日本の腐ったオリ−ブの木「新民主党」結成によせて
− 『思想史の周辺を彷徨して』より抜粋 −
1、はじめに − 没理念的野合政党と脱理念的似非政治学
インタ−ネット上の幾つかの政治フォ−ラムをサ−フィンしてみても、新民主党に関するポストやディスカッションをほとんど見つけることができない。最初はそれについて何故だろうかと不審に思っていたのだが、よくよく考え直してみれば、私の日常周辺にある特定のマスメディアだけが熱心にそれを取り上げて報道していたのである。朝日新聞とテレビ朝日のニュ−スステ−ションだけが新民主党を大きく取り扱っていて、週刊文春や週刊ポストなどの週刊誌はほとんど無視の状態であったし、日経新聞の扱いもきわめて冷淡なものであった。大蔵省汚職問題や公的資金投入問題の事の重大さに比べれば、新民主党の結成など、取るに足らないどうでもいい問題なのである。
ところが、朝日新聞だけは連日のように新民主党の結成を大きく評価して、それを自民党と対抗する二大政党の一つが出来たと言って盛んに宣伝し続けている。ニュ−スステ−ションのコメンテ−タ−の菅沼栄一郎も「野党が一つに纏まらなきゃ、選挙で投票しようにも、自民党以外に入れるところがないじゃないですか、え、そうじゃありませんか」と久米宏に迫り寄り、新民主党誕生の正当性と妥当性を主張して(小宮悦子からは常に顔をしかめられて嫌がられる)中年おやじの熱弁を奮っていた。朝日新聞の連中が新民主党を応援したい気持ちはよく理解できるのだが、問題なのは、その政治的正当化の論理的根拠づけの部分である。
3月17日付朝刊7面の『ポリティカにっぽん』では、編集委員の早野透が次のように書いている。
新「民主党」の学ぶべきはむしろ「自社さ」政権安定の秘密の方だ、とある有力な政治学者は指摘する。こちらは理念・政策の不一致はさておいて、三党の政策協議、政策決定の仕方をきちんと決めておいたから、折々の不満はあってもその仕組みは破綻しない。(中略)新「民主党」にとって大切なのはなにはともあれ党を壊さないことである。理念・政策の方向性は重要だ。が、過度の厳格主義は不必要である。もうひとつの政権チ−ムをつくるならば、ゆったり構えなければできない。
菅沼栄一郎が口から泡を飛ばして吠えていたのも、同様にこの類の議論であった。「理念、理念なんて言っていたら、いつまで経っても自民党に対抗する二大政党なんてできっこないでしょう」という言い分である。われわれは、早野透が言っている「とある有力政治学者」に三人ほど心当たりがある。京都大学法学部の大嶽秀夫と北海道大学法学部の山口二郎と東京大学法学部の佐々木毅である。いずれも今日の日本の政治学界を代表する大碩学であるのだが、当の大嶽秀夫は3月14日のよみうりテレビ『ウェ−クアップ』に出演して次のように言っていた。
理念や政策の一致がなければ一つの政党を作ってはいけないという議論があるが、私はそうは思わない。民主党は安保条約の米軍駐留を見直すと言っているが、そんなものは彼らが政権に就いた途端にすぐに撤回するものである。民主党が政権に就くときは、自民党と対立している基本政策は全て放棄することだろう。それは社民党のやり方と同じである。基本政策や政治理念など、どうせ政権に就くときには放棄撤回するものなのだから、そんなものに初めから拘っている方が無意味なのであって、今後は、理念や政策は政党が結集するときの要件として重視して考える必要はないのである。
このような暴論を平然と吐いている政治学者を「日本の政治過程分析の第一人者」だなどと持ち上げてゴマを擦っている政治学に無知な若い研究者もいる。能力と自負のない人間は、所詮一生懸命に権力者をおだてて尻尾を振りながら出世するしか能がない。何処の世界でも同じである。
