「看板に偽りあり」の一冊である。遺憾ながら購読は薦められない。「マルクス主義歴史学」あるいは「戦後歴史学」を自称するアカデミ−に対して抱いてきた品の悪い偏見と蔑視の固定観念 −「レベルが低い」− が再び頭を擡げてくる実感を告白せざるを得ない。「戦後歴史学」あるいは「マルクス主義歴史学」の研究集団は、一体いま何を考えながら学問活動しているのだろうか。どのような理念や信念に集団としてコミットして、どのような理論とメッセ−ジを生産・発信しようと模索しているのであろうか。「丸山真男を絶対化するな」というのは当然の議論であるが、丸山真男が巨大で神聖なものに映るのは、それとあまりに対照的な烏合の衆が下界にひしめき合っているからである。井上勝博の『「古層」論と丸山真男のナショナリズム』は、「戦後歴史学派」と「脱構築派」の間で妥協を探る議論のつもりなのであろうか。そこには丸山真男に対する思想的・学問的な緊張感は微塵もないようである。それはどうにでも好き勝手に調理できる「死んだ言説」なのであり、むしろ酒井直樹の「生きた言説」の前で緊張して立っているのである。この空疎さと安直さに比べれば、四年前の米谷匡史の若々しく瑞々しい緊張感の方に、はるかに多く共感できると言うものである。「戦後歴史学」に意地は無いのか。 方法としての丸山真男
歴史と方法編集委員会
青木書店
1998.11.25
270ペ-ジ
3000円

著者である入谷敏男氏についてこれまで全く不明であった。調べると社会心理学の研究者で、その関係の著作が幾つか出てくる。丸山真男研究者というのは意外なところから意外な人物が不意に飛び出して来る。内容は「まえがき」に書かれてあるように丸山真男についての伝記的な入門書が意図されている。これまでその種類の書物はなく、伝記としても入門書としても初めての試みと言える。本格的な伝記とは言い難いが、丸山真男集全一六巻がよく読み込まれており、章編成にも丸山真男の全体像を網羅しようとする熱意がよくあらわれされている。一見したところ「丸山真男情報ハンドブック」或いは「丸山真男ポケット豆事典」のようにも見えるが、それが誰でも簡単に書けるものではないことは明らかであって、著者の長年にわたる持続的な関心と今回の決意とご苦労に敬意を表する思いである。今後多く出されるであろう「丸山真男伝」の嚆矢となる作品である。

しかしながら、然らば丸山真男の入門書としてこの書を一般に薦められるかについては否である。岩波新書『日本の思想』と未来社『現代政治の思想と行動』以外に推薦できる入門書はない。凡百のマルクス入門書を読み散らかすよりも、『共産党宣言』と『資本論』を直接読むことの方が、マルクス入門として有効で有意味であるのと同じである。入門書として適当でないと感じた理由のもう一つは、日本の現実政治および日本の政治学に対する緊張感が伝わって来ないところにもある。眼前の現実政治に対する危機感や緊張感を持たないまま丸山真男を読んだところで一体何の「入門」になるのだろうか。堕落の極みで破滅へとひた落ちている政治や、それを批判することなく馴れ合ったまま傍観・容認しているマスコミとアカデミ−に対して、渾身から怒りを燃やすことなく丸山真男を読んでみても、その読書は平板な趣味道楽の延長でしかあり得ないだろう。現実政治に対する緊張感を持たない者には、丸山真男は何も教えないのであり、何も与えようとはしないのである。丸山真男に入門するには資格と条件が要る。
丸山真男の世界
入谷敏男
近代文芸社
1998.12.10
254ペ-ジ
2000円

