講演 隅谷三喜男 『丸山真男の世界』

− 5.25 東京女子大学丸山真男文庫記念講演会 −


真夏のような暑さとなった5月25日の午後3時から、杉並区の東京女子大学講堂において第一回丸山真男文庫記念講演会が催された。当日参加して筆記したメモを元に隅谷三喜男の講演を復元して下に記す。手書きのメモによる記録であるため精度的には不十分である。読者はこれをテンポラリ−な「速報版」としてご利用いただきたい。聞き間違いもあり、また走り書きであったために読み返して判読不可能な部分も多かった。文章の責任はすべて私にある。時間は1時間弱。会場の聴衆は300人ほど。うち半数以上が東京女子大学の学生と関係者であった。

隅谷三喜男の講演は、丸山真男の思想の特質について述べられたものであったが、どちらかと言えば、東京女子大学の学生を聞き手として意識した丸山真男についてのミニマムな紹介と説明であった。無理をしてこの会に参加した動機として、昨年夏の日高六郎の『ラディカルな民主主義』のようなクオリティを期待していたので、正直なところ多少落胆させられた部分もある。女子大の学生相手と言ってもこれは大学での講義である。最近、浅田彰が雑誌上で大学生の学力低下の問題に言及して、丸山真男くらい高校生段階で読んでいなくては駄目だなどと発言していた。今回聴講しながら考えさせられたのは、本題である丸山真男の思想の問題ではなく、大学と大学生のレベルの低下の問題であった。私の耳には、それは大学生を前にした講演ではなく、どう考えても高校生相手の談話のようにしか聞こえなかったからである。

この世代の知識人一般に共通して見られるとおり、隅谷三喜男の話もまた上品で朗々として明快なものであった。しかし私の横に座っていた一見真面目そうな女子学生は途中でコックリ居眠りをしていた。外部の市民の目がある前で、しかも偉大な元学長が偉大な知識人について講話している最中に、どうか居眠りはご遠慮していただきたいものである。東京女子大学と言えば創立者は新渡戸稲造、偏差値的にもお茶の水女子大学や津田塾大学を受験する才媛が入学する学舎と聞いている。メモを録っている学生が少なかったのも気になった。否、気になって仕方なかった。「大事なお話を拝聴する」という姿勢や表情ではないのである。女子学生たちの多数がゾロゾロ入って来て講堂の後部座席に陣取ったのは、午後3時を少し回った時刻であった。学長はそれを待っていた。われわれ丸山読者が、丸山真男に関する講演会で遅刻するなどということが有り得ようか。立派な丸山真男文庫が図書館に完成して、丸山真男を考えるには最高の環境を手に入れて、さて果たして彼女たちは丸山真男を読み始めてくれるだろうか。

講演は「思索」をキ−タ−ムとして、丸山真男の思想の本質的なところを射抜いたものであったと言える。しかしながら、もしも私の聞き間違いでなければ、講演のなかに問題を感じる点も若干あった。

まず、丸山真男の思想史研究の特徴について紹介する際に「個々の思想家の思想よりも民衆の思想に関心を寄せた」という表現を使うのが妥当であるかどうかという点である。「民衆の思想」という言い回しは多少とも不的確あるいは不注意ではないかと私には思われる。むしろ「民衆の思想」に関心を寄せないから怪しからんと言って吉本隆明などに批判されたのが丸山真男ではなかったか。徂徠や諭吉など歴史上の思想エリ−トにばかり注目して「民衆の思想」を見忘れているのが丸山真男であるという俗流民衆主義の丸山批判スロ−ガンが堂々とまかり通ってきたのが七○年代であった。