人々が新民主党に対して全く関心を示さないのは、それが例によって永田町の俗物政治家たちによる「数合わせ」の「離合集散」であるからに他ならない。選挙目当ての数合わせで集まった野合集団の新進党が選挙に負けた途端に解党状態に追い込まれ、飛び出した有象無象たちが政党助成金目当てに年末に新党を結成する。金を掴み取ったら今度は選挙目当てに再び離合集散を繰り返す。国政選挙と政党助成金、次の国政選挙と年末の政党助成金交付、その毎回のクロックのタイミングで、何度も何度も同じ顔が離合集散、合従連衡を繰り返す。
今年の参議院選挙は、これで自民党の勝利はほぼ間違いないと言えるだろう。菅直人は厚生大臣としては歴代の中で最も傑出した行政リ−ダ−であったが、政治については悲しくなるほどに素人的でセンスが無い。今回の四党合流によって新民主党の支持率は前の民主党以下に減少してしまうことだろう。理念などどうでもよく、選挙目当てだけで合流するのなら、平和改革(旧公明党)と組まなければならない。民政党や民改連など、議席はあっても実質上支持率マイナスのグル−プなのである。小沢一郎に追い出されて行き場の無くなった泡沫連中を抱え込んで、一体どうして選挙に勝てる目算が立つと言うのであろうか。鳩山家の財産を注ぎ込んで民主党を作った鳩山悠紀夫が慌ててしまうのも無理はない。
そもそも新民主党結成の座長役を務めた元首相の細川護煕は、わずか一年前のオレンジ共済事件で収賄疑惑が持ち上がった限りなく黒に近い灰色政治家である。主犯である詐欺師友部達夫の次男で背中に刺青を彫って任侠実業家を気取っていた友部百男が、箱崎ロイヤルパ−クホテルのステ−キレストランで細川護煕と会食して、紙袋入り現金二千万円を手渡した疑惑の事実は、微に入り細にわたって各週刊誌で報道されたとおりである。オレンジ共済詐欺による黒い政治献金を受領して、細川護煕は友部達夫を参議院選挙の日本新党比例名簿上位に番付し、友部を当選させたのである。灰色政治家の細川護煕が産婆役を努めて結成された新党がクリ−ンである筈がない。菅直人も国民を甘く見たものである。
今後の政局を占うならば、今夏の参議院選挙で新民主党は大敗、旧民政党の有象無象衆は再び党を飛び出して流浪の旅路を歩み始め、最後は加藤執行部の前に土下座して自民党復帰を懇願することになるだろう。惨めで哀れな話である。指は詰めなくてもいいかも知れないが、金は積まなければならないのに違いない。新党組織はほぼ壊滅して、場合によっては菅直人も失脚、民主党の母屋は鳩山家に無事戻り、行き場を失った菅直人は来年の東京都知事選に政治生命を賭けることになるかも知れない。しかしながら、そのとき浮動票が離れきってしまっていたならば、菅直人が勝てる見込みは何処にもないのである。もしも菅直人が近い将来そういう事態に追い詰められたとすれば、そこへ至る政治判断の失敗は今回の新民主党結成にある。
そして、永田町の「野党」政治家の顔だけ次々と取り替えながら、二大政党制の虚偽意識を散布する似非政治学のみが、この日本で変わらず繁栄を続けて行くのである。政治から理念を剥奪して翼賛化のみを推し進める「脱理念政治学」のみが、日本を支配し続けるのである。
日本の腐ったオリ−ブの木「新民主党」の結成を祝して、昨年、丸山真男の追悼文の中に入れた現代政治に関する二つの論考をここに再録する。文中の政党の名前で古い過去のものが登場するのはそのためである(今は政党の名前など一年ももたないのだが)。生涯を通じて、何よりも民主主義の理念の重要さを訴え続けた政治学者丸山真男は、現在の超没理念的な日本政治の状況や、超没理念的な政治状況を追従追認するマスコミや、それをむしろ正面から正当化する似非政治学に対してどのような眼差を向けようとするのであろうか。丸山真男が死に、日本政治が死に、そしていま日本が死につつある。
2、ジョ−ジオ−ウェル『一九八四年』の新語法
真理省で新語法の辞書作りを担当しているサイムが、主人公のウィンストンを食堂でつかまえて得意気に次のように言うくだりがある。
