函とのコーディネイトだろう。本文と図が交互に綴じられていて、小口は縞模様になっている。本文頁を開くと、一見して活版印刷と見える「活字」が並んでいる。しかも、旧字体。小見出しは朱文字。なるほど、芸が細かい。それにしても、ISBNのバーコードが、これほど邪魔に見えることもめったにない。
 そんなこんなで眺めているうちに、その日は待ち合わせの時刻となり、荷物を増やしたくないのと、あまり安価とはいえない価格とが相まって、結局は丁寧に函におさめ、書棚に並べてその場を去ったのだった。

 そんな本にめぐりあったことも忘れかけたある日のこと、またもや約束の時刻までに、手持ち無沙汰な時間ができた。別の書店で、こんどは『芸術新潮』を手に取る。頁をめくるうちに、なにやら見覚えのある本が載っているではないか。
 私のような素人がひと目見てわかるほどの気合いの入れ方だけはあって、裏話を読めば、たしかにただごとではない。活版印刷をしてくれる印刷所を探したり、電算写植に向くツルツルのずっしりした紙ではなく、持ち重りがしなくてインクの乗りが良い紙を探したり、函を作れる製本所を探したり、背のまっすぐな造本にこだわったり、とにかく材料を揃えるだけでも大変だったらしい。ふた昔くらい前までは当たり前だった本を一冊つくるのにも、相当な苦労が必要な時代となったようだ。
 見返しの黒が黒らしく見える紙を探しまわったとか、カバーのデザインにも苦労して、結局は革と紙とを付き合わせ、微妙なズレをデザインしたとか(そう言われて改めて見てみると、たしかに文字がズレている)、カバーの文字の山吹色は、もちろん花切れの色とのコーディネイトだとか、ざっと見ただけでは気づかなかったようなこともあれこれと書かれている。読むうちに、再度見てみたくなった。さらに、背の活字を組むにも、四社の活字を組み合わせて、バランスをとったのだとか。ご苦労なことである。そこまで贅沢に本を作れるなんて、なんともうらやましい。

 その記事のしめくくりとして、印刷所が、この本を最後にして商売をたたんでしまったとあった。そんなわけで、この本は初版千部で品切れ再版予定なしとなる運命であるらしい。
 そこまで読んで、この本を、無性に手元に置きたくなった。
 最初から気になったのは、やはり何かオーラを感じたからなのかもしれない。
 『芸術新潮』を読んだ翌日、行動半径の外にある書店まで、わざわざこの本を買いに行った。最初にめぐりあったのと同じ場所で、本は、私が行くのを待っていた。
 本好きのやることは、何とも狂気じみている。

かなり前に読んだ本

 
 青空文庫の運営にかかわるようになってから、「青」という文字に敏感になった。
 ある日、新聞で見かけた『青の美術史』という本。当然のことながら、気になって仕方ない。さんざん書店を歩き回り、やっと手に入れたときには、はや三刷になっていた。意外と人気があるらしい。
 「青」という色と、人間とのかかわりかたの歴史。
 青という色は、手に入りにくい色であり続けたという。自然の中に、あまり多くは存在しない色。手に入りにくいがゆえに、希望や理想の象徴として語られる色だったという。「青い鳥」が青いのも、それゆえとのこと。そういえば、薔薇づくりにかかわる人々の夢は、青い薔薇を作ることだときいたおぼえがある。
 人間の永遠のあこがれが込められた色。
 そこに希望を探して、人が青空を見上げるのは、それゆえなのかもしれない。  


自分が出した本

 
 読むだけでは足りないのか、本を出した。共著とはいえ、著者としてLUNA CATという名前が出てくる本が二冊、世の中で生きている。製本され、ISBNコードもついた本。
 自分の書いたものが活字になって印刷され、目の前にあるのを見たときの心地よいふるえは、ずいぶん昔のことになった。マニュアル書きという仕事をするようになってから、それは日常茶飯事になったはずだった。
 でも、青空文庫とポシブルブック倶楽部という、私にとって大切な仲間たちといっしょに一冊ずつ出した本は、私の宝物だ。月並みな感慨だけれど、「仕事」ということばでは表しきれない何かが、この二冊の本には込められている。  
 それにしても、自分も、本を書く人になったのだ。
 生きていると、本当にいろいろなことがある。  


しばらく前に読んだ本

 
 本屋を歩いていたら、見おぼえのある名前が見えた。
 見おぼえのある名前は、清水哲男さん。本は『詩に踏まれた猫』。思わず買ってしまった。
 日頃、というか、大人と呼ばれる歳になってから、詩というものを、ほとんど読まなくなっている。もちろん書くこともなくなった。
 久しぶりに気合いを入れて読む、詩の数々。日常に埋没した生活の中で、とても新鮮で、脳細胞がリフレッシュされてくる。時には、日頃読まないジャンルの本を読むのもいい。
 ちなみに皆さん、私の名前は、この本に出てくる「月猫」とは無関係です。  


昔読んだ本

 
 『赤毛のアン』を初めて読んだのは、たしか小学生の頃だったと思う。「少年少女世界の名作文学」のようなシリーズ物の1冊だった。
 その後、中学生になって、新潮文庫の「アン・シリーズ」と、モンゴメリの他の著作を買い集め、モンゴメリ・フリークと化した。
 高校生になった頃、新潮文庫の『赤毛のアン』を買って読み、最初に読んだ『アン』が、1章分カットされていることを初めて知った。続編を読んでいて、どうも話がつながらない、と思っていたら、カットされた章に出てきたエピソードなのだった。
 そんなわけで『赤毛のアン』は、出版社と編集者の横暴(!?)を、私が初めて意識した本でもある。

 大学時代には、未訳の作品が次々に刊行され、本棚にはモンゴメリのハードカバーが増えていく。次の刊行を待ちわびて、書店に並ぶのを待ちかねたように買って読む。あの頃の読書の日々は、まれにみる至福の時だったと、今にして思う。
 その後も、つかず離れず、モンゴメリの作品は私と共にある。たぶん、一生一度の出会いだったのだと、その頃も今も思っている。  


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