『みすず 1996.10』と同時期に出された丸山真男追悼特集号。われわれ読者のこれまでの感覚では、丸山真男の「本店」を担当するのが東大出版で、丸山真男の「夜店」を担当するのが未来社、そしてそれ以外の丸山真男の周辺を紹介するのがみすず書房であった。そういう何かしら安定した知的構図が存在して、われわれは丸山真男の世界を了解していたように思われる。イ−グルトンの「マルクス主義の政治的敗北からポストモダニズムの蔓延へ」の議論を聞きながら、その具体的材料として思い浮かべるのは、私の場合、八○年代以降の未来社の姿である。『未来 1996.10』には、生前に関係の深かった者からそうでなかった者まで、一○人が追悼の言葉を寄せているのだが、残念ながら特に胸を打たれるという文章がない。「夜店」の担当者ならば、せめて『みすず 1996. 10』と同程度の感動的な特集号を仕上げて欲しかった。中村雄二郎の出鱈目な「丸山真男の不幸」とか、川田稔が「ポストモダンの思想家たちが提起しているような問題状況にたいする根本的な検討をぬきにしては、将来の政治の展望もデモクラシ−の可能性も語りえない」などと言うのを、われわれは何故『未来』で読まなければならないのか。未来社の Brand Equity は、何より丸山真男の主著『現代政治の思想と行動』によって維持されてきた筈である。 未来 1996.10
追悼・丸山真男
未来社編集部
1996.10.1
44ペ-ジ
100円

昨年の八月十五日に出された『丸山真男と市民社会』に続いて、国民文化会議編による丸山真男シリ−ズの第二弾。今回は、加藤周一と日高六郎による報告と討論である。この書物は、短編ながら非常に内容が充実している。丸山真男の読者にとっては、間違いなく必読の一冊である。加藤周一の『同時代人丸山真男を語る』もよいが、特に日高六郎の『「ラディカルな民主主義」について』が素晴らしい。死後より二年間、数多くの丸山真男論に接してきたが、私にとっては大きな感動を与えられるものであった。こういう丸山真男論を読みたかったというのが率直な感想である。戦後政治史における丸山真男の存在と役割が、きわめて正確かつ明瞭に、写実的に描き出されており、戦後政治論としても傑出した小論となっている。講和問題と安保問題における丸山真男の政治行動についての描写と評価も絶品であるが、『唯物史観と主体性』の討論における丸山真男の孤立という新しい材料を取り上げて、その思想の本質と思想史的位置を切り描いている分析も秀逸である。ボリュ−ム的にはコンパクトだが、丸山真男の「夜店」論としては、これまでの中で最高傑作と言えるだろう。文章に真摯な緊張感がみなぎり、読むほどに政治的感性を揺さぶられるようなリズムが高まってくる。これこそまさに知識人の文章である。 同時代人
丸山真男を語る
国民文化会議編
加藤周一・日高六郎
世織書房
1998. 8.15
92ペ-ジ
1000円

1998年第1号に続いて『思想』における二度目の特集。巻頭の『思想の言葉』に掲げられた三谷太一郎の『思想家としての丸山真男』が素晴らしい。わずか三ペ−ジの短い文章の中に、丸山真男の思想とは何かが的確かつ明瞭に語られている。丸山真男とは何者なのか。商業主義を動機とする「丸山(怪)情報」や、現代思想市場に投入される晦渋な「丸山(珍)解釈」などのノイズによって、絶え間無く丸山真男の実像を惑わされがちな読者の皆様は、ぜひとも簡潔に説明されたこの「原点」に立ち戻って、思いを新たにしていただきたい。われわれ一般読者が丸山真男を読む意義は何処にあるのか。われわれが半世紀前の丸山真男の頁を一度ひもといた途端に、時空を超えてあれほどまで大きな知的興奮を覚えてしまうのは何故なのか。その答えがここに示されている。岩波書店『近代日本の戦争と政治』(1997年 3600円)に収録された『吉野作造と丸山真男』も併せてお読みになることをお薦めしたい。 思想 1998.6
丸山真男・再読2
岩波書店
1998. 5.28
167ペ-ジ
1200円

創刊二年目に入った『丸山真男手帖』はさらに一層内容の充実ぶりが著しい。次から次へと貴重な「蔵出し講演録」が掲載されてゆく。今回は、1977年10月の岩手県東山町における講演『南原先生と私』。耳新しい話は特にないのだけれど、読むほどに、やはり感動的に心に響いてくる。丸山真男らしい講演である。もう一つ大きく関心をひくのは、間宮陽介の『ポストモダン派の丸山批判』である。「経済社会学者」である間宮陽介は、『神奈川大学評論』をはじめ、丸山真男の死後、すでに幾度か論壇に登場しているが、二年近くかかって、今回ようやくここまで議論を進めることができた。酒井直樹の『死産される日本語・日本人』における丸山批判を、「丸山真男=国民主義者」論者の誤読の見本と峻烈に断じている。簡潔明瞭な批判である。酒井直樹に限らず、この種の悪質な愚論は枚挙にいとまがない。このような当り前で常識的な反論を、何故これまで、誰も言わずにずっと沈黙していたのだろうか。間宮陽介が「別の機会」に用意していると言う「古層論」についての「詳細」についても期待をしたい。 丸山真男手帖第5号
丸山真男手帖の会
1998. 4.10
64ページ
年会費 6000円