「第十一版は決定版なんだ。われわれは国語の最終的な仕上げに取りかかっている−これ以外に他の言葉は使いようがないという決定的な形になるのだ。われわれがそれを完成したら、君たちのような連中は勉強しなおさなくちゃならないだろうね。君たちは多分、われわれの主な仕事が言語の発明にあると考えているだろう。ところが、さにあらず! われわれは言語を破壊しているんだ−何十、何百ともなく、毎日のようにね。われわれは国語を土台から造りなおしているんだ。第十一版には、二○五○年までに死語となるような言葉は一語たりとも収容されないだろう。」
(『一九八四年』 ハヤカワ文庫 ジョ−ジオ−ウェル 66ペ−ジ)
新語法(ニュ−スピ−ク)の特徴は、言葉の単純化と二重思考(ダブルシンク)であった。われわれはオ−ウェルの戦慄すべき世界を見ながら、言語の改造を通じて人間の思考をロボット化し、言語を人間の支配の道具とする究極の姿を垣間見るわけだが、ここで立ち戻って、われわれの国語辞典から幾つかの言葉の定義を確認してみよう。
理念 − ものの原型として考えられる、不変の完全な存在
政策 − 国家や政党の政治上の方針や手段
標語 − 意見・主張などを簡潔に言い表した短い文句、モット−、スロ−ガン
看板 − 人の注意を引くための題目、スロ−ガン
スロ−ガン − ある団体の主義・主張を短い文句で表したもの、標語
最近よく新聞やラジオで見たり聞いたりすることで気になる表現がある。例えば「どの政党も理念ばかり並べ立ててちっとも具体的な政策を出そうとしない」とか、「総理は理念ばかり多く口にするのではなく具体的な改革に早く着手するべきだ」というような言い方である。あの朝日新聞ですら、このような論調の政治記事を書き散らしている。さて、このときの「理念」は、果たして国語として正しい意味の「理念」と言えるのだろうか。
鳩山由紀夫と民主党が掲げる「友愛」や、羽田孜と太陽党が言う「時代閉塞の打破」や、小沢一郎と新進党が言うところの「政治改革」、橋本龍太郎と自民党の言う「行政改革」、そして大蔵省の言う「財政改革」は、果たして「理念」という言葉で言い表すのが適当な内容や性格のものだろうか。「スロ−ガン」であり「標語」であるはずのものが、いつの間にか「理念」にスリ替えられて使われてしまっている。先ず初めに政治家と官僚が、そして次に新聞記者やラジオキャスタ−が、意識的・無意識的に「理念」の意味をスリ替えて流通させているのである。政治家や官僚がそれをするのはあり得る話であるだろう。しかし新聞記者やニュ−スキャスタ−がこの過ちを犯してしまったならば、それは市民社会に対する犯罪行為として責められても仕方のないことなのではあるまいか。
新聞やラジオなどのマスコミが使う日本語は、市民社会における「辞書」であり「国語教科書」である。マスコミが使う用語や語法がリファレンスとなって一般市民の日常用語となる。それが大衆的に普及したとき国語辞典の言葉の定義が書き換えられ、正式な用語法としてオ−ソライズされることになる。「理念」の意味が「標語」の意味にスリ替えられ、「理念」という言葉が本来の意味を失ってくれれば、政治的支配者にとってこれほど都合のいいことはない。誰も「理念」の本来の意味が持つ内容(態度)を政治家や官僚に要求しなくなるからである。
「理念」と「標語」とは単に言葉の意味が違うだけではない。政治の現場において、政党や政府にとって、両者は実は全く逆の意味を持つ言葉である。日本語の「理念」という言葉が、気づかぬうちにあのオセアニア国の新語法(ニュ−スピ−ク)における「B語彙群」化されてしまっているのである。オセアニア国ニュ−スピ−クにおける「真理」や「平和」「歓喜キャンプ」などの単語の語法を思い起こしていただきたい。ここには通常の日本語の用法の誤謬とか混乱では済まされない恐るべき二重思考(ダブルシンク)の問題がすでに存在している。オ−ウェルのオセアニア国では国家権力が二重思考システムを強権的、暴力的に作り上げて行く。それに対してこの日本では、それはマスコミの無自覚的な誘導によってズルズルと自然のうちに作り上げられて行くのである。