次にデカルト論である。「丸山真男はカントよりもヘ−ゲルよりもデカルトであった」と簡単に断定されると、丸山真男読者としては少し腑に落ちない気分になる。客体と主体の思惟における緊張関係とバランスという視角から丸山真男の思想の本質に迫ってゆく議論は非常に重要であり有効であると思うが、それでも「ヘ−ゲルよりもデカルトであった」「著作の中でデカルトが最も多く出てくる」などと言われると、ドイツ観念論や新カント派やマンハイムの立つ瀬は何処という気分になる。デカルトが出てくるのは、私の記憶では助手論文(徂徠学論文)だけではないだろうか。聴講者が丸山真男を全く知らないであろう女子学生であっただけに、このあたりはもう少し慎重に配慮していただきたかった。

最後に、丸山真男論ではないが、少し気になったのは、隅谷三喜男のマルクス主義論とキリスト教論である。この日の隅谷三喜男の講演では、マルクス主義は「閉じている思想」の典型であり、「客体」決定論の典型であるという説明になっている。丸山真男の「思索」を評価する際に、いわばその対照として悉く悪役に回らされているのがマルクス主義である。この説明は果たして適切と言えるのだろうか。しかも聴いているのはマルクス主義を何も知らない女子学生である。マルクス主義の思想にも様々な立場と潮流がある。いわゆるマルクス・レ−ニン主義については隅谷三喜男のこの評価で間違っていないだろう。しかしマルクスの思想についてこの評価と断定は正当なものであろうか。

最近刊行された『日本政治思想史講義録第二冊』の中で、丸山真男は次のようにマルクスの土台上部構造論について述べている。

ところで、唯物史観は、思想を思想外の実体から説明する機能的把握の典型的なものと考えられている。しかし果たしてそう簡単にいえるだろうか。上部構造・下部構造の理論は機械的に理解される危険が多い。われわれの意識、思考を上述の一aから二bまで下降していくと、それは遂には最低の根源的関係にまで到達する。生産関係とよばれているものも、実は人間の行為の組合せである以上、関係たることから精神的な契機が同時的に、そこに介入してくる。もしそれを無視するなら、それは単なる自然的物質となる。この基底的な社会関係をマテリ−というなら、それは精神に媒介された物質としてのみ存在するのであり、物質が直接性において存在し、それが上部構造としての精神を産出し規定するのではない。

マルクスの「社会的存在が意識を規定するのであって、意識が社会的存在を規定するのではない」という『経済学批判』の有名な命題は、しばしば「社会的」という最重要な形容詞を抜かして理解されている。社会的存在そのものがすでに同時的にある精神構造を内在させており、人間の一定の精神的なふるまい方によって支えられているのだ。

(丸山真男講義録 第二冊 日本政治思想史 1949 11ページ)



あまりに安直にマルクス主義を戯画化して批判する傾向が最近のアカデミ−には存在する。挨拶代わりに、枕詞のようにマルクス主義批判の言葉を並べて気分を楽にする傾向がある。私が隅谷三喜男のマルクス主義論を聴きながらふと思ったのは、キリスト教は果たして「開かれている」思想なのか、日本のキリスト教は「思索」的思想性を手に入れているのだろうかという問題であった。


− 丸山真男の世界 (隅谷三喜男)−

1.丸山真男とは


ご紹介がありましたとおり、東京女子大学で2期8年間学長をやりましたが、講堂で演台に立って卒業証書を手渡したりはしましたが、このように講演をするのは実は初めてです。丸山先生は政治学、思想史でしたので経済学の私とは専門が違いました。ですが東京大学では法学部と経済学部は隣同士でしたので、丸山先生とは隣同士のお付き合いでした。それよりも丸山先生は東京女子大のすぐ近くにお住まいでして、東京女子大にとっての隣人でした。ときどき構内の桜をご覧になられていたようです。

今回、その蔵書をもらうことになりまして、まもなく目録が出ると思いますが、3万冊の蔵書のうちの3分の2は政治学関係以外のものであります。特に音楽関係のものがたくさんあります。これから後は丸山先生と呼ばずに丸山さんと言うことにしますが、丸山さんはよく本を読まれ、読んだ本によく感想を持たれていました。私は今回、丸山さんの座右の書を実際に拝見させていただいたのですが、書き込みがいっぱいあります。考えながら読まれているわけですね。書き込みの多さが丸山さんの読書の特徴です。