田口富久治の『戦後日本政治と丸山真男』が掲載されている。田口論文は、立命館大学人文科学研究所の『現代史研究会月報』より『葦牙』に転載されたもので、九七年九月に発表されたもの。内容は、1.丸山青年の特高体験、2.原爆体験と敗戦体験、3.丸山真男と八月革命説、4.丸山真男と平和問題談話会、5.丸山真男と安保闘争、6.東大紛争と丸山真男、7.むすびにかえて、となっており、特に3から6にかけて、戦後日本政治史の中での丸山真男の置かれた位置と果たした役割について短く概観されている。1から6は、丸山真男をある程度知る者にとっては何も目新しい内容はないのだが、むしろ注目するべきは7で、最近のポストモダン・アカデミ−における丸山真男批判の動向と日本共産党の丸山真男批判に対して、田口富久治による批判的考察が加えられている。全体として、本格的な著述の前の準備ノ−トの印象が強く、読者として続編を期待したい。 葦牙 ASHIKABI 24
田畑書店
1998. 3. 5
212ページ
1500円

現在、日本の大学生の知的レベルの深刻な低下が言われ、大学改革論議における主要な論点の一つとなっている。立花隆によれば、それは大学入試の受験科目数の減少と難易度の低下によると断言するのだが、私から見れば、自ら知的レベルを低下させた教授陣が、学生を自分のレベルに合わせているだけではないかという印象を持つ。この本に収められた何本かの論文を見ていても、大学生レベル以下の、高校生が書いた作文の切れ端程度のものが堂々と並べられている。これは率直な感想である。丸山真男の学問や思想の理解について云々する前に、あまりに文章の内容が幼稚であり、文章化される前の本人の問題意識がお粗末であり、論理構成の配慮と論証の準備が疎かであり、社会科学的な知性の訓練と達成が未熟である。こうした拙劣な学問的水準の人々が、丸山真男を批判するとか、大塚久雄を批判するとか、人目を憚らずに言い散らすのは、人間の品格を疑われる愚かしい行為なのではあるまいか(自分も西部や佐伯と同類項だと開き直れるのなら別だけれども)。呆れながら著者名を記す。姜尚中、斎藤純一、今井弘道、酒井直樹、平山朝治、米谷匡史、最首悟、長原豊、遠藤克彦、菅孝行、大澤真幸。 丸山真男を読む
情況出版
1997.12.25
276ページ
2600円

丸山真男死後二年目となる1997年も、実に数多くの丸山真男関連の出版物が刊行され、それらが次々と書店店頭に並んで、われわれ読者を飽きさせることのなかった一年であった。けれどもその多くは、浮薄なポストモダン主義者たちが「戦後啓蒙主義者丸山批判」や「近代国民主義者丸山批判」の言説を連呼するだけの、学問的に不毛で無内容のものばかりであった。ポストモダン主義の貧相な言説をごく少数の身内同士で言い合いながら、一般社会から切離されたアカデミ−とインダストリ−が細々と現業を維持している。その様相は物哀しく惨めである。そうした中で、この『思想 1998.1』に収められた石田雄の論文は、死後二年間を通しての丸山真男研究全体における最大の成果の一つであるだろう。石田雄と若いポストモダン論者たちとの差はきわめて単純明快であり、それは丸山真男の著作をどれだけ広く深く読み、理解しているか否かの差である。収められている『日本政治思想史学における丸山真男の位置』は、読者が丸山真男を正しく理解する上で、非常に有益な知的支援を提供するものである。読者は是非、私の『丸山真男の思想史方法論』とこの石田論文を両読比較して、其々の丸山真男理解を深めて行っていただきたい。冒頭の「思想の言葉」に掲げられた杉山光信の『思想史研究の二つの型』全文へのリンクを提供する。 思想 1998.1
石田雄・杉山光信
岩波書店
1997.12.5
160ページ
1200円