ついでながら、マスコミの言う「改革」が政策として具体化されないのは、政治家や官僚が「理念」ばかり議論しているからではない。それは全く逆である。具体的な政策プログラムが打ち出されないのは、彼らが「理念」ばかり議論しているからではなく、逆に、「改革」の「理念」が完全に欠落しているからである。「標語」ばかりが並び、「お題目」ばかりが口端に上って、改革の理念が全く思考されてないからである。理念とは理想であり、「あるべき姿」「本来の姿」のことである。そして理念を掲げるということは現実を否定するということであろう。いま実在する「現実」と将来の姿である「理念」、その二つの間に架けられる橋が「政策プログラム」に他ならない。一方、政治家が「標語」や「スロ−ガン」を掲げるということは、日本語として「現実」を否定することを意味しない。あるべき理想の姿を将来の時間軸に設定することを意味しない。「現実」は「現実」の姿のまま変革や改造を加えられることのないまま将来も存続することが前提されているのである。政治家や官僚が掲げたものが「標語」であったなら、百年経っても「改革」などあり得ないことはもはや自明の理と言うべきであろう。
3、 虚偽意識としての「政治改革」
(1) 倫理排除の政治学の誤謬
山口二郎著の『政治改革』(岩波新書/一九九三年)には次のように書かれている。
贈収賄や政治資金規正違反などの政治腐敗が問題となるたびに、世論では政治倫理の確立が叫ばれる。しかし議論のはじめに確認しておかなければならないのは、政治腐敗は金をもらう側の政治家および官僚や、金を出す側の業者の、心構えや倫理の問題ではないということである。もちろん政治家や経営者がみんな清く正しい人間になれば腐敗はなくなるが、改革の方途を議論する際に、権力者やこれに利益を求めて群がる人々の内面を改造しようというのは、もっとも非現実的な発想といわざるを得ない。(中略)したがって、倫理的な規範に訴えてこうした腐敗を指弾したところで、当事者たちにはいっこうにこたえないし、再発防止の手段としてもこうした訴えはまったく無力であろう。(中略)腐敗を起こしにくいような制度や環境条件を整えることこそが、政治改革を考える際の基本的な前提とならなくてはならない。
(山口二郎 『政治改革』 岩波新書 一九九三年 13ペ−ジ )
政治家や官僚に倫理を求めるのは、強盗に金を盗るなと言うのと同じ無駄な言い分であると言っている。政治腐敗は倫理の問題ではなく制度の問題である。制度が未整備なために問題が起こるのであり、制度を用意すれば、仕組みを巧く作れば問題は解決すると山口二郎氏は言う。政治は性悪説を基本にするというのは、丸山真男がすでに「人間と政治」において明らかにしているとおりであり、マキアヴェリ的、ホッブス的な考え方であり、政治学の考え方として常識的な議論である。しかし、法制度さえ完備すれば倫理など問わなくても問題は解決するのだという考え方は、政治学的に見て結構だと言えるだろうか。私にはかなり問題が含まれているように思われる。むしろ根本的な理論的誤謬とさえ言い得るのではないか。そして、理論の誤謬が実践の失敗へとストレ−トに結合したのが、まさしく今回の「政治改革」だったのではあるまいか。
まず第一に批判的に考察されるべきは、倫理とは何かという問題である。少し角度を変えて問題にアプロ−チするならば、倫理という問題について最も深く掘り下げて研究する学問は何だろうかという問いに自答してみることである。それは哲学だろうか、心理学だろうか、社会学だろうか。経済学ではなさそうである。その昔、高等学校で倫理社会の授業を受けていたとき、この科目は果たして大学ではどういう学問に連なるのだろうかということを考えたことがある。大学へ入って私が見つけた答えは「政治思想史」であった。したがって、いわゆる倫理を責任をもって研究する学問はまさに政治学(=政治思想史を含む政治学)そのものに他ならない。
それでは、何故、政治学者は倫理学者たらざるを得ないのであろうか。政治学者がその研究の対象から倫理の問題を捨象してはならないのは何故であろうか。