東大法学部政治学科の助手になられたとき、就かれたのは南原繁先生の教室でした。南原繁というのは戦後東大の総長をされた人でクリスチャンです。私が感じるところですが、丸山さんは南原先生の政治学について書かれたものが少ないのではないでしょうか。南原先生は思想の明確な人でした。第二次大戦が始まったとき、丸山さんが南原先生のところに行って、「いよいよ大変なことになりましたね」と言うと、南原先生は「枢軸国が勝ったら世界は終わりだ」と言われました。南原先生はナチスに反感をお持ちになられており、日本についても危惧を持っておられました。戦後になって、丸山さんは南原先生の著書について解説を一つ書かれていますが、他にはないですね。少ないと思います。根底においては大きく影響を受けておられたのでしょうけれど。

東京大学で丸山さんが勉強されたのは徳川期の儒教思想でした。徳川期の統治原理、指導原理である儒教です。そのなかでも丸山さんは荻生徂徠に興味を持たれ、徂徠について情熱的に研究されました。この点も面白いですね。何故なんだろうと思いますね。徂徠は開明的な儒教学者であり、時代を超えて先を読むことのできる人だったので、だから徂徠を評価されたのでしょう。もう一人、丸山先生がもっと興味を持って研究された対象があります。福沢諭吉ですね。この点は皆さんもご存知でしょう。丸山さんは戦後ずっと諭吉を取り上げて共同研究されたり文章を書いたりされてますね。

丸山さんがお亡くなりになられて、資料やメモがたくさん出てきまして、『自己内対話』という本も出ました。この本はとても面白いです。こんな本が出た人というのはちょっといないですね。全集とか、書いたものが出されることはありますが、メモがおこされるというのは丸山さん以外にないのではないでしょうか。お亡くなりになられて3年になりますが、対談集が出て、講義録が出て、こういう『自己内対話』のようなメモ集まで出て、どんどん出てきます。私は経済学でいろんな偉い大先生方に接してきましたが、これだけの方は他にいませんね。丸山さんほどの広さと深さを持った知性は他にいません。

2.思索

それともうひとつ。丸山さんの著作の中で思想家の名前がついたものはないのではないでしょうか。丸山さんは政治思想史をテーマにされたが、思想家の理論や生涯を叙述したのではありません。思想家を直接に対象にした研究ではなかったと思います。丸山さんの視野は特定の人や政治思想に限定されないということです。思想家の思想を素材にはするけれど、丸山さんの政治思想史というのは、いろんな人物が登場します。特定の思想家の思想よりも、むしろ民衆の思想に関心を持っていたと言えると思います。

丸山さんの著書の中で皆さんが手っ取り早く手に入れられるのは、岩波新書の『日本の思想』ですね。「日本の思想」がテーマですが、しかし思想家個々を叙述しているわけではないです。日本の民衆がどういう思想を持っていたのか、その背後の社会の構造はどうか、その二つの関連はどうか、知識人の発想の仕方、思考様式の持ち方はどうか、それが丸山さんの関心事であり、研究の方法でした。

また、音楽の話がたくさん出てきますが、思想というものを単に文字であらわされたものだけで見るのではなく、感性的なものまで含めて全体を対象にして考察するという姿勢が特徴的でして、それが丸山さんの思想観でした。丸山さんの政治学、思想史学の体系の広さと厚さは、丸山さんの思想への関心や捉え方の広さと厚さにもとづくものです。

丸山さんの場合は、思想というよりも、むしろ私から言わせれば思索ですね。

残念ながら今日の大学、大学院でも、学問のスタイルは、まず大量の研究書があり、過去の理論の成果があって、それを講義して学ぶという形です。しかし丸山さんの場合は、出来上がった理論を学ぶというのではなく、既製品の積上げで体系を作るのではなく、一つ一つ読みながら思索する、思考するという形です。大学生の皆さんはよくこの点を聞いておいていただきたいのですが、学問というのは、ただ理論を学んで詰め込んで覚えればいいのではありません。材料にしながら思索する、思考するということ、自分自身でそれをどう考えるのかということが重要です。