わずか101ペ−ジの薄い小冊子であるが、その内容はきわめてクリティカルなイッシュ−が取り扱われたものであり、丸山真男の思想像をめぐる問題に微妙な一石が投じられた議論となっている。それは、戦争責任問題、政治学の党派性問題に続く、石田雄による第三の「"丸山真男批判"への批判」の問題提起なのであるが、第一、第二の問題とは比較にならないほど重い。その結論は「丸山真男の思想のなかには市民社会の概念はない」というものである。そして、丸山真男の思想内部における市民社会概念の不在を通じて「国民主義者・丸山真男」の思想像を打ち消すべく、『歴史意識の「古層」』の日本論に対して否定的なアプロ−チが試みられている。客席にいた住谷一彦が討論に参加している部分も非常に興味深い。読者は果たしてこれをどう読むべきなのだろうか。別に上げた『丸山真男における「国民主義」の問題について』『姜尚中の歴史認識と丸山真男批判の陥穽』も、ご参照を賜りたい。 丸山真男と市民社会
石田雄・姜尚中
国民文化会議 編
世織書房
1997.8.15
101ページ
1000円

神保町の神田三省堂本店に並んでいるのを見つけて購入。内容を見て大いに躊躇したが、購入することに決めた主たる動機(あるいはエクスキュ−ズ)は価格の安さである。この製本とペ−ジ数で五百円の定価は相当に安い。しかしその内容はと言えば、定価千五百円なら見送っていたはずのものである。ずらり並んだ駄論文集を見ていると「リラックスしなきゃ、リラックスしなきゃ」と無理に緊張して駄目な結果に終わったアトランタ・オリンピックの女子水泳選手の姿を見ているような情けない気分になる。折角の丸山真男追悼特集号なのに、もっと魂の入ったものを書くことはできないのだろうか。似たような内容の『情況』は購入を見送った。姜尚中の「国民主義者丸山批判」論が、かつての吉本隆明の位置と似たような「九○年代の丸山真男批判」の定番セオリ−となっているのだろうか。しかし、全く説得力を感じない。 神奈川大学評論
神奈川大学
1997.3.21
243ページ
500円

丸山真男の死後発表された多くの追悼関連論文のなかで、最も読みごたえがあったのが、この『葦牙』の武藤功論文『丸山真男と日本共産党』であった。丸山真男の読み方にはいろいろな読み方がある。仕事の都合上イヤイヤながら接しなければならない惰性的な読み方もあれば、戦後の「進歩的知識人」の筆頭格としてイデオロギ−攻撃の目標にする政治的な読み方もあるだろう。しかし、われわれ読者が丸山真男を読む読み方として、最も「多くを得る」読み方というのは、恐らくは、socialism の政治思想との緊張関係のなかで、丸山真男を読み込んで行く読み方であると言えるだろう。socialism の問題を考える上で、やはり丸山真男は最高のものを市民に提供してくれる。その内面に丸山真男が生き続けている者において、socialism は生き続け、socialism の理念が放棄されることなく維持されようとするかぎり、丸山真男もまた死なない。 葦牙 ASHIKABI 23
田畑書店
1996.12.1
211ページ
1500円

現在『丸山真男の世界』と改題・出版され、ロングセラ−として一般の書店にも並べられている。これまでのあらゆる丸山真男関連追悼作品のなかで、NHKのETV8と並んで最も内容的に充実した、いわゆる決定版と言えるものである。丸山真男読者にとっては、間違いなく必読の一冊である。これについてはもう少し長い書評を別のペ−ジに掲載しているのでご参照を賜りたい。そこでも触れているが、一人あたりの文章のボリュ−ムが小さいこと、そして執筆者の数が少ないことが不満として残った。読者が期待する「決定版」としては、やはり加藤周一と安東仁兵衛の文章が必須である。この『みすず10月号』などは別だけれども、思い返せば、本当に、全く読みたくない人間の下劣な丸山真男論を、一昨年来たっぷり読まされ続けてきた。人が死んで辛いのはこういうことだとしみじみ思う。

この評を記したのは九七年七月。翌九八年四月に安東仁兵衛は丸山真男の後を追うように病死した。
みすず 427 1996.10
みすず書房編集部
70ページ
1996.10.15
300円