例えばタイのバンコクの交通事情などは − 最近はだいぶ事情が変わったようではあるが − その一つの参考材料となるであろう。タイ国に道路交通法が無いわけではない。交通警察も存在するし、違反者に対して厳しい罰則規定が適用される点も、おそらく日本と何も変わりはないだろう。タイ国の(交通関係の)法制度が著しく未整備とか未熟というわけではないのである。すなわちここで了解されるべきは、法制度とは規範が単に人間の外側に外化しただけのものだということである。規範を守ろうとする人間がいなければ、法律など幾らあっても全く無意味な紙切れの束に過ぎない。裁判所や警察機構も同じである。規範を守る大多数の人間の存在を前提として、はじめてそれを守らない少数の人間に対する強制力(法律、警察、裁判所)が効力を持つところとなる。
したがって、社会規範なるものは二つのものによって支えられていると言える。それを外側から支える法制度とそれを内側から支える倫理意識である。二つのうちどちらか一方の支えが無くなっても、規範は意味と効力を失い、規範として成立すること能わず、ベニヤ板のようにバッタリと地べたに倒壊せざるを得ない。およそ社会の平和なり秩序なり改革なりを考えようとする者が人間の倫理の問題を抜きにすることができないのは、このように法制度の問題と倫理意識の問題が、内と外から相互に支え合う構造的にワンセットの問題であるからに他ならない。亥下の戦いに項羽を破って秦末の戦乱を統一した漢の高祖劉邦が、「法は三章のみ」と高らかに建国の理念を宣言したのは、 紀元前二○二年のことであった。そのとき人々の心は、始皇帝の恐怖政治を招来した法家の刑罰万能主義から遠く離れてしまっていたのである。その後二千年にわたって中国を支配することになる政治思想が、何より人間の内面の統治に貪婪なまでの意味と関心を寄せるものであったことは、今日では中学生の知識の範疇であろう。
倫理とは規範を守る内側の仕組みである。それは個人の主観的な心情や道徳的な心構えのことではない。今日の多くの政治学者の誤まりは、倫理の概念を誤解し、それを恰も文学的、感性的な範疇のものであるかのように歪曲してしまっていることである。それが法制度と表裏一体のワンセットのものであるという認識が欠落したとき、倫理の問題は社会科学のカテゴリ−から切り離されて捨てられることになる。近代的な社会規範を内側から支える、例えばプロテスタンティズムの倫理のような伝統が確固として存在する国であれば、仮に社会科学と宗教意識とが名目上別個の範疇のものであったとしても、実体として機能としてはその二つは固く一つに結びついているはずである(米議会公聴会の厳しさを見よ)。そして、そうした伝統の無い国において、社会科学が倫理を語らないとすれば、果たしてその国の社会規範(政治改革を実現するべき)はどうなることになるのであろうか。日本の政治学者たちが忘れていることは、規範は内面化されなければ規範として機能し得ないという簡単な「基礎法学」の認識である。
政治腐敗がとめどなく進行し、そして「政治改革」が失敗し続けるのは、何より倫理のシステム(=内側の仕組み)が崩壊してしまったからであり、その責任は、政治家や官僚以上に無責任で誤った言説をタレ流してきた政治学者やマスコミにあるはずである。「政治改革」の名の法案は、何度やっても審議の中で骨抜きにされ、可決成立のあかつきには完全にザル法化されている。それどころか、より巧妙な法的抜け道を政官業に与えるべく手の込んだ「改悪」が実現されている場合の方が多い。山口教授が、収賄や買収は政治家にとって自然な行為であるというような「性悪説」を唱えつつ、そうした政治家たちによって作成される「政治改革」の「法律」と「制度」に実効力を期待できると言うのは果たして何故であろうか。強盗に「金を盗るな」と言うのは無駄なことだと言いながら、泥棒たちに刑法を作らせるのは有功だと言う根拠は、一体何処にあるのであろうか。