丸山さんの蔵書を見て驚くのは、その書き込みの多さです。考えながら読んでいるのですね。これでいいのか、正しいのか、どう判断できるのか。丸山さんの著作はまさに彼の思索のなかから出てきたものです。学者の説の紹介ではない、理論の整理でもない。まさに思索が表現されたものです。

さきほど福沢諭吉の話をしましたが、「開かれた思想」と「開かれている思想」とは本質的に違いますね。「開かれた思想」が本当に活力を持っているかどうかは疑問です。「開かれている」かどうかが大事ですね。他人の説も聞くし、批判も聞く。そこに対話が成立する。丸山さんが福沢諭吉に好意を持っていたのは、きっと福沢諭吉が「開かれている」思想の持ち主だったからでしょう。福沢諭吉は、閉じた思想で人を説得したのではなく、常に新しい状況に応じて思想の活用・応用を考えた人です。私自身は個人的にはあまり福沢諭吉のことを好きではありません。その理由の一つは、福沢諭吉がキリスト教に批判的だったからです。

3.主体と客体

もう一つ、丸山さんの思想、思索についてですが、丸山さんはいつも精神と社会、客体と主体という問題について深い関心を持っていました。近代科学の一般的な考え方というのは、客体的な世界の構造を分析してゆくやり方ですね。社会を客体的に観察してそして壊す、というマルクス主義の考え方が近代科学の客体志向の典型でありましょう。

丸山さんは、どうもあまりカントはお好きではなかったのだと思います。ヘ−ゲルは少し出てきますが、いちばん多く出てくるのはデカルトです。デカルト的思考。主体と客体の二つを定置してその関係を考えて行くという態度です。普通、哲学を勉強してゆくと「主体」の側にどんどん偏ってゆきます。その逆の「客体」に偏るのがマルクス主義です。ですが、丸山さんはデカルト的な主体と客体の緊張という立場に立ち、精神と社会のバランスの上で思索したのだと思います。

丸山さんはデカルトに強い関心を持っていまして、客体的なものが全てを支配して主体的なものを規定すると主張するマルクス主義とは距離を置いていました。丸山さんの世代、一九三○年代に青年期を送った世代というのは、旧制高校で本を読んだわけですが、丸山さんを含めて多くの者がマルクス主義に関心を持ちました。丸山さんはマルクスを高く評価しています。高校二年生のときにある左翼の政治集会に参加したために警察につかまって留置場に入れられたこともあるようです。ずいぶんショックだったようですね。丸山さんは、この高校生時代にマルクス思想の限界に突き当たって、それから「社会に対する精神的主体性をどう構築するか」をずっと考えておられたようです。

もう時間もありませんが、最後に大学紛争について丸山さんは非常に批判的でした。学生たちに集中的に攻撃をされていました。実は私も全共闘の学生たちから糾弾された一人です。当時、安田講堂の下に大きな立看が出まして、糾弾する教授の名前と授業時間と教室が一覧表にして貼り出されるのです。その攻撃目標に学生たちが押しかけて糾弾するわけです。私は経済学部で「工場経済学」という講義を担当していたのですが、丸山さんと同じく糾弾の対象として名前が上がりました。隅谷理論を糾弾せよ、というわけです。

丸山さんは大変な目にあったのですが、ところがですね、私のところにはなぜか学生たちはやって来ませんでした。来るかなと思って待っていたんですが、来ないんですね。後で学生たちに「何で糾弾に来なかったんだ」と訪いたら、「糾弾しようと思って隅谷理論を勉強したんだが、先生がクリスチャンだということが判ってキリスト教をどう批判すればよいのか分からなくて止めたんだ」と言ってました。全共闘の思想は閉鎖的で発展性がありませんでした。

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