価格5495円と若干高額。いわゆる「悔恨共同体」グル−プの発生と展開をトレ−スした戦後知識人論だが、全体としてあまり成功している感じは受けない。著者自身も述べているとおり、その丸山真男論の基本視角は吉本隆明の丸山真男批判の「記憶」に拠っている。他の何人かも含めて、現在、丸山真男論をビジブルに展開している中壮年世代において、当時の吉本隆明の丸山真男批判の影響力はほとんど決定的なものであったように見受けられる。そして私には、そういう態度に共感できる部分が全く存在しない。全共闘世代が自分自身をあくまで「全共闘世代」と肯定的に呼び続け、なかばヒロイックに、そしてノスタルジックに、屁理屈をこね回しながら「過去の刑犯罪」を正当化・物語化しようとする姿は、太平洋戦争の戦争犯罪者たちがそうしてきたのと全く同じ映像ではないか。 戦後日本の知識人
都筑 勉
世織書房
552ページ
1995.1.30
5459円

前衛政党による(本格的な)丸山真男批判。この関係の本は(歴史的に)読者が一瞬油断している隙に、回収廃刊絶版となって地上から抹殺されてしまうため、エビデンスの確保の意味もこめて先に購入する処置をとった。おそらく4−5年の間には、党本部からの指令によって、廃刊あるいは大幅改訂の運命を辿ることになるだろう。考えてみればパンフレットとは本来そういうものであり、印刷され、世に出てから、十年以上改訂も棄却もされないパンフレットなど存在する筈もない。ヤスパ−スの戦争責任論の問題など、内容的には勉強になる部分も多くあり、『神奈川大学評論』などよりはるかに密度が濃く気合が入っている。その論文に前衛党の正統性が「懸っている」からである。われわれ読者は、「コミットされた論文」、何かの「生命がかけられた論文」を読みたいのである。読者には『葦牙』武藤功論文との併読を強くお勧めする。『みすず10月号』の石田雄論文『「戦争責任論の盲点」の一背景』も併せてお読みいただきたい。 傍観者の論理と変革の立場
新日本出版社
1994
211ページ
2200円

若い学生たちの「定番マニュアル」として活躍してきた一冊。『忠誠と反逆』刊行の後の企画・編集であり、朝日新聞の西島建男が言う「九○年代における丸山回帰現象」を示すところの一つとなっている。このなかで印象に残ったのは、H.ハル−トゥニアンの『歴史からの離脱』である。痛烈な丸山真男批判が展開されているのだが、思想史の方法論に即しているため、それが内在的であるかどうかは相当に問題ではあるが、読書して不快感を覚えない。ハル−トゥニアンの議論は、結論はやや突飛に感じるし、論証もそれほど明瞭とは思えないが、マンハイムとボルケナウの方法について正面から論じているところに魅力を覚える。日本人の丸山真男研究者に欠けている姿勢である。他に丸山真男関連の論文があればぜひ見てみたい。立教大学のNPA(アジア太平洋ネットワ−ク)が経営しているサイトの中にハル−トゥニアンの最近の論文『戸坂潤の自由主義批判』が収録されているので、閲読者の皆様の参考のためリンクを提供する。 現代思想
特集 丸山真男
青土社
1994.1.1
286ページ
1100円

1967年刊。先頃復刊されて一部の店頭に並んでいた。マルクス主義政治思想史の立場からの本格的な丸山真男批判であり、また、マルクスの発展段階論の東洋政治思想史への本格的な適用でもある。丸山思想史学のヒマラヤ山脈に挑む孤高のK2峰。その著者の守本順一郎は一九七七年没。丸山真男は、若く孤独で、無名ながら巨大であった挑戦者の死に臨んで、あの名作『思想史の方法を模索して』を送り残している。『思想史の方法を模索して』は、まさしく丸山思想史の最高傑作である『闇斎学と闇斎学派』執筆への序曲をなすものに他ならない。その時代と事件のなかで、両作品は明らかに連関しており、いわば一つの時代とイデオロギ−への愛惜を込めた葬送曲となっている。独習での理解は『日本政治思想史研究』以上に困難だが、読者は、たとえばここで展開されている仏教論の迫力などに圧倒されることだろう。 東洋政治思想史研究
守本順一郎
未来社
337ページ
1967.9.20