政治腐敗(官僚腐敗も同様だが)を止める力は、それを監視する人間の力以外にあり得ないはずである。マスコミやアカデミ−はその監視網のまさしく前線部隊であり、兵站補給基地であり、また戦略核兵器として機能しなければならないグル−プであるはずである。しかし、監視者が監視をしていない。戦車や砲弾(法制度)ばかり山と詰みながら、実際に敵にアタックしようとしていないのである。最近、新聞紙面を飾る官僚と政治家のスキャンダルなるものは、岡光事件にしても、出井事件にしても、友部事件にしても、すべて警察当局からリ−クされた情報の羅列であり、新聞記者が調査取材して明らかにした事実など一つもない。検察当局と刑法がわずかに「ガス抜き」程度に政治改革を実行しているのが、現在の日本の政治の実情である。
(2)「ダ−ティな永田町」対「クリ−ンな市民」の誤謬
「政治改革」論議のもう一つの誤謬は次のような錯覚、すなわち、間違っているのは全部永田町、悪いのは全部永田町の人間たちであり、その外側にいる市民は正常であり、その市民が永田町を改造するのが政治改革であるという俗説である。政治改革ができないのは官僚と政治家が権益にしがみついて抵抗しているからであり、それを市民の力で除去すれば政治改革は達成するというような単純で楽観的な考え方である。その俗説を垂れ流し、錯覚を社会的に再生産しているのは、市民の代表を自認するところのマスコミ評論家とマスコミ政治学者に他ならない。ダ−ティな永田町政治家とクリ−ンな市民の対抗というシェ−マである。
しかし、「政治改革」の旗手であるはずの評論家や政治学者も、総選挙のときにはテレビ視聴者に対して何党に投票せよということは口をつぐんで何も言おうとしない。そして何も言うことがないと恰好が悪いものだから、いつの間にか「今回の選挙の争点は消費税だ」という話になり、「新進党の減税策は非現実的な集票行為だ」などというどうでもいい話で口裏を合わせ、調子よくその場を凌いでいるのである。選挙が終れば、相変わらずまた永田町批判をやっている。住専問題も、財政赤字問題も、官々接待問題も、沖縄米軍基地問題も、投票の判断基準のための材料として国民に議論を提供しようとする者は誰もいなかった。
テレビや新聞は、一方で「投票所に行け、投票所に行け」とやかましく騒ぎ立てながら、その一方で気が滅入るほどに「永田町の政治家では駄目だ」とか「どの政党に入れても結局同じだ、何も変わらない」と執拗に吹き込んで国民の政治不信を煽り、国民の関心を選挙から遠ざけているのである。意味のないことを何故国民は無理にしなければならないのか。テレビと新聞はそれについて何も答えない。
そして四年間の政治を決める一票は、政治に現実的な意味を感じ投票所にしっかり足を運ぶ「クリ−ンな市民」たちの一票によって決せられてゆく。その一票は(赤字国債で賄われた)補正予算として公約通りに反映され、年度末の道路工事発注としてきちんとリタ−ンされるのである(かつては米価であった)。「市民」が利益公約を実現する政党に一票を入れるのは至極当然の選択行為である。彼らはテレビや新聞がいくら政治不信を書きたてても、マスコミよりも「政治」の方を信用しているのであり、「政治」よりもマスコミの方を信じて投票所に行かないサラリ−マンが増えることをむしろ歓迎しているのである。自分たちの一票の有功度が高まるが故に。
かくして投票所に足を運んだ「市民」たちに予算を分捕る権利が与えられ、投票をサボった「市民」たちには予算のために税金を払う義務が与えられる。まさに日本において民主主義は正常に機能しているのである。
このような政治的現実を真に改革しようとする者ならば、まずはそうした「市民」の態度を批判しなければならないのではないのか。すなわち政治的主体性の自己批判から出発しなければならないはずである。大蔵省の赤字国債に寄生して日本の将来を徒に食い潰している農村の「市民」たちを批判しなければならないはずであり、マスコミの「政治不信」宣伝に洗脳され幻惑されて頭の中がカラッポになった都市の「市民」たちを批判しなければならないはずである。そしてどの政党に一票を入れればどういう結果となって政治改革が実現されるのかを明確に公言(=公約)しなければならないはずである。
(3) 「二大政党制」腐敗浄化装置論の誤謬
政治改革論議の中で、(現在では誰の目にも明らかとなった)最大の誤謬は、二大政党制による政権交代の仕組みが自動的に政治腐敗を浄化するという例のセオリ−である。嘘も百ぺん言い続ければ真実になると言うが、このセオリ−には実に多くの人が騙された。この嘘が大衆的な規模で信じられることがなければ小選挙区制が導入されることはなかったであろう。嘘と気がついて地団駄踏んでも後の祭りである。
そのセオリ−を担いだのは二通りの政治改革主義の政治学者と評論家であり、一つは江田三郎以来の流れをくむ非自民勢力結集論者であり、もう一つは自民党と新進党の二大政党制論者であった。前者はニュ−スステ−ションで二大政党政権交代論を展開し、後者は週末の8チャンネルでそれを展開し、二大政党論(すなわち小選挙区制)を肯定しない人間は政治改革に背を向ける守旧派だというレッテルを貼り付けて行ったのである。
二大政党が相互に政権を競い合う仕組みができれば政治腐敗は自動的に浄化される。そのセオリ−自体は間違いとは言えないかもしれない。しかしこのセオリ−が現実に機能するためには一つの重要な前提が存在する。それは、その二つの政党が明確な理念と政策を持った政治集団であればという前提である。理念のない政治集団が二つできてもそれは政党化した派閥が二つできるのと全く同じであるにすぎない。そして政権獲得をめぐる派閥間の抗争は以前から存在した。政治腐敗の自動浄化装置としてではなく政治腐敗の温床として。
私の眼から見た正直な感想を言えば、かつての派閥の方が現在の政党よりもはるかに政党的な存在であり、政策なり方向性なりの違いが明確であったように思われる。一九七○年代の田中派と大平派と三木派と中曽根派を思い出して比べれば、リ−ダ−(ボス)の政治的個性がくっきりと違い、日本の将来をどうするかについての政策理念もずい分異なる路線を示していた。その意味からすれば現在の中曽根康弘の保保連合論も、ある意味で一つの政党論、派閥解消論として聞くことができる。
かつての派閥間の政権争いはカネとポストのばら撒きによる多数派工作であった。現在の政党間の政権争いもカネとポストによる多数派工作である。カネとポストと若干の壮士気分で三年前に自民党を出て行った連中がカネとポストと若干の壮士気分でゾロゾロと自民党に舞い戻って来る。自民党が新進党を吸い尽くして一つになったならば、また再び、政治改革だとか政界再編などと称してギャンブルを試みる博徒の親分が出現することであろう。要するに派閥行動というのはカネとポストへの最適化行動である。そして理念のない政治集団、すなわち外形は政党でも内実は派閥である政治集団というものは、結局のところ総選挙の度ごとにただ看板かけ替えの離合集散を繰り返すことしかできないのである。
現在は「第三極結集論」などと称している「非自民の政治勢力結集論」も、核となる理念(コトバや看板ではなくて社会理念)が存在しなければ結局は新進党と同じ道しか歩むことはできない。有能な政治学者たちがそれを理解できないのは何故だろうか。
それは、おそらく理念というものの意味や価値や定義が見失われているからだと私は思う。政治から倫理を排除しようとしたのと同じように、政治から理念を、理念的な思考を排除して無理やり技術的に捉えようとするために、そうした根本的な誤謬へと導かれてしまうのである。自らの政治学において政治理念の意味を再度考え直さないかぎり、当分の間「政治改革」の実践的失敗は続いてゆく。
政治学者に求めたいのは、再度マックスウェ−バ−の方法に立ち戻ってその類型的方法論を学び直し、ウェ−バ−が宗教社会学において「宗教」と「呪術」を区別しように、対象を類型的に整理する眼力を鍛え直すことである。その方法的能力を回復しさえすれば、日本の政界にゴロゴロしている「派閥」を「政党」と錯覚するような誤謬をもはや犯したりはしないであろう。
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